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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2020/02/29

平岸霊園納骨堂に抱く既視感

 UHB(8ch)みんテレ(15:50-)の「となりのレトロ」は、3月2日(月)に放送されます。新型コロナウイルスのニュースなどで変更がなければ、ですが。

https://uhb.jp/program/mintele/
 今回は白石本通を歩きます。北海道知事の外出自粛お願いの前に収録したものです。
 外出自粛といえば、今月に入って「不要不急」の外出は控えましょうと呼びかけられるようになりました。私の時空逍遥は不要不急の極致です。不要不急を取ったら何も残りません。ただ、人が多い空間は苦手なせいか、どちらかというとあまり人気がないところを彷徨っています。だから「濃厚接触」の可能性は低い、といいたいところですが、問題は交通手段です。クルマがないので、地下鉄やバスに乗らざるをえません。私自身は、ウイルスに感染しても「まあ仕方がないかな」と半分諦めています。それで命を落とすことになったとしても、天命かと。できればあまり苦しい思いはせずに逝きたいものです。しかし、周りの人にうつす恐れがあると、まずい。

 閑話休題。平岸霊園です。別に、早く逝きたいからというわけではありません。 
平岸霊園 納骨堂 遠景
 「納骨堂」があります。

 気になる造形です。
平岸霊園 納骨堂 正面 近景
 正面中央は、曲線的な合掌状の塔型が聳えています。

 厚みを帯びた屋根。
平岸霊園 納骨堂 近景 左ナナメから
 リーゼント風前髪のように反った軒も、どこかで見たような気がします。
 
 軒下、犬走り部分の外構も、モダニズムな気配です。
平岸霊園 納骨堂 近景 軒下 犬走り
 「軒も」とか「外構も」と、付加の「も」を用いたのは、何らかの建物が潜在的な前提にあるのでしょう。
 
 この納骨堂、私は1970年代前半(昭和40年代後半)の建築とみました。さて、どうか。
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2020/02/28

朴沢家古写真から遺構に想いを寄せる

 昨日ブログの末尾に、古写真を載せました。「朴沢家資料」の1枚です。この写真には「豊平川鉄橋工事」という標題が付いています。写っているのは、函館本線の豊平川橋梁を架ける工事風景でしょう。

 私が気になったのは、この部分です。
朴沢家寄贈古写真 豊平川鉄橋工事 橋脚 拡大
 橋脚。
 煉瓦を主体として積み、隅角部に石材を廻しています。 

 これを観て、前に拙ブログで記した風景を思い出しました。
苗穂⑥
 2014年12月21日ブログに載せた画像です。「イギリス積み、焼き過ぎ煉瓦ですね。一部、花崗岩のような石が組み込まれています」と私は記しました。

 この煉瓦と石の遺物は豊平川左岸、JR豊平川橋梁の下流側たもとで見かけたものです。
 豊平川左岸 JR豊平川橋梁下流側たもと 遺構
 赤い矢印を付けた先に写ります(画像は2015年9月撮影)。

 豊平川橋梁のことは2014年12月25日ブログで続報しました。現橋梁の先代が1908(明治41)年、広井勇の設計により架けられたことなどです。古い写真も載せましたが、あまり鮮明ではありません。一方、このたびの古写真はかなり鮮明です。

 朴沢雄治は1900(明治32)年、伊藤亀太郎に招かれて来道し、旭川の第七師団の建築に携わりました。1905(明治35)年に建てられた偕行社(現旭川市彫刻美術館)の棟札に朴沢の名前が「大工」として載ります。その後、札幌を中心に名だたる建物を手がけていきました(末注)。朴沢家寄贈の冒頭古写真の撮影年代は記されていません。が、前述した先代国鉄豊平川橋梁の架橋年1908(明治41)年というのは、朴沢の活躍した時期と合います。古写真は、広井勇設計の1908年架橋を朴沢すなわち彼が属していた伊藤組が施工したことを物語っているように思えてきました。

 さて、そして前掲の煉瓦の残骸です。冒頭古写真と見較べると、私にはこれも1908年架橋の遺構に見えてきました。

 注:栃内和男「郷土史料小解」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』創刊号1981年、p.54、『伊藤組百年史』1998年、p.104、p.110

2020/02/27

大工の棟梁

 2月17日18日ブログで、札幌市公文書館に収蔵されている古写真に写る建物を推理しました。「朴沢家資料」の一枚です。今さら告白するのも気が引けるのですが、「推理」というのは口幅ったいことでした。実は、この写真には「札幌ガス会社屋棟上げ」という標題が記されているのです。「札幌ガス会社」というなら、「ははん、あそこにあったアレか」と察しが付きます。別に、建物のディテールや横断幕に描かれている社章を手がかりにするまでもありません。すぐにはわからなくても、今のガス会社に当たりを付けて、社史をひもとくなどすれば答えに近づけます。名探偵を装って大風呂敷を広げて失礼しました。ただ、このガス会社社屋を朴沢棟梁が手がけたということから、伊藤組の施工だったということ(末注①)を私は知ることができました。収穫です。もっとも、これも伊藤組のほうの社史を追えばわかることかもしれませんが。

 ところで、いま「朴沢棟梁」と記しました。これまでも拙ブログ記述で本件資料にかかわって私は「棟梁」と添えてきましたが、これは既往解題文献に依っています(末注②)。しかしこのたび、「棟梁」という肩書の使い方に無頓着だったなあと反省するに至りました。きっかけは、ほかならぬ2月16日の札幌市公文書館「札幌閑話」です。この日、角幸博先生(北大名誉教授)が(‘受講者’の一人として)来られてました。「閑話」が終わってから、角先生が講師に「棟梁」のことを尋ねたのです。曰く、朴沢の名が書かれた棟札では「大工」とあるのみだが、「棟梁」と記された史料はあるやなしやと。この日の演題はまさに「大工の棟梁~『朴沢家資料』からみる札幌の建物~」だったのですが、講師は建築の専攻者ではなくそこまでは未確認のようでした。傍で聞いていて、専門研究の世界では職能の用語一つにも厳密を期すのだなあと思い知った次第です(末注③)。

 と、ここまでが前置きでして、本日ブログも朴沢家資料からまた古写真を取り上げて逍遥したいと思っていました。しかし前置きだけで冗長になりましたのでやめます。逍遥する古写真のみ、載せます。
朴沢家寄贈古写真 豊平川鉄橋工事

 注①:2015.3.16ブログ参照
 注②:同上2015.3.16ブログ参照。朴沢は「「明治33年、旭川第七師団の兵舎建設のため伊藤亀太郎に招かれて北海道入りをし、組の棟梁として七師団兵舎落成後も、札幌中央郵便局、札幌駅、北海タイムス社、(中略)等の代表的建築物を手がけた」(栃内和男「郷土史料小解」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』創刊号1981年、p.54)。
 注③:同上2015.3.16ブログで私は次のように記した。「朴沢の名は、『伊藤組百年史』1998年において第七師団建設(明治32-35年)の項で出てきます(p.104、偕行社の棟札の記載として。ここでは棟梁ではなく「大工」)。朴沢はその後棟梁として腕を振るっていったのでしょう」。後段は史料的裏付けに基づかない憶測であることを、噛みしめる。

2020/02/26

電柱「中沼幹」の謎 ⑥

 昨日ブログに続き、モエレ沼外周のバス路線に沿って歩いてます。

 ⑩の「中沼団地」停近くのお宅入口です(○数字については2月24日ブログ参照)。
中沼町 Oさん宅入口 馬車の車輪
 電柱は、昨日の「中沼会館」前と同じく「沼の端幹」。
 余談ながら、道路沿いの入口に置かれているオブジェ?が気になります。入口から100m余り奥まった先にあるお宅を尋ねてみました。この地で農業を営んできたお宅のいわばモニュメントだったのですが、仔細は機会をあらためます。

 外周を時計回りに南へ、⑪「沼の端」停にかかりました(バス停は画像中央)。 
「沼の端」停
 手前の電柱銘はやはり「沼の端」です。

 ⑫「中沼中央」停で折り返しました。
「中沼中央」停
 この近くの電柱も「沼の端」です。

 結局、⑨「中沼小学校通」からモエレ沼の南東⑫「中沼中央」に至る沿線の電柱銘は、「沼の端」でした。

2020/02/25

電柱「中沼幹」の謎 ⑤

 札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第84号が発行されました。会員の方には先週、郵送されています。鑑賞会公式ブログに表紙ページを載せましたのでご覧ください。
 ↓
https://ameblo.jp/keystonesapporo/entry-12577750393.html

 昨日ブログに続き、電柱「中沼幹」をめぐる旅を彷徨っています。中央区北3条東9丁目で見つけた「中沼幹」が、東区中沼町でも確認できました。中央区では1本だけでしたが、中沼町では沿道に複数、立っています。昨日ブログに載せた中沼町一帯の現在図に付けた⑥から⑨にかけての沿線です。○数字はバス停の位置を示し、「中野幹線」という市道に沿っています。それ以外のバス停では、どのような電柱銘でしょうか。

 下掲は⑤のあたりで見た電柱です。 
電柱「北電第2鉄工幹」
 「北電第2鉄工幹」。
 ⑤は「丘珠鉄工団地」という停留所です。町名は「北丘珠○条○丁目」に当たります。上掲画像はバス車窓ごしに撮ったものです。このあたりではバスを下車せず、車中から可能な範囲で眺めました。「中沼幹」を目視したのは、この後バスが「中沼西○条○丁目」に入ってからです。

 中央バス[ビ61]丘珠線の終点「中沼小学校通」で下車しました。
中央バス「中沼小学校通」停留所
 ⑨の地点です。
 ここから⑩⑪⑫と歩き、⑨まで戻った後、⑧⑦⑥と歩いて⑥からまたバスに乗って帰りました。⑥~⑨は前述したとおり「中沼幹」でしたが、⑨~⑫はどうだったか。

 ⑩「中沼団地」停留所の近くです。
中沼会館
 町名は「中沼町」で、「中沼会館」という施設があります。

 上掲画像に赤い矢印を付けた先の電柱銘です。
中沼会館近くの電柱「沼の端」幹
 「沼の端幹」。

2020/02/24

電柱「中沼幹」の謎 ④

 2月21日ブログの続きです。
 札幌市中央区北3条東9丁目に所在する電柱「中沼幹」は、東区の中沼(町)に由来するのか。

 同日ブログに載せた現在図のとおり、本件電柱と東区中沼(町)はかなり離れています(直線距離で約9㎞)。
現在図 電柱「中沼幹」 中沼方面バス路線、中沼町
 バス路線が近くを通じているという事象が“悩ましい”ところです(赤いが本件電柱、赤い太実線がバス路線、赤いが中沼町)。

 ここで気になったことがあります。東区中沼(町)では電柱銘がどうなっているでしょうか。もの好きにも、確かめてきました。
現在図 東区モエレ沼周辺 中央バス「丘珠線」沿線
 上掲現在図の赤いで囲ったのが「中沼町」です。その区域は、三日月形の河跡湖「モエレ沼」の外周に広がっています(一部市街化区域は「中沼○条○丁目」、「中沼西○条○丁目」)。赤い太実線でなぞったのが、市中心部からの中央バス[ビ61]丘珠線です。関係するバス停を①から⑫まで示します。
 ①中沼通 ②丘珠中学校 ③丘珠高校 ④丘珠鉄工団地 ⑤モエレ団地 ⑥モエレ沼公園西口 ⑦中野中央 ⑧中沼小学校 ⑨中沼小学校通(終点)
 ①~⑨のうち、①~④までは「丘珠町」(一部「北丘珠○条○丁目」)に属しますが、①は「中沼通」という停留所名なので載せました。
 モエレ沼の東側、⑩~⑫は「丘珠線」の路線ではありませんが、中沼町(一部は中沼○条○丁目)の区域にあり、停留所名も関連しますので、以下記します。
 ⑩中沼団地 ⑪沼の端 ⑫中沼中央 
 
 結論的にいうと、⑥から⑨にかけての沿線の電柱で「中沼幹」を確認しました。
中央バス「丘珠線」 停留所「中野中央」近くの電柱「中沼幹」
 前掲画像は、⑦の「中野中央」停近くの電柱です(赤い矢印の先)。
中央バス「丘珠線」 停留所「中野中央」近くの電柱「中沼幹」 拡大

 下掲は⑧「中沼小学校」停近くの電柱です(黄色の矢印の先)。
中央バス「丘珠線」 停留所「中沼小学校」近くの電柱「中沼幹」
 やはり「中沼幹」。
中央バス「丘珠線」 停留所「中沼小学校」近くの電柱「中沼幹」拡大
 この場所までは、冒頭現在図の左下(南西)、黄色のを付けた中央バス[ビ61]丘珠線の始点「サッポロビール博物館」から乗ってきました。路線バスで来ると、「遠路はるばる」感がふつふつ湧きます。

 中央区北3条東9丁目の「中沼幹」が位置するのは、バスの始点からやや南です(冒頭現在図の赤いの位置)。
市道東9丁目南線 電柱 中沼幹 再掲
 前述したように、約9㎞離れています。「北幹」とか「東幹」といった普通名詞的名称ならともかく、固有名詞的に同じ「中沼幹」をかくも離れた僻遠の地で目にして、奇妙な感覚にとらわれました。これは実際に現地を移動した者ならではの感覚かもしれません。しかし、僻遠というのは中沼の人に失礼ですね。こちらにあるのは至極まっとうなのですから。

2020/02/23

北門館の思い出

 昨日ブログでお伝えした場所には思い出があります。
 正確にいうと、その場所にあった旅館です。40年余り前の3月、一泊しました。大学の合格発表があった後、下宿先を決めるために札幌に来たときのことです。

 そのときの名刺サイズのカードやら領収証やらをとっておいてました。
北門館 名刺オモテ
北門館 名刺ウラ
北門館 領収証 1978年
 当時つまり18歳の頃から、こういうモノを残しておく癖(へき)があったのですね。自分にとっては人生の大きな節目だったので、思い入れが大きかったのでしょう。

 前掲の名刺サイズのカードは、札幌駅の旅館案内所で紹介されてもらったものです。
日観連旅館案内所 オモテ
日観連旅館案内所 ウラ
 カードを入れる紙袋のウラに宿の一覧が載ってます。懐かしい名前がチラホラ。

 下掲の画像は、十数年前に入手したものです。
北門館 外観 (500x393)
北門館 客室内
 たしか、北門館の在りし日の姿です。

 私が泊まったとき、外観の印象はほとんど残っていません。ただ、宿に着いて部屋に案内されたとき、「結構大きな旅館だなあ」と思った記憶がうっすらとあります。上掲の部屋ほど大きな間取りではありませんでしたが、高卒生が一人で泊まるのは少し分不相応な立派な部屋だったような覚えです。中庭もあったようにも思います。道庁のまさに北門にあって、出張者の宿に使われたのでしょう。

 今から思うに、増築された建物に廊下を伝って通されたので、大きく感じたのかもしれません。これも「今から思うに」ですが、昔ながらの風情のある旅館でした。札幌市サイトの「再開発」のページに、本件旅館のあった地区について次のように書かれています(末注、引用太字)。
 この地区は、昭和30年代の古い木造の旅館・飲食店などが密集し、土地の利用度が低く、防災上も問題がありました。
 ところで、上掲の客室には、隅にいわゆる「ファンシーケース」が置かれています。いいですね。
 注:http://www.city.sapporo.jp/toshi/saikaihatsu/redevelopment/jigyo/chuo/redevelopment/n4w5-s.html

2020/02/22

日本生命北門館ビル

 中央区北4条西5丁目にある「日生ポケットパーク」です。
日生ポケットパーク
 道庁からこの空間を抜けて仲通りを渡り、北側のビルの中を通ると、札幌駅へ短絡します。

 1983(昭和58)年、第1回札幌市都市景観賞を受賞した物件です。この空間の存在を知って30年余、これまでここを歩くときは「都市景観賞初回物件だなあ」という潜在意識を抱いていました。ただ、本体のビルのほうに目を向けたことはありません。
 
 それが先月末、このビルの前を通りかかり、初めて「ほぉ」と足が止まりました。
日本生命北門館ビル 外壁
 建物の外壁に眼が留まったのです。煉瓦タイルの積まれ(貼られ)方。

 フランス積みで積まれて(貼られて)います。
日本生命北門館ビル 外壁 タイルの積まれ方
 30年余、気づいてませんでした。

 これは、本件建物の南側にある建物を意識したのではないか。
道庁赤れんがから見た日生北門館ビル
 道庁赤れんが、です(画像左方が本件日本生命北門館ビル)。

 フランス積みで積まれています。
道庁赤れんが フランス積み
 (煉瓦のフランス積みについては2018.7.19ブログ参照)

 「日生ポケットパーク」の都市景観賞受賞理由を読み直してみました(末注、引用太字)。
 本市初の個人施行の再開発事業により、植樹、ベンチ、照明灯、屋外小ギャラリー等をとり入れた、やすらぎのある公開空地と歩行者空間を創出している。建物の外壁を旧道庁庁舎の屋根の色に合せたり、ポケットパークから道庁庭園への視覚的広がり等、周辺との景観上の配慮がなされた公開空地となっている。

 建物外壁は「旧道庁庁舎の屋根の色」に合わせた、と。
日生北門館ビル側からみた道庁赤れんが
 これも知らなかった(画像左方が日生北門館ビル)。いろいろ隠し味を効かせた建物だったのだなあ。

 注:『あなたと市営交通を結ぶ情報誌 ウィズユー』増刊号、2008年2月、p.16

2020/02/21

電柱「中沼幹」の謎 ③

 昨日ブログで、電柱「中沼幹」の近くから中沼方面へのバス路線が通じていることをお伝えしました。これは、「中沼幹」の由来として考えられる二つのうちの②「東区の地名『中沼(町)』とつながっていた」ことを示唆するものです。②について、検討します。
 
 位置関係を現在図で再確認します。
現在図 電柱「中沼幹」 中沼方面バス路線、中沼町
 赤い:電柱「中沼幹」の位置、黄色の:中沼方面のバス路線の発着点、赤い:東区中沼町、赤い太実線:中沼方面のバス路線(中央バス[ビ61]丘珠線)、黄色の矢印:「中沼通」バス停

 電柱とバスの発着点は、直線距離で600m弱です。近いといえば近い。加えて、上掲図で察せられるとおり、赤いや黄色のの地点からは、東区の中沼方面に向かって直線的に道路が通じています。札幌の中心部の碁盤目街区とは異なる向きの道路です。実は、この現在図を見たときから「なんとなく」「感覚的」に、本件電柱と東区中沼(町)のつながりを受け止めてはいました。ただ、それにしても、です。2月13日ブログで記したように、本件電柱の周辺には「中沼」が見当たりません。本件のみが、陸の孤島的に「中沼」です。

 もう少しウロウロしてみます。そもそも東区の「中沼」の由来です。
 モエレ沼を囲む地域で、東側一帯の大地主中野に由来する字地名「中野」と、その西側にあった「沼の端」の字地名から、昭和30年(1995)に両者の頭文字から名付けられた(行政地名は同47年設定)(関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年、p.53)。
 中野・沼の端住民双方の協議の結果、昭和二十四年(一九四九年)三月に中野小学校は中沼小学校と改称、さらに同年四月篠路村字中沼という地名が生まれた(『東区今昔3 東区拓殖史』1983年、p.249)。

 古い地図を当たります。
昭文社エアリアマップ札幌市1973年 東区中沼方面
 昭文社「エアリアマップ 札幌市」1973(昭和48)年の「札幌市街図」からの引用です(原図彩色をモノクロに加工)。本図を用いたのは、「中沼」の行政地名が設けられた年代に近いことと、バス路線が描かれているからです。札幌の中心部から中沼方面への路線を黄色の実線でなぞりました。黄色の矢印を付けた先に停留所名「中沼通」が書かれ、さらに欄外に「至中沼小学校」とあります。 「中沼通」停の位置は今と同じですが、路線は変わっています。かつては東区の中心部も、道道花畔札幌線(ナナメ通り)をバスが走っていました。現在は、その後に整備された市道の幹線道路を通っています。
 本件電柱「中沼幹」の位置は赤いです。その地点からみると、かつてのバス路線は今よりも離れてました。

2020/02/20

電柱「中沼幹」の謎 ②

 2月13日ブログの続きです。
 周辺の電柱銘と較べて「中沼幹」が特異であることは前回のブログでお察しいただけたかと想います。電電公社時代のマークからしても、本件のみ“生きた化石”的に遺ったような気配です。「中沼」の由来としては、次の二つが考えられます。
 ①本件の近くに、「中沼」を冠する地名あるいは施設があった。
 ②東区の地名「中沼(町)」とつながっていた。

 ①から検討します。本件電柱の所在地は札幌市中央区北3条東9丁目、札幌厚生病院の敷地の南東角地先です。
 「最新調査札幌明細案内図」1928(昭和3)年から、本件所在地あたりを抜粋しました。
昭和3年最新調査札幌明細案内図 北3東9あたり
 現在の札幌厚生病院は、上掲図の「伊藤組木工場」にほぼ当てはまります。赤いで囲ったところです。その南東部は細かく地割されていますが、「中沼」というような名前は見当たりません。

 次に、「札幌全市案内」1957(昭和32)年です。
札幌全市案内 昭和32年 伊藤組木材㈱周辺
 赤いで囲った「伊藤組木材株式会社札幌工場」の周辺を観ましたが、やはり「中沼」は見つかりません。

 「札幌市全戸別明細図 大通以北版」1965(昭和40)年です。
札幌市全戸別明細図 昭和40年 伊藤組木材周辺
 赤いで囲ったのが「伊藤組木材札幌工場」、赤い矢印を付けた先が本件電柱の所在地に当たります。この角地に「中村商店」とあります。ナカムラ、ナカヌマ、惜しい。しかし、個人商店の名前を電柱銘に冠するのは、ほかに何もなさそうな一帯でない限り、考えづらいですね。
 どうも、①の線は薄いようです。

 先日この地を歩いたとき、電柱の立つ通りを北上して帰途に就きました。
市道東9丁目南線 北望
 この通りは市道「東9丁目南線」といいます(2月13日ブログ参照)。赤い矢印を付けた先が本件電柱「中沼幹」です。

 「東9丁目踏切」を渡って、東区に通じます。
東9丁目踏切
 余談ながら、この踏切は札幌の中心部に遺る唯一の物件です。

 踏切を渡ると、ほどなく大型商業施設に至ります。
北7東9 アリオ
 ここからバスに乗って帰ろうとしたのです。

 ここで、思いがけなくもというべきか、「中沼」という名前を見かけました。
「中沼小学校通」行きバス
 バス停に待機していた1台のバスです。
「中沼小学校通」行きバス 拡大
 「中沼小学校通」と表示されています。
「中沼小学校通」行きバス停
 中沼方面へのバスの発着点がここにもあることを知りました。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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