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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/08/31

函館の汐止

 uhbみんテレ「となりのレトロ」函館特別編、五稜郭のこぼれ話を綴っているうちに、二回目の放送が明後日に近づきました。

https://uhb.jp/program/mintele/
 9月2日(月)予定です。西部地区をお伝えします。テレビ局サイトの番宣動画を見ると「元町エリア」とありますが、元町というのは函館山麓の一町名です。今回歩いたのは元町以外の町も含みます。ひっくるめると「西部地区」です。この括り方は、函館市民以外には(市民も?)あまり馴染みがないのかもしれません。

 その西部地区の町名です。
函館 末広町 十字街付近から北望
 市電の「十字街」停留場付近から北西、函館湾のほうを望みました。画像ではわかりづらいのですが、道路の突き当りに赤煉瓦の倉庫が顔を覗かせています。町名は「末広町」です。

 色別標高図で前掲画像の位置を示します。
色別標高図 標高1m未満から1mごと10色段彩 函館 十字街
 中央の白ヌキを付けたところです。

 冒頭画像を撮った理由は、拙ブログの嗜癖を見抜かれている方にはお察しかもしれません。
 手前左方の修景色?に塗られた電柱です。
函館 末広町 電柱 汐止幹
 「汐止幹」。これは古い地名とみました。たぶん、かつてはこのあたりが海岸線だったのではないかと想像します。

 「北海道三角測量 明治八年 箱館」という古地図です(函館中央図書館蔵)。
北海道三角測量 明治8年 箱館

 現在の十字街あたりを拡大します。
北海道三角測量 明治8年 箱館 現十字街あたり
 現在の電車道及び国道に当たると思われる道を黄色の実線でなぞりました。赤い凸凹が函館湾側の海岸線です。前掲色別標高図と較べると、今よりも陸側のように見えます。「汐止」は、函館湾が陸地へもっとも入り込んだところ、白ヌキ△を付けたあたりでしょうか。その近くで黄色でなぞった道に「橋」の記号が書かれています。
 余談ながら、この橋が架かる水路を水色でなぞりました。函館湾のもっとも奥まったところに注ぎ、上流を遡ると亀田川に行き着きます。これは人工的に開鑿された水路のようです。函館平野(すなわち函館山の陸繋砂州)の飲料等を確保したのかもしれません。函館山麓は水には苦労したと田原さん(昨日までのブログ参照)もおっしゃっていました。容易に想像できることですが、砂州は井戸を掘っても海水だったらしい。

 箱館戦争図1869(明治2)年です(市立函館博物館蔵)。
箱館戦争図 明治2年
 デフォルメされていますが、当時の函館湾の様子が窺えます。

 地図に合わせるべく上下をひっくり返して、南から北を見ました。函館湾の奥まったあたりを拡大しています。
箱館戦争図 明治2年 汐止あたり?
 赤い線で海岸線をなぞり、「汐止」とおぼしきあたりに白ヌキ△を付けました。当時すでに人工的に築堤されて船入澗が造られていたようです。
 黄色の矢印を付けた先に橋が架かっています。その橋が架かる水路を水色でなぞりました。私にはこの橋が前掲明治8年地図に書かれた橋記号と重なって見えるのですが、どうでしょうか。
 とまれ冒頭画像の電柱は、このあたりまで汐が迫っていたことを今に伝えているようです。
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2019/08/30

五稜郭の配置

 気になっていたのが、星型の配置というか、“向き”です。
色別標高図 五稜郭 10m未満から1m毎10色 星型の配置
 稜堡すなわち星の角が、真北に対してナナメを向いています(元図は色別標高図、標高10m未満から1mごと10色段彩で作成)。
 真北を真上にする地図で見ると、何となく落ち着きません。星といえば、真上に一つ角が出て、底辺に二つ角を下すの配置が見慣れています。五稜郭の築造に至る設計図面などを見ても、この配置で描かれているものが多く見受けられます。

 実際の完成形では、一箇所だけ設けられた半月堡塁(稜堡と稜堡の間に飛び出ている三角形の堡塁)が南西を向いていることからして、ここがメインエントランス(日本の在来的城郭でいえば大手門)のようです。現に、ここに橋が架かっています。この半月堡塁に正対する稜堡との間で結んだ線は、南西-北東の向きです(前掲図の白ヌキ実線)。

 南西-北東という向きが気になりつつ、この線を広域に延ばしてみます。
色別標高図 五稜郭 10m未満から10m毎10色 星型の向き
 赤い実線になります(元図は色別標高図、標高10m未満から10mごと10色段彩で作成)。

 等高線に対して直交しているかに見える。北東部の山陵と函館山を結んでいるのかなとも想いました。ちょうど松風町から五稜郭公園前までの電車道ともほぼ重なります。途上の千代台(千代岱)には津軽藩の陣屋も置かれていたし、基軸線とみても自然な気配です。星型はこれに合わせたのかな。
 一方、戸祭由美夫『絵図に見る幕末の北辺防備』2018年は、次のように述べています(引用太字、pp.27-28)。
 内郭たる五稜郭が計画段階では全方位防御を目指していたのに、最終的には南南西の正面出入り口のみに半月堡が築かれ、(中略) 函館湾方面からの防御を重視して建設されたと考えるべきだろう。

 uhb「みんテレ」となりのレトロ函館編8月26日放送にご登場いただいた田原良信さんにお尋ねしたら、先生あっさり答えて曰く「これは鬼門-裏鬼門です」と。実は「南西-北東という向きが気になりつつ」と前述したのは、私にも「もしかしたら風水か」という潜在意識があったからです。直接お目にかかって肉声でお聞きしたことにより、ますます影響されました。それにしても、西洋的様式と見せかけて陰陽思想とは(末注①)。文明開化、和魂洋才の萌芽?
 田原さんの鬼門説は、放送で「五稜郭はそもそも、防御を想定した“城”ではなかった」とおっしゃられたことの延長というか土台といえるかもしれません。私も、軍事的実際上の防御というよりは、精神的な“ファサード”を南西に向けたのではないかと想いました。ただし、戸祭先生との折衷説といったらおこがましいのですが、その正面性は函館山すなわち開港場への軸線を意識した。
 
 まったく突拍子もない連想で、「札幌にあった“五稜郭”はどうだったのだろう?」と疑問が湧き出でました。
 札幌にあった“五稜郭”というのは、こちらです。
キャンプクロフォード 師団司令部 模型
 キャンプクロフォードの師団司令部(画像は陸上自衛隊真駒内駐屯地史料館に展示されている模型)。DHQ(Division Head Quarters)です。「米本国の国防総省のペンタゴンの縮小版」(末注②)として、1947(昭和22)年に建てられました。現存していません。

 古い空中写真を観ます。
空中写真 1961年 自衛隊真駒内 旧キャンプクロフォード師団司令部
 1961(昭和36)年撮影です。米軍はすでに移転していますが、DHQの建物は遺っています(赤矢印の先)。

 拡大します。
空中写真 1961年 自衛隊真駒内 旧キャンプクロフォード師団司令部 拡大
 念のため申し添えますが、真上が真北です。函館の五稜郭と同じ向きか。いや、北側の前庭に面している辺が正面であろうから、この五角形はやや西に振られた北を向いているとみるべきでしょう。

 しからば、本家本元はどうか。バージニア州ラングレー。
 グーグルで観てみました。
 ↓
https://www.google.com/maps/@38.8714375,-77.0561039,1274m/data=!3m1!1e3?hl=ja
 これまた、函館と同じ配置ではないかと錯覚してしまいました。米国にも陰陽道が浸透しているのか。いや、正面玄関は南東向きのようです。余談ながら、アメリカ帝国主義の牙城に、ケンタッキーやサブウェイ、スターバックスが入っていることを初めて知りました。
 「突拍子もない」と前述しましたが、彼我の現代的五稜郭を引き合いに出したのは、どちらも象徴的な意味合いでこのカタチのプランにしたのだろうと思ったからです。どちらも、真北に対してナナメだということはわかりました。

 注①:田原さんによると、五稜郭の北東(鬼門)には東照宮も祀られた(これは戸祭氏も言及している)。箱館戦争時、旧幕府軍はこのさらに北東に「四稜郭」を急造した。これは東照宮を守るためであったといわれる。田原『五稜郭』2008年、pp.175-176
 注②:廣田基彦『開拓使・道庁営繕80年の覚書き』1997年、pp.217-218

2019/08/29

五稜郭一帯の地形 ②

 昨日ブログの末尾を「実際、このあたりは五稜郭の築造時、低湿地だったようです」と結びました。もとより、田原良信さん(元市立函館博物館館長)のご教示によります。

 8月27日ブログに載せた古絵図(「箱館亀田 一円切絵図」1862年、函館中央図書館蔵、部分)です。
箱館亀田一円切絵図 部分 谷地
 判読は難しいと思いますが、赤い○で囲ったところに、下から上へさかさまに「谷地」と書かれています。同日ブログでお伝えした五稜郭外郭の痕跡たるアカマツの並木が遺るあたりの町名は「柳町」です。低湿地の植生たるヤナギが茂っていたことに因みます。
 
 これも同日ブログに載せた現在の空中写真(2011年)です。
空中写真2011年 函館 五稜郭周辺 谷地の名残
 赤い実線でなぞった外郭痕跡の南東角に市立函館高校が位置しています。
 
 この学校の北側が、前掲古絵図に書かれた「谷地」です。学校と住宅地との境目は湾曲しており、古絵図に描かれた谷地の地形と重なります。この弯曲に沿って、今も水路が通じているようです。さらに北側の住宅街にも、河跡とおぼしきいびつな道が窺えます。黄色の実線でなぞったところです。
 五稜郭(星型の内郭)の南側には現在、道立函館美術館があります。橙色の○で囲ったところです。田原さんから、この美術館を建てるとき、地盤が軟弱だったためパイルを地下100mくらいまで打ち込んだとお聞きしました。建築物の基礎構造にはまったく疎いのですが、いくらなんでも地下100mというのはにわかには信じがたく、私の聞き間違いかもしれません。とはいえ、このあたりが低湿地であったことを物語る伝説とはいえます。

 1948(昭和23)年の五稜郭周辺を写した空中写真です(米軍撮影、国土地理院サイトから)
空中写真 1948年米軍 函館 五稜郭周辺
 外郭の南側の微高地には家屋が密集しているのに比べ、外郭の内側はまばらです。星型内郭の東側(谷地)には河道らしき線も見えます。現在の道立函館美術館のところは函館商業学校がありました。南東角の現市立函館高校といい、函館商業→道立美術館といい、公共的施設のまとまった土地はかような場所で確保しやすかったのでしょう。一定の法則性があるようです(2019.3.6ブログ参照)。

2019/08/28

五稜郭一帯の地形

 函館市五稜郭町、「行啓通」です。
函館市五稜郭町 行啓通 北望
 南から北を望みます。北へ向かって、なだらかに下り坂です。五稜郭は前方右奥のほうにあります。

 前掲画像の位置を示した現在図です。
現在図 函館 行啓通
 赤い矢印を付けました。手前(南側)に市電の「五稜郭公園前」停留場があります。

 同じ一帯の色別標高図です。
色別標高図 五稜郭周辺 10m未満から1m毎10色 行啓通
 標高10m未満から1mごと10色段彩で作りました。白抜き矢印が前掲画像の位置です。

 地形的にみると、五稜郭は北側の山稜と南側の微高地に挟まれた窪地に位置していることがわかります。市電の軌道を黒い実線でなぞりました。市電はちょうど微高地の尾根筋に通じていることに初めて気づきました。

 この地形を、広域で観ます。
色別標高図 五稜郭周辺 広域 1m未満から3mごと10色
 標高1m未満から3mごと10色段彩で作りました。白抜き実線が五稜郭、黒い実線でなぞったのが市電の路線、青い実線は亀田川です(末注)。

 五稜郭の南側の微高地は、海成段丘ではないでしょうか。函館の自然史をうろ覚えですが、この微高地の南のへりがかつての海岸線だった。その後(いつごろの「その後」かは不知)、海退して函館山が陸繋した。太平洋側から千島海流、函館湾側からは対馬海流がぶつかって砂州ができた。

 そうすると、五稜郭のあたりが凹んでいるのは何か。南側の微高地も、砂州的に形成されたのではなかろうか。後背(北側)の窪地は、海進時は海が入り込んでいて、ラグーン(潟湖)だったのかしら。実際、このあたりは五稜郭の築造時、低湿地だったようです。

 注:亀田川はもともと函館湾に注いでいたが、人工的に南へ直進されて現在は太平洋側に流下する。

2019/08/27

uhb「みんテレ」となりのレトロ函館編 スピンオフ 五稜郭②

 五稜郭というのは、矛盾、妥協、模索、試行錯誤の産物だったのではないか。これは私の想像です。
箱館亀田 一円切絵図
 「箱館亀田 一円切絵図」1862(文久2)年(函館中央図書館蔵)。

 星型稜堡だけをいわゆる城郭都市とみると、小さすぎます。中には奉行所と奉行の居宅程度しか置かれませんでした。さりとて、いわゆる要塞にしては、昨日ブログで記したように“時代遅れ”だし、守るべき箱館の港町からは離れすぎています。いずれにしても、中途半端です。

 この古地図に照らすと、幕府はこの場所に稜堡形をシンボル的中心として、新たな街を創ろうとしたのではないかと想えます。蝦夷地全体をにらんだ拠点です。
箱館亀田一円切絵図 部分(五稜郭周辺)
 西、南、東を取り囲む緑色のコの字形が、城郭都市の本来の外郭に見えます。近世日本の城下町で言うなら、外堀とか総構えですか。土塁が築かれ、樹林が植えられました(末注)。
 そうすると、稜堡形の堀割は本丸の内堀になりますか。外郭をほぼ矩形(北西部分は自然河川たる亀田川)にして、内堀を稜堡形にするというところに、明治初期の擬洋風建築に通じる日本的な換骨奪胎を私は感じてしまいます。

 現在の空中写真で、五稜郭周辺を俯瞰します(2011年、国土地理院サイトから)。
空中写真 五稜郭周辺 2011年 総構え?跡
 樹林帯が設けられた外郭を、赤い実線でなぞりました。

 その痕跡の松並木です。 
五稜郭 外郭の痕跡 アカマツ
 上掲空中写真の南東部分(画像右下、黄色の矢印の先)に当たります。アカマツは往時、佐渡から苗木を持ってきて植えたとお聞きしました。この通りの南側の松陰町は、このアカマツに由来するそうです。

 今回の函館ロケという話を放送局から聞いたとき、正直言って私は戸惑いました。よそ者の私が何を語れるのか。何を取り上げても、地元の方には「いまさら」感を募らせるだけではないか。と恐れおののきつつ、よそ者ならでは、札幌時空逍遥ならではの切り口もあろうかと気を取り直しました。
 とはいえ、函館はとりたてて手ごわい街です。何を題材するかということから悶々としました。自分のコトバで語れるところで勝負するしかない、という境地に至ったのは、ロケの一週間前になってからです。五稜郭については、一大観光名所でありながら8月24日ブログに記したように自分自身が何も知らないことに気づき、逆に乗り気になりました。

 一回目の放送に私がもし“貢献”できたとすれば、五稜郭を語るもっともうってつけの方に出演していただいたことと、外郭のマツ並木をシナリオに盛り込んだことでしょう。前者は田原良信さんです。30年来蓄えてきた断片的な情報から、「この人に」と直観しました。私でなくても函館市教育委員会などに問い合わせれば適任者にアクセスできたかもしれませんが、「何を引き出すか」は違ってきたと思います。「五稜郭=迎賓館」説は、第一人者だからこそのコメントです。
 その田原さんは、収録のとき「今まで何度も五稜郭を紹介してもらってきたが、マツ並木まで取り上げるのはテレビでは初めてではないか」とおっしゃってくださいました。「我々は『ここも大事だよ』と強調してきたのですが、なかなかここまで注目してくれることがなくて…」と。私にはありがたいお言葉です。悶々とあれこれ悩んだ疲れが吹き飛びました。

 注:戸祭由美夫『絵図にみる幕末の北辺防備』2018年によれば、「外郭に関する限り、西洋式築城法の影響は見いだせないといえよう」(同書p.27)。ただし、ではこの外郭が「日本式」といえるかどうか、同書では推論が留保されている(p.30、注30記述)。

2019/08/26

uhb「みんテレ」となりのレトロ函館編 スピンオフ 五稜郭

 このたびの函館編に当たり、五稜郭に関する文献を図書館で漁りました。
 その一つがこちらです。
教科書に出てくる日本の城 東日本編 表紙
 『これだけは知っておきたい 教科書に出てくる日本の城 東日本編』2016年、汐文社。

 小中学生向けに書かれたであろうこの本の一番最初に、「五稜郭」が紹介されています(pp.4-7)。
教科書に出てくる日本の城 東日本編 五稜郭
 簡潔にわかりやすく説明されていて、私のような初心者にも好都合でした。

 記述の一部を以下、引用します(太字)。
 箱館奉行所は当初函館山のふもとにおかれました。その後、奉行所やそこにつとめる人々の住む役宅が港などからの攻撃に弱い場所にあったことから移転することになり、奉行所を守る土塁として新たにつくられたのが五稜郭です。設計は、箱館に寄港したフランスの軍艦コンスタテイーン号の軍人から、中世ヨーロッパの西洋式の台場や土塁について学んだ蘭学者の武田斐三郎が行いました。
 砲撃などに適した城としてつくられた五稜郭は、日本の城の中でもとても珍しい設計です。今日では五稜郭公園として、市民や観光客に親しまれる名所となっています。


 五稜郭を上空から眺めた掲載写真には、次のようにキャプションが添えられています(太字)。
 技術が進歩し、大砲の飛距離や破壊力が増したことで、大きな城壁が建物をぐるりと取り囲む城の形は防御に向かなくなっていきました。そこで生まれたのが、複数方向から射撃を加えられる稜堡(外に突き出た先の部分)をたくさん持った稜堡式城郭と呼ばれる築城方式です。五稜郭の形は、すぐ側に立つ五稜郭タワーの展望台から眺めることができます。
 
 軍事史や幕末維新史に通じている方なら、五稜郭が築造された19世紀後半には「大砲の飛距離や破壊力が増したことで」、稜堡式城郭もまた「防御に向かなくなって」いたことを指摘されるのではないでしょうか。前述引用文は、「中世ヨーロッパの西洋式の台場や土塁」を説明してはいます。しかし、近代の先駆けともいえる五稜郭自体の立地や設計には、疑問が残るものです。実際、箱館戦争のとき、新政府軍の軍艦から発せられた砲弾が郭内に達しました。すでに「砲撃などに適した城」ではなかったのです。

2019/08/25

古き建物を描く会 シュマ・オマ・プ行

 札幌建築鑑賞会「古き建物を描く会」第66回を催しました。
国道36号 「島松沢」バス停
 今回訪ねたのは、島松です。
 島松と付く地名は北広島市と恵庭市にあります。それもそのはず、両市の境を分かつのが島松川で、川が削る谷の一帯が島松と称されていたようです。JRの「島松」駅からは離れており、バスで札幌からは約1時間かかります。国道36号の「島松沢」停に降り立つと、「はるばる来たなあ」感が弥増します。5名の参加者が秋晴れを満喫しました。

 私たちは北広島側(川の左岸)の島松を描きました。
旧島松駅逓所 全景
 旧道沿いに「旧島松駅逓所」が遺ります(末注①)。旧道沿いというのが、ますますもってありがたい。

 写生後、恒例の青空展覧会です。
旧島松駅逓所 描く会 青空展覧会
 建物見学にも時間を割いたため、スケッチの時間が短くなってしまいました。案内してくださったガイドさんから私は初めての話を聴いたりして、面白かったのです。ともあれ、作品をガイドさんにも観ていただき、喜んでもらえました。
 
 今回のお目当ては、旧駅逓所もさることながら、加えて「島松軟石」です。
島松軟石 Hさん宅 旧宅
 現地で石工さんをしていた方の旧宅を拝観しました。

 玄関の楣(まぐさ)石に縁起物が彫られています。
島松軟石 Hさん宅 縁起物の彫り物
 2013年以来、6年ぶりに鑑みました。何度見てもほれぼれします。持ち主のHさんからも貴重なお話をお聴きし、実りの多いひとときでした。

 島松の由来となった「シュマ・オマ・プ」は、「石・ある・もの」の意だそうです(末注②)。

 注①:正確には、1994(昭和59)年から1990(平成2)年にかけて修復・復元されたものである。前掲画像左側約2/3の居宅及び客間は1873(明治6)年から1880(明治13)年、右側約1/3は明治天皇の行在所として1881(明治14)年に建てられたが、その後改変されてきた。私は建物が「有形文化財」に指定されていると勘違いしていたが、一帯が「史跡」としての指定である。
 注②:山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、pp.153-155
 

2019/08/24

函館に行ってきました。

 uhb番組「みんテレ」の「となりのレトロ」のロケです。8月21日から昨日23日までの滞在中、ブログサイトにログインできなかったため、更新できませんでした。本日から再開します。
 オンエアは、8月26日(月)と9月2日(月)の2回の予定です。
 ↓
 https://uhb.jp/program/mintele/
 コーナー化される前を含めると昨年11月から札幌の街を歩いて歴史を紹介してきたのですが、とうとう道内の地方にまで足を延ばすことになってしまいました。「特別版函館スペシャル」だなんて。初の泊りがけです。
 函館人からみたら札幌は“奥地”なので、「道内の地方」というのは抵抗があるかもしれません。お許しください。四十ウン年前、札幌に来て間もないとき、札幌周辺以外の道内の町を(その町の出身者自身も)「地方」と呼んでいるのを聞きました。郷里の愛知県では名古屋市以外の町をそのようには括らないので、新鮮に響いたのです。 
 
 さて、その函館、26日の1回目は五稜郭を伝えます。
 五稜郭 五稜郭タワーから
 泥縄でにわか勉強して、五稜郭のことを私は何も知らなかったと知りました。なぜ、このカタチで造られたのか。通り一遍の答え、たとえば防御に適しているというだけでは、どうも説明がつかない。さらにはなぜ、この場所に、この配置で、この規模で、そもそも何のために築かれたのか。地元の人にはわかりきった当たり前のことかもしれませんが、私には謎だらけです。

2019/08/20

 夕方、雨上がりの後、大きな虹をご覧になった方が多いのではないかと思います。
虹 190820
 デジカメの視界に収まりきれません。これだけ完全な円弧を描く虹を見たのは、私は久しぶり、というか初めてのような気がします。

 画像を露出加工してみました。
虹 190820 露出加工
 黄色の矢印を付けた先に、弧がもう一つかかっているように見えますが、どうでしょうか。 

2019/08/19

南郷通のファミレス跡に遺る伝説 続報

 昨年12月5日ブログで「南郷通りのファミレス跡に遺る伝説」を記しました。厚別区厚別南の元ファミリーレストランの地下駐車場に幽霊が出るという伝説です。地元の小学校で語り継がれてきました。その場所にかつてあった池に子供がはまって亡くなったことが“根拠”となったようです。子どもが池にはまったことが史実なのかどうか、このたび判りました。

 北海道新聞1969(昭和44)年10月19日記事です。
道新19691019 ひばりが丘団地貯水池水死事故記事
 「団地の貯水池で水死 フナ釣り 仲良し坊や二人 ひばりが丘」という見出しで報じています。「厚別区民歴史文化の会」でご愛顧いただいているO先生から、コピーをいただきました。以下、全文を引用します(太字、文中個人名は実名を伏せ、イニシャル表記とした)。

 (リード)
 十八日午前十一時ごろ、札幌市厚別町旭町九九○、ひばりが丘団地付近の水田貯水池(幅約三十メートル、長さ約百五十メートル深さ約二、三メートル)で、フナ釣りをしていた同町四九二、会社員Yさんの長男、Kちゃん(五つ)は、誤って池にすべり落ちた。一緒にいた同住所、会社員Kさんの二男、Tちゃん(六つ)が服をぬぎ、飛び込んで助けようとしたが、おぼれて行方不明となり、Tちゃんと双生児のHちゃん(六つ)が約二百メートル離れた自宅にかけつけ、母親のSさん(三七)に知らせた。札幌市消防本部、道警パトカー札幌東署などの約三十人がゴムボートなどで捜索した結果、Kちゃんは約三十分後、またTちゃんは同日午後一時ごろ、いずれも現場付近で水死体となってみつかった。

 (本文)
 KちゃんとTちゃん兄弟は近所同士で、午前九時ごろ、釣りザオを持ったKちゃんといっしょに池に行った。Hちゃんは兄が飛び込んでおぼれるのを見て、すぐそばにある人家に助けを求めずに、道路を隔てた団地の自宅に走り込んだもので、うわごとのように『お兄ちゃんがいなくなった』と繰り返していた。
 (小見出し)
 バラ線切れたまま ずさん過ぎた安全管理 
 (本文)
 同団地はもともと水田地帯で、この池は厚別貯水池利用組合(S組合長、加盟農家二十三戸)が管理する水田用の貯水池。現在同団地の中にある中央公園も同組合の貯水池を埋めたてたもので、埋めたて前の四十一年には水遊びしていた幼児一人が水死している。
 この事故をきっかけに、同団地自治会を中心に危険防止の機運が高まり、同組合は市に池の周囲に金網をはりめぐらすよう依頼したが、予算の関係で西側の岸だけバラ線を張った。ところが、雪の重みなどで切れ、この日、犠牲になった子供たちが近づいたとみられる付近は、昨年夏から修理されていなかった。
 同組合は団地自治会や付近住民に、子供たちを近づかせないよう申し入れていたが、防止策としては立て札を置く程度で、管理が安易すぎる―と付近の人たちは話している。
 郊外の水田地帯の団地造成は、特にこうした貯水池や用水路が多いだけに、団地の安全環境づくりの点で、こんどの事故は問題点を投げかけたといえる。


 ちょうど50年前の出来事だったのですね。記事により、その3年前にも団地内の別の池で事故があったことも、知りました。50年前というと、私自身も子どもの時分です。愛知県尾張地方の田舎に育った私には、田圃や用水路は見慣れた風景でした。人工的水路のみならず、中小自然河川も網流する木曽川の堆積平野です(2015.6.7ブログ参照)。私の記憶では、川や水路に落下防止用の手だてはほとんどなかったと回想します。ひばりが丘団地での水の事故に私が感慨したのは、かような自分の原体験に由るのでしょう。昨年12月5日ブログには、「池に子どもがはまったことの歴史的な意味を牽強付会するならば、札幌の近郊農村が都市化・市街化する過程の象徴的事件といえるかもしれません」と添えました。記事を読んで、事故に遭ったのが団地に住む会社員の子どもだったことをあらためて深読みしてしまいます。

 「あらためて」の感慨をもう一ついえば、同日ブログで結んだ「地域局所的な史実は、口承伝説、しかも子どもという非正史的な世界に遺る」ことです。学校の怪談、あだやおろそかにできません。これを採集することで札幌の近代史が読み解けるやもしれない。
 さらに三たび「あらためて」を加えます。O先生への御礼です。先生は札幌の小学校の校歌、校章を調べ上げてまとめておられます。まだ電網社会が進展する前のことです。私が昨年、「校歌に歌われ、校章に描かれた北海道百年記念塔」(2018.11.30ブログほか参照)を調べたきっかけも、O先生のご教示によります。「今はインターネットで校歌も校章も簡単にわかりますが、前は大変だったでしょうね」と申し上げたら、「ほんとに大変でした」としみじみおっしゃってました。先生は昨年、「札幌の幼稚園、小・中学校の名称に見る特徴と地域性」「神社と公園の名称に見る地域の歴史と地名のかかわり」も執筆されました(末注)。伝え聞くところ、学校での事故についてもお調べになっているそうです。いただいた新聞記事のコピーはその渉猟の一つかもしれません。砂浜でダイヤモンドを探すような作業に想えます。先生のおかげで、“雲をつかむ”に近かった伝聞情報の裏付けを私は苦労せず得られました。

 注:『札幌の地名がわかる本』2018年、pp.322-346

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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