札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い
小泉川の源流考
本年3月23日ブログで、「南区から豊平区にかけてかつて流れていた『小泉川』は、郷土史の本などでは札幌新陽高校のあたりにミナモトがあったとされているが、もっと奥から流れていたのではないか?」という話題に少し触れました。同日ブログでは脇道に逸れたのですが、あらためて小泉川の源流に想いを馳せてみます。
札幌市地質図(末注)です。

小泉川を水色の実線、札幌新陽高校の位置に赤い●を付けました。参考までに、濃い青の実線でなぞったのは精進川、薄い青は真駒内川です。原図の凡例によると、扇状地堆積物(礫、砂)が小さい○を付けた黄土色の地(F)、支笏火山噴出物(軽石流堆積物)がピンク色の地(Sp)で示されています。
小泉川は札幌扇状地平岸面のほぼ東端を流れていたようです。地質図に照らすと、やはり古豊平川の名残(10月1日ブログ参照)だったかと思えてなりません。
平岸面の扇頂は現在の南区真駒内南町、石山陸橋の下あたりです。つまり古豊平川は、真駒内柏丘(真駒内川左岸のピンク色のSp=支笏火山噴出物)を削り残しつつ、真駒内から平岸にかけて平らげています。そこに真駒内川や精進川が注いでいたようです。
色別標高図で地形を俯瞰します。

標高60m未満から10mごと10色段彩で作りました。赤い●が札幌新陽高校、白ヌキ○が石山陸橋(平岸面の扇頂)の位置です。札幌新陽高校(いわゆる木挽山の北斜面)は、支笏火山噴出物が堆積した月寒台地の西端と見ることができます。
時空を巨視的にみて、古豊平川を小泉川が跡づけたとすると、上流は現在の真駒内の市街地といえましょう。ただし、古豊平川が平岸面を作ったのは1万年よりも前とされます(2017.10.10ブログ参照)。有史以降は水はけの良い砂礫地になりました。
では、冒頭に記した小泉川の源流はどう遡れるか。砂礫地に注いだ精進川がある時期、小泉川とつながっていた可能性は否定しきれません。木挽山の西山麓から札幌新陽高校にかけて伏流水が通じていたとも想えます。明治期になって人びとに認知されたころの小泉川は、山麓(崖線)の湧水を水源としていたことでしょう。
札幌市地質図(末注)です。

小泉川を水色の実線、札幌新陽高校の位置に赤い●を付けました。参考までに、濃い青の実線でなぞったのは精進川、薄い青は真駒内川です。原図の凡例によると、扇状地堆積物(礫、砂)が小さい○を付けた黄土色の地(F)、支笏火山噴出物(軽石流堆積物)がピンク色の地(Sp)で示されています。
小泉川は札幌扇状地平岸面のほぼ東端を流れていたようです。地質図に照らすと、やはり古豊平川の名残(10月1日ブログ参照)だったかと思えてなりません。
平岸面の扇頂は現在の南区真駒内南町、石山陸橋の下あたりです。つまり古豊平川は、真駒内柏丘(真駒内川左岸のピンク色のSp=支笏火山噴出物)を削り残しつつ、真駒内から平岸にかけて平らげています。そこに真駒内川や精進川が注いでいたようです。
色別標高図で地形を俯瞰します。

標高60m未満から10mごと10色段彩で作りました。赤い●が札幌新陽高校、白ヌキ○が石山陸橋(平岸面の扇頂)の位置です。札幌新陽高校(いわゆる木挽山の北斜面)は、支笏火山噴出物が堆積した月寒台地の西端と見ることができます。
時空を巨視的にみて、古豊平川を小泉川が跡づけたとすると、上流は現在の真駒内の市街地といえましょう。ただし、古豊平川が平岸面を作ったのは1万年よりも前とされます(2017.10.10ブログ参照)。有史以降は水はけの良い砂礫地になりました。
では、冒頭に記した小泉川の源流はどう遡れるか。砂礫地に注いだ精進川がある時期、小泉川とつながっていた可能性は否定しきれません。木挽山の西山麓から札幌新陽高校にかけて伏流水が通じていたとも想えます。明治期になって人びとに認知されたころの小泉川は、山麓(崖線)の湧水を水源としていたことでしょう。
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