札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
札幌建築鑑賞会通信第85号 発行
会員の皆さん宛ては先週、郵送されました。

今号の表紙は、田山修三先生(北海道文化財保護協会副理事長)に寄せていただいた絵手紙作品です。
表紙絵のために描きおろしていただきました。紙媒体の通信は白黒ですが、原画は彩色です。会公式ブログに彩色版を載せましたので、お楽しみください。
↓
https://ameblo.jp/keystonesapporo/entry-12607770757.html

今号の表紙は、田山修三先生(北海道文化財保護協会副理事長)に寄せていただいた絵手紙作品です。
表紙絵のために描きおろしていただきました。紙媒体の通信は白黒ですが、原画は彩色です。会公式ブログに彩色版を載せましたので、お楽しみください。
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ポンコトニ、ホンコトニを廻るさらなる妄想
「札幌市視形線図」1924(大正13)年からの抜粋です(末注①)。

当時の札幌市の市域西端に、川境を分かった旧円山川が描かれています。
この図でも、この川に「琴似川」と添えられています。赤い○で囲ったところです。6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と同様です。右方(東方)の現知事公館から発する川と現サクシュ琴似川には「支流」とあるのも同じです(橙色と黄色の○)。
それもそのはずというべきか、この地図の印刷者は「札幌市街之図」1918(大正7)年と同じ「北海石版所」(末注②)です。

「札幌市役所編纂」とありますが、編纂されたのは1尺単位で引かれた等高線(末注③)のことだと思います。
標題は、「札幌市街之図」とある下に「視形線図」と書き加えられた体裁です。

元図として使われた「札幌市街之図」自体は、北海石版所が作ったものでしょう。
明治から大正にかけて、この種の大縮尺の市街図が北海石版所をはじめとする民間印刷業者によってたびたび発行されています。国(陸地測量部)による地形図とは別に、です。これらの市街図は誰が測量して、製図したのか。印刷者名とは別に「北海道庁」が発行者らしく表記されたものもありますが、必ずしも定かではありません。当時の民間印刷業者に測量・作図の力量がどこまであったのか、興味深いところですが措きます。
なぜこれを採り上げたかというと、やはり冒頭に記した川名に関わります。
本件旧円山川が「琴似川」の本流であるかのごとく表記された事情は、大局的にはコトニ→琴似の「地名の引越し」(山田秀三先生)に由るものでしょう(昨日ブログ参照)。「琴似村の方に引きつけられ」た(末注④)。加えて私は、明治大正期に度重ねて発行された市街図がこれに拍車をかけたのではないかと想うのです。
冒頭の視形線図を、6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と較べてみます。

赤い○で囲った「琴似川」の文字の位置に注目しました。冒頭の大正13年視形線図では鉄道の北側から南側まで間隔を開けて書かれているのに対し、この大正7年市街図では鉄道の南側にまとまっています。6月27日ブログで述べたように、書かれ方としては旧円山川に遡る流路が琴似川であるかのようです。しかも、右方(東方)の川に添えられた「琴似川支流」との対比で、本流であるかのごとくです。
冒頭の大正13年視形線図に戻ります。

飛び飛びに書かれた「琴似川」の文字のうち、「川」の字の箇所をトリミングしました。「川」の字は、前掲大正7年市街図よりもさらに南側に書かれています。西側から別の川が合流する地点よりも上流です。この書かれ方だと、「琴似川」は完全に旧円山川と見做せます。
下掲は、1910(明治43)年に出された「札幌区全図」という市街図です。

赤い○で囲った「琴似川」の文字は、鉄道の北側にまとまって書かれています。
3枚の市街図だけで即断するのは危ないのですが、明治43年→大正7年→大正13年と時代が下るにつれて、「琴似川」が旧円山川に特化されていったようです。
コトニの由来は本来的には、知事公館や植物園などのコッネイでした。凹んだ土地です。凹地のメム(泉池)を源とする川が、下流で他の川も交えて一本にまとまり、明治以降、琴似川と総称されるようになりました。総称だったはずが、旧円山川に遡って本流視されるようになった。なぜか。
私はここでも、昨日ブログで引用した『札幌区史』1911(明治44)年が一役買ったと推理します。

リライトされた明治6年地図です。「ホンコトニ」。左方(西方)に流れる水色でなぞった旧円山川が、ホン(=アイヌ語で「小さい」)ならぬ「本流の」琴似川と誤解されたのではないか。奇しくもというべきか、旧円山川が琴似川(の本流)とされている市街図は、『札幌区史』が刊行された明治44年より少しあとの大正期です。
ポンコトニ、ホンコトニ、本琴似、琴似本流。もちろん、アイヌ語の語義に精通する有識者がホン、ポンを誤解するはずはありません。さりとて印刷出版文化のすそ野が広がる時代にあって、かような地図の細部まで諸賢人の目が行き届いたかどうか。
念のため申し添えます。私の妄想は明治大正期の民間発行地図への賛辞です。時空逍遥を堪能させてもらえるのも、北海石版所をはじめ往時の出版文化人のおかげです。感謝は尽きません。
注①:同図については2019.2.12ブログに関連事項記述
注②:北海石版所については2015.1.22ブログに関連事項記述
注③:同図の「凡例」には「同高線」とある。
注④:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.52

当時の札幌市の市域西端に、川境を分かった旧円山川が描かれています。
この図でも、この川に「琴似川」と添えられています。赤い○で囲ったところです。6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と同様です。右方(東方)の現知事公館から発する川と現サクシュ琴似川には「支流」とあるのも同じです(橙色と黄色の○)。
それもそのはずというべきか、この地図の印刷者は「札幌市街之図」1918(大正7)年と同じ「北海石版所」(末注②)です。

「札幌市役所編纂」とありますが、編纂されたのは1尺単位で引かれた等高線(末注③)のことだと思います。
標題は、「札幌市街之図」とある下に「視形線図」と書き加えられた体裁です。

元図として使われた「札幌市街之図」自体は、北海石版所が作ったものでしょう。
明治から大正にかけて、この種の大縮尺の市街図が北海石版所をはじめとする民間印刷業者によってたびたび発行されています。国(陸地測量部)による地形図とは別に、です。これらの市街図は誰が測量して、製図したのか。印刷者名とは別に「北海道庁」が発行者らしく表記されたものもありますが、必ずしも定かではありません。当時の民間印刷業者に測量・作図の力量がどこまであったのか、興味深いところですが措きます。
なぜこれを採り上げたかというと、やはり冒頭に記した川名に関わります。
本件旧円山川が「琴似川」の本流であるかのごとく表記された事情は、大局的にはコトニ→琴似の「地名の引越し」(山田秀三先生)に由るものでしょう(昨日ブログ参照)。「琴似村の方に引きつけられ」た(末注④)。加えて私は、明治大正期に度重ねて発行された市街図がこれに拍車をかけたのではないかと想うのです。
冒頭の視形線図を、6月27日ブログに載せた「札幌市街之図」1918(大正7)年と較べてみます。

赤い○で囲った「琴似川」の文字の位置に注目しました。冒頭の大正13年視形線図では鉄道の北側から南側まで間隔を開けて書かれているのに対し、この大正7年市街図では鉄道の南側にまとまっています。6月27日ブログで述べたように、書かれ方としては旧円山川に遡る流路が琴似川であるかのようです。しかも、右方(東方)の川に添えられた「琴似川支流」との対比で、本流であるかのごとくです。
冒頭の大正13年視形線図に戻ります。

飛び飛びに書かれた「琴似川」の文字のうち、「川」の字の箇所をトリミングしました。「川」の字は、前掲大正7年市街図よりもさらに南側に書かれています。西側から別の川が合流する地点よりも上流です。この書かれ方だと、「琴似川」は完全に旧円山川と見做せます。
下掲は、1910(明治43)年に出された「札幌区全図」という市街図です。

赤い○で囲った「琴似川」の文字は、鉄道の北側にまとまって書かれています。
3枚の市街図だけで即断するのは危ないのですが、明治43年→大正7年→大正13年と時代が下るにつれて、「琴似川」が旧円山川に特化されていったようです。
コトニの由来は本来的には、知事公館や植物園などのコッネイでした。凹んだ土地です。凹地のメム(泉池)を源とする川が、下流で他の川も交えて一本にまとまり、明治以降、琴似川と総称されるようになりました。総称だったはずが、旧円山川に遡って本流視されるようになった。なぜか。
私はここでも、昨日ブログで引用した『札幌区史』1911(明治44)年が一役買ったと推理します。

リライトされた明治6年地図です。「ホンコトニ」。左方(西方)に流れる水色でなぞった旧円山川が、ホン(=アイヌ語で「小さい」)ならぬ「本流の」琴似川と誤解されたのではないか。奇しくもというべきか、旧円山川が琴似川(の本流)とされている市街図は、『札幌区史』が刊行された明治44年より少しあとの大正期です。
ポンコトニ、ホンコトニ、本琴似、琴似本流。もちろん、アイヌ語の語義に精通する有識者がホン、ポンを誤解するはずはありません。さりとて印刷出版文化のすそ野が広がる時代にあって、かような地図の細部まで諸賢人の目が行き届いたかどうか。
念のため申し添えます。私の妄想は明治大正期の民間発行地図への賛辞です。時空逍遥を堪能させてもらえるのも、北海石版所をはじめ往時の出版文化人のおかげです。感謝は尽きません。
注①:同図については2019.2.12ブログに関連事項記述
注②:北海石版所については2015.1.22ブログに関連事項記述
注③:同図の「凡例」には「同高線」とある。
注④:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.52
境目は、やはり面白い⑮ 旧円山川
琴似川をめぐる川名の混乱(?)は、山田秀三先生が半世紀以上前に喝破されています。すなわちコトニ→琴似の地名の「引越し」です(末注①)。その本題については山田先生の著述に加えることはありません。拙ブログの今回のテーマである旧区村界を分かった旧円山川に即して蛇足を試みます。
先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年で言及している「札幌郡西部図」1873(明治6)年からの抜粋です。

画像が粗くて申し訳ないのですが、黄色の矢印を付けた先に「ホンコトニ」と書かれています。原図の向き変えて北を上にした都合上、文字は下から上へ逆さまです。この地図のこの箇所になぜホンコトニと書かれているかは同書に詳述されており、また拙ブログのテーマではありませんので割愛します。
その左方(西)の赤い矢印を付けたのが本件旧円山川です。問題は昨日ブログで引用したとおり、『札幌市史 政治行政篇』1953(昭和28)年(旧市史)でこちらの川が「ポンコトニ」とされていることです。「この旧円山川は西側のケネウシペツ(中略)の水系に繋る川で、どう考えてもアイヌ時代のコトニ水系の支流では無い」(前述書p.47)。にもかかわらずこの川がポンコトニとされた事情を、山田先生は次のように推理しています(太字、同書p.52)。
琴似村の方に引きつけられて、いつの間にか円山村、札幌区の境界の川の名(引用者末注②)として使われるようにようになったらしく見える。これがやっと辿りついた推理であるが、是非の検討は若い同好者によって続けて戴きたいものである。
さらに先生は旧円山川を以下のとおり説明しています(太字、同書p.60)。
旧円山川
前掲「札幌郡西部図」の札幌区(一里方内)の西境に小川が描いてあるが、現称「旧円山川」(市土木部の図による)で、相当長い間札幌区と円山村の境になっていた川である。前記したように、これがある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていたようだ(前記ポンコトニの処を参照のこと)。北一条西二十丁目の角の辺から西北流し、二十一丁目線の少し西側を蛇行した川であるが、今はまったく面影がない。
「若い同好者」の末席を汚すのも恐れ多いことながら、蛮勇を奮って「是非の検討」に挑みます。
私の疑問は二つあります。
第一に、旧円山川が「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」のかどうか?
第二に、この川がポンコトニと呼ばれたとして、それは「琴似村の方に引きつけられ」たからか?
疑問の第一について。
たしかに旧市史では本文でも、旧円山川を「ポンコトニ川」と記しています(末注③)。しかし、それ以外の古文書、古地図ではどうでしょうか。管見寡聞にして、旧市史を裏付ける史料に当たりません。円山村→藻岩村→円山町の歴史の集大成ともいえる『円山百年史』1977(昭和52)年は、次のような表現です。
「琴似川支流の川境」(p.28)、「札幌との境界の川」(p.29)、「南一条通り西十七丁目の小川」(p.46)、「二十丁目沿いの川筋」(p.114)
ポンコトニは「小さいコトニ」であり、川に即して和訳すれば「ポン」は「支流筋の」(末注④)です。したがって「琴似川支流」は語義に適います。しかし、もしポンコトニと呼び慣わされていたのならば、「琴似川支流」というよりも、固有名詞的にそのまま古地図などに記されてよかろうものをと想えるのです。地域の古老の証言がふんだんに盛り込まれた『円山百年史』にして、「境界の川」といった漠然とした呼称であることに引っかかります。一方、昨日ブログに載せたとおり、かろうじて川名を見つけた「札幌市街之図」1918(大正7)年では「琴似川」です。「支流」とは書かれていません。
あくまでも状況証拠ですが、「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」とは言いがたい、というのが私の結論です。
第二の疑問に移ります。

「明治六年十一月札幌附近ノ図(飯島矩道舩越長善実測北海道庁所蔵)」と題された古地図からの抜粋です。『札幌区史』1911(明治44)年から採りました。北を上にしたので、やはり文字が逆さになっていますがお許しください。
表題から明らかなように、本図は前掲「札幌郡西部図」をリライトしたものです。前掲図と較べていただくとおわかりいただけるでしょう。問題にしてきている旧円山川を水色でなぞりました。
注目したいのは、橙色の矢印を付けた先です。「ホンコトニ」と書かれています。オリジナルの前掲図では東寄りの「コトニ水系」(山田前掲書)に沿って書かれたものが、本図では西方のケネウシペツ水系との中間です。この図だけ見ると、どうでしょうか。「ホンコトニ」は旧円山川の川名とも読めてしまいます。
札幌市の正史は、前述1953年旧市史の前は本『札幌区史』に遡ります。旧市史編纂に当たって最も下敷きされたのが『区史』といってよいでしょう。旧円山川を「ポンコトニ川」としたのは、このリライト版古地図に影響されたのではないでしょうか。「琴似村に引きつけられ」たというようないわば巨視的な移動ではなく、「ホンコトニ」の記載位置のズレによる微視的な異同(取り違え)が原因だった。
山田先生のみならず、旧市史編纂に携わった井黒弥太郎、高倉新一郎という偉大な諸先達にも大変恐れ多い妄言になってしまいました。
注①:コトニ→琴似の地名の移動については2017.1.22ブログに関連事項記述
注②:昨日ブログをはじめ、私は札幌区との境界を藻岩村とか円山町と記しているが、もともとは山田先生が述べるとおり円山村である。同村は1906(明治39)年に山鼻村と合わさって藻岩村になった。さらに1938(昭和13)年、円山町となり、1941(昭和16)年札幌市と合併した。
注③『札幌市史 政治行政篇』pp.109-110
注④:前掲山田書p.52
先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年で言及している「札幌郡西部図」1873(明治6)年からの抜粋です。

画像が粗くて申し訳ないのですが、黄色の矢印を付けた先に「ホンコトニ」と書かれています。原図の向き変えて北を上にした都合上、文字は下から上へ逆さまです。この地図のこの箇所になぜホンコトニと書かれているかは同書に詳述されており、また拙ブログのテーマではありませんので割愛します。
その左方(西)の赤い矢印を付けたのが本件旧円山川です。問題は昨日ブログで引用したとおり、『札幌市史 政治行政篇』1953(昭和28)年(旧市史)でこちらの川が「ポンコトニ」とされていることです。「この旧円山川は西側のケネウシペツ(中略)の水系に繋る川で、どう考えてもアイヌ時代のコトニ水系の支流では無い」(前述書p.47)。にもかかわらずこの川がポンコトニとされた事情を、山田先生は次のように推理しています(太字、同書p.52)。
琴似村の方に引きつけられて、いつの間にか円山村、札幌区の境界の川の名(引用者末注②)として使われるようにようになったらしく見える。これがやっと辿りついた推理であるが、是非の検討は若い同好者によって続けて戴きたいものである。
さらに先生は旧円山川を以下のとおり説明しています(太字、同書p.60)。
旧円山川
前掲「札幌郡西部図」の札幌区(一里方内)の西境に小川が描いてあるが、現称「旧円山川」(市土木部の図による)で、相当長い間札幌区と円山村の境になっていた川である。前記したように、これがある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていたようだ(前記ポンコトニの処を参照のこと)。北一条西二十丁目の角の辺から西北流し、二十一丁目線の少し西側を蛇行した川であるが、今はまったく面影がない。
「若い同好者」の末席を汚すのも恐れ多いことながら、蛮勇を奮って「是非の検討」に挑みます。
私の疑問は二つあります。
第一に、旧円山川が「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」のかどうか?
第二に、この川がポンコトニと呼ばれたとして、それは「琴似村の方に引きつけられ」たからか?
疑問の第一について。
たしかに旧市史では本文でも、旧円山川を「ポンコトニ川」と記しています(末注③)。しかし、それ以外の古文書、古地図ではどうでしょうか。管見寡聞にして、旧市史を裏付ける史料に当たりません。円山村→藻岩村→円山町の歴史の集大成ともいえる『円山百年史』1977(昭和52)年は、次のような表現です。
「琴似川支流の川境」(p.28)、「札幌との境界の川」(p.29)、「南一条通り西十七丁目の小川」(p.46)、「二十丁目沿いの川筋」(p.114)
ポンコトニは「小さいコトニ」であり、川に即して和訳すれば「ポン」は「支流筋の」(末注④)です。したがって「琴似川支流」は語義に適います。しかし、もしポンコトニと呼び慣わされていたのならば、「琴似川支流」というよりも、固有名詞的にそのまま古地図などに記されてよかろうものをと想えるのです。地域の古老の証言がふんだんに盛り込まれた『円山百年史』にして、「境界の川」といった漠然とした呼称であることに引っかかります。一方、昨日ブログに載せたとおり、かろうじて川名を見つけた「札幌市街之図」1918(大正7)年では「琴似川」です。「支流」とは書かれていません。
あくまでも状況証拠ですが、「ある時期に和人によってポンコトニ川と呼ばれていた」とは言いがたい、というのが私の結論です。
第二の疑問に移ります。

「明治六年十一月札幌附近ノ図(飯島矩道舩越長善実測北海道庁所蔵)」と題された古地図からの抜粋です。『札幌区史』1911(明治44)年から採りました。北を上にしたので、やはり文字が逆さになっていますがお許しください。
表題から明らかなように、本図は前掲「札幌郡西部図」をリライトしたものです。前掲図と較べていただくとおわかりいただけるでしょう。問題にしてきている旧円山川を水色でなぞりました。
注目したいのは、橙色の矢印を付けた先です。「ホンコトニ」と書かれています。オリジナルの前掲図では東寄りの「コトニ水系」(山田前掲書)に沿って書かれたものが、本図では西方のケネウシペツ水系との中間です。この図だけ見ると、どうでしょうか。「ホンコトニ」は旧円山川の川名とも読めてしまいます。
札幌市の正史は、前述1953年旧市史の前は本『札幌区史』に遡ります。旧市史編纂に当たって最も下敷きされたのが『区史』といってよいでしょう。旧円山川を「ポンコトニ川」としたのは、このリライト版古地図に影響されたのではないでしょうか。「琴似村に引きつけられ」たというようないわば巨視的な移動ではなく、「ホンコトニ」の記載位置のズレによる微視的な異同(取り違え)が原因だった。
山田先生のみならず、旧市史編纂に携わった井黒弥太郎、高倉新一郎という偉大な諸先達にも大変恐れ多い妄言になってしまいました。
注①:コトニ→琴似の地名の移動については2017.1.22ブログに関連事項記述
注②:昨日ブログをはじめ、私は札幌区との境界を藻岩村とか円山町と記しているが、もともとは山田先生が述べるとおり円山村である。同村は1906(明治39)年に山鼻村と合わさって藻岩村になった。さらに1938(昭和13)年、円山町となり、1941(昭和16)年札幌市と合併した。
注③『札幌市史 政治行政篇』pp.109-110
注④:前掲山田書p.52
境目は、やはり面白い⑭ 境目の川の名
西21丁目と西22丁目の旧市町界を流れていた川について、6月24日ブログ末尾で「この川は、流れていた当時、何と呼ばれていたのでしょうか」と問いました。
「この川」を地形図で確認しておきます。

1916(大正5)年地形図「札幌」に水色でなぞりました。川に沿って一点鎖線で境界線も引かれています。当時は東側が札幌区、西側が藻岩村でした。
この川の名前が、古地図でなかなか出てきません、上掲地形図でも、鉄路の北に流下して他の川と合流したところで「琴似川」と記されているのみです(赤い○で囲ったところ)。
同時期に民間で市販された下掲図を観ます。

北海石版所発行「札幌市街之図」1918(大正7)年から抜粋しました。くだんの川に「琴似川」と添え書きされています(赤い○)。ただしこの間逍遥してきた流域より少し下流です。この地図には描かれていませんが、冒頭の地形図で明らかなように鉄路の南側で西側から別の川が合流しています。
一方、現在の知事公館や植物園から発している川の下流に「琴似川支流」と書かれています(橙色の○)。さらにその東方、「東北帝国大学」の下流部の川も「琴似川支流」です(黄色の○、末注①)。この書かれ方からすると、本件境界の川が琴似川の本流であるかのようです。
これらの川の名前のことは、すでに山田秀三先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965(昭和40)年で言及しています。以下、引用します(太字、p.47、原文ママ)。
「札幌市史」に、昔の札幌区と円山村の境界が『西二十一丁目線ポンコトニ川の辺にあった。』と書いてあり、又同書に載せた「札幌扇状地古河川図」の中にも、それに当たる川にポンコトニ川としるしてある。この川は今でもある程度流れていて、現名は『旧円山川』というのだそうだ。
ところがこの旧円山川は西側のケネウシペツ(後述。現称の琴似川)の水系に繋る川で、どう考えてもアイヌ時代のコトニ水系の支流では無い。川の名も時に移転する。アイヌ時代に、もっと東にあった川名であるが、明治になって引越しをして今の旧円山川の名として使われたのでは無かろうか。
コトニ水系に関する山田先生の考察はまだまだ続きますが、いったん区切ります。先生が触れた『札幌市史 政治行政篇』1953(昭和28)年(旧市史)の「札幌扇状地古河川図」は以下のとおりです。

本件境界の川とおぼしき流路に、たしかに「ポンコトニ」と添えられています。赤い○で囲ったところです。なお、先生に倣い、この川を今後「旧円山川」と呼びます(末注②)。
旧円山川を「ポンコトニ」とするのは、山田先生の根源的疑義もさることながら、前掲大正7年「札幌市街之図」とも齟齬をきたします。「ポン」(アイヌ語で「小さい」)コトニならばコトニの支流であってしかるべきところ、前述したとおり「札幌市街之図」では東方の川が「琴似川支流」とされ、本件旧円山川が「琴似川」本流であるかのごとき表記だからです。
注①:現在の「サクシュ琴似川」である。
注②:現「円山川」は、円山西町を源流として円山公園を流下し、北1条・宮の沢通あたりで暗渠となって界川の暗渠部に合流する川である。
「この川」を地形図で確認しておきます。

1916(大正5)年地形図「札幌」に水色でなぞりました。川に沿って一点鎖線で境界線も引かれています。当時は東側が札幌区、西側が藻岩村でした。
この川の名前が、古地図でなかなか出てきません、上掲地形図でも、鉄路の北に流下して他の川と合流したところで「琴似川」と記されているのみです(赤い○で囲ったところ)。
同時期に民間で市販された下掲図を観ます。

北海石版所発行「札幌市街之図」1918(大正7)年から抜粋しました。くだんの川に「琴似川」と添え書きされています(赤い○)。ただしこの間逍遥してきた流域より少し下流です。この地図には描かれていませんが、冒頭の地形図で明らかなように鉄路の南側で西側から別の川が合流しています。
一方、現在の知事公館や植物園から発している川の下流に「琴似川支流」と書かれています(橙色の○)。さらにその東方、「東北帝国大学」の下流部の川も「琴似川支流」です(黄色の○、末注①)。この書かれ方からすると、本件境界の川が琴似川の本流であるかのようです。
これらの川の名前のことは、すでに山田秀三先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965(昭和40)年で言及しています。以下、引用します(太字、p.47、原文ママ)。
「札幌市史」に、昔の札幌区と円山村の境界が『西二十一丁目線ポンコトニ川の辺にあった。』と書いてあり、又同書に載せた「札幌扇状地古河川図」の中にも、それに当たる川にポンコトニ川としるしてある。この川は今でもある程度流れていて、現名は『旧円山川』というのだそうだ。
ところがこの旧円山川は西側のケネウシペツ(後述。現称の琴似川)の水系に繋る川で、どう考えてもアイヌ時代のコトニ水系の支流では無い。川の名も時に移転する。アイヌ時代に、もっと東にあった川名であるが、明治になって引越しをして今の旧円山川の名として使われたのでは無かろうか。
コトニ水系に関する山田先生の考察はまだまだ続きますが、いったん区切ります。先生が触れた『札幌市史 政治行政篇』1953(昭和28)年(旧市史)の「札幌扇状地古河川図」は以下のとおりです。

本件境界の川とおぼしき流路に、たしかに「ポンコトニ」と添えられています。赤い○で囲ったところです。なお、先生に倣い、この川を今後「旧円山川」と呼びます(末注②)。
旧円山川を「ポンコトニ」とするのは、山田先生の根源的疑義もさることながら、前掲大正7年「札幌市街之図」とも齟齬をきたします。「ポン」(アイヌ語で「小さい」)コトニならばコトニの支流であってしかるべきところ、前述したとおり「札幌市街之図」では東方の川が「琴似川支流」とされ、本件旧円山川が「琴似川」本流であるかのごとき表記だからです。
注①:現在の「サクシュ琴似川」である。
注②:現「円山川」は、円山西町を源流として円山公園を流下し、北1条・宮の沢通あたりで暗渠となって界川の暗渠部に合流する川である。
伝播?
中央区大通東4丁目から北を眺めました。

何を眺めたかというと、クランク交差点(2019.3.4ブログ参照)ではありません。
上掲画像の真ん中から左方にかけて、壁面緑化された建物が2棟、見えます。

北1条東3丁目です。
中央右寄り奥のサッポロファクトリーレンガ館も緑化されています。

北2条東3丁目です。
さらに、右端の家屋も蔽われています。

大通東4丁目です。
冒頭のクランク交差点付近に立つと、壁面緑化物件を4件、一望に収めることができます。

この一帯の壁面緑化密度はかなり高いのではないでしょうか。建物を緑で覆いたい人が多いのか。 それともツタの種が飛散して、それぞれに根を張り(とは言わないのか)こういうことになったのでしょうか。

何を眺めたかというと、クランク交差点(2019.3.4ブログ参照)ではありません。
上掲画像の真ん中から左方にかけて、壁面緑化された建物が2棟、見えます。

北1条東3丁目です。
中央右寄り奥のサッポロファクトリーレンガ館も緑化されています。

北2条東3丁目です。
さらに、右端の家屋も蔽われています。

大通東4丁目です。
冒頭のクランク交差点付近に立つと、壁面緑化物件を4件、一望に収めることができます。

この一帯の壁面緑化密度はかなり高いのではないでしょうか。建物を緑で覆いたい人が多いのか。 それともツタの種が飛散して、それぞれに根を張り(とは言わないのか)こういうことになったのでしょうか。
厚生年金会館ホールの平面
旧厚生年金会館です。

解体工事のため、覆いが掛かっています。
工事中の塀に描かれている在りし日の建物の姿に惹かれました。

上から俯瞰したした風景が新鮮だったのです。私は今まで、地上から見上げた姿しか印象に残ってませんでした(2018.10.8ブログ参照)。
今さらながら、大ホールの平面は(も)六華様だったのだなあと気づいたしだいです。1972(昭和47)年、冬季五輪に先立つIOC総会の開会式がここで催されました。

解体工事のため、覆いが掛かっています。
工事中の塀に描かれている在りし日の建物の姿に惹かれました。

上から俯瞰したした風景が新鮮だったのです。私は今まで、地上から見上げた姿しか印象に残ってませんでした(2018.10.8ブログ参照)。
今さらながら、大ホールの平面は(も)六華様だったのだなあと気づいたしだいです。1972(昭和47)年、冬季五輪に先立つIOC総会の開会式がここで催されました。
境目は、やはり面白い⑬ 市道北4条中通西線から北5条線
西21丁目と西22丁目の旧市町界探訪も終わりに近づいてきました。

今回は北4条中通西線、北5条線を逍遥します。画像の撮影地点と向きは、上掲現在図に赤い○数字(画像キャプションの数字と一致)と矢印で示しました。これまで訪ね歩いた通りに付けた橙色は、ブログ掲載月日です。
①-1 市道北4条中通西線 北4条西20丁目から西望

今回のテーマの出だしの6月12日ブログで歩いた市道北4条線(ベニバナトチノキの並木道)の一本北側の仲通りです。
①-2 同上 道の凹み

やはり、というべきか、彼方で道がわずか~に凹んでいます。黄色の矢印を付けたあたりです。
②-1 市道北4条中通西線 北4条西21丁目から東望

同じ通りを反対方向から眺めました。
②-2 同上 道の凹み

同様に、凹みが望めます。
③北4条中通西線から西21丁目と西22丁目の丁目界

前掲①-2、②-2で望めた凹みの箇所です。通りの北側に踏み分け道が通じています。この道が西21丁目と西22丁目の丁目界です。とりもなおさず旧札幌市と旧円山町の旧市町界であり、小河川跡であり、数千年前には古豊平川が扇状地を拓いていました。この踏み分け道は私道なので、通りから眺めるだけとします。
④北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 南望

北5条線側に廻って、同じ丁目界を眺めました。やはり小径で分かたれています。この小径も私道です。旧市町界や川跡がこのような丁目界で名残をとどめているのはありがたいことです。
⑤-1 北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 北望

北5条線の向かい側(北側)です。
⑤-2 同上 高低差

一見何の変哲もない駐車場ですが、よく見ると奥のフェンスのところで高低差があります。黄色の矢印の先です。フェンスの向こうのクルマが置かれたGL(地盤面)が手前の駐車場に比べて、わずか~に低い。このフェンスで丁目界が分かたれているようです。その後方に建つマンションは北5条線に対してナナメに配置されています。川はフェンスの向うで、このナナメに沿って北へ下っていたらしい。
このたび歩いた界隈を1948(昭和23)年空中写真で俯瞰します。

ところでこの川は、流れていた当時、何と呼ばれていたのでしょうか。

今回は北4条中通西線、北5条線を逍遥します。画像の撮影地点と向きは、上掲現在図に赤い○数字(画像キャプションの数字と一致)と矢印で示しました。これまで訪ね歩いた通りに付けた橙色は、ブログ掲載月日です。
①-1 市道北4条中通西線 北4条西20丁目から西望

今回のテーマの出だしの6月12日ブログで歩いた市道北4条線(ベニバナトチノキの並木道)の一本北側の仲通りです。
①-2 同上 道の凹み

やはり、というべきか、彼方で道がわずか~に凹んでいます。黄色の矢印を付けたあたりです。
②-1 市道北4条中通西線 北4条西21丁目から東望

同じ通りを反対方向から眺めました。
②-2 同上 道の凹み

同様に、凹みが望めます。
③北4条中通西線から西21丁目と西22丁目の丁目界

前掲①-2、②-2で望めた凹みの箇所です。通りの北側に踏み分け道が通じています。この道が西21丁目と西22丁目の丁目界です。とりもなおさず旧札幌市と旧円山町の旧市町界であり、小河川跡であり、数千年前には古豊平川が扇状地を拓いていました。この踏み分け道は私道なので、通りから眺めるだけとします。
④北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 南望

北5条線側に廻って、同じ丁目界を眺めました。やはり小径で分かたれています。この小径も私道です。旧市町界や川跡がこのような丁目界で名残をとどめているのはありがたいことです。
⑤-1 北5条線から西21丁目と西22丁目の丁目界 北望

北5条線の向かい側(北側)です。
⑤-2 同上 高低差

一見何の変哲もない駐車場ですが、よく見ると奥のフェンスのところで高低差があります。黄色の矢印の先です。フェンスの向こうのクルマが置かれたGL(地盤面)が手前の駐車場に比べて、わずか~に低い。このフェンスで丁目界が分かたれているようです。その後方に建つマンションは北5条線に対してナナメに配置されています。川はフェンスの向うで、このナナメに沿って北へ下っていたらしい。
このたび歩いた界隈を1948(昭和23)年空中写真で俯瞰します。

ところでこの川は、流れていた当時、何と呼ばれていたのでしょうか。
境目は、やはり面白い⑫ 市道西21丁目線、西20丁目線
西21丁目と西22丁目の境目探訪、市道西21丁目線を南下します。

上掲現在図中、橙色線が昨日ブログまで、赤い線が本日の足跡です。
① 市道西21丁目線 北1条から南望 (撮影地点・向きは上掲図に画像キャプションの○数字と矢印で表示)

画像左上に写る道路標識で示されているとおり、奥の交差点でクランクしています。北1条・宮の沢通との交差点です。なぜクランクしているか。旧市町界の為せるわざだと思いますが、探究は余裕があれば後述します。
② 北1条西21丁目 ナナメの地割

敷地の境目とおぼしきコンクリート塀が、道路(西21丁目線)に対してナナメに通じています。
③ 北1条西20丁目(西21丁目線側) ナナメの地割

前掲②地点の市道西21丁目線をはさんで向かいの西20丁目側です。ここも、境目に通じる土留めが道路に対してナナメっています。
④ 北1条西20丁目(西20丁目線側) ナナメの地割

北1条西20丁目を西20丁目線に回りました。ここでもまた、ナナメのコンクリートブロック塀です。
現況地番図(6月16日、6月19日ブログ参照)で撮影地点を確認します。

水色でなぞったのが川跡とおぼしき特異な地割です。前掲②③④地点のナナメは、この地割を反映していると思われます。
1948(昭和23)年空中写真に観る同じ一帯です。

撮影地点に同じ番号を付けました。
地番図と空中写真に照らして、冒頭に載せた現在図に川跡を加筆します。

水色の実線でなぞりました。
この川跡も、古豊平川の旧河道とされます。流れていたのは1万年前から4千年前です(末注)。古豊平川が東へ移っていった後は小河川が跡づけました。小河川となったのが4千年前以降だとすると縄文時代後期です。この川の下流域などで続縄文や擦文、アイヌ文化期の遺跡が見つかるのは、小河川が古代人の生活圏に適っていたからでしょう。先日、このあたりに古くからお住まいだった方のご子孫から、「川が流れていた頃、サケが遡上していたと聞いた」というお話を耳にしました。
大都市札幌の中心部はわりと平ぺったい土地ですが、道路の仄かな凹みやナナメの地割が潜んでいます。これは現地を歩かないと実感できません。数千年前に流れていた大河の痕跡だと想うと、愛おしさが弥増します。
注:札幌市博物館活動センター古沢仁氏作成図(豊平川流路の変遷)に基づく。

上掲現在図中、橙色線が昨日ブログまで、赤い線が本日の足跡です。
① 市道西21丁目線 北1条から南望 (撮影地点・向きは上掲図に画像キャプションの○数字と矢印で表示)

画像左上に写る道路標識で示されているとおり、奥の交差点でクランクしています。北1条・宮の沢通との交差点です。なぜクランクしているか。旧市町界の為せるわざだと思いますが、探究は余裕があれば後述します。
② 北1条西21丁目 ナナメの地割

敷地の境目とおぼしきコンクリート塀が、道路(西21丁目線)に対してナナメに通じています。
③ 北1条西20丁目(西21丁目線側) ナナメの地割

前掲②地点の市道西21丁目線をはさんで向かいの西20丁目側です。ここも、境目に通じる土留めが道路に対してナナメっています。
④ 北1条西20丁目(西20丁目線側) ナナメの地割

北1条西20丁目を西20丁目線に回りました。ここでもまた、ナナメのコンクリートブロック塀です。
現況地番図(6月16日、6月19日ブログ参照)で撮影地点を確認します。

水色でなぞったのが川跡とおぼしき特異な地割です。前掲②③④地点のナナメは、この地割を反映していると思われます。
1948(昭和23)年空中写真に観る同じ一帯です。

撮影地点に同じ番号を付けました。
地番図と空中写真に照らして、冒頭に載せた現在図に川跡を加筆します。

水色の実線でなぞりました。
この川跡も、古豊平川の旧河道とされます。流れていたのは1万年前から4千年前です(末注)。古豊平川が東へ移っていった後は小河川が跡づけました。小河川となったのが4千年前以降だとすると縄文時代後期です。この川の下流域などで続縄文や擦文、アイヌ文化期の遺跡が見つかるのは、小河川が古代人の生活圏に適っていたからでしょう。先日、このあたりに古くからお住まいだった方のご子孫から、「川が流れていた頃、サケが遡上していたと聞いた」というお話を耳にしました。
大都市札幌の中心部はわりと平ぺったい土地ですが、道路の仄かな凹みやナナメの地割が潜んでいます。これは現地を歩かないと実感できません。数千年前に流れていた大河の痕跡だと想うと、愛おしさが弥増します。
注:札幌市博物館活動センター古沢仁氏作成図(豊平川流路の変遷)に基づく。
境目は、やはり面白い⑪ 市道北2条線
6月19日ブログに続き、西21丁目と西22丁目の境目を北2条から北1条にかけて逍遥します。

上掲現在図の橙色線が6月19日ブログ、赤い線が今回の足跡です。
① 北1条西21丁目 西22丁目との丁目界から北望

画像を撮影した場所・向きは、キャプションと同じ○数字と矢印で上掲現在図に示しました。
画像奥に写る指定道路(供用可能な私道)を手前に向かって南下しました。左右(東西)に市道北2条線が通じています。奥の小径は私道ですが、手前は市道(西22丁目線)です。北2条線との交差点で少しクランクしています。
奥の私道と手前の市道が、西22丁目(左方)と西21丁目(右方)の丁目界です。かつての円山町と札幌市の市町界にほぼ、相当します。画像左奥は人家がまばらです。ここが旧市町界だったと知ると、なんとなく“町はずれ”感が漂います。しかし、空中写真を遡ると元は家屋が密集していたようです。
② 市道北2条線 西21丁目から東望

北2条線の西21丁目(旧札幌市側)の幅員は、6月15日ブログで計測したところ、20mです。昨日ブログに載せた1927(昭和2)年道路幅員図によると11間×1.818≒20mなので、この道幅も昔から変わっていません。
車道は片側一車線で、計測によると幅員は8mです。歩道幅20-8=12mは、広い部類に入ります。6月15日ブログで歩いた北3条線は幅員28m(昨日ブログに載せた1927年道路幅員図では15間×1.818≒27.3m)と広いのですが、片側2車線のため車道幅が15mあり、歩道幅は差し引き13mです。本件北2条線の歩道幅12mは、ほぼこれに匹敵します。
③-1 市道北2条線 西21丁目から西望

歩道の幅が広いせいか、画像右方に写る街路樹がりっぱです。植樹升も、花壇が綺麗に整えられています。
民地側に建つマンションの塀は札幌軟石です。かつては拓銀の頭取のお屋敷だったと聞きます。お屋敷当時の塀が活かされたようです。
③-2 市道北2条線 西21丁目から西望 高低差

北2条線を見はるかすと、わずか~に谷底地形が窺えます。冒頭に掲げた現在図では、②と付けたあたりです。西22丁目との丁目界の少し手前の道幅が狭くなるところで、かつての川跡と重なります。
③-3 市道北2条線 西21丁目から西望 北1条側歩道

歩道の街路樹がりっぱと前述しましたが、りっぱなのは向かって右側の歩道です。北2条側に当たります。左方手前の北1条側も歩道幅はけっこう広いのですが、街路樹は植わってません。そのせいか、クルマが道路に直交して置かれています。街路樹がないからクルマを置けるのか、クルマを置くから街路樹がないのか。黄色の矢印を付けたところに、境界標が埋められています。
③-4 北1条西21丁目 北2条線の境界

この境界標で民地と歩道の境目を分かっているようです。

上掲現在図の橙色線が6月19日ブログ、赤い線が今回の足跡です。
① 北1条西21丁目 西22丁目との丁目界から北望

画像を撮影した場所・向きは、キャプションと同じ○数字と矢印で上掲現在図に示しました。
画像奥に写る指定道路(供用可能な私道)を手前に向かって南下しました。左右(東西)に市道北2条線が通じています。奥の小径は私道ですが、手前は市道(西22丁目線)です。北2条線との交差点で少しクランクしています。
奥の私道と手前の市道が、西22丁目(左方)と西21丁目(右方)の丁目界です。かつての円山町と札幌市の市町界にほぼ、相当します。画像左奥は人家がまばらです。ここが旧市町界だったと知ると、なんとなく“町はずれ”感が漂います。しかし、空中写真を遡ると元は家屋が密集していたようです。
② 市道北2条線 西21丁目から東望

北2条線の西21丁目(旧札幌市側)の幅員は、6月15日ブログで計測したところ、20mです。昨日ブログに載せた1927(昭和2)年道路幅員図によると11間×1.818≒20mなので、この道幅も昔から変わっていません。
車道は片側一車線で、計測によると幅員は8mです。歩道幅20-8=12mは、広い部類に入ります。6月15日ブログで歩いた北3条線は幅員28m(昨日ブログに載せた1927年道路幅員図では15間×1.818≒27.3m)と広いのですが、片側2車線のため車道幅が15mあり、歩道幅は差し引き13mです。本件北2条線の歩道幅12mは、ほぼこれに匹敵します。
③-1 市道北2条線 西21丁目から西望

歩道の幅が広いせいか、画像右方に写る街路樹がりっぱです。植樹升も、花壇が綺麗に整えられています。
民地側に建つマンションの塀は札幌軟石です。かつては拓銀の頭取のお屋敷だったと聞きます。お屋敷当時の塀が活かされたようです。
③-2 市道北2条線 西21丁目から西望 高低差

北2条線を見はるかすと、わずか~に谷底地形が窺えます。冒頭に掲げた現在図では、②と付けたあたりです。西22丁目との丁目界の少し手前の道幅が狭くなるところで、かつての川跡と重なります。
③-3 市道北2条線 西21丁目から西望 北1条側歩道

歩道の街路樹がりっぱと前述しましたが、りっぱなのは向かって右側の歩道です。北2条側に当たります。左方手前の北1条側も歩道幅はけっこう広いのですが、街路樹は植わってません。そのせいか、クルマが道路に直交して置かれています。街路樹がないからクルマを置けるのか、クルマを置くから街路樹がないのか。黄色の矢印を付けたところに、境界標が埋められています。
③-4 北1条西21丁目 北2条線の境界

この境界標で民地と歩道の境目を分かっているようです。
境目は、やはり面白い⑩ 戦前の道路幅員図に観る
1927(昭和2)年に札幌市役所が作った「道路幅員図」です(札幌市公文書館蔵)。

札幌市と周辺町村の道路幅員が記されています。
この図面は2015.8.12ブログで一度引用させてもらいました。 興味深いのは、当時の詳細な現況と推測されることです。札幌市内についてはたぶん、いわゆる公道のすべてを詳らかにしていると思われます。
現況図面と考えたのは標題に「計画」と書かれていないからですが、理由はそれだけではありません。大正時代に都市計画法が施行されて、札幌及び近郊でも同法に基づくまちづくりが計画されました。札幌市では、昭和に入って「都市計画街路」の案が立てられます(末注①)。前掲図はその基礎資料として作られたのではないでしょうか。図上、橙色で引かれている外周線は凡例によると「計画区域」です。都市計画法の対象区域でしょう。その後、都市計画道路の計画図が作られていきます(末注②)。
ここまでは前置きです。本題に入り、市中心部を俯瞰します。

碁盤目のいわゆる本通りだけでなく仲通りも幅員が示されています。
私が注目したのは先日来逍遥している一帯、すなわちほかならぬ西21丁目、西22丁目の境目です。

現在の市道北3条線、北4条線を黄色の実線で囲みました。幅員が「15K」と示されています。「K」は長さの単位で、「間」です。1間≒1.818m。
北3条線、北4条線の15間は、15×1.818≒27.3mです。私は6月15日ブログで、このあたりの道路幅員を現在図から計測しました。それによると、北3条線、北4条線は28mです。この図面が現況を表わしているとすると、現在の道路幅は90年以上前からほぼ同じだったといえます。
私は、2017.9.16ブログでは戦時中の「建物疎開」による道路拡幅の可能性を推理しました。しかしこの図面からすると1927(昭和2)年、すなわち戦前から幅が広かったことになります。
本件道路幅員図に添えられている凡例です。

前述北3条線と北4条線の15間は、広い方から3番目に当たります。
この15間という道幅がいかに広いか、市中心部を拡大した前掲図で示します。

幅員15間以上の道路を黄色の実線で囲みました。 白ヌキ□で囲ったのが、北3条線と北4条線の西21丁目、西22丁目境目付近です。
15間以上は北3条線と北4条線以外では、北海道庁の四囲と菊水に見られます。道庁の四囲は、開拓使札幌本庁当時の外周路の広幅員が反映されているのでしょう。菊水の基軸線が広いのはお察しいただけると思います。北3条線が創成川以東の苗穂駅まで広いのは、市電苗穂線の敷設と関係がありそうです。
と、ある程度理由が想像できる道路もあるのですが、本件北3条線と北4条線の広さはどうでしょうか。特に西21丁目、西22丁目の境目付近で道幅をここまで拡げる事情は何だったのか。北4条線に至っては、前掲図で見るとおり地図記号「文」と書かれた学校敷地(末注③)で途切れているにもかかわらず、わざわざ西20丁目以西(現在のベニバナトキノキの道。6月12日ブログ参照)も広くなっています。かねてこの付近での旧円山町側との道幅の違いを述べてきましたが、15間という道幅によってその差異がことさら強調されたのです。
6月15日ブログの自問を繰り返します。なぜ、こんなことになったのか。答えをまだ導けません。
注①:札幌市建設部計画課『札幌都市計画概要』1954年、p.39
注②:2017.8.11、同8.12ブログに関連事項記述
注③:この図に書かれている「文」は、旧制札幌第二中学校(後の北海道札幌西高校)。西高が移転した後、現在は龍谷学園である。

札幌市と周辺町村の道路幅員が記されています。
この図面は2015.8.12ブログで一度引用させてもらいました。 興味深いのは、当時の詳細な現況と推測されることです。札幌市内についてはたぶん、いわゆる公道のすべてを詳らかにしていると思われます。
現況図面と考えたのは標題に「計画」と書かれていないからですが、理由はそれだけではありません。大正時代に都市計画法が施行されて、札幌及び近郊でも同法に基づくまちづくりが計画されました。札幌市では、昭和に入って「都市計画街路」の案が立てられます(末注①)。前掲図はその基礎資料として作られたのではないでしょうか。図上、橙色で引かれている外周線は凡例によると「計画区域」です。都市計画法の対象区域でしょう。その後、都市計画道路の計画図が作られていきます(末注②)。
ここまでは前置きです。本題に入り、市中心部を俯瞰します。

碁盤目のいわゆる本通りだけでなく仲通りも幅員が示されています。
私が注目したのは先日来逍遥している一帯、すなわちほかならぬ西21丁目、西22丁目の境目です。

現在の市道北3条線、北4条線を黄色の実線で囲みました。幅員が「15K」と示されています。「K」は長さの単位で、「間」です。1間≒1.818m。
北3条線、北4条線の15間は、15×1.818≒27.3mです。私は6月15日ブログで、このあたりの道路幅員を現在図から計測しました。それによると、北3条線、北4条線は28mです。この図面が現況を表わしているとすると、現在の道路幅は90年以上前からほぼ同じだったといえます。
私は、2017.9.16ブログでは戦時中の「建物疎開」による道路拡幅の可能性を推理しました。しかしこの図面からすると1927(昭和2)年、すなわち戦前から幅が広かったことになります。
本件道路幅員図に添えられている凡例です。

前述北3条線と北4条線の15間は、広い方から3番目に当たります。
この15間という道幅がいかに広いか、市中心部を拡大した前掲図で示します。

幅員15間以上の道路を黄色の実線で囲みました。 白ヌキ□で囲ったのが、北3条線と北4条線の西21丁目、西22丁目境目付近です。
15間以上は北3条線と北4条線以外では、北海道庁の四囲と菊水に見られます。道庁の四囲は、開拓使札幌本庁当時の外周路の広幅員が反映されているのでしょう。菊水の基軸線が広いのはお察しいただけると思います。北3条線が創成川以東の苗穂駅まで広いのは、市電苗穂線の敷設と関係がありそうです。
と、ある程度理由が想像できる道路もあるのですが、本件北3条線と北4条線の広さはどうでしょうか。特に西21丁目、西22丁目の境目付近で道幅をここまで拡げる事情は何だったのか。北4条線に至っては、前掲図で見るとおり地図記号「文」と書かれた学校敷地(末注③)で途切れているにもかかわらず、わざわざ西20丁目以西(現在のベニバナトキノキの道。6月12日ブログ参照)も広くなっています。かねてこの付近での旧円山町側との道幅の違いを述べてきましたが、15間という道幅によってその差異がことさら強調されたのです。
6月15日ブログの自問を繰り返します。なぜ、こんなことになったのか。答えをまだ導けません。
注①:札幌市建設部計画課『札幌都市計画概要』1954年、p.39
注②:2017.8.11、同8.12ブログに関連事項記述
注③:この図に書かれている「文」は、旧制札幌第二中学校(後の北海道札幌西高校)。西高が移転した後、現在は龍谷学園である。
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