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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願

2019/10/31

真駒内屋外、屋内競技場の軸線 ③

 昨日ブログに続き、1972年札幌冬季五輪の会場となった真駒内の競技場を逍遥します。10月25日ブログの末尾で問うた屋外、屋内競技場の軸線の「なぜ?」です。

 結論的にいうと、競技場は次の順で構想されたのではないかと私は推理します。
 (1)屋外競技場の配置
 (2)軸線の設定
 (3)屋内競技場の配置

 (1)~(3)の説明の前に、古い空中写真や古地図で競技場の立地を俯瞰しておきます。
 まず、1961(昭和36)年の空中写真です。
空中写真1961年 真駒内 屋外、屋内競技場の位置
 屋外、屋内競技場の位置を赤い(楕円が屋外、正円が屋内)で示しました。この空撮は、米軍のキャンプクロフォードが去り、その跡地の北半分を自衛隊駐屯地が引継ぎ、その南側に道営真駒内団地が1965(昭和40)年に造成された後、競技場ができる1970(昭和45)年の前です。

 次に、米軍基地当時の配置図に競技場の位置を当てはめました。
真駒内 米軍キャンプクロフォード 配置図
 元図は『郷土史真駒内』1981年から引用しました。

 赤いで示した競技場は、米軍当時はゴルフ場だったところです。米軍が接収する前は、屋外競技場は真駒内種畜場の採草地、屋内は放牧地でした(末注①)。前掲空中写真ではゴルフ場の気配が窺えますが、これは米軍撤収後に北海道が経営した「真駒内ゴルフ場」でしょう(注②)。1964(昭和39)年に廃止された後、道立真駒内公園となりました(末注③)。公園としての整備に着手されたのは1967(昭和42)年です。

 これまで述べてきたことを時系列で整理すると、次のようになります。
  昭和戦前期:真駒内種畜場
  戦後:米軍基地、ゴルフ場
  昭和30~40年代前半:道営団地、公園整備
  昭和40年代後半:オリンピック競技場建設 
 
  前置きだけで長くなってしまったので、冒頭の(1)~(3)の説明は後日にします。なかなか先に進まない。

 注①:『郷土史真駒内』1981年掲載図面による
 注②:遠藤明久「真駒内団地初期開発の経過」『住宅団地の開発-真駒内・大麻・北広島団地開発の記録-』1991年、pp.116-122、谷代久恵『真駒内物語』2002年、pp.123-124
 注③:「道立真駒内公園」となったのはオリンピック後の1975(昭和50)年(前掲『真駒内物語』p.124)。
 注④:同公園内に設置されている説明看板による。「明治百年記念森林公園」として着手された。
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2019/10/30

真駒内屋外、屋内競技場の軸線 ②

 真駒内屋外競技場の南西端から北東方向を望みます。
真駒内屋外競技場から屋内競技場 軸線
 トラックの長径を黄色ので示しました。長径は南西-北東の向きです。 

 10月25日26日ブログで記したように、1972年冬季オリンピックの会場の配置には軸線が見えます。屋外競技場トラックの長径が軸線上です。

 この軸線は、視覚的に意味があるのだろうか。と訝りながら、軸線の南西端から北東を眺めると… 
真駒内屋外競技場から屋内競技場を望む
 屋外競技場のセンターポールの先に、屋内競技場のてっぺんが覗き見えます。赤いを付けた先です。間に生えている真駒内公園の樹木はこの40-50年で伸びたでしょうから、五輪当時は屋内競技場は屋根も見えたかもしれません。

2019/10/29

東区伏古の煉瓦造腰折れ屋根建物

 「福吉カフェ」です。
東区伏古 福吉カフェ 腰折れ屋根 煉瓦 
 運営されているEさんにお会いしました。今年の5月からこの建物で店を始められたそうです。

 もともとは農家の納屋で、1987(昭和62)年に「キャプテンベーリング」という魚料理の店になり(末注)、その後2003(平成15)年から「ホットスパイス」というカレー屋さんで使われてきました。30年以上の長きにわたって再利用されてきたわけです。
 情報発信にも携わるEさんに札幌建築鑑賞会の活動をお伝えすることが目的だったのですが、逆にこの建物が気になって足を向けました。

 店の入り口です。
伏古 福吉カフェ シンボルツリー
 両脇の石でできた囲い(?)に樹が植わっています。安山岩ぽい。札幌硬石か。チェーンソーの痕が遺る札幌軟石もあります。Eさんの話では、「ホットスパイス」当時からあった由です。私が4年前に撮った画像にも写っています。キャプテンベーリング当時の写真を見たら、丸太が置かれていました。左側はカエデ、右側はカツラで、これはEさんが植えたものです。シンボルツリー。     
 妻壁に、店の看板が掛かっています。
伏古 福吉カフェ 妻壁 店の看板
 タマネギやプラウ(鋤)を牽く馬が描かれ、この建物を伝えているようです。

 ところで、札幌建築鑑賞会『さっぽろ再生建物案内』初版2000年、第2版2003年で本件建物を紹介したとき、「昭和初期の建築という」と記しました。建築年代の明確な裏付けを得られなかったので「という」という伝聞形に留めたのですが、再考したいと思います。

 注:北海道新聞連載「街角探見」1993年7月1日

2019/10/28

道立図書館に抱く既視感

 北海道立図書館(江別市)に行くつど、外観から既視感を抱いてきました。
北海道立図書館 全景
(画像は2018年7月撮影)

 特に、主棟?の分厚いコンクリートの屋根です。
道立図書館 主棟
(2018年2月撮影)

 ほかにも、煉瓦を貼った棟のフォルムとか、千鳥状の窓とか。
道立図書館 西側面
(2015年4月撮影)

 真駒内の屋外競技場のことで前川さんの図録を見ていて、既視感の由って来たるを想ってしまいました。
前川國男建築展 リーフレット

 あらためて道立図書館を眺むるに、低層階のセットバックも気になります。 
道立図書館 主棟 2
(2017年3月撮影)

 ホッケン研・札幌ノスタルジック散歩のYさんのご意見を伺いたいものです。

2019/10/27

夢よもう一度、か?

 スポーツの世界では、種目によって例外はありましょうが、オリンピックが総じてもっとも栄光ある舞台だと思います。それが日本特有なのか他の国々にも共通しているのか、私は疎くて知りません。少なくとも我が国の冬の競技では、他の国際大会よりも五輪の威力は大きいようです。各地を転戦するワールドカップの総合優勝と、“一発勝負”のオリンピックの金メダルで、どちらが世間の周知度が高いか。おそらく後者でしょう。
 アルペンやジャンプなどの屋外競技は天候などのコンディションに左右される度合いが大きいだろうから、選手の実力をより公平に測るという意味では、おカネはかかりますが回数を重ねた結果を重視すべきです。なのに五輪のほうが脚光を浴びるというのは非情だなと、素人の私には感じられます。運不運のドラマ性が観客に受けるのかもしれませんが。

 とまれ、かような思いもあって、私は冬季五輪そのものに冷ややかです。
真駒内 中央橋 札幌オリンピックの跡
 札幌は、その冬季五輪を招致するかどうか、いま懸案となっています。無責任を承知で言わせてもらうと、どうせなら冬季より夏季に手を挙げたほうがいいのではないかと私は想っていました。一都市ですべてではなく、分散開催を前提として競技種目を限ってとか。
真駒内屋内競技場 ギリシャ文字
 そう想っていたら、2020年東京のマラソンを札幌でという話が現実化してきました。招致のために飛び交う費用を想うと、これはタナぼたというのか。はたまた降ってわいた災難か。しかし東京での開催のために準備してきた人たちを想うと、切ない。新聞記事で読んだIOCのナントカいう責任者の会見は、スゴイですね。前売り券は払い戻す、(札幌で開催しても)券を買いたい人はほかに(たくさん)いるだろうから、と。この種のドタキャンで主催者側(末注)が発したセリフとしては、日本国内では近来なかなか聞けないような気がします。
真駒内公園 元管理事務所 窓
 札幌でマラソンをやるなら、真駒内公園ゴールってのはどうですかね。屋外競技場は、バックスタンドの芝生も入れるとマックスで5万人収容可能だったと最近、知りました。

 注:厳密には、五輪の開催は大会組織委員会が主体だが。

2019/10/26

真駒内屋外、屋内競技場の軸線

 昨日ブログの続きです。
空中写真2008年 真駒内屋外、屋内競技場 軸線
 真駒内屋外競技場(画像左下)と屋内競技場(画像右上)は南西-北東の軸線上に配されています。というか、真上から俯瞰すると、軸線がほの見えます。

 屋内競技場を北から眺めました。
真駒内屋内競技場 メインエントランス
 左方の階段(メインエントランス)が軸線上です。庇の上に旗立てが3本、立っています。かつては庇に五輪マークが付いていましたが、ネーミングライツが売られた頃から除かれました。
 メインエントランスは北東を向いています。鬼門から入る。

 ただし、冒頭空中写真に見るとおり、真北側に植栽された前庭があり、正面性を感じさせもします。
真駒内屋内競技場 前庭
 選手が入るのも、真北からが動線上都合がいいようです。軸線上のメインエントランスは、あくまでも観客用。
 競技場の配置計画、軸線の設定は、都市計画家・高山英華(当時東大教授)と聞きます。選手が真北から入る動線にしたのは、鬼門を避けたのか。センターポールは厄除け? いかん、陣内秀信先生にかぶれてしまった。まさかねえ。都市計画の第一人者が陰陽道とは、ありえなかろう。
 余談ながら、右方の突端ナナメカットの造形も気になります。屋内競技場の竣工は1970(昭和45)年です。

2019/10/25

真駒内公園の軸線

 臨場体験がないせいか、私は1972(昭和47)年の札幌オリンピックにあまり思い入れがありません。想い起せば、私が札幌に来たとき、五輪が終わって「まだ」6年しかたっていませんでした(末注①)。当時、内地出身者の、しかも冬のスポーツにはあまり通じていない交友関係が大きかったせいか、“余韻”も薄かったようです。
 むしろ、後付け的にはネガティブな印象を刷り込まれました。オリンピックを契機として“古き良き”札幌の風景が失われたとか、恵庭岳の自然を壊したとか、競技施設が“お荷物”(負の遺産)と化しているとか。それで、テーマ曲の♪町ができる 美しい町が♪という歌詞も、素直に受け止められなかったりもしました。透き通るような冷涼感というか、洗練された曲と詞は漂白効果が高い。しかし幼少時のインプリンティングとは恐ろしいもので、東京五輪音頭や大阪万博の「世界の国からこんにちは」が漂わせる前時代的(?)な空気のほうに、私は無邪気に愛着してしまいます。
 前述の否定的表層をすべて肯んずるわけではありません。ただし、札幌でオリンピックが催されたことの“負の効果”を挙げるとするならば(末注②)、おそらく本質は別にあると思いますが、機会をあらためます。

 真駒内屋外競技場です。
真駒内屋外競技場 正面
 ごく最近まで、前川國男の作品だとは知りませんでした。図録で目に入ってしても、見えてなかった。
 大規模修繕工事なのかシートが掛かっていますが、正面を掘り下げて(?)1階部分をピロティにしています。いわれてみれば、前川的か。

 南西から北東方向を眺めました。
真駒内屋外競技場 南西から北東方向を望む
 画像がナナメッているのではなく、地盤が右(南)から左(北)にかけて下り勾配なのです。右方がバックスタンドで、聖火台が見えます。

 空中写真2008年で、真駒内公園を俯瞰しました。
空中写真 真駒内公園 2008年 競技場 軸線
 赤いの楕円が屋外競技場、正円が屋内競技場(アイスアリーナ)です。間に流れる真駒内川に橋を架け、南西-北東の軸線を設定して配置されています。なぜ、軸線がこの向きなのか。

 注①:2018.2.10ブログ参照
 注②:負の効果などとあえてあげつらうのは、1972年札幌五輪を手放しで礼賛するかのような評価が一方であるからである。たとえば「都市環境の飛躍的向上という、北海道開拓100年目の総決算は、見事に高度経済成長期終盤のタイミングに間に合った」といった記述(林昌弘「デザインでたどる札幌オリンピック」ドーコン叢書編集委員会『エンジニアの新発見・再発見』2012年、p.41)。いうまでもなく私の主眼は、礼賛や肯定的評価を否定・批判することではない。同時に負の側面も着目してよかろうという、いつもの歴史観である。

2019/10/24

恵庭市島松沢 駅逓の記憶

 1873(明治6)年、「札幌本道」が開かれ、島松川の右岸に駅逓が置かれました。右岸の現在の地名は恵庭市島松沢です。
 左岸すなわち北広島市島松側の「旧島松駅逓所」の建物がどうしても目立ちますが、右岸の恵庭市側にも説明看板が立っていることに気づきました。うかつにも、島松の旧道を訪れること3度目にしてようやくです。ここに最初の駅逓が設けられたことが、しかと書かれています。 
 
 すぐそばに立つ小さめな郵便ポストです。
島松川右岸 郵便ポスト
 くだんの看板によると、1876(明治9)年、この地に「恵庭で初めての郵便局が設置され」たそうです。 

2019/10/23

中山久蔵はなぜ、島松で寒地稲作をなしえたのか。

 標題の疑問を抱くに至ったきっかけは、UHB「みんテレ」となりのレトロ島松編の収録のとき、担当ディレクターのOさんとのやりとりです。Oさんから「なぜ、島松だったのでしょうね?」と訊かれました。
 
 久蔵が島松に来る前に当初入ったのは、胆振国の勇払(苫小牧)です。北広島エコミュージアムセンター知新の駅での「中山久蔵翁没後100年展」を拝見するなどして知りました。そこは火山灰地で、稲作には向いていなかったと。彼は幕末、仙台藩士に随って白老に往き来していました(伊達藩は幕府から命じられた蝦夷地警備で白老に陣屋を置いた)。胆振には土地勘があったのかもしれません。稲作適地を求めて北上した結果が島松(川の右岸は、胆振国)だったのでしょうか。 

 色別標高図で、島松を広域で俯瞰します。
標高図 島松 広域 標高50m未満から50mごと7色
 標高50m未満から50mごと7色で造りました。赤いが島松沢です。
 支笏湖の東方は、4万年前のカルデラ大噴火による火砕流堆積のあと、恵庭岳や樽前山の噴火により火山灰が降り積もりました。千歳から苫小牧にかけては稲作には適していなかったとみられます。

 道央地域に住んでいて実感することの一つは、日本海側と太平洋側の気候風土の違いです。千歳市と苫小牧市の市界すなわち石狩管内と胆振管内の境界が分水嶺を分かっています(5月24日ブログ参照)。冬、札幌でドカ雪が積もっても、苫小牧は乾燥して晴れている。夏、札幌が30℃を超える真夏日でも、苫小牧は20℃そこそこで涼しい。夏あまり気温が上がらないのは、寒流(千島海流、親潮)のせい、というかおかげですかね。この冷涼気候も稲作には不向きだったのではないか、と私は想うのです。それで久蔵は札幌本道を北上した?

 分水嶺を越えて辿り着いた島松沢付近の色別標高図です(色分けは前掲図と同じ)。
標高図 島松周辺 標高50m未満から50mごと7色
 当時は石狩国と胆振国の国境でした。島松川が大きな谷を削っています。谷底平野で、水田を拓きやすかったようにも想えます。河川堆積物で、土壌も良かったか。先日「北海道開拓の村」で拝聴した「寒地稲作の祖・中山久蔵と赤毛」(北広島市エコミュージアムセンター古田学芸員)では『農業篤志中山久蔵事績』1894年を引いて、地形的な利点が紹介されていました。久蔵が水田を拓いた島松川左岸は北側に丘陵が屏立し、東南に向いているのが良かったそうです。たしかに、南斜面を作っています。

 …と、縷々記してきて、“自然決定論”めいた説明に自戒心が募ります。安易だな。地形図などを操ってそれらしく地誌を語って(騙って?)、判った気になってるのではないか。地形や地質で文化を読み解くと、“目からウロコ”感が弥増します。それだけに、私のようなシロートは陥穽にハマりがちです。

2019/10/22

石山 軟石建物

 栃木県宇都宮市の「大谷石研究会」のNさん、Mさんが札幌に来られました。本年6月に続く二回目の交流です。(6月23日ブログ参照)。札幌をご案内しました。異なる土地の方と歩いて、普段見慣れた街が新鮮に映ります。Nさんの友人で札幌にお住まいの方が、クルマで同行してくださいました。

 南区石山の札幌軟石を用いた住宅です。
南区石山 Yさん宅 
 画像は4年前に撮ったものですが、いまもほとんど変わってません。
 たまたま、このたび持ち主の方にお話を訊くことができました。建てられて「65年」とのことです。軟石の表面仕上げはツルメ。65年ということは、1954(昭和29)年の建築です。
 10月18日以来、日を置かずに軟石建物の建築年代別割合を更新できました(カッコ内は母数414棟に対する百分比)。「昭和戦後期」が1棟増、「不詳」が1棟減です(末注)。お住まいのご事情も少し伺いましたが、プライバシーを考慮して伏せます。
 明治期:17棟(4.1%) 
 大正期:29棟(7.0%)
 昭和戦前期:52棟(12.6%)
 昭和戦後期:104棟(25.1%)
 昭和後期-平成期:50棟(12.0%)
 不詳:162棟(39.1%)
 
 私は見過ごしたのですが、持ち主の方がいらっしゃるのにNさんのご友人が気づきました。情報を更新できたのは、お三方と一緒に街を歩いたたまものです。あなありがたや。

 注:「昭和戦後期」は昭和20-30年代、「昭和後期-平成期」は昭和40年代以降の建築と分別する。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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