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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/08/31

南区澄川で本願寺道路の跡をたどる ②

 昨日ブログに載せた場所を私が本願寺道路(本願寺街道)跡と睨んだ根拠を綴ります。
 
 「札幌郡各村地図」1874(明治7)年からの抜粋です。
札幌郡各村地図 抜粋 平岸村のあたり
 この古地図は(この古地図も)拙ブログで折々引用させてもらっています。7月18日ブログに載せて、本願寺道路に言及しました。黄色ので囲ったあたりです。その上方の「平岸村」(文字は下から上へ逆さ)と書かれた村落に沿った道筋が大きく弯曲して南下し、南西方面へ通じています。

 この黄色ので囲ったあたりで湾曲した道を、私は本願寺道路の一部とみたのです。そしてこの弯曲を現在に当てはめた結果、昨日ブログに載せた風景に痕跡の匂いを嗅ぎ取りました。したがって、冒頭に述べた「私が本願寺道路(本願寺街道)跡と睨んだ根拠」というのは、次の二点の考証に集約されます。
 (1)古地図に描かれた弯曲した道を、「本願寺道路の一部」とみなしうるか?
 (2)その湾曲を現在に当てはめると、昨日ブログに載せた場所になるか?

 まず(1)を考証します。
 湾曲した道は南西へ進み、現在の石山から豊平川の右岸に沿って定山渓方面に至ります。1871(明治4)年に東本願寺によって開かれた有珠新道(本願寺道路)を想起させる道です。石山より南西では、現在の国道230号の原形とも見ることができます。その本願寺道路の「終点」の碑が立つのは、昨日ブログで述べたとおり、平岸通に面する澄川墓地の一隅です。前掲図でいうと、黄色のの上端、湾曲した道が平岸村の村落につながる地点に当たります。

 「終点」碑をその場所に立てた根拠とされる古図面です(末注①)。
札幌ヨリ有珠に至ル新道ノ図 抜粋 有珠新道の終点あたり
 「札幌ヨリ有珠ニ至ル新道ノ図」から抜粋しました(末注②)。北を上に図面の向きを変えたので、文字が逆さになっています。

 明治の初めの頃の道筋が幾つか破線で描かれている中で、なかんづく朱記されているのが表題の「有珠ニ至ル新道」です。朱書き破線は、黄色の矢印を付けた先から南へ引かれています。横書きで「平岸村」と書かれた村落の南端です。それがちょうど現在の澄川墓地の付近とみなされて、「終点」碑が立てられたのでしょう。
 
 その部分をトリミングします。
札幌ヨリ有珠に至ル新道ノ図 抜粋 有珠新道の終点あたり 拡大
 「平岸村」の人家の左下(南西側)に描かれているのは天神山でしょう。その東側から朱書きで始まる有珠新道はやはり大きく弯曲し、川をまたぎます。左方(西方)で豊平川とおぼしき大きな川に注ぐこの川は、精進川のようです。

 ここで冒頭「札幌郡各村地図」の黄色ので囲った部分に戻ります。
札幌郡各村地図 抜粋 平岸村南端から精進川のあたり 拡大
 図の上端で、赤い線で描かれた道が二股に分かれるあたりが天神山です。人家をなぞらえたであろう赤いドットに沿って南下する道の弯曲感は、前掲「有珠ニ至ル新道ノ図」のそれと似通っています。南の方でまたぐ川は「ショウジン川」(文字は逆さ)です。前掲「有珠ニ至ル新道ノ図」は近代的測量に基づく地図とはいいがたく、一方「札幌郡各村地図」はその後の地形図の精緻さに近づいています。両者を単純に重ね合せることはできませんが、「各村地図」に描かれた弯曲は有珠新道たる本願寺道路の原形とみてよいのではないでしょうか。

 「札幌郡各村地図」の1年前に作られた「札幌郡西部図」1873(明治6)年からの抜粋です。
明治6年札幌郡西部図 平岸村南端から精進川のあたり
 やはり、道は弯曲して描かれています。
 これらの地図が描かれたのは、本願寺道路が開かれた1871(明治4)年から2、3年後です。2、3年の間に道が付け替えられることは考えづらいので、描かれている弯曲は素直に元々の街道と受け取ってよいとも思うのですが、念のための意味も込めて考証しました。よくいわれることですが、本願寺道路は札幌本道(室蘭街道)に取って代わられて“廃道”化します。そのような道を2、3年の間に付け替えるのはなおのこと考えづらい反面、逆にその後の事情に合わせて短期間で改良した可能性もないとは言えません。もともとこのように弯曲して開かれたのだとしても、ではどうしてかくも湾曲させたのか? 弯曲にもう少しこだわりたいと思います。

 注①:『平岸百拾年』1981年、pp.221-222、pp.471-472参照
 注②:本図については2015.7.26ブログに関連事項記述
 
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2020/08/30

南区澄川で本願寺道路の跡をたどる ①

 札幌の郷土史に通じている方がこの標題で思い浮かべるのは、澄川墓地の一隅に建つ碑のあたりでしょうか。平岸通に面して、1980(昭和55)年に「本願寺道路終点」の碑が立てられています。ちなみに、澄川墓地は「澄川」と冠していますが所在地は豊平区平岸2条18丁目であり、澄川ではありません。ここにもまた平岸と澄川の境界をめぐるせめぎあいが垣間見えるのですが、寄り道はやめましょう。

 正真正銘の南区澄川で、跡をたどることとします。まず、現地で撮った風景からです。
澄川5条9丁目 本願寺道路跡?-1
澄川5条9丁目 本願寺道路跡?-2
 次に、撮影した場所を現在図で示します。
現在図 澄川5条9丁目あたり 広域
 赤いで囲ったあたりです。町名でいうと南区澄川5条9丁目。

 同じ一帯を色別標高図で表します。
色別標高図 澄川5条9丁目あたり 広域
 段彩は標高40m未満から10mごと7色です。白ヌキ□が前掲図の赤いに当たります。

 上掲図で白ヌキ□で囲ったところを拡大します。
色別標高図 澄川5条9丁目 本願寺道路跡?撮影位置
 高低差を分かりやすくするため、標高の段彩を変えました。標高85m未満から5mごと7色です。
 冒頭の風景の撮影位置は黒矢印で示しました。下向き(南西向き)の矢印が一点目、上向き<北東向き)矢印が二点目の画像の、それぞれ位置と向きです。冒頭画像に写る崖沿いの風景が、標高図の段彩からもお察しいただけるかと思います。

 本日は(本日も)ひとまず素材のみの提供にとどめ(最近これが多い)、ここが本願寺道路跡すなわち明治の初めの頃からの(もしかしたらその前からの?)古道であることは、おってあとづけます。

2020/08/29

小泉川と相良川

 本日も素材の提示のみにとどめます。

 「平岸村之図」と題された古図面です(北海道立文書館蔵)。
平岸村之図 明治前期
 作成年は記されておらず、文書の出処もさだかでありませんが、所蔵元の目録によれば「明治前期」とされています。図面に描かれている情報に基づいて推定されたのでしょう。

 わかりやすくするため、北を上向きに変え、着色加筆しました。
平岸村之図 明治前期 着色加筆
 着色してなぞったのは以下のとおりです。
 河川・水路:水色、道路:こげ茶色、天神山:黄色、方位記号:黒色

 いろいろ興味深い地名などが書かれているのですが、このたび注目したのは赤い矢印を付けた先です。
平岸村之図 明治前期 小泉川
 水色でなぞった川とおぼしき線の左側に、「小泉川」と書かれています。
 これまで拙ブログで綴ってきたとおり、この図面で示されている地理上、この流路にこの名前が付けられていること自体はもはや驚きません。
 問題は、川の右側に書かれている箇所です。「相良川」と書かれた文字が線で消されています。相良川。この川名は、別の古図面に描かれた別の場所で観ました(7月14日同月15日ブログ参照)。現在の白石区菊水、かつてツイシカリメム(トイシカラメム)があったとされるあたりに流れていた川です。その下流は現在、暗渠で流れている「小沼川」とみられます。
 私は小沼川、ツイシカリメムの(かつての)上流を、小泉川に結び付けました(5月26日ブログ参照)。前掲の古図面では奇しくもというべきか、私が結びつけた小泉川と相良川の名前が同じところに、後者は線で消されつつも書かれています。これはどういうことなのだろう。だれが、いつ、この川名を書いて、消したのだろうか?
 ちなみに、私がこの古図面での川名を見つけたきっかけは、郷土史の文献です。『郷土誌すみかわ』1981年の表紙見返しにこの古図面が転載されています。よって、前掲のように書かれて消されたのは、少なくとも1981(昭和56)年よりも前であることにちがいはありません。

2020/08/28

コトニ川の昭和戦前期の姿

 昨日ブログに載せた古い河川網図は、鑑み甲斐、楽しみ甲斐、味わい甲斐のある史料です。スルメのように噛めば噛むほど旨味が出てきそうですが、ひとまず素材の提供のみにとどめます。
 本日お伝えするのは、もう一つ別の素材です。先日、手稲郷土史研究会の例会で、札幌市の下水道の歴史を聴く機会に恵まれました。
 そのとき見せていただいた古写真です。
札幌市下水道事業概要1931年口絵写真-2
 札幌の昔の風景を写した写真というと、出どころは郷土史の文献や市公文書館所蔵が多いのですが、上掲はこれまで目にしたことがないものでした。興味を惹いたのは、昭和戦前期の市内の中小河川だったことです。豊平川や創成川(鴨々川)、北大や植物園などは見たことがありますが、それ以外はあまり記憶がありませんでした。
 上掲写真には「西十三丁目線下流開渠曲線 昭和三年度施行」というキャプションが添えられています(『札幌市下水道事業概要』1931年発行、1983年復刻口絵から、以下同)。

 下掲は「西十三丁目線及西十五丁目線下流開渠合流点 昭和三年度施行」です。
札幌市下水道事業概要1931年口絵写真-3
 「下流開渠」とされていますが、これらは自然河川を整形した部分と思われます。かつては下水道が自然河川につなげられ、汚水が放流されていました(末注①)。それで私は「中小河川」と前述したしだいです。流路を直線的に整えて玉石で護岸したのが「昭和三年度」とみられます。

 その場所は下掲の地図でおよそわかります(前掲書から)。
札幌市下水道事業概要1931年折込地図(西13丁目線のあたり抜粋)
 冒頭の「西十三丁目線下流開渠曲線」の位置を赤い矢印、二点目の「西十三丁目線及西十五丁目線下流開渠合流点」を黄色の矢印で示しました。
 黄色の矢印を付けたところには「琴似川支流」と書かれていますが、「コトニ川」としては本流です。このあたりは毎度ややこしいので、説明は割愛します(末注②)。この川跡は前に探訪しました(2016.9.16同9.17同9.19ブログ参照)。なので、いっそう愛着が湧きます。

 この一帯を俯瞰した空中写真です。
札幌市下水道事業概要1931年口絵写真-1
 前掲の地図の方位に合わせて、画像の上下を逆さにしました。左上から右下へ対角線上に伸びているのが鉄道です。真ん中が桑園駅に当たります。この写真も私は初めて見るもので、そそられました。何がどうそそられるかは、素材の提供にとどめるつもりが長くなってしまいましたので措きます。

 この史料は先日、所蔵元に伺って見せていただきました。かように私ばかり楽しませてもらったのではバチが当たります。こちらからも資料を提供したところ先方にもたいそう喜ばれました。ギブアンドテイクということでお許しいただきましょう。

 注①:いまも河川に放流しているが、下水処理場(いまは「水再生プラザ」)できれいにしている。
 注②:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.52-60参照。6月28日ブログほかに関連事項記述

2020/08/27

古い河川網図で小泉川をたどる

 “まぼろしの”小泉川のことは、拙ブログでもこれまで幾たびも取り上げてきました。最近も、7月24日同月26日ブログで上流跡をたどっています。7月29日ブログに記した法務局出張所に出向いた件も、実は古い地番図で川跡を探るのが目当てでした。いろいろ材料はたまっているのですが、冷水やら運転免許試験場に寄り道したりもしてなかなか前へ進めません。

 そもそもなぜこの川にこだわっているかというと、これも前に記したとおり札幌(豊平川)扇状地の古い面(平岸面)をあとづけた川ではないかとにらんでいるからです(2017.10.102020.5.26ブログほか参照)。古々豊平川の痕跡といえるかもしれない。今の豊平川を思い浮かべながら、1万年以上前に「ああ、このへんを大河が流れていたのか」と想像すると、興奮してしまうのです(末注①)。その痕跡がほのかな地形に遺っているのを鑑みると、諸行無常、万物流転、栄枯盛衰を感じて、もののあはれに浸ります。ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

 このたび、古い河川網図でその川筋をたどることができました。
札幌市河川網図1973年 小泉川?
 1973(昭和48)年版です。
 小泉川とおぼしき流路が描かれています。わかりやすくするため、黄色の、青い、赤いを加筆しました。順に、天神山、澄川駅、慈恵女子高校(現札幌新陽高校)の位置です。澄川駅は、この地図では定山渓鉄道として描かれています。定鉄は1973年にはすでに廃止されていて地下鉄が通っていますが、元図が古いのでしょう。

 赤いの慈恵高校の南西から、赤く細い実線が北へ描かれています。凡例によると、河川法の適用を受けない普通河川です。そのせいか、川名は書かれていません。青いの澄川駅の東側を通り、さらに北へ流れます。7月24日ブログで示した小泉川の流路と重なります。ただし同日ブログでは空中写真の読影のため、澄川駅のやや南方くらいまでしかたどれませんでした。それより上流部すなわち慈恵高校のあたりまでは示してなかったのです。この河川網図によって、最上流部まで現況図上で仔細にわかりました。解けなかった謎の答えを教えてもらったような気分です。
 小泉川については『道新りんご新聞』「平岸の歴史を訪ねて」で伴野さんが早くも2014年、すでに川跡をたどっています(末注②)。私が今般示したのは1973年時点の流路であり、当然のことながら時代によって変遷しているでしょう。それを較べてみるのも面白いかと思います。

 注①:現在の札幌面を拓いた豊平川(札幌川)と平岸面を流れた古々豊平川では、水量や水勢は異なっていただろうから同一視はできないと思うが、ひとまずのロマンとしてお許しいただきたい。
 注②:https://www.doshin-apple-news.jp/平岸の歴史を訪ねて/自然史編/ 第8回.幻の川「小泉川」(2014/6/15号)

2020/08/26

西岡の元リンゴ倉庫の煉瓦の行方

 豊平区西岡4条、水源池通です。
西岡4条 水源池通
 このあたりにはかつてリンゴ畑がありました。宅地化されたのは1970年代前半(昭和40年代後半)とみられます(末注①)。

 煉瓦造りの倉庫がリンゴ作りを支えました。
西岡 元リンゴ倉庫の喫茶店
 その遺産は今、珈琲店として活かされています。

 近くにはもう一棟、煉瓦のリンゴ倉庫がありました。
西岡4条 Nさん宅元リンゴ倉庫(現存せず) 
 前者が1952(昭和27)年、後者は1953(昭和28)年築です(末注②)。 

 後者は数年前に解体されました。いま「数年前に解体」と記して「はて、いつだったかな?」と思い直したものの、さだかでありません。2014(平成26)年だったようです(末注③)。解体されたのは知っていたのですが、気になっていたことがありました。解体を報じるテレビのニュースで、使われていた煉瓦がゆくゆく再利用されると伝えられたのです。新たに建てられる飲食店の意匠に用いるというような話でした。

 それからもう、だいぶたちました。この煉瓦はどうなったのだろう。先日水源池通を逍遥して、跡地を訪ねてみました。ちょうど持ち主(だった)Nさんが物置から出てこられたところだったので(そういう場面に私がよく遭遇すると感じるのは気のせいか)これ幸いとお尋ねしました。Nさんには建物現存時の2006年と2012年にお目にかかっています。
 「解体された煉瓦がどこかのレストランで使われると当時聞いたのですが、どうなったかご存じありませんか?」という私の問いに、Nさんから返ってきた答えは…。

 札幌市内の2箇所で「使われたらしい」と。その一つがこちらです。
赤れんがテラス
 赤れんがテラス(中央区北2条)。
 いつ建てられたか、哀しいかなこれまた記憶がはっきりしません。そういえば、この5、6年でした。時系列的には符合します。しかも道庁正門前の通りが、それこそ煉瓦をふんだんに使って歩行者空間化されました。それもたしか近年です。

 この歩道やストリートファニチュアのどこかに使われたのだろうか。 
赤れんがテラス 歩道、ストリートファニチュア
 いや、全体に新しく均質な材料に見えます。ざっと見渡した限り、部分的に古材が使われている気配はありません。それに、この煉瓦は野幌の米澤さんが納品したと聞きました(末注④)。元の持ち主のNさんは「赤れんがテラス」とおっしゃっただけで、詳しい場所はご存じないようでした。
 
 もしやと思って、建物の中を鑑みました。
赤れんがテラス 2階 ブルックリンパーラー
 2階の飲食店の外壁です。

 使われている煉瓦の不均質感、経年感。
赤れんがテラス ブルックリンパーラー 煉瓦
 これは、昨日今日のモノではなさそうです。

 しかも。
赤れんがテラス ブルックリンパーラー 煉瓦-2
 全体に、煉瓦の表面が白みがかっています。これは目地に使われたセメントの跡でなかろうか。

 冒頭の西岡にありしときの煉瓦の表面を観ます。
西岡4条 Nさん宅元リンゴ倉庫(現存せず)小端空間積み
 “小端空間積み”です。
 これは何を意味するかというと、煉瓦の直方体のもっとも大きい面(平ひら面)が地面に対して垂直に積まれるということです。つまり建物の表面に出ます。一方、細長い面(長手ながて)はオモテに出ません。地面に対して水平に積まれ、その面が目地のセメントで接着されるのです(2019.6.24ブログ参照)。

 しかるに、前掲赤れんがテラスの飲食店では、その長手面が地面に対して垂直に積まれ、オモテに出ています。そして、目地らしき跡が付着している。これは、小端空間積みで積まれた煉瓦を長手積みで積み直した、ということではないだろうか。つまり、西岡の解体煉瓦という状況証拠です。
 
 Nさんの元リンゴ倉庫がいつ解体されたか、私は「さだかでありません。2014(平成26)年だったようです」と前述しましたが、拙ブログを検索してみたらこれまた記憶違いでした。なんのことはない、ちゃんと記録にとどめていたのです(2015.1.18ブログ)。
 この倉庫には旧陸軍(月寒の歩兵第25連隊)営舎の煉瓦が再利用されていました。ということは、赤れんがテラス物件の出自が西岡だとすると、再利用ならぬ再々利用という可能性があります。煉瓦は巡る糸車。

 注①:札幌地理サークル編『北緯43度 札幌というまち…』1980年、p.145及び国土地理院空中写真による。
 注②:北海道近代建築研究会編『札幌の建築探訪』1998年、p.120参照
 注③:札幌市サイト「札幌景観資産」ページによると、本件建物は2014年に景観資産の指定を解除されている。
http://www.city.sapporo.jp/keikaku/keikan/keikansigen/keikansisan.html
 注④:UHBみんテレ「となりのレトロ」2019年6月24日放送のロケの際、米澤社長から聞取り。 

2020/08/25

平岸の地理的特異点

 先月下旬からこのひと月ほど、断続的に豊平区と南区の境目を取り上げました。「平岸村の冷水」と「運転免許試験場は、いつ、どこに、なぜ、設けられたか?」です。なぜ私はこの場所とこのテーマにこだわったのでしょうか。などと振り返るのは拙ブログではほとんど意味がありません。この6年にわたって逍遥してきた時空についてその問いに答えるなら、大半は「思いつき」だからです。それ以上でも以下でもない。
 という前提ではありつつもあえて振り返ると、きっかけは前に記したとおり(7月29日ブログ)法務局の出張所に出向いたことでした。そして近くに「平岸村の冷水」なる古跡があることを知り、さらに現地で「旧試験場幹」なる電柱銘を見かけたことです。そのこだわりをこれまたあえて要約すると、「地名の謎」でしょうか。「冷水」は通称地名だったのか、はたまた行政地名(字名)になっていたのか。この場所は平岸だったのか中の島だったのか、はたまた真駒内だったのか。なぜ「旧」試験場なる特異な電柱銘があるのか。
 ではなぜ「地名の謎」にこだわるのか。これまた、私のような性(さが)や癖(へき)の嗜好に「なぜ?」を問うのは意味がなさそうです。どう説明しても後付けになるのですが、「あえて」答えの一つを出すならば、「変わったもの」に対する愛着、かもしれません。
 「冷水」は札幌の戦前までの地形図に載っていますが、戦後は消えます。行政地名としても残っていません。冷水の場所は、現在の公式の町名(行政地名)の区域が入り組んでいます。そこに「旧」試験場なる特異な電柱銘が分布している。つまり“変わり種”の凝縮点ともいえます。地理的特異点(8月10日ブログ参照)です。 
 なぜ「変わったもの」に愛着するか。お察しいただけるかと思いますが、自らの投影でしょう。たぶん。同じようなものや似たり寄ったりのもの「ではない」ものが、世の中に在る。それを再確認して得られる安心感。自己同一性の再確認につながる安心感です。世の中の標準からみたら変わっているかもしれないが、自分も世の中に存在してもよかろう。

 現在図で札幌市豊平区と南区の境目あたりを観ます。
現在図 平岸の町(区域)界 地理的特異点
 赤く網掛けした一帯が「平岸」の区域です(末注)。
 運転免許試験場跡のあたりは、平岸が動物の尻尾のように飛び出ています。前述した「冷水の場所は、現在の公式の地名(行政地名)の区域としては入り組んでいます」を視覚的に示した一例です。この突出感に特異性、珍奇性、変質性を感じてしまいます。変質性は言いすぎか。もちろん、悪い意味ではまったくありません。変質に偏執する私。

 注:札幌市発行「札幌市町名・住居表示実施区域図」(2014年10月6日現在)に基づき作成。「平岸」の町名には現在、すべて条丁目が付く。

2020/08/24

月寒開基百年之碑のDNA配列を探る

 望月寒川の崖上、月寒公園内に立ちます。
月寒開基百年之碑
 1970(昭和45)年9月建立です。碑銘は町村金五揮毫。

 この時代に建てられたとりわけ開拓記念系のモニュメントを観ると、最近はどうしてもプロトタイプを想ってしまいます。
北海道百年記念塔 森林公園記念塔口からの眺め 2018年4月撮影
 北海道百年記念塔は、コンペ結果の「最優秀」案が公表されたのが1967(昭和42)年12月、以後1970(昭和45)年9月の竣功に向けて、完成予想図が道内で広くあまねくプロパガンダされました(末注①)。道内で開拓・開基記念の軌を一にした時期です。各地の記念碑へのインスピレーション、本歌取り、オマージュ、換骨奪胎は想像に難くありません。と今だからこそいえるのですが、かように開眼できたのはホッケン研「札幌ノスタルジック建築散歩」Yさんのせいです。もとい、おかげです。Yさんによって百年記念塔の規範造形的価値が明らかにされました(末注②)。

 では前掲2者を較べて、前者は後者からインスパイアされたといえるのか。
 
 類例を並べてみます。まず砂川市の上川道路開鑿記念碑、1969(昭和44)年建立です(末注③)。
上川道路開鑿記念碑②
 頂部をナナメカットした黒御影石を双塔的に立ち上げ、間に白御影の本体をサンドウィッチ状に挟んでいます。雪に隠れていますが、白御影の底部は曲線的です。
 かたや“本家本元”はどうか。コルテン鋼のパネルを曲線的に積み上げ、尖頂部をナナメカットした双塔です。その双塔によって展望階段室の中心体が挟まれています。とりあえず、これを双塔サンドウィッチモチーフと名づけます。

 北大植物園内の、この碑はどうでしょう。
「瓔珞みがく」碑
 「瓔珞みがくの五十周年を記念して」碑、1970(昭和45)年10月建立です。杉野目晴貞揮毫。
 こちらは白御影の双塔が黒御影の本体を挟んでいます。尖頂のナナメカットや底部に至る曲線は施されていませんが、台座は六花様の平面です。押さえるところは押さえている。

 本家本元の平面はこのとおりです(野幌森林公園リーフレットから-末注④)。
野幌森林公園 リーフレット  1992年?
 雪の結晶がかたどられています。 

 上川道路碑と瓔珞みがく碑を鑑みつつ、冒頭月寒の物件に戻ります。白御影の双塔柱で黒御影の本体を挟んでいるところは「瓔珞みがく」碑と同じです。本件月寒開基百年之碑は、前述の双塔サンドウィッチモチーフにおいて百年記念塔-上川道路碑-瓔珞みがく碑と同じ系譜にあると思わずにはいられません。

 注①:2018.3.25ブログほか参照
 注②:2018.2.6同4.13ブログ参照 
 注③:2019.1.3ブログ参照
 注④:2018.1.11ブログ参照

2020/08/23

運転免許試験場は、いつ、どこに、なぜ、設けられたか?④

 標題の「いつ、どこに、なぜ、」の最後、「なぜ」です。「なぜ、この場所に設けられたか?」を巡ります。といっても、憶測・想像の域を出ません。正しい答えは公文書を漁るなどして実証すべきですが、ひとまずは推理力というか仮説構築力の訓練ということでお許しください。

 (1)人文地理的条件
 (2)自然地理的条件

 (1) 端的にいうと8月11日ブログで述べたキャンプクロフォードとその跡を継いだ自衛隊との近隣性です。
 (運転免許試験場の)開所当時、場内には、交通安全協会真駒内事務所(後に、交通安全協会自動車学園に改称)があり、職員数は十名程度だった。主たる業務は、コースの補修、管理、及び試験業務の補助を担当していた。初心者の指導教習もやっていた。 (中略)
 試験開始前、試験終了後、コースは安全管理協会が管理をして、三十分いくら、のコース使用料を取って練習をさせた。(中略)
 昭和三十年頃の免許受験者は、特殊階級の人間が主流だった。医者、会社の社長、自営業、職業運転手が多かった。 (末注①)
 真駒内駐屯地内には自動車の教習コースが見られます。自動車が世の中に普及し出した1950-1960年代、免許を要する・求める「特殊階級」には自衛隊関係者も多かったのではないでしょうか。

 もう一つの地理的近縁性です。
北海道自動車学校
 試験場跡地から1300mほど北、中の島に老舗の自動車学校があります。1931(昭和6)年に開設され、1961(昭和36)年までは「道内唯一の自動車学校」だったといいます(末注②)。中の島にこの学校が先んじてできていたことが呼び水となったように思えるのです。
 余談ながら、「平岸 運転免許試験場」で電網検索していたら、次のような文面に当たりました。
 昔の人がよく言う、北海道唯一の自動車教習所ってのはまさに平岸の運転免許試験場の事だよ。
 民間の自動車学校ができる前からの言い回しみたいな。ウチの親父や同世代の人もそんな風に呼んでたよ

 これは中の島の自動車学校と試験場がごっちゃになっているのではないでしょうか。前述引用のとおり、試験場でも教習をしていたし、それが(いわば半官半民の)交通安全協会の自動車学校の前身だったことから、混同されたように思います。しかも、中の島のほうが「北海道唯一」の「民間の自動車学校」として先にできていました。なお、かような有象無象の電網情報の一つをあえて取沙汰したのは、モグラ叩きの如く間違いを糾すのが本意ではありません。ことほどさように親和性が高いという証左に思えたのです。
 
 (2) ほかならぬその自動車学校が中の島に作られたことです。中の島の旧地名たる中河原というのは、自動車教習コースの立地として向いていたのではないか。平ぺったい土地をまとまって確保できます。
 試験場跡地からほど近く、豊平川のほとりです。
交通安全協会 自動車学校
 再び「ほかならぬ」と形容しますが、生コン工場の向こうに交通安全協会自動車学園があります。元は(今も?)河川敷地〈高水敷)だったのではないでしょうか。

 以下は本題とは外れます。
 試験場跡の中の島通をはさんで向かい側(西側)です。
中の島通 みはらしハイツ
 画像中央の建物には「みはらしハイツ」と書かれています。古い住宅地図を見たら、ここは「食堂みはらし」となっていました(末注③)。
 札幌管内の免許受験者は、殆どここの試験場に来て、免許を取らなければならなかった。地方から出てくる受験生相手の下宿屋もあった。試験場前には、飲食店、ラーメン屋、代書屋、喫茶店、写真屋と、一通りの店が建っていた。(末注④)
 このアパートは(建物は建て替えられたとしても)試験場の名残物件といえるかもしれない。文化は周縁に遺る。手元のゼンリン住宅地図札幌市豊平区2002年を見たら、「みはらしハイツ」の右隣の建物に「免許指導センター」と書かれています。試験場が移転したのは1982(昭和57)年です(8月10日ブログ参照)。20年たっていても、まだ直截の名残があったか。

 注①:「札幌運転免許試験場の思い出」『郷土誌 澄川ものがたり』2002年、pp.161-164
 注②:札幌市豊平区「とよひらふるさと再発見」北海道自動車学校 → https://www.city.sapporo.jp/toyohira/machi/info/151-05.html#A099 なお、同校のサイトでは「北海道自動車学校の開校は、大正13年8月」とある。
 注③:『ほっかいの住宅地図 札幌市豊平区』1976年
 注④:前掲「札幌運転免許試験場の思い出」『郷土誌 澄川ものがたり』p.162

2020/08/21

運転免許試験場は、いつ、どこに、なぜ、設けられたか?③

 8月11日ブログのテーマを久しぶりに再開します。
 タイトルの「いつ、どこに、なぜ」のうち、「いつ」「どこに(=もともと何があった場所に?)」まではすでに記しました。「なぜ」に入る前に、「どこに」を少し寄り道します。
  この場所は運転免許試験場ができる前、「米軍の通信基地として使われて」いました。通信基地というのが具体的にどのように機能していたか、私は知りません。「なんとなく、コトバの響きからすると」という程度でモノを言います。そもそもこの場所になぜ、通信基地が設けられたか。

 通信基地があった場所を色別標高図で示します。
色別標高図 キャンプクロフォード 通信基地
 標高の段彩は50m未満から5mごと7色で作りました。赤い太実線で囲ったのがキャンプクロフォード(米軍基地)の敷地で、赤いが通信基地の地点です。

 この場所を、広域で俯瞰します。
色別標高図 キャンプクロフォード 通信基地 広域
 段彩は標高10m未満から30mごと7色です。
 赤いを付けた通信基地は、札幌(豊平川)扇状地の扇頂近くに位置しています。
 といっても、実際の扇頂は扇状地の新旧両面ともにもう少し南方です。この地点は、扇状地新旧両面の“いいとこ取り”をしているように見えます。つまり、両方の扇が重なって、もっとも広角に広がる場所です。赤い実線で示した広がりです。

 模式的に示すと、こんな感じでしょうか。
豊平川扇状地の新旧両面を、扇を使って模式的に示す
 左側の大きい扇子が豊平川扇状地の新しい面(札幌面)、右の小さいほうが古い面(平岸面)です。札幌面の“扇状”角は約80度だそうですから(末注)、それに合わせて扇子を広げました。それなりに芸が細かい。古い平岸面を新しい札幌面が“上書き”したので、左を扇子を上に載せましたが、いうまでもなく実際の標高が上回るのは平岸面のほうです。

 米軍通信基地は赤いを付けたところに当たります。これがもし、それぞれの扇のカナメの位置だと、どうなるか。標高は高いのですが、扇の“へり”を囲っている地形(新しい面の西方は藻岩山、東方は古い平岸面の段丘、古い面の西方は藻岩山、東方は月寒丘陵)に遮られて、広角になりません。
 キャンプクロフォードの中でこの赤いの地点は適度に標高があって、扇状地及びその後背低地をもっとも広域に見渡せます。通信機能を果たすには最適だったのではないか。

 それにしても、豊平川扇状地の新旧両面を実際の扇で説明したのは、私は見たことがありません。わかりやすいんだか、わかりづらいんだか。扇状地では河川の網流によって“襞”ができるというので、その意味では扇子は適っているかもしれない。

 注:北海道大学総合博物館ほか編『豊平川と私たち-その生い立ちと自然-』2011年、p.15

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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