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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/03/16

札幌市あしりべつ区

 本日(3月16日)放送のUHBみんテレの「となりのレトロ」で清田区を歩いて、札幌市10区を踏破しました。シリーズ化される前の2018年11月から1年5か月、数えてみるとこれで27回に及びます。札幌市内23箇所に、江別、北広島、函館(2回)です。自分で言うのも何ですが、1回15分ほどの放送に結構“濃いい”(「濃い」ではなく、「濃いい」)中味を続けてきたなと思います。
 今回の清田区は、旧道-長岡重治-あしりべつ・あつべつ-三里塚と、地元の方にしてみれば教科書をなぞったようなものです。基本だから簡単ということはなく、むしろそれだけにイイカゲンなことはいえないという難しさがあります。虫のいい話ですが、応用編は各自、いわば“行間”から読み取っていただければ幸いです。たとえば里塚地区の大曲がりについては、拙ブログの清田区カテゴリーで拾い読みしてください。
 
 2018年9月8日ブログの末尾に、私は次のように記しました(太字)。
 まったくの余談ですが、前掲里塚大曲は、道の両側にホテルが建っています。どうも私は、この種のホテルと「旧道」「弯曲」「川」との間に、親和性を感じてなりません(2016.7.23ブログ参照)。しかも、この地はかつてのマイルストーン“三里塚”です。「ここらでちょっと、一休み」の記憶が継承されているのか。
里塚1条2丁目16 旧道沿いのホテル 2016年
 旧道の「あるあるネタ」として今回のシナリオの選択肢にあったのですが、ボツになりました。新聞のテレビ番組欄で当コーナーを「親子で楽しく学ぼう 身近なマチの歴史探訪」(新型コロナで休校になっているので、こういうふれこみにしたらしい)と謳って、それはないだろうということです。個人的にも、旧道と「この種のホテル」との相関性についてはもう少し実証的に追究して、いつの日か別の形で明らかにしたいと思います。

 「あしりべつ・あつべつ」も、ベタな題材ではありますが、奥が深い。 
厚別川 あしりべつはし
 「厚別川」のたもとに河川管理者の北海道が設けている看板にも、由来が記されています(引用太字)。
 アイヌ語の「アッペッ:オヒョウのある川」が由来だといわれています。また、「ハシペッ:低木の中を流れる川」という説もあります。 
 
 一方、文献には次のような説明も見られます(末注、引用太字)。
 厚別川(あつべつがわ) (前略) 河川法上の正式名は厚別(あつべつ)川だが、清田区の住民は厚別(あしりべつ)川、厚別区の住民は厚別(あつべつ)川と呼ぶ。河川名の由来は諸説あるが、かつては荒れ川で、洪水のたびに流路が新しくなったことを表すアイヌ語「アシ・ペッ」(新しい川)説(『アイヌ語地名リスト』)が有力と思われる。 (後略)(p.109)

 厚別川(あつべつがわ) (前略) 語源はアイヌ語で〈ハシウシペツ、ハスシペツ(雑樹の川〔柴木・群生する・川〕)〉とされる(『アイヌ語地名リスト』)。(後略)(p.217)

 厚別 〈ハペッ(灌木の群生する川)〉に由来するとされるが、それは上流域の清田地区で見られた河畔林の風景によるものらしい。(p.384)

 厚別川(あつべつがわ) 清田エリアでは「あしりべつ川」の川名で呼ばれる。(中略) 下三滝橋付近から清田では火砕流台地を刻んで、幅200~400メートルの広い谷底低地(氾濫原)を発達させている。このような場所では、大洪水が起こると流路がしばしば大きく変わったと考えられる。こうして新しくできた川筋を、〈アシリペッ(新しい川)〉と呼んだものと思われる。(pp.389-390)

 一冊の本の複数個所で多様に記述されています。執筆者によって、採用する解釈に微妙な違いもあるようです。実は私も、「あしりべつ」は「アシリ(新しい)・ペツ(川)」だと思い込んでいました。アイヌ語で、フシコ(古い)に対してアシリ(新しい)です。しかし、これは必ずしも根拠が有力とはいいがたいことを最近知りました。

 注:いずれも関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年

2020/03/15

厚別区体育館 外観の窓周りディテールに引っかかる。

 札幌市厚別区体育館です。
厚別区体育館 背面
 「白石区体育館」として1981(昭和56)年に開館し、1989(平成元)年の厚別区発足とともに現名称となりました。

 ごく普通の体育館の外観だと思います。と思うのですが…
厚別区体育館 窓周り
 窓周りの両側に突き出ているのは、袖壁?ですか。これは何か、構造的なあるいは機能的な意味があるのでしょうか。日除け?その効果をもたらしているようにはあまり見えません。建築の専門家にお教えを乞いたいものです。

 正面側にまわってみると…
厚別区体育館 正面
 左側面には高低差を活かした地下駐車場があり、柱が立ち、上階部は柱型が出ています。そのせいなのか、背面や右側面の窓周りに見られる袖壁風突出しはありません。
 
 田上建築制作事務所の設計と知ると、つい深読みしたくなってしまいます。

2020/03/14

白石本通周辺の食品工場 ③

 昨日ブログでお伝えしたように、UHB「となりのレトロ」清田区編の放送は来週3月16日(月)の予定です。が、私は今もって、3月2日に放送された白石編に拘泥しています。

 3月10日ブログの末尾に、白石本通5丁目北にあるお屋敷の外観を載せ、「お庭の池が気になっていました」と記しました。
色別標高図 白石本通5丁目 お庭の池周辺
 色別標高図(標高10m未満から5mごと7色段彩)上に赤い矢印を付けた先に、その池があります。

 地理院地図上にも描かれています。
色別標高図 白石本通5丁目 お庭の池周辺 拡大
 赤いで塗ったところが横山製粉の工場です。

 冒頭図の右下(南東)、黄色の矢印を付けた先にも池が描かれています。

 よく知られた白石神社の湧泉です(注①)。
色別標高図 白石神社 湧泉
白石神社 湧泉
 ここでは、実際に池泉を眺めることができます。

 私には、前掲お屋敷の池が、この白石神社の湧泉と似通っているように見えました。月寒台地の火山灰層を削った谷という地形です。お庭の池も湧泉(だったの)ではないか?
 横山製粉の専務さん(3月2日ブログ参照)にお訊きしました。
 専務さん曰く「あれは、人工的に作ったものです」と。
 
 横山製粉が1964(昭和39)年、現在地に本社及び新工場を建てたときの周辺住民と交わされたやりとりを以下、引用します(太字、注②)。
 中には、
 1.水を大量に使うと聞いているが、地下水が枯れて自分達のポンプが使えなくならないか。
 2.騒音を発して安眠を妨げないか。
 3.高い建物の蔭になって、日照時間が少なくならないか。
 という質問が出ました。
 これに対して山田工場長は、工場で使う地下水は、皆さまが使っている地下水よりも更に100mも低い水脈を使うので、ご迷惑はかけない。
(後略)

 豊平川扇状地では、「井戸の深さは30m以上、80m以内のものが圧倒的に多い」そうです(注③)。ただし、札幌では1913(大正2)年に国鉄苗穂工場が深度77m、サッポロビール工場が113mの井戸を設け、これが深井戸の草創といいます(注④)。いずれも豊平川扇状地扇端です。一方、本件工場が位置する月寒台地は、「掘られた深井戸は百本をこえ、それらの収水深度は30mから260mと広範だが、50ないし100mのものが多い。しかし地下水面は一般に深く、台地面から15ないし20mとなっている(末注⑤)。
 さて、前述引用の「更に100mも低い水脈を使う」のは、水に恵まれている立地といえるのかどうか。いずれにせよ、「食品工場だから、水の利を生かした立地」というのは一知半解の皮相的な理解でした。反省します。

 それでもなお、私は拘泥してしまいます。あのお屋敷の池は人工的に掘ったものにせよ、わりとすぐ水が湧いてきたのではないか。近い将来、横山さんの工場を見学させていただけたらと願っています。これにて「白石本通周辺の食品工場」おわり。
 
 注①:『さっぽろ文庫44 川の風景』1988年、p.183、pp.232-234参照
 注②:横山製粉創立30周年記念誌『粉と歩んで30年』1976年、pp.51-52
 注③:『さっぽろ文庫24 札幌と水』1983年、pp.84-85
 注④:同上書p.86
 注⑤:同上書p.82

2020/03/13

平岸霊園納骨堂 再考(承前)

 UHB(8ch)みんテレ(15:50-)の「となりのレトロ」、次回は3月16日(月)放送の予定です。
 ↓
 https://uhb.jp/program/mintele/
 清田区の旧道を歩きます。一昨年来のシリーズで、札幌市10区中、清田区はまだ訪ねてませんでした。これで10区を踏破します。

 3月11日ブログの続きです。
 平岸霊園の納骨堂はいつ建てられたか。札幌市衛生局衛生管理部『札幌市墓地・火葬場の沿革』1985年で確かめることができました(p.39)。1966(昭和41)年5月着工、同年8月竣工です。私が予想したよりも前に建てられていました。

 2月29日ブログでは、本件建物のこのようなディテールにも触れました。
平岸霊園 納骨堂 近景 屋根 軒
 リーゼント風前髪のように反った軒です。

 これの既視感の由って来たるは、こちらの建物です。
道立図書館 屋根 軒
 北海道立図書館(江別市)の主棟1967(昭和42)年(末注①)。

 さらにその由って来たるは、こちらです。 
前川國男建築展 リーフレット
 前川國男作・東京文化会館1961(昭和36)年(2019.10.28ブログ参照、末注②)。
 さらにはル・コルビュジエ「ロンシャンの教会」1954年あたりに遡るのでしょう(末注③)。

 前掲の建物や3月11日ブログに記した北海道百年記念塔、緑丘戦没者記念塔を交えて、関係する(?)年譜を以下、まとめます。
 1961(昭和36)年       東京文化会館 竣工
 1966(昭和41)年5月    平岸霊園納骨堂 着工
 同年8月            平岸霊園納骨堂 竣工
 1967(昭和42)年3月    北海道立図書館 竣工
 同年10月           北海道百年記念塔 設計案の募集開始
 同年12月9日         百年記念塔 設計案の最終審査の結果、井口健氏の案が「最優秀」に選ばれ、発表
 1968(昭和43)年3月    百年記念塔 実施設計立案(久米建築事務所)
 同年11月21日        百年記念塔 起工式
 1969(昭和44)年7月    緑丘戦没者記念塔 竣工
 1970(昭和45)年9月    百年記念塔 竣工 

 「既視感」を抱いた、というのは、平岸霊園納骨堂に失礼だったかもしれません。設計者、施工者も知りたくなりました。
 
 注①:北海道編『新北海道史年表』1989年、p.669
 注②:松隈洋ほか編『生誕100年 前川國男建築展 図録』2005年、p.151
 注③:「札幌ノスタルジック散歩」下記ページ参照 → http://www.sapporowalk.justhpbs.jp/tanouesakuhinn.html

2020/03/12

新型コロナウイルスの感染力と気候風土

 3月3日ブログで新型コロナウイルスの感染のことを綴りましたが、私は公衆衛生学はもとより生物も音痴です。そもそも理系音痴(昨年12月29日ブログ参照)であり、生物の知識についても恥をさらします。たとえば、私はウイルスと細菌の違いを説明できません。これまで、大きさが違うくらいにしか思ってませんでした。
 くだんの感染症がこれだけ世の中の大事になると、さまざまな流言蜚語が飛び交いがちです。その片棒を担がないよう自戒しつつ、関心事を綴ります。

 全国の都道府県のうち、現時点で感染者数が0の県は以下のとおりです(注①)。
 青森県、岩手県、山形県、茨城県、富山県福井県鳥取県島根県、岡山県、香川県、佐賀県、長崎県、鹿児島県
 青字の5県が日本海側にあります。青森県や佐賀県、長崎県も日本海に面していますが、他の海洋にも面しているので除きました。日本海と瀬戸内海の両方に面する兵庫県は、患者46名の居住地は皆、瀬戸内海側及び内陸です(末注②)。
 北海道の日本海側をみてみます。(末注③)。
 留萌管内0、石狩管内(札幌市を除く)9、札幌市41、後志管内1、桧山管内3。
 ちなみに日本海とオホーツク海に面する宗谷管内も0です。

 日本海側の県は発生が少ないのではないかという印象を私は抱きました。そのきっかけは、日々の道内のニュースです。道央、道南、道東へと感染者が拡がる中で、3月11日まで留萌や後志、宗谷がずっと0のままでした(3月11日、後志で1名発生)。それで全国的にはどうなのか、気になったのです。
 新潟県(11名)や石川県(7名)のように日本海側でもそこそこ多い県もあります。北海道でも、札幌市を含む石狩管内は突出して多い。日本海側は発生数が少ないといえる有意差があるのか、人口比でみてどうなのか、精査の余地はありましょう。ひとくちに日本海側といっても地理的条件はさまざまでもあります。
 という前提でなお、もしかしたら、とも想うのです。気候風土要因があるのではないか。この時期すなわち冬の気候の太平洋側との違いとか。電網検索したら、こんなサイトに当たりました。
 ↓
https://weathernews.jp/s/topics/201901/100085/ 
 冬の空気が「しっとり」または「カラカラ&しっとり」の県は以下のとおりです。
 青森県、秋田県、山形県、新潟県、富山県、石川県、福井県、滋賀県、鳥取県島根県 
 現時点で感染者が0の県を太字にしました。太字以外のうち新潟県、石川県は前述のとおりですが、秋田県は2名、滋賀県は1名です。

 冬季、日本海側で湿度が高く、太平洋側が乾いているのは、ある程度察しがつきます。いわゆるエアロゾル感染だと、空気が乾いているほうが感染しやすいようにも想います。新型コロナウイルスはいまのところ飛沫感染と接触感染といわれていますが、その感染力は地域による湿度の高低との相関関係はありやなしや?

注①:厚生労働省サイト「新型コロナウイルス感染症について」ページ「新型コロナウイルス陽性者数(チャーター便帰国者を除く)とPCR検査実施人数(都道府県別)【1/15~3/11】」の「陽性者数」による。→https://www.mhlw.go.jp/content/10900000/000607590.pdf 3月12日閲覧
 注②:兵庫県サイト「新型コロナウイルスに感染した患者の発生状況」ページによる。→https://web.pref.hyogo.lg.jp/kk03/corona_hasseijyokyo.html 3月12日閲覧。患者46名中、「丹波市」1名以外は中央分水嶺以南。丹波市は町内で分水嶺を分かつ。
 注③:北海道サイト「新型コロナウイルス感染症の道内の発生状況」ページによる。→http://www.pref.hokkaido.lg.jp/hf/kth/kak/hasseijoukyou.htm 3月12日閲覧
 札幌市の感染者数は札幌市サイト「新型コロナウイルス感染症の市内発生状況」ページ「新型コロナウイルス感染症の市内発生状況(3月12日時点)」による。→http://www.city.sapporo.jp/hokenjo/f1kansen/2019n-covhassei.html 3月12日閲覧

2020/03/11

平岸霊園納骨堂 再考

 2月29日ブログに平岸霊園の納骨堂を載せました。

 その後、札幌建築鑑賞会スタッフNさんが、こんな物件もありますよと画像を送ってくださいました。
緑丘戦没者記念塔
 小樽商科大学にある「緑丘戦没者記念塔」だそうです。
 Nさんによると、竹山実氏の設計で1969(昭和44)年7月に竣工しました。

 あらためて平岸の納骨堂を鑑みます。
平岸霊園 納骨堂 正面 近景
 私は先のブログを「1970年代前半(昭和40年代後半)の建築とみました」と結んでいます。「何らかの建物が潜在的な前提にあるのでしょう」とも記しました。

 私の潜在意識下にあった「何らかの建物」を顕在化させます。
北海道百年記念塔 2018年
 1970(昭和45)年7月に竣工した北海道百年記念塔です。
 
 竣工に至る経過を時系列で記します(2018年2月6日ブログ参照)。
 1967(昭和42)6月   北海道百年記念塔 建設期成会設立。 設計を公開競技で決めることとする。
 同年10月         設計案の募集開始
 同年12月9日      最終審査の結果、井口健氏の案が「最優秀」に選ばれる
 1968(昭和43)年3月 北海道百年記念塔 実施設計立案(久米建築事務所)
 同年11月21日      北海道百年記念塔 起工式
 1970(昭和45)年9月 北海道百年記念塔 竣工 

 1967年12月に「最優秀」として期成会から発表された井口さんの応募案です。
北海道百年記念塔 1967年井口健応募図案
 期成会ではその後、建設を目指して、広く寄金を募りました(2018年3月25日ブログ参照)。
北海道百年記念塔建設募金ハガキ
 実物が完成する前に、これらの図案が世の中に膾炙した可能性もありましょう。
 
 ますますもって、平岸の納骨堂の建築年代を知りたくなりました。小樽と平岸の関係性も気になります。かねて平岸の物件をご存じのNさんにお訊きしましたが、Nさん曰く「はじめてみたときは私も衝撃で、ネットはいろいろ見てみましたがわかりませんでした」と。
 札幌市公文書館に行って、調べてきました。余談ながら、軒並み休館している公共施設にあって、市公文書館は開館している稀有な一つです。同館がもし閉ざされたら、私の時間旅行は大きな痛手を被ります。ここはいつ行っても空いていて、濃厚接触のリスクはとても低いことでしょう。このたびも私は3時間近くいましたが、職員の方を除いて、ほとんど私一人でした。今後もぜひ開けてほしいものです。
 それはさておき、平岸霊園納骨堂の建築年は…。

2020/03/10

白石本通周辺の食品工場 ②

 3月4日ブログの末尾を私は次のように締めくくりました(太字)。
 横山製粉工場のあたりにはかつて、水脈が通じていました。「だから、何なのだ?」ということまで、まだ至りません。
 その「だから、何なのだ?」に移ります。
 同社が1964(昭和39)年、この場所に立地したのは“水の利”を求めてのことではないか。あるいは実際の操業において、水に恵まれているのではないか。この場所というのは白石区本通5丁目、平和通5丁目あたりを指します。

 結論的にいうと、未確認です。そもそも製粉業において水がどのように使われるか、不勉強で把握してません(末注①)。3月2日のUHBみんテレ「となりのレトロ」白石編のとき、そこまで私は踏み込めませんでした。今後の宿題とさせてください。
 
 という前提で、周辺部分を巡ることとします。
 3月4日ブログに記したとおり、横山さんがこの地に工場を設けたのは、もともと創業者の水田や畑があったからです。では創業者はなぜ、この地に土地を持っていたか。
 1897(明治30)年、創業者の祖父が福井県からこの地に移り住みました。もともとは明治の初めに仙台藩白石領からの移民が入植した土地です。「白石藩から渡道した人々のなかには土地を売って他に転住した者も多く、祖父が入植したのは、それらの人々が手放した開墾途上の土地でした。そのため、祖父をはじめ父母たちは開拓農家特有の、寸暇を惜しむ重労働の毎日を強いられ、非常な困難と闘いながら、畑2町5反、水田1町歩を造りあげました」(末注②)。
 明治初めの仙台藩白石領からの入植は「土地区割は地形と無関係に雪の上に画一的に区分され、土地割りあてはくじ引きで行なったため、湿地や浸食谷の場所を得た入植者は開拓に苦心し、結局離村する結果となった」(末注③)。「湿地や浸食谷」というのは、おもに望月寒川に近い一帯を指します。「明治5年春、融雪水にともなう浸水で居住が不可能となり」「移転することとなった」(末注④)。士族移民の離村と併せて、明治20~30年代にかけて北陸などから農民の入植が進み、開拓が本格化します。
 
 3月4日ブログに載せた北海道地下資源調査所の地質図1956年です。
北海道地下資源調査所 地質図幅 白石本通周辺
 横山製粉の工場(赤いの大)は、「支笏火山噴出物 月寒火山灰層」の火山灰粘土が「現河川堆積物」に接する縁に位置しています。
 横山家の入植の具体的な経緯は判りませんが、士族離村と農民の入植という時系列と符合し、場所も「浸食谷」を窺わせる土地です。

 工場の南隣にお屋敷があります(画像は2011年撮影)。
白石区平和通 横山製粉工場のお隣
 このお庭の池が気になっていました。

 注①:横山製粉株式会社創立50周年記念誌『一歩いっぽ』1996年「小麦粉ができるまで」によると、原料の小麦を「挽砕」するまでの途中の「調質」「精選」の工程で、微量の水を加えるという(p.259)。
 注②:同上書p.1、p.4。文中「白石藩」は、仙台藩(伊達家)の支藩白石領(片倉家)のこと。「祖父」「父母」とは、創業者横山保からみてのこと。
 注③:札幌地理サークル編『北緯43度 札幌というまち…』1980年、p.120
 注④:同上書p.121 

2020/03/09

本通西排水 間隙に感激する感性を高める。

 地理院サイトから「治水地形分類図」で札幌市白石区本通の一帯を観ます。
治水地形分類図 白石区 横山製粉周辺
 JR白石駅と地下鉄白石駅の位置に(右上の長形がJR駅、左下の短形が地下鉄駅)を加筆し、3月2日UHBみんテレ「となりのレトロ」白石編で訪ねた「横山製粉」工場(同日ブログ参照)を赤いで塗りました。
 
 この地図には、主として平野部の地形やその成り立ちが描かれています。凡例は以下のとおりです。
 橙色:段丘面 水色:後背低地 薄緑色:氾濫平野 黄色:微高地(自然堤防) 黄色地に小さいドット:扇状地 灰色横縞線:浅い谷 紫:段丘崖

 私は3月4日ブログで標高図や地質図を3点載せて、かつ空中写真を加えて「横山製粉工場のあたりにはかつて、水脈が通じていました」と締めくくりました。しかし、その結論は縷々述べるまでもなく前掲図だけで一目瞭然です。赤いで塗った横山さんの工場自体は「段丘面」に属しますが、「浅い谷」から「氾濫平野」に至る帯の縁に位置しています。工場が立地したのは、平たくいえば昔は川岸だったところです。実は一目瞭然だったということをお伝えしたくて、前掲図を載せました。

 なぜこのようなことを綴るかというと、昨日ブログに記したことの続きです。電子的情報技術が日々進歩して、卓上の操作で札幌の街のたいがいの時空を逍遥できてしまいます。地理院サイトの地図や空中写真、グーグルストリートビュー、今昔マップon the webサイトなどのおかげで、もはやアナログ的に紙を照らし合わせる労も減りました。「ここは昔からの古い道だ」とか「かつての川跡だ」程度のことは、居ながらにして瞬時に読み取れます。

 これは、どういうことか。
 既出の情報や現地の風景を受け止める感度や読み解く力が、なおいっそう問われる。ということでしょうか。
 40年前、北大の暗渠道を歩いたときの感興(2015.7.11ブログ参照)や半世紀前、母と訪ねた岐阜県の川島に覚えた不思議感(2016.12.14ブログ参照)などの初心を忘れないでいたいと思いました。

 白石区平和通6丁目北、某街区の住宅と住宅の隙間です。
平和通6丁目北 某街区の隙間
 先月下旬、ここを歩いたとき、気になりました。不思議な隙間感が漂っていたのです。

 あとから、それこそ空中写真などを遡って、ここが川跡だとわかりました。いや、川「跡」ではなく、現役の川です。
河川網図 本通西排水
 河川網図によると、「本通西排水」です(赤いを付けた先)。

 流路を現在図で拡大して示します。
現在図 本通西排水
 河川網図の凡例に従って、暗渠を太実線の濃い青、明渠を水色でなぞりました。前掲画像の撮影位置は赤いを付けた先です。雪に埋もれていますので、実際に明渠なのかどうか、確認はできません。
 
 下掲は後日、河川網図を観ながら歩いたときに撮った画像です。
白石区 本通西排水 暗渠 マンホール蓋
 前掲現在図に黄色の矢印を付けた先で撮りました。鉄道沿いの濃い青(暗渠)でなぞった路上です。画像で黄色の矢印を付けた先にマンホール蓋があります。

 「河」の文字です。
白石区 本通西排水 暗渠 マンホール蓋「河」の文字
 暗渠を物語っています。

 こちらも後日、河川網図を携えて確かめた場所です。 
平和通6丁目北 某街区の隙間-2
 橙色の矢印を付けた先に、やはり隙間が見られます。

 前掲現在図に橙色の矢印を付けた先の位置、向きで撮りました。本通西排水の明渠部分は、住宅の隙間をぬって北西に遡り、南西へ「L」字形に曲がっています。こちらの隙間(橙色のの先)は、初めて歩いたときは見過ごしてしまいました。右側のお宅は現在図でも明らかなように、雁行で配置されています。今から思えば、妖しい配置です。

 このたび本通西排水を取り上げたのはほかでもありません。現地を歩いたとき、隙間が網膜に写ったときの感度です。間隙に感激する感性。もっと高めたいと思いました。
 

2020/03/08

人生、山あり谷あり

 3月4日ブログに記したとおり、私は8年前、国道12号の白石本通のアップダウンを実感しました。きっかけは札幌建築鑑賞会で2005(平成17)年から展開した「札幌軟石発掘大作戦」(2015年12月8日ブログ参照)です。札幌軟石を手がかりとして街を歩くことで、副産物を得ました。街を探り、街を楽しむ醍醐味です。自分たちが知らない街の姿が見えてもきました。白石区を歩いたのが2011(平成23)年です。
 白石区に軟石建物の分布が少ない(2015年6月8日同年5月21日ブログ参照)のは、道路のアップダウンが軟石運搬のネックになったからではないか、などとまことしやかに想像したりもしました。まあ、さまざまな要因があることでしょう(末注)。
 なぜ、アップダウンが多いか。支笏火山の噴出物(火山灰など)が堆積してできた丘陵を川が谷を削りました(3月4日ブログ参照)。煉瓦(=粘土=地質)とアップアダウン(=地形)は、いまや大動脈・国道12号周辺の住宅街と化した白石本通の、土地の記憶といえましょう。

 2011年に本通付近のアップダウンを調べてまとめたレポートです。
2011年山あり谷ありレポート-1 (352x500) 2011年山あり谷ありレポート-2
 題して「人生、山あり谷あり」。

 2011年10月に確認した平和通8丁目南の谷底です。
平和通8丁目南の谷底
 (向かって右側が下流、左側が上流) 
 当時はまだ標高図や地質図、空中写真などを駆使するすべを知らず、せいぜい古い地形図と照らし合わせるくらいでした。
 
 住宅と住宅の間隙が谷底になっています。 
平和通8丁目南の谷底 本通東排水(北) 上流側
平和通8丁目南の谷底 本通東排水(北)
 間隙に“川”が流れているのを知り、感激したものです(画像上掲が上流側、下掲が下流側)。

 当時はまだ、河川網図も入手してませんでした。
河川網図 本通東排水(北)
 このたび、「本通東排水(北)」という名前を持つ、れっきとした川であることを河川網図で確認しました。札幌市長が河川管理者となっている普通河川です。 

 注:かつての近郊農村としての白石で、軟石建物の需要として考えられるのは農業用の倉庫である。倉庫は軟石よりも煉瓦のほうが散見される。もともと煉瓦の産地であったことに加え、国道12号や函館本線を介して、主産地となった野幌産の煉瓦が流通しやすかったのではないか。東札幌や大谷地が物流の拠点となった時代(昭和後半)にはモルタルやコンクリートブロックが普及したことだろう。

2020/03/07

鈴木煉瓦の工場の位置

「鈴木レンガ工場跡」を伝える「白石・歴しるべ」です。
白石・歴しるべ「鈴木レンガ工場跡」
 白石区平和通6丁目南、平和通に面する角地に立っています。傍らのお宅には、これまた土地の記憶を受け継ぐかのごとき煉瓦の塀です。

 昨日ブログで私は、このあたりの煉瓦工場の立地をあとづけました。おおまかにいうと、工場は大正時代までは函館本線の近くにあり、その後昭和に入ると少し南側に移っています。鉄道の近くに工場が設けられたのは明治時代、鈴木煉瓦によってです。鈴木煉瓦は昭和期には廃業し、別の業者が引継ぎました。昭和期「少し南側に」移った工場は、引き継いだ業者によって設けられた、というのが私の理解です。
 しかるに前掲「白石・歴しるべ」が立つのは、後者の「少し南側」に当たります。私の理解からすると、この場所を「鈴木レンガ工場跡」といってよいのか、疑問が生じるのです。

 現在図で位置関係を整理します。
現在図 鈴木煉瓦工場跡
 赤い:明治時代、鈴木煉瓦の工場が設けられたところ(囲ったのはおおまかです)
 黄色の:昭和期、新たに煉瓦工場が移ったところ(同上)
 赤い:「白石・歴しるべ」の「鈴木レンガ工場跡」が立つ地点

 前掲「歴しるべ」には次のように書かれています(引用太字)。
 「鈴木煉瓦製造場」の初代 鈴木佐兵衛は東京生まれで明治15年9月渡道し、この地で明治17年7月(又は6月)工場を建設して、鉄道用レンガを製造したとの記録がある。
  「この地」というのは、ピンポイントで「歴しるべ」の立つ地点を指すのか、それともおおまかに白石駅の鉄道以南ととらえているのでしょうか。前者だとすると、私の理解と異なります。
 
 この「歴しるべ」の内容を詳しくまとめた冊子版の札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年は、1948(昭和23)年空中写真(米軍撮影)を載せ、鉄道沿いに「初期の鈴木煉瓦製造場跡」と書き添えています(p.39)。これは大正期の地形図に付された「煉瓦工場」記号の位置です(昨日ブログ参照)。前掲現在図で赤いを塗ったところに当たります。
 一方、写真にはその少し南側に「焼き窯」とか「干場」と加えられています。これは昭和期の地形図の煉瓦工場記号の位置です。その「焼き窯」と書かれたあたりを現在に当てはめると、前掲「歴しるべ」説明板が立つ場所になります(前掲現在図の黄色の及び赤い)。
 同書では、後者の「焼き窯」などが鈴木煉瓦当時からのものなのか、後の業者が設けたものなのか、定かでありません。しかし、「後の業者によるもの」と限定してもしません。現地「歴しるべ」の記述からしても、この場所も含めて鈴木煉瓦の工場の一帯だったという前提のようです。

 ちなみに、同書及び現地「歴しるべ」には、鈴木煉瓦産の煉瓦が東京駅に使われたと書かれてもいます。これも疑問のままです(2016.2.14ブログ参照)。
 私にはまだまだ、わからないことが多い。

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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