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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/11/12

札幌五輪「オーストリア館」を探す

 11月9日ブログに載せた「羊ケ丘オーストリア館」です。
羊ケ丘オーストリア館
 1972年札幌オリンピックのとき建てられた「オーストリア館」が移築されて、現在羊ヶ丘展望台(豊平区)で土産物店として使われています。
 
 この建物がもともとどこにあったのか、気になりました。札幌オリンピックの公式資料(報告書等)を漁ったのですが、見当たらないのです。冬季五輪の主催者すなわち大会組織委員会とか札幌市が建てたものではないからでしょうか。同館は同日ブログ既述のとおり、羊ヶ丘展望台を経営する札幌観光協会の『50年記念誌』によると「オーストリア政府が真駒内会場に7千万円で作った」といいます。同じく先に引用した当時の新聞記事には、「オリンピック選手村の近くにある」同館について次のようにも書かれています(1972年2月2日読売新聞記事「どたん場、ゆれるサッポロ」、太字)。
 「オーストリア館」の最も目につくところには、世界的は銘柄の新型スキーがずらり並べられ、参観者にアピールしている。オリンピックでの好成績を背景に、特産品を売り込もうという意図に違いない。 
 この「館」がオーストリアの「選手村」だったという記述をネット情報で拾いましたが、選手の宿泊施設というよりはいわゆるパビリオンだったと思われます。場所も、大会組織委員会が建てた選手村の一角ではなかったようです。
 
 図書館で関連する書物をぱらぱらめくっていたら、真駒内の選手村を俯瞰した写真に目が止まりました。
オリンピック写真集 選手村俯瞰写真
 『さっぽろオリンピック写真集』という書名で、奥付によると1972年4月、「菅写真株式会社」の発行です。クレジット表記等は載ってません。組織委員会の“公認”とか“監修”ではなく、民間個人が独自に出版したもののようです。 
 この写真の一隅に、「オーストリア館」らしい建物が見えてきました。
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2019/11/11

札幌オリンピック聖火台の炎を燃やし続けたモノ(承前)

 1972年札幌冬季の聖火を燃やし続けるために使われたモノは何だったか。昨日ブログの末尾で問うたその答えは、札幌軟石です。1972(昭和47)年2月4日読売新聞記事「一秒にかけた祈り」に、次のように書かれています(太字)。
 台の中には札幌・石山でとれる軟石をくだいて敷きつめている。軟石は一千度の熱で焼き、レンガのように固めた。石は、台の中で真っ赤に焼け、吹雪にさらされても、火が消えないよう、バルブを防護する役目を果たす。

 火鉢における灰のようなモノか?(本当にそうか?) とまれ、札幌軟石がオリンピックに一役買っていたとは知りませんでした。それにしても、軟石をが使える、使おう、と誰が着想したのでしょうね。
1972年札幌オリンピック記念100円硬貨
 札幌で催されるという2020年東京オリンピックのマラソン・競歩のとき、1972年のレガシーはうってつけではなかろうか。聖火台に再び聖火を灯せないかしら。

2019/11/10

札幌オリンピック聖火台の炎を燃やし続けたモノ

 昨日ブログに続き、1972年札幌冬季五輪の新聞記事で私が新たに知ったことをお伝えします。

 真駒内屋外競技場の聖火台です。
真駒内屋外競技場 聖火台 接写
 開会式で点火されて、オリンピックの大会期間中ずっと炎が燃え続けるということぐらいは知っていました。燃料は油か何かが継ぎ足されているのかなと思っていたのですが、札幌のときはプロパンガスだったそうです(末注)。ガスコンロ、それも今のような自動点火ではないときの仕組みと同じでした。聖火台の下に「制御室」があって、最終ランナーがトーチを台にかざすのに合わせてプロパンのバルブを開けたといいます。ただし普通のガスコンロだと“完全燃焼”して炎が青白くなるため、入る空気(酸素)の量を調整して“不完全燃焼”させる。

 と、まあここまでも私には「へぇ」という話ですが、お伝えしたかったのはここからです。ずっと燃やし続ける仕掛け。雨や雪が降っても消えないように、あるモノが台の中に使われました。それ自体が発火性があったり、可燃性の高いモノではないのですが、1000℃の熱で焼き、敷き詰めたそうです。その熱で炎を維持しました。そのモノとは何か。

 注:1972(昭和47)年2月4日読売新聞記事「一秒にかけた祈り」

2019/11/09

五輪の記念碑を感傷的に鑑賞する

 地下鉄「真駒内」駅前です。
真駒内駅前 札幌オリンピック記念時計塔
 1972年冬季オリンピックを記念する時計塔が建っています。
 
 銘鈑を見て、「へぇ、そうだったのか」と思い知りました。
札幌オリンピック記念時計塔 銘鈑 参加国
 参加国数は35で、南半球からは3か国とか、アジアからは日本以外に7か国だったとか。西ドイツは「ドイツ」と略称の一方、東ドイツは「ドイツ民主共和国」と正式(?)名称で表記されているとか。正式名称といえば、「朝鮮民主主義人民共和国」も。モンゴルは「モンゴリア」とか。中国は「中華民国」が参加していたとか。

 ゴールドメダリストの銘鈑では…
札幌オリンピック記念時計塔 銘鈑 金メダル選手 スキー
 アルペンスキーは競技種目が「滑降」「大回転」「回転」しかなかったんだなあ、とか。
 
 札幌オリンピックで私がリアルタイムで覚えているのは、ジャンプ70mで日本選手が金銀銅メダルを独占して日の丸が3本上がったこと、選手の名前ではジャネット・リンです。実は、選手ではもう一人思い出します。
 シュランツです。商業広告に出ていたことでアマチュアリズム違反を咎められて、“追放”されました。という程度の記憶しか残ってなかったのですが、このたび当時の新聞記事を読み直して、大変だったことをこれまた思い知りました。顛末を以下、時系列で記します。
 1972(昭和47)年1月31日 パークホテルで開かれたIOC総会で、シュランツ(オーストリア)の「失格」が決定
 2月1日 オーストリア選手団の役員が真駒内の「オーストリア館」で、シュランツの失格に抗議し、同国スキー選手全員の“引き揚げ”を表明
 2月2日 同国役員、前日の表明を翻し、シュランツ以外の選手の“残留”を発表
 2月3日 札幌五輪開会式

 報道では、“引き揚げ”→“残留”は出来レースだったとの見方もあります。それにしても、です。1月31日から開会式までの4日間は激動だったと想います。札幌五輪組織委員会関係者はさぞや寿命を縮めたことでしょう。スイスとともにアルペンの本場であるオーストリアのスキー選手が全員欠場していたら、札幌五輪は「巨人が抜けたプロ野球のようなもの」(1972年2月2日読売新聞、川本信正氏コメント)になるところでした。V9、王、長嶋のときの巨人ですね。ということを想い起して前掲時計塔の銘鈑をあらためて観ると、アルペンスキーのゴールドメダリストにオーストリア選手が刻まれていません。

 「羊ケ丘オーストリア館」です。
羊ケ丘オーストリア館
 「札幌オリンピックのさい、オーストリア政府が真駒内会場に7千万円で作ったもので」、終了後、「処分をまかされていた竹中工務店が観光協会に寄贈」しました(『好きです。さっぽろ 札幌観光協会50年記念誌』1986年、p.119)。羊ケ丘に移築されたのは1972年12月です。前述同年2月2日読売新聞記事では「緊張の協議のため夜まで明かりをつけたオーストリア館(夜8時)」というキャプション付きで写真が載っています。

 私は「選手村」のほかに参加国が独自に建てたパビリオンを、他には知りません。他の国も建てたのでしょうか。オーストリア館は、新聞記事では「オリンピック選手村の近くにある」と書かれていましたが、前述札観協誌では「真駒内会場」とあります。どこにあったのでしょうか。いずれにせよ、因縁の建物が遺っているものですね。「羊ケ丘オーストリア館」というネーミングは、いささかのどかですが。 

2019/11/08

ナナメ通りの旧家 Tさん宅の遺構 ②

 昨日ブログの続きです。東区の旧家Tさん宅の厠は、誰のために作られたか? 「東本願寺の偉い人」とはどなたか?
 天皇の行幸に際して設けられた行在所などは、役目を終えた後は使われることなく奉置されることを聞きます。聖跡ですね。Tさん宅の厠もそのような扱いだったやに想います。厠は、相当に「偉い人」のためだったのではないでしょうか。

 ところで、Tさん宅と東本願寺の関係を顧みます。
 まず東本願寺から。東本願寺が北海道開拓に乗り出したのは1870(明治3)年です。本山の法嗣現如(大谷光瑩、のちの第22代法主)を先頭に、中山道から東北諸国を行脚し、北海道を目指しました。途中、各地で門徒から寄付や移民を募りながらのことです。その行程は必ずしも順風満帆ではありませんでした。というより苦難の連続だったようですが、各地の門徒衆からは歓迎を受けました。「新潟では万を越す門徒が参集し」たそうです(末注①)。札幌別院(札幌管刹)の創建に当たっても、初代輪番が募金のため「信徒の多い越後に赴きました」(末注②)。

 札幌別院の本堂です。
東本願寺札幌別院 本堂
 1891(明治24)年に建立されました。画像では手前の木々に隠れていますが、右方には「旧御堂」が遺ります。旧御堂は1871(明治4)年に建てられました。もとは江戸時代中期、越後国(中蒲原郡横越村、現在の新潟市)に建てられた寺の本堂です(末注③)。解体して搬送され、移築されました。

 さて、次にTさん宅です。Tさん初代も越後から来ました(10月6日ブログ参照)。出身地は西蒲原郡月潟村、現在の新潟市です(末注④)。「信濃川の治水工事を請け負うなど、土木事業を得意としていた」といいます。道南に渡り大友亀太郎と知り合い、1866(慶応2)年、亀太郎とともに元村に入りました。明治になり、開拓使本陣御用達を申し付けられます。1875(明治8)年には再び元村に戻り果樹栽培に従事し、1886(明治19)年に没しました。

 東本願寺札幌別院の創建に当たって、Tさん初代は越後出身という人的ネットワークと土木開墾に通じていた技術力の両面で貢献したのではないでしょうか。そこからいきなり飛躍するのですが、ナナメ通りのTさん宅に来た「東本願寺の偉い人」というのは、もしかしたら本山法嗣の現如だったかもしれません。
 現如法嗣は1870(明治3)年の後、1881(明治14)年7月に再び北海道を訪れました(末注⑤)。札幌には同月23日から5泊したそうです。そのとき元村まで足を運んだのではなかろうか。ちなみに同年の翌8月30日から9月2日にかけて、明治天皇が札幌に行幸しています。明治帝は同月31日、苗穂村から元村に入り、「御野立」しました(10月9日ブログ参照)。Tさん宅のすぐ近くです。現如法嗣の二度目の来道は天皇行幸の先遣的な意味合いもあったようなので、先立って同じ行程を訪ねることもありえるかと思います。

 注①:弥永北海道博物館『北海道開拓と本願寺道路』1994年、pp.116-117
 注②:同上p.136 「越後は先般現如が北海道開拓を説いて巡化したばかりであったから、信徒や『尼』たちの献身的な協力があって募財活動は順調に進んだ」。「尼」がカッコ書きなのは、得度した尼僧ではなく、在俗のまま仏事に奉仕した者も含むため。
 注③:東本願寺札幌別院リーフレットによる。
 注④:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.266、以下引用同じ。
 注⑤:前掲『北海道開拓と本願寺道路』p.139

2019/11/07

ナナメ通りの旧家 Tさん宅の遺構

 10月6日ブログで、「ナナメ通りの旧家 Tさん宅の蔵」(東区)をお伝えしました。
 蔵は土蔵造か組積造か、お庭には池があったのかなど、伏せたままにして、もう一つ別の“謎”に迫ります。
東区 ナナメ通り Tさん宅 蔵の傍らの遺構
 赤い矢印を付けた先の遺構です。
ナナメ通り Tさん宅 蔵の傍らの遺構 接写
 煉瓦を一辺に10個程度、四辺に並べて囲っています。真ん中は穴らしき円形です。

 私は一見して「井戸だったのですか?」と尋ねましたが、Tさんによると、さにあらず。「便所の跡」とお聞きしました。「昔、東本願寺の偉い人が来ることになったので作った。その後、一度も使われなかった」とのことです。具体的にいつの時代で、「偉い人」というのが東本願寺のどなたに当たるか、さだかではありません。

 札幌村郷土記念館に、Tさん宅旧蔵古文書が多く寄贈されています。
札幌村郷土記念館 Tさん 東本願寺の褒状
 その中の一枚で、「明治二十八年八月十日」付け「寺務所」からTさん初代宛ての書状です。
 「札幌別院創建ニ際テ荊棘ヲ拓キ草莱ヲ廃シ鞠躬尽力候趣奇特ノ事ニ候依テ為其賞牡丹紋付石盃一個差遣候事」と。
 Tさん初代は札幌別院の創建に尽力し、その奇特を賞され、東本願寺から石盃を授けられたようです。「牡丹紋」は大谷家の家紋らしい。

2019/11/06

東区シンボルマーク考

 昨日ブログに続き、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2019秋の編「街道をゆく…はじめにナナメありき?!」での私の説明に関して補足します。

 札幌市東区役所の「シンボルマーク」について、3点です。
東区民センター 東区シンボルマーク
 
 10月12日ブログで私は、次のように記しました。
 7区でスタートした政令市移行当時に作られたものです。雪の結晶で、「東」を中心に他の6区を表しています。
 東区の歴史を象徴するマークですが、最新の同区役所発行の「東区ガイド」(2019年2月第2刷発行)には載ってません。マスコットキャラクターの「タッピー」に取って替わられています。行政区がその後増えて、現在10区になっているのが響いているのでしょうか。


 これに近いことを「大人の遠足」でも述べたと記憶しています。
 補足の第一。
 このマークが決められたのは、正確には1977(昭和52)年です。「区制5周年」を記念して作られました。1972(昭和47)年の「政令市移行」の時点ではありません。
 補足の第二。
 デザインのモチーフについて、札幌市東区役所発行の『東区まち知るべ』2016年を以下、引用します(p.7、太字)。
 「緑」の中の「東」の文字は、豊かな自然に囲まれた東区を意味しています。また、周囲の6つの円は北国の雪の結晶を表すとともに、東区以外の6区(当時の札幌には7つの区がありました)とのつながりを深めながら未来に力強く発展することを意味しています。
 
 『東区まち知るべ』の記述は読んでいたのですが、私は説明をかなり端折りました。加えて、「『東』を中心に」というのは、私の主観が色濃く反映された解釈です。実際、図柄は「東」の字が中心に象られ、「周囲の6つの円」が当時の6区を表していることに違いはありません。「札幌」の近世から近代に至る歴史的成り立ちからみて「東区中華思想」(10月13日ブログ参照)は意味があると個人的には思います。ただし、このマークがそれを是認しているとは裏付けられません。公的にはあくまでも、他区「とのつながり」です。

 10月12日ブログに載せた東区シンボルマークの画像を再掲します。
札幌市東区シンボルマーク ピンバッジ1979年
 実は、これは1979(昭和54)年に入手したピンバッジです。当時私は札幌市東区に住んでいて、同区役所で貰いました。バッジに添えられた紙片には次のように書かれています。
 まわりにある6つの円は北国の雪の結晶で札幌市とあわせて他の6区を表わし、そのつながりを深めながら未来に力強く発展することを意味しているものです。
 私の札幌市東区観は、40年前からこんにちまで大事に持っているこのバッジに刷り込まれたのでしょう。「札幌市とあわせて他の6区を表わし」から、「(区)を中心」とした札幌市、という歴史認識を嗅ぎ取ってしまったのです。
 
 補足の第三。
 私の前述説明後段では、「東区ガイド」について「マスコットキャラクターの『タッピー』に取って替わられています。行政区がその後増えて、現在10区になっているのが響いているのでしょうか」とも記しました。これもまた、推測というか憶測です。
 札幌建築鑑賞会スタッフSさんが東区広聴係から資料を入手された際、同係職員の方から「ガイドマップに載せられなかった情報が『まち知るべ』にはあるので、両方見てください」との説明があったそうです。片方の資料だけで憶測が拡散されるのは同区の本意ではありますまい。と思い直しました。

 以下は補足の蛇足です。
 『東区街知るべ』1995年版(末注①)では、末尾に「シンボルマーク」の由来を次のように記しています(太字)。
 「緑」の中の「東」の文字は、豊かな自然に囲まれた東区を意味している。また、まわりにある6つの円は北国の雪の結晶で、他区とのつながりを深めながら未来に力強く発展することを意味している。

 「まわりにある6つの円」について、「東区以外の6区(当時の札幌には7つの区がありました)」という後年版の記述がありません。
 悪い癖で、私はまた妄想をたくましくしてしまいました。1995((平成7)年というのは、札幌市が9区(1989年に厚別区、手稲区が誕生)の時代で、さらに清田区の分区が決まった年です(末注②)。行政区が増えていく中、当時の担当者は「東区以外の6区」という本来の由来に遡るのを忌避したかったのではないか。苦渋が読み取れます。その後分区も落ち着いて10区が定着し、当初の解釈が復活した。しかし「札幌市とあわせて」は、消えた。
 ついでながら、当初から今も生きている「周囲の6つの円は北国の雪の結晶を表す」という説明は、疑問が残ります。「雪の結晶」というなら、むしろ全体の六華様を指すのではないだろうか。あ、でも雪の結晶はフラクタル(部分が全体と相似をなす造形)だろうから、「6つの円」も実はそれぞれに六華様ということか。

 東区シンボルマークは、真駒内公園の「中央橋」に遺る、このマークに似ているなとも感じました。
真駒内 中央橋 札幌オリンピックの跡
 六華をデザイン化すればおのずとこうなるか。

 注①:私の手元の2013年版、2016年版は『まち知るべ』だが、1995年版は『街知るべ』
 注②:札幌市清田区役所「清田区ガイド」2014年、年表

2019/11/05

札幌市東区役所の位置

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2019秋の編「街道をゆく…はじめにナナメありき?!」を先月、開催しました。二回のうち、初回(10月11日)に現地で私がしゃべったことで一点、訂正があります。

 当日の配布資料に載せた地形図2万5千分の1「札幌」1975(昭和50)年測量・1977(昭和52)年発行(一部抜粋)に関する説明です。
地形図 昭和52年「札幌」 東区役所付近
 赤矢印を付けた先に政令指定都市区役所の記号が描かれています。東区北13条東8丁目です。区役所は現在、橙色ので囲ったところにあります。北11条東7丁目です。

 私は東区役所の位置を、「この地図が作られた時点では、すでに現在地に移っているはずですが、古い所在地のままで描かれています」と説明しました。これは間違ってました。申し訳ありません。東区役所庁舎が現在地でオープンしたのは1977(昭和52)年7月18日です(末注)。したがって、地形図作製の時点ではまだ、この位置でした。1972(昭和47)年4月に札幌市が政令指定都市に移行する前の出張所時代の建物を、そのまま区役所として使っていたのだと思います。
 私は、政令市に移行した時点で区役所庁舎も完成していたと勘違いしていました。誤りに気づいたのは、2回目(10月13日)のとき、参加者のお一人とのお話からです。2回目ではこの説明そのものを省いたのですが、行事の終わり頃たまたまお一人の方とこの話題になり、「東区は政令市移行後も、しばらく古いまま(位置・建物)でしたよ」と指摘されました。それで私も、区庁舎の落成は各区によってタイムラグがあったなと思い出したしだいです。

 注:『新札幌市史 第八巻Ⅱ 年表・索引編』2008年、p.472

2019/11/04

真駒内屋外競技場の聖火台の先には、何があるか?

 昨日ブログでお伝えした「札幌市児童生徒社会研究作品展」(第40回)の作品に、私は触発されました。否、触発という以上の、大きなインスピレーションをたまわったのです。

 インスピレーションはまず、ここに向きました。
真駒内屋外競技場 聖火台
 真駒内屋外競技場のバックスタンドに立つ聖火台です。柳宗理作(注)。

 先日来記してきたとおり、屋外競技場と屋内競技場は軸線上に配置されています(11月2日ブログ参照)。
空中写真2008年 真駒内屋外競技場 軸線 聖火台
 2008年空中写真で、その軸線を黄色の実線で示しました。
 これに対し、屋外競技場の正面(メインスタンド中心)とバックスタンドの聖火台を赤い実線で結びます。聖火台は赤い実線の南東端(画像上、右下)です。これは屋外競技場の正面中心線をなし、当然のことながらというべきか、黄色の軸線とは直交しています。いわば、もう一つの軸線です。
 
 聖火台から、このもう一つの軸線をまっすぐ伸ばしていったらどうなるか? これが私のインスピレーションです。赤い実線を、聖火台の反対方向つまり北西(画像上、左上)にずっと伸ばしていく。

 国土地理院空中写真(2008年)で直線を引っぱってみました。
空中写真2008年 真駒内屋外競技場からサッポロテイネスキー場
 画像右下端(南東端)が真駒内屋外競技場です。赤い実線を左上(北西)へ15.94㎞先まで引っぱると、あるモノにたどり着きます。

 現在図に照らすと、場所は「サッポロテイネスキー場」です。
現在図 真駒内屋外競技場 サッポロテイネスキー場
 画像左上端(北西端)です。前は「テイネオリンピア」と言ってましたね。
 
 そのスキー場の、たどり着いた先にあるモノを拡大してみます。
サッポロテイネスキー場 聖火台
 赤い矢印で示した先です。驚きました。これまた、1972年札幌オリンピックの聖火台です。

 興味おありの方は、地理院サイトで試してみてください。
 ↓
https://maps.gsi.go.jp/#13/43.041481/141.255169/&base=std&ls=std%7Cseamlessphoto&blend=0&disp=11&lcd=seamlessphoto&vs=c0j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1&d=vl

  真駒内屋外競技場の聖火台から正面を見晴るかすと、手稲山の聖火台がある。前川(國男)さんや高山英華先生は、両聖火台も長大な軸線で結んだのだろうか。

 注:芸術工学会のエクスカーションで真駒内を訪ねた日の夜、柳宗理をテーマにしたテレビ番組を観て、柳さんの事務所が前川さんの事務所ビルにあることを知った。

2019/11/03

「子ども顔負け」の大人に、私はなりたい。

 逆に、子どもに対する「大人顔負け」という形容は、ステレオタイプです。7月に石山緑小学校(札幌市南区)での修学旅行報告会を聴き、実感しました(2018.7.187.19ブログ参照)。どうも私には「子どもとは、こういうもの」という固定観念がこびりついていたようです。

 「札幌市児童生徒社会研究作品展」(第40回)を観覧して、その刷り込みがまた剥がされました。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展 展示風景
 札幌市の小中学生がさまざまなテーマで「社会研究」した成果を発表しています。主催者の方に伺うと、だいたい夏休みを研究に当てているそうです。

 特に私の興味を惹いた作品を以下、お伝えします。著作権も考慮して(?)大まかな画像にとどめますが、雰囲気だけでも味わってください。

 「火山活動から生まれためぐみ~札幌の大地をつくった支笏火砕流~」(小学6年生)。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展 「火山活動から生まれためぐみ」
 
 「ウォータータウン『サッポロ』~今昔マップで見えたもの~」(小学6年生)。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「ウォータータウン『サッポロ』~今昔マップで見えたもの~」

 「平岸リンゴから見える受け継がれた伝統」(小学6年生)。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「平岸リンゴから見える受け継がれた伝統」

 「1972年札幌オリンピックの五輪のマークを探して」(小学5年生)。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「1972年札幌オリンピックの五輪のマークを探して」

 「白石区最古の道」(中学2年生」。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「白石区最古の道」

 拙ブログの読者の皆様には、これらのテーマの作品を私が紹介した気持ちをお察しいただけるかと思います。表現力の豊かさにまず、感銘しました。のみならず、論文の流儀作法(問題意識の所在-研究の視点・方法-内容-結論)を皆さん心得ているのですね。先生や保護者の方の助言もあるのでしょうが、完成度が高い。
 それぞれから教えられたことは多々ありましたが、「ほう!」と私のツボが心地よく刺激されたものを一つだけ、記します。最後に載せた「白石区最古の道」からです。白石区最古とされる通称「山道」(末注①)について、作者のN君は「ここら辺には山らしい山はない」、「国土地理院のホームページで断面を調べてみると山道にはほとんど勾配がない」のに、「なぜ、山道という名前なのでしょうか」と問題を立てました。N君自身が推理した二つの説を以下、引用します(太字)。
 ①当時の道は細く深くぬかるんで歩くのが大変だったため、険しい山道に例えられた。
 ②明治5年に横丁通りが作られた頃、札幌神社(現北海道神宮)が建設されており、山道が斜めに真っ直ぐ整備された時に円山方面へ向かう道ということから「山(へ向かう)道」と呼ばれるようになった。
 

 私の「ほう!」は②です。N君の作品には、次の地図が添えられています。
第40回札幌市児童生徒社会研究作品展「白石区最古の道」 山道
 「山道を一直線上に伸ばす時 札幌神社にぶつかる」と。
 そうか。「山道」は「山アテ道路」(末注②)だったのか。 

 感心してばかりでは何ですので、“注文”も一つ。前掲の諸作品には、「どこかで見たことがあるな」という図版が散見されました。スペースの制約もありましょうが、依拠した引用資料や参考文献、使用した史料の出典の明示を望みます。中学生のN君の作品には、記述に典拠が逐一添えられていました。さすがです。小学高学年だと難しい? いえ、前掲の研究レベルの高さからして、そんなことはありません。「ここまでが既往の到達点で、ここからが自分の成果」だと示されると、ありがたいものです。先人の業績へのリスペクトもまた、「社会研究」から学ぶことといえましょう。

 「社会研究作品展」は、明4日(月・振休)も午前10時から午後3時まで開催されています。「かでる2・7」1階の展示ホールにて。

 注①:「山道」については2019.3.2ブログ参照
 注②:畑山義人「山アテ道路。北海道の直線道路ミステリー」ドーコン叢書1『エンジニアの野外手帳』2011年、pp.88-101参照

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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