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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/11/28

恵庭の周堤墓の石柱(承前)

 昨日ブログの続きです。
 恵庭市郷土資料館に、市内の縄文遺跡(柏木B遺跡の周堤墓)で見つかった石柱が展示されています(横たわっている石)。
恵庭市郷土資料館 縄文遺跡 石柱-2
 人の背丈を越えるほどの長さ(高さ)です。
 恵庭の縄文遺跡というと、漆塗りの装身具が知られています。その芸術性や華やかに比べると、墓標とされたであろう本件石柱は地味ですが、私は惹かれてしまいました。

 石柱が立っていたという周堤墓(柏木B遺跡)の位置を地質図で俯瞰します。
産総研シームレス地質図 恵庭柏木B遺跡
 を付けた先が柏木B遺跡です(元図は国土地理院サイトから産総研シームレス地質図)。茂漁(もいざり)川という川の左岸に当たります。河岸段丘の上だそうです。茂漁川は北東へ流れ、JRの線路を越えたあたりで漁川に合流します。茂漁川を水色の細い線、漁川を同じく太い線で加筆しました。

 昨日ブログに記したとおり、本件石柱は「安山岩製」で、漁川上流の柱状節理とのことです。しかし地質図によれば、漁川の上流域は一面ピンク色で塗られています。これは支笏火砕流の堆積地です(11月20日同月21日ブログ参照)。
 火砕流堆積地でも安山岩が見つかることがあるのだろうか。古い地層が、火砕流の堆積物に埋もれずに出ていたのだろうか。漁川が谷を削って柱状節理が露頭したのだろうか(末注①)。地質図をみると、北西方面の島松山の一帯が橙色で塗られています。凡例によるとここは新生代新第三紀中新世〜鮮新世(末注②)の安山岩などです。
 私は、縄文時代の遺跡に立てられた墓標とおぼしき石柱を千歳市で見たばかりでした(11月19日ブログ参照)。キウス周堤墓の溶結凝灰岩製です。支笏湖の北から東、南にかけて火砕流堆積物が広がっていますが、キウスはそのはずれに位置し、凝灰岩の溶結層は近くには見当たらないらしい。そこで溶結凝灰岩の石柱が立てられたことも私は不思議に想いましたが、本件恵庭の安山岩製はこれまた不思議です。私は千歳の先入観で、本件も溶結凝灰岩ではないかと一瞬疑いました。しかしつぶさに鑑みると、安山岩またはデイサイトたる札幌硬石に似通っています(末注③)。札幌硬石にありがちな捕獲岩(石材業界では「みそ」という)が見られるのです。

 とまれ、この石柱が漁川の上流域の石だとして、どうやって現地まで運んだのでしょうか。恵庭市郷土資料館の学芸員にお訊きしたところ、漁川を舟で下り、茂漁川との合流地点でこんどは遡ったのではないか、とのことです。
 狩猟採集の縄文人のこととて、漁川の上流域を遡っていたのはなんら不思議ではありません。木をくりぬいた丸木舟を移動の手段としていたこともありうるでしょう。遺体を葬る場所に目印となるモノを、それも耐久性の高い素材で立てようとした気持ちもわかります。
 それにしても、です。石柱は冒頭画像にみられるとおり、とても重そうなモノです。川の上流から丸木舟に載せて下り、さらに支流を遡ってまでして運ぶのは、陸上に較べればまだしもとはいえ、大変な労力を要すると想います。労力を費やす精神性に、また心を打たれてしまいました。

 注①:しかし漁川上流の「漁川ダム」あたりでは、支笏火山噴出物の厚さが約135mに及ぶという(金秀俊ほか「支笏火山噴出物の上に建設された漁川ダム」北海道大学総合博物館ほか『わが街の文化遺産 札幌軟石』2011年、p.26)。
 注②:新生代新第三紀は2,303万年前から258.8万年前(在田一則ほか『地球惑星科学入門』2015年、見返し掲載の年表)。中新世の約1,500万年前に日本海ができ、約600万年前にアフリカで最初の人類(猿人)が生まれた。ちなみにシームレス地質図のピンク色は「新生代第四紀後期更新世中期」である。支笏火山噴火の4万年前のを指すのであろう。
 注③:安山岩またはデイサイト製の石材については、2015.10.9ブログほか参照
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2020/11/27

恵庭の周堤墓の石柱

 恵庭市郷土資料館に展示されている縄文遺跡の石柱です。
恵庭市郷土資料館 縄文遺跡 石柱
 キウス(千歳市)で見つかったもの(11月21日同月20日ブログ参照)と同様、やはり周堤墓に立てられていたそうです。

 そのミニチュア模型も展示されています。
恵庭市郷土資料館 縄文周堤墓 模型
 矢印を示した先に立っているのが石柱です。
 説明によると、周堤墓は縄文後期(約3,100年前)に造られました。場所は「柏木B遺跡」という遺跡です。

 石柱に添えられた説明には、この石は「安山岩」と書かれています。 
恵庭市郷土資料館 縄文遺跡 石柱の説明
 「盤尻の柱状節理を利用したものと考えられている」と。キウスは溶結凝灰岩でしたが、こちらは安山岩です。「石質」の「安山岩製」というところは、貼り紙されています。もとは別の岩石名が書かれていたのでしょうか。

 位置関係を現在図で確認します。
現在図 柏木B遺跡
 赤い矢印を付けた先が柏木B遺跡です。盤尻の地名が書かれているところをで囲みました。恵庭市郷土資料館は北東(右上方)の橙色のです。

 盤尻と書かれたところを漁川が流れています。盤尻はここから漁川の上流、漁岳に至る広い一帯の地名です。資料館の学芸員さんにお訊きすると、石柱の石はやはり漁川の上流らしいとのことですが、具体的な場所までは聞けませんでした。石柱が見つかった柏木B遺跡までは、赤いで囲った地名の地点からでも直線距離で約3㎞です。
 これはまた、どうやって運んだのか。

2020/11/24

あつべつ歴史散歩マップ

 制作に携わった標記マップができました。 
あつべつ歴史散歩マップ オモテ
あつべつ歴史散歩マップ ウラ
 鮮明な画像は下記札幌市厚別区サイト「あつべつ区民協議会」ページでご覧いただけます。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/atsubetsu/machi/soshiki/soshiki_event.html#map2020
 実物はA4判三つ折り両面刷です。厚別区役所や区内まちづくりセンター、サンピアザなどで配架されるそうですので、お近くの方はどうぞ紙版でもお受け取りください。

 この種のお散歩マップはこれまでもいろいろ出されていると思います。それで、“ありきたり”にならないように心がけて作りました。その分マニアックに傾いたので、多くの人に受け容れてもらえるわかりやすさとの兼ね合いは、いわば冒険だったといえます。実験的な試みを採り入れてくださった区役所担当の方に感謝します。

 どういうことに心がけて作ったか、明日(11月25日)、地域FMの厚別区広報番組「厚別ふれあい・ほっと・ステーション」でお伝えします。RADIOワンダーストレージFMドラマシティ(77.6MHz)、午前10時45分~11時です。

http://www.city.sapporo.jp/atsubetsu/joho/radio/index.html

 11月18日放送予定のところ延期された市道東4丁目線(中央区)のクランク直線化のニュース(11月17日ブログ参照)は、本日(24日)の午後6時台(STV「どさんこワイド179」)に放送されるようです。

2020/11/22

千歳市の地名考

 先日来ブログで綴っている“最古の札幌軟石”の所在地を現在図に示します。
色別標高図×陰影図 千歳市長都、キウス
 展示されている千歳市埋蔵文化財センターに黄色のを付け、もともと発見されたキウス周堤墓群を赤いで囲みました(元図は色別標高図の標高5m未満から5mごと30m以上まで7色段彩×陰影起伏図)。

 埋蔵文化財センターの最寄りの交通機関は、黒いで囲ったJR長都駅です。北北西へほぼ一直線で、距離は約4.5㎞あります。厳密にいうと市街地を循環バスが走っているのですが、そのバス停からでも3.6㎞です。しかも便数が1時間に1本くらいしかなく、乗りそびれました。
JR長都駅前
 氷雨にしとど濡れて4㎞を歩くのは辛いので、駅前にタクシーがいたら乗ろうと思ったのですが、見当たりません。電話で呼ぶまでは気が引けて、結局てくてく歩きました。

 そんな思いをしてまでも埋蔵文化財センターに足を運んだのは、「縄文遺跡群ボランティアガイド養成講座」の会場だったからです。講座に申し込んだとき、よもや最寄りの交通機関から4㎞以上も離れているとは思ってもみませんでした。まあこんなことでもなければ、長都という駅で降りることはたぶん死ぬまでの間に一度もなかったでしょう。

 駅周辺には比較的新しい住宅街ができています。
千歳市 長都 第二みどり台団地幹
 「みどり台団地」という名前らしく、町名も「みどり台」、電柱銘も「第二みどり台幹」です。

 駅に近いところでは「ひばりケ丘幹」という銘も確認しました。
千歳市長都 電柱「ひばりケ丘幹」
 画像で見ると野趣が感じられますが、この風景のほうが駅の近くです。かつての防風林が残っています。

 写真には撮らなかったのですが、実は駅周辺で多く見かけた電柱銘は「長都幹」です。長都駅の近くで町名も「長都駅前」なのでありきたりに思えて撮らず、「ひばりケ丘」のほうを珍重してしまいました。こちらは町名では見当たりません。地図を見ると、長都駅の南東方面に造成された団地の名前らしい。長都という由緒ある?地名を捨象した挙句のひばりが丘などという非本質的?な命名は、これまた悲憤慷慨すべきところかもしれません。しかしそれを言ったら、シコツを千歳と置き換えたことまで遡る必要があります。
 地名のことでいうと、キウス周堤墓群(国指定史跡)の所在地名は、「千歳市中央2777番地」です。「キウス」が町名(字名)になっているかと思っていたのですが、さにあらず。「中央」。これは意外を超えて、驚きました。 

 現在図で千歳市の市域とキウス周堤墓群の位置を確かめます。
現在図 千歳市市域 キウス周堤墓群
 赤い実線で囲み網掛けしたのが市域で、橙色のを付けたのがキウス周堤墓群、白い○がJR千歳駅です。

 千歳市の中央、とはいいがたい。支笏湖周辺を外したとしても、冒頭の色別標高図で明らかなとおり、千歳の中心市街地からはかなり離れています(JR千歳駅から直線距離で8.3㎞)。ここがなぜ、「中央」なのでしょうか。
 ひと昔ふた昔前の血気盛んな私なら、「せっかくキウスというアイヌ語由来の地名があるのに、よりにもよって『中央』とは何事か」と怒り心頭に発していたかもしれません。年をとったのとアドレナリンの分泌が減ったせいか、「なぜ『中央』なのだろう?」という疑問のほうが先に立つようになりました。縄文の由緒ある?聖地を「中央」とするのはまんざらでもないかなとか、そういえば「中央分水嶺」(2019.5.24ブログ参照)に近いなとか、冷静?に考えたりもします。

2020/11/21

“最古の札幌軟石”は、どこで採られたか?(承前) 

 千歳市にある「キウス周堤墓群」は縄文時代後期に造られたといいます。今から3,000年以上前です。そこで墓標とおぼしき石柱が見つかっています。“最古の札幌軟石”もしれません。私がこの出自を気にするのは、縄文人がわざわざ札幌軟石を見つくろったことに心を打たれてしまったからです。われわれの(と複数形で語る)札幌軟石愛は、昨日今日のものではなかった。3,000年来、脈々とDNAに刷り込まれていました。いや、これは冗談です。
 気にする理由をあらためて整理すると、どうもこの軟石はご近所から見つけてきたのではないらしいことです。石柱の長いほうは172㎝というので(11月19日ブログ参照)、縄文人の大人の身長より高かったことでしょう。仮にかなり遠くで見つけたとして、どうやって運んだのか。えっちらおっちら運んで死者を弔う一種のモニュメントを立てた精神性が気になったのです。
 縄文人の行動(交流)範囲が広かったことは知られています。道東産の黒曜石(でできた矢じりなど)が道央圏で見つかるどころか、本州産のヒスイが道内で見つかったりしているのにはロマンを感じますが、モノの規模(サイズ、重さ)からすると物理的には可能だなと納得できることです。墓壙に副葬品をお供えすることも、その芸術性などに感銘を受けつつ、近場の素材なら合点が行きます。三内丸山遺跡の巨大な掘っ立て柱も、「縄文時代にあれだけのモノを作ったのか」と驚嘆はすれども、まあなんとか想像の範囲内です。
 人の背丈を超えるほどの石材となると、「そもそも、どうやって運んだのか?」が気になります(末注)。まったく不可能、ではないとはいえ、大変な労力を要したことでしょう。そこまでして、死者を祈念したかった。その「そこまでして」の具体的仕事量に惹かれます。

 千歳市埋蔵文化財センターに展示されている「火山灰がつくった大地」の説明です。
千歳市埋蔵文化財センター展示「火山灰がつくった大地」
 次のように書かれています(引用太字)。
 今から4万2千年ほど前、大噴火を起こした支笏火山からは、最初に火山灰が噴出し、一帯に降りつもりさらに大規模火砕流が発生しました。火砕流とは600度の高温の火山灰・軽石・ガス・水蒸気などが混ざり合い火口から高速であふれ出るもので低い土地や谷を埋め尽くしました。深い谷では厚さ200mにも達し、溶けて固まって「溶結凝灰岩」になったところもあります。苫小牧市に隣り合う美々地区では、火山灰と火砕流の厚さを合わせると60mもあります。噴火後にできた川など浸食作用により現在の地形の大まかな姿がこの時代につくられました。1万7千年前になると、支笏湖北西側の恵庭岳が噴火しました。激しい噴火により市内でも4~5mの厚さの軽石が堆積しています。(後略)
 この説明からしても、本件墓標たる「(支笏)溶結凝灰岩の柱状節理」が露頭するのは急峻な浸食谷と想像されます。

 あらためて地質図(昨日ブログ参照)でキウス周堤墓群の位置を確かめます。
シームレス地質図 千歳市キウス
 同じ一帯を陰影起伏図で俯瞰します。
陰影起伏図 千歳市キウス
 支笏溶結凝灰岩の柱状節理はどこで露頭している(いた)か。 

 注:余市町の「忍路環状列石」(縄文後期)に用いられた石は、現地から約10㎞離れたシリパ岬で見つかる輝石安山岩の柱状節理だという(『図説 日本の史跡1 原始1』1991年、p.251)。

2020/11/20

“最古の札幌軟石”は、どこで採られたか?

 “最古の札幌軟石”の位置を地質図で俯瞰します。
シームレス地質図 千歳市キウス 南区石山
 産総研シームレス地質図V2から抜粋しました。
 
 支笏火山の火砕流はピンク色の一帯で堆積しています。墓標とみられる支笏溶結凝灰岩の石柱が見つかったキウス周堤墓群は、赤い矢印を付けた先です。これを観ると、キウスも火砕流の堆積地の端です。このあたりには溶結凝灰岩は見られないのでしょうか。
 参考までに、溶結凝灰岩たる札幌軟石が採掘された南区石山(穴の沢)の位置を黒い矢印を付けた先に示します。やはりピンク色の火砕流堆積の端です。豊平川が削った谷に露頭しています。

 地質図を拡大して、札幌軟石の採掘地とキウスの位置関係を鑑みます。
シームレス地質図 札幌軟石採掘地、千歳市キウス
 ○Kと記した赤い矢印の先がキウス周堤墓群です。軟石が掘られた場所(2014.10.31ブログ参照)を、南区石山以外も含めて以下のとおり示します。
 ○Ⅰ: 南区石山(穴の沢軟石)
 ○A : 清田区有明(アシリベツ軟石)
 ○S : 北広島市島松(島松軟石)
 南区石山以外の採石地も、有明は厚別川、島松は島松川と、それぞれ川が削った露頭です。なお、有明と島松も含めて札幌軟石と総称します。
 
 同じ地質図で、支笏火山の噴出地からのそれぞれの距離を測りました。
シームレス地質図 札幌軟石採掘地、千歳市キウス 支笏湖からの距離
 支笏火山の噴出地=支笏カルデラ≒支笏湖の中心から距離です。
 Ⅰ(南区石山)=23.8㎞  A(清田区有明)=25.5㎞  S(北広島市島松)=25.9㎞ K(キウス周堤墓群)=35.1㎞

 札幌軟石の採掘場所は、支笏湖からほぼ同心円上に分布しています。一方、キウスはそれらよりも10㎞ほど遠くです。火砕流によって堆積した凝灰岩の溶結層は、単純に噴火口からの距離にのみ規定されるものではないと思います。溶結作用が生じるためには相当な堆積の厚みが必要なようです(末注)。さらに、軟石の採掘地となる(人の眼に触れる)ためには、川などの浸食によってその厚みが露頭する必要があります。キウスは、その条件を充たしていたか。
 千歳市埋蔵文化財センターによると、周堤墓で見つかった墓標とおぼしき柱石は溶結凝灰岩の柱状節理です。3,200年前、縄文人は溶結凝灰岩をどのように墓標としたのか。加工したのではなく、柱状節理で柱状となっていたモノをそのまま利用したらしい。とすると、柱状節理の見られる露頭で、ほどよいモノを選んだということになります。昨日ブログに記したように、キウスの近くには溶結凝灰岩の地層は見られないそうです。石柱に用いた柱状節理の溶結凝灰岩は、どこで露頭していた(いる)のか。センターの学芸員さんの話では、特定できていません。これは探し甲斐があります。

 注:若松幹男・吉本光宏「支笏火山の形成史」『わが街の文化遺産札幌軟石-支笏火山の恵み-』2011年、p.22参照

2020/11/19

最古の札幌軟石、か?

 4万年前の支笏火山噴火で堆積した岩石(支笏溶結凝灰岩)からできているのが札幌軟石です。最古の札幌軟石といっても、どれもこれも4万年前ではないか。ここで札幌軟石というのは、人が利用した石材という意味です。人為的に用いられた支笏溶結凝灰岩としての札幌軟石でもっとも古いのはいつ、何に使われ、どこに遺っているか。

 もしかしたらこれがそうかもしれない、というモノを私はこのたび初めて見ました。
千歳市埋蔵文化財センター キウス周堤墓群 石柱-1
千歳市埋蔵文化財センター キウス周堤墓群 石柱-2
 場所は千歳市です。千歳市埋蔵文化財センターに展示されています。「キウス周堤墓群」で見つかった石柱です。上掲は高さ172㎝、下掲は高さ62㎝で、上掲のほうの説明に「溶結凝灰岩の柱状節理」!と書かれています。学芸員の方に伺うと、支笏溶結凝灰岩です。どちらも、どうも墓標として立てられたらしい。

 上掲のほうは横たわって見つかったそうですが、下掲のほうは次のように説明されています(太字)。
 石柱は墓の中央に立った状態で見つかったため、墓標と思われます。長さは62㎝ほどあり、30㎝ほどが地上に見えていました。墓標にしてはかなり低いことなどは他の周堤墓にみられない特徴です。(下掲の展示物のまわりに紐で示されいるのは、墓穴の大きさ)。
 キウス周堤墓群が造られたのは今から約3,200年前、縄文時代の後期といいます。私は、支笏溶結凝灰岩が建物や墓石を含む工作物に使われたのは明治以降と思っていましたが、認識を改める必要が出てきました。うかつなことに今の今まで、有史前の札幌軟石工作物があったとは知りませんでした。札幌軟石というのは明治になってからの石材、しかも現在の南区石山付近で採掘された石に付けられた名前ですが、人為的工作物としての支笏溶結凝灰岩、ということで本件も札幌軟石と言ってしまいましょう。
 それでは、この軟石はどこで採られたものだろうか。学芸員の方の話では、周堤墓群の付近では溶結凝灰岩の地層は見られないそうです。では、どこか別のところから運んできたのか。

2020/11/18

シンプル イズ ベスト、か。

 昨日ブログでお伝えしたSTVのニュース(東4丁目線のクランク直線化)は、コロナにおされて延期されました。再予定の日取りは、わかりしだいまたお知らせします。

 そのコロナは先月来、再び感染が大きく増加してきました(11月1日ブログ参照)。特に北海道、札幌は顕著です。昨日の道知事と札幌市長の発表により、札幌市民には不要不急の外出自粛、札幌以外の道民には札幌との不要不急の往来自粛が求められました。いずれも「感染リスクを回避できない場合」との条件付きです(末注)。この条件付きが「わかりにくい」と評判が良くないらしい。具体的な例も示されているのですが、一律の外出自粛が求められた春先はたしかにわかりやすかったといえましょう。当時、知事が記者会見で「お願いすることはいたってシンプルです」と述べていたことが思い出されます。為政者のパフォーマンスは、ひとえにわかりやすさです。そういうわかりやすさを私は訝しみつつも、かような表現能力は羨ましくもあります。
 今回の「感染リスクを回避できない場合」というのは、“わかりにくさ”とは別に問題があるように私は思いました。「感染リスクを回避できない場合」に不要不急の外出を控えるのは、昨日今日の話ではなかろう。これまでだって、感染リスクがある中で不要不急の外出をするのはまずかったのではないか。世の中には外出どころか、リスクに晒されざるをえない状況に現時点で置かれている人も多いと察します。本来であれば前々から、不要不急に限らず感染リスクは避けなければなりますまい。「感染リスク回避」「不要不急」を今強調せざるをえないところに、問題の難しさがにじみ出ています。
 
 注:北海道新聞2020年11月18日朝刊1面記事 

2020/11/17

曲った道はロバの道、か。

 STVの報道部の方から、市道東4丁目線のことで問合せをいただきました。サッポロファクトリー近くのクランク道路です(2019.3.4ブログ参照)。
東4丁目線 クランク 2020年6月
 (画像は本年6月撮影)
 先週、札幌市の都市計画審議会が開かれ、本件クランク道路のことが審議されたと聞きました。札幌市のウエブサイトではまだ審議結果は載ってませんが、クランクの直線化が答申されたようです(末注①)。

http://www.city.sapporo.jp/keikaku/info/tokeishin/ankensetsumei/index110.html
 都計審の資料には「そもそもなぜ、このようなクランクが生じたか?」というようなことまでは見当たりません。それで報道に際して私のところにまでお尋ねがあったわけです。
 2015.7.19ブログで初めてあのクランクの成り立ちを探ったとき、私の知る限り既出の“答え”には行き当たりませんでした(末注②)。したがって、ブログで述べているのはあくまでも私の個人的な推理にすぎません。それを取り上げてもらえるとしたら、冥利に尽きます。昨年UHBの番組で探訪したときも感慨を抱きましたが、世の中は私が想う以上にマニア化しているのですね。  
 本件クランクを(クランクも)歴史的産物だと思う私には、直線化によって姿を消すことに一抹の寂しさを覚えます。まあ、“時代の趨勢”でやむをえません。ますますもって希少化・珍奇化する街角の歴史の痕跡発掘に燃える(萌える)こととしましょう。
 STV(5ch)「どさんこワイド179」の18日(水)午後6時台のニュースで放送予定(コロナのニュースなどで変更のないかぎり)とのことです。

 注①:札幌市地図情報サービスhttps://www.sonicweb-asp.jp/sapporo/によると、市道東4丁目線は現時点では都市計画道路にはなっていない。このたびの都計審の資料を見ると、直線化した道路をあらたに「東4丁目通」として都市計画決定するようである。
 注②:その後、「北海道マガジン『カイ』」サイトの「札幌の下町『創成東』を歩く」ページ2017.3.22でこのクランクに言及されているのを見た。
 ↓
http://kai-hokkaido.com/feature_vol34_sidestory3/
 ただし、なぜ北1条東3丁目でクランクが生じたか、具体的には触れられていない。

2020/11/08

黒澤映画『白痴』 主人公の彷徨を地図上であとづける

 札幌建築鑑賞会「札幌百科」第17回(11月2日同3日ブログ参照)を終えました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
 今回のテーマである「巨匠クロサワは札幌で何を観たか?」について、私は閉会の際にまとめのようなコメントは発しましせんでした。参加したそれぞれが受け止めていただければとも思ったからですが、私自身の考えは別にあらためたいと思います。
 
 行事を終えてから、スタッフの間で雑談めいて話題に上がったのが本日ブログの標題です。映画における主人公・亀田(森雅之)の札幌市内の彷徨を地図上にあとづけるとどうなるか。現在図に示すと下掲のようになりました。
現在図 黒澤『白痴』 主人公彷徨の跡
 図上A(三船敏郎演じる赤間の家、9月12日ブログ参照)から始まります。映像に刻々と流れる風景を、特定できる場所に限ってアルファベット順に示し、その地点を線で結びました。最後のNは「札幌雪まつり」の会場です(末注①)。この後、亀田は逗留している香山(千秋実)の家「旅館 香山荘」に帰ります。この「香山荘」の場所がどこか、特定できていません。7日の会で少し話題になったのですが、ここではそこまで示しません。

 「癲癇性痴呆」という設定の亀田は、赤間との確執の中で精神の破調をきたします。幻覚譫妄のようなふるまいを見せつつ市内をあてどもなく彷徨する姿は、てんかん発作の前駆症状(という想定)なのでしょうか(末注②)。上掲の足取りも、病的行動の結果ならばさもありなんと見えてしまいます。

 注①:映画『白痴』が制作公開された1951(昭和26)年、「札幌雪まつり」第2回が催された。雪像の会場は、第2回までは大通西7丁目だったという。『さっぽろ文庫47 雪まつり』1988年、pp.112-128参照
 注②:精神医学の用語としては現在、「白痴」はもちろん「痴呆」も使われていない。用語のみならず、本映画における主人公の“症状”はあくまでも60年以上前の虚構の世界である。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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