札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い
平岸の旧市街
昨日のブログで「白石中の島通り」のことを記したところ、エルフェンバインさんから「幌南病院は白石・中の島通りに面していないので、原形となる道は五差路の所までではないでしょうか」というコメントをいただきました。
さすがエルフェンバインさん、お目が高い。実はそのとおりなのです。昨日の航空写真でそこまで見抜く人はまずいまいとタカをくくっていた私が甘かった。
現在の地図で説明すると、以下のとおりです。

黄色の線でなぞったのが現在の白石中の島通りです。対するに、緑色の線が昨日載せた航空写真で示した、かつての通りです。これを「白石中の島通り」と呼ぶと誤解を招きますので、ここでは「かつての通り」としておきます。
いずれにせよ、幌平橋から東進して平岸街道に交差するかつての道は、現在の白石中の島通りの一本北側を通っていました。
その通りがこちらです。

画像右方、ほかならぬ旧平岸苹果共同撰果場(1月5日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-date-20160105.html 参照)が面しています。冒頭現在図でいうと、赤い●がその位置です。
現在の風景で見ると、奥まった仲通りに位置しているかに錯覚しますが、さにあらで、この通りは元々メインストリートだったのですね。
ここで、あらためて1948年米軍撮影の航空写真を見てみましょう。

黄色の矢印の先にご注目ください。共同撰果場とおぼしき建物が写っています。この写真を観ると撰果場が表通りに面していることが判ります。幌平橋から平岸街道に至る要衝で、生産農家のコミュニティ施設として適っていたと私は想像します。
現在の仲通りがかつての表通りだったことの裏付けも得てきました。
旧撰果場の向かいに1956(昭和31)年、軟石の住宅を建てたⅠさん(1月28日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-date-20160128.html 参照)に伺いました。
私「昔は、お宅の前の道が、幌平橋からの本通りでなかったですか?」
Ⅰさん「そうです。前はバスも通ってた。舗装されてなくて、ホコリが舞ってひどかったよ」
私「南側の、今の通り(白石中の島通り)ができたのはいつごろですか?」
Ⅰさん「あれは…。平岸街道の川(用水のこと)が埋められてからかな」
こうしてみると、この通りに平岸まちづくりセンター(旧連絡所)があるのも頷けます。
平岸街道を渡ってさらに東進すると、平岸交番、昭和な感じの喫茶店やら居酒屋、質屋、古書店などがあります。

「りんごの木」というパン屋さんも。ここはお店を始めて16年だそうです。
さすがエルフェンバインさん、お目が高い。実はそのとおりなのです。昨日の航空写真でそこまで見抜く人はまずいまいとタカをくくっていた私が甘かった。
現在の地図で説明すると、以下のとおりです。

黄色の線でなぞったのが現在の白石中の島通りです。対するに、緑色の線が昨日載せた航空写真で示した、かつての通りです。これを「白石中の島通り」と呼ぶと誤解を招きますので、ここでは「かつての通り」としておきます。
いずれにせよ、幌平橋から東進して平岸街道に交差するかつての道は、現在の白石中の島通りの一本北側を通っていました。
その通りがこちらです。

画像右方、ほかならぬ旧平岸苹果共同撰果場(1月5日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-date-20160105.html 参照)が面しています。冒頭現在図でいうと、赤い●がその位置です。
現在の風景で見ると、奥まった仲通りに位置しているかに錯覚しますが、さにあらで、この通りは元々メインストリートだったのですね。
ここで、あらためて1948年米軍撮影の航空写真を見てみましょう。

黄色の矢印の先にご注目ください。共同撰果場とおぼしき建物が写っています。この写真を観ると撰果場が表通りに面していることが判ります。幌平橋から平岸街道に至る要衝で、生産農家のコミュニティ施設として適っていたと私は想像します。
現在の仲通りがかつての表通りだったことの裏付けも得てきました。
旧撰果場の向かいに1956(昭和31)年、軟石の住宅を建てたⅠさん(1月28日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-date-20160128.html 参照)に伺いました。
私「昔は、お宅の前の道が、幌平橋からの本通りでなかったですか?」
Ⅰさん「そうです。前はバスも通ってた。舗装されてなくて、ホコリが舞ってひどかったよ」
私「南側の、今の通り(白石中の島通り)ができたのはいつごろですか?」
Ⅰさん「あれは…。平岸街道の川(用水のこと)が埋められてからかな」
こうしてみると、この通りに平岸まちづくりセンター(旧連絡所)があるのも頷けます。
平岸街道を渡ってさらに東進すると、平岸交番、昭和な感じの喫茶店やら居酒屋、質屋、古書店などがあります。

「りんごの木」というパン屋さんも。ここはお店を始めて16年だそうです。
2016.2.27追記
ぶらじょにさんから「昭和通り」という呼称を教えていただきました。
「とよひら ふるさと再発見1991年によると、この通りは幌平橋から平岸街道まで1929(昭和4)年に通じ、平岸街道から東裏方面まで1952(昭和27)年に延びた。「バス運行の主要道路となった」ともある。
ぶらじょにさんから「昭和通り」という呼称を教えていただきました。
「とよひら ふるさと再発見1991年によると、この通りは幌平橋から平岸街道まで1929(昭和4)年に通じ、平岸街道から東裏方面まで1952(昭和27)年に延びた。「バス運行の主要道路となった」ともある。
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Comment
Re: タイトルなし
ぶらじょに様
昭和通り・・・だったんですね。ありがとうございます。
「とよひら ふるさと再発見」1991年によると、幌平橋から平岸街道まで通じたのが1929(昭和4)年、平岸街道から東裏方面まで延びたのが1952(昭和27)年。「バス運行の主要道路となった」とありました。
私は初めて知りました。
皆さんのレベルが高く、感服です。
keysyonesapporo
昭和通り・・・だったんですね。ありがとうございます。
「とよひら ふるさと再発見」1991年によると、幌平橋から平岸街道まで通じたのが1929(昭和4)年、平岸街道から東裏方面まで延びたのが1952(昭和27)年。「バス運行の主要道路となった」とありました。
私は初めて知りました。
皆さんのレベルが高く、感服です。
keysyonesapporo
なるほどー
国道と旧国道が並走している所ありますが、そんな感じですね
裏取り御苦労様でした
白石中の島通りがwikipediaにあって、昭和通の記述ありました
現在のルートになった時期と、なぜこのルートになったかの記述はないですね
地下鉄との因果関係が気になる所です
国道と旧国道が並走している所ありますが、そんな感じですね
裏取り御苦労様でした
白石中の島通りがwikipediaにあって、昭和通の記述ありました
現在のルートになった時期と、なぜこのルートになったかの記述はないですね
地下鉄との因果関係が気になる所です
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碁盤の目に慣れ親しんだ標準札幌人にとって下手すると目的とする場所に出ることすら困難な東裏本通周辺を調べた時に、南側にあるミッテル道路と共にこれらが本来の東西の本連絡路で、環状通や白石中の島通りが後から出来たので斜めに見えるんだと思った記憶があります。
平成初期の頃まではボーリング場なんかもあって、かつてのメインストリートだったという雰囲気がかなり残ってましたね。