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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/07/31

石狩川船行 ③

 札幌開建の調査船、弁天丸の船室です。
石狩川船行 190728-9 弁天丸船室
 一般の定員は12名。

 操舵席の計器、左下に速度表示が見えます。
石狩川船行 190728-11 弁天丸操舵モニター
 針が指しているのは16あたりです。時速16㎞か。いや、ノットか。実際、往復約10㎞の行程を約40分かかってましたので(時速にすると15㎞)、数字としては㎞でも合います。

 操舵席右側のモニター画面です。 
石狩川船行 190728-10 弁天丸操舵モニター
 右下の2.9mというのは水深を示しています。この日は前日の雨の影響で20㎝くらい増量していたようです。
 右側の画像(ソナー)の茶色のギザギザが川底で、おおむね3mあたりを上下しています。上のまっすぐの茶色の層の水色との境目が船底です。右上端の目盛りの0mが川面で、茶色の層は約60㎝です。つまり喫水線から船底まで約60㎝なので、船底から川底までは2.3-24mになります。「けっこう浅いんですよね」と航海士さんは言ってました。操舵で何に気をつけているかというと、浮遊物だそうです。増水すると流木なども増えます。プラスチックごみも多いらしい。

 エンジンです。
石狩川船行 190728-12 弁天丸エンジン
 420馬力/基が2基、備えられています。
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2019/07/30

石狩川船行 ② モショッケ川

 調査船・弁天丸は石狩大橋をくぐりました。
石狩川船行 190728-7
 画像は左岸を眺めています。川の流れは左から右です。赤矢印を付けた先に樋門が見えます。

 これは「モショッケ川」の名残と聞きました。
石狩川船行 190728-8
 モショッケ川。
 この古川の名前を知ったのはたしか、2年前に参加した「再発見・江別探訪 バスでめぐる先史時代の遺跡」(江別市郷土資料館主催)のときです。川沿いに先史時代の遺跡があると聴いたのですが、河道などは漠然と受け止めました。
 最近、この川名に「藻生渓」という字が当てられていたこと、さらには別の当て字があったことを知りました。お聞きしたのは、江別市民会館主催の「江別の歴史講座」の先々週開催された第2回「野幌丘陵と江別の小さな山」のときです。別の当て字は何だと思いますか? 「虫除」だそうです。ムシヨケ、モショッケ。アイヌ語由来だと思いますが、語義は…手におえないので割愛します。

 空中写真を遡ると、1960年代後半には暗渠化されたようです。実は船行のあと、陸路でこの川跡を辿ってみました。酔狂なことです。そのとき樋門の銘鈑で設置年を確認しました。そのくだりはおって綴りたいと思います(と記したままの積み残しがこれまでにたくさんありますが)。
 ところで「樋門」とは何でしょうか。『広辞苑』第五版1998年では、「用水の取入れや悪水の排除のため堤防を横断して作られた暗渠およびゲートの総称」です。本件は(「そもそも樋門というものは」というべきか)、石狩川の逆流を防ぐためだと思います。地形的にみると、モショッケ川は石狩川の支川ですが高低差はあまりなさそうです。本川の流量がちょっと増えたら、たちまち支川を遡りそうに想えます。

2019/07/29

石狩川船行 川の色

 昨日ブログの続きです。 
 今回の石狩川めぐりの行程を下図に示します。
石狩川河川図(弁天丸船内の貼り紙)
 赤い線でなぞりました。元図は、乗船した弁天丸(札幌開建)の船内に貼ってあったものです。

 地理院地図で拡大します。
弁天丸 190728行程
 千歳河畔、江別河川防災センターの船着場から、石狩川に合流して新石狩大橋の手前まで、片道約5㎞です。赤いを付けたあたりでUターンします。

 ちなみに石狩川の長さ(幹線流路延長)は268㎞です。明治から昭和にかけての改修(蛇行の短絡直線化)の前は367㎞で、現在の信濃川とほぼ同じでした(末注)。百ン十年で四分の一、約100㎞短くなったことになります。もちろん私は短くなる前を知らないのですが、今の姿からでも「悠然」という印象が偲ばれます。
 私にとって「川」の原風景は、木曽川でした。木曽川も大きな川ですが、「悠然」とは形容しがたい。ひとことでいえば蛇行している(していた)か否かの違いでしょうか。極論すれば、内地と北海道の違いです。北海道の渡島半島の付け根あたりから北の、内地とは顕わに異なる風土の一つだとも思います。小学生のころ、社会科の地図帳に載っている石狩川の蛇行跡(河跡湖)を見て、わくわくしたものです(末注②)。それはマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』を読んで大河ミシシッピに馳せた想いとも通じます。

 と、感慨に浸りながら、船が新江別橋をくぐったあたりでデッキ上に出ることを許されました。
石狩川船行 190728-5
 上流から下流を望み、右方が千歳川(江別川)の左岸(江別市街側)です。

 千歳川(江別川)から石狩川に合流する地点に近づきます。
石狩川船行 190728-6
 下流から上流を眺め、手前が千歳川、右方の河畔林の向こうが石狩川です。

 石狩川本流に入りました。
石狩川船行 190728-6
 流れの向きは左から右、です。左岸の王子製紙工場が見えます。

 赤矢印の先で川面の色が少し異なっているのがわかるでしょうか。影を作る何もないのに、濃く見えます。実は本来の川の色に近い水の青で、これは千歳川から入り込んだ流れとお聞きしました。手前の茶色っぽいのは、石狩川本流の色です。説明を伺って初めて知りました。色が違うのは、前日まで降っていた雨の影響で本流の方が濁ったからだそうです。濁ったおかげ(?)で、職員の方によると普段よりも違いがはっきり見て取れました。一見したところは一つの川でも、合流地点では当然のことながら、本流と支流の二つの流れがあるのですね。

 注①:北海道新聞連載「魅力発見 北海道遺産27 石狩川『流域市町村』」2017年9月7日
 注②:木曽川の「川島」(2016.12.16ブログ参照)や、伊勢湾河口の「長島」、木曽崎のデルタ地形も好きだった。

2019/07/28

千歳川船乗りせむと日を待てば波もかなひぬ今は漕ぎ出でな 

 かねて待ち望んでいた体験が適いました。
石狩川船行 190728-1 
 石狩川の船行です。
 2016年小樽海岸の巡検(2016.7.177.20ブログ参照)以来、船に乗りました。川は初めてです。そもそも川船は生れて初めてだったかしら? 20年くらい前に九州・柳川で、堀割を船頭さんの手漕ぎに揺られて下りました。洞爺湖で観光船に乗ったこともありますが、自然河川はやはりこのたびが初めてです。胸を膨らませて江別港に臨みました。

 「港」は、今はないか。千歳河畔の江別河川防災ステーションです。
石狩川船行 190728-2
 札幌開建の調査船「弁天丸」が到着しました。
 
 ところが、いざ乗船という段になって、職員の方から「エンジンが故障したようです」と。前日までの不安定な天候が文字どおり雲散霧消して、さあこれからというときに、です。
石狩川船行 190728-3
 職員さんが心配そうにエンジンを調べます。

 幸いにも回復して、乗りこむことができました。なぜ調子が悪くなり、どうして良くなったのかは存じませんが、とにかく船出できればよいのです。
石狩川船行 190728-4
 対岸に建つ煉瓦造の筒井倉庫を川面から眺められるとは、感慨深い(2015.10.1910.2010.21ブログ「江別 舟運盛んなりし頃」参照)。

2019/07/27

道警琴似庁舎に遺る記憶

 道警の琴似庁舎です。
道警琴似庁舎 正面 2019年
 琴似と冠していますが、西区八軒にあります。

 前掲とほぼ同じ地点から2001(平成13)年に撮った景色がこちらです。
道警琴似庁舎 2001年
 現庁舎が建つ前の、古い建物が写っています。現庁舎は2003(平成15)年、この建物の「もとのデザインが生かされ」て、建てられたそうです(末注①)。

 旧庁舎は「北海道工業試験場」として1923(大正12)年にまず、向かって左側の2階建てが建てられました。その後、1928(昭和3)年、右側の3階建てが増築されます。いずれも鉄筋コンクリート造です(末注②)。この建物や工業試験場の歴史的意義は、…本来私としてはそれを披瀝せねば先に進めないのですが、長くなるのでひとまず割愛します。

 お伝えしたかったのは、別にありました。
 道警琴似庁舎 中庭 旧工業試験場当時のモニュメント 2002年
 旧庁舎時代の2002(平成14)年、中庭にあったモノです。庁舎の建替えに際して内部を見学させていただき、これを目にして「何だろう?」と思いました。モダニズムなたたずまいです。
 のちに由来を知りました。工業試験場当時の遺物だったのです。工試の職員だった方に教えていただきました。建立されたのは1937(昭和12)年です。この物件の所在が気になっていました。

 注①:『かがやけコトニ 里の歩みそして夢』2007年、p.35
 注②:北海道工業試験場『北海道工業試験場要覧』1934(昭和9)年、p.6

2019/07/26

琴似タワープレイスの三連アーチ

 昨日ブログでお伝えしたJR琴似駅北口にある建物の三連アーチです。
琴似タワープレイス 2階 三連アーチ 中から
 中から撮らせていただきました。

 比較のために、かつての建物当時の中からの写真も載せます。
日本食品製造 旧事務所 三連アーチ 中から
 1999年の撮影です。20年前。

 綺麗に復元されています。元の部材をそのまま使っているそうです。感服しました。

2019/07/25

琴似タワープレイスに遷された記憶

 JR琴似駅北口にある元野菜缶詰工場の建物です。
日本食品製造 旧工場2017年
 2017年12月に撮りました。

 冬の時季に撮った画像を載せたのは、2002年に撮った下掲の写真と較べてみたいという理由によります。
日本食品製造 旧工場、事務所 2002年
 画像右方に見える木造モルタルの事務所の場所は現在、冒頭画像のとおり空地となっています。
 
 この十数年の時空の変化は、拙ブログ2015.12.282017.12.22017.12.3をご参照ください。
 
 冬の写真を載せたかったのは、今の時季だと外壁が全面ツタに覆われているからでもあります。
日本食品製造 旧工場2019年
 煉瓦が、まったく見えません。かつて工場の建物だったことが、ほとんどわからなくなっています。工場と言えば産業革命、産業革命と言えば煉瓦、ですから、煉瓦を見せたかったのです。
 
 さて、工場が移転して、駅北口再開発事業で建てられた「琴似タワープレイス」です。
琴似タワープレイス
 外壁に煉瓦が貼られているのは、工場の一画にかつてあった煉瓦の倉庫のオマージュかしらんと勝手な妄想をめぐらせました(2015.12.28ブログ参照)。

 この建物の2階をよく見たら、内窓が三連アーチです。
琴似タワープレイス 2階 三連アーチ
 これは、前掲した旧事務所のそれではないですか。

 旧事務所の三連アーチを再掲します。
日本食品製造合資会社 旧事務所 1999年
 1999年撮影です(2017.12.2ブログ参照)。

 新しい建物ができて十数年、幾度も見ているのですが、三連アーチが継承されているのに初めて気づきました。またも節穴マナコを痛感します。おそらく札幌建築鑑賞会スタッフのNさんあたりから聞いていたのかもしれませんが、正直言って「視れども見えず」でした。

2019/07/24

手稲稲積 再考

 7月22日ブログの続きです。
手稲稲積公園
 uhb「みんテレ」の「となりのレトロ」前回(7月22日放送)は、「手稲稲積」の由来から始まりました。リポーターのEさんが「手稲稲積? 稲作に関係がある?」と切り出したのです。私は「ちょっと違う」と答えました。実は「ちょっと」というのがミソです。

 いうまでもなく、「手稲」はアイヌ語の「テイネ・イ」(濡れたところ)由来とされ、「稲積」は農場を経営していた稲積さんという人名に由ります。だから稲作とは関係がない、といってしまえばそれまでです。しかし私は、アイヌ語に「稲」という字を当てたことや稲積さんという姓に、内地和人の稲作願望を感じてしまいました。こじつけではありますが、稲が重なることにまんざらでもないなと思ったのです。
 ちなみに、農場を拓いた稲積豊次郎は越中富山の出身で、渡道後小樽で商売を営み、手稲で土地を入手する基盤を築きました。経営したのが「共成」です。「共成」は米穀商でした(末注)。

注:「共成」の建物は小樽・色内通の東端に現存し、「小樽オルゴール堂」という商業施設として再利用されている。
 ↓
https://www.city.otaru.lg.jp/simin/gakushu_sports/kenzo/f_s/f_s17.html

2019/07/23

宮部記念緑地

 拙ブログは昨日で満5年に達しました。2014年7月23日から昨日までの1826日間で、公開した数は1805本。お読みいただいている皆様に感謝申し上げます。これからも、“拙ブログならでは”の札幌時空逍遥を綴っていきたいと想います。

 7月21日の「古き建物を描く会」(同日ブログ参照)で訪ねた桑園博士町です。
宮部記念緑地 
 北6条西13丁目に「宮部記念緑地」があります。画像は本年5月に撮ったものです。まだあまり葉が付いていない樹形を見たかったので、その時期の写真を載せました。

 この緑地は1992(平成4)年につくられました(末注①)。ここにはもともと宮部金吾先生の住宅があったのですが、1989(平成元)年に解体されたことにより、跡地を札幌市が緑地としたのです。建物は宮部先生が亡くなった跡、北大の女子寮などに使われていました。私がそれを知ったのは、古い住宅地図です。先日の「描く会」に参加してくださったMさんから、友人がその寮に入っていたとの“証言”をお聞きし、裏付けが得られました。
 建てられたのは宮部先生が住み始めた大正期と思われます(末注②)。解体時は「宮部記念会館」という名前で北大の宿泊施設となっていましたが、築70年以上を経て老朽化して、北大も解体に踏み切ったのでしょう。

 解体される直前の旧宮部宅です。
旧宮部金吾宅 1989年
 1989年2月に撮りました。雪に埋もれているのは、解体間際だからでしょうか。

 現在の緑地は、「六十以上ある植栽はすべて敷地内にあったのを移植し」たといいます(末注③)。「桑園地区は昔の洋館が姿を消し、マンションなどが立ち並ぶ街に変わりつつある。せめて宮部さんが大切に育てた植物はそのまま残したかった」ためです(斉藤浩二さん、末注④)。
 冒頭の画像を、旧宅があった当時の写真と較べてみてどうでしょうか。「描く会」に参加したOさんが、右端の樹が同じだと“発見”しました。信号機の後ろの樹です。ほんとだ。あらためて新旧を並べてみると、樹高が伸びているようにみえます。30年の生長か。
 左端の樹も、枝振りが同じですね。「園内には、博士がこの地に住んでいたころの樹木や草類が、数多く残されてい」る(末注⑤)そうですが、これらの高木は宮部先生が植えたものだろうか。先生は1952(昭和27)年に亡くなっています。
 
 とまれ、古写真を載せて30年の時空を逍遥できたのも、“拙ブログならでは”と受け止めていただけると幸いです。

 注①:札幌市『さっぽろの公園・緑地ガイド 緑の中へ』第2版1999年、p.39
 注②:池上重康「桑園博士町『村会日誌』」北大大学文書館年報第2号2007年によると、宮部先生がこの地に住み始めたのは1915(大正4)年。
 注③:北海道新聞1998年11月22日(日曜版)連載記事「北のデザインを聞く 宮部記念緑地」
 注④:同上、斉藤さんは緑地を設計したランドスケープデザイナーである。
 注⑤:札幌市「特色ある公園シリーズ3 都市緑地 宮部記念緑地」1993年

2019/07/22

手稲稲積 余話

 本日放送されたuhb「みんテレ」の「となりのレトロ」では、手稲稲積公園周辺を紹介しました。
 「稲積」という地名について、昨年刊行された『札幌の地名がわかる本』で次のように記されています(p.161、太字)。
 手稲前田の一部地域の通称で、軽川・中の川・三樽別川に囲まれたエリアである。明治35年(1902)、稲積豊次郎がこの地に農場を開き、酪農を営んだことにちなむ。

 これは『さっぽろ文庫1 札幌地名考』1977年の以下記述を踏襲したものと思われます(p.134、太字)。
 稲積地区は、手稲前田の一部区域の通称名で、北発寒地区と接し、今後の発展が期待される地域である。稲積の名称は、明治三十五年(一九〇二)に小樽の人・稲積豊次郎が稲積農場を開いたことに由来している。 

 通称地名ですから厳密な境界線が引かれるものではないことを前提としつつ、私としては「稲積」の範囲を前掲諸文献よりも広く解釈したいと思います。拙ブログでもこれまでも綴ってきたとおり(2017.1.29ブログ2017.3.20ブログほか参照)、農場が現在の前田地区のみならず新発寒にも及んでいたこと、番組でお伝えしたように新発寒(『地名考』でいう「北発寒」)に「稲積橋」があること(「北発寒稲積会館」もある)などからです。

 もう一つ、「炭鉱1号橋」について。
炭鉱1号橋 再掲
 番組では由来をほぼ断定的な口調で述べましたが、管見では明確に裏付ける一次史料を見出せてません(2017.1.18ブログほか参照。“状況証拠”ということでご理解いただければ幸いです。

 「札幌市地質図」(『新札幌市史』第一巻1988年付録)で、本件橋の所在地を見ます。
札幌市地質図 新札幌市史第一巻付録 手稲 泥炭地
 黄色の矢印の先に示しました(正確には、橋は鉄路の南西側)。赤い線でなぞったのがJR函館線、これと交差する水色の直線が元炭鉱排水の追分川、濃い青が新川です(追分川は、新川と合流するあたりでは中の川)。

 JR函館線の北東側、新川の流域にかけて薄い緑色で塗られている一帯があります。「泥炭」です。新川や炭鉱排水が泥炭地の土地改良(排水)のために開削されたことが窺われます。また、鉄路が泥炭地と手稲山麓の硬い地盤の合間に通されたことも読み取れます。ただし、ちょうど炭鉱排水のあたりでは、泥炭地が南に入り込んでいます。のちにできた国道5号や札樽自動車道はこれを避けたかのように通じているのですが、明治の早い時期に敷かれた鉄道は泥炭地をかすめました。あらためて、鉄路を維持する上での排水の必要性が察せられます。
 ところで、くだんの排水路が新川と合流する地点のすぐ北、北東方向に濃桃色でなぞりました。これは「紅葉山砂丘」です。これをなぞったことについては後述します。

 色別標高図で、地形を鑑みます。
標高図 手稲 新川、炭鉱排水周辺 広域
 標高10m未満から10mごとに10色段彩で作成しました(国土地理院サイトから)。黄色の矢印が前掲図と同じく炭鉱排水(現追分川)とJR函館線の交点です。
 地形的にみると、炭鉱排水のところは標高10m未満の低地も南の奥深く入り込んでいます。地形地質の両面で、まさに「テイネ・イ」(=濡れているところ、末注①)だったのではないでしょうか。

 前掲地質図、標高図に「紅葉山砂丘」をなぞった(濃桃色)のは、番組の収録のときテレビ局のスタッフから疑問を呈されたからです。疑問というのは、「手稲山から流れ出ていた多くの川は、海に近い北のほうに流れていかなかったのですか?」。しかり。川は東北東方向へ流れました。そうさせたのは紅葉山砂丘だと思います。これは、縄文海進→「古石狩湾」→砂州形成→海退後、砂丘 になったものです(末注②)。炭鉱排水が掘られた一帯は大昔は海で、その後ラグーン(潟湖)になりました。海退して湿原となっても寒冷気候で植物が分解せず、泥炭地となったわけです。

 注①:前掲『札幌の地名がわかる本』p.152
 注②:「さっぽろ文庫77 地形と地質』1996年、pp.212-213

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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