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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/10/31

つきさっぷ郷土資料館だより

 『つきさっぷ郷土資料館だより』第42号(本年10月21日発行)に寄稿させていただきました。
つきさっぷ郷土資料館だより第42号 表紙
つきさっぷ郷土資料館だより第42号 杉浦寄稿
 「月寒または豊平区に関係したことを」という趣旨でしたので、月寒公民館のことを綴っています。
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2020/10/30

れきぶんボランティアガイド講習会2020

 またご案内です。
れきぶんボランティアガイド講習会案内チラシ オモテ
れきぶんボランティアガイド講習会案内チラシ ウラ
 「開拓使」「大友堀」「札幌軟石」の三題噺で、小一時間のお話の講師を務めます。

 「札幌市歴史文化のまちづくり推進協議会」という長い名前の主催による「講習会」です。ボランティアガイドを目指す人、現在している人を対象として、「入門編」と「応用編」で開催されます。
 詳細は札幌市ウエブサイト同協議会のページをご覧ください。
 ↓
https://www.city.sapporo.jp/shimin/bunkazai/rekishibunkanomatidukurisuishin.html

 「札幌市歴史文化のまちづくり…」には、私はいささか因縁があります。因縁というとコトバが悪いのですが、その一つは以下のてんまつです。
 今秋、同協議会主催で「れきぶんワークショップ2020」という催しがありました(前述のウエブサイト参照)。これは、やはり前述の「開拓使」「大友堀」「札幌軟石」をテーマとして、これらの文化遺産を守り、生かすためのアイデアを出し合うというワークショップです。テーマのうち「札幌軟石」には私はもちろん一家言(?)あり、「大友堀」は北海道遺産の2018年第三回選定で「大友亀太郎の事績と大友堀遺構」が「札幌軟石」と一緒に選ばれた“仲間”でもあります。それで札幌市文化財課からご案内をいただいた際、私は奮って申し込みました。しかし、定員超過のため抽選で残念ながら外れてしまったのです。
 この種のワークショップは、いわば相互作用だと思います。言い換えれば学び合いです。自分の知識や考えを一方的に押し付けるのではなく、双方向の受信発信により、自分も“ため”になるし、他者やワークショップの成果にも反映されます(というのが理想です)。勉強会(和田哲さんの話も聞きたかった)や現地調査、ほかの人たちとの交流により新たな刺激や知見を得たいと思っていたのですが、機会を逸して歯噛みしていたところです。そこへ同じ主催者の行事でお呼びがかかりました。ワークショップの集団的成果に内心戦々恐々としつつ、準備します。

2020/10/29

石狩で時空逍遥 ⑦

 石狩八幡神社の狛犬です。
石狩八幡神社 狛犬
 本体と台座の上二段は札幌軟石とみました。

 台座最上段の側面です。
石狩八幡神社 狛犬 台座側面
 「オタル 濵名石材店 作」と彫られています。

 上から二段目の台座背面には…
石狩八幡神社 狛犬 台座背面
 「昭和四年四月十五日」と彫られています。

 台座の上二段正面を見ると…
石狩八幡神社 狛犬 台座正面
 「奉 船舶職員互信會 會長寺尾政次郎 外 會員一同」とあります。

 今月の石狩時空逍遥で、当地における札幌軟石と小樽軟石のせめぎあいを目にしてきました(末注)。石狩では明治のかなり早い時期に札幌軟石を用いた蔵が建てられました。前掲狛犬は「昭和4年」建立ですから、札幌軟石が普及していることは不思議ではありません。ただ、小樽の石材店の「作」というところに興味を覚えます。奉納者が海運関係者とおぼしきことから小樽とのつながりが深かったのでしょうか。「濵名石材店」というのは、採石ではなく社寺や墓石などの石彫の業者さんだったのでしょう。さまざまな石材を(施主の意向もふまえて?)取捨選択していたのかもしれません。昭和初期であれば小樽軟石も採られていた時代ですが、業者の地元の小樽軟石ではなく札幌(石山)産にしたのは、この時期「軟石の狛犬や灯籠なら札幌(石山)」と定着していたのでしょうか。そういわれてみれば、小樽の神社の石彫物件はどこ産が多いのだろう。

 では、濵名石材店はどのようにして札幌軟石で狛犬を彫ったのでしょうか。
 ①札幌の石山(当時は豊平町)から石材を小樽に運び、小樽で彫って狛犬に仕上げ、石狩に運んだ。
 ②石山から石狩に石材を直接運び、小樽から石彫師が石狩に来て狛犬に仕上げた。
 ③小樽の石彫師が石山に来て、狛犬に仕上げて、石狩に運んだ。
 輸送交通コストを考えると②<③<①と想えますが、意外と①の可能性も高いような気もします。昭和初期なら鉄道で石山-札幌(定山渓鉄道)、札幌-小樽という物流が定着していたでしょう。札幌から直接石狩へとなると却ってコストがかかったかもしれません。施主が海運業者なら、小樽から石狩へは船でたやすい。
 しかし、こういうこともいざ問い直してみると、私にはわからないものです。なお、石狩における「札幌軟石と小樽軟石のせめぎあい」と前述しましたが、これも地元のいしかり砂丘の風資料館の学芸員さんによると必ずしもさだかではありません。あらためて逍遥したいと思います。

 注:10月5日同月6日同月7日各ブログ参照


2020/10/28

49年前の近未来

 北海道青少年会館(南区真駒内柏丘)です(画像は2019年11月撮影)。
北海道青少年会館-1
北海道青少年会館-7
北海道青少年会館-2
北海道青少年会館-3
北海道青少年会館-4
北海道青少年会館-6
北海道青少年会館-5
 札幌冬季五輪のプレスセンターとして1971(昭和46)年、竣工しました。黒川紀章設計(末注①)。

 札幌の中心部の再開発事業などで建てられている現在の超高層ビルよりも、半世紀近く前に出現したこの空間に私は“近未来”を感じてしまいます。近未来を感じられる方がいいというのではありません。私が勝手に感じてしまっているだけのことです。それはたぶん、私が当時の“時代の空気”を原体験し、既視感として抱いているからでしょう。幼少期の、しかも漂白された既視感です。1970年大阪万博の空気を吸った10代に抱いた近未来はすでに近過去になりつつあります。50年近くを経て、仮想した近未来を現実の近過去として体験してしまった身には、現在の風景からふたたび近未来を描くのは難しい。

 10月4日ブログで私は、1967(昭和42)年北海道百年記念塔のコンペの際、黒川紀章が本郷新との共同で作品案を応募したことについて次のように記しました(太字)。
 日本共産党員として生涯を終えた本郷は、丹下健三に師事した黒川とどのような接点や交錯があったのだろうか。と表現すると、私は共産党と丹下を対照的に位置づけるみたいですが、たしかにそうです。丹下先生のたとえば東京都庁舎が日本共産党と相容れるようには思えないという、まあこれは私の皮相的偏見にすぎません。

 私は黒川=丹下健三の門下ぐらいの初歩的知識しか持ち合わせていないのですが、経歴を追うと、もともとは京都大学で西山卯三先生の研究室の出身なのですね(末注②)。本郷新への接近の深層心理を、これまた皮相的に嗅ぎ取ってしまいました。
 
 注①:10月26日ブログに関連事項記述
 注②:藤森照信『戦後モダニズム建築の軌跡 丹下健三とその時代』「黒川紀章氏が述懐する丹下健三」下記サイト参照
 ↓
https://note.com/shinkenchikusha/n/n5bcd59cf3eeb
https://note.com/shinkenchikusha/n/n7c819b9c8820

2020/10/27

彫刻家と建築家の因縁

 またお知らせからです。
 STV(5ch)「どさんこワイド179」15:48-の“てくてく洋二”コーナーに出ます。10月28日(水)のたぶん午後4時台でオンエアの予定です。よかったらご笑覧ください。今回は藻岩山麓をてくてくします。

 10月4日ブログで、本郷新の「石狩」制作模型の画像を載せました。 
本郷新「石狩」制作模型
 同日ブログで「石狩浜海浜植物保護センターで展示されています」と記したときには潜在意識下にあった事実を、このたび覚醒させました。

 まず、この模型を作ったときの本郷の軌跡をあらためて偲びます。
 「石狩浜に開拓記念塔を!」彫刻家本郷新は、ライフワークとして塔状のモニュメント「石狩」に取り組み、作品を石狩浜に置くことを熱望した。この構想の発端は1967年に行われた北海道百年記念塔の設計コンペにあるといわれる。本郷新はこのコンペに建築家黒川紀章と共同制作で作品を出し、入賞はしたものの最優秀賞は逃し百年記念塔に採用されることはなかった。本郷はその後も「北海道開拓百年」を問い続け、自らの開拓記念塔ともいえる塔状のモニュメント「石狩」の制作に至ったと考えられる。(末注①)

 百年記念塔は石狩浜でも実現せず、「石狩 開拓者慰霊碑」「無辜の民」像にいわば昇華されます(10月4日ブログ参照)。いま私は「昇華」と表現しましたが、その真意はひとまず措きます。
 本郷の「石狩」制作(構想)のきっかけが北海道百年記念塔の設計コンペであったとすれば、もし黒川案が最優秀に選ばれて本郷のモチーフも含めて“日の目”を見ていたら、「石狩」制作には至らなかったということでしょう。最優秀を逃した審査の一端を担ったのが、たびたび言及しますが田上さんです(末注②)。

 そこで、潜在意識下にあった事実を覚醒させました。前掲の模型がこのたび置かれた場所には、かつて何があったか。
石狩海浜ホテル 模型
 石狩海浜ホテル1937(昭和12)年、田上義也設計(上掲模型はいしかり砂丘の風資料館の展示)。1945(昭和20)年の石狩空襲で焼失しました。

 石狩浜海浜植物保護センターの一隅には、海浜ホテルの痕跡がわずかに遺っています。 
石狩海浜ホテル跡
 バスタブ?の跡らしい。

 亀甲様の色タイルです。
石狩海浜ホテル跡 タイル
 田上さんを彷彿させます。というのは穿ちすぎか。

 北海道百年記念塔のコンペに遡ると半世紀余りを経て、本郷の「石狩」が本人の望んだ石狩浜に立ちました。自作の模型ではありますが。制作(構想)のきっかけを作った田上さんの作品跡に、です。ここに本郷の模型を置こうと考えた人は策士だなあと私は想ってしまいました。
 先日、二度めの石狩来訪で、その策士に会いました。いしかり砂丘の風資料館の学芸員Kさんです。Kさんによると、当初は資料館内に置こうとしたのですが、狭いので海浜植物保護センターにしたそうです。ちなみに札幌彫刻美術館所蔵のこの模型は、「作品」ではなくあくまでも「資料」という扱いと聞きました。それゆえに同館から借りられたとのことです。

 注①:いしかり砂丘の風資料館テーマ展「石狩浜の百年記念塔」チラシから
 注②:昨日ブログに関連事項記述

2020/10/26

真駒内公園をめぐる時間軸と空間軸

 本郷新「花束」像です。
本郷新「花束」五輪大橋 東端 南側 本郷新「花束」五輪大橋 東端 北側
 豊平川に架かる五輪大橋(南区真駒内)東端のたもとに、向かい合って立ちます(10月22日ブログ参照)。

 真駒内公園に立つ本郷の「雪華の像」です(10月21日ブログ参照)。
真駒内公園 雪華の像 北望
 南側から北を望みました。五輪通をはさんで、彼方に建物が見えます。黄色の矢印を付けた先です。

 1971(昭和46)年に本郷の「雪華の像」が立てられた13年後の1984(昭和59)年に建てられました。  
豊平川さけ科学館
 田上さんの「札幌市豊平川さけ科学館」です(10月22日ブログ参照)。 

 『さっぽろ文庫21 札幌の彫刻』1982年で、田上さんは「本郷新と交友の断想」を綴っています(pp.256-262)。10月12日ブログで私は、北海道銀行本店の大レリーフについて「共同制作は、だれが発案したのだろうか。文化芸術に造詣の深かった島本融頭取か」と自問しました。田上さんは「断想」で島本頭取に「本郷新さんを推薦した」と回顧しています(p.258)。1962(昭和37)年のことらしい。その後、島本頭取が本郷の構想図に基づき、山内壮夫、佐藤忠良の3人での共同制作を提案したようです。

 時間軸であらためて整理します(末注)。
 1962(昭和37)年:田上義也、道銀本店ビルの設計を受託、レリーフの制作に本郷新を推す。島本道銀頭取は山内壮夫、佐藤忠良との3人による共同制作の意向を示す。
 1964(昭和39)年:田上が本郷からアトリエの設計依頼を受ける。道銀ビル竣工
 1965(昭和40)年:本郷のアトリエ(春香山荘)竣工
 1967(昭和42)年4月~1968(昭和43)年6月:佐藤忠良、北海道庁ホールのレリーフを制作
 1967(昭和42)年6月:北海道百年記念塔公開設計競技開始
 同年12月:百年記念塔コンペの審査結果発表、「最優秀」井口健、「優秀」黒川紀章(本郷新との共同制作)
 1970(昭和45)年:北海道百年記念塔竣工(佐藤忠良のレリーフ設置)
 1971(昭和46)年:本郷「雪華の像」(真駒内公園)「花束」(五輪大橋)、佐藤「雪娘」「えぞ鹿」(五輪小橋)建立
 同年:黒川紀章設計の(札幌五輪)プレスセンター(本館・体育館)(真駒内柏丘)竣工
 1984(昭和59)年:札幌市豊平川さけ科学館竣工

 この時間軸をアタマに入れて、真駒内公園の空間軸をあらためて鑑みます。
空中写真 2008年 真駒内公園 本郷、黒川、田上
 本郷の前掲「花束」「雪華の像」と黒川設計の札幌五輪プレスセンターの位置関係に惹かれました。南北の方位線上で結ばれています。これは偶然なのだろうか。

 繰り返しますが、1967年の北海道百年記念塔コンペでは、当時まだ“無名”の地方在住若手建築士の案が「最優秀」に選ばれました。すでに時代の旗手たる黒川の、しかも北海道を代表する彫刻家本郷を共同制作者とした案を“次点”に抑えてのことです。その審査員の一人が田上さんでした。北海道百年記念事業で“敗れた”黒川と本郷の作品が、1972年札幌冬季五輪のメモリアル空間であたかも基軸線を構成しています。

 田上さんの豊平川さけ科学館から南を眺めました。
豊平川さけ科学館から南望 
 手前右方に本郷の「雪華の像」が見えます(赤い矢印の先)。左方彼方の真駒内柏丘の中腹に白く映るのは、黒川のプレスセンター(現北海道青少年会館)ではなかろうか(黄色の矢印の先)。田上さんも生前、自作たるさけ科学館の前に立ち、二人の作品を視野に収めたかもしれません。

 田上さんは、“盟友”本郷が名を連ねた黒川の百年記念塔案をどんな思いで“次点”に“落とした”のだろうか。前述「本郷新と交友の断想」には、そのことは何も書かれていません。

 注:10月4日同月11日同月12日同月21日同月22日各ブログ及び前掲『さっぽろ文庫21 札幌の彫刻』参照

2020/10/25

石狩で時空逍遥 ⑥

 お知らせから。
 10月26日(月)、STVラジオの番組に出演します。「まるごと!エンタメ~ション」という番組で午後2時半頃、屋外で数分の予定です。
 ↓
https://www.stv.jp/radio/entamation/index.html
 芸術の秋に札幌建築鑑賞会の活動を紹介したいということです。テレビの「どさんこワイド」のつながりでのオファーかと思ったら、そうではないらしい。どういうやりとりになるか、自分でもわかりません。お聴きになる機会がありましたら、笑ってやってください。

 昨日ブログで訪ねた石狩市の八幡は、石狩川の右岸に位置します。
石狩市 コンクリートサイロ 電柱
 サイロの傍らに立つ電柱は何と銘打たれているか。

 「北生振幹」です。
石狩市 コンクリートサイロ近くの電柱「北生振幹」
 地図で確かめると、国道をはさんで南東側は北生振、北西側は八幡と、町名(字名)が分けられています。サイロの所在地は北生振、持ち主のDさんの住所は八幡です。

 現在図を俯瞰します。
現在図 生振、北生振、八幡
 赤いを付けたのがくだんのサイロの位置です。そのあたりを南西-北東方向に国道231号が通じています。画像が細かく文字が読めなくて申し訳ありませんが、その北西側、橙色の矢印を付けたところが八幡、南東側の赤い矢印を付けた先が北生振です。

 「生振」というと、私は石狩川の左岸、茨戸川との間に囲まれた一帯を意識していました。上掲図に黄色の矢印を付けたあたりです。大河をはさんで右岸側にも「北」を冠しつつ生振があることを一瞬、不思議に思いました。

 それは一瞬のことで、古い地形図によれば「生振村」が石狩川の右岸一帯に広がっています(5万分の1地形図「石狩」明治29年から)。
明治29年地形図「石狩」 生振村
 捷水路が穿たれる前は、現在の生振と北生振は地続きだったのですね。という当たり前の史実を、古い地図であらためて想い知りました。

 こんどは古い空中写真を眺めます。
空中写真1961年 北生振
 1961(昭和36)年撮影です。本件サイロは赤いで囲ったところにあります。
 昨日ブログ末尾に、「国道で隔てられている=持ち主は別だろう、という先入観を私は抱いていたのですが、うかつでした」と記しました。もともとは、ここに道は通じてなかったのです。道は周辺でほぼ東西南北の方位に従って、碁盤目状に敷かれています。明治期のいわゆる殖民区画でしょう。

 1976(昭和51)年空中写真で、国道が貫いています。
空中写真1976年 北生振
 1970年代に石狩川河口橋が架けられて、国道が付け替えられたのでした(末注①)。サイロのDさん宅は、祖父が明治時代に入植したそうです。農地が国道をまたいでいるのも、むべなるかな。こういうことも、古い空中写真を遡って思い知りました。

 ちなみにその新国道は、殖民区画由来と思われる碁盤目の対角線状に通じています。前掲1961年、1976年空中写真を較べると、この対角線に平行するように細い線が幾筋も見られます。これは砂堤列(浜堤)でしょう(末注②)。その地形に沿って新国道が敷かれたようにも窺えます。
 さて、Dさんのサイロは、ご本人にお訊きするとやはりコンクリートでした。1943(昭和18)年、Dさんが10歳のとき、「親父が自前で作るのを見ていた」そうです。私は、ここにも土地柄を感じてしまいました。

 注①:1961年空中写真当時の旧国道231号は、札幌から石狩川左岸の現本町地区まで達し、船で右岸に渡って北上した。
 注②:2019.12.2同12.4ブログ参照

2020/10/24

石狩で時空逍遥 ⑤

 再び石狩の本町地区に足を運びました。
 「2020年度北海道文化遺産活用活性化実行委員会フォローアップ講習会」という大変長い名前の行事への参加です。札幌国際大学のⅠ先生の案内で本町界隈を散策しました。
 行事は午後からでしたが、石狩には午前中に入りました。知り合いのYさんご夫妻が午前からクルマで行くのでよかったらどうぞと誘ってくださり、便乗させていただいたのです。高岡まで行くというYさんの好意に甘えて、私は途中の八幡まで運んでもらいました。

 高岡とか八幡といっても石狩の地理に疎い方にはピンとこないと思いますので、現在図で確認します。
現在図 石狩 本町、八幡、高岡
 赤い矢印を付けた先が八幡、橙色の矢印が高岡(町名としては八幡町高岡)、黄色の矢印が午後からの“公式行事”の目的地である本町です。

 私はこれまで、石狩というと石狩川の左岸しか行ったことがありませんでした。正確には厚田や浜益方面に行くのに右岸を通ったことはあるし、今は厚田や浜益も石狩市に属するのですが、川に近い右岸で足を停めたことはないということです。今月の上旬、初めて高岡まで足を延ばしました。これも、札幌建築鑑賞会スタッフKさんのクルマに乗せてもらったおかげです(10月5日ブログに関連事項記述)。今回の八幡も、札幌から厚田方面へのバスの便数はとても少ないので、“足”(クルマ)のない私にはありがたい機会でした。

 八幡で降ろしてもらったのは、目当てがあったからです。
石狩 八幡 茅葺のサイロと納屋
 国道沿いに、茅葺のサイロと納屋が遺っています。
 このサイロと納屋のことは鑑賞会スタッフのSさんからかねてお聞きしていました。Sさんは「厚田へ行くたびバスの車窓から目にして、気になっています」とおっしゃっていたので、このたび鑑みることとしたのです。

 Sさんが気になったのは、屋根が茅葺という珍しさもあるのでしょう。
石狩 八幡 茅葺のサイロ
 本体が軟石積みとおぼしきところも、私たち札幌軟石愛好家には見逃せません。

 しかし、近づいてよく見ると…。
石狩 八幡 茅葺のサイロ 接近
 軟石では、ない。

 コンクリートではないか。
石狩 八幡 茅葺のサイロ 最接近
 しかし、コンクリートといっても、工業製品化されたコンクリートブロックとは雰囲気がどうも異なっています。均質的ではない。これはますます気になります。

 国道の向かい側の農家とおぼしきお宅からお爺さんが出てこられました。国道をはさんでいるので、持ち主の方ではないだろうと思いつつ、ご近所なら何かご存じないだろうかとお訊きしました。
 私:お向かいにあるサイロですが、いつごろ建てられたものか、ご記憶はございませんか。
 お爺さん:あれは、昭和18年。
 お尋ねしながら、まさかピンポイントで建築年を答えてくださるとは、私は予想してませんでした。どうして、そんな具体的におわかりになるのか。お爺さん曰く「あれは、うちのサイロだから」と。国道で隔てられている=持ち主は別だろう、という先入観を私は抱いていたのですが、うかつでした。 
 サイロは持ち主のDさんが子どものとき、建てられるのを間近に見ていたそうです。原体験をお持ちの方にお会いできたのは幸運でした。

2020/10/23

自らのアラを穿り出す(承前)

 10月20日ブログの続きです。
 ROGA(北区)店内に飾られている空中写真はいつ撮られたか。ぱっと見たところ、ほぼ中央にテレビ塔が建っていて、創成川沿いの望楼がまだ残っています。大通公園に面して市民会館の真新しい外観が目を惹く一方、札幌郵便局もまだ健在です。それで「昭和30年代の半ば」かなあと見ました(末注①)。
 史実を時系列で示します。
 1956(昭和31)年:さっぽろテレビ塔完成
 1958(昭和33)年:札幌市民会館竣工
 1962(昭和37)年:札幌郵便局解体
 1965(昭和40)年:消防本部望楼解体
 市民会館ができていて、郵便局がまだ解体されていないなら、「昭和30年代半ば」だろうというわけです。

 ところが、念のため画像を拡大して中心部をつぶさに鑑みると、です。
ROGA 掲示古写真 札幌中心部の風景 中心部拡大
 まず、テレビ塔の先っぽが、まだ出来上がっていないかに見えます。その北側のNHKも、なんとなく建設工事途中のようです。

 さっぽろテレビ塔ウエブサイト「テレビ塔のあゆみ」ページから、建設の経過を引きます(太字、末注②)。
 1956(昭和31)年6月 着工
 同年12月 塔体完成
 1957(昭和32)年8月 開業

 テレビ塔が建設途中だとすると、撮影年はピンポイントで1956年です。ただし、1958年竣工の市民会館がはっきり写っていることからすると、テレビ塔が建設途中だったのか疑問も生じます。市民会館が着工したのは1957(昭和32)年5月です(末注③)。市民会館が建設途上にあったとしても、テレビ塔完成の翌1957年以降となります。
 一方、北側のNHK札幌放送会館(本館)は1959(昭和34)年に竣工しました(末注④)。竣工間もない頃と思われる外観を、「札幌ノスタルジック建築散歩」サイトで拝むことができます。

https://sapporowalk.sakura.ne.jp/kochizu/1959/20200717/
 この外観に照らすと、上掲画像に写るのはNHK竣工後とはどうも見えません。結局、市民会館の着工以降、NHKの竣工以前とすると、撮影年は1957(昭和32)年以降1959(昭和34)年以前となります。ということは、「昭和30年代半ば」というよりは「昭和30年代前半」というのが的確です。あるいは「1958(昭和33)年頃」か。詰めの甘さを反省します。
 コメントをお寄せくださった方々、粗い画像にもかかわらず推理をありがとうございました。機会がありましたら、ROGAでご飲食がてら実物をご覧ください。私も、テレビ塔のてっぺんがどう写っているか、確かめます。

 注①:北海道近代建築研究会『札幌の建築探訪』1998年、p.135、p.137、リーフレット「札幌市民会館 使用のしおり」、北海道新聞2018年3月9日広告「パナソニックミュージアム 本日開館」 参照
 注②:http://www.tv-tower.co.jp/outline/history/
 注③:同上「札幌市民会館 使用のしおり」参照
 注④:7月4日ブログに関連事項記述 

2020/10/22

彫刻家と建築家 まつわりあい(続々)

 昨日ブログの続きです。
 真駒内公園周辺に見られる彫刻家と建築家の作品の位置を現在図に示します。
現在図 真駒内公園周辺 彫刻家と建築家
 H:本郷新「花束」(豊平川五輪大橋)、「雪華の像」(真駒内公園) 1971(昭和46)年
 Y:山内壮夫「飛翔」(豊平川五輪大橋) 1971(昭和46)年
 S:佐藤忠良「えぞ鹿」「雪娘」(真駒内川五輪小橋) 1971(昭和46)年
 M:前川國男「真駒内スピードスケート競技場」(真駒内公園 屋外競技場) 1970(昭和45)年
 K:黒川紀章「プレスセンター(本館・体育館)」(真駒内柏丘 北海道青少年会館) 1971(昭和46)年
 T:田上義也「札幌市豊平川さけ科学館」(真駒内公園) 1984(昭和59)年

 作品を遺した建築家と彫刻家6人の関係を、模式図化しました(末注①)。
建築家と彫刻家 関係図-2
 1970-80年代の同時期に活躍した創造者たちゆえに、まつわりあうのは当たり前といってしまえばそれまでです。とはいえ、その作品が真駒内公園という特定の一帯に凝縮されているのに因縁を感じてしまいます。北海道にゆかりの深い彫刻家たちの作品がメモリアルな場所に集約されるのも自然な成り行きでしょう。ただ、彼らと建築家との関係性を、例によって深読みしたくなります。
 たとえば、公園の入り口に置かれた本郷の「雪華の像」と柏丘に建つ黒川のプレスセンター(現北海道青少年会館)。北海道百年記念塔が脳裏にこびりつく私には、本郷作品が黒川作品への導入部に位置付けられているかに見えます。
 真駒内川の橋のたもとに立つ忠良さんの彫刻と、前川國男の屋外競技場(2019.11.2ブログ参照)。のちに宮城県美術館(末注②)で前川と忠良作品が接近することを想うと、あたかもその序章です。

 注①:札幌市市民文化課『札幌散策 野外彫刻を楽しむ小さな旅』2010年、札幌オリンピック施設編集委員会『札幌オリンピック施設-競技場・選手村・関連施設などの記録-』1971年、木田金次郎美術館『田上義也-北方建築の種展』図録2010年、『生誕100年 前川國男建築展』図録2005年、宮城県美術館ウエブサイト「フロア案内」ページ、拙ブログ2020.10.11「建築家と彫刻家 まつわりあい」同10.12「ここでも、“時代の終わり”か」 参照
 注②:宮城県美術館は本館1981(昭和56)年が前川作。その後1990(平成2)年、別の設計者により「佐藤忠良記念館」が増設された。注①参照

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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