札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。
ラウネナイ
八紘学園を流れるラウネナイ川です。

山田秀三先生の『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1983年(著作集第四巻収録)に、「月寒のラウネナイ」について次のように書かれています(pp.131-132、引用太字)。
ラウネナイは道内に随分多い名で、従来「深川」と訳されて来たが、川の水が深いと云う意味ではないらしい。机上で話しあう時には、極く普通な地名なのであるが、実際の理解が難しい地名であった。この月寒のラウネナイでも、通り過ぎるたびに何度も見て来たのだが、平地を流れる平凡な溝川に過ぎない。別に川岸が高い訳でもない。どこがラウネなのだろうか。(中略)
結論としては、低い処を流れて居る川と理解すべきであるようだ。月寒の場合は、平坦な向ヶ丘台地と、東月寒台地との間を長いこの沢が割っている。台地から見れば低い処にある、その沢底を流れているのがこのラウネナイなのである。
冒頭画像で載せたように、ラウネナイは現在、コンクリート三面張りで直線化されています。この姿は、山田先生が見た当時以上に「平地を流れる平凡な溝川に過ぎない」といえます。
しかし、昨日ブログに載せた画像の切り立った擁壁を見ると、先生に異を唱えるのは恐れ多くも、あながち「平凡な溝川」とも思えないのです。先生は「別に川岸が高い訳でもない」ともいうのですが、擁壁の上を川岸と見るならば、むしろかなり高い。これは、ある意味「深川」といってよいのではないか。
ラウネナイの下流です。

東北通りの「東月寒橋」から南を望みました(2015年9月撮影)。橋の少し上流(画像上では、奥の方)で月寒川と合流し、橋上では月寒川です。奥に見えるベージュ色の集合住宅の手前で、右方から月寒川がラウネナイに、というより、左方からラウネナイが月寒川に注いでいます。
その集合住宅のあたりは、やはりコンクリート擁壁が高く組まれています。

街中にしては結構「川岸が高い」と、私には思えてなりません。「深い(谷を削る)川」に見えるのです。
山田先生は前掲書の別項でラウネナイの考察を重ねています(p.141、引用太字)。
ラウネは、ラ(低い処)、ラム(低い)、ラウン(下の)等と同系の語で、「高い」に対する、「低い」を意味する言葉であったようだ。「深い」と訳するから判り悪(にく)くなったらしい。したがって、ラウネ・ナイは「低くある・川→低い処を流れて居る川」と解すべきではなかろうか。
こう読めば、何も水の流れている川岸が深く(高く)なくたって不思議ではない。
実は私は、山田先生の記述を前述のとおり「著作集第4巻」1983年の再録版から引用しました。1965年初版からではありません。以前に初版を引用した際、拙ブログ読者のかたから「再版で記述が訂正されている」旨ご指摘をいただいたことがあったのです。以来私は、努めて著作集再録版1983年を見るようにして、このたびもそうしました。ただ、前述引用の先生の見解がどうにも腑に落ちなく、念のため初版をひもとき直し、再録版との間に記述の変更訂正がないか、読み比べてみました。
すると。
初版本のほうの余白に、「訂正」!の小片が貼り付けてあったのです。次の通りです(p.151、引用太字、末注)。
ラウネは「深い」、ラウネナイは「深く落ち込んだ沢、其処を流れる川」とすなおに訳すべきでした。-山田
非常にスッキリしました。この「訂正」は、私が現地を見て抱いたラウネナイの印象と一致します。
教訓。いくら大家の著述でも、釈然としないところは自分の素朴な実感を無下にしないほうがよい。と同時に、先生が原点に立ち返って率直に訂正されているところに、あらためて奥深さを感じます。
注:私が持っている1965年初版本にこの「訂正」が貼り紙されている経緯はよく判らない。私は同書をネット通販で古書として購入したので、もしかしたら元の読者があとから貼った可能性もある。しかし、いずれにせよ1983年再録版にはこの訂正は反映されていない。訂正の小片自体の信憑性に疑問の余地もあるが、しかし中味は大いに得心がいく。

山田秀三先生の『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1983年(著作集第四巻収録)に、「月寒のラウネナイ」について次のように書かれています(pp.131-132、引用太字)。
ラウネナイは道内に随分多い名で、従来「深川」と訳されて来たが、川の水が深いと云う意味ではないらしい。机上で話しあう時には、極く普通な地名なのであるが、実際の理解が難しい地名であった。この月寒のラウネナイでも、通り過ぎるたびに何度も見て来たのだが、平地を流れる平凡な溝川に過ぎない。別に川岸が高い訳でもない。どこがラウネなのだろうか。(中略)
結論としては、低い処を流れて居る川と理解すべきであるようだ。月寒の場合は、平坦な向ヶ丘台地と、東月寒台地との間を長いこの沢が割っている。台地から見れば低い処にある、その沢底を流れているのがこのラウネナイなのである。
冒頭画像で載せたように、ラウネナイは現在、コンクリート三面張りで直線化されています。この姿は、山田先生が見た当時以上に「平地を流れる平凡な溝川に過ぎない」といえます。
しかし、昨日ブログに載せた画像の切り立った擁壁を見ると、先生に異を唱えるのは恐れ多くも、あながち「平凡な溝川」とも思えないのです。先生は「別に川岸が高い訳でもない」ともいうのですが、擁壁の上を川岸と見るならば、むしろかなり高い。これは、ある意味「深川」といってよいのではないか。
ラウネナイの下流です。

東北通りの「東月寒橋」から南を望みました(2015年9月撮影)。橋の少し上流(画像上では、奥の方)で月寒川と合流し、橋上では月寒川です。奥に見えるベージュ色の集合住宅の手前で、右方から月寒川がラウネナイに、というより、左方からラウネナイが月寒川に注いでいます。
その集合住宅のあたりは、やはりコンクリート擁壁が高く組まれています。

街中にしては結構「川岸が高い」と、私には思えてなりません。「深い(谷を削る)川」に見えるのです。
山田先生は前掲書の別項でラウネナイの考察を重ねています(p.141、引用太字)。
ラウネは、ラ(低い処)、ラム(低い)、ラウン(下の)等と同系の語で、「高い」に対する、「低い」を意味する言葉であったようだ。「深い」と訳するから判り悪(にく)くなったらしい。したがって、ラウネ・ナイは「低くある・川→低い処を流れて居る川」と解すべきではなかろうか。
こう読めば、何も水の流れている川岸が深く(高く)なくたって不思議ではない。
実は私は、山田先生の記述を前述のとおり「著作集第4巻」1983年の再録版から引用しました。1965年初版からではありません。以前に初版を引用した際、拙ブログ読者のかたから「再版で記述が訂正されている」旨ご指摘をいただいたことがあったのです。以来私は、努めて著作集再録版1983年を見るようにして、このたびもそうしました。ただ、前述引用の先生の見解がどうにも腑に落ちなく、念のため初版をひもとき直し、再録版との間に記述の変更訂正がないか、読み比べてみました。
すると。
初版本のほうの余白に、「訂正」!の小片が貼り付けてあったのです。次の通りです(p.151、引用太字、末注)。
ラウネは「深い」、ラウネナイは「深く落ち込んだ沢、其処を流れる川」とすなおに訳すべきでした。-山田
非常にスッキリしました。この「訂正」は、私が現地を見て抱いたラウネナイの印象と一致します。
教訓。いくら大家の著述でも、釈然としないところは自分の素朴な実感を無下にしないほうがよい。と同時に、先生が原点に立ち返って率直に訂正されているところに、あらためて奥深さを感じます。
注:私が持っている1965年初版本にこの「訂正」が貼り紙されている経緯はよく判らない。私は同書をネット通販で古書として購入したので、もしかしたら元の読者があとから貼った可能性もある。しかし、いずれにせよ1983年再録版にはこの訂正は反映されていない。訂正の小片自体の信憑性に疑問の余地もあるが、しかし中味は大いに得心がいく。
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Comment
Re: ラウネナイ
ぶらじょに様
ありがとうございます。
> むかーしラウネナイが月寒川に合流するインレットのところで土器やらなんやらが出て近所では結構なイベント的な騒ぎになったらしく、私の親戚が見物に行ったそうです。
そうですか。そんな盛り上がりがあったとは知りませんでした。
> 縄文、続縄文、擦文、アイヌ…いつの時代のものなのかわかりませんが。
札幌市の埋蔵文化財センターの分布図によると、ラウネナイから月寒川にかけては、旧石器から縄文、続縄文、擦文の石器や土器が発掘されているようですね。北海道の人が住み始めたころからの先住地だと知りました。縄文海進で札幌の北半分がラグーン?だった頃は、狩猟採集とくらしに向いていたのかもしれませんね。
> 考えてみればあそこは北側(南郷通側)も高くなっていて東以外の3方から見てもかなりの谷底なんですよね。
> やはりラウネナイの語源はあのインレット部付近にあるのでしょうか?
やはりあやめの中学校あたりの地形かなと妄想しています。近辺では擦文も発掘されているようなので、その後のアイヌ文化においても活動の舞台になったのではと。これも素人の妄想ですが。
keystonesapporo
ありがとうございます。
> むかーしラウネナイが月寒川に合流するインレットのところで土器やらなんやらが出て近所では結構なイベント的な騒ぎになったらしく、私の親戚が見物に行ったそうです。
そうですか。そんな盛り上がりがあったとは知りませんでした。
> 縄文、続縄文、擦文、アイヌ…いつの時代のものなのかわかりませんが。
札幌市の埋蔵文化財センターの分布図によると、ラウネナイから月寒川にかけては、旧石器から縄文、続縄文、擦文の石器や土器が発掘されているようですね。北海道の人が住み始めたころからの先住地だと知りました。縄文海進で札幌の北半分がラグーン?だった頃は、狩猟採集とくらしに向いていたのかもしれませんね。
> 考えてみればあそこは北側(南郷通側)も高くなっていて東以外の3方から見てもかなりの谷底なんですよね。
> やはりラウネナイの語源はあのインレット部付近にあるのでしょうか?
やはりあやめの中学校あたりの地形かなと妄想しています。近辺では擦文も発掘されているようなので、その後のアイヌ文化においても活動の舞台になったのではと。これも素人の妄想ですが。
keystonesapporo
ほほぉ、まさか旧石器からとは。全然予想してませんでした。
かなり暮らし、もしくは活動の場として適してたんでしょうかね。
それと、昨日書いてから気づいたんですけど東側から見ても谷底なんですよね。16丁目あたりが高いのを完全に忘れておりました。
四方を高地に囲まれてればこれはもうやはり語源の地と見て…と自分の中で勝手に思い込んでおきます。
かなり暮らし、もしくは活動の場として適してたんでしょうかね。
それと、昨日書いてから気づいたんですけど東側から見ても谷底なんですよね。16丁目あたりが高いのを完全に忘れておりました。
四方を高地に囲まれてればこれはもうやはり語源の地と見て…と自分の中で勝手に思い込んでおきます。
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縄文、続縄文、擦文、アイヌ…いつの時代のものなのかわかりませんが。
考えてみればあそこは北側(南郷通側)も高くなっていて東以外の3方から見てもかなりの谷底なんですよね。
やはりラウネナイの語源はあのインレット部付近にあるのでしょうか?