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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/07/31

札幌でまた見かけたカマボコ

 先日、法務局南出張所へ行ったついでに中の島の冷水に寄り道したことは、7月29日ブログに記したとおりです。冷水の後、さらについでに寄り道しました。冷水の話が完結していないのに、というかそもそも法務局での用事にも立ち入っていないのに、毎度のことながら困ったものです(困っていないか)。

 冷水から精進川沿いに遡ったら、川越しに眼に入ったものがありました。
カマボコ 真駒内駐屯地 遠景
 真駒内駐屯地内の物件です。

 画像を拡大します。
カマボコ 真駒内駐屯地
 通称“カマボコ”こと、クォンセットハットです。

 見た感じ、かなり古びています。これは(これも)もしかしたら、米軍からの払下げまたは譲り受けではなかろうか。私は前に、「札幌に現存する唯一と思われるクォンセットハット」は八紘学園内のそれであると指しました(2018.9.19ブログ参照)。「真駒内の旧キャンプ・クロフォードにもなかったと思います」と記したこともあります(同4.19ブログ参照)。
 しかし前掲画像をあらためて観ると、その認識がかなり揺らぎました。真駒内駐屯地はいうまでもなく米軍直伝の場所です。本件カマボコの出自を確かめたい衝動に駆られています。
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2020/07/29

平岸村の冷水

 まずテレビ番組のお知らせを一つ。
 UHB(8ch)「発見!タカトシランド」の次回放送で、西区八軒が取り上げられます。サッポロ珈琲館本店も出るそうです。建物の由来について珈琲館の社長に情報提供したところ、教えていただきました。オンエアは7月31日(金)午後7時~です。

https://www.uhb.jp/program/takatoshiland/

 本題は豊平区です。
 法務局の南出張所(豊平区平岸)に行ったついでにご近所を逍遥しました。
 「とよひらふるさと再発見」の説明付き案内地図(1992年発行、末注)を携行していたので見渡したところ、目と鼻の先に「平岸村の冷水」とあります。中の島通をはさんで向かい側で、直線距離にすると数十mです。しかし、隔絶感は大きい。

 色別標高図で観ると、隔絶を多少実感できます。
標高図 平岸村の冷水
 標高45m未満から5mごと70m以上まで7色段彩で作りました。白い矢印の先が法務局、赤い矢印の先がくだんの冷水の場所に当たります。少し北のほうに付けた赤いは精進川(オソウシ)の滝の位置です。
 法務局の標高が62m、冷水は52mで、比高は10mあります。60m~65mの黄色と50m~55mの水色の間の黄緑色が、ほとんどない。俯瞰すると、要するに札幌(豊平川)扇状地の古い面(平岸面)と新しい面(札幌面)の崖(ピラ)ではないか。
 
 ピラケシイのピラは精進川の滝くらいから始まると錯覚していました。古い地形図を見ると、オソウシ滝から西南西500mくらいから豊平川の分流が生じています。この分流でいわゆる中の島ができました。崖はこれで完結していると思い込んでいたのです。

 本件冷水は滝から南南西700m余り離れていますが、戦後の空中写真をよくよく見ると、さらに細い分流が冷水のあたりに通じていたようです。
空中写真1948年 精進川の滝 冷水
空中写真1961年 精進川の滝 冷水
 上が1948(昭和23)年、下が1961(昭和36)年です。読み取れる限りで、精進川を水色、豊平川の分流(「中の島」を作った“本来の”分流)を青色でなぞりました。赤いが精進川(オソウシ)の滝、黄色のが冷水の位置です。
 黄色のを付けたあたりには河畔林らしき影が写っています。豊平川の本流から別の細流が分かれ、やはり中洲を作っていたようです。北のほうで青くなぞった分流に合わさります。
 1961年写真では、青くなぞった豊平川の分流が消えかかって、滝より下流はほとんど“精進川化”しているかのようです。冷水付近を流れていた(とおぼしき)細流も途絶えたのかもしれません。ただ河畔林らしき影はなおも窺えます。
 結局、地形図(が整備されるようになった近代以降)には描かれない程度の細小分流だったとはいえ、標高差10mに及ぶ中の島通の崖を削るほどの大本流だった往時もあったのでしょう。あるいは、現在の流れが氾濫のつど削いでいったか。

 いやはや、肝心の現地の冷水になかなかたどりつけません。法務局のついでどころではなくなってしまいました。

 注:2016.3.5ブログ参照。現在印刷物では刊行されていないので(たぶん)、札幌市豊平区サイト参照→ https://www.city.sapporo.jp/toyohira/machi/info/furusato.html 

2020/07/26

小泉川の上流跡を遡る ②

 一昨日ブログでお伝えした場所は、小泉川跡とみられます。空中写真に照らして、流れていた二つの水路を画像に着色しました。
澄川4条1丁目6号線 東望 川跡着色
 右方(南側)の南区澄川4条2丁目から左方(北側)の澄川4条1丁目にかけてです。

 奥(東側)の青色と手前(西側)の水色でなぞった二つの想定流路のうち、小泉川はどうやら奥の青色のほうです。が、現地の地形が改変されている可能性も高く、自信がありません。裏付けを得たいと思った私はどうしたか。
 旧家とおぼしきお宅を訪ねました。と、さらっと記しますが、これが私にとって大難事であることはたびたび吐露してきたとおりです。見ず知らずのお宅でいきなりピンポンするのは、それだけで心拍数が上がります。「何と切り出したらよいだろうか」と逡巡します。何回繰り返しても「慣れる」とか「平気になる」ということがありません。
 
 とまれかくまれ、訪ねた先のMさん宅でお話を聴けました。Mさんは、曾祖父が明治時代中ごろこの地に入植したという4代目に当たるとのことです。
 私:(空中写真を見せて)昔このあたりに川が流れていたようですが、お心当たりはございませんでしょうか?
 Mさん:小川が流れてましたね。
 私:どのあたりを流れていたか、ご記憶はございますか?
 M:(お宅の前から指さして)その下ですね。昔はそこが崖になっていて…。崖の下を流れていました。
 私:川はいつぐらいまで、流れてましたか?
 Mさん:今もたしか、地下を流れているはずだけど。(地表を流れなくなったのは)小学6年か中学に入った頃かな…。
 私:(Mさんのお年から差し引きすると)というと、今から50年近く前ですね。1970年頃ですか。川は何と呼ばれていましたか? 郷土史の本には小泉川と書かれていたりするのですが…。
 Mさん:いやあ、名前は特になかったと思うなあ。(自分が)子どもだったので、覚えてなかったのかもしれないが。

 Mさんが示してくれた川は、やはりというべきか前掲画像でいうと青色でなぞったほうでした。川名はさだかでありませんでしたが、いわゆる小泉川と同定していいでしょう。お話から小泉川をあとづけると、下掲画像に矢印を付けた先になります。
澄川4条1丁目7号線 崖下 小泉川跡着色
 右方(東側)に写るのは澄川4条1丁目7号線という市道です。左方(西側)の駐車場との間の高低差が、奥(北)へ進むにつれて大きくなります。Mさんがおっしゃる「崖」です。

 撮影箇所を標高図に示します。
色別標高図 澄川4条1丁目7号線 小泉川跡着色
 段彩と赤い矢印は一昨日ブログ掲載と同じです。
 前掲画像は矢印↑0の地点・向きに当たります。

 撮影地点1
澄川4条1丁目7号線から崖下を西望
 澄川4条1丁目7号線を北上して、矢印←1の地点で西方を望みました。前掲標高図の段彩(色分け)で明らかなように、高低差がかなり大きくなります。今でも崖です。この崖のすぐ下を小泉川が流れていました。

 崖下から眺めると、擁壁がそそり立っています。
澄川4条1丁目 窪地-5
 7月17日ブログに記した窪地です。

 撮影地点2
澄川4条1丁目7号線 北望
 澄川4条1丁目7号線を「北上」と前述しましたが、みはるかすと市道は下り坂です。右方(東側)は平岸高台(町名は澄川)すなわち支笏火砕流台地ですが、市道より左方(西側)は札幌扇状地平岸面なので北へ向かって下ります。
 
 Mさん宅は高台側に位置し、リンゴと稲作をしていたそうです。1948(昭和23)年空中写真(7月23日ブログ参照)を観ると、高台側にはリンゴ畑、小泉川の下は水田が写っています。営農は1972(昭和47)年の札幌五輪の頃までで、「地下鉄が通って、このあたりが宅地化された」とのことです。小泉川が埋められたのも同時期らしい。
 最初に当たりを付けた「旧家とおぼしきお宅」がそのとおりだったのは僥倖です。初打席でいきなりヒットを打ったような気分です。この後に訪ねた図書館で手にした郷土史の本には、古くからのお宅の位置も記されています。予習をしたほうが当然効率は良いし得られるものも大きいのですが、自分の直感を研ぎすましてぶっつけ本番というのも悪くはありません。

2020/07/25

北海道百年記念塔の内部視察報告会

 札幌ノスタルジック建築散歩」のYさんのお誘いを受けて、参加しました。
北海道百年記念塔内部調査報告会
 「記念塔の未来を考える会」と「記念塔を守る会」との共催による報告会です。会場は、2018年に札幌建築鑑賞会で記念塔をめぐる講演会(2018.10.9同11.3ブログ参照)を催したときと同じ小野幌会館でした。感染症防止のため定員が少なめに設定され、座席もご覧のように間隔を開けての配置です。2年前に当会でここを借りたときのように部屋を満杯にするというのは、昨今の事情ではもう無理なのでしょうか。

 視察結果の報告(建築家・山之内裕一さん)と建築史上の意義(建築史家・駒木定正さん)をお聴きしました。「内部視察」は本年6月、「考える会」の建築家十数名が北海道の許可を受けて実施したものです。興味深い内容でしたので、概要を以下、記します(あくまでも私が聞き取った限りです)。
(1)建築家が内部を視察したのは初めてである。
(2)記念塔は「塔体」と「外板」で構成され、塔体(いわば骨組み)は健全である。
(3)外板のコルテン鋼が錆びているのは、劣化ではなく「熟成」である。
(4)2018年に落下した10㎏の部材はコルテン鋼ではなく、後付けと思われるステンレス材(水切板)だった。
(5)落下物は適切な維持管理があれば防止できた可能性がある。
(6)記念塔を保存するための費用を道は約29億円(内部立入り可能な場合)としているが、うち21億円は大規模修繕を想定している。大規模修繕によらずとも、年次的なメンテナンスで可能ではないか。とすると、経費は低く抑えられる。

 上記(4)を補足すると、当初設計のコルテン鋼は溶接ですが、落下したステンレス材はビス留めされていたものだそうです。コルテン鋼ならでの特性ともいえる経年的な錆びによる剥落とは異なります。これは視察に同行した道の担当者も認識してなかったとのことです。山之内さんは、コルテン鋼の錆び進行=腐蝕・劣化・老朽化=部材の落下と短絡されたきらいがあると危惧していました。
 
 お話を聞いてあらためて感じたのは、事実に基づく検証の必要性・重要性です。加えて、このたびの視察のような作業は2年前の段階で施されてしかるべきだったとも思います(末注)。すでに「解体」のレールが敷かれている感は強いのですが、とはいえ新たな知見による検証はそのつど欠かせないでしょう。「保存」「解体」という結果もさることながら、結果に至る過程を大切にしたいものです。

 注:2018年12月に北海道が公表した「ほっかいどう歴史・文化・自然『体感』交流空間構想」では「安全性の検討」として、「部材の腐食等による不測の落下事故を完全に防ぐことは、物理的にも不可能に近い」「上部の鉄板が落ちるようなことがあれば、安全とはいえないのではないか」「錆片など飛散物もある」「錆片の落下が確認される」などと指摘している(資料編p.41)。ただしステンレス材の落下は同年10月の台風によるもので、「立入禁止エリア内に部材の落下があった」と記されているだけで、詳細な分析は無い。また「錆片の落下」は内部の写真が載っているが、外部にどの程度「落下」または「飛散」しているか、データは添えられていない。本年6月には「百年記念塔 進む老朽化 10キロの建材落下、さび片積もる内部」と報じられた(北海道新聞6月21日)。

2020/07/24

小泉川の上流跡を遡る ①

澄川駅裏通から東方、平岸高台を望みました。
澄川4条1丁目6号線 東望 谷底
 澄川4条1丁目6号線という市道が高台に向かって上っているのですが、橙色の矢印を付けたあたりでいったん低くなっています。いかにも谷底です。

 その場所を昨日ブログに載せた色別標高図で示します。
色別標高図 澄川4条1丁目6号線 谷底
 赤い矢印は先日来綴っている窪地に至る階段の位置です。昨日ブログに記したとおり、窪地には水路が南北に通じていました。空中写真に照らすと、水路は階段のすぐ下(白ヌキ実線)のほかに東端(青色実線)にも流れていたとみられます。

 前掲画像の風景は、下方(南)に白ヌキの△を付けたところです。それぞれの水路の上流に当たります。標高図で見ても(当然のことながら)谷底地形です。ただし撮影地点の左方、標高図でいうと白ヌキ△の北側は少し高くなっています。道路をはさんで南側は黄緑色ですが、北側は黄色です。標高差は1mあるかないかなのですが、それでも少し高いのは人工的な盛り土と想われます。画像に写る駐車場の整地です。この部分を別とすれば、全体としては南から北に向かって沢状に低くなっています。

 昨日ブログ末尾で述べた小泉川はどのような流路をたどったのでしょうか。小泉川の上流のことは前にも少し触れました(2019.10.4ブログ参照)。
 ただし上流部はおおまかにしか図示してませんので、空中写真1948(昭和23)年であらためて閲します。
空中写真1948年 小泉川上流域 南平岸~自衛隊前
 画像から読み取れる水路を、水色と青色で着色しました。赤い矢印は現在窪地の階段がある地点です。青くなぞった東側の流れが北へ下っています。小泉川の中下流域はこの流れに通じています(2019.10.1ブログ参照)。したがって前掲標高図でも、青色でなぞったほうが小泉川跡と考えられるのですが、ひとまず仮定としましょう。
 なお、南方に付けた青のは小泉川のミナモトがあったとされるところです。いわゆる木挽山の北斜面、現在札幌新陽高校があります。ミナモトにちかい最上流部は、私の読影力ではさだかでないのでなぞりませんでした。郷土史の文献には略地図で示されていますので、おって言及したいと思います。

 さて、空中写真に青くなぞったのが小泉川とするならば、実際にどのように流れていたか現在地であとづけることとしました。

2020/07/23

澄川駅裏の窪地逍遥

 拙ブログは本日をもって7年目に入りました。6年間続けてこれたのは私の酔狂に由って来たるものとはいえ、私に輪をかけて(?)好事な読者の皆様のおかげです。あらためてお礼申し上げます。

 7月17日ブログでお伝えした地下鉄澄川駅裏の窪地の時空を遡ります。
空中写真 1948年 現澄川4条1丁目あたり 
 1948(昭和23)年空中写真です。赤いで囲った一帯に窪地があります(前回ブログに載せた現在図の赤いと同じ)。赤い矢印を付けた先が窪地に至る階段の位置です。

 赤いで囲ったところを拡大します。
空中写真 1948年 現澄川4条1丁目あたり 拡大  
 赤い矢印は前掲画像と同じです。
 このあたりは水田が広がっていたように見えます。格子状の細く白い線は畦道でしょう。矢印の先にも道が南北に通じています。その道に沿って、黒っぽくうねうねと川が流れているようです。川か、または用水路か。

 同じ一帯の現在図×色別標高図(標高59m未満から1mごと64m以上まで7色段彩)です。
色別標高図 澄川4条1丁目 拡大
 前掲1948年空中写真に標高図を照らすと、水路に沿って高低差が形作られていることがわかります。

 水路跡とおぼしきところの現在です。
澄川4条1丁目 窪地-5 元畦道?
 擁壁で高低差を作った下を、道が「く」の字の反転形に曲がって通じています。水路の屈曲の名残でしょうか。

 ところで、前掲空中写真にはもう一本、水路らしき筋が写っています。窪地の東側の“へり”です。
 二本の水路を、水色と青色でなぞりました。
空中写真 1948年 現澄川4条1丁目あたり 拡大 水路着色
 前掲「く」の字反転形に曲がる現在の道は、水色でなぞったほう(西側)の水路にを付けた地点に当たります。青色でなぞったのが東側の“へり”の流路です。

 水路跡を標高図にもなぞりました。
色別標高図 澄川4条1丁目 拡大 水路跡着色加筆
 二本の水路の谷間がくだんの窪地であることがわかります。土地を均したことは考えられますが、全体として水流に通じた低平地を水田に利用したのでしょう。

 この窪地について、私は7月17日ブログで「天神山が札幌扇状地平岸面の削り残しであることを想うと、意外ではないのかもしれません」と括りました。太古、扇状地平岸面を拓いた古々豊平川が流れていたと考えたからです。窪地全体が古々豊平川の川跡であり、前掲「く」の字反転形の道沿いの擁壁は古々豊平川が削った崖だったのかもしれません。
 古々豊平川とまで遡らずとも、この窪地はかつて川が流れていました。小泉川です。

2020/07/18

平岸通からナナメに通じる道

 昨日ブログは、表題を「地下鉄澄川駅裏の窪地」としました。「駅裏」というのは私が現地を歩いての実感に依ります。ある地域や地方を「表」や「裏」で形容するとき、一般に前者は繁華なほうであり、そうでないほうが後者です。表通りとか裏通りなど。昔は(私の印象では50年くらい前までか)日本海側を「裏日本」と呼んでいました。「表」を良しとする語感を伴っていたせいか、この表現は使われなくなったようです。山梨県の人は「裏富士」と言っているのだろうか。

 私は表=華々しいことを必ずしも佳しとはせず、うら淋しいモノ・コトにもありがたみを感じたりするので、裏という形容を不当には思いません。いま記した「うら淋しい」の「うら」は「裏」ではなく「心の内」といった意味らしいのですが、和語としては同じ語源のような気がします。表層よりも内実を重んじる心裡からすれば、「うら」は尊い。とはいえ、住んでいる土地を一方的に「裏」と形容されては不快を抱く人もいるでしょう。ご容赦ください。

 かように前置きを長々綴ったのも、昨日ブログの表題を付けるとき、私の心の裡が揺れ動いていたからです。前述のとおり「現地を歩いての実感に依」ったものの、「この場所を『駅裏』といっていいのかな」と反問・煩悶しました。

 現在図で位置関係を示します。
現在図 市道澄川駅裏通線
 昨日ブログで綴った窪地は、橙色ので囲った地点の東側にあります。私は一帯の“窪地感”や階段で下りる導入路などに「裏」を感じました。
 
 元図に破線で示されている地下鉄路線に並行して、西側に幹線道路が南北に貫いています。黄色でなぞった平岸通です。くだんの窪地は、地下鉄をはさんで平岸通の反対側に位置しています。平岸通を「表通り」と受け止めていたこともかてて加えて、私が窪地を「裏」と感じた所以です。平岸通が現在表通りであることに大方の異存はないでしょう。

 そうすると、この通りは「裏通り」ということになります。
市道澄川駅裏通線 澄川4条1丁目 南望
 前掲現在図で赤くなぞった道です。撮影位置と向きを白ヌキ矢印で示しました。

 上掲画像と反対側の向きを観ます。
市道澄川駅裏通線 澄川4条1丁目 北望
 平岸通から分かれて、地下鉄のシェルターをくぐり、いかにもナナメ感を醸した道です。
 表通りたる平岸通と地下鉄をはさんで反対側に通じていることからすれば、裏通りといえます。しかし、私は躊躇いました。この道を裏通りとしていいのか。

 明治29年地形図からこのあたりを抜粋して観ます。
明治29年地形図 現澄川駅裏通線
 前掲現在図で赤くなぞった道とおぼしきを同じく赤くなぞりました。人家が貼りついています。平岸通は直進していません。この道が古道であったことがわかります。

 明治7年「札幌郡各村地図」からの抜粋です。
明治7年札幌郡各村地図 現市道澄川駅裏通線
 白ヌキ矢印を付けた先に、前掲の通りの原形といえる道が描かれています。矢印を付けたところから湾曲して南下し、真駒内、石山へと至る道です。これは明治の初めに拓かれたいわゆる「本願寺道路」だと思います。
 この古図の上方(北方)に書かれた「平岸村」(文字は下から上へ逆さ)から、現在とほぼ同じく道が枝分かれしています。天神山のところです。左(西)に分かれた道は、1871(明治4)年に通じたという「真駒内新道」です。本願寺道路は、新道が拓かれたことにより、真駒内までの間は廃れたといいます(末注①)。前掲明治29年地形図では、すでに真駒内までは通じていません。しかし明治7年地図では本願寺道路のほうが太めに描かれています。こちらが往時は「表通り」でした。

 という歴史を鑑みたにもかかわらず、なおも私はこの通り側を「駅裏」としました。なぜか。
 前掲現在図に赤くなぞった道は現在、市道です。その名称を「札幌市地図情報サービス」で確かめました。
 ↓
https://www.sonicweb-asp.jp/sapporo/
 古道感が漂うナナメ通りです。私は心の裡で「どういう名前かなあ」と期待していました。何と出たか。「澄川駅裏通線」です。「裏通」。まるで私の心の裡を見透かしたかのようでもあります。
 都市計画道路名は路上に標示されていることも多いし、国道や道道は地図にも載っていますが、それらに比べて市道名の認知度は低いのではないでしょうか。それゆえに私らマニア(「ら」って誰だ?)には美味しい食材です。丸〆線、試験場線、元村線、新川沿線など(末注②)。「由緒ある古道を『裏通線』とはナニゴトか」などと憤ってはなりますまい。この「裏通」は古道への崇敬にほかなりません。オマージュの裏返しです。と私は勝手ながら解釈しました。ほかに「裏通」などとあからさまに銘打たれた市道はあるだろうか。
 
 注①:澤田誠一編『平岸百拾年』1981年、pp.221-223参照 
 注②:2017.8.15 同10.232018.3.9同4.7ほかブログ参照

2020/07/17

地下鉄澄川駅裏の窪地

 ここに窪地があることを、いままで知りませんでした。
澄川4条1丁目 窪地-1
 窪地は、画像に写る道路の突き当たった先です。

 突き当りといっても、階段で下に通じています。
澄川4条1丁目 窪地-2
 手前の赤いセーフティコーンには「駐車禁止」と書かれています。柵がこころもとない。ここでブレーキとアクセルを踏み間違えると、大変なことになりそうです。

 階段を下りて見上げると、かなりの高低差を感じます。
澄川4条1丁目 窪地-3
 段数は12段です。

 階段から20mくらい歩いた先で、振り返りました。
澄川4条1丁目 窪地-4
 階段の左右に擁壁が連なっています。建物にして1階分くらい、土地が低い。
 
 その場所を現在図に示します。
現在図 澄川4条1丁目
 赤いで囲ったところの真ん中あたりです。地下鉄澄川駅の北東に位置します。町名は南区澄川4条1丁目です。

 その一帯を拡大して、画像の撮影地点を示します。
現在図 澄川4条1丁目 拡大
 赤い矢印が1点目の画像の位置と向き、赤いが2点目と3点目の階段の箇所、橙色の矢印が4点目です。
 調べたところ、赤い矢印を付けたところは市道ですが、階段の手前は指定道路の私道、下りた先の橙色の矢印は再び市道になります。
 
 前掲図で黄色の矢印を付けた先は、こんな風景です。
澄川4条1丁目 窪地-5
 建物の隙間からやはり擁壁が見えます。この擁壁の上方、つまり東側はいわゆる平岸高台に至る上り斜面です。この擁壁と、さきほどの階段のところの擁壁との間で窪地になっているのです。

 色別標高図で窪地地形を確かめます。
色別標高図 澄川4条1丁目
 標高59m未満から1mごと64m以上まで7色段彩で作りました。黒いで囲ったところが本件窪地です。
 黒いの左上(北西)は天神山です。天神山と平岸高台の間が低いのは、地下鉄からの(地上のシェルターを通しての)眺めで実感していました。その低地が南に入り込んでいるのみならず、天神山より南の澄川で一段低いくぼみを作っています。これは意外でした。
 しかし、天神山が札幌扇状地平岸面の削り残しであることを想うと、意外ではないのかもしれません。

2020/07/16

帝冠様式の記憶?

 豊平区月寒東にある豊原寺(ほうげんじ)です(画像は2019年11月撮影)。
月寒東 豊原寺
 樺太からの引揚者ゆかりの寺院と聞きます(末注)。

 本堂を眺めていたら、毎度の悪い癖で妄想を逞しくしました。正面中央、屋根に付いている反り破風です。この本堂には旧豊原(現在のユジノサハリンスク)のランドマークの記憶が刷り込まれているのではないだろうか。旧樺太庁の博物館です。いまはサハリン州郷土博物館として活用されています。といっても私はサハリンに行ったことはなく、建物は写真でしか見たことはありません。

http://jp.sakhalinmuseum.ru//p_history.php
 まあ昭和戦前期の帝冠様式ですから、千鳥破風が反っていても普通のことでしょうけれども。かたや本件本堂は近代的は鉄筋コンクリート造(たぶん)に和風の意匠をほどこしているので、帝冠様式を連想してしまったのです。

 注:『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年、p.280参照。7月11日ブログに関連事項記述

2020/07/15

相良川(承前)

 開拓使の文書〈重要文化財、北海道立文書館蔵)に綴られた図面です。
明治6年8月「地所替奉願候書付」添付図面
 民事局の「自明治四年辛未至明治六年地理諸留」の「地所替奉願候書付」という書類に添えられています。旧仙台藩白石領から望月寒に入植した移民の一部が1873(明治6)年8月、土地を替えてもらうように願い出たものです。

 北を上に図面の向きを変え、昨日ブログ同様、川を水色で着色しました。
明治6年8月「地所替奉願候書付」添付図面 方位北を上 着色
 南西から北東へ豊平川が流れ、西方の黄色の□で囲ったところに「志村鉄一」と書かれています(文字は下から上へ逆さ)。枝分かれしている川に架かっているのが豊平橋でしょう。橙色の傍線を引いた3箇所には、右(東)から「白石村」、「横丁」、「月寒道」と書かれています。沼沢らしき二つのカタチが描かれているのは昨日ブログに載せた図面と同じです。「谷地」と書かれています。

 「谷地」2箇所のあたりを拡大します。
明治6年8月「地所替奉願候書付」添付図面 方位北を上 着色 「谷地」付近
 左方(西側)の沼沢は、「白石村」から通じる道の南西側に位置するようです。現在の札幌東高校の近くにあったとされるトイシカラメム(ツイシカリメム)に一致します(2019.3.2本年6月10日ブログほか参照)。
 その谷地の下流(北側)、赤い□で囲ったところに「相良正勝私有地」と書かれています。

 昨日ブログに載せた図面を再掲します。 
上白石村の図 方位北を真上に調整 トイシカラメムあたり拡大
 「相良川」というのは、「相良正勝」という入植者にちなむようです。

 昨日と本日の二枚の古図面、かような一次史料を発掘できる能力は私にはありません。種明かしをしますと、先達がすでに引用しています。中濱康光『士族移民 北海道開拓使貫属考のⅡ 白石・上白石・手稲村開拓史』2004年です(p.121)。白石村から新白石村(上白石村)が分村する経緯を考察する中で用いられています。ただし川や谷地のことは主題ではないので、詳しくは言及されていません。妄想の羽を伸ばす余地があります。

 トイシカラメム(ツイシカリメム)というアイヌ語由来の泉名が明治期の入植者にどれだけ浸透していたか、あるいは入植後に呼び慣わされた相良川などの通称地名(川名、沼名)がどのように変遷したか、興味深いところです。
 相良川が後年小沼川と呼ばれるようになったのならば、そのミナモトたるメム、すなわち国道南西側の札幌東高校近くにあったのは「小沼」だったのでしょうか。ということは、国道北東側のほうは対比的に「大沼」だったのか。偶然なのか、前掲明治六年図面では北東側(図上、右側)の谷地が大きく描かれています。トイシカラメムは、やはりこの一帯を広く指していたのではないかとますます想うに至りました。いや、妄想だけでなく、地道に史料を漁る努力を先人に倣いたいものです。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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