札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/22

永山武四郎邸で、故人を偲ぶ

 旧永山武四郎邸の南面を眺めました。
旧永山武四郎邸 南面 180622
 向かって左側の縦長窓が洋風応接間、右側の引き戸は和風の座敷です。縁側をはさんで障子窓が入っています(うしろのペパーミントグリーンの洋館は昭和戦前期築の旧三菱鉱業寮)。

 旧永山邸の意義、特徴については下記サイトをご参照ください。
 ↓
 http://kai-hokkaido.com/feature_vol39_takeshirohome_01/

 永山は明治10年代、この邸宅の土地(975坪)を35円70銭で取得したとみられます。当時、彼の月給は100円でした(末注①)。月給の3分の1。「それにしても、この九七五坪を三十五円七十銭とは安い“買いもの”であった。(中略)中心市街部一〇○坪当たり単価は二五円ないし八五円であるのに比べ、ここは三円六六銭二厘である。一、○○○坪程度の敷地を考えていた武四郎としては、当時、かなりの高給であったにしても、中心部よりまだ人手の加わらないこの地の方がはるかに入手しやすかったのであろう」(末注②)。

 「北海道札幌市街之圖」明治11年です。
北海道札幌市街之圖 明治11年 永山邸
 赤い□で囲ったところが永山の邸宅の位置です。当時の札幌本府の“はずれ”でした。そういえば、彼の生誕地も鹿児島城下のはずれでした。
 しかし、彼の勤め先(屯田事務局、のちに第七師団司令部)は橙色ので示したところで、邸宅からは北3条通りをまっすぐの約500mです。職住接近ですね。

 邸宅建築に当たっては、開拓使の営繕課が大きく関与したとみられています。開拓使における当時の彼の地位「少書記官」は、職員千百人余のうち、上から十番目ちょっとです。1881(明治14)年「大書記官」に至って、ナンバー2です(末注③)。

 こちらは、明治20年代後半に建てられた「旧納内屯田兵屋」です(北海道開拓の村で移築保存)。
旧納内屯田兵屋 北海道開拓の村
 永山が制度を整えた屯田兵の住まいでした。 
 家の作りは異なりますが、昨日ブログに載せた鹿児島の下級武士の家屋を、私はなぜか彷彿とさせました。

 1904(明治37)年、永山は東京で死の床に伏しました。屯田兵の諸君に内地に帰ってはならぬと命じたので、自分は東京で死ぬわけにはいかないと言い遺したといいます(末注④)。初期屯田兵の多くは、永山が戊辰戦争で官軍として戦ったときの、敵方の敗残兵でした。
  
 注①:「北海道開拓功労者関係資料集録(下)」1972年、p.30によると、1877(明治10)年当時、永山は開拓使の「少書記官」。『よみがえった「旧永山邸」』1990年p.42によると、少書記官の月俸は100円。
 注②:『よみがえった「旧永山邸」』p.85
 注③:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.27参照
 注④:「永山武四郎長官について語る―永山武美氏を囲む座談会」1960年(道立文書館蔵)。永山武美氏は武四郎の三男。
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