札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/11/12

小野幌の散居村

 先日来話題にしている小野幌は、現在の町名でいうと厚別区厚別北、厚別東です。
 厚別北すなわちJR函館線の北西側は宅地化が進んでいますが、南東側の厚別東は宅地化されていない空地や畑地が散在しています。鉄路と国道12号の間にはさまれたあたりです。
厚別東5条 Hさん宅納屋
 このあたりにも、私は土地柄の違いを感じてしまいます(11月1日ブログ参照)。
 
 郷土誌『小野幌開基百年』1988年を見ると、明治中期、入植が進んだのは鉄路の南東側(現在の厚別東)でした(pp.44-50)。南東側のほうが細かく地割され、家屋の密度も高かったことが窺われます。地盤、地質的な違いもあったのではないかと思います(10月31日ブログ参照)。その違いは昭和戦後も続きます。

 10月28日ブログに載せた1947年米軍撮影の空中写真を再掲します(国土地理院サイトから)。
空中写真1947年米軍 厚別 試験場線クランク 拡大
 朱線で着色加筆したのが試験場線、赤い▲の先が函館線の西通り踏切です。鉄路の北西側と南東側で人家の‘まばら具合’が異なります。南東側のほうが密度が高い。
 
 余談ながら(余談ばかりですが)、小野幌は富山からの入植者が多く、鉄路の南東側には「越中山」という地名がありました(本年5月5日ブログ参照)。それで妄想してしまったのですが、このあたりの家屋の散らばり具合が、富山の散居村のように見えてきました。これはあながち妄想とはいえないかもしれない(散居村については富山県砺波市サイト参照)。 

 話を本題に戻します。
 何が今日の本題かというと、小野幌がなぜ、鉄路の北西側と南東側で、現在に至る宅地化の度合いが違っているか、です。
 1976年の空中写真です(同じく国土地理院サイト)。
空中写真 1976年 小野幌周辺
 黒線でなぞった鉄路の北西側で、大規模な宅地造成が進んでいます。一方、南東側は、国道12号の南東部は区画整理が見られますが、鉄路と国道の間は散居村状態が続いています。
 つまり、もともと入植の密度が高かったところが往時の面影を残し、密度の低いところのほうが開発が進んだということです。逆転現象が起きた。まあ当たり前といえば当たり前なのでしょう。

 ところで、冒頭に載せた画像をもう一度ご覧ください。
 厚別東5条のHさん宅の付近です。後景に写る木造下見板貼り腰折れ屋根の納屋もさることながら、手前の電柱が気になり、こんな構図で撮ってしまいました。

 電柱は…。
厚別東 電柱 水恋幹
 「水恋幹」です。

2017/11/11

市道官林北線 南線 東線 ③

 昨日ブログの続きです。
 明治初~中期、野幌官林が小野幌の鉄路南東側まで広がっていたと想定します。そのエリアを薄緑色の線でなぞってみました。
昭和10年地形図 野幌官林 想定 南線 想定
 実際どこまで官林とされていたか、一次史料の裏付けがないというそもそもの問題は措くとしましょう。それでも、問題は残ります。
 現在の官林北線、南線、東線に当たる道が確認できるのは、大正5年地形図です。小野幌の鉄路南東側が払い下げられた明治中期以前、これらの道があったかどうか。道ができたのが大正期以降だとすると、この一帯はもはや野幌国有林ではありません。あとになってできた道に、官林と付けるか。仮に付けるにしても、北、南、東の位置関係は不自然さが否めません。

 B説を考えます。
 一昨日のブログに、「南線は小野幌川沿いに官林東線まで伸びているよう」に見えるというコメントをいただきました。前掲図で、南線(橙色)の延長を破線でなぞってみました。野幌国有林の「南」という位置関係が納得できます。では「東線」(黄色)はどうか。東線は野幌国有林の東側に通じています。

 一昨日いただいたコメントには「試験場線の接続道路」ではないかというご指摘も含まれていました。試験場≒官林への道(赤色)の北、南、東に位置するそれぞれの道、という位置づけです。試験場線自体「試験場に至る道」という意味合いが強いので、説得力があります。

2017/11/10

市道官林北線 南線 東線 ②

 市道官林北、南、東線の謎(といえるか?)について、考察します。
 昭和10年地形図に、該当する道を着色加筆しました。
昭和10年地形図 野幌国有林
 赤:試験場線 黄:官林東線 橙:官林南線 桃:官林北線

 二説、思いつきました。
 A当該道路の一帯も、もともと「官林」だった。
 B各道路の延長が、それぞれ野幌官林の北、南、東に位置する。

 A説は、小野幌の一帯が「官林」だったと考えたものです。『小野幌百年』1988年によると、小野幌の鉄路南東側は明治中~後期に払下げされています(pp.43-44)。北海道庁(当時)が有力者に土地を払い下げて開拓を進めた政策によります(末注①)。払い下げられる前は国有地でした(明治新政府が先住民を度外視したものだが)。官林の域内だった可能性もあります(末注②)。[つづく]

 注①:2016.11.11ブログ参照
 注②:松山潤「野幌原始林は残った」『叢書 江別に生きる10 野幌原始林物語』2002年によると、関矢孫左衛門が1892(明治25)年にしたためた書面に次のように記されている(p.72、引用太字)。
 御料林は石狩大原野の丘陵をなし白石、月寒、江別、対雁に跨り広茫数里四方にして樹林鬱蒼、水理を涵養し(後略)
 現在の野幌森林公園よりも広域だったと推測される。当時の村界は野津幌川なので、白石村まで御料林だったとすると、小野幌(当時江別村)もその中に含まれていたかもしれない。

2017/11/09

市道官林北線 南線 東線

 第8回厚別歴史写真パネル展が近づいてきました。
第8回厚別歴史写真パネル展 チラシ
 期間中に開催される「交流・談話会」、私は11月28日(火)午後2時から「厚別おもしろ地名考」をテーマにして話題提供します。それから30日(木)午後2時からの「旭町と阿部仁太郎」、ご子孫を囲んでの文字どおり談話会に参加します。その他については下記札幌市厚別区サイトをご参照ください。

http://www.city.sapporo.jp/atsubetsu/machi/soshiki/soshiki_ivent.html#H29rekisipaneru

 「厚別おもしろ地名考」の材料を調べているうちに、判らないことが判ってきました。と言いたいところですが、逆に判らないことが新たに出てきました。10月23日ブログで触れた「官林東線」です。野幌国有林の西側の道路がなぜ、「官林東線」か?

 札幌市厚別区の認定道路網図をしげしげ見たら、官林東線のみならず「官林北線」と「官林南線」という市道が気になりました。
厚別区認定道路網図 官林東線 官林南線 官林北線
 方位は11時の向きが北、着色加筆は以下のとおりです。
 黒:JR函館線 濃い茶:国道12号 赤:試験場線 黄:官林東線 橙:官林南線 桃:官林北線 緑:野幌森林公園(濃い緑:野幌国有林)

 鉄路の北側と南側に、官林北線と官林南線が通じているのです。北、南、東という呼称が、野幌国有林との位置関係では理解できません。

 官林南線は鉄路のすぐ南側に沿っています。
市道官林南線 試験場線から東望
 この「官林」というのは、鉄道と関係するのだろうか?

2017/11/08

厚別弾薬庫の地形

 11月5日ブログの続きです。
 厚別弾薬庫周辺の図面(1964年現況図)の縮尺を所蔵先の札幌市公文書館で確かめてきました。1/3,000でした。
現況図 昭和39年 厚別弾薬庫周辺 拡大 等高線

 等高線はやはり主曲線(細い実線)の間隔で1m、計曲線(太い実線)で5mでした。画像の黄色の線を加筆したところに標高の数値が書かれています。黄色線の右上矢印の先の計曲線が20(m)で、1mごとの主曲線が21、22、23、24と書かれ、左下矢印の先の計曲線が25です。主曲線の間隔(1m)を赤い線で加筆しました。なお、0.5m間隔の補助曲線も破線で描かれています。

 標高の高いところにも数値が記され、28.1とか28.2と読めます。図面全体を見渡すと、弾薬庫敷地のもっとも低いところで15m、高いところで29mで、比高は14mになります。やはり、現在より起伏が激しい。この図面から、断面図を起こしてみたいと思いますが、しばしお待ちください。

 弾薬庫ができる前の昭和戦前期、この一帯で農業を営んでいたGさんにお会いしました(末注①)。Gさんは1932(昭和7)年生まれなので、正確にいうとGさんのお父さんの代です。1943(昭和18)年、Gさんが11歳のとき、弾薬庫造成のため移転を強いられました。Gさんへの聞取りにより、この一帯が沢地だったことを確かめることができました。Gさんの記憶では、幅1mくらいの川が流れていたそうです(末注②)。谷状地形の低いところで水田、高いところでは畑作をしていました。畑ではエンバク、ジャガイモ、亜麻などを作っていたとのことです。

 Gさんから教えていただいたもう一つは、前掲図に橙色の矢印で示した先です。Gさんによると、弾薬庫の正面を土盛りしていました。万一爆発したときに被害を最小限に防ぐための措置です。

注①:札幌郷土を掘る会『写真で見る札幌の戦跡』2010年には、弾薬庫について「敷地36ヘクタールの半分は元馬場牧場の牧草地、あとは野津幌川にかけて沢がつらなる湿地帯で、住民はいなかった」と記されている。しかし、実際にはGさん一家が住んでいた。また、Gさんによると、弾薬庫敷地の多くは金沢農場の農地が占めていた(Gさんは同農場の小作をしていた)。厚別中央歴史の会『厚別中央 人と歴史』2010年、pp.45-46参照
注②:陸上自衛隊厚別弾薬支処『厚別弾薬庫 開設十周年記念誌』1963年にも、「弾薬庫地域の中央を流れる小川に2尺近い鯉が昇ってきた」と記されている(p.21)。

2017/11/07

プロレタリー フセフ ストラン、ソエディニャイチェシ!

 今日11月7日は、何の日でしょう?
 
 100年前の1917年の今日、ロシアで社会主義革命が成立しました。いわゆるロシア10月革命です。ロシアの旧暦では10月25日なので10月革命と呼ばれますが、太陽暦(グレゴリオ暦)では11月7日になります。
 もちろん一日で革命が成ったわけではありませんが、ボリシェヴィキ(のちのロシア共産党の母体)の武装蜂起によって臨時政府が倒された象徴的な日が、この日です。
 
 ロシア革命はひとことでいうと、以下の2段階に分けられます。
 2月革命:ロマノフ帝政が倒されて、臨時政府が成立
 10月革命:2月革命で成立した臨時政府が倒されて、ソヴィエト政権が成立

 歴史に「もし」はナンセンスですが、もし10月革命が成らなかったら、ロシアは社会主義ソ連には向かわなかったでしょう。ソ連というと、どういうイメージを抱くでしょうか? 一党独裁、人権弾圧、反対派抹殺、硬直した統治・生産体制、監視社会…。
 私はかねがね、2月革命はともかく、10月革命は強引にして性急すぎたのではないか、という疑念がぬぐいきれませんでした。2月革命でできた臨時政府を、もう少し成熟させることはできなかったのか。臨時政府で議会制民主主義の成熟があれば、旧ソ連の諸々の悲劇も生まれなかっただろう。

 …という考え方は、しかし歴史的ではありません。
 池田嘉郎『ロシア革命 破局の8か月』岩波新書2017年を読んで、あらためて思いました。1917年当時、ロシアはドイツとの戦争(第一次世界大戦)の真っただ中にありました。戦線に送られていた兵士や、銃後の労働者・農民には厭戦気分が非常に強かった。残念ながらというべきか、臨時政府はその気分を汲み取れず、停戦に踏み切れませんでした。一方で、大衆(労働者・兵士・農民)の気分を掴んだのがボリシェヴィキでした。もし臨時政府がその前に、停戦を実現していたら…。これも空しい仮定法です。
 
 大衆の厭戦気分を取り込んでできたはずの国家、ソヴィエト・ロシア(のちにソ連)でありながら、その後の第二次大戦では徹底的に戦争をします。なぜか。独裁者スターリンの好戦志向と強制動員というだけでは説明はつかないと思います。

 今は亡きソ連共産党機関紙「プラウダ」の1987年1月2日紙面です。 
プラウダ 1987.1.2紙面
 なぜこんなものを持っているかというと、30年前ヨーロッパへ旅行したとき、トランジットしたモスクワの空港で手に入れました。当時はモスクワ経由だったのですね。ちょうど革命70年の年でした。ソ連は4年後の1991年に崩壊しましたので、この新聞も今となっては貴重な史料です。

 紙名プラウダは、ロシア語で「真実」。その上に、「ソヴィエト連邦共産党」、さらにその上に「万国の労働者、団結せよ!」
 紙名の左に、レーニンの横顔をあしらったエンブレムが二つ、その右に描かれている船は、革命に呼応した軍艦「オーロラ」でしょうか。「十月革命」と書かれています。エンブレムの下に「1912年5月5日、レーニンによって創刊」、その右に「ソ連共産党中央委員会機関紙」。
 
 空港の待合室に、この種の刊行物がたくさん置いてありました。プラウダは1部4コペイカと書かれていますが、無料で自由に取っていけるようになっていました(4コペイカはタダみたいなものか)。日本人の旅行者で、プラウダをわざわざ持っていく物好きはあまりいなかったようですが。
 「さすが、宣伝が行き届いているなあ」と思ったものです。だいたいは、ソ連がいかに素晴らしい国かというプロパガンダのようでした。高校のとき、地理の先生から「ソ連には『プラウダに真実は書かれていない』という小噺(アネクドート)がある」と聞いたのを思い出しました。 もっとも我が国でも、お金をかけた(しかもテイクフリーの)印刷物が公共的な場所などに大量に置かれています。彼我の違いはありやなしや。

2017/11/06

長部洋服店

 拙宅の近所にある洋服店です。
厚別 長部洋服店
 今月に入って、閉店しました。

 洋服店といっても、クリーニングの取り次ぎやお直しをしてくれる店で、拙宅の御用達でした。ズボンの裾直しとか、長年ここによくお願いしていました。まだ店が開いているとき「10日をもって閉店」という張り紙がしてあったのですが、10日を待たずにすでにシャッターが下りていました。妻は、閉店する前に店のおじさんにお礼を伝えたかったのですが、それがかなわず残念がっています。

 長部洋服店は、私がひばりが丘に住むようになった27年前よりも古くから、ここで営業していました。長いことお疲れ様でした。ひばり湯も閉湯したし(2015.3.31ブログ参照)、明星幼稚園と教会も新しくなったし、ひばりが丘団地のコミュニティゾーンも年々変わりつつあります。

2017/11/05

サンピアザの地形 再考

 私が住んでいる厚別区の「北海道新聞青葉中央販売所」のエリアで毎月1回、本紙に折込みされている「販売所だより」です。
厚別ブラ歩き №1
 先月から、この紙面で「厚別ブラ歩き」という連載記事を受け持っています。平岸地区で「道新りんご新聞」(2016.3.10ブログ参照)を編集しているBさんのお薦めで始めたものです。拙ブログの厚別ローカル版といったところです。10月の第1回は「新さっぽろ副都心」を取り上げました。JR新札幌駅やサンピアザ周辺の地形を切り口にして、その地形が新札幌副都心の成り立ちとどう関わるか、綴っています。地形と副都心を結びつけたのは旧陸軍の「厚別弾薬庫」(2016.10.18ブログ参照)です。

 このミニコミ紙が出るのは毎月5日で、本日第2回の記事が折込みされました。
厚別ブラ歩き №2
 第1回に続き、テーマは新さっぽろ副都心の成り立ちで、厚別弾薬庫のことを書いています。

 拙ブログでは、紙幅の都合で「販売所だより」に書ききれなかったことをスピンオフして紹介したいと思います。といっても、連載記事そのものをお読みいただけるのは、厚別区の青葉町や厚別中央などの限られた地域で、しかも道新を購読している方に限られます。ブログはブログで独立した読み物となるように努めます。

 さて、11月5日号の第2回には、厚別弾薬庫のあたりの1960年代の地形がわかる図面を載せました。当時の地形は国土地理院の5万分の1、2万5千分の1地形図でも掴めますが、今回載せた図面はそれらよりも大縮尺で詳細です。
札幌市下野幌団地下水管布設設計計画図 厚別弾薬庫周辺
 たぶん、これだけ詳細な図面はこれまで公開されたことがなかったのではないかと思います。本件図面は札幌市公文書館で所蔵されている札幌市の特定重要公文書「昭和39年度起案 厚別弾薬庫綴」に添付されていたものです。ちょくちょく同館に出入りしていて、同館のEさんから「こんな書類がありますよ」と教えていただき、見つけることができました。公文書館に所蔵されたのは昨年で、それまで市役所の担当課で保管されていました。厚別弾薬庫に関するこれまでの著述を裏付ける上で貴重な史料だと思います。

 厚別弾薬庫は戦後、米軍の接収を経て、陸上自衛隊の所管となっていました。その性格上、詳細な図面がオモテに出るのが容易でなかったことは、想像に難くありません。本件図面は、弾薬庫の南側に札幌市が市営住宅下野幌団地を造成するに当たり、弾薬庫敷地内に下水管を敷設する必要が生じて描かれたものです。そういう事情がなければ、この図面が札幌市に遺されることもなく、こんにち日の目を見ることもなかったでしょう。

 同年代の当該敷地を、国土地理院の空中写真で俯瞰することができます。
空中写真 1966年 厚別弾薬庫周辺
 1966年撮影です。前掲図面と照合すると、土地の様子を、より立体的に把握することができるかと思います。

 理解の手助けに、現在の状況を着色加筆しました。
札幌市下野幌団地下水管布設設計計画図 厚別弾薬庫周辺 着色加筆
 上方の橙色でなぞったのが国道12号、下方の黄色が南郷通です。南郷通はまだ完成していません。国鉄千歳線と新札幌駅を黒で加えました。もちろんまだ通っていません。サンピアザの位置を赤く囲いました。

 現在のサンピアザのあたりを拡大してみます。
札幌市下野幌団地下水管布設設計計画図 厚別弾薬庫周辺 拡大
  等高線がかなり細かい間隔で描かれています。主曲線(細い実線)が1m、計曲線(太い実線)が5mでないかと思いますが、間違っていたらすみません(末注)。画像中央の長方形に「火」と書かれています。火薬庫の印です。傾斜地をえぐるように切り土して弾薬庫が設けられたことが窺えます。もし主曲線の間隔を1mだとすると、弾薬庫の位置から斜面のもっとも高いところまで、15mくらいの高低差になります。現在、サンピアザの辺は高低差が5mもない(2016.10.17ブログ参照)ので、今よりもかなり起伏に富んでいたことが判ります。

 注:等高線に記されている標高数値がぼやけて判読できないので、再度公文書館に行って原図を確かめることとしたい。

2017/11/04

武井時紀先生

 本日(11月4日)北海道新聞夕刊記事で、武井時紀(たけいときのり)先生が亡くなられたことを知りました。記事の一部を以下、引用します。
 4日午前5時10分ごろ、札幌市西区山の手1の11の道道で、道路を横断していた同市西区山の手1の12、無職武井時紀さん(95)が乗用車にはねられ、全身を強く打ってまもなく死亡した。
 
 ご住所やお歳からして、元札幌新川高校校長にして元札幌市文化財保護指導員の武井時紀先生だと思います。不慮のご逝去を謹んでお悔やみ申し上げます。
 武井先生は、札幌におけるいわゆる都市考現学の開祖でした。‘街歩き’というコトバはこんにちフツーに交わされるようになりましたが、今ほど人口に膾炙していなかった30-40年前に実践した草分けでもあります。先生の足跡は、『さっぽろ雑学ノート』1983年、『さっぽろ都市探検学』1990年、『おもしろいマチ-札幌』1995年、『北海道 人と風土の素描』2003年で、たどることができます。
武井先生 さっぽろ雑学ノート
武井先生 さっぽろ都市探検学
武井先生 おもしろいマチ-札幌
武井先生 北海道 人と風土の素描
 拙ブログでも、2014.9.242016.10.142016.11.13各記事で引用させていただきました。

 先生は、正史に残らないような街のできごとを、 正史には載らないような着眼点で綴りました。秋田鉱山専門学校(のちの秋田大学鉱山学部)ご出身ということもあってか、自然史的な考察も豊富でした。もちろん、今から見れば時代的な制約はありますが、前人未到を拓いた人を私は尊敬します。拙ブログの原点も、ほとんど先生の切り口にあります。
 デパートの広告やチラシなどを俎上に載せた本というのも、先駆的だったと思います。先生が切り取った街の風景の写真は、おそらく公的機関の記録にはないでしょう。貴重な史料です。
 先生は前掲『おもしろいマチ-札幌』で、中央区北2条東6丁目の「旧三菱鉱業寮」の建物にまつわるエピソードを記しています(p.129、131)。1937(昭和12年)ころの築というこの建物は現在、再整備されていますが文献史料があまり遺っておらず、札幌市の文化財課は文化財登録に向けて苦労しているようです。先生の記述は私が知る限り、きわめて数少ない一つだと思います。
 ご冥福をお祈りします。合掌。
 

2017/11/03

発寒の土圍

 10月28日、札幌市博物館活動センター主催の「おさんぽミュージアム 琴似・発寒編」に参加しました。
 歩いたのは、琴似発寒川の周辺です。案内してくださった学芸員のFさんは「何度歩いても、その都度新たな発見があります。それをもたらしてくれるのは、参加される皆さんです」とおっしゃってました。私自身、琴似や発寒は個人的にも札幌建築鑑賞会の行事などで、これまで何度か歩いています。しかし、Fさんがおっしゃるように今回新たに気づいたことが多々あり、刺激的な散策でした。

 中でも大正5年地形図は、これまで何十回(何百回?)と見てきたのに、Fさんから教えられるまで気づきませんでした。
大正5年地形図 発寒 土圍
 琴似発寒川の左岸、鉄路の南西側の赤い○で囲ったところです。またまた、視れども見えず。

 凡例によると、これは「土圍」です。
大正5年地形図 発寒 土圍 拡大
 土圍=土囲は、土手で囲まれた一帯のことらしい。
 Fさんは、この土圍がいつ、何のために造られたか、ここに何があったかを推理してくれました。

 ちなみに、前掲地形図よりも古い明治29年地形図を見ると…。 
明治29年地形図 発寒屯田
 格子状に区画されていますが、土圍の記号は描かれていません。

 だからといって、この土圍が明治時代にはなかったもので大正期に新たに造られたということはできません。測量の技術と作業が質量ともに向上し、明治期に把握できていなかったものが詳細に盛り込まれた可能性が高い。また、特に明治期の場合、陸地測量部の地形図といえども鵜呑みにはできません。札幌市公文書館のEさんによると、本来なかったものが描かれていたりすることもあります。これは私の憶測ですが、発寒にしても、明治20年代にここまで格子状街路が拡がっていたのか、疑問を禁じえません。

 それはともかく、前掲大正5年地形図に現れた土圍は何だったのか。興味おありの方は、現在地を今昔マップon the webでお確かめください。西区発寒3~4条1~2丁目、「発寒大空公園」がある一帯です。ちなみに、昭和10年地形図では消えています。土圍の南端に三角点記号があるのも、気になるなあ。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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