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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/07/14

相良川

 「上白石村ノ図」と題された古図です(北海道立文書館蔵)。
上白石村ノ図
 作成年は明記されてません。左上に示されている方位によると、7時半の向きが北です。

 その方位に合わせて、北を真上に向きを変えました。
上白石村の図 方位北を真上に調整 
 薄い和紙で変色も著しいので、着色を試みます。 

 川とおぼしきを水色でなぞりました。
上白石村の図 方位北を真上に調整 川を着色
 左下の黄色の○で囲ったところに「豊平橋」と書かれています。右上(北東)に向かって太くなぞったのが豊平川です。右方の黄色の傍線を引いたところ3箇所に川名が記されています。上は「小川」、右下が「月寒川」、左下が「望月寒川」です。
 「村界線」を橙色の実線でなぞりました。黒の実線でなぞったのは鉄道のようです。幌内鉄道の札幌幌内間が通じたのは1882(明治15)年なので、この図はそれ以降に作られたとみられます。白石本通らしき線が引かれていますが、1890(明治23)年に架けられた豊平川の東橋は描かれてません。とすると、作図は1880年代半ばまたは明治20年ごろでしょうか。

 鉄道の左下(南西)あたりを拡大します。
上白石村の図 方位北を真上に調整 トイシカラメムあたり拡大
 小河川が網流していて、豊平川に伴走しているかのようです。沼沢らしきカタチが二つ、描かれています。左(西)側の沼沢から発した川に「相良川」と書かれています。赤い矢印を付けた先です。右(東)側の沼沢にも、黄色の矢印の先にカタカナが添えられています。下から上に「ヲシトリノマ」でしょうか。鴛沼?

 明治29年地形図に照らしてみます。
明治29年地形図 小沼川 国道12号、函館本線の間
 前掲古図に描かれた「相良川」は、のちの小沼川と重なります(5月26日ブログ参照)。
 その上流にある左(西)側の沼沢は、位置的には現国道12号の北東側のようです。地形図の「白」と書かれたあたりの左上くらいでしょうか。いわゆるトイシカラメム(ツイシカリメム)は国道の南西側、現在の札幌東高校の近くにあったとされます(2019.3.2ブログ参照)。位置が若干異なりますが、誤差かもしれません(末注)。このあたり全体が低湿地だった可能性もあります。

 現在地に当てはめると、6月10日ブログに載せた「菊水上町いずみ公園」です。
菊水上町いずみ公園
 公園の命名は、ますますもってまんざらでもありません。

 注:2019.3.2ブログに載せた古地図(大村耕太郎資料)にも、二つの沼が描かれている。同図では、二つの沼は現国道をはさんで位置しているように見える。南西側の沼(東高の近くの沼)は1965(昭和40)年頃まで残っていた(6月5日ブログ参照)。こちらがトイシカラメムとされるのは、あとあとまで残っていたからかもしれない。もしかしたら、もう一つの沼(国道の北東側)あるいはこのあたりの低湿地を総称していたのだろうか。
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2020/07/13

境目は、やはり面白い⑲ 明治時代の産物

 旧札幌市と旧円山町の境界探訪、ようやく最終回です。これまで彷徨ってきた時空を振り返ります。
 旧河道による境目
 ↓
 道幅の違い・旧札幌市側の道の広さ
 ↓
 旧札幌市側でもことさら幅広い市道北3条線と北4条線
 ↓
 裏側にも拡げた札幌の大手前通り
 ↓
 裏側は途切れ途切れの道
 ↓
 元は途切れてなかった?(筋を通そうとした?)道

 北3条線や北4条線が札幌本府の“裏”(西側)にも拡げられたのを、当初私は意外に想いました。たぶんそれは京都や奈良のような古代条坊都市(平城京や平安京)とか近世の城下町の印象があったからでしょう。“君子南面”で、北側には主だった市街がないという先入観です。
 札幌の格子(碁盤目)状街区の形成を歴史的に論じる能力はありませんが、仮に直截の由来が近世城下町だったとしても、一足飛びに近代化する過程で近世の論理では間に合わなくなったことでしょう。中世戦国時代を引きずった城下ならば、本府(開拓使本庁、北海道庁)の裏側は天然の要害(低湿地)のままでよかった。近代的な合理性に鑑みれば、中心官衙に裏も表もない。
 というリクツは後付けです。明治中期北海道の為政者や官吏は、実は「えい、や」でやってしまったのかもしれません。「東側が15間だから、西側も15間でよかろう」と。コネイ、メム(低湿地)も、なんとかなる。杓子定規、と決めつけたら明治のお役人に失礼でしょうか。
 実際にはなんとかならずに、コネイは植物園としてこんにちに至りました。開拓前の原風景を留める都心の文字どおりオアシスです。結果的に道が途切れ途切れとなり、通過交通が遮られることになった。ベニバナトチノキの並木道はそのたまものといってよいでしょう。

 たまものといえば、こちらもそうです。
北4条ミニ大通 西17丁目
 北4条ミニ大通。札幌の中心部で“分不相応”に広い生活道路ゆえか、歩行者専用道路が設けられました。植えられた樹々も立派に成長しています。普通の歩道の植樹枡では、なかなかこうはいきません。
 偶然か必然か、明治人の杓子定規のせい、もとい、おかげです。

2020/07/12

NHK札幌 新放送会館の石段

 中央区北1条西9丁目に建物が完成しています。
NHK札幌新放送会館 
 建物もさることながら、特殊な設備の引越しは大変らしい。先日、ちらりと聞きました(7月3日ブログ参照)。 

 もともと市立札幌病院があったところです。2016年2月15日ブログで、跡地に遺っていた石垣のことを記しました。
リンケージプラザ 石垣
 市立病院創建当初の旧河道遺構と私はにらんでいたのですが、造園家Rさんによる後年の仕業でした。

 『市立札幌病院百年史』1972年に載る「明治23年創立当時」の配置図です。
市立札幌病院百年史 明治23年配置図
 赤いで囲ったところに「石造下水」、橙色のに「窪地」、黄色のに「石垣」と書かれています。この「石垣」の名残と想ったのです。前掲画像の石垣は西9丁目と西10丁目の境目の道路沿い、すなわち上掲配置図でいうと左端です(末注①)。そのあたりには石垣は描かれてません。図と正確に照らせば違いに気づくべきでした。

 Rさんが積んだ石垣があったところの現在です。
NHK札幌 新放送会館 西側面
 前掲明治23年当時の配置図を見ると、南から「院長公宅」、「屍室」、「解剖室」、「汚物焼却場」がありました。石垣、窪地、石造下水を境目にしてゾーニングされていたように見受けられます。汚水の処理に「石造下水」が使われたのかもしれません。汚物焼却場、解剖室、屍室に連なって院長公宅という配置にも、そこはかとなく意志を感じてしまいました。

 「札幌市街之図」1890(明治23)年から、このあたりを抜粋して観ます。
明治23年札幌市街之図 札幌区立病院
 「札幌区立病院」と書かれた一画を赤いで囲みました。上掲配置図に描かれた「石造下水」はもともと、北側の博物館(現植物園)敷地に流れる小河川でした。文字どおりコネイ→コトニ(窪んだ土地)支流の一つです。配置図でも市街之図でも、その上流は東西の道路(現在の北1条・宮の沢通)に沿って直線的に東へ遡っています。市街地に人工的に掘られた下水路をつなげたのでしょう。もともとは通りのすぐ南側にメム(湧泉)を発していたようです。

 色別標高図で俯瞰します。
色別標高図 NHK札幌新会館周辺
 標高15m未満から1mごと7色段彩で作りました。赤いでベタ塗りしたのがNHKの新会館です。低地が少し南側に入り込んでいて、コネイが窺われます。

 その微地形を現地で実感しました。
NHK札幌新放送会館 正面階段
 NHK新会館の北1条・宮の沢通側正面です。東から西を眺めました。建物への石段が、手前の黄色の線でなぞったところは6段です。

 奥の赤い線でなぞったところは9段を数えます。
NHK札幌新放送会館 正面階段 9段
 手前と奥、すなわち東端と西端で3段分の高低差です。蹴上の高さを測れば比高がわかりますが、まだ立ち入れません。開館したら、測ってみよう。

 標高図を拡大してコネイを確認します。
色別標高図 NHK札幌新会館周辺 撮影位置
 前掲の石段の撮影位置と向きを赤い矢印で示しました。白ヌキ矢印が冒頭画像、黒い矢印が西側面です。

 このコネイのことは山田秀三先生が古老の回想を引用してとっくに言及しています(太字、末注②)。 
 明治24年橋本辰四郎製「札幌市街之図」によると、北1条通の南側、西10丁目通の東側に、小さい井頭らしい形が描いてあって、そこから北流し、札幌病院(今の市立病院)の西はじを通り、博物館(植物園)の西側に入っている。極く古くは、南の方から北流していた川と繋がっていたものらしい。藤森老はこんな話をしていた。
 『北1条通は、市立病院の正門の辺から西が降り坂みたいで、自転車に乗っていると走り出してしまうが、病院の西のはずれで終った。西の端に隔離病室があって、とても低いところだった。』川はそのころすでになくなっていたのであったらしいが、土地の高低では未だ痕跡を残していたのである。


 前掲NHK石段の場所を6年前に撮った風景です。
市立札幌病院跡 2014年 北1条・宮の沢通側
 北1条・宮の沢通を西から東に向かって眺めました。藤森老人のいう「病院の西のはずれ」です。上掲図の赤い矢印の反対向きになります。
 2014(平成26)年4月、当時は市立病院の元建物が「リンケージプラザ」と称して札幌市博物館活動センターなどが入っていました。この頃も高低差はほのかに感じられたのですが、このたびNHKの石段によって視覚的に顕在化しました。
 
 注①:上掲配置図のキャプションには「北1西8」とカッコ書きされている。本館や病棟があったのが西8丁目で、石垣以西は現在の西9丁目に当たる。
 注②:『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.57

2020/07/11

古き建物を描く会 第68回を開催しました。

 9名が参加し、旧北部軍司令官官邸を描きました。先月下旬くらいからコロナ自粛が緩和され、当会も久々の人が集う行事です。待ちかねていた方もいらっしゃったことでしょう。自分がそうだから勝手に思い込んでいるのですが、渇望感が伝わってきました。

 写生後の恒例、青空展覧会です。
描く会 第68回
 資料館の運営部員の方々にもご覧いただきました。  

 この建物が司令官官邸として使われたのは昨年12月8日ブログに記したとおり、約5年です。その後、1949(昭和25)年から1983(昭和58)年まで北大の「月寒学寮」(末注①)、1985(昭和60)年からこんにちに至るまで「つきさっぷ郷土資料館」として再利用されてきました。平和利用の時代がはるかに長いことに感慨を覚えます。

 このたび建物を写生しながら、妙な感慨をもう一つ抱きました。陸軍高級将校の官邸として建てられた煉瓦造、二重窓の建物は、当時このあたりではもっとも立派だったことと想います。妙な感慨というのは、その立派な建物が戦後、学生寮とされたことです。北大が所管する学生寮のほとんどが構内または大学の近くに設けられていた中で、月寒学寮だけ離れていました。それもかねて少し不思議でしたが、そもそもなぜ、学生寮になったのか。周辺の歩兵第25連隊の兵舎などは、樺太からの引揚者の寮に転用されたと聞きます(末注②)。兵卒の宿舎はもっと粗末だったことでしょう。引揚者から聞取りされた記録を以下、引用します(太字、末注③)。
 この年(引用者末注④)の11月、ヨシコたちは月寒の旧歩兵第25連隊の兵舎を利用した引揚者住宅に移りました。この兵舎に入った引揚者の数は約600戸(3,000人)もありました。
 細長い兵舎をベニヤ板で仕切った粗末なものでしたが、その中の4号舎に入りました。6畳間に流しがついていたものの、ベニヤ板1枚の仕切りで、そこに20軒が生活していました。


 一点豪華なお屋敷は、学生寮にするのが一番良かった、あるいはそうせざるをえなかったのかもしれません。月寒学寮が設けられた1949(昭和24)年というのは、北大が新制大学となった年です。帝国大学以来の理系学部に加え、文系学部が新設・拡充されました(末注⑤)。 

 注①:『北海道大学学生寮新設・閉寮記念誌』1983年、p.114、121。月寒学寮は学部学生の男子寮だった。
 注②:札幌市『旧北部軍管区司令部防空作戦室 調査記録保存報告書』2009年、p.59
 注③:「辛酸をなめた引揚者生活-ある樺太引揚者からの聞き書き-」月寒史料発掘会編『つきさっぷ歴史散歩』2005年、pp.64-65
 注④:「この年」が何年なのか、同文の前段に明示されていない。主人公の「ヨシコ」さんが樺太から引き揚げたのが1946(昭和21)年12月とのことなので、翌1947年と思われる。
 注⑤『北大百ニ十五年史 論文・資料編』2003年、年表

2020/07/10

境目は、やはり面白い⑱ 筋を通す?

 道幅の広い北3条線、北4条線は明治20年代、植物園(当時は博物館)の西側に通じたようです。
「札幌市街之図」1890(明治23)年からの抜粋を観ます。
明治23年札幌市街之図 北3条線、北4条線
 赤矢印を付けた先が北4条線、橙色が北3条線です。北海道庁の時代になり、開拓使本庁の敷地よりも小さくなっています。北4条線が道庁敷地の北辺となりました。それぞれの道が西端の旧市界(当時は区界)まで描かれています。ただし西方の色塗りされていないところは、計画線でしょうか。
 
 西方の一帯を少し拡大します。 
明治23年札幌市街之図 北3条線、北4条線 植物園、二中
 のちの植物園、のちの札幌二中の敷地を緑色ので囲みました。右側(東)の大きいが植物園、左の小さいが二中になります。

 興味深いのは現在の植物園の一画です。 
明治23年札幌市街之図 植物園
 画内が地割されて、北4条線、北3条線らしき計画線?も一部、描かれています。

のちに札幌二中になるところも同様です。
明治23年札幌市街之図 札幌二中の敷地
 北4条線の計画線?が貫通しています。

 札幌二中がこの地に設けられるのは大正期なのでともかくとして、植物園が細かく地割されていたのは意外でした。私はこれまで北4条線、北3条線を「途切れ途切れ」と記してきましたが、それは結果であって、実は明治の道庁時代、途切れなく通そうとしていたのかもしれません。

2020/07/09

境目は、やはり面白い⑰ 大手か搦め手か

 市道北3条線と北4条線は途切れ途切れでありながら、目抜き通りでもない植物園の西側で旧市町界(西21丁目)まで、なぜ幅広に道を拓いたか。6月15日同月21日ブログで発した自問の答は、結局わかりません。
 昨日ブログにも載せた「道路幅員図」1927(昭和2)年の原図を、札幌市公文書館であらためて眺めました。同館の歴史家Eさんにもお知恵を借りて、廻らせた想いは以下のとおりです。
 (1) 植物園や道庁の東側の道幅と、単純に合わせた。
 (2) 植物園より西側は市街の形成が遅れていたので、道路を拡げやすかった。 

 (1)を補足します。明治から大正にかけての札幌の市街図を見返すと、植物園より東側、道庁の周辺は当然といえば当然ですが先んじて街区が形成されています。地形的にも札幌扇状地の微高地で、官衙の立地に適っていました(末注①)。その中心に置かれた開拓使札幌本庁は(その跡を継いだ北海道庁も)東面しています。東面する北3条線、北4条線は、札幌本府の基軸線と想定されたのではないでしょうか。

 故遠藤明久先生が作った「札幌本府の街画(明治7年ころ)」を引用させていただきます(『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、pp.56-57)。
遠藤明久先生作図「札幌本府の街画(明治7年ころ)」
 開拓使本庁の東側の「石狩通」と「札幌通」に赤傍線を引きました(末注②)。現在の北4条線、北3条線です。15間と、ひときわ幅広く拓かれています。本庁敷地の東辺に位置する「正門」をお城の大手門とするなら、大手前通りすなわちメインストリートといってよいでしょう。
 ちなみに本庁の敷地東辺と南辺は、橙色の○で囲ったとおり20間です。北3条線、北4条線より幅広いのですが、これは江戸時代のお城でいったらお堀の位置づけかと想います。南側の黄色の○で囲ったところは58間とさらに広いのですが、本庁外周の20間を内堀とするならこれは外堀でしょう。後志通、のちの火防線、のちの大通逍遥地です。これは通りというより、官と民の精神的、権威的な境目の意味合いだったように想います。
 
 北3条線、北4条線の道幅は道庁、植物園の西側でも、これまで述べてきたとおり15間です(6月21日ブログ参照)。東側の大手前通りの15間を、西後背の“未開地”にもそのまま引っぱってしまったのだろうか。

 注①:長岡大輔ほか「札幌市の市制開始期における詳細地形と水文環境」日本地図学会『地図』VOl.55№3(通巻219号)2017年参照
 注②:1872(明治5)年、札幌本府の町名(道路名)に「北海道国郡名」が付けられた(前掲書pp54-55)。北3条線の「札幌通」、北4条線の「石狩通」という命名にも中心性が感じられる。

2020/07/08

境目は、やはり面白い⑯ 途切れ途切れの幅広道

 旧札幌市と旧円山町の境界探訪、このシリーズの主たるテーマは川跡もさることながら、道幅でした。旧市町界に伴う道幅の違いは前々から記したことです(2017.9.15ブログ参照)。このたび、市道北3条線と北4条線の道幅が特に広いことに気づきました(6月15日ブログ参照)。札幌の中心部の道路の中でも、とりわけ広い。そのため、旧円山町側との違いがいっそう際立っているのです。北3条線と北4条線の幅広は、昭和初期に由って来ります。それを裏付けるのが、6月21日ブログに載せた札幌市役所作成「道路幅員図」1927(昭和2)年です。

 あらためて、その道路幅員図で北3条線と北4条線を観ます。
道路幅員図1927年 北3条線、北4条線
 黄色でなぞった二本の道です。周辺に流れる川を水色で、まとまった大きな敷地を緑色で塗りました。緑色は、右方(東)から道庁、博物館(植物園)、三井クラブ、札幌二中です。

 同じ一帯を地形図「札幌」1916(大正5)年で眺めます。
大正5年地形図 北3条線、北4条線
 現在の北3条線を橙色、北4条線を赤色でなぞりました。太い実線はすでに道路が描かれているところ、細い線はまだ道が通じていないところです。

 北4条線が西方で二中の敷地によって途切れていることは6月21日ブログで記しました。巨視的に見渡すと、東方でさらに植物園にもぶつかります。一方、北3条線というと、同じように植物園と道庁によって遮られています。北4条線は植物園の西方で、北3条線はその東方で、“細切れ”感が強い印象です(6月14日ブログ参照)。

 前掲2枚の地図の西15丁目あたりから西を、さらにトリミングしました。
道路幅員図1927年 北3条線、北4条線 現知事公館付近
大正5年地形図 北3条線、北4条線 現知事公館付近
 三井クラブ(現在の知事公館の敷地)から発する川(2014.8.6ブログ参照)が横切っています。大正5年地形図では、北4条線がこのあたりをまだ通じていません。軟弱な土地が道の開通を遅らせたのかとも想わせます。そもそも植物園や知事公館がまとまって敷地を確保して今に至っているのも、メム(湧泉池)のたまものといってよいでしょう。
 
 こうしてみると、北3条線も北4条線も、一本の道路としては行く手にさまざまなハンディがあったといえます。にもかかわらずというべきか、旧札幌市側では旧円山町との境界まで幅広の道が開かれました。植物園より東方の、札幌のいわば心臓部と同じ道幅が確保されたのです。
 にもかかわらず、と再度繰り返します。旧円山町側の道幅が狭く造られたことと相まって、とりわけ北4条線は前述したように植物園より西方で途切れているため、東方のような交通量はありません。結果として、稀に見る幅広の生活道路が実現しました。

2020/07/07

大正時代の札幌の公園計画

 「大札幌市区域及地域設定略図附公園広路計画図」と題された地図です(札幌市公文書館蔵、原図貴重のため複写を閲覧)。
大札幌市区域及地域設定略図附公園広路計画図1925年
 作成年は図上に記されていませんが、所蔵元によると1925(大正14)年です。冒頭画像の左下に「凡例」が載っていますが、標題にある「区域」や「地域」「公園」「広路」についての表示はありません。

 中心部を拡大し、北を上に向きを変えました。
大札幌市区域及地域設定略図附公園広路計画図 中心部拡大
 この地図は何を伝えるものでしょうか。 
 標題と作成年からすると、大正期に制定された都市計画法に基づく札幌の都市計画の基礎資料と私は推測します。「大札幌市」というのは、当時の札幌市の市域に周辺町村を加えて想定した都市計画区域ではないでしょうか。
 
 前述したように凡例に明示されていないのですが、計画された公園や広路を朱色でなぞったようです。中島公園や円山公園、中心部では植物園や偕楽園の場所が面的に塗られています。これらに加え、北、北東、東方面にも面的に塗られた一帯があります。類推すると、新たに公園が計画された場所かもしれません。昭和に入って決定される都市計画公園の前段階として検討されたのでしょうか。
 札幌では明治の中ごろ、北海道庁長官岩村通俊により区域の東西南北端に公園を設ける構想がありました。「北は偕楽園、南は中島、西は円山、東は苗穂」です(末注)。前掲図を観ると、大正期もその構想を引き継いでいるように窺えます。

 注:『さっぽろ文庫64 公園と緑地』1993年、pp.204-205

2020/07/06

白石映画劇場(承前)

 昨日ブログで引用した『ほっかいどう映画館グラフィティ』には、白石映画劇場にまつわる地元の方の回想を載せています(p.91、太字)。
 「映画館ができてから周辺に次々と飲食店が開店し、ちょっとした飲食街が形成されました。映画の帰りに一杯飲む、という人も多かったですね」。

 私は停車場通りができたことで飲み屋街が生まれたと想っていたのですが、そういう側面もあったのですね。
 1970年代をピークに来館者数は減少し、1986(昭和61)年に成人向けに転換しました。2001(平成13)年の閉館時、地元商店街による5日間の無料上映会では、2日間は子ども向けの作品を上映し、3日間は「トラック野郎」シリーズ第一作を映して、さよならセレモニーを催したそうです。
 この本(B6判)は、一館当たり2ページの記述の中に映画館の歴史が濃縮されています。痒いところに手が届くように、史実が押さえられている。のみならず、映画館をとおして街の歴史も垣間見えます。さすが、和田由美さんです。

 昨日ブログには、元映画館の建物1階に設けられているショーケースの画像を載せました。「映画館にありがちなショーケース」とか「映画のポスターを貼っていたような痕跡」と、奥歯にモノの挟まった記述です。それもそのはず、昨日のメンバーは誰もその実際を目撃していません。
 ここに、本当に映画のポスターが貼られていたかどうか。成人向けになってからは、まず難しかっただろうと慮ります。ショーケースが面しているのは道道です。道道といえば、東区にある映画館も、道道に面しています。こちらは営業中で、通りに面して成人向けポスターが貼られています。同じ道道でも、場所によって微妙な異同はありましょう。では、成人向けになる前はどうだったのでしょうか。いまのところ、映画館の痕跡「かもしれない」という想像に留めます。

 国道12号から、白石停車場線を眺めました。
国道12号×白石停車場線 交差点
 元映画館の建物は、角地から一つ奥にあります。角地のシェードが架かっている建物は、市場でした。いまはシャッターが降りています。この市場のことは『さっぽろ文庫78 老舗と界隈』1996年に綴られていますが、いつまで営まれていたか私は知りません。げに、記憶ははかないものです。記録のありがたみを感じます。

 前掲画像は3年前に撮ったものです。
白石本通 3丁目プラザ金福前 遺物 2017年
 遺物が横たわっています。「正しい家族計画」と銘打たれた自販機です。「信頼と品質のOKマーク」「未成年の方はご遠慮ください」とも書かれています。かような断片も記録に留めておく意味はあろうという深層心理が、私にはたらいたようです。
 
 現在は、撤去されていて見当たりません。
白石本通 3丁目プラザ金福市場 2020年
 今年の2月にUHBみんテレ「となりのレトロ」の収録で通りかかったとき、すでにありませんでした。
 こういった風景の移り変わりも、たびたび記すとおりいまや電網情報でこの10年くらいは遡ることができてしまいます。ためしにこの場所もグーグルストリートビューで追ってみたら、本件遺物が写っている画像もありました。しかし、前述のような文言までは判読できません。観る人が見れば何の自販機かグーグルでも識別できるのでしょうけれども、自分で撮っておいた鮮明な接写画像に稀少感を抱きます。
 
 「嗚呼、自販機がなくなっているな」と、なぜ私は気に留めるのか。本題の白石映画劇場と、どういう脈絡があるのか。稀少感を抱いて満足する私は何なのか。自分の深層心理ながら解き明かせません。願わくは、もう少し万人に意味の通じる歴史の綴り手になりたいものです。

2020/07/05

白石映画劇場

 札幌建築鑑賞会のスッタフ6名で、白石本通界隈を歩きました。
 
 道道白石停車場線です。 
白石停車場通 本通3丁目北から北望
 街燈から垂れている小幕には「停車場通」と書かれた上に、小さく「TEISYABASTREET」と添えられています。テイシャバが英語化した?
 
 本年3月2日に放送されたUHBみんテレ「となりのレトロ」(同日ブログ参照)で私は、「この辺には映画館もあったんですよ」などとしゃべりました。知ったかぶりです。しかし、正確にどの場所にあったか、記憶がありませんでした。

 このたび歩きながら、スタッフの一人が見せてくれた十数年前の新聞記事の切り抜きで場所がわかりました。
白石本通 第1大岡ビル
 言われてみて気づいたのが、1階のショーケースです。別のスタッフが示唆してくれました。

 たしかに、映画館にありがちなショーケースです。
白石停車場通 第1大岡ビル 1階ショーケース
 映画のポスターを貼っていたような痕跡も窺えました。

 和田由美さんの『ほっかいどう映画館グラフィティー』2015年を読み直したところ、次のように書かれています(pp.90-91、太字)。
 「白石映画劇場」は、建設業を営む士別出身の大岡新太郎さんが1957年に開館。当初は白石中央にあったが、のちに白石駅にほど近い国号12号から1本入った仲通のビル地下に移転している。
 2001(平成13)年の閉館時には、商店街で「長年の地元への貢献に感謝をこめて、最終日までの5日間に無料上映会を行った」(同書)そうです。

 ひとりで歩いたときには目に入らなかったものが、何人かで歩くと見えてきました。 

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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