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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/09/30

当別町で時空逍遥 ④

 伊達邸別館です。
当別 伊達邸別館 左側面
 1880(明治13)年の建築といわれます。「別館」と付けられているとおり、本宅とは別に貴賓接待用の別棟として建てられたものです。
 私はこの建物を十数年前にも拝観したことがあります。そのときは、装飾らしい装飾もない簡素な建物だなあという程度の印象だけでした。しかし、このたびあらためて鑑みると、少し見方が変わったようでもあります。同時期に札幌で建てられた同じような建物を想い起してみました。「同じような建物」というのは、清華亭とか旧永山武四郎邸です。例えば、後二者はいずれも平屋建てであるのに対して、本件は総2階建てです。これはなぜだろうと疑問が湧きました。

 建物そのものことは、機会を見て記したいと思います。このたびは別のことも気になりました。見学時にいただいたリーフレットによると、本件建物は1980(昭和55)年に町に寄贈され、移転復元されたとのことです。では、元はどこにあったのか。リーフレットには書かれていません。このたびのツアーで案内してくださったボランティアガイドさんに伺うと、元の場所はすぐ近くです。

 館内に移築前の写真が飾られています。
伊達邸別館 大正期写真
 大正時代に撮影されたものです。キャプションには「伊達邸前庭での記念写真」とあり、手前の池に水面を湛えています。

 その前庭です。
当別 伊達宅前庭
 池の跡らしい窪みが窺えます。
当別 伊達宅前庭 池の跡
 清華亭などと同様、池泉庭園を設けていたのだなあと想いを巡らせました。しかも、この池は偕楽園と同じく、やはり流水だったようです。
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2020/09/29

当別町で時空逍遥 ③

 JR当別駅前の農協倉庫群です。
JR当別駅前 農協倉庫群
 手稲郷土史研究会のバスツアーでは、この倉庫群は見学の行程に含まれてませんでした。しかし、お昼の食事会場が駅のすぐ近くだったので、午後の出発までの時間を利用して駆け足で鑑みました。

 それぞれの倉庫に番号が付けられています。
 (正面)1号:かまぼこ型屋根、セラミック煉瓦ブロック芋目地積み
 (左側)3号:かまぼこ型屋根、煉瓦イギリス積み、コンクリート臥梁
 (右側)4号:切妻屋根、煉瓦イギリス積み

 JR駅のもっとも近くには6号倉庫が保存活用されています。
JR当別駅前 ふれあい倉庫 当別赤れんが6号
 6号は下屋付き切妻屋根、煉瓦イギリス積みです。「ふれあい倉庫」という名前で、農産物などの販売、飲食の店に再利用されています。

 4棟とも煉瓦を用いて統一感を保ちつつ、どれ一つ同じではありません。倉庫建築の歴史を通覧できるかのようです(末注)。番号が若いほど建築年代が新しそうなのも面白い。そういえば当別は、煉瓦産地・江別と目と鼻の先です。石狩川の水運でつながっていただろうし、かつて江当軌道という路線も敷かれていたと聞きます。
 時間を忘れそうです。私一人だけでうろうろしていたら、バスの出発に遅れてしまったことでしょう。幸い、札幌建築鑑賞会スタッフにして“歩くアラームクロック”のようなSさんが同行してくれていたので、迷惑をかけずにすみました。

 注:2018.2.5同2.2ブログ参照

2020/09/28

当別町で時空逍遥 ②

 石狩市から当別町にかけての色別標高図です。
色別標高図 当別入植経路図
 標高25m未満から150m以上まで25mごと7色段彩で作りました。赤い実線でなぞったのは、当別伊達記念館に展示されている「当別入植経路図」に描かれた「石狩から当別へ入植した道路」です。

 明治初期の当別入植は昨日ブログに記したとおり、石狩川を遡って支流の当別川に入ったという私の思い込みとは異なりました。当別川の支流であるパンケチュウベシナイの上流から下って当別の地に達したというのが史実だそうです。上掲図は、それを示したものになりましょう。
 9月25日のバスツアーでいただいた資料によると、岩出山伊達家の主従が当別に入ったのは1871(明治4)年です(末注①)。その際、先遣隊が二度にわたり踏査した上で「トウベツ道路」を開削しました。入植の行程は以下のとおりです。
・先遣隊 第1回踏査:シップ→白津狩沢→生振野→大沢→材木川→西小川→トウベツ川
・同 第2回踏査:シップ→白津狩沢→地蔵沢→高岡分水嶺→西小川の上流→弁華別→トウベツ川
・トウベツ道路開削:シップ→知津狩沢→地蔵沢→高岡分水嶺→材木沢→門次の沢→西小川→阿蘇神社付近

 上掲図に示した赤い実線(の基になった記念館展示の「入植経路図」)がどの時点での経路を示すか確かめていないのですが、「トウベツ道路」のことでしょうか。行程に記されている地名が現在のどこに当たるか、これも不勉強なのですが、おおまかに想像するに第2回踏査では赤い実線よりもさらに山側をたどったように窺えます。
 それにしても、です。北海道開拓に対する私の先入観は、海岸沿い→内陸、川の下流→上流へ遡行という行程でした。伊達家先遣隊はなぜ、わざわざ山越えしたのでしょうか。上掲標高図だけを見ていると、やはり当別川を遡るか、陸路を取るにしても南側の平地を廻ったほうが楽だったのではないかと想えてしまいます。このあたりは、資料を作ってくださった当別歴史ボランティアの会の先達にあらためて伺ってみたいものです。余談ながら、いただいた資料はとても中味が濃く、敬服します。

 9月26日ブログで、パンケチュウベシナイのアイヌ語原義に触れました。山田秀三先生によると、このチュウベシナイは「チ・クシ・ナイ」(我ら・下る・川)らしい。「日本海側の望来、知津狩しらつかりの辺から山越えをして当別川筋に下っていた交通路の川名だったかもしれない」とも(末注②)。
 伊達家先遣隊はまったくの人跡未踏の山越えをしたのではなく、アイヌの人たちの踏み分け道を辿ったのかもしれません。伊達記念館の展示などではそこまで言及していたか覚えがありませんが、あらためて興味が湧きます。

 北海道立地質資源調査所「北海道水理地質図幅 札幌」1964年からの抜粋です。
北海道水理地質図幅 1964年 石狩町から当別町あたり
 当別町と書かれた地点を赤いで囲みました。黄色のが「石狩町」(当時)で、石狩川右岸の八幡、聚富しっぷのあたりです。
 私が前述した「陸路を取るにしても南側の平地を廻ったほうが楽だったのではないか」とみた一帯は、凡例に照らすとどのような土地でしょうか。石狩川及び当別川の右岸です。MすなわちMoor、泥炭が一面に広がっています。これはこれで、歩くのは大変だっただろうなあ。

 注①:東前寛治「当別町の歴史ガイド」p.2
 注②:山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』1993年、p.56(手稲郷土史研究会「当別町視察研修ツアー」資料に転載)

2020/09/27

当別町で時空逍遥

 市街を流れるパンケチュウベシナイ川です。
当別町 パンケチュウベシナイ川 元町あたり 
 河川管理者の北海道が看板を立てています。
 
 この看板は古そうです。
当別町 パンケチュウベシナイ川 北海道の河川表示看板 
 古そうなのはペンキの剥げ具合だけでなく、右側の看板が「北海道札幌土木現業所」のままであることからもわかります(末注①)。しかも、最近のものだと川名の由来が記されているのですが(末注②)、本件左側には記されていません。Pankechubeshinaigawa というローマ字併記も古さを感じさせます。gawa。最近のは英語併記されているので(末注③)、本件には「いいものを見た」と感慨しました。なお、川名のアイヌ語原義については昨日ブログで言及しました。ただしまだ勉強不足です。

 一昨日のバスツアーで、この川と川沿いの道が町の歴史にゆかり深いことを知りました。
当別 パンケチュウベシナイ河畔 古道
 画像左方の電柱に「元町」という袖看板が掛かっています。ここが町の発祥だったわけです。

 場所を現在図に示します。
現在図 当別町元町 パンケチュウベシナイ川河畔 古道
 赤い矢印が前掲画像の撮影位置と向きです。パンケチュウベシナイは当別の市街をくねくねと北から南へ流れ、南方で当別川に合流します。前掲画像はパンケチュウベシナイの左岸で、川沿いの道を地図上に橙色でなぞりました。

 写真を撮った地点の南側には阿蘇公園という公園があります。その公園にある説明板によると、明治の初め、岩出山伊達家(現宮城県)の移住先遣隊がこの地に達しました。上掲図だけ見ると、移住者たちは当別川を下流(南方)から遡り、支流のパンケチュウベシナイに入ったのだろうと思います。いや、私はそう思ってしまいました。

 当別町を広域で俯瞰します。
現在図 当別町広域 当別川
 赤いを付けたところが前掲画像の地点です。赤いで囲った当別川は南へ流れて石狩川に合流します。

 伊達家一党は当初石狩に入植する予定でしたが、土地が良くなかったのでさらに新天地を求めました。ならば当別に達するには、石狩川を遡って当別川に入ったのだろうと私は想いこんだのです。バスツアーで案内してくださった当別歴史ボランティアの会のガイドさんの話を聴いて、そうではないことを知りました。逆です。パンケチュウベシナイを上流から下ってきました。何事も、話は聞いてみるものです。
 
 注①:2018.10.16ブログに関連事項記述
 注②:5月10日ブログに関連事項記述
 注③:3月20日ブログに関連事項記述

2020/09/26

弁華別の「ヶ」

 当別町の旧弁華別小学校近くで見かけた電柱銘です。
電柱銘 第2弁ヶ別幹 当別町弁華別
 「第2弁ヶ別幹」。

 このあたりの地名は弁華別です。「華」の字は画数が多いので、便宜的に「ケ」にしたのでしょう。しかし、見たところ「ヶ」は小文字です。これは「一か月」とか「一箇所」の「か」や「箇」に当てる場合に似ています。それにつられると、「弁ヶ別」は「べんかべつ」と読みたくなります。
 弁華別の読みは「べんけべつ」です。昨日ブログでお伝えした弁華別小学校も、新聞記事には「べんけべつ」とルビを振っています。
 本件電柱銘の「ヶ」は大文字でもよかったと思うのですが、なぜ小文字にしたのだろう。いや、小文字が間違っているというのではありません。あえて小文字にしたくなった心の襞みたいなものに惹かれたのです。

 たとえば札幌市の地名の「羊ケ丘」は、市の公式の町(字)名表記は大文字の「ケ」です。しかし、その地名に所在する「さっぽろ羊ヶ丘展望台」は小文字の「ヶ」で表記しています。「ひつじがおか」などの「が」は、格助詞由来でしょう。これに「ヶ」を当てるとき、もともとは小文字にするという不文律があったと思われます。しかるに札幌市が「羊ケ丘」と「ケ」を大文字にしたのは、行政地名としては小文字がなじまないと判断したのかもしれません(末注①)。その心の襞も気になります。
 ためしに神奈川県湘南海岸の「稲村ヶ崎」などを調べてみたら、江ノ電の駅名は小文字の「ヶ」ですが、鎌倉市の町名は「稲村崎」です。由比ヶ浜、七里ヶ浜も由比ガ浜、七里ガ浜。行政的に小文字の「ヶ」は禁忌なのだろうか。私だけかもしれませんが、これらの地名に「ガ」と表記すると何か硬い印象を抱きます。由比ガ浜より由比ヶ浜のほうが柔らかく感じるのは小文字のヶの効用でしょうか。脇道に逸れました。

 そこで弁華別に戻ります。この「華」は羊ケ丘や稲村ヶ崎の「ケ」や「ヶ」とは異なります。助詞の「が」の意味ではありません。もちろん、「一か月」や「一箇月」などの基数詞的な「か」「箇」を表記する「ヶ」でもない。にもかかわらず本件電柱銘「第2弁ヶ別幹」は、小文字表記の「ヶ」としています。行政地名では助詞「が」の小文字表記「ヶ」を避ける傾向が窺われるのですが、本件には別の論理(というより心裡か)がはたらいて、逆に小文字にしたようです。
 いま私は弁華別の「華」を「助詞の『が』の意味ではありません」と記しました。しかし「待てよ」と思い直します。弁華別は「ペンケ・チペシナイ」に由来するそうです。昨日のバスツアーでいただいた資料に引用されている山田秀三先生の著述によると、「チペシナイ」は元来「チクシナイ」で、アイヌ語の語義は「チ・クシ・ナイ」(我ら・下る・川)といいます。ペンケは、パンケ(上流側の)に対する「下流側の」意です。弁華別は、ペンケチペシナイの「川名が長いので、略してペンケ・ベッ(上の・川)とも呼ばれていて、この字を当てたか」(末注②)。
 とすると、です。
 「ペンケ」「パンケ」の「ケ」は、日本語の助詞「の」に近い意味の接尾辞ではなかろうか。「羊ヶ丘」の「ヶ」すなわち助詞の「が」と同じ連体詞的意味に取れなくもない。しからば「弁華別」→「ペンケペツ」という原義に遡り、「華」を「ヶ」と小文字表記するのは理に適っているとも思えてきました。弁ヶ別、悪くないですね。

 本当は当別町の電柱銘をもう一つ採り上げたかったのですが、弁ヶ別幹だけでいっぱいになりましたのでやめます。

 注①:「さっぽろ羊ヶ丘展望台」のリーフレットでは、所在地も「豊平区羊ヶ丘1番地」と小文字の「ヶ」と表記している。近くにある「札幌ドーム」のリーフレットでは「豊平区羊ケ丘1番地」と大文字表記である。前者(札幌観光協会)も後者(株式会社札幌ドーム)も札幌市の出資団体だと思うが、対応は異なるようだ。森林総研北海道支所のリーフレットは「豊平区羊ヶ丘7番地」と小文字表記。国立の法人だからといって(それゆえに?)札幌市の町名表記に忠実とは限らない。
 注②:山田秀三『東北・アイヌ語地名の研究』1997年、p.56

2020/09/25

28年前の建物を、初めて再見する

 手稲郷土史研究会のバスツアーに参加しました。今回の行先は当別町です。
 
 私の目当ては、町内の廃校舎でした。
当別町 旧弁華別小学校
 旧弁華別(べんけべつ)小学校です。

 ツアーの行程では当初、現地では下車せずバス車窓からの見学という予定でした。札幌建築鑑賞会スタッフにして手稲郷土史研究会の役員でもあるSさんがツアー担当役員さんに口添えしてくださり、下車していただけることになったのです。
 私はこの校舎に思い入れがありました。といっても、私が現地を訪ねるのはこのたびが初めてです。かねて一度拝みたいと思っていました。

 というのは、札幌建築鑑賞会の通信『きー すとーん』の記念すべき第1号に、この校舎の記事を載せているからです。
札幌建築鑑賞会通信「きーすとーん」第1号 弁華別小記事
 記事はJさんという会員の方に書いていただきました。第1号は1992(平成4)年7月の発行で、もう今から28年前です。

 Jさんは当時、北海道新聞の創立50周年記念・読者参加企画に参加し、「北の時代を考える女性の会」の一員として取材執筆しました。テーマとしたのが道内の古い木造校舎です。Jさんを含むメンバーの活動は1992(平成4)年4月、道新の特集記事「細見『北の時代』 どう生かす歴史的建物」として実を結び、紙面を飾りました(2018.10.19ブログに関連事項記述)。
 1991年に札幌建築鑑賞会を発足させるにあたり、私はこのメンバーの方々にお世話になり、1992年の通信創刊でも記事をお願いしたしだいです。道新の特集記事に書ききれなかった余話などを書いていただきました。 

 28年前のJさんの原稿と一緒に現在の姿を写真に収めました。
当別町 旧弁華別小学校 1992年の写真とともに
 原稿に添えたのは、Jさんが当時撮った写真です。当時の写真には、校舎の外壁に「祝開校百周年記念」と貼られています。1892(明治25)年に当別尋常小学校の分教場として開校し(末注)、この校舎は1937(昭和12)年に新築されました。1992年当時で築55年です。「外形が学校らしいと評判の校舎ですから長く使いたいと大切にしています」という町役場職員や「冬は寒いですが木は感触があたたかいですから貴重なものと町ぐるみで護っています」という校長先生の言葉を紹介しています。

 Jさんの記事から28年。当時の築55年の半分の歳月をさらに重ねたことになります。Jさんはその後、ご家族の転勤にともなって本州に転居され、2012(平成24)年にお若くして亡くなりました。学校は2015(平成27)年3月に閉校し、旧校舎は町の所有から離れたそうですが、健在です。
 このたびは10分あまりの滞在で、外観のみを眺めただけでしたが、この28年のことがよみがえってきました。さまざまな人との出逢いがあったことや、私自身の浮き沈みです。勝手に心象風景を重ねてしまっただけといえばそれまでですが。泉下のJさんに、「学校は閉じられましたが、建物は今も残ってますよ」と心の中でお伝えしました。

 道新2013(平成25)年10月17日記事で弁華別小学校のことが特集されています。 
北海道新聞記事2013年10月17日記事 弁華別小
 この年の夏、M自動車がテレビコマーシャルのロケで校舎を使いました。当時まだ現役だった学校の建物をテレビのコマーシャルに映すというのは珍しかったのではないでしょうか。と思って、今回のツアーの配布資料を見たら、この町の現町長はM商事の元幹部社員と知りました。M商事は日本を代表する旧財閥の中心企業であり、M自動車はその系列です。町長は2010年に当別に移住、2011年に町議となり、2013年に町長になりました。コマーシャルが撮影されたのはその年です。

 などと想いつつ、さらに新聞のスクラップで面白い記事を私は切り抜いていました。
 道新の1997(平成9)年5月11日「地域からの意見・異見」という紙面で、「北海道史語る廃屋残せ」と述べている方がいたのです。その方の肩書きに「十勝M自動車販売社長=帯広」とあります(Mは実名)。さきほどのコマーシャルを作った自動車会社の販売子会社の方らしい。この自動車会社(の系列)は古い建物に愛着を持つ人が多いのだろうか。そういえば、同じグループ企業のM地所は、総本山の東京丸の内で「一丁倫敦」煉瓦建物を保存している。

 それにしても、「廃屋残せ」という大胆な「意見・異見」を久しぶりに読んで心が洗われました。いま私は「大胆な」と形容したとおり、気の弱い(?)私には、かような主張はなかなか開陳できません。私などとは違って会社社長という社会的地位のある方の(今はたぶん現役は退かれていると思いますが)発言に勇気づけられました。以下、一部引用します(太字)。

 (前略)戦後の日本は明快な戦後処理と歴史観を欠いていた、ということがよく言われるが、北海道の場合、それに加えて少なくとも開拓以来の百有余年の歴史をも顧みてはいないのではないだろうか。本州並みの経済レベルを目指すばかりで、先人が自然と共生するべく労苦を重ねたその足跡を、歴史として考えてこなかったのではないだろうか。(中略)
 北海道にとっては、開拓以来に限ってみても先祖というにはまだまだ身近な曽祖父母や祖父母の生活の場、息づかいが感じられる建物はいかに朽ちていても、みすぼらしくても“北海道の歴史”なのである。(中略)
 廃屋といっても、今ではほとんどが戦後のものであろうが、それも残された、確かな北海道の歴史であり、そこに生きた人々の思いと足跡がある。先人が残し、朽ちようとしているもの、それらが何を思い、何を語ろうとしているのか、心を傾け、何かを受け継がなければならないのではないだろうか。その先にこそ、北海道の確かな二十一世紀があるのだと思う。

 念のため申し添えますが、引用しなかった箇所も含めこの「意見・異見」に私が100%寸分たがわず賛成するわけではありません。しかし、それこそ「心を傾け、何かを受け継」ぎたいと思います。
 旧弁華別小で下車を許してくださった手稲郷土史研究会担当役員さんに感謝申し上げます。

 注:当別歴史ボランティアの会『当別歴史ガイド』2005年、p.33

2020/09/24

白石小学校の郷土資料室を鑑みる

 白石小学校の郷土資料室を見学させていただきました。
白石小学校郷土資料室-1
 白石小は、前身の学問所「善俗堂」の創立1872(明治5)年をもって開校とし、今年で148年を数えます。
白石小学校郷土資料室-2
 学校の郷土資料室は子どもたちの地域学習の教材となっているのみならず、私のような市民の見学も受け容れていただけるのはありがたいことです(現在は感染症予防のため、団体見学はお断りしているとのこと)。 
 ただ、昨今の先生方は何かと校務に忙殺されていると聞きます。この種の財産の管理(物理的な保存というだけでなく、質的な維持向上)に努めるのは大変だろうなあと同情も禁じえません。私のような校外からの見学者は滅多にいないのかもしれませんが、個別対応していただくのは申し訳ないという気持ちも生じます。

 私の気を惹いた展示物です。  
白石小学校郷土資料室-3 旧校舎俯瞰図
 古い校舎の俯瞰図が描かれています。これは意外と珍しいのではないでしょうか。説明などは付けられていないので、いつごろ作られたものか気になりました。
 
 右下に「白石○○小学校」「札幌郡白石村」と書かれています。
白石小学校郷土資料室-4 旧校舎俯瞰図 クレジット
 ○○の箇所は二段にわたって、「尋常」と「高等」のようです。その下のローマ字筆記体は署名でしょうか。その後にブロック体でN.MIMURAと読めます。さらにその下に「2594 OSAKA&TOKYO」と。この2594が制作年かしら。皇紀か。だとすると、西暦に換算して1934年。和暦では昭和9年になります。
 札幌市白石区役所編『白石歴しるべ』1999年によると、白石小学校は「昭和8年、新校舎を建てるために、しばらく二部授業を強いられ、昭和9年6月、校舎の全面改装され、校地も1,300平方メートル増えた」そうです(p.19)。俯瞰図は、新校舎建設に際してまたは落成を記念して、描かれたのではなかろうか。あらためて、学校の周年記念誌をひもといて確かめてみましょう。

2020/09/23

煉瓦転生 その2

 8月26日ブログで、西岡の元リンゴ倉庫の解体煉瓦の行方について記しました。持ち主Nさんからお聞きした「札幌市内の2箇所で『使われたらしい』」という話のうちの一箇所、「赤れんがテラス」(中央区北2条)です。
 ではもう一箇所はどこだったか。同日ブログでは触れませんでしたが、私はNさんから大まかな場所をうかがってました。それは「JR白石駅近くのライブハウス」です。しかし、Nさんはその「ライブハウス」の正確な所在地や名前はご存じではないようでした。これはまた、気になります。Nさんの言葉だけを頼りに、私は白石に足を運びました。まるで刑事の足取り捜査の気分です。テレビドラマや推理小説の世界でしか知りませんが。

 結論的にいうと、所在を突き止めることができました。
西岡元リンゴ倉庫の解体煉瓦 白石
 Nさんのおっしゃるとおり、白石区内の某所です。ただし「ライブハウス」ではありません。とある倉庫で保管されていました。

 この仔細はあらためてお伝えすることとし、ひとまず措きます。というのは、札幌建築鑑賞会の「大人の遠足」を来月、白石で開催することになったため、そのネタばらしのおそれがあるからです。先日の黒澤映画の件(9月13日ブログ参照)といい、思わせぶりが続いて申し訳ありません。世の中の動きに呼応するかのように、札幌建築鑑賞会も私も再活性化しつつあります。鑑賞会の行事は、今月末に通信「きー すとーん」を発行してご案内する予定です。会の公式ブログでも、おってお知らせします。

 このたび白石で見せていただいたNさんリンゴ倉庫の解体煉瓦では、刻印も確かめることができました。
西岡元リンゴ倉庫の解体煉瓦 白石 ○Sの刻印
 ○Sと刻まれています。ほかならぬ白石の「鈴木煉瓦」産であることの証しです。8月26日ブログに載せた赤れんがテラス内の物件では、刻印は確認できませんでした。内壁に長手積みで貼られているため、刻印が刻まれた平(ひら)面は隠れてしまっているからです。このたびは平積みされた煉瓦の最上面で鑑みることができました。

 2015.1.18ブログに載せたリンゴ倉庫現存時の画像です。
沼田さん倉庫④
 2012(平成24)年に、刻印も撮ってました。同日ブログに記したとおり、旧陸軍施設に用いられた煉瓦の解体材と伝わります。煉瓦が焼かれたのは、月寒に兵営が置かれた明治後期でしょう。昭和戦後期、リンゴ倉庫を建てるに当たり貰い下げて再利用されました。

 明治時代に白石で焼かれた煉瓦が月寒で使われ、昭和戦後期に西岡で再利用され、平成になってまた白石に戻ってきた。いまはまだ倉庫で眠っていますが、令和の御世に三度、日の目を見ることでしょう。

 注:鈴木煉瓦については本年3月7日ブログに関連事項記述

2020/09/22

北部軍のアルバム

 さらに昨日ブログから続き、元北部軍司令部経理部に勤務していた原田さん(9月1日ブログ参照)の話を綴ります。 
 
 原田さんに見せていただいた古いアルバムです。 
原田さん アルバム 表紙
原田さん アルバム 見返し
 戦前からの写真が貼られていて、原田さんの人生が凝縮されています。その写真もさることながら、実はこのアルバム自体が史料です。

 見返しに「昭和十九年十月廿八日(土曜日)北部軍経理部・珠算大會於個人優賞・記念品」、その左下には網掛けしましたが原田さんの名前(当時旧姓)が手書きされています。名前の下の(二十二才)は、当時の原田さんの年齢です(数え歳か)。アルバムは、職場のそろばん競技大会で優勝したときの記念品でした。
 北部軍司令部の経理部のどれだけの職員がその大会に参加したか聞き漏らしましたが、9月20日ブログに載せた集合写真では経理部経営科の女性職員が18人、写っています。経営科にはこのほかに男性職員が30人ほど在籍していました。経理部には、経営科のほかにも「主計科」とか「需用科」などの科があったそうです。
 原田さんが御年90代半ばを過ぎてなお大変記憶力に優れていることはこれまでも記してきましたが、若い時分からとても秀でた方だったと窺えます。アルバムは原田さんの若き日の思い出です。

 まったく余談ながら、アルバムの表紙には「ALBUM」とあります。1944年であっても敵性語として排除されず、ほかならぬ軍が授与したのですね。

2020/09/21

月寒の坂

 昨日ブログの続きです。 
 戦時中に北部軍司令部に軍属として勤めていた原田さんは当時、豊平橋のたもとにお住まいでした。右岸側の豊平です。実は、かつて豊平にお住まいだったことが、私が原田さんを知るきっかけになりました。間をつないだのは、豊平の名士で厚別旭町の功労者でもあった阿部仁太郎です。原田さんのお父様は戦前、豊平で家を建てるのに土地を借りました。その地主だったのが阿部仁太郎です。私は近年、仁太郎の厚別での足跡を調べて「厚別歴史写真パネル展」などで発表しました(末注①)。それを原田さんがご覧くださったのです。

 さて、原田さんは女学校を出て北海製靴(9月2日ブログ参照)に勤めたのち、1943(昭和18)年から北部軍司令部に転職しました。月寒の司令部までは豊平から歩いて通ったそうです。 

 札幌市豊平から豊平町月寒(当時)までの地理を、色別標高図で示します。
色別標高図 豊平から月寒まで
 標高15m未満から5mごと7色段彩で作りました。赤いが原田さんのお住まい、白ヌキ○が北部軍司令部(現在の月寒中学校)のそれぞれあったところです。その間の距離を現国道36号で計測すると3.5㎞になります。その行程を白ヌキ太実線でなぞりました。
 国道は木炭バスが通っていたそうですが、「月寒の坂を上がれずによく止まったので」、使わなかったと原田さんは言います。月寒の坂は、上掲図の白ヌキ実線途上に赤いを付けた地点です。望月寒川が急な崖を削っています。

 国道36号の望月寒川に架かる月寒橋(末注②)から、月寒の坂を望みました。
国道36号 望月寒川 月寒橋 月寒の坂南望
 当時から較べると道路勾配などはたぶん改良されているでしょう。木炭動力ではきつかったんだろうなあと想いを馳せました。
 ところで、前掲の地図を確かめるまでもなく、この坂を上ったらすぐ月寒の街です。豊平からの距離を鑑みるに、ここまでバスで来て、バスが止まったらここから歩いてもよかったのではと思いました。しかし、思い直しました。当時、1里足らずの道のりは、歩くのが普通だったのでしょう。
 昨日ブログに記したとおり、北部軍司令部の経理部は1944(昭和19)年5月に札幌商業学校(あらため札幌豊陵工業学校)に移転しました。原田さんのお住まいからは、かなり近くです。

 注①:2017.9.9同11.27同11.30ブログに関連事項記述
 注②:月寒橋については2018.8.28ブログに関連事項記述

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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