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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/04/30

新型コロナウイルスの感染と地域性 ③

 新型コロナウイルスの「感染者率」を全国都道府県ごとにみたとき、北海道は引き続き上位を占めています(昨日ブログ参照)。加えて、「内地」が2週間ほど前に感染のピークに達したのち右下がりであるのに対し、本道(最近この言い方はあまりしない)はなおも上昇傾向です。
 
 北海道で増分がなかなか低下に転じないのはなぜでしょうか。年度末期の人の移動とか海外からの帰国者の増加といった全国的な状況だけでは説明できません。本道はもともと、全国に先立って感染者が増えました(3月3日ブログ参照)。法律に基づく緊急事態宣言に先立って北海道知事が独自の宣言を出したのは2月の末です。その実施期限は3月19日でした。
 その後、政府が4月7日に法律に基づく宣言を発した当初、本道はその対象地域に含まれていません。この時期、本道はむしろ「コロナ疎開」先となったようです(末注①)。4月16日、政府は本道を含む全国に宣言の対象地域を拡げました。「『沖縄、北海道では新しく陽性になった方のうち、地元でない方が圧倒的に多い』。菅義偉官房長官は16日の記者会見で、人の移動が事態を悪化させているとの認識を示し、対象地域拡大に理解を求めた」(末注②)。
 政策上のタイムラグとかその間のリバウンドといったことも考えられるのでしょうが、「それにしても」と私は思います。「人の移動」が感染蔓延のきっかけになったにせよ、首都圏や関西圏からの動きがあった他の地方に比べて、本道は増分が著しいのではないでしょうか。 
 
 ついつい、風土だとか地域性にあとづけ的な答えを求めたくなります。北海道は寒い。寒いのは外気であって、家の中は暖かい。つまり気密性の高い寒冷地仕様の建築。ということはすでに3月3日ブログで記しました。ウイルス感染を防ぐために厚労省が国民に呼びかけた「3つの密の避けましょう」(末注③)の「密」の一つは「密閉」です。本道の風土とこれに適うべく密閉度の高い住環境は、疫禍の条件に増幅作用しているのではないか。
 「密閉」の対義語は何でしょうか。「疎開」です。テーマに即して言い換えれば「換気」ですが、本道の冬季は特に寒い。というか、室内と外気の差が大きい。統計的な根拠を持ってはいませんが、「内地」に比べて本道は冬場に換気する頻度が低いように思えます。個人的な体感で言うのは気が引けつつ、寒気に換気するのは辛い(注④)。
 建築の高気密性ということで付け加えると、開口部の二重性もあります。出入口や窓が二重というのがいわば標準仕様です(内地の住宅で「玄関フード」は、私はほとんど見たことがない)。ウイルス感染の要因の一つである「接触」のリスクとしてドアノブなどが挙げられています。扉が二つあるということは、単純に考えて接触リスクが二倍です。これもデータなしの個人的印象ですが、接触しないで開閉する自動扉も、冷気流入を減らすためボタンで操作する場合が多いようにも思います。
 風土ということで、もう一つ。マスクです。数年前に内地を旅行したとき、マスクを付けている人が多いなあと感じました。春先のスギ花粉が舞う時期だったのです。本道はこれからシラカバ花粉の時季ですが、内地の2-3月はこのたびの疫禍がなくても、おそらくマスクをしていた人が多かったでしょう。もしかしたら、これが内地で抑制に作用したかもしれません。
 これも風土に含められるかもしれませんが、札幌の医療福祉事情です。本道では、「地方」に比べて病院や高齢者施設が札幌に比較的集中しています(ここでいう「地方」は道内の他地域という意味)。ということはクラスター(集団感染)発生のリスクも高いということになりましょう。

 本日の報道によると、北海道知事は道民に対して「都市封鎖に相当する行動自粛」を呼びかけました。 

 注①:4月6日ブログ参照。「『コロナ疎開』とはひどい言葉だ。新型コロナウイルスの感染拡大で、緊急事態宣言が出された東京などから地方への移動を『疎開』になぞらえ、批判する風潮がある。道内に帰省しようとする人にも迷いや不安が広がっているという」(北海道新聞2020年4月10日コラム「卓上四季」)。表現の適否はともかくとして、現今は帰省や里帰り出産を含む都道府県間の移動自粛を求められている。
 注②:北海道新聞2020年4月17日記事「全国 緊急事態 首都圏からの移動 阻止」
 注③:厚労省サイト「新型コロナウイルス感染症について」ページによれば、「3つの密を避けましょう」が公表されたのは3月28日。これに先立ち同省専門家会議の3月19日「分析・提言」では、「3つの条件が同時に重なる場」の活動自粛が提言されている。
 注④:北海道新聞4月21日記事によると、JR函館本線の普通列車内で車窓を開けて換気しようとした車掌への暴行容疑で乗客が逮捕された。換気はもちろんウイルス対策だったが、「寒い」というのが暴行の動機だったらしい。逮捕された乗客は札幌の放射線技師だった。「寒い」気持ちはわかるが、暴行はいけません。
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2020/04/29

新型コロナウイルスの感染と地域性 ②

 北海道特に札幌では、新型コロナウイルス感染の第二波が到来しています。法律に基づく緊急事態宣言の「特定警戒都道府県」に指定された13自治体のうち、当初宣言の対象地域とされた7都府県は感染者数増加に鈍化の傾向がありますが、それ以外の6道府県は引き続き高水準とのことです(末注①)。6道府県のうちでも、北海道が著しいらしい。

 都道府県別感染者数(累計)上位を、例によって感染者率人口百万分比(ppm)で見てみます(末注②)。
 まず3月27日現在の数値です。
 全国        11.57 (累計1,463人)
 1位  北海道   31.97
 2位  兵庫県   22.26
 3位  大分県   21.85
 4位  東京都   21.63
 5位  愛知県   20.83
 6位  高知県   18.41
 7位  和歌山県  18.18
 8位  大阪府   17.70
 9位  京都府   13.51
 10位  新潟県   13.36

 次に4月29日現在です(末注③)。
 全国       107.19 (累計13,553人)
 1位  東京都  293.66
 2位  石川県  217.85
 3位  富山県  179.05
 4位  大阪府  176.22
 5位  福井県  157.62
 6位  千葉県  131.41
 7位  北海道  130.16
 8位  福岡県  122.38
 9位  京都府  120.80
 10位  兵庫県   116.22 

 全国の感染者数がこのひと月余りで9倍強に増えていることに、いまさらながら驚きます。しかも等比級数的な伸びです。とりあえず上位10都道府県を掲げるにとどめましたが、全体的に観ると3月下旬時点では首都圏、関西圏などの太平洋ベルトが高く、東北、中国、九州が低いように見受けられました。それが4月下旬になると、首都圏、関西圏が引き続き高い中にあって、上掲のように石川、富山、福井の北陸3県が高位に入ってきています。感染者数はたびたび記すとおりさまざまな要因があるのでしょうが、北陸3県そろってとなると、私は地域性を感じてしまいました。3月上旬ではこれら3県を含む日本海側の県は感染者数が少なかったのですが(3月12日ブログ参照)、ここにきて北陸3県がぐっと伸びたのはなぜでしょう?
 北海道は上位ではありますが、人口比では東京や大阪ほどの増分ではありません。医療事情を考えたとき、「東京や大阪ほど」ではないからといって、軽視できないのはいうまでもありません。問題はなかんづく札幌市です。札幌市の感染者数は3月27日時76名が4月29日には409名に増えました(末注④)。百万分比にして38.58ppmから207.61ppmへの増加です(末注⑤)。人口百万人当たり208人というのは、都道府県単位では東京都、石川県に次ぐ高さに当たります。
 北海道と北陸3県は古来、北前船でつながり、入植者の出身地でも3県は上位を占めていました(末注⑥)。妙な因果をも感じてしまいます。
 
 注①:北海道新聞2020年4月28日記事「緊急事態宣言3週間」
 注②:感染者率については3月28日ブログ参照
 注③:元データはNHK特設サイト「新型コロナウイルス」「都道府県別の感染者数(累計・NHKまとめ)」4月29日現在による。
 注④:札幌市サイト「新型コロナウイルス感染症の市内発生状況」ページによる。
 注⑤:札幌市人口は1,970千人として計算
 注⑥:1882(明治15)年-1935(昭和10)年の北海道への移住者のうち、47都道府県中、富山県は5位、石川県は6位、福井県は10位(北海道開拓の村解説シート「移住」-3)。上位10県中、他の7県は東北6県と新潟県

2020/04/28

再び、琴似川の旧河道を彷徨う ③ 白楊博士町の風趣

 4月12日ブログで命名した「白楊博士町」も、琴似川旧河道の畔だったことを知りました。

 たとえば、この一画。
白楊博士町-3 琴似川旧河道の記憶
 古地図や空中写真に照らすと、正面右方の煉瓦のお宅とその左側のお宅との隙間から左方へ、琴似川が流れていました。ちょうどササが生い茂っているあたりです。

 かつての河道を再現すると、こんな感じになります。
白楊博士町-3 琴似川旧河道の記憶 再現
 手前の下草が生えていないところは一時期、家屋がありましたが、ササのところはずっと空き地というか、お庭だったようです。川を境目にして、手前(左岸側)が旧琴似村(町)、奥(右岸側)が札幌市でした。札幌市に合併したのは1955(昭和30)年です。

 前掲画像を撮ったとき、ここが河道跡とは意識していませんでした。しかし、北大の先生のお住まいとおぼしき界隈に、なにやら風趣を感じてしまったのです。北大の先生に限らないのですが、札幌の中上流階級の人びとは流水を生かしたお庭を好んだように窺えます(末注①)。池泉回遊庭園は古来ステイタスであっただろうから、札幌に限らないかもしれません。私がこの風景を見てカメラのシャッターを押したのは、潜在的な既視感のなせるわざでしょう。
 もっとも、先日来記してきたように、このあたりは昭和戦前期の地形図で流路はすでに消えています(4月24日ブログ参照)。北大の先生がたがここにコロニーを作ったのは1950-60年代です(末注②)。したがって実際に流水をお庭に生かしたことは考えづらいのですが、居を構えた先生の中には土地の記憶がこれまた潜在意識下に刷り込まれていたのではないでしょうか。いや、これは私の全き妄想です。川跡が空き地だったのは、コツネイ(窪地)で家を建てるのに適わなかったからかもしれません。

 注①:2015.5.12同10.31ブログほか参照
 注②:一帯が宅地化されたのは、1955(昭和30)年の琴似町・札幌市の合併で市町界が消えた後かと思う。

2020/04/27

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑩

 4月15日以来「新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか?」をテーマに、あーでもないこーでもないとゆきつもどりつしてきました。そろそろ締めくくりに入ります。
 これまで綴ってきたことをまとめると、以下のとおりです。
  1887(明治20)年に開削された直線的流路はもともと、上流から下流まで一律に「新川」と呼ばれていた(末注)。
  上流部分(琴似発寒川との合流地点より上流)が1960年代後半、「琴似川」と改称された。
  開削から80年を経て、流路の一部の川名を変えたのはなぜか? なぜ変える必要があったのか?
  考えられる理由として、河川管理上の都合がある。しかし、川名と河川管理上の違いは関連していない。
  考えられる理由のもう一つに、琴似川旧河道の「廃川」との「入れ替わり」がある。しかし、旧河道は1960年代後半よりもかなり前に消失しており、入れ替わりを裏付ける根拠はない。
  琴似発寒川はかつて「発寒川」と呼ばれていた。この川名が変えられたことと新川、琴似川の名称変更は関係しているのか?
 
 ここから「妄想の翼を拡げる」(4月20日ブログ参照)こととしたいのですが、その前に念には念を入れて駄目を押します。
 駄目押しは河川管理者へのお問合せです。新川、琴似川の北海道知事が管理しています。補助機関たる部局に以下、お尋ねしました。
 問1:新川の上流(直線部分)が琴似川と称されるようになったのは、いつからでしょうか?
 問2:直線部分が琴似川と名前が変わったのは、どのような理由からでしょうか?
 問3:新川に合流する「琴似発寒川」は、かつては「発寒川」でした。この川名の変更はいつでしょうか?また「発寒川」が「琴似発寒川」に変わったことと、問1、2の新川の上流の川名が琴似川に変わったことは関係があるのでしょうか?

 いただいた答えは以下のとおりです(青字、答の数字は問の数字に照合)。
 答1:琴似川は、昭和43年10月16日に河川法第5条の規定に基づき上流端を札幌市中央区宮の森2条11丁目29番1地先の市道橋下流端、下流端を新川への合流点として二級河川に指定しています。そのため、河川法上で琴似川の名称になったのは、昭和43年10月になります。
 答2:答1のとおり河川指定で河川名を琴似川としていますが、指定以前どのような名前であったかは不明です。
 答3:新川及び琴似発寒川とも昭和19年4月1日に旧河川法の規定に基づき準用河川に認定しています。(現在は両河川とも2級河川として北海道が管理) 昭和19年4月1日の準用河川認定告示は次のとおり
 河川名  新川
  下流端 左岸 札幌郡琴似町字新川
       右岸 札幌郡琴似町字新川 以下海に至る
  上流端 発寒川合流点 
 河川名  新川支 琴似発寒川 
  下流端 左岸 札幌郡手稲村大字滝ノ沢
       右岸 札幌郡手稲村大字滝ノ沢 以下新川合流点に至る
  上流端 百松沢川合流点 
          
 琴似発寒川は、上記のとおり昭和19年に準用河川に認定しており、それ以前の川名変更や時期については不明です。また、琴似川になったこと(2級河川の指定)との関係はないと思います。
 河川名は地域に根ざした呼び方もあると思いますが、今回の回答については、北海道が管理する2級河川の指定状況に基づき回答しています。


 回答は以上です。お答えくださったことに感謝申し上げます。ありがたいことです。吟味させていただいた上で、妄想します。

 注:といっても、1887(明治20)年の開削当初から「新川」と命名されたのではあるまい。当時の文書には「原野排水」「新堀割渠」との文言が見られる(2019.11.26ブログ参照)。また、「札幌-茨戸及び花畔-銭函間運河計画」(明治28年3月)図面には「軽川大排水」と書かれている(『さっぽろ文庫44 川の風景』1988年、p.35)。

2020/04/26

再び、琴似川の旧河道を彷徨う ② 女子短大の地霊 

 昨日ブログの続きです。
 女子短期大学の外周通路に琴似川の旧河道が通じていたことを知り、跡を確かめたい衝動に駆られました。大学の守衛さんに事情を話し、立会いのもとにあとづけた風景を以下伝えます。なお、現地を訪ねたのは4月上旬です。感染症防止のためには、「3密」を避ければ外出もいいかなと思っていた段階です。その後、法律に基づく緊急事態宣言が発せられて、北海道も「特定警戒都道府県」に指定されました。

 現地を色別標高図で表します。
色別標高図×現在図 10m未満から1mごと4色 武蔵短大付近
 標高10m未満から1mごと4色段彩で作りました。△を付けたところが下掲画像の撮影位置・向きです。

 まず白ヌキの地点から。
武蔵短大 外周通路-1
 左方へ道が弯曲しています。

 次に、赤いの風景です。
武蔵短大 外周通路-2
 左方へ湾曲する道あるいはその外周が旧琴似川の河道跡と思われます。外周はフェンスで仕切られていて、その向こう側は北大の農場や施設です。黄色の矢印を付けたところまで行きました。

 前掲標高図では黒い▲を付けた地点になります。
武蔵短大 外周通路-3 暗渠、側溝
 札幌市下水のマンホール蓋です。ここから左方、フェンスに沿ってU字溝が設けられています。また、フェンスの外側、つまり北大の施設側にも、奥に向かってU字溝が入っています。
 U字溝が通じているところが、わずかに低そうです。冒頭標高図でも若干の高低差が窺えます。短大側の敷地は人工的に盛り土された可能性もありましょうが、外周(フェンス沿い)のU字溝やマンホール(暗渠?)に旧河道の名残を嗅ぎ取ってしまいました。これを確かめられたのは収穫です。学内の通路は行き止まりになっていますので、ここで引返しました。

 旧河道の下流は、短大の外に出て、北大の敷地側に回らないと辿れません。
 冒頭標高図にを付けたところから撮りました。
北大インターナショナルハウス外構 琴似川旧河道跡?
 左方が北大の施設、右方は民間のマンションです。どちらも勝手に入るのは憚られますので、敷地の外から隙間を覗きました。
 ちょうどこの隙間、すなわち北大敷地とマンションの境目が旧河道跡になりそうです。奥から手前に川が流れていました。

 奥の方を拡大します。
北大インターナショナルハウス外構 琴似川旧河道跡? 拡大
 クルマが並んでいるのは別のマンションの駐車場です。その擁壁に付けた黄色の矢印のとおり、手前の北大敷地との間に高低差があります。1mくらいはあるでしょうか。駐車場もやはり盛り土したとも思われますが、原地形の名残も感じられます。駐車場の擁壁に沿って、手前の低いところを川が流れていたようです。

 冒頭標高図と同じ範囲を現在の空中写真(2008年)で俯瞰します。
空中写真2008年 旧琴似川河道 武蔵短大
 赤いがマンホール蓋の位置、黄色の矢印が上掲画像の隙間(駐車場擁壁の高低差)を撮った地点です。

 琴似川の旧河道はこのあたりで、札幌市と琴似村の境を分かっていました(4月24日ブログ参照)。境目が消えるのは1955(昭和30)年の札幌市と琴似町の合併です。川の流れが失せても境目が残っていて、たぶん土地の所有も区切られていたのではないでしょうか。女子短期大学が現在立地する左岸側すなわち旧琴似村(町)側は旧河道と新川(桑園新川)で三方を囲まれて、いわば袋地のようになっていました。短大が開校したのは、同大のサイトによると1967(昭和42)年です。当時、学校用地を確保するのにちょうど手頃な空地だったのかもしれません。いや、手頃なという以上に私は、川(と川跡)に囲まれた土地柄から妄想してしまいます。女子短大の敷地という聖域性です。などということを、この地で学ぶ短大生に伝えてみたい。やめましょう。

2020/04/25

再び、琴似川の旧河道を彷徨う

 昨日ブログで述べたように、琴似川の下流部は1950-60年代には河道が消失しています。ここでいう下流部とは、直線的流路(新川、現川名は琴似川)との接合部から札幌飛行場の跡地あたりです。現在の町名でいうと、札幌市北区北22条西13丁目から北30条西9丁目くらいになります。

 琴似川が直線的流路と接合するあたりの現在図です。
現在図 琴似川旧河道 武蔵短大、白楊町内会付近
 ここ数日、このあたりの古地図や空中写真を繰り返し見てきましたので、消えた河道が残像のように浮かび上がってきます。といっても、それは“予習・復習”のたまものです。4月11日ブログに記したように、現地を歩いて風景を読み解くことができる場合もありますが、私はまだまだ修行が足りません。最初にこの地を歩いたとき、琴似川旧河道の跡は見当がつきませんでした。

 古い空中写真を現在図に重ね合せます。
空中写真1948年×現在図 琴似川旧河道 武蔵短大、白楊町内会

空中写真1961年×現在図 琴似川旧河道 武蔵短大、白楊町内会
 上が1948(昭和23)年、下が1961(昭和36)年です。

 上掲2画像を脳裏に焼き付けて下掲の1985(昭和60)年空中写真を見ます。
空中写真1985年 琴似川旧河道 武蔵短大、白楊町内会付近
 この時点ではすでに失せたはずの河道が、あたかも蛇行しているかのようです。住宅地の間にも、そこはかとなく流路が窺えます。

 現在図に復元してみると、おおまかにはこんなでしょうか。
現在図 琴似川旧河道〈加筆) 武蔵短大、白楊町内会付近
 黄色のを付けたところに、女子短期大学の車両用通用口があります。
 
 その入り口からの眺めです。
武蔵短大 構内通路 河道跡
 女子短期大学の通路が、奥に向かって左方へ湾曲しています。この弯曲が琴似川の蛇行跡だったとは…。

 入口の両側に、大きな樹が生えています。
武蔵短大 車両通用口-1
武蔵短大 車両通用口-2
 ヤナギでしょうか。樹高がかなり高く、樹齢も重ねた大木です。空中写真に照らすと、旧河道の岸辺に当たります。植生からしても、川が流れていた頃の河畔林の名残またはその子孫ではなかろうか。街路樹として植えたにしては立派すぎます。ちなみに、傍らの電柱銘は「琴似川幹」です。

 女子短大構内の弯曲通路の先を確かめてみたい衝動に駆られました。しかし、私のような風体の男がひとり、カメラをぶらさげて女子大の入り口付近をウロウロしているのは、もはやそれだけでも不審です。私が大学の守衛なら、必ず怪しむでしょう。 

2020/04/24

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑨

 4月22日ブログで末尾を次のように結びました。
 ①琴似川の下流部は1973年よりも前に、すでに河川ではなくなっていた(いわば「廃川」)。直線的流路の上流部の川名は、下流部の「廃川」とは関係なく、「新川」から「琴似川」に変えられた。
 ②1973年時点で琴似川下流部が「廃川」となったのと併せ、直線的流路の上流部の川名が「新川」から「琴似川」に変えられた。
 先日来ブログに載せてきた1973年河川網図から考えられる史実です。上記①②のどちらが正しいか明らかにするためには、1973年より前と後の河川網図などの史料も漁りたいのですが、さしあたっては手に入りません。手元で当たることができる情報に基づいて考察を続けます。なお、ここでいう「琴似川の下流部」は、新川と接続した地点から直近の箇所のことです。それよりさらに下流、現在の東区や北区篠路のあたりは4月22日ブログに記したとおり今も「旧琴似川」が流れています。

 結論的にいうと、①の可能性が高いと私は見ました。つまり、琴似川の下流部は1973年よりも前、すでに「廃川」になっていたという見方です。では、廃川となったのはいつ頃か、史料をあとづけます。

 まず4月22日ブログに載せた1935年地形図の再掲です。
地形図 昭和10年 琴似川 旧流路
 先に記したように黄色の矢印を付けたあたりでは流路が消えていますが、その下流の札幌飛行場の西側でまだ流れています。

 これとほぼ同域を撮影した戦後の空中写真です。
空中写真1948年 琴似川旧河道 新川への接続の下流部
空中写真1961年 琴似川旧河道 新川への接続の下流部
空中写真1976年 琴似川旧河道 新川への接続の下流部
 4月11日ブログに載せたものを、より広域で俯瞰しました。上から下へ1948(昭和23)年、1961(昭和36)年、1975(昭和50)年と、年代が下ります。

 1948年写真には札幌飛行場の滑走路(の痕跡)が窺えます。南東-北西方向にナナメの白く細い長方形です。滑走路によって琴似川の流路が断ち切られたかに見えます。
 1961年写真では飛行場の痕跡が消えました。しかし旧河道は、飛行場があったときよりもむしろ、蛇行跡が浮かび上がっています。その多くは河道そのものではなく、河道跡を境目にした土地(農地)利用の違いでしょう。途中に宅地もできつつあります。現在の宮の森・北24条通の北側です。これは北大の先生がたが作ったコロニーと思われます(4月12日ブログ参照)。
 1975年写真になると、宅地がさらに広がってきました。その中に緑地が一部残っていて、やはり河道跡を彷彿させます。宮の森・北24条通の北側の緑地は、旧河道を境目にして北大の農場でした。「第3農場」とか「タコ足」と通称されていたように記憶します(2015.8.278.288.29ブログ参照、末注)。
 これらを振り返ると、琴似川の下流部の少なくとも新川との接続地点から札幌飛行場の跡地あたりまでは、1960年代には川が消えたようです。なお、戦後の地形図を追ってみても、1950年代には川は飛行場跡の西方より上流では見当たりません。
 ↓
 今昔マップon the web 札幌1950-52年、地理院地図 

 琴似川の下流部は1973年よりもかなり前に「廃川」となっていたとみられます。「かなり前」というのは10年、20年というスパンです。とすると、1973年時点で「廃川」となったという冒頭の②説は考えづらく、直線的流路の上流部は琴似川下流部の廃川とは関係なく名称変更(新川→琴似川)とされたと思えるのです。

 注:「第3農場」は、北18条以北にある「第2農場」よりさらに北の飛び地ということで俗称されたものだろう。正式な第3農場は現在の都市緑地「大学村の森」(東区北28条東4丁目)のあたりにあった(2015.2.3ブログ参照)。

2020/04/23

子曰、請諸君居宅

 疫病の蔓延で、尋常ならざる日々が続いています。
 「ふだんの世界」が変わりました。「ふだんの世界」で当たり前に思っていたものごとが、いまや当たり前ではありません。当たり前でなくなったことで初めて、私は当たり前のありがたみに気づく始末です。母が元気にデイサービスに通えていること、デイサービスで受け入れてもらえていること。「不要不急」とされるものごとが姿を消す中で、消すに消せないものごとの尊さ、貴さとでもいいましょうか。
 「ふだんの世界」では見えてなかったものごとが、逆に見えてきたりもしました。文化や芸術、スポーツは、その多くがいまや姿を消し、逆にありがたみが弥増しています。それらを世の中の「遊び」、とひとくくりにするのは乱暴かもしれません。遊びのありがたみとともに、遊びを許してくれる世の中のありがたみも感じたりします。たとえば私が時空逍遥で遊べるのも、多くの人びとに支えられているおかげです。ただし大人しく殊勝なことばかり言うのも何ですので、あえて付け加えます。私自身にも遊びではない人生があったので、いま遊べているとしたらそれは人生のお釣りと手前勝手に受け取らせてください。遊び以外のことが遊びの肥やしになったり、その逆もあったりしたとも想います。
子曰、諸君請居宅

2020/04/22

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑧

 昨日一昨日拙ブログに載せた古い河川網図で、もう一つ確認しておきたいことがあります。琴似川の旧流路です。1973(昭和48)年の時点で、ひょっとしたらまだ河川として遺っていたのだろうかと想いました。

 4月16日ブログに載せた地形図1935(昭和10)年を再掲します。
地形図 昭和10年 琴似川 旧流路
 1887(明治20)年に開かれた直線的水路を濃い青でなぞりました。水色でなぞったのが琴似川です。琴似川は先日来記しているように、直線的人工水路につなげられました。

 黄色の矢印で示したのが旧流路、すなわち断ち切られた下流部の痕跡です。蛇行する旧流路に沿って二点鎖線が引かれています。札幌市と琴似村の境界です。境界線は分かたれていますが、流路そのものはほぼ消えています。矢印を付けたあたりから少し北へ下ると河道が再び現れるので、完全に消えたというわけではなく、「ほぼ」です。「札幌飛行場」の西外周の道路には橋の記号も描かれています。これが1935(昭和10)年時点です。
 冒頭で、この琴似川が「1973(昭和48)年の時点で、ひょっとしたらまだ河川として遺っていたのだろうか」と記しました。直線的流路で断ち切られた下流部で、前述の「ほぼ」、いいかえればかろうじて、川が流れていたのだろうか。直線的流路の上流部の川名が「新川」から「琴似川」に変えられたのは、その旧河道が完全に消えたこととの入れ替わりかもしれない。

 昨日ブログに載せた1973(昭和48)年河川網図をあらためて観ます。
札幌市河川網図 1973年 旧琴似川
 前掲1935年地形図に一部遺っている琴似川の旧河道は窺えません。ただし、さらに北方には遺っています。赤い矢印を付けた「旧琴似川」です。これは今に至るまで生きています(2015.6.26ほかブログ参照)。現在の東区北50条、北51条から北区百合が原、篠路にかけて流れる名残の川です。

 琴似川の旧流路は1973年の時点で、上述の「旧琴似川」は別として、直線的流路で断ち切られた下流部ではすでに存在していませんでした。このことから、以下のことが考えられます。
 ①琴似川の下流部は1973年よりも前に、すでに河川ではなくなっていた(いわば「廃川」)。直線的流路の上流部の川名は、下流部の「廃川」とは関係なく、「新川」から「琴似川」に変えられた。
 ②1973年時点で琴似川下流部が「廃川」となったのと併せ、直線的流路の上流部の川名が「新川」から「琴似川」に変えられた。

2020/04/21

新川の上流はなぜ、琴似川と呼ばれるか? ⑦

 昨日ブログの記述を訂正します。
 昨日載せた1973年河川網図で、直線的流路(末注①)の上流に「『新川』と書かれています」と私は記したのですが、その部分をあらためて観て、間違いに気づきました。正しくは以下のとおりです。くだんの河川網図を再掲します。
札幌市河川網図 1973年 新川周辺 再掲
 私が「新川」と誤読した箇所は、赤いで囲ったとおり、「新琴似第2排水」です。「新川」の「新」ではなく、「新琴似」の「新」でした。

 したがって、直線的流路のこの部分、すなわち発寒川(現・琴似発寒川)との合流点より上流(南東側)の区間の川名が1973(昭和48)年当時もまだ「新川」だったということはできません。では、現在と同じく、すでに「琴似川」と変わっていたのか。残念ながら、そのようにも読み取れません。「琴似川」と判別できるのは昨日ブログに記したとおり、直線的流路の南東端から南へ遡っている細い実線の川の箇所です。発寒川との合流点の上流(南東側)と下流(北西側)で、もし直線的流路の川名が異なっているならば、地図上になんらかの表示があってもよいかろうと思います(末注②)。しかし、表示がない=川名が異なってはいない、とも言い切れません。

 この地図ではっきりしているのは、発寒川との合流点の上流(南東側)と下流(北西側)ともに、直線的流路が一律に「2級河川新川水系及び星置川水系.指定区間」(昨日ブログ参照)という色塗りであることです。なお、その南東端から遡る「琴似川」は細い実線で描かれています。地図に添えられた凡例によると、これは「普通河川」です。「普通河川」とは、河川法の適用を受けない川をいいます(末注③)。はっきりしていることを付け加えるならば、直線的流路とその南東端から遡る「琴似川」とはこの時点で河川法上の扱いが異なっていたということです。

 新たに気になっていることがあります。「琴似発寒川」です。前掲1973年河川網図では「発寒川」と書かれています。いつから琴似発寒川になったのでしょうか。どうもこの名称変更は、直線的流路の上流の川名変更(新川→琴似川)と、ほぼ軌を一にしているようです。

 注①:先日来拙ブログで主題にしているとおり、現在は琴似発寒川との合流点との下流(北西側)のみが「新川」で、上流(南東側)は「琴似川」だが、かつては直線的流路がまるごと「新川」と称されていた。上流部分は時代によって呼称が異なるのだが、そのつどこれを記すのは煩雑なので、上流と下流を一括する場合は便宜的に「直線的流路」とする。
 注②:現在の河川網図では、琴似発寒川との合流点に区切りの線が引かれ、直線的流路の上流と下流にそれぞれ「琴似川」「新川」と書かれている。4月19日ブログ参照
 注③:札幌市サイト「札幌市の河川」ページ「札幌市の河川分類」参照
 ↓
 http://www.city.sapporo.jp/kensetsu/kasen/menu02-01.html

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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