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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/11/30

札幌市月寒公民館

 社会教育法、札幌市公民館条例に基づく公民館の、札幌市内唯一です。
月寒公民館
 なぜ、唯一か。
 
 この施設が札幌市と合併する前の旧豊平町から続いているものであろうとは、うすうす察していました(末注)。では、合併前の札幌市には公民館はなかったのか。同じく合併した旧手稲町や旧札幌村にも公民館はあったのではないか。もしあったとしたら、それらが現存せずに、本件月寒公民館のみ続いているのはなぜか。
 この種の公の施設(という言い方は漠然としていますが、ひとまずお許しください)でほかに思い浮かぶのは、区民センターや地区センターです。しかし、いうまでもなくそれらは社会教育法には基づいていません。これは私の先入観ですが、札幌市は社会教育法に基づく公民館の継承あるいは新設には積極的でなかったと思います。法律に縛られたくない。「だから札幌には、無いのだろう」と一人合点していました。では月寒公民館は? 旧豊平町の“遺物”か? 廃止して地区センターなどに変えず、“昔の名前”で遺している積極的意義はあるのか、ないのか。そのことと、この館にある図書室が市内の図書館や区民センター図書室などとオンラインされていないのは関係があるのか、ないのか。
 このような設問に対し、「役所だから」とか「役所のタテ割りだから」とかいうありきたりでステレオタイプで根拠のさだかでない答えで、思考停止したくありません。それで判った気になるのは、アブナイ。また、念のため申し添えますが、私は公民館をやめて地区センターなどに変えるべきだと思っているのでも、毛頭ありません。むしろ逆です。
 私が知らないだけかもしれませんが、未知・無知ということは探索のし甲斐があります。

 注:ただし、現在の建物は1975(昭和50)年頃の築と思われる。手元の資料によると、同時期、田上建築制作事務所が月寒公民館を設計した(田上的造形の考察はひとまず、措く)。札幌市と豊平町の合併は1961(昭和36)年。
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2019/11/29

「となりのレトロ」新川通編 補遺(承前)

 11月26日ブログに続き、UHB「みんテレ」(11月25日放送)の「となりのレトロ」新川編について、もう一つ補足します。

 番組で私は「札幌郡西部図」1873(明治6)年(下図)を見せて、1870(明治3)年の運河計画を伝えました。
札幌郡西部図 銭函、茨戸運河計画線 ?
 画像に赤い矢印と黄色の矢印を付けた先の破線です。私はこれを運河の計画線と説明しました。

 破線の南端部を拡大します。
札幌郡西部図 銭函、茨戸運河計画線? 南端部
 破線は、「シンカワ」と「コトニ川」(それぞれ下から上へ逆さに書かれている)の合流点あたりから、北西、北北西に伸びています。「シンカワ」は、札幌の中心部から直線的に開かれた「寺尾堀」です。この合流点はおおむね、現在の北区麻生町8丁目、札幌市創成川水再生プラザ・下水道科学館に当たります。

 私は、赤い矢印を付けたほうを1870(明治3)年に企図された銭函への運河、黄色の矢印を付けたほうを1886(明治19)年に掘られた「琴似新川」(のちの「札幌茨戸運河」)の計画線と見ました。結論的にいうと、これは推測、想像の域です。計画線であることを裏付ける史料を持ち合わせたものではありません。
 札幌市公文書館のEさんは「それらしいところに描かれているのだけれど」としつつ、「これは測量基線でないか」と推測しています。銭函への運河の琴似川から北西への開削は、1871(明治4)年には中止されました。したがって、1873(明治6)年の地図に計画線が残るのは不自然かもしれません。
 明治6年古図に描かれた破線について私は2018年5月6日ブログで言及しています。そのときは「これは計画線のように見えます」と記したのですが、今回の放送では断定口調に寄ってしまいました。反省します。

 ところで、その破線のうち黄色の矢印を付けたほう、すなわち私が茨戸への運河の計画線とみた流路は、実際にはどのように掘られたでしょうか。
 大正5年地形図を見ます。
大正5年地形図 創成川流路 新琴似 篠路
 青色でなぞったのが琴似川、水色でなぞったのが「寺尾堀」、1886(明治19)年に琴似川との合流地点から北北東へ直進して延伸された「琴似新川」(のちの「札幌茨戸運河」)です。地図には、北端の石狩川(現在の茨戸川)に合流するあたりに「創成川」と書かれています。

 この流路も、冒頭明治6年古図に描かれた破線(黄色の矢印を付けたほう)とは明らかに異なっています。異なっているから破線は計画線ではなかったということも言えません。明治6年古図から実際に流路が開かれるまでは、10年以上の時間差があります。計画と実現が異なることもありうることです。さりとて、破線を計画線とこだわるならば、何らかの根拠が必要です。

 私は、市公文書館のEさんから教えてもらった別の古地図に注目しました。
「新川分間略図」1872(明治5)年 全体
 2018.5.9ブログでも一部引用した「新川分間略図」1872(明治5)年(北大図書館蔵)です。
 南端から琴似川まで水色で水路(寺尾堀)が描かれ、琴似川との合流点から北へ、赤い実線が引かれています。私にはこれも計画線に想えるのです。

 赤い実線の北端あたりを拡大します。
新川分間略図」 赤い実線の北端部
 石狩川(茨戸川)には直結せず、発寒川に達しています。冒頭明治6年古図に黄色矢印で示した破線と似ている描かれ方です。

 画像右方(東方)に「シノロ沼」と書かれた沼が描かれています。赤い実線は、この沼を避けて引かれたようにも見えなくはありません。冒頭明治6年古図でも、破線は沼地らしいところを避けているかのようです。

2019/11/28

第10回 厚別歴史写真パネル展 初日御礼

 今回もいろいろな出逢いに恵まれました。
第10回厚別歴史写真パネル展 1日目
 お顔を見て言葉を交わすのは、ありがたい機会です。オンラインとオフラインの相乗作用といったら、聞こえが良すぎますが。

 昨日ブログでお伝えした「ひばりが丘団地」30年の拙作を懐かしそうに観てくださった方がいらっしゃいました。子どもの頃、ひばりが丘で過ごしたそうです。当時の思い出を語っていただくことで、写真に息を吹き込んでくださいました。そういう方とお一人でも巡り会えたことに、至福を感じます。

 「ブログ見てます」という方、去年一昨年の「厚別歴史散歩」に参加された方、ミニコミ「厚別ブラ歩き」を読んでくださっている方、札幌建築鑑賞会会員の方、一年前の展示でお会いして名前を覚えてくださっていた方。ありがとうございます。

2019/11/27

第10回厚別歴史写真パネル展

 明日11月28日(木)から開催されます。
第10回厚別歴史写真パネル展チラシ
 画像が見づらい場合は、下記札幌市厚別区サイトをご覧ください。
 ↓
 http://www.city.sapporo.jp/atsubetsu/machi/soshiki/soshiki_event.html#rekishipaneru10

 今回、私はパネル2枚を出展しました。
第10回厚別歴史写真パネル展 ひばりが丘団地の30年
 今年は厚別区ができて30年という節目の年なので、「新札幌30年間の移り変わり」が特集されます。そのうちの「ひばりが丘団地(1989年-2019年)」を受け持ちました。
 
 拙作パネルに込めたのは、“近過去”と“一次情報”という二つの価値です。
 「歴史写真」というと、“明治-大正-昭和“”という印象もあります。古いほど価値があるようにも受け取られがちです。私は、この30年も「歴史」の一部だと思います。少し自慢するとしたら、載せた写真9点のうち8点が「自分で撮った」ものであることです。既出の史料・資料からの二次的転載も、より多くの人に伝えるという意味がありますが、一次情報には何物にも代えがたい価値があります。一次情報は一人ひとりが持っているものです。

 会場でアンケートにお答えくださった方には記念品(「厚別区30周年」記念コースター)が進呈されます(個数に限りあり)。
第10回厚別歴史写真パネル展 アンケート景品
 展示は30日(土)までの3日間、午前10時-午後8時、サンピアザ1階「光の広場」(地下鉄「新さっぽろ」駅地上、JR「新札幌」駅から徒歩3分)にて。私は明日、午前11時-午後3時に滞在します。

2019/11/26

「となりのレトロ」新川通編 補遺

 25日に放送されたUHB「みんテレ」の「となりのレトロ」では、新川を紹介しました。局スタッフから提案があったのは、ほかでもありません。2020年東京オリンピックのマラソン・競歩が札幌で催されることとなり、コ-ス候補地として新川通が一躍“脚光”を浴びたためです。テレビでは、東京キー局の番組で“ディスリ”、道内ローカルで反発という構図でした。前者は、降ってわいた札幌開催そのものへの反感をベースに、とりわけ新川通を走ることへの懸念(行程が単調、日差しを遮るものがないなど)だったようです。後者は、“おらが地元”への貶めや札幌が五輪の華を横取りしたかのような“不当な言いがかり”に対する異議とでもいえましょうか。マスコミならではのマッチポンプ(古語)という感なきにしもあらずですが、これを機に新川を文字どおりレトロスペクトするのもよいかと思います。
 
 さて、その新川です。
新川 西陵橋から南望
 番組の落としどころは、新川開削の“知られざる”目的を明らかにすることでした。低湿地の排水乾燥化に先立って、もともと水運・物資輸送を企てたという目的です。ただしこれは以下、注釈させてください。
 現在の新川(琴似発寒川との合流地点より上流の琴似川を含む直線的人口河川)は1886(明治19)-1887(明治20)年に開かれました。この川が「水運」も目的として開削されたかというと、それを裏付ける史料は現時点で見つかっていません。史料として明らかなのは、あくまでも「排水」です(末注)。
 しかし、「水運」に言及している二次的資料が散見されます(末注②)。これは1870(明治3)年に企図された「新川」(末注③)と混同されているのではないでしょうか。このときは、「物資輸送の確保」が目指されていました(末注④)。札幌市公文書館のEさんにお尋ねしたところ、1886-1887年開削時はやはり「排水」とする史料しか見当たらないそうです。「史料に書かれていないから『水運』の目的はなかった、と断定まではできませんが…」としつつ、否定的な見解でした。
 1870年新川と1886年新川の間には十数年の時の経過があります。その間の1880(明治13)年には札幌手宮間に鉄道が通じました。また、現在の新川が掘られた1886年には創成川(寺尾堀)が茨戸まで直進され、のちに「札幌茨戸運河」となります。水運は石狩との間につながりました。しかるに小樽方面へは鉄道が敷かれた後、その鉄路にほぼ並行して開いた新川にあえて物資輸送の機能も目されたとは、私には考えづらいのです(末注⑤)。

 新川の橋上から下流を眺めると、JRタワーがアイストップになって望めます(前掲画像は西陵橋からの眺望。したがって、写っている川は「琴似川」)。まるで札幌駅からの軸線を図ったかのようです。この風景にはロマンを感じるのですが、史実とは区別しなければならないなと自戒しました。

 注①:「北海道庁事業功程報告明治二十年度」(道立文書館蔵)の「札幌近傍原野排水及道路開鑿」に、「小樽内札幌間」の起工について記されている。「本工事ハ小樽内川ヨリ琴似川ニ至ルヲ本線トシ排水渠ノ延長三千四百三十五間之ニ傍フテ幅四間延長六千百四十九間ノ道路ヲ築キ片側ニ下水ヲ通シ支線ヲ設ク」。標題が「原野排水」であるのみならず文中も「排水渠」とあり、水運、舟運等の文言は無い。「官報 明治二十年十二月二十四日 札幌近傍排水工事」も同様の記述であるほか「此工事ハ近傍数多ノ小流水ヲ此新堀割渠ニ湊合シテ小樽内川ニ排注スルノ計画ナレハ工事ノ全テ竣ルニ至レハ琴似発寒軽川等緒川ハ概ネ涸渇シテ此諸川近傍幾千万坪沮○(サンズイ扁に如)卑湿ノ地変シテ乾燥肥沃ノ園圃トナルニ至ルヤ疑ヲ?ルヘカラス」。 
 注②:『新川郷土史』1980年が引用する『札幌市史』(旧市史)では「排水、水運治水の目的を同時に遂行したもの」と記述(p.54)。札幌市河川事業課『さっぽろの川と人々のくらし』では「物資の運送の利用も兼ねて、1886年(明治19年)から1887年(明治20年)にかけ『新川』の開削が始まりました」(p.9)。山口甲(元北海学園大学教授・元北海道開発局長)「新川という川」新川流域を楽しくする会『新川ルネサンス~新川の新たな可能性を探る~』2018年には、「掘削した目的は氾濫防止、湿地の開墾、そして銭函からの舟運を興すため」(p.9)。同書巻頭の「『新川ルネサンス』発刊にあたって」にも「新川開削の目的を調べてみると、川の氾濫防止、湿地の開墾、そして銭函からの舟運を興すためと有ります。つまり内陸運河のイメージで掘削されたと推測されます」。
 注③:その上流部は、大友堀を北6条以北、直進させ、琴似川までつなげたいわゆる「寺尾堀」。のちに創成川。
 注④:『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年、「新川開削」pp.73-75
 注⑤:新川の下流には、「花畔銭函間運河」が1895(明治28)年に掘られ、新川の左岸側では水運に用いられた(山口運河)。『新札幌市史 第二巻 通史二』「札幌・茨戸間、花畔・銭函間運河開削」pp.649-651

2019/11/25

手稲山口バッタ塚 考⑥

 手稲山口バッタ塚の現地説明板には、「ここに見られる幅広い畝状の塚」と書かれています。
 「ここに見られる」と、いわば既知のごとく修飾されているものの、私は正直に告白すると「畝状の塚」を現地で明確には識別できませんでした。

 現地の風景です。
手稲山口バッタ塚 東から西を望む1
手稲山口バッタ塚 東から西を望む2
擬木の柵の奥が、史跡指定されたバッタ塚の区域です。

 撮影位置を空中写真で示します(2008年地理院サイトから)。
空中写真 2008年 手稲山口バッタ塚 画像撮影位置、向き
 黄色の四角で囲ったのがバッタ塚の区域、赤矢印が前掲画像1点目の位置と向き、橙色の矢印が2点目の位置と向きです。

 黄色のでなぞった四辺が柵で囲われています。前掲画像2点でおわかりのように、その柵はなだらかに起伏しています。私は当初、この起伏が「畝状の塚」かなと思いました。

 この起伏を、異なる向きから眺めてみます。
手稲山口バッタ塚 北から南を望む
 撮影の位置と向きは、前掲空中写真に白ヌキ矢印で示しました。北西側の柵の外から南東へ向けた眺めです。私がはじめに思った畝というのは、白ヌキ矢印の向きとほぼ直交します。

 しかし、冒頭2点目の画像、すなわち橙色の矢印の位置と向きで撮った風景をもう一度眺めてみましょう。
手稲山口バッタ塚 東から西を望む2 もう一つの畝の向き
 黄色の線でなぞったところにも、畝のような形状が幾筋か見受けられます。この畝は、前述の白ヌキ矢印とほぼ平行した向きです。数えるとおおむね5筋、起伏しています。

 つまり、畝状とみられる起伏が、異なる2方向に伸びているのです。その向きを空中写真で俯瞰します(2008年撮影、地理院サイトから)。
空中写真 2008年 手稲山口バッタ塚 畝の向き
 黄色の四囲がバッタ塚の区域です。これに白ヌキ直線を2本、十字形に直交させました。そのうちの長いほうと平行するのが、前掲画像に黄色の線でなぞった5筋の畝です。北西-南東方向に伸びています。一方、私が初めに畝かなと思ったのは、白ヌキ直線の短いほうと平行した向きです。こちらは北東-南西方向に当たります。
 
 直交する2種類の向きの畝状のうち、どちらがバッタ塚とされる畝でしょうか。実はこれが、バッタ塚の信憑性とも関わってきます。

2019/11/24

手稲山口バッタ塚 考⑤

 昨日ブログに記した「手稲宮の沢1北(または南)○丁目」という旧地名は、気になります。「1」だけというが、なんとも不思議です。1条ではなく、「1」だけ。2、3、4…はなく、「1」だけ。かような地名がなぜ、いかにしてありえたのか寄り道したい気持ちをこらえて、バッタ塚に戻ります。 

 11月22日ブログの続きです。
 繰り返しますが、私は手稲山口における存在を疑うまでには至ってません。より的確な説明に更新してもらえるとありがたいというところです。根本的には、本件バッタ塚の史実は断定形ではなく伝聞推定形で表現すべきではないかと思います。その上で、現在公的に説明されているものでさしあたり私が“引っかかった”細部を列挙すると以下のとおりです(カギカッコ内は引用)。

 ①札幌市公式サイト「さっぽろの文化財(WEB版)」ページ
 http://www.city.sapporo.jp/shimin/bunkazai/pdf/documents/39batta.pdf
 「札幌市手稲区のバッタ塚は、札幌近郊で集めた大量の成虫や卵のうをうね状に集積し、」
 ⇒島倉亨次郎「調査報告書」によれば「埋められたのはトノサマバッタのおもに卵のうであろう」(11月21日ブログ参照)。このページ自体も冒頭で「バッタ塚とは、(中略) 卵のうを埋めてできた塚である」と、「卵のう」に限っている。にもかかわらず、本件バッタ塚は「成虫や卵のう」を集積したとしている。「成虫」も含めた根拠が疑問。

 ②同サイト「文化財を見に行こう」ページ
 http://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/bunkazai/bunkazai/syousai/33c_batta.html
 「当時の人々は、このトノサマバッタを駆除するため、バッタや産み落とされた卵を札幌近郊から集めて、この地に埋めたのです。埋めてその上に大きな土まんじゅうを作りました。これがバッタ塚です。ここはもう少し行くと海水浴場というところ。そう、砂浜に近いところなのです。バッタの食べる草の少ない砂の地盤であるということで、この地が選ばれたのでした。砂の地盤なので、地形はかわりやすいもの。今はどんな形をしているのでしょうか。」
 ⇒現地の説明看板には「ここに見られる幅広い畝状の塚」は「大量の卵のうを、不毛に近い砂地に列状に並べ」と書かれている。
手稲山口バッタ塚 現地の説明看板
 「畝状」「列状」を「大きな土まんじゅう」という表現するのが妥当か。前述島倉先生はむしろ、本件バッタ塚が他地区に見られた「土まんじゅう」型などとは異なる作られた方であったことに意義を見出している。

 ⇒「バッタの食べる草の少ない砂の地盤であるということで、この地が選ばれた」のか? 島倉報告書は「山口村は、トノサマバッタが大発生した当時も大部分が砂地で、かれらの産卵に好適の場所であったであろう」と記す(p.9)。砂地ゆえに大発生し、その場所に(産卵しないように工夫して)埋めた可能性もある。

 ③札幌市手稲記念館(札幌市条例に基づく公の施設、所管は市文化財課) 
 http://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/bunkazai/bunkazai/syousai/00k_teine.html
 展示物の標本を「黒い層になっているのが、明治15~16年に埋められたトノサマバッタとその卵が変化したもの」と断定していることに疑問あり(11月22日ブログ参照)。

 ところで、私は本日現地にあらためて足を運び、バッタ塚を鑑みました。前述の説明看板でいう「幅広い畝状の塚」とは具体的にどの形状を指すのか、気になったのです。
手稲山口バッタ塚 再掲

2019/11/23

「手稲宮の沢」の「1」

 UHB(8ch)みんテレ(15:50-)“となりのレトロ”が、一か月ぶりにオンエアされます。
 ↓
 https://uhb.jp/program/mintele/
 予定は11月25日(月)です。何かと話題になった「新川通」を歩きます。ご笑覧いただければ幸いです。

 昨日ブログで札幌市手稲記念館の所在地の旧称を誤って記し、訂正しました。その訂正にもまた誤りがありましたので、再訂正いたします。恥ずかしいかぎりです。すみません。「西町南21丁目」の旧称は「手稲宮の沢1条南3丁目」ではなく、「手稲宮の沢1南3丁目」でした。「条」はありません。札幌建築鑑賞会スタッフSさんからあらためてご指摘いただきました。
 たしかに、札幌市ウエブサイトの「廃止町名一覧」ページでは「手稲宮の沢1南3丁目」と、「条」は付いていません。一方、昨日ブログに追記した昭文社「エアリアマップ 札幌区分地図」1987年の当該地域には「1条南」とあります。
昭文社エアリアマップ札幌区分地図 1987年 西区手稲宮の沢 再掲
 赤いを付けたところです。国道5号(当時)の北東側には「1条北」とも書かれています。これを見て、札幌市サイトのほうは「条」を省略したのかと私はまた勘違いしました。市サイトのページは正しい表記だったのです。

 「手稲宮の沢1」というような町名(序数詞的な接尾語がない町名)を私は無意識のうちに弾いてしまいました。現在西区にある「八軒○条西(または東)○丁目」というような(ちゃんと「条」が付く)表記に、引きずられたのかもしれません。札幌市の「廃止町名一覧」ページをよく見ると、「手稲東」も数字のみ+北(または南)○丁目」です。「条」が付いていません。ただし、数字のみは「手稲宮の沢」と「手稲東」の二つの町名だけだったようです。さらに、「手稲宮の沢」は「1」のみで、2、3…の形跡が見当たりません。札幌の旧称地名、奥深い。

2019/11/22

手稲山口バッタ塚 考④

 「札幌市手稲記念館」です。
札幌市手稲記念館 外観 
 現在の所在地名は札幌市西区西町南21丁目ですが、かつては西区手稲東手稲宮の沢1条南3丁目、さかのぼると手稲町字宮ノ沢、もともとは手稲村大字上手稲村でした。2019.11.23誤記訂正

 館内に、旧手稲町に関する資料展示室があります。
札幌市手稲記念館 資料展示室 バッタ塚展示
 入口にほど近いところにあるバッタ塚の展示です。

 画像左方のパネルの記述から一部を以下、引用します(太字)。
 開拓使庁は、ばったの撲滅対策として、ばったの卵と捕獲した親虫を山口の新川川口のほとりに埋めることにした。多くの農民や雇われ人夫がこの埋没作業に従事した。これがバッタ塚であって、明治15、16年に起きた事がらであった。このバッタ塚は、あまり世人に知られていないが、北海道開拓の文化財として貴重なものである。 

 右方は「バッタ塚の土」の実物です。
幌市手稲記念館 資料展示室 「バッタ塚の土」標本
 土が入っているケースに、説明文が添えられています(太字)。
 この標本は手稲山口にあるバッタ塚の土で、黒い層になっているのが、明治15~16年に埋められたトノサマバッタとその卵が変化したものである。別の写真にあるようなかまぼこ型の塚には、どこにもこの黒い土が見られる。 

 土の「黒い層」の部分には、ケースに次のようにも書かれています(太字)。
 砂に埋めたたくさんのトノサマバッタは真黒な層となってしまった。

 前掲のパネルには末尾に「『手稲町誌』72~、212頁参照」とあるので、この展示は同町誌に基づいているといえましょう。昨日ブログに記したとおり、同町誌の記述は根拠が定かでありません。「黒い層」を「トノサマバッタとその卵が変化したものである」と断定していますが、一昨日(11月20日)ブログに引用した「調査報告書」でによれば、バッタの虫体あるいは卵のうとは確認されませんでした。ただし、調査報告書を著述した島倉亨次郎先生は「埋められたのはトノサマバッタのおもに卵のうであろう」と推測しています。百歩譲っても、パネルに書かれた「捕獲した親虫」のほうは疑わしい。
 「調査報告書」は1979(昭和54)年に作成されたものであり、バッタ塚現地の土層を分析したのはさらにさかのぼる1967(昭和42)年と思われます。最新の検査技術をもってすれば、もしかしたら当時検出できなかったモノが判明するかもしれません。しかし、本件展示が依拠しているのは、あくまでも『手稲町誌』のようです。同町誌は1968(昭和43)年に刊行されました。要するに、“古い情報”がそのまま生き残っているのです。

 「バッタ塚」の現地もそうですが、この資料展示室も、訪ねる人は稀少だと思います。「あまり世人に知られていない」だけに、情報が更新されていなくても、世の中には大して影響はないでしょう。ただ、一方でこういうところを観覧するのは、ある意味で“コア”な層だとも慮ります。考証が不十分な情報がそういう人たちに刷り込まれるのはいかがなものか。という気持ちも、なくはありません。「伝聞」「推測」「推定」…が、「断定」として独り歩きするのは怖い。

2019.11.23 訂正
 「札幌市手稲記念館」の旧所在地名を私は「手稲東」「字東」と記しましたが、誤っていました。札幌建築鑑賞会スタッフSさんからのご指摘です。訂正します。旧所在地名は「西区手稲宮の沢1南3丁目」、手稲町時代は「字宮の(ノ)沢」でした。*追記:「手稲宮の沢1条」は、正しくは「手稲宮の沢1」。
 
 昭文社「エアリアマップ 札幌区分地図」1987年から、当該地区を抜粋引用します。
昭文社エアリアマップ札幌区分地図 1987年 西区
 札幌市西区当時、「中の川」(現「旧中の川」)で町名界が分かたれ、南東側が「手稲東」(橙色の矢印)、北西側が「手稲宮の沢」(黄色の矢印)でした。赤い矢印を付けた「手稲記念館」は、「手稲宮の沢」に属しています。
 札幌市ウエブサイト「廃止町名一覧」ページで、手稲記念館のある「西町南21丁目」は、1989(平成元)年8月14日に「手稲宮の沢1(条)南3丁目」から変更されたことが確認できます。

http://www.city.sapporo.jp/shimin/koseki/jukyo-hyoji/haishi-chomei1.html
 
 関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年の「西区」の章で、「西町北・西町南」の項に次のように記されています(pp.148-149、引用太字)。
 昭和42年の札幌市との合併時に「手稲東」となり、(中略) 平成元年(1989)、西区の一部が手稲区に分区される際、住民アンケートを行った結果に基づき、手稲東の北が「西町北」、同じく南が「西町南」に改称された。 

 古い地形図などを見て一瞬、「どうかな?」という疑問もかすめたのですが、これを読んで私は、現在の西区西町(北)(南)の「すべて」が、手稲区が分区される前は「手稲東」だったと勘違いしてしまいました。同書の記述は以下のとおり、傍線太字箇所を加え補って読むのが正しいでしょう。
 「平成元年(1989)、西区の一部が手稲区に分区される際、住民アンケートを行った結果に基づき、手稲宮の沢の北の一部と手稲東の北が「西町北」、同じく手稲宮の沢の南の一部と手稲東の南が「西町南」に改称された」。

 Sさん、ありがとうございました!

2019/11/21

手稲山口バッタ塚 考③

 島倉亨次郎「札幌市西区手稲山口のバッタ塚に関する調査報告書」1979年はバッタ塚をどのように考証し、評価しているでしょうか。同書の内容を以下、かいつまんでみました(Ⅰ~Ⅴは同書の章立て、カギカッコ内は引用)。
 Ⅰ.はしがき
 北海道内のバッタ塚の概況
 手稲山口を調査するに至った経緯
 Ⅱ.北海道における蝗害史
 バッタの大発生はどのように起きるか
 北海道におけるバッタによる被害の歴史
 Ⅲ.手稲山口のバッタ塚
 
 1880(明治13)-1885(明治18年のトノサマバッタの大発生に際して作られたことは「ほぼ確実と思われる」。
 明治期における政府、開拓使のバッタ大発生への対策、駆除方法について、史料の考察
 「札幌区」(末注)における明治期のバッタ駆除の記録考察
 バッタ塚がつくられた「山口村」単独の被害や駆除の記録は「見当たらない」。
 『手稲町誌』では「開拓使事業報告書」を引いて、山口村で「蝗害を被り作物の収穫は皆無となった」こと、「山口村の大浜に近い砂丘」にバッタの成虫とその卵」を埋めて退治したこと、「これが、今も残っているバッタ塚」である」ことが書かれている。しかし『開拓使事業報告』に該当する記述はない。「したがって、現在手稲山口に残っているうね状のバッタ塚が、正確には誰により、いつどうやって作られたかを直接に物語る記録は未発見というほかないと思われる」。
 1959(昭和34)年8月28日道新学芸欄掲載の井黒弥太郎北海道教育史編集委員の寄稿文の紹介
 同文中で紹介されている古老の“証言”についての考察
 1967(昭和42)年の「札幌市文化財保護委員会(当時)」の高倉新一郎と筆者(島倉)の両氏による現地視察、現地で採取した黒色土の成分の分析結果(昨日ブログで一部紹介)
 札幌区における明治期のバッタの捕獲、卵のう採取の記録の考察
 Ⅳ.考察
 「上に述べて来たいろいろのことがらは、H氏(引用者注、同書では実名)がその父君から「バッタの卵を埋めたものだ』と伝え聞かれたところと、矛盾しない」。「埋められたのはトノサマバッタのおもに卵のうであろう」。
 「手稲山口にバッタ塚が作られたのは、主として1883年であったものと推定される」。
 道内の他の地域のバッタ塚に比べると、「山口の場合は、ずっと狭い面積に大量の卵のうを整然と埋めたという意味で、はるかに効率的、集約的だったわけであろう」。
 「このような推定にもし誤りが無ければ、手稲山口にあるバッタ塚の作り方は、それを実施した人々と、指導した人々の経験と知恵で実現され、創意と工夫に満ちたものとみることができよう」。  
 Ⅴ.要約と結論 
 「北海道でも、本州でも、将来トノサマバッタの大発生はほとんど起り得ないであろうから、今残っているバッタ塚は、先人苦闘の跡を知らせる貴重な文化財として、永く保存されるのにふさわしいものと思料される」。
 
 この「調査報告書」を一読する限り、手稲山口のバッタ塚を裏付ける新たな物証や書証は判明してはいません。述べられているのは結局、地域の古老の口承等が史料に照らして「矛盾しない」に尽きます。むしろ、古老の“証言”は直接的な目撃体験ではないこと、「バッタ塚の作り方」の“実演”も父親からの伝聞に基づいていることに言及しているくらいです。いわば状況証拠の積み重ねといえましょう。
 「だからバッタ塚にバッタが埋められたかどうか疑わしい」とまで、私は短絡するつもりはありません。いわゆる郷土史の世界は、文献史料の考証だけで語れるものではないと思います。例に出すのはおこがましいのですが、私が調べている札幌軟石建物の建築年代は、ほとんど持ち主などからの伝聞です。「亡くなった父から前に聞いた話だが」といった二次情報も、往々にあります。裏付けを得る難しさは身に染みているところです。それでも、それはそれとして記録にとどめることに意味があると念じています。

 注:筆者は「山口村が属していた札幌区(19か村から成っていた」と記すが(p.9)、これは明治10-30.年代の「札幌郡」における札幌区と近郊18村のことと思われる。『さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史地図‹明治篇›』1978年、p.5「衛星村落のうつりかわり」参照

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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