札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/09

厚別・旭町の阿部仁太郎屋敷について 補遺

 本年(2017年)3月29-31日ブログ及び6月11-15日ブログで、厚別旭町の功労者・阿部仁太郎(末注)について記しました。このたび、私も一員である厚別区民歴史文化の会により、阿部家のご子孫にお会いして聞取り調査をすることができました。その結果、これまで拙ブログで私が推測の域で述べてきたことの事実が判ってきました。
 結論を先にお伝えします。ただし、ご子孫のプライバシーに属することは控えます。

 ①厚別旭町(厚別中央3条)に遺る煉瓦の蔵(2017.3.30ブログ同3.31ブログ参照)
 1926(昭和元)年頃の建築。
 阿部家は同年に豊平から厚別に転居して邸を構え、蔵もそのとき建てられたとのこと。ご子孫の記憶では、昭和戦後期は衣裳蔵として使われていました。なお、阿部家はこの地に1970(昭和45)年までお住まいでした。

 ②T社屋上の猿賀神社(2017.6.13ブログ同6.14ブログ参照)
 阿部家の屋敷内にあった小祠を遷座した可能性が高い。
 6月15日ブログで私は本件について「阿部神社は信濃神社に合祀されつつ、分祠として(いわば阿部家の個人祭祀用に?)現地に遺っていたのではないか。ただし確証はまだありません」と記しました。このたびの聞取りで、複数のご親族から屋敷内に小さな祠を祀っていたとのお話がありました。これは1944(昭和19)年に信濃神社に合祀したという旭町神社(通称阿部神社)とは別です。現在のT社屋上神社の写真をお見せしたところ、「屋根は新しくなっているが、屋敷にあったものに似ているような気がする」とのことです。ただし、T社に遷座したというご記憶はありません。しかしながら、信濃神社に合祀したものとは別の祠が戦後も長く旭町にあったということは、「阿部家の個人祭祀用」を裏付けるものであり、これが遷座された可能性がきわめて高いと私は判断しました。阿部家が旭町にお住まいだったのは前述のとおり1970(昭和45)年であり、T社が現在地に社屋を構えたのは先のブログに記したように1971(昭和46)年であることから、時系列的にも符合します。

 阿部家のご子孫宅に、厚別旭町のお屋敷にあった灯籠が移されています。
厚別・阿部家の灯籠①
厚別・阿部家の灯籠②
 阿部仁太郎直系のご子孫のAさんは「札幌建築鑑賞会のこと、知ってますよ」とおっしゃって、とても好意的に接してくださいました。
 以上、淡々と記しました(つもりです)が、私は歴史推理の醍醐味を味わいました。ここに至ることができたのは、厚別区民歴史文化の会会員Tさんとそのご友人知人の人的ネットワークのたまものです。このたびその末席に加わらせていただき、悦びひとしおです。

 このほかにも、旭町(現厚別中央3条)の戦後史に関する情報が得られ、貴重な史料もお借りすることができました。M会長(私の厚別での師匠)の考証により、11月に開催される「厚別歴史写真パネル展」に反映されることでしょう。

注:阿部仁太郎は初代、二代と襲名しており、旭町に功労があったのは二代目である。

2017/09/08

藻岩村道路元標が見当たらない! ③

 一昨日ブログの続きです。
 南2条西24丁目のナナメ通りにあった藻岩村道路元標の行方について、この場所でマンション建設を計画している不動産会社にお問合せしました。その結果は…。
 「私どもが土地を購入する前に、元の所有者の方が対応されたので、(行方は)判りません」。
 元の持ち主によって処分されたらしい。一つ予想された答えではあります。敢えて勘ぐる?ならば、不動産会社が「敷地を更地にすること」を購入の条件としたのではないかとも思いますが、そこまで糾すことはできませんでした。根拠のない勘ぐりです。

 一昨日ブログで私は「本件元標が大正期整備の新道を原点にしたものならば、古道に面している(いた)のは不自然ではあります。三関さんが元標を遺すために、位置をずらしたのだろうか」と記しました。古道というのはナナメ通りのことで、三関さんというのは大正時代に藻岩村円山の碁盤目状道路網整備を導いた役場吏員三関武治さんです。一昨日引用した『さっぽろ文庫45 札幌の碑』の記述から、そう思いました。道路網整備の「思い出をたどるよすがになっている」と書かれているので、碁盤目状に整備された新道を起点にしたのかと思ったのです。
 元標は1928(昭和3)年に設置されました。道路網整備事業が終了したのはその前年、1927(昭和2)年です。あたかも事業の竣功を記念したかにも見えます。この元標設置もまた、三関さんのあずかるところが大きかったに違いないでしょう。
 しかし私は想い直しました。三関さんはあえて、古道(ナナメ通り)側に元標を置きたかったのではないかと。

 「札幌郡藻岩村大字円山道路網図」1923(大正12)年です(札幌市公文書館蔵)。
藻岩村大字円山道路網図
 この図は、元々の旧円山村当時の地割(現況)と碁盤目状の新道路網(計画)が重ね合わせて描かれています。今風に言えば、レイヤー処理されているというところでしょうか。画像に赤い線で着色したのが旧道のナナメ通り、黄色の線でなぞったのも古道で、銭箱道(北1条以北はのちに国道5号、現道道宮の沢北1条線)です。この図が興味深いのは、地番図をベースにしているからなのか、河川(または旧河道)とおぼしき蛇行する線も描かれていることです。その線を水色でなぞりました。旧道と川の地理的(地形的)な関係が伝わってきます。道路元標が置かれていたのは、赤矢印の先です。 

 ここで注目したいのは、古い地割がおおむね古道に直交していることです。新道路網はいわばこれを度外視して、札幌市の碁盤目と連動するように線を引き直しています。歴史が上書きされる様子が、手に取るように判ります。
 『円山百年史』1977年によると、事業は1922(大正11)年に計画され、翌1923年から3年の予定で進められました。が、実際に終了したのは前述のとおり1927(昭和2)年です(pp72-75、末注)。大変なプロジェクトだったことが同書の行間から想像されます。中心となった三関さんはスゴイ人だなと想います。ちなみに、前掲の図面ほか貴重な史料を遺したのも三関さんですし、『円山百年史』を中心的に編んだのも三関さんです。都市近郊農村の近代化のあゆみを私たちが跡づけられるのも三関さんのおかげです。歴史を動かし、かつ遺した。

 あらためて、南2条西24丁目を眺めます。
南2条西24丁目 ナナメ通り
 北から南を望みました。画像の左方がナナメ通り、右方が碁盤目の新道(道道、西25丁目通)です。赤矢印の先が道路元標在りし位置です。
 近代(後者)と前近代(前者)がせめぎ合っています。近代が前近代を上書きした後も、古道のナナメ通りは遺りました。上書きの生き証人の三関さんだからこそ、道路元標はナナメ通りに置かねばならぬと思ったにちがいない。私の妄想です。

 くだんの三関武治翁です。
三関翁之像
 南2条西24丁目に三関さん宅があった2013年、玄関先にあった胸像を撮らせていただきました。道路元標は、もしかしたらこの胸像とともにご遺族の新天地に移ったのかもしれません。
 
 道路元標、復活しないかな。 [おわり]

 注:一昨日引用した『さっぽろ文庫45 札幌の碑』では、事業計画を1921(大正10)年としている。同書も『円山百年史』に依拠していると思われるので、『百年史』の記述を採りたい。

2017/09/07

厚別歴史散歩ご案内

 9月26日(火)に催される「厚別歴史散歩」の案内チラシです。
厚別歴史散歩 案内チラシ

 参加ご希望の方は、住所・氏名・年齢・電話番号・「厚別歴史散歩申込み」を明記し、厚別区役所地域振興課までファックスでお申込みください(ファックス番号:(011)895-5930、同課への持参も可)。定員15名(応募多数時は抽選)、締切9月13日。
 チラシ(兼申込用紙)は下記サイトからもダウンロードしてご覧いただけます。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/atsubetsu/machi/soshiki/soshiki_ivent.html#rekishisanpo
 ふだん非公開の民有地に入らせていただく都合もあって、平日の催行となりました。お仕事の方には参加しづらくてすみません。また、今回は企画してからの日数が短く、電子メール等での申込受付ができませんでした。実施して評判が良ければ、改良しながら来年以降も続けていきたいと思います。

 厚別区の、それも新さっぽろ・ひばりが丘で歴史をテーマにして街を歩くというのは、もしかしたらそれ自体が歴史的な出来事といえるかもしれません。

2017/09/06

藻岩村道路元標が見当たらない! ②

 南2条西24丁目、「藻岩村道路元標」が建っていたところです。
南2条西24丁目藻岩村道路元標跡
 黄色の矢印を付けた先、青いセーフティコーンが置かれているあたりに、あったと思います。この通りは裏参道から南東へ伸びる、いわゆるナナメ通りです。

 在りし日の元標です。
藻岩村道路元標
 2013年10月に撮りました。高さ40~50㎝くらいでしょうか、民地側にポツンと建っていました。

 元標のウラ面です。
藻岩村道路元標 ウラ面
 「昭和三年建設 北海道廰」と刻まれています。

 『さっぽろ文庫45 札幌の碑』1988年によると、大正期、藻岩村が札幌の郊外住宅地として発展し、道路網が整備されることになりました(以下、引用太字)。
 「大正十年、十五万八○○○円という予算で円山のメーンストリート作りが計画され、同十二年から着手された。当時の村の年間歳出が三万四○○○円弱であったことを思うなら、いかに大きな工事費であったかが理解できる。工事は南七条から北一条に至る西二四丁目線で、当時は琴似街道と呼ばれていた。この工事の主任として采配を振るったのが役場書記の三関武治。札幌の生き字引と呼ばれるほど歴史に詳しい人だったが、いまはすでに亡い。三関宅にのこっている小さな自然石の道路元標が、思い出をたどるよすがになっている」(p.28)。

 その「よすが」が、見当たりません。
 冒頭に載せた現在の風景に、プレハブの仮設家屋が建っているところに、三関さんのお住まいがありました。どうやら、お住まいがなくなったことに伴い、元標も撤去されたようです。
藻岩村道路元標跡 近景
 元標の位置は現在、仮設プレハブの駐車スペースになっており、おそらくクルマの出入りに邪魔くさかった可能性があります。

 ちなみに、本件元標が面していたナナメ通りは明治の開拓草創の頃から拓かれた(それ以前からあった?)古道です。大正期に整備されたのは、札幌区に連なる碁盤目状の道路です。本件元標が大正期整備の新道を原点にしたものならば、古道に面している(いた)のは不自然ではあります。三関さんが元標を遺すために、位置をずらしたのだろうか。

 ところで、前掲プレハブ仮設家屋の前には「建築計画のお知らせ」看板が立っています。
南2西24 建築計画のお知らせ
 マンションが建つようです。このデベロッパーに訊いたら、本件元標の行方が分かるかもしれません。余談ながら看板に書かれているデベロッパー(建築主)のT不動産という会社は、これまでも私が時空逍遥する先々でよく出くわしました。拙ブログで過去に取り上げた物件にもゆかりがあります。[つづく]

2017/09/05

「藻岩村道路元標」が見当たらない!

 私の活動圏は現在、おもに以下の三つです。
 ①札幌建築鑑賞会
 ②厚別区民歴史文化の会
 ③その他
 
 ③の「その他」というのも①②と関わるのですが、他の組織・団体との連携でおもに郷土史関係の案内役を務めたり、話をしたりするものです。このほかに、個人的な時空の彷徨を拙ブログで綴っておりますが、折々①②③も盛り込ませていただいてます。
 内容的には外歩きにまつわることが多いので、秋というのはハイシーズンです。私が運営に携わったり、人前で話をするような行事の予定を、12月まで書き出してみました(マル数字は上記の3活動圏)。
 9月16日 ③北翔大学ポルト市民講座「ポルトを起点とした札幌の建築物と地形を歩く見学会」
 9月24日 ①古き建物を描く会
 9月26日 ②厚別歴史散歩「新さっぽろ・ひばりが丘編」
 10月6日、8日 ①大人の遠足
 10月13日、15日 ①都心の建物めぐり
 11月23日 ③さっぽろ川めぐり講座「川と市民のいとなみ」(仮題)
 11月25日 ③苫小牧市立美術博物館講座「わが街の文化遺産・札幌軟石」
 11月28-30日 ②厚別歴史写真パネル展
 12月2-10日 ①古き建物を描く会作品展
 12月10日 ③北翔大学ポルト市民講座
 行事に加えて、北海道マガジン「カイ」というウエブでの連載(半年の予定)に協力しているほか、10月から地元の北海道新聞販売所の折込み地域新聞に「厚別ブラ歩き」という歴史探訪の連載を受け持つことになりました。これらの情報は、おいおい拙ブログでもお知らせしていきます。

 それぞれの行事への私自身の関わり方には濃淡がありますが、一つ行事を中心的に受け持つと、2~3週間はかかりきりになってしまいます。不器用な性分です。この種の分野で私よりもはるかに多くの活動をしている人は世の中にいっぱいいると思いますが、毎週のようにどこかで講演や著述をしている人を見ると、顧みて己の能力や気力、体力の矮小を痛感します。
 ただ、私の中で誇りに思うことが一つあります。札幌建築鑑賞会で26年間、‘群れて’きたことです。きれいごとばかりではないのですが、多くの方と力を合わせてきました。煩わしい雑用も厭わずに一緒にやってくれる仲間に恵まれてきました。教えられることももちろん多々あり、拙ブログでも役立たせてもらっています。
 
 実はここまでが前置きのつもりだったのですが、長くなってしまったので、本題を短くします。
 9月16日の行事の案内です。北翔大学ポルト市民講座の一環で、札幌・円山界隈を歩きます。周辺の古き建物を訪ね、地理地形を楽しむというこころみです。集合:午前10時、ポルト(同大北方圏学術情報センター、南1条西22丁目1-1)。午後1時解散予定、参加費無料、事前申込不要、当日集合地まで。ポルトの所在地は、下記サイトをご参照ください。

ポルト(同大北方圏学術情報センター)

 案内役は、N43赤煉瓦塾事務局長の石垣秀人さんと私です。建物の解説は石垣さんにお任せし、私は円山の地理地形を読み解くほうを受け持ちたいと(勝手に)思っています。その下見で円山を歩いたところ、「藻岩村道路元標」が南2条西24丁目からなくなっていました。[つづく]

2017/09/04

連隊通り 補遺②

 東北通り、白石区栄通3丁目で西を望みました。
東北通り 栄通3丁目 西望
 右方、乗用車が止まっているところが連隊通りです。東北通りは彼方へ向かって下っていきます。下った先には望月寒川があります。

 一方、東北通りの反対方向、東側を望むと…。
東北通り 栄通3丁目 東望
 こちらも、遠方に行くに連れて少し下がっています。
 連隊通りはどうも、尾根筋に道が拓かれたように思えます。

 1953(昭和28)年頃の連隊通りの周辺を描いた略地図です。
南郷部落図 昭和28年頃
 『郷土史 南郷』1989年掲載の「南郷部落略図」から抜粋しました。方位はおおむね10時の向きが北です。川や用水路、沢と描かれているところを水色でなぞりました。橙色でなぞったのが連隊通りです。これを見ると、連隊通りは、西方を望月寒川及びそれに並行する用水路、東方を「沢」が流れる中間を通じています。ちなみに、連隊通りには「陸橋通」とも記されています。

 1961(昭和36)年の空中写真を見ます。
空中写真 1961年 連隊通り、望月寒川
 同じく連隊通りに橙色、川に水色を付けました。西方の望月寒川は明らかですが、東方の「沢」のほうは一部読み取りづらいところもあります。おおむね連隊通りが尾根筋とみてよさそうです。

 古地図で地形を当たってみました。
大正5年地形図 連隊通り 望月寒川
 大正5年地形図からの抜粋です。「沢」は描かれていないので、等高線に照らして推測し、水色の破線でなぞりました。等高線的に見ても、連隊通りは特に月寒から南郷にかけて尾根筋を通っています。

 「沢」の河道を現在図で推測してみました。
現在図 連隊通り 望月寒川
 「沢」の河道、谷底に近いところを現在、白石中の島通りが通っています。

 白石駅が開業したのは1903(明治36)年、連隊通りが拓かれたのが1905(明治38)年といいます(末注)。駅から連隊への連絡路には尾根筋が選ばれたようです。

 注:札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年pp.68-69。同書によれば、白石駅がもうけられたのは月寒に独立歩兵大隊(のちの歩兵25連隊)が置かれたためであるという。

2017/09/03

江別 北海道林木育種場 旧庁舎

 さわやかな秋晴れの下、江別の「北海道林木育種場(旧林業試験場) 旧庁舎」を見学してきました。
林木育種場 旧庁舎
 江別市郷土資料館主催の「再発見・江別探訪 バスでめぐる先史時代の遺跡」という行事に参加した一環です。

 といっても、この庁舎自体は先史遺跡と直接関係はないのですが、今回おもに江別市西部の遺跡を巡った行程上にあり、休憩を兼ねて立ち寄りました。登録有形文化財で、現在、江別市が管理しています。  

 いただいた江別市教委のリーフレットによると、建物は1927(昭和2)年の築です。1階は煉瓦造、2階は木造という混構造であることを初めて知りました。
 
 興味深いのは2階の外壁に化粧材が貼られていることです。
林木育種場 旧庁舎 ファサード
 今、私は「化粧材」と記しましたが、リーフレットには次のように説明されています(引用太字)。
 建築方法/ハーフテンバー(柱、梁、筋交等の軸組を全部組み立ててから、その間にセメントや石を詰め込んで壁をつくる建築法)を基調とした、当時としては斬新な洋風近代建築物です。

 ハーフテ(ィ)ンバー half timber というのは、ここに書かれているとおり、軸組すなわち構造材です。私は構造材ではなく、化粧材のように(つまりハーフティンバー、に)見えたのですが、さてどうでしょうか。
 いずれにせよ、林業試験場という出自のせいか、木材を生かしたのだなあという印象を受けました。正面玄関屋根の破風に貼ってあるのは、柾目の板のように見えます。

 ふだんは非公開という2階も、見せていただきました。
林木育種場旧庁舎 2階室内
 腰壁板や窓枠、鴨居の木材もまた、林業試験場ならではのふんだん感です。

 かと思うと、階段廻りは…
林木育種場旧庁舎 階段廻り
 親柱や手すりは、研出し人造石という技法でしょうか。

 手すりの端っこには…。
林木育種場 階段廻り 2階
 これも化粧材なのか、意味がよく判らないのですが、凝ってます。

 本件建物も含め、ガラス工芸館(旧石田宅)といい、旧町村牧場といい、旧岡田倉庫(ここは河川改修で危ういが)、旧ヒダ工場(エブリ)といい、江別市は歴史的建物の保存に積極的に取り組んでいるなあとあらためて思いました(札幌が積極的でない、というわけではありませんが)。

2017/09/02

東区本町 Fさん宅 軟石倉庫

 本件軟石倉庫も札幌建築鑑賞会「札幌軟石発掘大作戦」で存在を確認したものですが、建築年や用途は未把握でした。
東区本町 Fさん宅 軟石倉庫
 軟石の表面仕上げはツルメ、軒と開口部にコンクリートを廻しています。妻壁に家紋(丸に木瓜か)。軒は蛇腹に折り、妻側はブロークンペディメント風です。軟石の厚み(1尺幅)からして、木骨ではなく本石造と思われます。
 建物の立地と雰囲気から、私は農業系の蔵と分類していました。「蔵」か「倉庫」かの識別は悩ましいのですが(末注)、平入り開口部の大きさからすると、倉庫とすべきだったかもしれません。

 このたび持ち主のFさんにお話を伺うことができました。元はタマネギ倉庫だったそうです。建築年は定かでないのですが、「タマネギを始めたのは、大正8年生まれの祖父が戦後復員してから」という話からして、昭和20-30年代と思われます。近くに北13条大橋ができるとき、位置を少し移したとのことです。建物の妻面が少し凸状に膨らんでいるのは、移築に伴う変化かもしれません。なお、Fさん宅は祖父で入植三代目で、タマネギの前は酪農を営んでいました。

 本件を当初「蔵」と識別したのは、妻壁に家紋が刻まれていることが当時の私の先入観で影響したのでしょう。
本町 Fさん宅倉庫 家紋
 東区や北区の農業系の倉庫の多くは苗字の頭文字(漢字一文字、ときにローマ字)を妻壁に刻んでいるので、家紋というところに差異を見たのです。しかし、同じ東区でも、家紋付きのタマネギ倉庫が散見されます。場所は本件に比較的近い、伏古や東苗穂です(2015.8.20ブログ
2017.5.28ブログ2017.5.31ブログ参照)。頭文字付きは主として丘珠から篠路にかけて分布していますので、地域的な微差があるようです。

 Fさんは「家紋も付いていることだし、これからもできるだけ大事にしていきたいですね」と語ってくれました。軟石ファンとして、ありがたいことです。

 軟石建物の築年別内訳は、昭和戦後期築が一棟増えました(カッコ内は母数412棟に対する比率)。
  明治期:16棟(3.9%) 
  大正期:27棟(6.6%)
  昭和戦前期:51棟(12.4%)
  昭和戦後期:99棟(24.0%)
  昭和後期-平成期:48棟(11.7%)
  不詳:171棟(41.5%)

 注:2017.2.16ブログ参照。
 蔵⇒和風在来的な意匠、特徴的なプロポーション(2階建て、妻側に開口部あり、観音開きの扉、棟飾りなどの装飾)。用途上は帳簿類や什器、貴重品などの収蔵。文庫蔵、衣裳蔵、質蔵、店蔵など。
 倉庫⇒切妻平屋または腰折れ屋根、装飾的には簡素、大きめの出入り口、用途上は農作物や農機具、家畜などの保管収容。

2017/09/01

連隊通り 補遺

 8月21日ブログに読者の方から、栄通のTさん宅近隣の町名表示板についてコメントをいただきました。この表示板については私も、2015.4.1ブログで紹介しました。木造アパートに付設された古い物置に貼られていた古い表示板です。コメントに「物置自体がなくなったらしいと噂で聞いたのですが…だとしたらちょっと残念です」とありましたので、現地を確認してきました。

 物置も表示板も健在でした。
白石町栄通の町名表示板
 ひとまず安堵です。

 なお、コメントによると、連隊通り側のコンクリートブロック塀にも古い表示板が貼られていたのですが、昨年なくなったとのことです。そちらも確かめたところ、たしかになくなっていました。
 この物件を私は、2015年3月に撮ってました。 
白石町栄通 古い町名表示板 連隊通り
 在りし日を偲んで載せておきます。

 ところで、前掲の健在なほうの表示板で、気づいたことがあります。地元の方には当たり前すぎるので、「気づいた」というのはおこがましいのですが、「白石町栄通2丁目」と書かれた下に「白石中央病院」とあります。だいぶ退色していますが、うっすらと読めます。この表示板のスポンサーと思われます。ちなみに、この表示板の隣には「オヤコわた 白崎ふとん店」の広告看板が貼られています。
 白石中央病院と白崎ふとん店というのが、ここで初めて見たとき一瞬、意外だったのです。しかし、このたびあらためて思い直しました。そうだ、連隊通りではないか、と。不明を恥じます。

 現在図(白石区役所「白石区ガイド」から抜粋)で確認しておきます。
白石区現在図 連隊通り
 黄色の線でなぞったのが連隊通りです。本件表示板看板の所在地に赤い★を付けました。そして白石中央病院とオヤコわた白崎ふとん店の位置をそれぞれ赤と橙色の●で示しました。距離にして約1.8㎞ですが、ほぼ道一本で直線的に通じています。

 白崎ふとん店そのものも、確認してきました。
オヤコわた 白崎ふとん店
 こちらも「オヤコわた」の古そうな看板が健在です。

 煉瓦造の工場も。 
白崎ふとん店 煉瓦造工場
 喜田信代「札幌市における昭和期の煉瓦造建築」(『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第39号2000年)によると、1955(昭和30)年の築。

 白石区というと本通、南郷通、東北通と、東西(北西-南東)に通じる道路が中心というのが私の地理感覚でした。しかし、かつては(今も?)南北(北東-南西)が基軸でもあったのですね。

2017/08/31

瑞穂神社 補遺

 8月18日ブログで、苗穂の旧陸軍糧秣廠(現自衛隊苗穂分屯地)内に遺る池泉について記しました。その中で、池のほとりに祠があったことに触れたところ、読者の方からコメントをいただきました。その後判ったことを記します。なお、苗穂分屯地に展示されている祠の写真を同日のブログに載せ、キャプションを「現静心池付近にあった水穂神社の様子」と引用しましたが、「穂」ではなく「穂」が正しかったので、訂正します。

 郷土史の文献『なえぼ-庚午一の村誕生から平成まで-』1998年に、以下の記述がありました(p.235、引用太字)。
 正門(引用者注:苗穂分屯地)を入ると右手に静心池という池がある。その池の中島に小さな洞ママ(ほこら)がみえる。施設内で事故が無いよう起願し祭られ瑞穂のほこらと呼ばれた。陸軍の糧秣廠設置当時から祭られており、昭和十二年には社(やしろ)も建立されたが、戦後施設内から出て、今は札幌村神社(東区北十六条東十四丁目)の境内にひっそりと祭られ、毎年九月四日が例祭である。なお東区苗穂町にあって、昭和三十四年宗教法人瑞穂神社と改名した旧雁来神社とは、別のものである。

 同書によると、分屯地内にあった祠は札幌村神社に遷座されたようです。そこで札幌村神社に行ってきました。
札幌村神社
 神社の境内に小さな祠が「ひっそりと祭られ」ているのを期待していたのですが…。残念ながら、それらしきものは見当たりません。
 宮司さんに伺ったところ「当社には、末社や祠のたぐいで合祀されているものは、ないですね」と。郷土史の文献に記述されていることをかくかくしかじかお伝えしたのですが、明確に否定されました。
 糧秣廠の瑞穂神社はどこへいったのか?

 実は文献に当たる前に私は、苗穂町にお住まいのYさんにお問合せしました。Yさんというのは瑞穂神社のお隣にお住まいで、軟石倉庫2棟の大家さんです(2017.6.6ブログ参照)。まぎらわしいのですが、ここでいう瑞穂神社というのは、前掲書で「別のもの」といっている旧雁来神社のことです。区別するため、分屯地にあった祠は「糧秣廠神社」と便宜的にいうこととします。
 旧雁来神社の瑞穂神社は、苗穂分屯地からもっとも近くにある神社で、しかも名前が同じであるのが私は気になっていました。ただし、同社に糧秣廠神社が合祀されたとか遷座したというような記述は文献上(といっても、『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年ぐらいしか見ていませんが)、見当たりません。それどこか前掲『なえぼ』誌では、「別のもの」と言い切っています。そうはいってもYさんは旧雁来神社の近くに古くからお住まいなので、一応ウラを取ってみることにしたのです。
 私の問いにYさん答えて曰く「自衛隊(分屯地)に池はあったと思いますが、神社があったとは聞いたことがないですねえ」と。旧雁来神社はもともと現在地の道路(国道275号)のナナメ向かいにあったのですが、昭和40年代に移されたそうです。

 こちらが旧雁来神社の瑞穂神社です。
瑞穂神社(旧雁来神社)
 念のため現地も確かめてみましたが、ここにもそれらしい小祠はないし、由来を刻んだ碑にもそのようなことは書かれていません。拝殿の左方にある社務所?の方にお尋ねしたところ、糧秣廠神社のことはやはり「聞いたことがない」と。ただ、「毎年、秋のお祭りのときに、自衛隊の方が2名ほど手伝いに来られますけどね」と。ほう。やはり分屯地にもっとも近い神社だけある。政教分離上、自衛隊の業務としてではなく、たぶん有志として参加しているのでしょう。例大祭はちょうど来週、9月5日です。覗いてみようかしらん。自衛隊の方にあらためて話を聞けるかもしれません。

 このほかに分屯地の近くで神社といえば、苗穂神社です。ここにも足を運びました。が、やはり合祀遷座の形跡は確認できませんでした。
 以上、はかばかしい収穫はありませんでしたが、「施設内で事故が無いよう起願し祭られ瑞穂のほこらと呼ばれた」(前掲『なえぼ』)精神は、旧雁来神社のお祭りへの参加という形で引き継がれているように私は嗅ぎ取ってしまいました。どうでしょうか。

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