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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/10/23

中山久蔵はなぜ、島松で寒地稲作をなしえたのか。

 標題の疑問を抱くに至ったきっかけは、UHB「みんテレ」となりのレトロ島松編の収録のとき、担当ディレクターのOさんとのやりとりです。Oさんから「なぜ、島松だったのでしょうね?」と訊かれました。
 
 久蔵が島松に来る前に当初入ったのは、胆振国の勇払(苫小牧)です。北広島エコミュージアムセンター知新の駅での「中山久蔵翁没後100年展」を拝見するなどして知りました。そこは火山灰地で、稲作には向いていなかったと。彼は幕末、仙台藩士に随って白老に往き来していました(伊達藩は幕府から命じられた蝦夷地警備で白老に陣屋を置いた)。胆振には土地勘があったのかもしれません。稲作適地を求めて北上した結果が島松(川の右岸は、胆振国)だったのでしょうか。 

 色別標高図で、島松を広域で俯瞰します。
標高図 島松 広域 標高50m未満から50mごと7色
 標高50m未満から50mごと7色で造りました。赤いが島松沢です。
 支笏湖の東方は、4万年前のカルデラ大噴火による火砕流堆積のあと、恵庭岳や樽前山の噴火により火山灰が降り積もりました。千歳から苫小牧にかけては稲作には適していなかったとみられます。

 道央地域に住んでいて実感することの一つは、日本海側と太平洋側の気候風土の違いです。千歳市と苫小牧市の市界すなわち石狩管内と胆振管内の境界が分水嶺を分かっています(5月24日ブログ参照)。冬、札幌でドカ雪が積もっても、苫小牧は乾燥して晴れている。夏、札幌が30℃を超える真夏日でも、苫小牧は20℃そこそこで涼しい。夏あまり気温が上がらないのは、寒流(千島海流、親潮)のせい、というかおかげですかね。この冷涼気候も稲作には不向きだったのではないか、と私は想うのです。それで久蔵は札幌本道を北上した?

 分水嶺を越えて辿り着いた島松沢付近の色別標高図です(色分けは前掲図と同じ)。
標高図 島松周辺 標高50m未満から50mごと7色
 当時は石狩国と胆振国の国境でした。島松川が大きな谷を削っています。谷底平野で、水田を拓きやすかったようにも想えます。河川堆積物で、土壌も良かったか。先日「北海道開拓の村」で拝聴した「寒地稲作の祖・中山久蔵と赤毛」(北広島市エコミュージアムセンター古田学芸員)では『農業篤志中山久蔵事績』1894年を引いて、地形的な利点が紹介されていました。久蔵が水田を拓いた島松川左岸は北側に丘陵が屏立し、東南に向いているのが良かったそうです。たしかに、南斜面を作っています。

 …と、縷々記してきて、“自然決定論”めいた説明に自戒心が募ります。安易だな。地形図などを操ってそれらしく地誌を語って(騙って?)、判った気になってるのではないか。地形や地質で文化を読み解くと、“目からウロコ”感が弥増します。それだけに、私のようなシロートは陥穽にハマりがちです。
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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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