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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/09/24

クラーク博士“Boys, be ambitious!”はどこで発せられたか?

 9月13日ブログの続きです。
 クラーク先生が発した“Boys, be ambitious!”のあとに続く‘like this old man’は、寒地稲作の功労者、中山久蔵を指すという説を聞きました。聞いた場所は、ほかならぬ久蔵翁が駅逓を営んだ島松の地です。史跡「旧島松駅逓所」の解説ガイドさんが語ってくださいました。ガイドさん曰く「これは私たちがそう言っているのではなくて、道庁赤れんが庁舎に飾ってある絵に描かれているのです」と。それで、9月13日ブログで、くだんの絵を紹介したしだいです。

 私は同日ブログを「私が言いたいのはかような次元を超えたところにあります」と結びました。「かような次元」とは、「‘this old man’=中山久蔵」説に対する疑義です。なぜ、その次元を超えてしまったか。まずは、そもそもクラーク先生の馬上別離の訓言自体が神話性を帯びているからです。ただし、私はそれを過去形でしか知りません。北大構内の胸像しかり、羊ケ丘展望台(2017.4.15ブログ参照)の全身像しかり、島松の地のモニュメント(9月5日ブログ参照)しかり、それらが出来上がった(=神話化に貢献した)のは昔のことです(末注)。
 しかるに今般のガイドさんの話には、神話が作られていく現在進行形を私は感じ取りました。ここで神話というのは、「‘this this old man’=中山久蔵」説を虚偽だとする意味ではありません。神話とは、ガイドさんの話が道庁赤れんが庁舎に架かっている絵=二次情報に基づいていることの隠喩です。もとより、だからケシカランということでもありません。私が伝えたかったのは、物語が紡がれていく過程を目の当たりにできたことへの、いわば感動です。

 北広島市のカントリーサインにも、クラーク博士とおぼしき人物像が描かれ、“Boys Be AMBITIOUS”と書かれています。
北広島市 カントリーサイン 厚別区青葉町所在
 うしろの信号機柱に付いている町名板に「青葉町16」と書かれているとおり、札幌市厚別区青葉町の国道274号で確認しました。札幌市を示す標識と北広島市を示す標識が同じ場所に立っていて、これはこれで私には「いいモノを見た」感が催されるのですが、それは措きます。クラークの絵柄が、訓言を発したという馬上ではなく羊ヶ丘展望台の立像をモチーフにしているところにもキッチュ感が伝わってきますが、それも措きます。
 私は最近、クラーク先生が“Boys, be ambitious!”の訓言を発したのは現在の北広島市ではないとする説を知りました。林嘉男『ふたつの駅逓』2007年です。サブタイトルに「クラーク博士は恵庭で叫んだ」とあります。クラークが1877(明治10)年に学生らと別れたのは、島松川の右岸、現在の恵庭市島松沢にあった駅逓だというのです。私はこれまで、左岸すなわち北広島市の「旧島松駅逓所」建物(8月25日ブログ参照)とその傍らの「青年よ大志を懐け」モニュメントに刷り込まれて、北広島市と信じて疑いませんでした。そうではないという。これだから、神話は面白い。

 注:近年、札幌の時計台(旧札幌農学校演武場)にもクラーク座像が置かれた(2017.10.15ブログ参照)。これは私もリアルタイムで体験できた。

2019/09/21

かわらぬものは古代文字

手稲郷土史研究会主催のバスツアーに参加し、小樽、余市に游んできました。
余市 シリパ岬 バス車窓から遠望
 バス車窓から遠望する余市のシリパ岬です。さわやかな秋晴れに恵まれ、海の青さ、空の青さが心地よく目に沁みました。

 余市で訪ねたのがフゴッペ洞窟です。
余市 フゴッペ洞窟
 上屋が掛かっている岩肌に、続縄文時代の刻画が遺されています。

 私はこの洞窟は未見でした。
フゴッペ洞窟 看板
 蘭島の海水浴場には昔行ったことがあり、また手宮洞窟のほうは近年何度か足を運びましたが、フゴッペ洞窟は初めてです。
 続縄文の洞窟刻画遺跡は国内でフゴッペと手宮の2箇所だけ(余市町発行のリーフレット)というのは、心をそそります。いや、続縄文は北海道だけなので、日本におけるこの時期の、というべきか。内地の弥生文化は竪穴住居が主だろうから、洞窟壁画はないか。

 すぐそばをJR函館本線が通っています。
函館本線 古代文字踏切
 「古代文字踏切」銘を確認できました。刻画の文字説が否定されていても、やっぱりここは「古代文字」でなくっちゃ。
 
 同行の札幌建築鑑賞会スタッフSさんに写真を撮ってもらいました。
函館本線 古代文字踏切-2
 「嬉しそうに写ってる」とSさんに呆れられつつ、大満足な私です。

 子どもの頃に流行った「小樽のひとよ」という歌の一節を思い出します。
 ♪二人で歩いた塩谷の浜辺 偲べば懐かし古代の文字よ♪
 今を去る四十年前の夏、蘭島の海岸を女の子と歩いて、満天の星空に感激しました。これはほろ苦い思い出です。
 鶴岡雅義の名曲の題には「小樽」と付きますが、ここでいう「古代の文字」は手宮ではなく、余市のフゴッペではなかろうか。ひとえに蘭島での個人的な体験を根拠に、歌われている「塩谷の浜辺」の雰囲気は、市町界をまたいでもフゴッペに結び付けたい。
 この歌が世に出たとき、手宮もフゴッペも「古代文字」説はもう有力ではなかったと思うのですが、「古代の岩絵」よりは「文字」なんだろうな。踏切銘で今もって健在のことだし。

2019/09/18

中村遊郭の立地考察

 名古屋市中村区、かつての遊廓のあたりを色別標高図で俯瞰します。
名古屋市 旧中村遊郭周辺 色別標高図 1m未満から1mごと7色
 標高1m未満から1mごと7色段彩で作りました。
 加筆は、旧遊郭の界隈を赤いのベタ塗り、白ヌキが名古屋城、同がJR名古屋駅です。中村遊郭は1923(大正12)年、名古屋駅から真西へ約1.4㎞のところに設けられました(2015.2.27ブログ参照)。標高はおおむね1.6mです。

 なぜ、ここに遊郭ができたか。正確にいうと、大須から移転したか。移転の理由ではなく、この場所が選ばれた理由です。 
 「今昔マップon the web」で、移転前の地形図を見てみます。 

http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=35.173159&lng=136.865788&zoom=15&dataset=chukyo&age=1&screen=1&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2
 1920(大正9)年です。当時このあたりは名古屋市への合併前の近郊農村でした。愛知郡中村です。波線で□に囲われているところが遊廓の予定地なのでしょう。周囲は水田です。南側を電車の軌道が中村公園まで通じています。
 結論的にいうと、名古屋の中心部から近く、まとまって確保できる未開発の土地、しかも交通至便という条件がそろっていました。‘東高’の市街地では風致上問題があるし、そもそも近場にまとまった土地を確保できない。‘西低’の、しかも鉄路を境目とした‘駅裏’という立地は、異界性を醸したようにも想えます。白石遊郭における豊平川の向こう岸、橋を渡るという導入に通じる立地です。 

 ではなぜ、この一帯が開発されずに残っていたか。
 治水地形分類図を見ます。
治水地形分類図 名古屋市 旧中村遊郭周辺
 加筆は前掲色別標高図と同じく、遊郭の一帯を赤い■で塗りました。元図の色分けの凡例によると、このあたりの薄緑色は「低地」の「氾濫平野」です。また、ところどころのまだら状の黄色は同じく「低地」ですが「微高地(自然堤防)」です。遊廓は、微高地と微高地の間に位置しています。ひとくちに‘西低’といっても、微妙な高低差はあるようです。 

2019/09/17

大門 再訪

 昨日9月14日ブログに載せた名古屋一帯の標高図などを俯瞰すると、地元民にはわかりきった話ですが、‘東高西低’という地形が見えてきます。
 これで思い出したのが、ある銀行系シンクタンクの研究員のレポートです。前に電網上で読みました。名古屋市内の公立高校間において‘東西格差’があるという分析です。現在そのサイトが見つからないので正確な引用はできないのですが、地元名古屋大学の合格者数がおおまかに市東部の学校では多く、西部の学校では少ないことを根拠にしていました(末注①)。東西で明らかに差があるというのです。‘格差’の境目は、どうも熱田台地の縁(象の鼻筋)にあるらしい。物理的高低と心理的高低は相関するのか。
 筆者は、1970-80年代に実施されていた「学校群入試」(2018.5.23ブログ参照)が廃止されたことで、その傾向が一層強まっていると指摘する一方、このまま東高西低を放置するのではなく、格差是正の措置を講じるよう主張しています(末注②)。

 さて、先般の名古屋行では、私にとってなじみ深い‘西低’(あくまでも地形的に、です)の地域を逍遥しました。
名古屋 大門 アーチ
 中村区の「大門」(おおもん)です(2015.3.4ブログ参照)。

 かつての遊廓跡地に集合住宅が建っています。
中村遊郭跡 妓楼の遺構?
 大きな縁石は妓楼の遺構かしら。

 2015.2.27ブログに載せた1999(平成11)年撮影画像を再掲します。
旧稲本楼②
 元「稲本楼」。当時は料亭でした。
 前掲画像と較べると、旧稲本楼の右方に写る集合住宅が前掲の縁石の背後の建物ですね。つまり20年前の時点で、縁石の敷地に妓楼はすでになかったようです。

 このたび、旧稲本楼も姿を消していることを確認しました。
中村遊郭 稲本楼跡(左方)
 縁石のある集合住宅の左方に建っていたのですが、空き地になっています。
 
 1946(昭和21)年米軍撮影の空中写真で中村遊郭を俯瞰しました。
空中写真1946年米軍 中村遊郭 
 赤い□で囲ったところが稲本楼の位置です。縁石の集合住宅は東隣に当たります。ロの字平面からすると、やはり妓楼だったようです。それにしても、ものの見事にロの字平面ですね。魔界的気配が、上空にも立ち昇っています。
 周辺で白っぽく写っているところはどうも、建物跡地のように見えます。空襲の焼け跡か、疎開跡地か。

 注①:大ナゴヤ人元気会編『ニッポン不思議発見!名古屋の謎だぎゃあ』1992年、pp.48-50参照。私が地元にいた頃、愛知県では「名古屋大学至上主義」ともいうべき進学事情がはびこっていた。ブロック紙『中日新聞』は毎春、高校別の「名大合格者数」ベストテンを報じていたものだ。いま、「めいだい」と入力して変換したら「明大」と出たが、愛知県でメーダイといえば名大=名古屋大学である。おそらく現在もさほど変わらないだろう。
 注②:現在大学教授を務めている筆者のE氏は、学校群入試の体験者である。E氏が受験したのは東部の‘特上’校と西部の‘並’校を組み合わせた学校群で、合格先は後者(西部)の学校だった。卒業後名大法学部に進んだE氏は、自身の高校時代には満足しつつ、周囲には‘被害者’意識を苛む同級生がいたことを回想している。この心境は学校群入試を体験した者でないと実感できないかもしれない(本年6月10日ブログ参照)。くしくもというべきか私は、E氏と同じ学校群を受け、同じ学校を合格、卒業した‘先輩’に当たる。悪平等主義の権化ともいえるこの入試制度は結局廃止されたが、体験者にしてみると「オレたちは実験台だったのか」という怨みつらみは残る。ただし、同じ当事者だったE氏が制度を肯定的に総括し、地域格差の問題として改善策を前向きに指示しているのは傾聴に値する。

2019/09/16

名古屋 堀川に原河川はあったのか?

 9月14日ブログにコメントをいただきました。ありがとうございます。 
 >堀川は、名古屋台地の中腹部分にあり、人工的に作られた堀です。

 国土地理院サイトで「治水地形分類図」を見てみます。
治水地形分類図

 元図の色分け等の凡例は以下のとおりです。 
治水地形分類図 凡例
 これに以下、加筆しました。
 :名古屋城 :熱田神宮 :JR名古屋駅 :臨港線八島踏切
 :堀川

 象の鼻状に伸びている「段丘面」が熱田台地(名古屋台地)です。堀川はその西縁(象の鼻筋)の「段丘崖」を、名古屋城の北から南へ、熱田神宮の湊まで流れています。
 慶長十五年(一六一〇年)、徳川家康は諸大名に命じて名古屋城の建設に着手しました。清須にあった城を、名古屋台に移そうというのです。(中略) 
 堀川の開削は福島正則が責任者となり、築城と当時に始まりました。潮の干満を利用し、船で物資の運搬をしようという計画です。同時に都市排水の機能ももたせました。(名古屋市総務局『市制100周年記念誌 なごや100年』1989年、pp.186-188、末注)

 私は9月14日ブログで「堀川は人工的水路ですが」と記しつつ、末注に「地形的にみると、自然河川を改良した可能性もあろう」と付けました。これは、地形図を眺めての妄想の産物です。筆が滑りました。熱田台地の崖(象の鼻筋)は自然的小河川が削ったのではないかと想像の羽を伸ばしたのです。あるいは崖線湧水が流れていた。その原形に福島正則が手を加えて水路化した。ただし、それを裏付ける史料等にはまったく当たってません。 

 注:溝口常俊監修『名古屋地図さんぽ』2015年によると、徳川家康は「慶長14年正月、義直を伴って清須に来ると、各候補地を調査、那古野の地を決定した。(中略)築城はすぐ始まった」(p.12)。義直は家康の九男で、のちの名古屋城主にして尾張徳川家の藩祖。

2019/09/15

名古屋の碁盤割はなぜ、真北を向いていないか?

 昨日ブログで、名古屋城について「平時の平城」と記しました。平城ではあるのでしょうが、「平時」は正確ではなかったので訂正します。名古屋築城は慶長14(1609)年から慶長17、18(1612、1613)年にかけてでした(末注)。慶長19(1614)年の大坂冬の陣、元和元(1615)年の大坂夏の陣の前です。名古屋は対豊臣戦、西国をにらむいわば前線基地でした。平時は大坂が落城した「元和偃武」をもって到来したとみるべきです。名古屋城は「平時に至る平城」とします。名古屋の歴史への私の無知をさらけ出しました。

 もう一つ、無知を披露します。
 名古屋市の中心部の現在図です。
名古屋中心部 現在図 碁盤割 方位線 磁北線
 名古屋城を中心として、城下町の骨格が作られ、現在に生きています。骨格は、いわゆる「碁盤割」です。太平洋戦争の空襲で中心部は焼け野原となりますが、戦後の復興都市計画でも碁盤割はほぼ踏襲されます。

 そこで気になったのが、前掲図に見る碁盤割と方位線のずれです。碁盤割の主な道路を橙色、方位線(東西南北)を黄色、磁北線を赤の各実線でなぞりました(方位線と磁北線は国土地理院サイトに基づく)。このずれは、なんででしょうか? よく見ると(よく見なくても)、碁盤割の基軸になったであろう名古屋城の縄張り自体、正方位とずれています。お城が真南を向いていない。現在の磁北線よりは偏角が小さいようです。お城の縄張り当時(17世紀初頭)の磁北線はどうだったのでしょう。
 碁盤割が方位と合致していなければならぬというのは偏見かもしれないのですが、気になってしまいました。他の城下町や平城京や平安京、条里制の区画はどうなんでしょう。
 
 注:溝口常俊監修『名古屋地図さんぽ』2015年、p.12 

2019/09/14

名古屋臨港線 八島踏切

 名古屋の臨港線です。
名古屋 臨港線 八島踏切
 正確にはJR貨物の「名古屋港線」というらしい。貨物専用で、高校時代の同級生T君(9月9日ブログ参照)によると、車両が通過するのはめったに見られないそうです。背後には東海道新幹線が高架で通じています。

 踏切の名前は「八島踏切」です。
名古屋 臨港線 八島踏切 銘鈑拡大
 この「八島」という名前が、現在の町名には残っていません。現在の町名は、踏切の手前が名古屋市中川区尾頭橋(おとうばし)、向こう側が同区露橋です。

 八島踏切の場所を現在図で確認します。
色別標高図 名古屋市中川区 「八島」 標高1m未満から1mごと10色
 標高1m未満から1mごと10色段彩、陰影付きの色別標高図で表しました。 
 黄色のを付けたところです。参考までに、名古屋城の位置を白ヌキ□、熱田神宮を同〇、JR名古屋駅を同△で示しました。
 色別標高図にしたのはもちろん地形を見たかったからです。真ん中らへんに、熱田台地が舌状に、というか象の鼻のように北から南へ伸びています。熱田神宮は鼻の先っぽ、名古屋城が鼻梁の一番上です。枢要な施設の立地条件が窺われます。名古屋城の北側は低湿地だったことでしょう。名古屋市と“郡部”を分かつ庄内川が流れており、その氾濫原だったを想わせます。徳川家康が「清洲越し」で名古屋城を作った(作らせた)のは、平時の平城とはいえ、要害的地形を読み取ったのでありましょう。

 話を「八島」に戻します。T君とは「この辺は昔、たくさんの島(状地形)があったんだろうなあ」と語り合いながら歩きました。前掲標高図の青色の一帯すなわち標高1m未満は、元は海だったと思います。実際、熱田神宮には近世、東海道の「宮の渡し」すなわち伊勢の桑名への海路渡船場がありました。象の鼻の内側の入り江は、年魚市潟ですか。桜田へ鶴鳴きわたる年魚市潟 潮干にけらし鶴鳴きわたる。入り江のもっとも奥まったところに鶴舞公園があります。鶴舞も原風景に由来するのかしら。
 熱田台地の西縁、象の鼻梁に沿って堀川が流れます。堀川は人工的水路ですが、T君の話ではこの西方に幾筋もの小河川が流れていたとのことです(末注)。「八島」の古地名は、それらの川によるデルタ地形を伝えているのかもしれません。

 ちなみに、臨港線はこの踏切から南の港に向かって徐々に盛り土され、高架線になります。標高1m未満から海抜以下の一帯ですからね。60年前の伊勢湾台風では文字どおり海になりました。
中日新聞1959年10月1日特集記事 地図は悪夢を知っていた
 画像は中部日本新聞(現中日新聞)1959(昭和34)年10月1日特集記事です(国土地理院北海道地方測量部本年1月31日開催「第16回北海道測量技術講演会会場での展示パネルから)。浸水域がピンク色に塗られています。この記事は、伊勢湾台風の高潮で被害を受けた地域が、その3年前に作られた「水害地形分類図」による予想とほぼ重なっていたことを報じたものです。
 地名は標(しるべ)だとあらためて思います。

 注:「中川区」の中川も、中小河川の網流に由来するらしい。堀川は地形的にみると、自然河川を改良した可能性もあろう。

2019/09/13

クラーク博士 馬上別離の訓言 ‘this old man’は誰のことか

 9月5日ブログで、クラーク先生の島松駅逓での別れの言葉について記しました。有名な“Boys, be ambitious!”のあとに続けられた‘like this old man’の‘this old man’が誰か?です。私はクラーク自身だと思っていました。「旧島松駅逓所」のガイドさんは、そうではないといいます。
 では誰か。

 ガイドさんによると、それを教えてくれるのは下掲の絵です。 
道庁赤れんが 舎内の絵画「島松での別離」
 道庁赤れんが庁舎に掲げられている作品「島松での別離」(田中忠雄)。

 左方に描かれた馬上の人がクラーク先生とみられます。
道庁赤れんが 舎内の絵画「島松での別離」 クラーク先生
 先生が指さした先にいるのが、‘this old man’だというのです。

 指さした先には、誰がいるか。
道庁赤れんが 舎内の絵画「島松での別離」 クラーク先生 指さした先
 島松駅逓の主人、中山久蔵らしい。

 これまた著名な寒地稲作の功労者です。
道庁赤れんが 舎内の絵画「島松での別離」 中山久蔵?
 北海道米のこんにちがあるのは、この人のおかげに行き着きます。これもガイドさんの受け売りですが、「きらら397」というのは、中山久蔵が明治の初めに島松で成功させた「赤毛種」を397回、改良の重ねたものだそうです。

 その久蔵を指して、クラーク先生は「この老人のように、野心的であれ」と告げたという。
 「いや、だって…」と私は内心であらがいました。寒い北海道でコメづくりなどするなといって西洋式農業を推し進めたのがクラーク先生ではないか。その意に反して(?)しかし稲作を成功させてしまった人を持ち上げるか。

 念のため申し添えますが、このテーマはいわば言葉遊びに近い世界です。史実がどうであったかということは、正直言ってほとんど棚上げしています。突き詰めれば、クラーク先生がかの名言を本当に発したのかですら、疑わしいのですから。前掲の絵画にしても、想像の産物でしょう。あの場面は、たしか写真も残っていない(撮られてなかった?) ようです。という大前提のうえで、たとえば次のように遊んでもみましょう。構図的にみるならば、クラークは手前で見送る人たちのかなり背後に立つ中山久蔵を指して、近称の指示形容詞‘this’を使うだろうか、とか。あの距離で、しかもしゃべる相手との位置関係なら、遠称‘that’だろう、とか。

 いや、私が言いたいのはかような次元を超えたところにあります。

2019/09/11

名鉄百貨店で時空逍遥

 私にとってデパートといえば、「名鉄」です。
名鉄百貨店本館 北側
 名古屋市民なら「丸栄」とか「松坂屋」「オリエンタル中村」だと思いますが、市外の名鉄利用者は名鉄百貨店でしょう。おもちゃ売り場とか、お菓子売り場、書店、屋上遊園地、食堂、みんな名鉄です。いまは全階ほとんど婦人物売り場ですが、かつてはこの本館が子どものパラダイスでした。その建物も近い将来、再開発で一新されると風の噂に聞きます。
 
 2016年12月に老母を郷里から札幌に引き取って以来、このたびは約3年ぶりの名古屋です。今度またいつ来れるか、わかりません。見納めになるかもしれないので、名鉄デパートを郷愁してきました。   

 中2階に吹き抜けの回廊大空間があります。
名鉄百貨店本館 2階 元のお菓子売り場
 今は化粧品ですが、元のお菓子売り場です。真ん中に大きなターンテーブルがあって、ぎっしり詰められたキャンデーとか駄菓子がくるくる廻っていました。天井の円形の縁取りはその名残でしょうか。
 
 母が買い物している間、私は階段の踊り場のベンチに座って、おもちゃで遊んだり本を読んで待っていたものです。
名鉄百貨店本館 階段 
 木の手すりは、昔と変わっていないのではないだろうか。

 屋上はもちろん、遊園地でした。
名鉄百貨店本館 屋上
 いまは全面、ビアガーデンです。

 屋上社祠。 
名鉄百貨店本館 屋上社祠
 たぶん私が子どものころにもあったのでしょうが、このたび初めて気づきました。

 お稲荷さんですか。
名鉄百貨店 屋上 お稲荷さん
 商売繁盛。

 名古屋への行き帰りはパノラマカー、それも先頭車両に乗れたら言うことありませんでした。
名鉄パノラマカー 2004年
 祝祭的時空への導入として恰好の装置だったと思います。通称「赤い電車」の運転士になることが、男の子の夢でした。
 
 なお、上掲画像は後年(2004年)の撮影です。すでに「特急」の座を新型車両に明け渡し、「普通」(各駅停車)や「準急」で使われていました。後景に写るのが、たしか新型の「パノラマsuper」です。その新型も、もう引退していますね。

2019/09/10

名古屋と札幌は、カニ料理で結ばれている

 中学校の同窓会に出たのは四十ウン年来、初めてです。それに合わせて郷里に帰るということがこれまでなかなかできなかったのですが、このたびは満を持して馳せ参じました。
 高校時代の友人と母校界隈を散策した(昨日ブログ参照)ことといい、四十数年ぶりの同窓生との再会といい、どうも“自分探し”モード(本年5月13日ブログ参照)に入っています。

 中学校は一小学校のみの学区で、私たちの年の卒業生は84名でした。大半は小学校以来の顔見知りです。同窓会も学年全体会で、今回は22名が参加しました。卒業生の多くは県内または隣県在住です。鬼籍に入った人が5人。参加22名中、遠方は東京から1名と札幌の私の二人でした。男はやんちゃな悪童が多かったのですが、みんな、いい年を重ねている。
 女の子はたいがいまじめだったと記憶しています。といっても、私は中学、高校と、女子には口が聞けませんでした(小学校のころは、反動形成というやつのせいか、逆に意地悪く当たったりしていた)。体育祭のフォークダンス(マイムマイム、昭和だなあ)で初恋?のSさんの手を握ったときの心拍の高鳴りは今も思い出します。Sさんと親しげに話す同級生を妬んだものです。このたび、そのSさんにようやく‘想い’を伝えられました。吐露するのに要した歳月は、実に半世紀近い。ツーショットの写真にも収まってくれました。中学時代、この厚かましさが私にあったらなあ。写真は一生の(もう人生の第4コーナーではないか)宝物として秘蔵しておこう。

 同窓会の会場です。
札幌かに家 名古屋店
 蟹三昧料理は、これまで私は札幌でも一二度しかありません。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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