札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/14

校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔 - 江別市立大麻東中学校

 江別市の大麻東中学校です。
大麻東中学校 校舎
 北海道百年記念塔が校歌に歌われ、校章に描かれています(本年4月27日ブログ参照)。

 記念塔を校歌・校章に用いる学校としては最北端の同校を訪ねました。実は私は、ひと月前にもここに来ています。そのときは学校周辺をウロウロしただけですが、記念塔の方を眺めたものの塔の姿を視認することはできませんでした。「もしかしたら校舎の上階からだったら見えるかもしれないなあ」と想いながら、その機会を願っていたところです。
 
 このたび、正々堂々と校内に入らせていただきました。前にも記したように、保護者でもない一般人、しかも私のような小心者にとって、学校は秘境です。その私が、憚ることなく立ち入りました。
 というのは、江別市が年に2回実施している「小中学校一斉公開日」だったのです。私はそのことを「まんまる新聞」というフリーペーパーで知りました。同紙は厚別区と江別市を中心に宅配されていて、道新や全国紙に載らないような(末注)地域の行催事が伝えられています。一段のベタ記事にお宝な情報が盛り込まれているものですね。

 さて、同校の校門から記念塔の方を眺めた景色です。
江別 大麻東中学校から記念塔方面を望む
 前述したとおり、記念塔は見えません。

 ♪世紀の塔に顕なる 先人の血汗われあり…♪ (同校校歌三番出だし) 
 教頭先生にかくかくしかじかお願いしたところ、「校舎の3階からだったら見えると思う」とのことでした。

 そこで、3階の空き教室に上がらせていただきました。
江別 大麻東中学校 校舎3階から百年記念塔を望む
 「世紀の塔」は顕に望めました。

 カメラをズームインします。
江別 大麻東中学校 校舎3階から百年記念塔 拡大
 てっぺんは、外側にナナメカットされています。

 同校の校章です。
江別 大麻東中学校 校章
 これだけを見たら私は、記念塔がモチーフとはただちに認識できなかったかもしれません。
 同校の公式サイトによると、「三稜は百年記念塔とペンを表し、記念塔は先人の偉業を偲ぶと共に先端は将来の発展を意味します」。
 たしかに、校舎から見える記念塔と同じフォルム(先端は外側へのナナメカット)です。


 例によって、地理院サイトから色別標高図を作ってみました。
色別標高図 大麻東中学校-百年記念塔
 25m以下から5mごとの9段階で色分けしました。赤いが大麻東中学校、白ヌキの六角形が記念塔です。学校から記念塔はほぼ真南に望めます。

 断面図です。
断面図 大麻東中学校―百年記念塔
 直線距離にして3.7㎞。標高は学校が26.8m、記念塔が54.8m(+塔の高さ100m)です。手前の文京台あたりが記念塔とほぼ同じ標高なので、やはり校舎の上階から塔のてっぺんが見えるという地形ですね。
 教頭先生からもお話を伺うことができ、貴重な経験でした。江別市教育委員会の企画に感謝します。札幌の小中学校も、私が知らないだけで、かような公開日があるのだろうか。

 さて、校歌・校章の百年記念塔はだいたいこんなものだろうと私は思っていたのですが、さにあらずでした。まだ、奥が深かったのです。[つづく]

 注:各紙の地域版の記事が、江別市と厚別区(札幌市)では異なるのかもしれない。

2018/06/13

札幌で永山武四郎ゆかりの地を拝む

 改修のため2年余り休館していた「旧永山武四郎邸」(道指定有形文化財)を、6月23日の一般公開に先立って見に行ってきました。
旧永山邸・旧三菱鉱業寮 全景
 地元住民、観光ボランティアガイド、関係者を対象とした内覧会に参加させてもらったものです。

 2016年以来の改修では、特に併設の「旧三菱鉱業寮」の整備に力点が置かれました。
旧三菱鉱業寮 外観
 三菱合資会社によって1937(昭和12)年頃に建てられた洋館です。永山が1904(明治37)年に亡くなった後、邸宅敷地を同社が明治末期に買収し、事務所や寮が設けられました。 

 下見板貼りは新たにペンキが塗られ、お化粧直しされています。下見板やスティック(妻破風の化粧材-末注①)はペパーミントグリーンといった色合いですが、改修前とは異なっています。前は、下見板は白、スティックはこげ茶色でしたね。たぶん‘こすり出し’をして、創建時の色に戻したのでしょう。

 旧三菱鉱業寮の中で、私がもっとも好きな空間です。
旧三菱鉱業寮 2階 階段室 
 2階の階段室。これを階段室といってよいのか判りませんし(末注②)、階段室という表現では言い尽くせない贅沢さが漂います。贅沢というのは、「金に飽かした」というのとは異なる精神的(?)豊かさでしょうか。もっとも、パブリックスペースにこれだけゆとりを持たせるのは、資力がないとなかなかできないことだとは思いますが。
 改修前は閉じられていた左側の丸窓の納戸部屋は、このたび開放されました。ミニギャラリースペースとして活用できるそうです。窓の外の木々の緑が映えますね。

 旧永山邸及び旧三菱鉱業寮については、私は20年来の感慨があります。とりわけ永山武四郎については先般鹿児島で生誕地を拝んできたことでもあり、感慨も弥増しているところです(6月1日2日3日各ブログ参照)。拙ブログでは一般にあまり知られていないトリビアルな挿話をできるだけ綴っていきたいと思います。まあ、旧永山邸とか旧三菱鉱業寮自体、まだマニア好みかもしれませんが。

 本件建物の公開については公式サイト https://sapporoshi-nagayamatei.jp/ をご参照ください。

 注①:これはハーフティンバーなのだろうか。
 注②:リーフレットによると、この空間は「ホール」

2018/06/12

「開道」120年の残照

 7月に開催を予定する札幌建築鑑賞会「2018大人の遠足」初夏の編に備えて、再び八紘学園に足を運びました。地下鉄「南郷13丁目」駅から学園まで、月寒川を遡るように歩いて30分弱です。

 途中、「月寒グリーンドーム」の跡地を眺めました。
月寒グリーンドーム 跡地
 建物はすでに解体されて、ありません。

 ドーム在りし日の写真を載せて、偲んでおきましょう。
月寒グリーンドーム 在りし日 2017年4月
 昨年4月に撮ったものです。その前年(2016年)3月末をもって閉鎖されていたので、この時点でもはや近づけませんでした。

 これは本年4月の撮影です。
月寒グリーンドーム 在りし日 2018年4月
 この写真を撮って間もなく、解体工事に入ったようです。前掲画像と比べると、周囲の木々(トドマツ?)も伐採されたかに見えます。

 入口には、大きな表札を掲げた門柱がありました。
北海道立産業共進会場 門柱
 「北海道立産業共進会場」。

 ネーミングライツの冠を付けたグリーンドームという愛称のおかげで、この名称もカゲが薄くなっていました。
月寒グリーンドーム 跡地
 その産業共進会場の表札も、すでにありません。 
  
 グリーンドームを彩ったイベントも偲びましょう。
世界・食の祭典 パンフレット
 ちょうど30年前にちなんで、「世界・食の祭典」です。1988(昭和63)年6月、華々しく幕を開きました。

 パンフレットには、主会場となった本件ドームも描かれています。
世界・食の祭典 パンフレット 月寒グリーンドーム
 当時を知る道民にはご記憶のとおり「食祭」は惨憺たる結果だったせいか、公式報告書がないようです。なので、パンフレットも貴重な史料になったかと思います。
 
 パビリオンの一つに、アメリカ映画にちなむセットなどが展示されていました(末注①)。『北北西に進路を取れ』のポスターのとか。これが「食」をテーマとする博覧会とどう結びついたのか、よく思い出せません。印象に残っているのは、その館にいた担当者がゴルフの素振りを(クラブなしのエアで)していたことです。来客が少なくてヒマを持て余している象徴的な光景でした。

 産業共進会場ができたのは1972(昭和47)年です(末注②)。八紘学園の生き字引のSさんに、岩手県でこのドームをモデルとした共進会場が作られたとお聞きしました。一つのプロトタイプになったのですね。
 「共進会」というコトバも死語になるのではないか。と私が漏らしたら、札幌建築鑑賞会スタッフのNさんに「酪農業界では今も使われている」と言われました。 たしかに、ホルスタイン牛の共進会とか、開かれています。もともとは酪農畜産に限らず、ひろく産業生産物全般を対象にした品評会、見本市、博覧会だったようです。文明開化のときの訳語ではないかと私は思います。食祭も、明治以来の共進会の系譜と見ることもできましょう。開催された1988年は、「開道」120年でした。

 グリーンドーム跡地近くに架かる橋です。
白石藻岩通 共進橋
 「共進橋」といいます(末注③)。

 ここに産業共進会場があったことの、唯一の名残でしょうか。 
共進橋 橋名板
 これから10年、20年したら、なぜこの橋が「共進」なのか、記憶が薄れていくかもしれません。

 注①:食祭のパンフレットを見たら、「アメリカ映画村」は大谷地会場(アクセスサッポロ)に設けられていた。「日本で人気のあるアメリカ映画のセットを、そっくり再現。映画スター気分を満喫できるハッピービレッジです」と。なぜこれが「食」の祭典かは、やはり解せない。
 注②:開設されたのは1972年8月1日(『新札幌市史 第八巻Ⅱ 年表・索引編』2008年、p.446)、
 注③:橋名板によると、橋が竣功したのは1971(昭和46)年10月である。

2018/06/11

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ④

 6月9日ブログの続きです。
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)は、東1丁目通り(市道幌北線)を基線として915m(503間)の距離で引かれています(各道路中心線で計測)。町(チョウ=60間)に換算しても、整数になりません。これは何に由って来たるのか?

 可能性として排除できない説を、一応考えたいと思います。
 そのまえに、東8丁目通りを俯瞰してみましょう。 
現在図 東8丁目通り クランク2箇所
 本件北12条のクランク(黄色の○の箇所)とは別に、北1~2条にもクランクがあります(橙色の○の箇所)。
 
 後者のクランクがなぜできたかは、昨年考察しました(2017.7.21、23、24、28、30、31ブログ)。原因はひとことでいうと、創成川からの起算の違いです。このクランクの南側は71間を基数にして71×6街区=426間で設けられ、北側は8町(=480間)という距離で線が引かれた(2017.7.31ブログ参照)。
 71間とは60+11間です。明治の初期、札幌本府の碁盤目状街区は、基本的に街区60間+道路11間路で区割りされました(2017.7.24ブログ参照)。

 では、その‘71間基数説’を503間に当てはめるとどうなるか。503/71≒7.08。ほぼ街区7つ分です。東1丁目通りまたは東8丁目通りを幹線道路として広幅員にすると、どうか。たとえば道路を1本だけ17間にすると、503間に合致します(末注)。(60+11)×6+(60+17)=503。
 つまり、碁盤目の7街区に区割りすることを想定して、東8丁目通りの線を引いた。この説を採ると、東8丁目通りの北12条以北は、先祖帰りしたともいえます。

 注:札幌本府でも、開拓使本庁舎周辺は15間とか20間で設定されている。『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.52

2018/06/10

6月10日の記念樹を寿ぐ

 昨年の6月9日に母が退院して、1年が無事に過ぎました。
 母は、術後の経過は良かったものの、なにせ食が細く、経鼻栄養を続けていました。「このまま退院して経鼻をやめたら、てきめん衰弱する」と言われていたのですが、手術を成功裏に終えてくださったことに私は感謝しつつ、「もしものことがあっても、天命だと思います」と言って、退院させてもらいました。90歳。病院食で長らえるのと、拙宅に帰って好物だけで過ごして仮に余生を縮めたとして、どちらが幸せだろうと思ったのです。
 その後の母の復元力には、息子ながら感服します。退院後、週3回のデイサービスを一日も休まず今日に至りました。皆勤賞です。休んだのは、施設でインフルエンザが流行ったために自粛した一回だけ。それも、母自身は罹患せずに乗り切りました。齢90にして外国移住のような経験をして、しかも2か月入院しても変わらないでいてくれる母に、感謝します。変わらない日々、「ただ」居てくれるだけでありがたい。
 昨年は病室暮らしでしたが、今年はサクラやウメ、ツツジ、ライラックと、北海道の春から初夏を一緒に体感できました。ちなみに母は、セイヨウタンポポに感激しています。ひょろっと細長いのが、新鮮なようです。私には外来侵入種の権化にしか見えないのですが、内地人の母には異国的風物に映るのかもしれません。 
 
 さて、風物といえばこの時期、拙宅の近所で花咲かせる樹があります。
副都心百年の樹 2018
 「副都心百年の樹」です。

 この樹のことは昨年6月10日ブログで記しました。かねて気になっていた記念樹です。1年後の本日、傍らの銘鈑に書かれている説明文を、あらためて以下引用します。
副都心百年の樹 銘鈑 2018
 マロニエ Marronnier (トチノキ科セイヨウトチノキ)
 バルカン半島原産の落葉高木で紅葉が美しくヨーロッパでは街路樹として親しまれています。
 この樹は副都心とサンピアザの誕生を記念して姉妹都市ミュンヘン市から贈られたものです。
  1977.6.10 植樹           札幌市長 板垣 武四


 気になっていたのは、昨年記した「この樹はマロニエでよいのだろうか」、です。
副都心百年の樹 花 2018
 これはベニバナトチノキではなかろうか。

 このたび41年を記念して、専門家に確かめてみました。
マロニエとベニバナトチノキの違いは、その専門家のRさんがご自身のブログに書かれているので、そちらをご参照ください。

http://blog.sapporo-ryu.com/?eid=2249
http://blog.sapporo-ryu.com/?eid=1233

 やはり、本件はベニバナトチノキだったようです(末注①)。
 Rさんによると、この手の間違いはよくあるそうで、原因として以下のことが考えられるとおっしゃいました。
 ・本物が植えられたが、後年枯れた。→ 代わりに植える木を、植木屋さんが間違えた。
 ・姉妹都市からは目録だけ送られてきて、実物は地元(札幌)で調達することになった。→ 植木屋さんが樹種を間違えた。

 いずれにせよ、贈呈された札幌市(副都心公社)も幾星霜、重ねられてきました(末注②)。もしかしたら関係者は気づいたものの、「ま、いいか」ということで今日の日を迎えたのかもしれません。なぜか。
 マロニエという樹名が醸す憧憬的な響きが、そうさせた。おフランスの並木道。本件記念樹の銘鈑に、そのような日本的精神風土まで妄想してしまいます。そういえば、ここにかつてあったデパートは、名にし負うAU PRINTEMPSでした。
 念のため申し添えますが、私は鬼の首を取って「間違っとるじゃないか。ケシカラン」などと申すつもりはありません。それどころか、厚別ブラ歩きのネタが一つ増えたと秘かに悦んでおります。Rさんじゃないですが、コトここに至った時空をあれこれ逍遥するのが楽しいのです。などと記したら、不真面目と謗られましょうか。6月10日の目出度き日に免じてお許しください。

 注①:Rさん曰く「セイヨウトチノキを道内に植えられているのは見たことがありません」と。
 私は郷里(愛知県稲沢市)でマロニエの並木を見た。マロニエの花は、本件副都心百年の樹よりも、白っぽかった印象である。並木は、同市出身で戦前戦後をとおしておフランスで活躍した荻須高徳という画家を記念した美術館の前に植えられている。マロニエがバルカン半島原産と聞くと、そういえば同市はギリシアのオリンピアという古都と姉妹都市を提携している。我が郷里は全国的にも有数の園芸樹木、植木苗木の主産地なので、まあ間違えることはないと思うが。
 注②:『札幌副都心開発公社20年誌』1995年に、本件マロニエもといベニバナトチノキが植樹されたときの写真が載っている。高さ数十㎝の細い苗木であった。

2018/06/09

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ③

 東8丁目通りの北12条以北は東1丁目通りを基線として引かれたと推測しました。では、東1丁目通りからの距離は、何に基づいたのでしょうか?
 
 まず、東1丁目通り(市道幌北線)と東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線)との間の距離を、現在図で確認します。
現在図 東8丁目通りクランク 東1丁目通りとの距離
 着色は以下のとおり。
 東1丁目通り(市道幌北線):黄色の線
 東8丁目通り(主要市道真駒内篠路線):茶色の線
 創成川:青色の線
 クランク:赤い○の場所
 東1丁目通りと東8丁目通りの距離:赤い矢印線
 創成川と東8丁目通りの距離:橙色の矢印線

 さて、東1丁目通りと東8丁目通りの距離(赤い矢印線)は、915mです(国土地理院サイトから計測)。ちなみに創成川と東8丁目通りの距離(橙色の矢印線)は877m。後者は間(ケン)に換算すると482間(1間=1.818m)≒8町(1町=60間)で、昨日ブログで述べたとおりです。
 それでは915mはというと、915/1.818=503間≒8.4町。現況で見る限り、どうも町(チョウ)単位で測ったとは想いづらい。

 古地図を当たります。
 昨日ブログでも載せた明治29年地形図ではどうか。約925mです。

 大正5年地形図で見ると…。
大正5年地形図 東区クランク
 東8丁目通りに「中通」という地名が添えられています。また、明治29年地形図では通じていなかった北12条以北と北11条以南が結ばれ、クランクが形成されています(末注)。
 東8丁目通りの北12条クランク以北と東1丁目通りとの距離は、やはり約925mです。925m≒509間≒8.5町。これが現在の通りの原形とみて差支えないでしょう。現況の距離の915mとは10mの差がありますが、いかんせん明治29年及び大正5年地形図のスケールは5万分の1です。0.1㎜で5mの違いを生じます。私の手元のモノサシは1㎜単位(三角スケールの1/500mで、0.4㎜単位)なので、誤差ということにしてください。

 とまれ東8丁目通り(北12条クランク以北)は東1丁目通りを基線としつつ、その間の距離の915m(現況)というのは、町(チョウ)単位とは別の発想で線が引かれたと思えるのです。

 注:大正5年地形図のクランクの形状は、現況とは微妙に異なっている。
大正5年地形図 東区クランク 拡大
 “曲がり具合”が、現況よりもわずかに大きい。この場所はちょうど「大友堀」が通じていたところ(青い線)で、かつてはその堀割沿いの道がクランクのナナメ道となったと思われる。しかし、その後整形されたのであろう。

2018/06/08

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ②

 昨日ブログの続きです。
 北光線(東8丁目通り)は、北12条でクランクしています。なぜ、このクランクができたか?
 あらためて確認すると、この通りは北11条以南と北12条以北で、拓かれた時期が異なります。前者が先で、後者が後です(末注①)。そして、それぞれ異なる根拠に基づき道が作られたことが察せられます。
 前者すなわち北11条以南については、拙ブログで過去にその経緯を記しました(2017.7.31ブログ参照)。端的にいうと、「創成川(の中心線)から東へ8町(=480間)」で引かれたとみられます。それが北11条までなのは、ここ(北12条通り)で旧札幌区と旧札幌村の境界が分かたれたからです。なぜここに境界線が引かれたかは、「東区 北光・鉄東の謎 4題」④で述べました(本年3月12~15日ブログ参照)。
 ではなぜ、境界線(北12条通り)以北で、道をまっすぐ延ばさなかったか? 行政区域が異なるからといってしまえばそれまでですが、そうせざるをえなかった物理的理由もあったと思います。

 明治29年地形図を見ます。
明治29年地形図 東区クランク 考察
 黄色と赤でなぞったのが本件東8丁目通りの原形ともいえる道です。この地図では、現在の北12条以北、北17条あたりまでの間は道がまだ通じていません。仮に赤い線を南へ直線的に延ばしていくと、黄色の線とはわずかにずれます。北12条以北は、この赤い線に基づいたと思われます(末注②)。では、この赤い線は何に基づいたか?

 結論的にいえば、橙色でなぞった線すなわち現在のいわゆる東1丁目通り(末注③)が根拠となったと考えます。
 黄色の線すなわち東8丁目通りの北11条以南が創成川からの距離に基づくことは前述しました。その創成川は、前掲明治29年地形図で青い線でなぞったのように、北11条あたりまでは直線的に掘られています。しかし、奇しくもというべきか、その北で向きを西へ曲げます。なぜ曲がったかは、「東区 北光・鉄東の謎 4題」②で推理しました(本年5月9日ブログ参照)。

 とまれ、基準となる線(基線)が曲がってしまったことにより、基準にしづらくなったのではないでしょうか。で、代わりに基線としたのが、川沿いに引かれた道(現在の東1丁目通り)です。こちらは北12条以北も直線的に延ばされています。
 詮ずるところ、東8丁目通りのクランクは北11条以南と北12条以北の基線の違い、と私は考えます。前者は創成川を基線とし、後者は東1丁目通りを基線とした。前者は、前述のとおり創成川(の中心線)から8町(=480間)の距離で引きました。では後者はどのように引いたのか?

 注①:昨日ブログ掲載の「札幌県石狩国丘珠村札幌村全図」参照。凡例からすると、赤茶色で描かれているのは既存の道路、薄茶色は「見込線」
である。
 注②:地形図をつぶさに見ると、赤くなぞった道は北17~20条あたりでわずかに曲がっている。どこまで正確に測量したものかどうかは判らない。
 注③:北11条以南は国道5号、北12条以北は札幌市の市道「幌北線」。

2018/06/07

北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎 ① 

 本年3月10日ブログから始めた「東区 北光・鉄東の謎 4題」を再開します。
 ① 「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」 なぜ、北12条で曲がっているか?
 ② 「創成川の謎」 なぜ、鉄道以北で少しずつ北北西に向きを変えて流れるか?
 ③ 「ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤの謎」 なぜ、道路に対してナナメか?
 ④ 「北12条通りの謎」 なぜ、境界線(旧札幌区と旧札幌村)が引かれたか?
  
 ④(3月15日)→③(4月9日)→②(5月9日)と解いてきて、ようやく①に来ました。寄り道脇道に逸れながら、3か月になんなんとします。成り行きまかせで逍遥することはできても、計画的にアタマを切り替えるのが苦手な私です。しかしなんとか最後まで行けるように努めます。

 さて、 「北光線(東8丁目通り) 東区最大のクランクの謎」 です(末注)。
現在図 東区 北光線クランク
 場所を上掲現在図の赤い○で囲みました。

 北12条東7丁目、歩道橋から南を望んだ風景です。
東区 北光線 クランク 現況
 画像は本年3月に撮ったもので、路傍にまだ雪が残っています。北11~12条、東区役所の北側でカクっと曲がっています。

 同じく歩道橋から北を眺めました。
東区 北光線 クランク 現況②
 北12~13条で、またカクッと折れます。

 私はこの変形?クランクに「東区最大の」と修飾しました。もとより恣意的です。なんでこんなクランクが生じたか?

 このクランクの気配は明治の早い時期にすでに現れます。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 南西部拡大
 たびたび載せている「札幌県石狩国丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵)です。これを見ると、答えはあらかた出てしまいますが、少しあーでもない、こーでもないと逍遥しましょう。

 注:一般的に呼び慣わされている「北光線」とか「東8丁目通り」と記したが、札幌市の認定道路としては「主要市道真駒内篠路線」。北光線というのは本来、この通りを走るバス路線名か。

2018/06/06

ひばりが丘小学校の校章に描かれた百年記念塔を考証する

 拙宅のもっとも近くにある小学校の「学校だより」です。
ひばりが丘小学校 学校だより
 校章に北海道百年記念塔が描かれていることに、つい最近まで気づきませんでした(本年4月27日ブログ参照)。
 町内会の回覧板に入っているので、これまで何十回ではきかないくらい目にしてきたはずなのですが、またしても「視れども見えず」です。

 いわれてみれば、記念塔です。
ひばりが丘小学校 校章
 ですが…。

 一般的によく見るフォルムと比べると、若干異なっています。
北海道百年記念塔 森林公園入口からの眺め
 てっぺんの部分です。

 拡大してみます。
北海道百年記念塔 森林公園入口からの眺め てっぺん
 てっぺんの二本は、内側に向かってナナメカットされています。

 たとえば江別市のカントリーサインに描かれている記念塔も…。
江別市カントリーサイン
 内側にナナメカットされています。

 しかるに前掲ひばりが丘小学校の校章では、外側に向かってナナメカットです。
 見る位置によって記念塔のカタチが異なることは、最近じっくり観察して実感しているのですが、ひばりが丘小学校からは実際にこのように見えるのだろうか。

 拙宅から歩いて目と鼻の先にある小学校の前から、記念塔の方を眺めてみました。
ひばりが丘小学校前から記念塔方向を望む
 しかし、近景の建物などに遮られて望めません。

 しからばと、近くの高層集合住宅の上階に昇ってみました。
拙宅集合住宅 階段室から記念塔を望む
 黄色の矢印の先がひばりが丘小学校です。北東方向に記念塔を確認することができました。赤い矢印の先です。

 余談ながら、二十数年前、私がこの地に住み始めたとき、高層集合住宅が林立する風景を評して、口さがない知人が「札幌の○○」と譬えました。○○は、とある国のとある都市なのですが、具体名を出すと物議を醸すかもしれないので控えます。住人ながら、言い得て妙と感心しました。同じ時期にひばりが丘に移り住んだ別の知人は、「札幌のビバリーヒルズ」だと豪語していました。ひばりが丘でビバリーヒルズ。って、ベタですが、これだと目くじら立てられずに一笑に付されてすみますか。

 閑話休題。
 さて、例によってカメラをズームインしてみると…。
拙宅集合住宅 階段室から記念塔を望む ズームイン
 たしかに、てっぺんは外側に向かってナナメカットされています。
 わずか~に内側にも削られているように見えますが、デザイン的な処理を考慮すれば一致しているといってよいでしょう。校章は正しいと考証しました。

2018/06/05

北1西1の記憶

 「さっぽろ創世スクエア」です。
さっぽろ創世スクエア 北側(上)
さっぽろ創世スクエア 北側(下)
 5月31日に竣工したそうなので、見てきました。
 超高層なので、カメラのレンズを横長にしたら建物が収まりきれません。

 同じ場所の2003年の風景です。
旧北海道ホルスタイン会館 王子サーモン 2003年
 私の目当ては、かつてあったこの建物の痕跡をたどることでした。
 2015年2月13日ブログで記したとおり、新しくできる建物の片隅に‘土地と建物の記憶’を遺してもらうことをお願いしてあったからです。このたび、その物件を拝見してきました。

 物件は、北側の入口を入ったところにあります。
さっぽろ創世スクエア 北側の入口
 北側にはオフィス棟があり、すでに一部開業していますので、入ることができます。

 あらかじめ再開発事業JVの担当者の方に確認の上、伺いました。
旧北海道ホルスタイン会館 土地と建物の記憶
 物件はすでにできあがっていました。

 かつてこの地にあった建物に用いられた煉瓦が壁に貼られ、由来について説明されています。
さっぽろ創世スクエア 「旧王子サーモン館」のレンガ
 説明は以下のとおりです。

この場所には「旧王子サーモン館」と呼ばれる建築物が立地していました。
「旧王子サーモン館」は、終戦から4年後の昭和24年、「北海道ホルスタイン会館」として建てられました。
札幌における戦後初の耐火構造による2階建の事務所建築で、外観は全面レンガ積(アメリカ積)と切妻屋根が特徴的でした。
窓台や玄関ポーチには札幌軟石が用いられ、外壁のレンガは通常の赤レンガではなく、窯変色のものが使用されていました。
上のレリーフは、「旧王子サーモン館」の面影をいまに伝えるため、建築物に使われていたレンガを用いて制作しました。


 建物の意義や特徴についてはもっともっと書いてほしいことがありましたが、たくさん書けばいいというものでもありません。また、本件「レリーフ」では、煉瓦が実際に積まれ方(説明文でいうところのアメリカ積ではなく、小端空間積み(2017.5.30ブログ参照)のように表現されています。これだけ一見するとこのように積まれていたかに受け取られる可能性もありますので、はばかりながら拙ブログでは補足しておきましょう。

 実際の積まれ方は、こうでした(2012年建物解体時に撮影)。
王子サーモン館 外壁煉瓦 2012年
 ほとんど長手面(煉瓦の細長い面)ばかりオモテに出して積まれていました。一般に「アメリカ積み」というのは、「れんがの長手面を5~7段続けて、小口面の列を混ぜ」る(末注)積み方ですが。本件を見ると5~7段どころかほとんど長手面ばかりのようでもあります。

 しかるに、「レリーフ」ではなぜ違う積み方をしたかを察するならば、煉瓦の平(ひら)面(=直方体でもっとも面積の大きい面)を見せたかったのでしょう。
さっぽろ創世スクエア 「旧王子サーモン館」の煉瓦 刻印
 平面には「2」という刻印が確認できます(2016年2月8日ブログ参照)。

 本件は、2012年に建物が解体された際、文字どおり瓦礫となった煉瓦を札幌建築鑑賞会が貰い受け、再開発の事業者にお願いして実現したものです。それがなければ、煉瓦はすべて産業廃棄物となっていました。厳寒の2月、解体工事現場で手がかじかみながら煉瓦を選り分けたことを懐かしく思い出します。
 
 この経緯は前掲の説明文には記されていませんし、喧伝することでもないのですが、せめて鑑賞会の通信では記録に留めておきたいと思います。先だって拙ブログで触れさせていただいたしだいです。前述のこぼれ話も、おそらく「さっぽろ創世スクエア」の公式媒体等で大々的に取り上げられることはないでしょうから、拙ブログ読者のお楽しみとして味わってください。記憶に薄れゆく風景をとどめるのも、あえていえば拙ブログの存在価値だと思っています。

 とまれ、再開発事業JVの担当者の方には、6年ぶりに記憶を蘇らせていただき感謝いたします。煉瓦の引き取り作業に従事してくださったNyさん、Tさん、Shさん、及び長い間保管してくださったⅠさん、Sjさん、Naさん、どうもありがとうございました。

 本件の位置は下図をご参照ください。
さっぽろ創世スクエア 1階平面図 レリーフ位置
 北2条通り側の入口のエレベーターの前です(赤い印を付けたところ)。

注:江別市教育委員会『江別のれんがを歩く』2008年、p.152による。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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