札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
下野幌の「まるやま」
この街区公園の名前を見たとき、「なんでかな?」と訝りました。

所在地は厚別区青葉町11丁目です。旧地名の「下野幌」を冠していることは措きます。解せなかったのは「まるやま」です。「元の地主さんの名前を採ったのかなあ」と想ったりもしました。
全景を俯瞰すると、こんな様子です。

近くにお住まいの町内会役員Oさんから「昔、ここに小さな山があった」とお聞きして、意外でした。現況は平坦な住宅地で、高低差は感じられません。
色別標高図で公園の所在地を示します(標高15m未満から5mごと40m以上まで7色段彩)。

赤い矢印を付けた先の小さな三角形です。周辺は野津幌川が谷を削っています。
ところが、地形図を遡ると「まるやま」がありました。

1953(昭和28)年発行2万5千分の1「月寒」からの抜粋です。現在の下野幌まるやま公園の位置は赤い矢印の先に当たります。たしかに、小高い地形です。野津幌川を水色でなぞりました。
西側には野津幌川が削った崖が迫っていますが、北と南は低地と見えます。北と南に付けられた記号は水田かと思ったらさにあらず、「乾田」です。
さらに古い地形図で一帯を俯瞰します。

1916(大正5)年測図1918(大正7)年発行「月寒」です。野津幌川沿いは「水田」が広がっています。開墾して均したこともありましょうが、全体としていわゆる谷底平野という地形でしょうか。赤い矢印を付けた「まるやま」は、川のほとりに近い。谷底平野の削り残しとも窺えます。
川の上流、橙色の○で囲ったところに神社の記号が付けられています。下野幌八幡神社です。郷土史の文献によると、この神社がもともと「まるやま」にありました。
創建は、明治二十四(一八九一)年ころといわれています。当時H宅(引用者注:原文は実名)(現在の北央病院南西の所)前の通釈(ママ)「円山」と呼ばれていた小高い山の上にありました。そのころ、この山に稲荷様も祀られていたそうです。(末注①)
「まるやま」は入植のころからの呼び慣わしだったようです。ミニ独立峰的な地形で、聖域視するのに適っていたのかもしれません。ではなぜ、ここに「まるやま」が削り残されたのでしょうか。地質的に少し硬めだったことは想像されます。その状況証拠とにらんだのは、すぐ南側に通じている道です。もう少し読み解いていきたいと思いますが、ひとまずここで留めます。
それにしても、街区公園の命名はあなどれません。ときに地域の歴史が込められています(末注②)。現地の看板にはそんな由来は記されていません。札幌市サイトの「公園検索システム」を見ると、命名の由来にふれているものもあります。それはそれでありがたいのですが、幸いなことにというべきか本件下野幌まるやま公園のページではそこまで言及してません。
↓
https://www2.wagmap.jp/sapporo_koen/detail?fid=845097-1
探り甲斐があります。
注①:『下野津幌郷土誌』1984年p.237。同書p.225掲載の古写真に添えられたキャプションでは「丸山」と表記されている。
注②:2020.9.19、2019.3.24、2017.1.28各ブログなどに関連事項記述

所在地は厚別区青葉町11丁目です。旧地名の「下野幌」を冠していることは措きます。解せなかったのは「まるやま」です。「元の地主さんの名前を採ったのかなあ」と想ったりもしました。
全景を俯瞰すると、こんな様子です。

近くにお住まいの町内会役員Oさんから「昔、ここに小さな山があった」とお聞きして、意外でした。現況は平坦な住宅地で、高低差は感じられません。
色別標高図で公園の所在地を示します(標高15m未満から5mごと40m以上まで7色段彩)。

赤い矢印を付けた先の小さな三角形です。周辺は野津幌川が谷を削っています。
ところが、地形図を遡ると「まるやま」がありました。

1953(昭和28)年発行2万5千分の1「月寒」からの抜粋です。現在の下野幌まるやま公園の位置は赤い矢印の先に当たります。たしかに、小高い地形です。野津幌川を水色でなぞりました。
西側には野津幌川が削った崖が迫っていますが、北と南は低地と見えます。北と南に付けられた記号は水田かと思ったらさにあらず、「乾田」です。
さらに古い地形図で一帯を俯瞰します。

1916(大正5)年測図1918(大正7)年発行「月寒」です。野津幌川沿いは「水田」が広がっています。開墾して均したこともありましょうが、全体としていわゆる谷底平野という地形でしょうか。赤い矢印を付けた「まるやま」は、川のほとりに近い。谷底平野の削り残しとも窺えます。
川の上流、橙色の○で囲ったところに神社の記号が付けられています。下野幌八幡神社です。郷土史の文献によると、この神社がもともと「まるやま」にありました。
創建は、明治二十四(一八九一)年ころといわれています。当時H宅(引用者注:原文は実名)(現在の北央病院南西の所)前の通釈(ママ)「円山」と呼ばれていた小高い山の上にありました。そのころ、この山に稲荷様も祀られていたそうです。(末注①)
「まるやま」は入植のころからの呼び慣わしだったようです。ミニ独立峰的な地形で、聖域視するのに適っていたのかもしれません。ではなぜ、ここに「まるやま」が削り残されたのでしょうか。地質的に少し硬めだったことは想像されます。その状況証拠とにらんだのは、すぐ南側に通じている道です。もう少し読み解いていきたいと思いますが、ひとまずここで留めます。
それにしても、街区公園の命名はあなどれません。ときに地域の歴史が込められています(末注②)。現地の看板にはそんな由来は記されていません。札幌市サイトの「公園検索システム」を見ると、命名の由来にふれているものもあります。それはそれでありがたいのですが、幸いなことにというべきか本件下野幌まるやま公園のページではそこまで言及してません。
↓
https://www2.wagmap.jp/sapporo_koen/detail?fid=845097-1
探り甲斐があります。
注①:『下野津幌郷土誌』1984年p.237。同書p.225掲載の古写真に添えられたキャプションでは「丸山」と表記されている。
注②:2020.9.19、2019.3.24、2017.1.28各ブログなどに関連事項記述
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