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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/06/14

飛騨高山で時空逍遥 ⑬

 高山で私は、くねくね道を彷徨いました(6月3日ブログ参照)。
 大正、昭和期の古地図から見えてきたのは、くねくね道の多くが水路に由って来たることです(6月8日6月9日ブログ参照)。
 水路は明治以降、近代において製糸工場の動力として用いられました(6月11日ブログ参照)。
 さらに古絵図を遡って判ったのは、水路が近世(江戸時代)から流れていたことです(昨日ブログ参照)。

 6月8日ブログで私は、「この水路は何か?」と自問しました。昨日ブログに載せた古絵図には、水路の一つに「用水」と書かれています。また、製糸工場の多くは建てられたのが「用水路沿い」だったという記述を引用しました。
 土地利用に照らすと、少なくとも近世以降、水田稲作のための用水路であったことが窺えます。近代に入って、それを製糸工業(マニュファクチュアか)にも応用した(末注)。山国の飛騨では近世から蚕糸業が奨励されたといいます。生糸が重要な輸出産品となった近代以降はさらに加速されたことでしょう。土地(水田の埋立て)、動力(水力)、労働力と、生産手段確立の条件が三拍子そろっていたと思います。ついでにいえば、山林資源と木工技術の集積も工場建設には有利に働いたのではないか。

 飛騨、製糸工場というと映画「あゝ野麦峠」を思い出します。
映画「ああ野麦峠」半券 オモテ 1979 
 明治期、飛騨の寒村の娘が国境の野麦峠を越えて信州の製糸工場へ出稼ぎに行った話です。2016.1.18ブログで記したように、この映画の原作のルポルタージュは、一面的ないわゆる‘女工哀史’史観を糾しました。私はその意味で原作を画期的だと思ったものです。しかるにこのたび、女工を送り出した側の飛騨国で、さらに認識をあらためました。これも高山の達人Nさんのご教示によります。峠を越えて信州に労働力が流出した時期は限られていたというのです。前述のとおり、飛騨国内側でも生産体制が整っていきました。 
 「高山陣屋」の蚕糸業に関する展示でも、やはり次のように説明されています(太字)。
 山本茂美『あゝ野麦峠』が映画化されて興行的に成功を収めたことで、飛騨出身の出稼ぎ女工のイメージとして、野麦峠を越えて信州に出稼ぎに行き、過酷な環境のなかで労働を強いられた「女工哀史」像が定着している。(中略)
 大正時代を通じて岐阜県出身者の(引用者注:長野県諏訪郡の製糸工場が受け入れた女工・男工たちの出身地に対して)占める割合は低下し続け、昭和初期には3%を切るようになる。(中略) 
 このように見ると、“野麦峠を越えて信州に出稼ぎに行った飛騨の女工たち”といった「女工」像は、限定的な時期の姿であり、実際には飛騨出身女工の多様な出稼ぎの在り方があったことに留意せねばならない。
 
 映画化によって“女工哀史”史観がぶり返し、「定着」してしまったのでしょうか。繰り返しますが、“女工哀史”史観を糾したのが原作です。信州での飛騨出身労働者の比率というだけでなく、「多様な出稼ぎの在り方」の内実がどうであったか、が問題かとも思います。

 注:正確には、生産力のかような発展段階を後世において「近代」と跡づけているというべきか。
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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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