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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/09/30

たとえばこれから北の大平原ですが、ところどころ小山が見えていますね。なにか変った点にお気がつきませんか?

 ピートモスを分けてもらいました。
ピートモス
 私はこれまで、園芸用の肥料くらいにしか思ってませんでした。

 正確にいうと、土壌改良剤ですね。ということを知ったのはつい最近です。しかも、これが泥炭を原料としていることも。泥炭を乾燥させたものですが、もともとの泥炭の密度は1㎤当たり1.0~1.05gで、水の密度とほとんど同じだそうです(末注①)。「土全体の体積に対して空隙の占める割合」(末注②)は90~95%。ここでいう空隙とは水と空気を指します。ずぶずぶですね。「乾燥させた」と記しましたが、ピートモスをジップロックに密閉させたら、水滴が付きます。
 札幌の北西部から南東部にかけて広がる泥炭地は、排水や客土を重ねて人びとのくらしやなりわいを可能にしました。いわば厄介者だったわけですが、その泥炭が保湿性という長所を生かして園芸に役立っている。改良されるべき客体としての土壌が、土壌を改良する主体に転化した。

 私はこれまで拙ブログも含めて、わかったようなふりをして札幌の土地の成り立ちを語ってきました。泥炭もその一つです。しかし、泥炭地は私自身の原風景にはありません。正直言って、泥炭の実物(を乾燥させたピートモス)をしげしげ鑑みるのも、生まれて初めてです。こういう実物を見るにつけて、北海道は異国だなあとあらためて思います(ここでいう異国は隠喩ですと念のため断らなければならないのは面倒くさいが、措く)。
 私が連想するのはコナン・ドイルの『バスカヴィル家の犬』です。この小説の舞台となった英国のデヴォンシャー地方というのは、泥炭地ではなかろうか。ホームズ物の短編『白銀号事件』は、同じ地方のダートムアを舞台としています。地名としての綴りはDartmoorですが、私はdirt(泥)moor(湿地)だと一人合点していました。中学のときに読んだエミリー・ブロンテの『嵐が丘』も、今から思うと泥炭地か。荒涼たる原野に心惹かれたものです。私が北海道・札幌に吹き寄せられていったのはかような追体験によるのかもしれません。

 『バスカヴィル家の犬』では、登場人物の一人が沼地に通じています。ひとくちに沼地といっても、人が歩けるところとずぶずぶ沈んでしまうところがあるのです。知らずに後者に足を踏み入れると、命にかかわります。物語の舞台効果を高めるこのずぶずぶは、いわゆる「ヤチマナコ」ではなかろうか。この臨場感は、札幌に来てあらためて抱きました。
 ホームズ物を文化地質学的に読み解くのも、シャーロキアンの新たな醍醐味でしょう。いや、もう誰かがやっているか。

注①:『さっぽろ文庫77 地形と地質』1996年、p.222
注②:同上。
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2019/09/29

平岸イーストセンターに見る反転風景

 昨日ブログでお伝えした「東裏本通」を現在図で確認します。
現在図 平岸 東裏本通 イーストセンタービル
 現在のいわば正式名称である市道豊平平岸霊園線を赤い実線でなぞりました。黄色でなぞったのは平岸通、いわゆる平岸街道です。「表通り」である平岸街道に対して、東側の裏ということで東裏と呼び慣わされたのでしょう。

  昨日ブログに載せた「イーストセンタービル」は赤いを付けたところです。

 1948(昭和23)年撮影の空中写真で俯瞰します。
空中写真 1948年米軍 東裏
 イーストセンタービルの位置は赤いで囲ったあたりです。

 その部分を拡大します。
空中写真 1948年米軍 東裏 Sさん宅
 ここに明治期、Sさんが入植し水田稲作を成功させました。昨日ブログの末尾に東裏本通の「痕跡感が弥増しました」と記したのは、東裏の中心地を跡づけたからです。

 ところで、上掲空中写真をよく見ると、赤いで囲ったSさんのお屋敷の一部が黒っぽく写っています。通りに面したところです。これは池ではないでしょうか。
 池らしき形状は、昭和10年地形図でも窺えます。
 ↓
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=43.033295&lng=141.376983&zoom=17&dataset=sapporo&age=1&screen=2&scr1tile=k_cj4&scr2tile=k_cj4&scr3tile=k_cj4&scr4tile=k_cj4&mapOpacity=10&overGSItile=no&altitudeOpacity=2(今昔マップon the webから)
 この場所が前述のとおり高層ビル(商業施設も併設)になっているのも、いわば反転された土地の記憶といえましょう。一見新しく見える風景が往々にして、歴史を裏返して伝えている。

 この池のようなところは自然地形なのでしょうか。湧泉池? とすれば、扇状地の端のメムか。
 色別標高図で地形を俯瞰します。
色別標高図 平岸 東裏 標高35m未満から2mごと10色 
 標高35m未満から2mごと10色段彩で作成しました。白ヌキ実線が東裏本通(市道豊平平岸霊園線)、白ヌキ○がSさん宅の池があったところ、すなわち現在のイーストセンタービルの位置です。黒の実線は平岸街道。

 当該地は札幌扇状地の平岸面ですが、扇端とはいいがたい。一方、平岸面の東側のへりは、月寒台地の西端との間に崖を作っています。この崖下には湧泉が見られる(見られた)のですが、当該地は崖線上ともいいがたい。では、ほかに考えられるのは…。

2019/09/28

東裏本通

 豊平区民センター主催の「豊平街歩き講座」に参加させてもらいました。案内は平岸の達人・伴野卓磨さんです。内容は「道新りんご新聞」フェイスブックにレポートされていますので、ご参照ください。
 ↓
https://www.facebook.com/doshin.apple.news/posts/1748072821992257

 テーマ、視点がはっきりしていたことと、見て歩く各ポイントの関係性がわかりやすく伝わってきたのが印象的でした。行程上で目に入るモノ・コト(ヒト)は、必ずしも結びつきがあるとは限りません。その繋がり具合を解き明かすのは、私がそれを得手にしているわけではないのですが、街歩きの醍醐味といえましょう。今回は達人の案内で、一つの物語を読み終えたような気分になりました。

 歩いたのは、豊平区平岸のおもに「東裏」と呼ばれる(呼ばれていた)地域です。東裏のことは拙ブログでも逍遥したことがあり(末注)、個人的にも理解を深められたというか、妄想を拡げることができました。
 東裏本通です。
平岸4条11丁目 東裏本通り
 といっても、この通り名も東裏という地名も公的には残っていないと思います。通りの市道名は「豊平平岸霊園線」です。 

 町内会館に「本通り」の面影が感じられます。
平岸四区会館
 「平岸四区会館」。「平岸四区」もまた、行政地名ではありません。

 会館もさることながら、その向かいに建つ高層ビルに私は東裏の痕跡を嗅ぎ取っています。
平岸5条8丁目 イーストセンタービル
 建物の名前は「イーストセンタービル」です。
イーストセンタービル 銘鈑
 「イーストセンター」。名前が東裏本通を彷彿させませんか。

 このビル名を私が知ったのは2016年ですが、このたび歩いて痕跡感が弥増しました。 

 注:2016.3.23.3ブログ参照

2019/09/27

愛知県南西部の海岸線

 昨日ブログで伊勢湾台風のことにちなみ、亡父が生まれ育った愛知県の蟹江町について記しました。「海抜ゼロメートル地帯」とよく聞かされたものです。

 そのあたりを古地図で見てみます。
尾張国図 海東郡
 「尾張国図」(復刻版)です。江戸時代末期といわれています。真ん中らへんに赤いを付けました。
 その部分を拡大します。
尾張国図 海東郡 源氏嶋
 「源氏嶋」と書かれています。木曽川支流のデルタ地帯の、文字どおり島です。

 現在図に照らします。
現在図 愛知県蟹江町
 赤いを付けたところを拡大します。
現在図 愛知県蟹江町源氏
 「源氏」とあります。現在の愛知県海部郡蟹江町の字名です。たぶん、かつての「源氏嶋」が字名「源氏」に引き継がれているのでしょう。この地名は源平合戦に由来するらしいのですが、措きます。
 
 前掲古地図の「源氏嶋」からすると、現在の「源氏」のあたりが往古、三角州の突端だったのかもしれません。古地図にもすでに、海岸に沿って「新田」とか「シン田」と多く見られるとおり、その後も干拓によって海辺が後退していったことでしょう。
 亡父の生家は赤いを付けたところですが、もともとはこの「源氏(嶋)」から移ってきました。本年5月15日ブログに記した造り酒屋当時の「源正」という屋号は、この字名にちなむようです。ということを十数年前に亡伯父から聞いたのですが、源氏(嶋)から移ったのがいつごろか、記憶がさだかではありません。伯父の口ぶりからすると、たぶん明治の古い時期だと思います。少なくとも江戸時代末期はまだ海だったようだし、干拓とともに移ったのかもしれません。
 とまれ古地図を見ると、海退しても高潮で水をかぶるのはむべなり、です。

2019/09/26

60年前の今日

 1959(昭和34)年9月26日、愛知県や三重県などで死者5,000名を超える大水害が起きました。伊勢湾台風です。その5年前の同日、北海道では青函連絡船が沈む大海難事故が、岩内では大火が起きました。洞爺丸台風です。昭和史に名を残す二つの台風が災厄をもたらしたのは、どちらも9月26日でした。迂闊にも、私がこれを知ったのは最近です。

 私の郷里を襲った伊勢湾台風は、子供のころ人びとの口の端に上っていました。亡父が育った生家も水に浸かったので、生々しかったのです。
 父の生家のあたりを空中写真で俯瞰します。
空中写真 愛知県蟹江町 現在
 赤いを付けました。白ヌキが名古屋城、同じくがJR名古屋駅です。

 亡父が生まれ育った愛知県海部(あま)郡蟹江町(本年5月15日ブログ参照)は、木曽川が作る沖積平野のデルタ地帯に当たります。現在の海岸線から見ると、直線距離にして約7㎞ほど内陸に位置しますが、60年前の台風では高潮が押し寄せました。赤いを付けた西側を日光川という木曽川の支流が流れており、付近はさらに小河川が網流しています。おそらくそれらを俎上したのでしょう。現在の空中写真で見ても河口が広く、どこが海岸線と言ってよいか私には判別しがたいのですが、当時は海がもっと内陸に迫っていたとも思います。伊勢湾台風をきっかけに、防潮堤なども整備されたことでしょう。

 色別標高図です。
色別標高図 愛知県蟹江町周辺 0m未満から1mごと7色
 標高0m未満から1mごと7色段彩で作りました。水色で塗られている一帯は、標高0m未満です。
 赤いを付けた亡父生家の位置の標高を測ったら、-0.9mでした。すぐ東側を流れる蟹江川というこれまた木曽川の支流は、水面の標高が1m。川の水面より地盤面が低い。天井川状態です。

 この標高図を見て、濃尾平野というのはかなり内陸まで標高が低いことを実感しました。直線距離で海岸線から20㎞以上離れた岐阜県の海津市というところでも、標高がマイナス、海水面以下です(市の名前が、いかにも地形を物語っている)。
 私が今住んでいる札幌市厚別区は、もっとも近い石狩湾の海岸まで直線距離で23㎞余りですが、標高は25mあります。海までずっと下り勾配の‘石狩低地帯’ですが、濃尾平野ほど低くはない。札幌の中心部の扇状地も低平に見えますが、豊平川が全国に名だたる急流河川であるとおり、かなりの高低差があります。私の原体験からすると、札幌は“坂の街”です。

2019/09/25

小樽の「なえぼ」

 小樽の「長橋なえぼ公園」です。
小樽 長橋なえぼ公園 看板
 手稲郷土史研究会主催のバスツアーで訪ねました(9月21日ブログ参照)。

 私はこの行事に参加するまで、ここの「なえぼ」が「苗圃」を呼び慣わしたものだとは知りませんでした。アイヌ語のナイ(川)ポ(「小さい」の接尾辞)に由来する札幌の「苗穂」(2014.12.23ブログ参照)とも、はっきりと区別できていなかったのです。長橋の苗圃(びょうほ)は、明治時代、旧北海道庁によって作られたと聞きました。当時の『小樽新聞』の記事で「なへぼ」とルビが振られたことにより、その読み方が定着してしまったそうです(末注①)。

 「以来七十五年間、お役人たちがいくらビョウホ、ナエハタと呼ばせようとしても小樽市民は、先祖代代ナエボという呼び方をついに改めなかった。そのうち、お役人の中にさえ、どっちがどっちだかわからなくなってしまった人もいたと見えて、苗圃を苗穂と誤記した古い図面が残っていたりするのは愉快である。明治十三年に札幌の苗穂に監獄ができて以来“苗穂送り”などという俗語がはやったことなども多少影響したのかもしれない」。(末注②)
 
 1997(平成9)年に小樽市の公園になってから、「なえぼ」と平仮名になったのでしょう。
小樽 長橋なえぼ公園 看板2
 黄色の矢印を付けた先に注目しました。

 「中央バス苗圃通り」と、漢字で書かれています。
小樽 長橋なえぼ公園 看板2 「中央バス苗圃通り」
 同行の札幌建築鑑賞会スタッフSさんから、「苗圃通」というバス停があると聞きました。小樽では苗圃がやはり「なえぼ」である証拠ですね。
 苗圃を「なえぼ」と読むのは‘湯桶読み’ですが、「田んぼ」という呼び方に「田ん圃」と当てる表記を見たことがあります。いま「たんぼ」と入力して変換したら、実際に「田圃」と出ました(末注③)。苗圃の「なえぼ」は苗穂もさることながら、「田圃」の「たんぼ」に引きずられた可能性もあります。

 ツアーに参加されていた別の方に「札幌の苗穂も、ビョウホだったんですか?」と訊かれ、私はしたり顔で「いえ、苗穂のほうはアイヌ語由来です」と答えました。かくいう私もわりと最近まで、苗畑に関係するのかなと思っていた口なのですが。Sさんによると、苗穂の語源として過去に苗圃説があったそうです(末注④)。
 前掲引用書の著者は林野庁の方で、苗圃について「私たち林業内部の人間はナエボとは呼ばない。昔は苗圃(ビョウホ)であり、戦後は少しやさしく苗畑(ナエハタ)というのが正式な呼び方である。一般の人たちも小樽以外では、ちゃんとビョウホ、ナエハタと呼んでくれている」(末注⑤)と記しています。「昔は苗圃(ビョウホ)」とのことですが、札幌市有林などではたしか今もビョウホが使われているようです。前掲引用では、小樽では苗圃が「なえぼ」と呼び慣わされることによって「苗穂」と誤記されることもあったらしいのですが、私はここで想像を膨らませました。札幌の苗穂=苗圃説は、小樽の苗圃=なえぼが‘逆輸入’されたのではないでしょうか。

 後志管内のとある町内、JR函館本線の踏切です。
JR函館本線 苗圃踏切
 「苗圃踏切」(画像は2016年9月撮影)。これは何と呼ばれているのかな。たぶん「びょうほ」だろうなあ。

 注①:渡辺惇『小樽苗圃じまんばなし集 なえぼ物語』1977年、pp.1-2
 注②:同上p.2
 注③:手元の漢和辞典(学研『新版 漢字源』1999年)によると、「田」は音で「デン」、訓で「た」。「田圃」の読みは「デンポ」(p.893)。「たんぼ」の「田圃」も、湯桶読みということになろう。余談ながら訓の「た」は、弥生時代に稲作とともに大陸からきたであろう「デン」が訛ったのではないだろうか。ちなみに、私のパソコンで「でんぽ」と打って変換しても「田圃」は出てこない。
 注④:札幌鉄道局編『北海道駅名の起源』1947年の「苗穂駅」の項に「明治の初年、開拓使が有用樹の植林に著眼し、此の地に苗の栽培を試み之を苗圃と称したが、明治四十年村名を定むるに当って『苗穂』としたものである」。
 注⑤:前掲『小樽苗圃じまんばなし集 なえぼ物語』p.1

2019/09/24

クラーク博士“Boys, be ambitious!”はどこで発せられたか?

 9月13日ブログの続きです。
 クラーク先生が発した“Boys, be ambitious!”のあとに続く‘like this old man’は、寒地稲作の功労者、中山久蔵を指すという説を聞きました。聞いた場所は、ほかならぬ久蔵翁が駅逓を営んだ島松の地です。史跡「旧島松駅逓所」の解説ガイドさんが語ってくださいました。ガイドさん曰く「これは私たちがそう言っているのではなくて、道庁赤れんが庁舎に飾ってある絵に描かれているのです」と。それで、9月13日ブログで、くだんの絵を紹介したしだいです。

 私は同日ブログを「私が言いたいのはかような次元を超えたところにあります」と結びました。「かような次元」とは、「‘this old man’=中山久蔵」説に対する疑義です。なぜ、その次元を超えてしまったか。まずは、そもそもクラーク先生の馬上別離の訓言自体が神話性を帯びているからです。ただし、私はそれを過去形でしか知りません。北大構内の胸像しかり、羊ケ丘展望台(2017.4.15ブログ参照)の全身像しかり、島松の地のモニュメント(9月5日ブログ参照)しかり、それらが出来上がった(=神話化に貢献した)のは昔のことです(末注)。
 しかるに今般のガイドさんの話には、神話が作られていく現在進行形を私は感じ取りました。ここで神話というのは、「‘this this old man’=中山久蔵」説を虚偽だとする意味ではありません。神話とは、ガイドさんの話が道庁赤れんが庁舎に架かっている絵=二次情報に基づいていることの隠喩です。もとより、だからケシカランということでもありません。私が伝えたかったのは、物語が紡がれていく過程を目の当たりにできたことへの、いわば感動です。

 北広島市のカントリーサインにも、クラーク博士とおぼしき人物像が描かれ、“Boys Be AMBITIOUS”と書かれています。
北広島市 カントリーサイン 厚別区青葉町所在
 うしろの信号機柱に付いている町名板に「青葉町16」と書かれているとおり、札幌市厚別区青葉町の国道274号で確認しました。札幌市を示す標識と北広島市を示す標識が同じ場所に立っていて、これはこれで私には「いいモノを見た」感が催されるのですが、それは措きます。クラークの絵柄が、訓言を発したという馬上ではなく羊ヶ丘展望台の立像をモチーフにしているところにもキッチュ感が伝わってきますが、それも措きます。
 私は最近、クラーク先生が“Boys, be ambitious!”の訓言を発したのは現在の北広島市ではないとする説を知りました。林嘉男『ふたつの駅逓』2007年です。サブタイトルに「クラーク博士は恵庭で叫んだ」とあります。クラークが1877(明治10)年に学生らと別れたのは、島松川の右岸、現在の恵庭市島松沢にあった駅逓だというのです。私はこれまで、左岸すなわち北広島市の「旧島松駅逓所」建物(8月25日ブログ参照)とその傍らの「青年よ大志を懐け」モニュメントに刷り込まれて、北広島市と信じて疑いませんでした。そうではないという。これだから、神話は面白い。

 注:近年、札幌の時計台(旧札幌農学校演武場)にもクラーク座像が置かれた(2017.10.15ブログ参照)。これは私もリアルタイムで体験できた。

2019/09/23

札幌から信州を経由して、再び札幌で実を結ぶ

 本日のuhb(8ch)「みんテレ」となりのレトロでお伝えした環状通のリンゴ並木(豊平区美園)です。
環状通 リンゴ並木 結実2019
 画像は9月12日に撮りました。
 並木が植えられた経緯については、2016.3.163.17ブログでも綴っていますのでご参照ください。 
 昭和20年代、長野県飯田市の中学校の校長先生が札幌で見た並木というのは、札幌駅前通や北1条・宮の沢通やでなかったかと私は想像します。「道路に植えてあるニレやアカシアの街路樹が、町を愛する市民の協力によって、立派に守り育てられている」(「リンゴのなみ木」山本有三『心に太陽を持て』所収)。当時の「町を愛する市民の協力」の史実を、私は寡聞にして知りません(末注)。神話化されたのだろうか。ただし、近年の「札幌ハルニレプロジェクト」(2018.3.21ブログ参照)は、その精神を体現していると思います。
 
 環状通のリンゴは先週、「美園りんご会」で収穫作業をしたそうです。ちょうど今日、「美園りんごまつり」が催され、摘まれたリンゴが配られたと聞きました。同会では先年、リンゴの苗木を環状通に寄贈したそうです。
 9月下旬というのは大型の台風の到来期です。1954(昭和29)年洞爺丸台風がそうであったように、日本海から北海道西南部を襲う進路が目立ちます。ちょうど果樹の結実の時節です。コースの東側は風台風となり、果樹生産地での落果が心配されます。
 
 注:村野紀雄『札幌の並木』1982年、『札幌文庫38 札幌の樹々』1986年を読む限り、それらしいことは書かれていない。有識者の先見の明はあったと思うが。

2019/09/22

西岡水源池

 札幌建築鑑賞会「古き建物を描く会」第67回を催しました。今回の写生地は西岡公園です。6名が参加しました。

 この公園は、西岡水源池という名前のほうが馴染み深い方も多いでしょう。
西岡水源池 給水塔遠望
 水源池としての役目は終えて久しいのですが、最寄りのバス停も「西岡公園」ではなく「西岡水源池」です。「水源池通」もよく知られています。
 
 スケッチに先立ち、西岡水源池に詳しい会員Sさんが歴史を語ってくれました。
西岡公園 紙芝居 190922
 手作りの紙芝居です。とてもわかりやすいお話でした。

 水源池に遺る旧給水塔です。
西岡水源池 給水塔 近景
 1909(明治42)年に造られました。文字どおり“絵になる風景”のワンポイントアクセントです。

 水源池に関して私は表面的な知識しか持ち合わせていませんでした。月寒の陸軍に水を供給するための上水道として整備されたこと、ここで月寒川を堰き止めて水量を確保したこと、札幌と近郊(西岡は当時、豊平町)ではもっとも古い上水道だったこと、という程度です。上水道がなぜ、必要だったのか。どのように月寒まで通じていたのか。給水塔がどのように機能していたのか。Sさんの紙芝居で、このたび具体的に理解できました。

 ビジターセンターの役割を果たしている公園管理事務所で作品のお披露目です。
描く会 西岡水源池 作品お披露目
 公園職員の方にもご覧いただき、喜んでもらえました。

 少し話を飛躍させます。
 西岡水源池は、当時最先端の実用的な土木施設、しかも軍事目的のそれでした。いまや市民の憩いの場として“平和利用”されています。日本の近代史において、技術向上の主要な源泉には軍国主義がありました。幕末、函館の五稜郭(本年8月27日ブログ参照)で上水道が先駆けられたことも、初期事例といえましょう。その五稜郭もまた、かけがえのない行楽施設です。
 池のほとりを歩いていると、何か小さな固いモノがポンと音を立てて飛んできました。どんぐりです。散策路にたくさん落ちてました。

 uhb(8ch)「みんテレ」(15:50-)となりのレトロ、こんどの放送は9月23日(月・祝)です。
 ↓
 https://uhb.jp/program/mintele/
 収穫間近の環状通のリンゴをお伝えします。

2019/09/21

かわらぬものは古代文字

手稲郷土史研究会主催のバスツアーに参加し、小樽、余市に游んできました。
余市 シリパ岬 バス車窓から遠望
 バス車窓から遠望する余市のシリパ岬です。さわやかな秋晴れに恵まれ、海の青さ、空の青さが心地よく目に沁みました。

 余市で訪ねたのがフゴッペ洞窟です。
余市 フゴッペ洞窟
 上屋が掛かっている岩肌に、続縄文時代の刻画が遺されています。

 私はこの洞窟は未見でした。
フゴッペ洞窟 看板
 蘭島の海水浴場には昔行ったことがあり、また手宮洞窟のほうは近年何度か足を運びましたが、フゴッペ洞窟は初めてです。
 続縄文の洞窟刻画遺跡は国内でフゴッペと手宮の2箇所だけ(余市町発行のリーフレット)というのは、心をそそります。いや、続縄文は北海道だけなので、日本におけるこの時期の、というべきか。内地の弥生文化は竪穴住居が主だろうから、洞窟壁画はないか。

 すぐそばをJR函館本線が通っています。
函館本線 古代文字踏切
 「古代文字踏切」銘を確認できました。刻画の文字説が否定されていても、やっぱりここは「古代文字」でなくっちゃ。
 
 同行の札幌建築鑑賞会スタッフSさんに写真を撮ってもらいました。
函館本線 古代文字踏切-2
 「嬉しそうに写ってる」とSさんに呆れられつつ、大満足な私です。

 子どもの頃に流行った「小樽のひとよ」という歌の一節を思い出します。
 ♪二人で歩いた塩谷の浜辺 偲べば懐かし古代の文字よ♪
 今を去る四十年前の夏、蘭島の海岸を女の子と歩いて、満天の星空に感激しました。これはほろ苦い思い出です。
 鶴岡雅義の名曲の題には「小樽」と付きますが、ここでいう「古代の文字」は手宮ではなく、余市のフゴッペではなかろうか。ひとえに蘭島での個人的な体験を根拠に、歌われている「塩谷の浜辺」の雰囲気は、市町界をまたいでもフゴッペに結び付けたい。
 この歌が世に出たとき、手宮もフゴッペも「古代文字」説はもう有力ではなかったと思うのですが、「古代の岩絵」よりは「文字」なんだろうな。踏切銘で今もって健在のことだし。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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