札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
安平町早来にあった軟石建物(補遺)
9月29日ブログで、安平町早来の被災軟石建物3棟について記しました。
そのうちの一棟、国道沿いでカフェとして再利用されていた建物について、現地を調べた北海道ヘリテージコーディネーターYさんの伝で「小樽の板谷商会ゆかりの建物だったとのことです」と記しました。ブログ掲載後、Yさんから要訂正の連絡をいただきました。「板谷商会」ではなく、「板谷商船」とのことです。ただし、そもそも板谷商船ゆかりとの情報についてはウラを取る必要があるとのご指摘も受けました。そこで、同日ブログでこの一文をいったん削除したのですが、併せて文献を漁って判ったことがありますので、以下綴ります。
『早来町史』1973年に、次の図版が掲載されています(p.299)。

このたびの大地震で倒壊し、解体された建物の写真です。「石造をもって新築された勇払電灯株式会社昭和6年1月撮影」というキャプションが添えられています。
本文には次のように書かれています(pp.297-298、引用太字)。
大正七年一月、早来および苫小牧、厚真の有志らが発起人となり、電灯会社設立の話を進めていたが、曾我部文三を発起人総代として、電灯会社設立許可申請をなし、同年六月に設立許可を得た。翌八年七月十三日資本金十万円をもって“勇払電灯株式会社”(社長板谷順助)を創立し、本店を早来において、(中略) この年はじめて早来の市街地にも電灯がつけられ、これまでの不自由なランプ生活は解消されて明るい町となった。
『北海道大百科辞典』1981年によると、板谷順助は1877(明治10)年新潟県に生まれ、北海道の実業界で活躍、のちに衆議院議員、貴族院(参議院)議員を歴任、政治家としても要職を務めました。1949(昭和24)年死去。
一方、「板谷商船」といえば板谷宮吉です。同書によると、板谷宮吉は1857(安政4)年やはり新潟県に生まれ、海運業で財をなしました。1924(大正13)年死去。
板谷順助は板谷宮吉の板谷商船と関係があるのか。
本日、小樽に行ったついでに小樽市総合博物館運河館に寄ったら、既知の学芸員Sさんがいて、この話を相談しました。すると幸いなことに、昭和初期の小樽の著名人士に関する史料を見せていただきました。その結果、順助と宮吉の関係が判ったのです。
結論的にいうと、板谷順助は板谷宮吉の兄の養子でした。つまり養子縁組による叔父甥の関係です。坂牛祐直『小樽の人名と名勝』1931年に、順助の業績が次のように書かれています(pp.54-55、引用太字)。
義理の伯父(ママ)先代宮吉翁等の遺業たる板谷合名の同族会社を盛り立てて其後之れを拡大したのが現在の板谷商船株式会社である。海運業は勿論海産農産物の取引、倉庫業を首め土地の売買をも為す会社が広汎な営業種目を掲げて事業界に雄飛する一方順助君の手に因りて企業開始された勇払電燈、沙流電気、洞爺湖電鉄、渡島海岸鉄道等の諸会社が皆な優秀な成績を挙げてゐるのは全く君の手腕に因るもので、現にそれ等諸会社の社長を兼ね樺太銀行や南洋郵船などにも関係をして小樽商工会議所顧問にも推されている。一体道南地方胆振、日高の方面は進歩は兎角世人から閑却され勝ちであったのを遺憾とし、同地方の開発に着眼をした見識はさすがは太ツ腹な政治家の順助君である
結果的には「小樽の板谷商船ゆかりの建物」は間違いではなかったといえましょう。
私が本件建物が小樽ゆかりだったことに引っかかったのは、建物の細部ゆえです。1階のアーチ型開口部。石造だからアーチを組むのは自然としても、小樽の石造建築の系譜を見た思いです。基礎部分に登別中硬石、その上に軟石を積む。旧日本郵船小樽支店も同じような使い分けをしていますね(2015.9.18ブログ参照、末注①)。
なお、本件建物は前掲『早来町史』の記述からすると、1919(大正8)年乃至昭和初期の建築と思われます。9月20日ブログで私は、安平町の指定文化財に「石倉」2棟がある旨記したのですが、Yさんからは本件建物も指定文化財であるとご指摘を受けました。
確かに、道教委サイトの「北海道の文化財」のページ中「市町村指定等文化財一覧」で「有形文化財/建造物」として「勇払電灯株式会社の跡」が挙げられています。
私は「の跡」という表記が気になったのですが、前提として「建造物」という種別に含まれているということは本件建物も文化財だったとみるべきでしょう。つまり、早来の市街地の軟石建物3棟はいずれも文化財(だった)ということになります(末注②)。
注①:札幌郵便局(現存せず)も登別中硬石と軟石の使い分けをしていた(2015.3.21ブログ参照)。
注②:前掲『早来町史』には「文化財」という項目がないので、同書からは確認できなかった。
そのうちの一棟、国道沿いでカフェとして再利用されていた建物について、現地を調べた北海道ヘリテージコーディネーターYさんの伝で「小樽の板谷商会ゆかりの建物だったとのことです」と記しました。ブログ掲載後、Yさんから要訂正の連絡をいただきました。「板谷商会」ではなく、「板谷商船」とのことです。ただし、そもそも板谷商船ゆかりとの情報についてはウラを取る必要があるとのご指摘も受けました。そこで、同日ブログでこの一文をいったん削除したのですが、併せて文献を漁って判ったことがありますので、以下綴ります。
『早来町史』1973年に、次の図版が掲載されています(p.299)。

このたびの大地震で倒壊し、解体された建物の写真です。「石造をもって新築された勇払電灯株式会社昭和6年1月撮影」というキャプションが添えられています。
本文には次のように書かれています(pp.297-298、引用太字)。
大正七年一月、早来および苫小牧、厚真の有志らが発起人となり、電灯会社設立の話を進めていたが、曾我部文三を発起人総代として、電灯会社設立許可申請をなし、同年六月に設立許可を得た。翌八年七月十三日資本金十万円をもって“勇払電灯株式会社”(社長板谷順助)を創立し、本店を早来において、(中略) この年はじめて早来の市街地にも電灯がつけられ、これまでの不自由なランプ生活は解消されて明るい町となった。
『北海道大百科辞典』1981年によると、板谷順助は1877(明治10)年新潟県に生まれ、北海道の実業界で活躍、のちに衆議院議員、貴族院(参議院)議員を歴任、政治家としても要職を務めました。1949(昭和24)年死去。
一方、「板谷商船」といえば板谷宮吉です。同書によると、板谷宮吉は1857(安政4)年やはり新潟県に生まれ、海運業で財をなしました。1924(大正13)年死去。
板谷順助は板谷宮吉の板谷商船と関係があるのか。
本日、小樽に行ったついでに小樽市総合博物館運河館に寄ったら、既知の学芸員Sさんがいて、この話を相談しました。すると幸いなことに、昭和初期の小樽の著名人士に関する史料を見せていただきました。その結果、順助と宮吉の関係が判ったのです。
結論的にいうと、板谷順助は板谷宮吉の兄の養子でした。つまり養子縁組による叔父甥の関係です。坂牛祐直『小樽の人名と名勝』1931年に、順助の業績が次のように書かれています(pp.54-55、引用太字)。
義理の伯父(ママ)先代宮吉翁等の遺業たる板谷合名の同族会社を盛り立てて其後之れを拡大したのが現在の板谷商船株式会社である。海運業は勿論海産農産物の取引、倉庫業を首め土地の売買をも為す会社が広汎な営業種目を掲げて事業界に雄飛する一方順助君の手に因りて企業開始された勇払電燈、沙流電気、洞爺湖電鉄、渡島海岸鉄道等の諸会社が皆な優秀な成績を挙げてゐるのは全く君の手腕に因るもので、現にそれ等諸会社の社長を兼ね樺太銀行や南洋郵船などにも関係をして小樽商工会議所顧問にも推されている。一体道南地方胆振、日高の方面は進歩は兎角世人から閑却され勝ちであったのを遺憾とし、同地方の開発に着眼をした見識はさすがは太ツ腹な政治家の順助君である
結果的には「小樽の板谷商船ゆかりの建物」は間違いではなかったといえましょう。
私が本件建物が小樽ゆかりだったことに引っかかったのは、建物の細部ゆえです。1階のアーチ型開口部。石造だからアーチを組むのは自然としても、小樽の石造建築の系譜を見た思いです。基礎部分に登別中硬石、その上に軟石を積む。旧日本郵船小樽支店も同じような使い分けをしていますね(2015.9.18ブログ参照、末注①)。
なお、本件建物は前掲『早来町史』の記述からすると、1919(大正8)年乃至昭和初期の建築と思われます。9月20日ブログで私は、安平町の指定文化財に「石倉」2棟がある旨記したのですが、Yさんからは本件建物も指定文化財であるとご指摘を受けました。
確かに、道教委サイトの「北海道の文化財」のページ中「市町村指定等文化財一覧」で「有形文化財/建造物」として「勇払電灯株式会社の跡」が挙げられています。
私は「の跡」という表記が気になったのですが、前提として「建造物」という種別に含まれているということは本件建物も文化財だったとみるべきでしょう。つまり、早来の市街地の軟石建物3棟はいずれも文化財(だった)ということになります(末注②)。
注①:札幌郵便局(現存せず)も登別中硬石と軟石の使い分けをしていた(2015.3.21ブログ参照)。
注②:前掲『早来町史』には「文化財」という項目がないので、同書からは確認できなかった。
スポンサーサイト
Comment
コメントの投稿
Track Back

Copyright © 札幌時空逍遥. all rights reserved.
Template by はじめてのブログデザイン
はじめてのブログ選び