札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/02/07

篠路駅東口 10年後の現在形?

 2月4日のシンポジウムの朝、JR篠路駅東口に降り立ちました。
篠路駅東口 180204朝
 10年後には駅が高架化され、駅前広場ができる計画が目下、立てられています。

 こちらは、JR新琴似駅の東口駅前広場です(2017年6月撮影)。
JR新琴似駅 駅前広場
 かつてこの地にあった農協倉庫の煉瓦が、モニュメントとして遺されています。倉庫は1960(昭和35)年に建てられ、2001(平成13)年1月に解体されました(末注)。
 この風景が、10年後の篠路駅の“現在形”なのだろうか。煉瓦が残骸に見えて(実際、残骸ですが)、私には痛々しい。

 注:現地の煉瓦に貼られた銘鈑には「倉庫は平成9年(1997年)取り壊しとなりました」と記されている。
新琴似駅前広場 モニュメント煉瓦 銘鈑
 しかし、北海道新聞2000年5月18日記事「未練があります赤れんが 新琴似の倉庫 今秋取り壊し」によれば、倉庫が取り壊されることが決まったのは2000年の「三月に札幌市が決めた土地区画整理事業」である。この記事は倉庫の写真も載せている。さらに、道新2001年3月8日記事「札幌の倉庫保存グループが解散 見慣れた風景と共に…」では、倉庫が実際に解体されたのは2001年1月と伝えている。
 にもかかわらず銘鈑には「平成9年(1997年)取り壊しとなりました」とある。私は、単なる書き間違い以上の意味を、ここに深読みしてしまう。この銘鈑はおそらく、札幌市が設置したものである。倉庫は2000年とか2001年よりも前々から、実は「取り壊しありき」だったのか。
 ひるがえって、篠路駅前。 
 2017年時点で「市によると、(篠路駅前の)倉庫群の命運はまだ白紙だそうだ」(道新2017年9月8日夕刊コラム「今日の話題」、2月1日ブログ参照)。本年1月23日の都市計画審議会でも、これから地元住民と協議していくこととされたが…。
 10年後、篠路に駅前広場ができたとき、札幌軟石の残骸とともに「倉庫は2017年、取り壊しとなりました」などと書かれた銘鈑が貼られることを、私は危ぶむ。

2018/02/06

なんちゃって百年記念塔

 「ホッケン研」(北海道建築研究会)を主宰するYさんのサイト「札幌ノスタルジック散歩」に、目を奪われました。最近公開された画像で、「月形ライオンズクラブ記念碑」が詳解されています。田上さんのデザインです。1969(昭和45)年建立。Yさんが書き添えたコメントに、唸りました。
 
 気になって、「月形ライオンズクラブ」を電網検索したところ、下記サイトに当たりました。
 ↓
http://www.e-clubhouse.org/sites/tsukigatajp/
 同サイトに写る「ライオンズの塔」を見て、 ますますもって唸ってしまいました。
 キャプションによると、この塔は「CN10周年記念事業」とのことです。CN(チャーターナイト)というのは、大まかに言えばライオンズクラブの発足を指すらしい。月形は1964(昭和39)年なので、この塔は1974(昭和49)年建立のようです。

 「ライオンズの塔」をグーグルストリートビューで見つけましたので、載せます。

 Yさんが載せている「記念碑」と比べてみてください。

 そして、こちらと比べてみましょう。
北海道百年記念塔 2018年
 田上さんは、北海道百年記念塔の設計案を選んだお一人です。
 「ライオンズの塔」も、田上さんが絡んでいるのだろうか?
 
 百年記念塔と月形ライオンズクラブ、田上さんの関わりを時系列でまとめてみました(参考文献『北海道百年記念事業の記録』1969年ほか)。

1967(昭和42)6月    北海道百年記念塔 建設期成会設立
                設計を公開競技で決めることとし、審査委員の一人に田上義也が就任
同年10月         設計案の募集開始
同年12月9日      最終審査の結果、井口健の案が「最優秀」に選ばれる
1968(昭和43)年3月  北海道百年記念塔 実施設計立案(久米建築事務所)
同年11月21日       北海道百年記念塔 起工式
1969(昭和44)年    月形ライオンズクラブ記念碑 建立 田上さん設計
1970(昭和45)年9月  北海道百年記念塔 竣工
1974(昭和49)年    月形ライオンズクラブ ライオンズの塔 建立

 雪が解けたら、ぜひとも月形に行って、ライオンズ記念碑とライオンズの塔を拝んでこよう。

2018/02/05

篠路駅前 農協倉庫の歴史

 2月2日ブログの解答をお伝えします。
 古い順に、次のとおりです。
 ⑤軟石 1930年代(昭和戦前期) 籾貯蔵庫
 ↓
 ③煉瓦・切妻 1958、61、62(昭和33、36、37)年 〈雑穀庫、小豆加工場、タマネギ貯蔵庫)タマネギ包装用ダンボール保管庫
 ↓
 ①煉瓦・カマボコ 1963(昭和38)年 コメ貯蔵庫
 ↓
 ②セラミック・カマボコ 1968、69(昭和43、44)年 タマネギ貯蔵庫
 ↓
 ④セラミック・切妻 1978(昭和53)年 野菜貯蔵庫
 
 『篠路農業協同組合三○年史』1979年に依拠しました(pp.346-347、p.473、475、pp.557-559)。
 ぶらじょにさんのお答えのとおりです。添えられたコメントも的を射ていて私からの解説は不要かと思いますが、用途について補足させてください。 
 ③煉瓦・切妻について、2月2日ブログに載せた画像に写る建物は1973(昭和48)年に札幌市農協から購入したもので、建築年が記されていません。タマネギ包装用ダンボール保管庫として用いられました。画像に載せた以外の煉瓦・切妻が、雑穀庫、小豆加工場、タマネギ貯蔵庫として建てられたものです。これらが1958、61、62(昭和33、36、37)年築であることから、画像の煉瓦・切妻もそれ以前と類推します。

 篠路駅東側に現存する煉瓦・切妻の倉庫です(2013年撮影)。
篠路農協煉瓦造倉庫 2号、小豆加工場、17号
 手前の空地が、⑤軟石の倉庫(第1号)があったところです。2011(平成23)年解体。右側の煉瓦(+RC補強、2号倉庫)は雑穀庫として1958年に建てられました。真ん中の煉瓦が1961年築の小豆加工場です。当初共同貯蔵庫として建てられましたが、小豆加工機が備えられました。小豆加工は昭和30年代、「新農村建設計画」(食糧増産から経営の多角化等へのシフトを促す政策)に呼応した模索と思われます。
 画像左方の煉瓦は1973年に札幌市農協から購入の17号で、雑穀、コメ(自由米)貯蔵に用いられました。真ん中の煉瓦は目地がはっきり写っていますが、左右のはペンキが塗られているためぼやけています。
 ①煉瓦・カマボコはコメの生産増に対応すべく建てられ、「マンモス倉庫」と呼ばれていたそうです。小屋組を簡略化した長いスパンのカマボコ屋根が、当時の最新?技術だったのですね。②セラミックは、こんどはタマネギの増反に応じて建てられました。昭和40年代はコメの生産調整(減反)が進みました。
 2月2日に載せた画像を厳密にみると、真ん中と左端の表面の色合いが異なっています。左端の方が濃く、耐火・耐水性の高い高温焼成と思われます。
 ④セラミック・切妻は、釉薬のかかった新しい(というか、いかにも昭和な)セラミックですね。屋根構造的には、切妻の大スパンに変わりました。用途は、コメ、タマネギに比べ蔬菜の生産量が増加してきたことを反映しています。

 こうしてみると、篠路の農業の変貌が建物の変化と相まって窺われた倉庫群の景観でした。
 現在の篠路駅西側の眺めです(2013年撮影)。
篠路駅西側 倉庫群跡①
篠路駅西側 倉庫群跡②
 煉瓦、セラミックの倉庫群は2007(平成19)年に姿を消しました。
 建物の解体年は手元にある自前の資料(私自身の記憶が中心)に基づきます。おそらくまだ史書に載っていないので、こうやってブログに綴っておくことも意味があろうかと思います。

2018/02/04

篠路のシンポジウム、終わりました。

 篠路のまちづくりを考えるシンポジウム」が終わりました。
 
 壇上に上がった三人の話を、私なりにかいつまんで速報します。先日来の都市計画審議会と同じく、これもあくまでも私なりの解釈です。
 トップバッターの塚田さんは、篠路の歴史を切り口に、篠路に住んで30年の暮らしの中で、篠路の「まち文化」に気づき、伝え、遺してきた経験を語りました。最後に、駅東口に計画されている駅前広場に絡んで、「これまで新たにできた他の駅前広場で、賑わいがよみがえった実例があったら知りたい」と投げかけられたのが印象に残りました。終わってから、塚田さんに取材ノートを見せてもらい、その克明さに脱帽しました。
 二番目の私は、駅前広場の計画で“揺れている”札幌軟石の倉庫に絡んで、札幌における軟石建物の特徴を紹介しました。所有者や周囲の愛着や思い入れで、末永い再利用が多く、解体後の復元、再現、移築されている例も少なからずあることです。一方でやむをえず壊さざるをえない持ち主の心情も。軟石以外の“まちの魅力”発掘と謎解きの悦楽もしゃべってしまい、予定時間を3、4分逸脱。
 最後に、東田さんは歴史的地域資産の意味、価値を評価する汎用的な視点・手法、保存活用に当たっての留意事項を体系的に示し、道内各地の実例を紹介しました。保存(または解体)を求める人が(所有者も部外者も)“思い込み”にとらわれない姿勢を強調していたと思います。
 
 三人の話の後の聴衆からの質疑で、「建物のハード面の保存の話が中心だったように思うが、ソフト面の活用についてコメントをほしい」という意見がありました。“ソフト”というのが、「中身の利用の仕方」という意味ならば、実に多種多様に尽きると私は思います。ただ、篠路のタマネギ倉庫については、そのDNAを引き継ぐような活用があってもいいのではと答えました。加えて、行政サイドで多世代交流や地域コミュニティを目的とした古い建物の活用に対し、改修の補助の仕組みを作っているので、それは参考になるのはないか、とも。
 前者のDNA…については抽象的で意を尽くせませんでしたが、飲食店的利用にしても、地域の特性を生かす(札幌黄のカレーとか、木田製粉産とか)というのはあるかなと、あとから思いました(単純な思いつきですが)。

 今にして、私は塚田さんと東田さんの間をつなぐ重要な立場だったのに、その役割を果しえたか心もとない思いです。それを棚に上げて、全体をとおして感じたことを綴ります。
 今回のテーマは「まちの魅力を見つめ直そう」でしたが、篠路駅東口の区画整理事業そのものをどう考えるかという大問題が前に横たわっています。ただ、これを議論の前提とすると、軟石倉庫群の保存活用について、前に進めるのが非常に難しくなるとの思いました。「駅前広場」それ自体は、先日の都市計画審議会で承認されており、近々都市計画決定されるのは必至です。現時点で、「そもそも東口に駅前広場が必要かどうか」までは立ち戻れないのではないか。すみません、これはいうまでもなく私の個人的見解です。

 シンポジウムの企画運営に携わった皆さん、お疲れさまでございました。

2018/02/03

篠路 駅東側の倉庫群の近くにあった建物

 昨日ブログの問題について、ぶらじょにさん、回答いただきありがとうございます。答えは、明日の行事が終わるまで、しばしお待ちください。おって解説付きで(というほどでもないのですが)お答えします。

 さて、もう一つ問題。
篠路 何の建物?
 こちらも篠路駅近くにあった建物です。現存はしていません。駅東側、篠路3条7丁目にありました。

 そこはかとなく雰囲気を醸していて、やはり2000年に撮りました。問題は、この建物の由来です。何の建物だったか? 気になりながら調べることを怠り、気づいたときにはなくなっていました。写真を撮った頃はすでに使われていない気配でした。史料を見ていて、「たぶん、そうだろうな」という心証は得たのですが、確信には至っていません。地元に古くからお住まいの方はご存じだと思います。明日のシンポジウムには地元の古老も来られる由なので、お訊きしてみます。が、その前に拙ブログをご覧の方で見当がつきましたらお知らせください。私の心証が正しければ、篠路という土地柄にゆかりがある建物だったと思います。

2018/02/02

篠路駅前倉庫群を予習しましょう

 JR篠路駅周辺には、かつて農業用倉庫が数多く建ち並んでいました。
 「数多く」というのは、昨日ブログで引用した北海道新聞のコラムには「かつては約20棟を誇った」と記されていますが、数えようによってはもっと多かったともいえます。当の道新は、2000年4月11日の記事では「JR篠路駅の両側に三十以上は並ぶ倉庫」と書いています(「駅かいわい JR篠路駅 歴史みつめる倉庫群」)。ことほどさように、史実はそれらしく独り歩きします。
 
 伝聞に頼らず、かつての姿を偲んでおきましょう。いずれも私が2000年に撮ったもので、現存していません。
篠路駅前 倉庫 煉瓦 セラミック カマボコ屋根 2000
 カマボコ屋根でも、煉瓦造とセラミック造があります(いずれも+RC、右端が煉瓦、中央、左端がセラミック)。

篠路駅前 倉庫 煉瓦 切妻屋根 2000
 煉瓦造(+RC)でも、カマボコ屋根と切妻屋根があります。

篠路駅前 倉庫 軟石 2000
 軟石。

篠路駅前 倉庫 セラミック 切妻屋根 2000
 セラミックも、毛色の変わった種類のものです。切妻屋根、鉄骨入り。

 こうして見ると、篠路駅周辺はさながら農業用倉庫のデパートのごとき景観を呈していました。写真に撮っておいただけでも良かったと思っています。
 ここで問題。前掲画像を参考にして、建材と屋根形状で区別した次の農業用倉庫を、建てられた古い順に並べ替えてみてください。
 ①煉瓦・カマボコ屋根
 ②セラミック・カマボコ屋根
 ③煉瓦・切妻屋根
 ④セラミック・切妻屋根
 ⑤軟石
 

2018/02/01

篠路駅の高架化に想う

 JR篠路駅周辺の都市計画(JR線の高架化、道路拡幅、区画整理)が、実現に向けて進みます。
 2月4日に開かれるシンポジウムは、この都市計画と向き合うものです(1月24日ブログ参照)。1月23日の審議会で承認された都市計画はいわば“骨組み”といえます。“肉付け”をするのはこれからであり、シンポジウムもそのきっかけの一つになればと願います。
 とはいっても、地域の歴史を知る催しであり、午後からは多彩な展示や実演もありますので、篠路の住民以外の方も楽しめるでしょう。篠路という一つの地域の過去、現在、未来に想いを寄せることは、自分が住む街を見直すことにもつながると思います。ご参加をお待ちしています。

 私は午前中のシンポジウムに“講師”の一人として出席するのですが、依頼を受けたとき正直言ってためらいがありました。篠路のことを取り上げた新聞のコラムが気にかかっていたのです。北海道新聞 2017年9月8日夕刊「今日の話題」に、「原風景の駅」と題して次のように書かれていました。部分的に引用すると私の真意が伝わらない恐れがあるので、長くなりますが筆者名を除いて全文を紹介します(太字)。
 
 小さな白い木造駅舎を出ると、札幌軟石や赤れんがなど10棟近い倉庫群が迎えてくれる。虫の声がぬくもりを添える。
 JR篠路駅。札幌駅から七つ目だ。倉庫群は「さっぽろ・ふるさと文化百選」。札幌では珍しく北海道の原風景を今にとどめる。
 倉庫群は、1934(昭和9年)の鉄路開業の翌々年に第1号が完成し、かつては約20棟を誇った。米穀やタマネギを貯蔵し、全国に供給した。
 小樽や函館の倉庫群が“海”の物流拠点だとすれば、篠路は“陸”の物流拠点の一つだった。
 そんな篠路駅前が10年ほどで変貌するという。鉄路は高架化し、駅前広場ができる。金太郎あめのような駅がまた一つ増える。
 市によると、倉庫群の命運はまだ白紙だそうだ。
 篠路は、石狩地方の農業の嚆矢だ。札幌都心部にまちをつくる前の江戸・安政年間に和人が入植した。福島、徳島、富山…。倉庫には、泥炭地を汗水流して耕した先人たちの物語が詰まっている。
 「文化は未知との出合い、既知との再会からうまれる」
 篠路在住で「まち文化研究所」主宰の塚田敏信さん(67)は言う。「先人も、子や孫の世代も見てきた倉庫群は篠路のアイデンティティ」だとも。
 函館や小樽は、陰影を帯びた古き街並みが、芸術・文化を生む想像力をかき立ててきた。今の札幌にその力はあるだろうか。
 なくすのは簡単。でも篠路の歴史を想起させる風景は上書きされる。いま一度、倉庫群の物語に耳を済ませたい。


 一見“いいこと”が述べられていますが、「金太郎あめのような駅がまた一つ増える」とか「なくすのは簡単」という指摘が、私には受け容れられませんでした。個々のコトバ尻ではなく、全体の趣旨で共感できればいいではないかというご意見もあるでしょう。しかし、これは全体の趣旨にもかかわる細部だと私には思えます。
 原風景、物語、アイデンティティ、古き街並み、倉庫群、歴史 ⇔ 高架化、駅前広場、金太郎あめ、という二項対置に、ステレオタイプ感がぬぐえません。私には倉庫群を「なくすのは簡単」とは思えないし、高架化、駅前広場=金太郎あめと断定するのも疑問です。遺すほうが、どれだけ大変か。
 北海道新聞は2013年6月7日記事で、篠路駅高架化を「住民『長年の夢実現』」という見出しとともに報じました。「篠路が活気づく」「早くやってほしい」という住民の声も添えられています。前述のコラムと読み比べて、一種のマッチポンプ(古語だなあ)と譬えるのは失礼に過ぎますか。

 これは自分自身に返ってくるブーメランでもあります。かくいう私に、シンポジウムで陳腐を乗り越える「力はあるだろうか」。

2018/01/31

篠路駅前の倉庫をめぐる都市計画審議会の議論

 1月26日ブログの続きです。
 
 篠路駅東口の区画整理をめぐって、1月23日に開かれた第97回札幌市都市計画審議会で交わされた議論を整理します。
 
 数名の委員から、駅前の倉庫の保存を求める意見が出されました。
 「駅前の倉庫の保存を求める多くの意見書が出された。超一級の文化財ではないにしても、地域の景観的価値への住民の関心が高い」。
 「どこでも同じような駅前ではなく、個性ある景観のために倉庫の保存を求めたい」。
 「倉庫の保存について地域住民とともに十分検討してほしい」など。
 
 同時に、札幌市の担当部局に対して、おもに次のことが質されました。
 ①倉庫の土地建物所有者はどのような意向か?
 ②計画案で、倉庫を残す余地はあるのか?
 ③地域住民とどのような調整を図っていくのか?
 ④時間的な余裕はあるのか? 残すためのタイムリミットはいつか?
 ⑤市の景観審議会とは情報共有されているのか?

 これに対する札幌市(都市計画部事業推進担当部長)からの回答は、概要以下のとおりです。
 ①所有者は区画整理については理解していただいている。
 ②今回の決定される計画は区画整理のアウトラインである。区域の中のレイアウトについては(都市計画決定の対象外だが)、出された意見書もふまえ、地域の皆さんと協議していきたい。位置的には、(保存の)可能性はある。
 ③倉庫を保存するとなると、どのように維持管理・運営していくのかという方法を検討する必要がある。札幌市が所有することは財政的に困難である。今後、所有者にも理解を求めつつ、協議していきたい。
 ④平成30年度末までに国土交通大臣の事業認可がおりるようにしたい。その(申請に要する)事業計画を出す(のがリミット)。
 ⑤(地域計画課長)倉庫については歴史的建物としての価値を認めており、今後景観審議会で情報共有していきたい。

 上記のやりとりはあくまでも私が聞き取ったものですので、正式には今後札幌市から公表される議事録でお確かめください。①について、倉庫の所有者が保存に対してどのような意向を持っているかは、明らかにされませんでした。③について、委員からも「住民の側と(倉庫の保存に要する)負担をめぐる協議も必要である」という意見が出されました。④について、来年度末までに国交大臣の事業認可がおりるためには、当然その前に事業計画を出す必要があります。これをいつまでに作るかが問題ですが、そこまでは明らかにされませんでした。

 とまれ、審議会は採択の結果、札幌市の計画案は賛成多数で同意されました。今後都市計画決定されることとなります。

  なお、本件倉庫をめぐって一部で「移転などの措置が取られそう」という情報が流れていますが、さる1月23日の審議会の議論ではそこまでの方針は打ち出されておりません。成り行きはまだまだ見通せていません。逆に言えば、それゆえ2月4日のシンポジウムが意味を持つことになります。

2018/01/30

札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第78号発行

きー すとーん№78 表紙
 表紙絵のカラー版を鑑賞会公式ブログに載せましたので、そちらも味わっていただければ幸いです。

 作者のSさんの添書き文にあるように、描かれたK牧場(北区篠路町上篠路)のサイロ・牛舎は解体されて、すでにありません。私は昨年4月にKさん宅を尋ね、牧場の由来をお訊きしたのが最後となりました(2017.4.10ブログ参照)。

 昨年12月下旬に撮った現況です。
上篠路 K牧場跡
 サイロ在りしとき、Kさんからお話を伺っておいてよかったと思います。Sさんの絵画作品も、篠路の歴史を伝える貴重な史料となりました。

2018/01/29

大通公園の黒田、ケプロン像

 佐藤忠良のレリーフ「開拓」(1月27日ブログ参照)は、“まぼろしの百年記念塔”構想(1月17日ブログ参照)が一つのきっかけとなったと私は想います。“まぼろし”塔が階層性、上下関係を明確に示していたのに対し、レリーフは必ずしもそうは見えません。北海道の歴史が時系列で横並びされています。“開拓”の視点であることは否めません。こんにち的にみれば限界、制約はあります。しかし私は、このレリーフもまた歴史的な産物であることを見て取りたいと思います。 

 一方、“まぼろし”の構想は、別な形で実現しました。
 民間有志によって1967(昭和42)年、「北海道開拓功労者顕彰像」が4体、建立されたのです。4体というのは、黒田清隆とホーレス・ケプロン、岩村通俊、永山武四郎です(末注)。

 黒田とケプロンの像は、札幌の大通公園、西10丁目にあります。
大通公園 黒田、ケプロン像
 “まぼろし”構想時の明治天皇、黒田、佐藤昌介、依田勉三から、上記の4体に変わりました。

 これらの像は、民間有志が「建立期成会」を作り、寄付金を集めて建てたものです。会長は当時の北海道商工会議所連合会会頭。建てられたのは都市公園内で、建立には北海道と札幌市、旭川市の補助金も充てられています。百年記念塔は、道費に民間の寄付を加え、知事を会長とする「建設期成会」のもとで建てられました。規模の違いはありますが、記念塔と4銅像に本質的な違いはないのではないかと私には思えます。

 もし、「アイヌ民族には絶対に容認できない、アイヌ民族不在の歴史観に基づく」ことを理由に、百年記念塔を「早急に解体」すべきだとするならば(1月10日ブログ参照)、つまり老朽化を本質的理由としないならば、論理的には4銅像もその対象とせざるをえなくなります。札幌市役所本庁舎ロビーの島義勇像はどうでしょうか。台座に刻まれている銘文は「容認」できるものでしょうか(2017.7.26ブログ参照)。解体する・しないをどこで線引きできるか。

 かつてソ連邦が崩壊したとき、かの国の各地でレーニン像が倒されました。現在、米国では南部の州で南北戦争の南軍側英雄(リー将軍とか)の銅像を撤去する動きがあると聞きます。百年記念塔の解体を求める意見と通底する現象に見えます。
 過去の歴史観を現在の歴史観で裁くこと=“後出しじゃんけん”には、慎重でなければならないと私は思います。しかし、レーニン像にせよ、リー将軍像にせよ、“後出しじゃんけん”とは言い切れない同時代性が包含されています。問題はどう裁くか、だとも思うのですが、これが一筋縄ではいきません。
 
 ありきたりな結論で申し訳ないのですが、銅像や碑、モニュメントというモノは、建てるのも、遺すのも、壊すのも難しい。
 百年記念塔については、ありきたりではなく危険な結論を述べます。無責任を承知で言いますが、「北海道百年」の歴史的末路として自壊に委ねるというのはどうでしょうか。ひたすら朽ち果てるのを待つ。周囲に「破片が飛散して危険です」という注意を促して、カネをかけずに放置する。「見るに堪えない」って?(1月21日ブログ参照) しかし、そういうモノを50年前に先人が造ったのですからね。

 注:『北海道百年記念事業の記録』1969年に、「この案(引用者注:明治天皇ほかを顕彰する記念塔構想)に対しては、像の対象人物の選び方と建設場所が問題であるという意見もあり、のち結果的には記念塔と別に開拓功労者の銅像が民間有志によって建立されることになった」と記されている(p.48)。岩村像は円山公園、永山像は旭川の常盤公園に建てられた(同書p.137)。 

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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