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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/06/30

石山陸橋

 じょうてつバスの「石山陸橋」停留所です。
じょうてつバス 石山陸橋停
 かつて私は、石山陸橋とはうしろに写る高架橋のことだと思ってました。そうでないと知ったのは10年くらい前でしょうか。古地図に照らすと、この画像を撮った地点の道路が陸橋跡といえるのかもしれません。この下をかつて、定山渓鉄道がくぐっていました。

1953(昭和28)年発行地形図です。
昭和28年発行地形図 石山 石山陸橋付近
 赤い▲の先に示したところで、道路が定鉄を跨いでいます。ただし、この地図では定鉄がトンネルを穿っている描かれ方です。

 これが1958(昭和33)年地形図になると…
昭和33年発行地形図 石山 石山陸橋付近
 道路のほうが跨線橋として描かれています(末注)。これが陸橋ということになりましょう。

 一方、冒頭画像に写る高架橋ができたのは1985(昭和60)年です。
石山 国道453号 高架橋
 現地で確認しました。橋脚の赤矢印の先に示したところです。

 貼られた銘鈑に「1985年12月」と刻まれています。
国道453号 石山の高架橋の橋脚のプレート
 余談ながら、施工したJVに「新太平洋」とあります。この会社は太平洋炭礦と関係がある(あった)ようです。同社のサイトを見たら、本社が太平洋興発ビルにあります。釧路製作所(2017.2.21ブログ参照)といい、北炭機械工業(2019.4.8ブログ参照)といい、炭鉱は橋梁建設とつながるのですね。多角経営といってしまえばそれまでですが、坑道を掘ることとと橋を架けることが技術的にも通じるのでしょうか。 

 昭文社発行の「都市地図 札幌市」1977年からの抜粋です。
昭文社 エアリアマップ 都市地図 札幌市 1977年 石山陸橋
 バス路線の停留所名として「石山陸橋」とあります(赤傍線)。1977(昭和52)年発行なので、前述の高架橋が架かる1985(昭和60)年より前です。

 現在の高架橋の前からここが石山陸橋と呼ばれていたことは、地元に古くからお住まいの方には当たり前のことだと思います。それを史料的に裏付けてみました。

 注:久保ヒデキ『定山渓鉄道』2018年によると、定鉄の開業当時は「小さなトンネルを掘り線路を通し」、「石山小隧道」と呼ばれた(p.95)。「のち切通となって石山陸橋となる」(同)。
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2019/06/29

石山陸橋付近から、太古の豊平川を想う

 南区石山1条2丁目、「望豊橋」からの眺めです。
南区石山1条2丁目 望豊橋
 札幌軟石でできた欄干?に橋名が刻まれています。

 後景真ん中に聳えているのは藻岩山です。撮影したのが本年3月なのでまだ雪を被っています。藻岩山の手前、右方に連なるのは真駒内柏丘です。おいらん淵の白い崖が見えます。ハイアロクラスタイト(水冷破砕岩)です(2014.9.13ブログ参照)。真駒内柏丘と藻岩山の間を豊平川が流れています。「望豊橋」は、豊平川が削った谷を望めることに由来するのでしょう。

 位置を地図で示します。
色別標高図 90m以下から10m毎10色 豊平川 藤野~真駒内
 色別標高図を標高90m以下から10m毎の10色段彩で作りました。冒頭画像は、赤い○の場所から北北西おおむね11時の向きを撮ったものです。この場所は、「石山陸橋」と呼ばれます。
 川を白くなぞりました。赤矢印で示したのが豊平川、黄色矢印が穴の川、橙色矢印が真駒内川です。石山陸橋の北は、豊平川と真駒内川に囲まれて標高が高くなっています。冒頭画像に写る真駒内柏丘です。陸橋のところも馬の背状に小高くなっていて、南側の尾根につながります。

 豊平川は太古、この陸橋のあたりから真駒内のほうへ流れていたそうです。地図上に示すと、こうなります。
色別標高図 90m以下から10m毎10色 石山陸橋 かつての豊平川流路 
 色別標高図の段彩は前掲図と同じで、豊平川の現流路を濃い青でなぞりました。赤い○が石山陸橋の位置です。かつての豊平川がここを通って真駒内方面に流れていたと想定して、その河道を白くなぞりました。

 色別標高図で示したのはわけがあります。石山陸橋の西側(石山側)よりも東側(真駒内側)のほうが、標高が明らかに高い。つまり現在の標高でいうと、低い西側から高い東側に豊平川が流れていたことになります。いうまでもなく水は高きから低きに流れるので、現在の地形からするとありえないことです。

2019/06/28

なにわ書房を惜しむ

 昨日だったか、妻から「なにわ書房が閉まった」と聞きました。「マルヤマクラス」に移ってからは足が遠のいてしまいましたが、同店にはくすみ書房ともどもお世話になりました(2017.8.30ブログ参照)。

 2000年に札幌建築鑑賞会で出した『さっぽろ再生建物案内』を店に置いてもらったときの風景です。
なにわ書房 さっぽろ再生建物案内 2000 ①
 自前でポップを用意するということを私は知らず、店のほうで作ってくれました。

 「グランドホテル前店」です。
なにわ書房 さっぽろ再生建物案内 2000 ②
 うしろの階段の脇に「なにわ書房」とあります(黄色の矢印)。

 レジの前にも平積みしてくれました。 
なにわ書房 さっぽろ再生建物案内 2000 ③
 応援してくださったことに、あらためて感謝します。
 
 これは日之出ビルの「リーブルなにわ」ですね。
リーブルなにわ 今週のベストテン 2003 さっぽろ再生建物案内
 取り扱ってもらった書店が限られていたし、廉価だったので、「今週のベストテン」1位にランクインさせてもらいました(画像は2003年の第2版のとき)。

 正直言うと、地場のものを慈しんでいた(今も)のは私よりも妻の方です。くすみ書房しかり、蠍座しかり。時計台の裏にあった北地蔵しかり。ひばりが丘の長部洋服店しかり(2017.11.6ブログ参照)。我が身を振り返ると忸怩たる思いであり、残念とか申し上げる資格は私にありません。懐古、回顧とともに、今自分が地場で何をしたいのか、何ができるのか見渡したい。

2019/06/27

ぽすとかん裏手のお庭に祀られている小祠

 南区石山、ぽすとかんの裏に小祠が建っています。
ぽすとかんの裏 小祠
 これまで近づけなかったのですが、本年4月にぽすとかんのリニューアルオープンに伴い裏手に駐車場ができました。それで見通しが良くなって、存在に気づけたのです。オープンの日に撮りました。
 何が、なぜ、祀られているのでしょうか。後日持ち主のⅠkさんにお伺いしました。由来は…7月の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」の石山編までとっておきましょう。

2019/06/26

往来が多い町なかのビルに置かれた自販機に鎮座する物件

 札幌の中心部にある商業ビルの地下1階です。
札幌 街中のビル地下1階 自販機の上の置物 
 階段室の一隅に飲料自販機が置かれています。

 自販機の上に、目が留まりました。
札幌 街中のビル地下1階 自販機の上の置物 接写
 唐獅子のような置物です。陶製でしょうか。なぜ、ここに置かれているのか、意味ありげです。隣のマグカップも気になります。こういうふうに置かれていると、何か神妙な気配です。
 このすぐそばには、古くからの喫茶店があります。かなり多くの人が行き来する階段です。場所は明示しませんが、見覚えがあっていわくをご存じの方がいらっしゃったらお教えください。

2019/06/25

石山の馬頭観世音碑

 札幌建築鑑賞会の「大人の遠足」2019夏の編を来月上旬に控えています。今回の探訪先は石山です。資料作りのため、石山に足を運びました。石山には今まで何度も通っていますが、知らないことは多い。遠足は来週だというのに、この期に及んで現地を確かめている始末です。
 
 南区石山にあるお東さんのお寺があります。
石山 妙現寺 南から眺める
 現在地にお堂が建てられたのは1918(大正7)年といいます(末注①)。

 境内の一隅に建つ馬頭観世音碑です。
石山 妙現寺 馬頭観世音碑
 台座は札幌軟石ですね。碑の本体は… 硬石、安山岩でしょうか。

 本体の裏面に「大正八年十月建設」と刻まれています。
妙現寺 馬頭観世音碑 裏面
 それ以外は読み取れません。というか、側面も含め他には何も彫られていないようです。

 札幌市サイトの南区ページ「碑(いしぶみ)を訪ねて」に、「石山荷馬車組合が、大正8年(1919年)10月に建立」とあります(末注②)。この「荷馬車組合」のことが、私には何も判っていません。手元の郷土史の文献の限りでは見当たらない。この碑の建つ場所と建てられた年からすると、別のことも想像してしまいます。

 注①:『郷土誌さっぽろ 石山百年の歩み』1975年、p.92
 注②:http://www.city.sapporo.jp/minami/ishibumi/chiku0705.html 2019.6.25閲覧

2019/06/24

煉瓦の小端空間積み ミニチュアで再現

 煉瓦の小端空間積みの模型は前にも載せました(2017.1.31ブログ)が、このたびuhb「みんテレ」の「となりのレトロ」江別野幌編での紹介に当たり、再度積みました。
小端空間積み 模型 ミニチュア
小端空間積み 模型 ミニチュア 上から
 図柄よりは実物のほうが立体感が出るだろうし、一段だけよりも二、三段積んだ方が判りやすいだろうと思って作り直したのです。実物といっても、ホントの大きさの煉瓦をこれだけの数は持ち合わせていません。極小サイズです(2018.8.23ブログ参照)。ピンセットでつまんで、手を震わせながら積み上げた様子を、添えた10円玉からお察しください。ミニチュアで再現してみると、イギリス積みよりはフランス積みのほうが手間がかかり(2018.7.19ブログ参照)、この小端空間積みはさらに面倒でした。実際には目地で接着させながら積むから、単純には比べられないとは思います。しかし、これを円形のサイロにするのは、不器用な私には想像するだに大変です。

2019/06/23

銘菓 大谷石最中

 昨日ブログで、支笏湖畔の神社について記しました。国立公園内の景観に配慮して、鳥居が朱塗りから現在の色に変えられたことです。あとから「あれ、そういえば」と「山線鉄橋」を思い出しました。こちらは、現在赤く塗られています(4月29日ブログ参照)。20年くらい前に洞爺湖畔で見た浮見堂も、朱塗りだったような気がする。湖畔にワンポイントで赤というのは、映えるようにも思います。色々考えると、判らなくなる。

 先週、栃木県宇都宮市の「大谷石研究会」の方々が来道されました。主な目的は札幌軟石や小樽軟石との交流です。大谷石の建物の持ち主、石材屋さん、建築家、研究者といった面々9名を南区石山などにご案内しました。石文化を介して、人のつながりが拡がります。人はなぜ、石文化に惹かれるのか? (あえて、「人は」と普遍化してしまう)。一つ思うのは、「石文化」というコトバ自体が示すように、自然と人為の両側面があることです。理科系、文科系の境目を行き来する醍醐味でしょうか。

 研究会の皆さんからいただいたお土産です。
大谷石最中
 「大谷石最中」。
 
 添えられている栞には次のように書かれています。
 大谷石は栃木県宇都宮市の西部に産し
 今から二、三千万年前 
 海底の爆発によって
 火山灰が堆積して出来たもので
 全国一の軟石材としてしられ
 火熱に強く耐久性があり、建築、装飾用
 として多く使われております
 大谷観音を中心とする付近一帯は
 すべて石山で中国の仙境を思わせる
 絶景であります
 この大谷の自然の美しさと幽玄さを
 和菓子の風味としていかしたのが
 銘菓 大谷石最中 であります
 大谷の由緒ある歴史と共に
 ご賞味賜り度くお願い申し上げます
 飯田屋謹製
 
 
 全国一の軟石材! 

 コースターもいただきました。
札幌軟石の小鉢 大谷石のコースター
 札幌軟石の鉢とのコラボレーションです。

2019/06/22

支笏湖逍遥 ⑭ 支笏湖神社

 uhb(8ch)「みんテレ」の次回“となりのレトロ”は、6月24日(月)です(夕方4時から5時の間のどこかでオンエア予定)。
 ↓
https://uhb.jp/program/mintele/
 今回は江別を訪ねます。ご笑覧ください。

 4月から憑かれてきた支笏湖をとりまく謎(5月20日ブログ参照)に、挑んできました。これまではおもに山や沢の名前について綴りましたが、湖畔の神社のこと(4月28日ブログ参照)の疑問がまだ残っています。
支笏湖神社
 だれが建立または寄進したのか? です。

 展示の撤収のために会場のビジターセンターを再び訪れたとき、Kさん(4月29日ブログ参照)から資料を頂戴しました。Kさんは2016(平成28)年、この神社の現在地への遷座にも関わったそうです。拙ブログのために用意してくださいました。ありがとうございます。

 その資料(末注①)によると、祭神は「大山祇神」と「市枝姫神」です。前者は「山を司る神」、後者は「海上・航海安全の海の神」「厳島神社の祭神としても知られる」と説明されています。「大山祇神」はたしか、瀬戸内海の大三島にある大山祇(おおやまづみ)神社が本社ですね。「市枝姫神」は「いちきひめのかみ」と読むのでしょうか。「いちき」←「いつく」しま?
 Kさんからお聞きたところでは、神社を祀ったのは「千歳鉱山」です。4月28日ブログで記したように、美笛にあった千歳鉱山のヤマにも大山祇神を祀った神社がありました(末注②)。御神体は金鉱石と大山祇神社の幣です。同鉱山は1936(昭和11)年に創業、1988(昭和63)年に休山(事実上の閉山)しました。それに伴い、1988(昭和63)年には神体が千歳神社に遷され、1992(平成4)年同鉱山により祠が同神社内に再建されています。
 採掘された金鉱石は、美笛から支笏湖を船で対岸に運ばれていました。冒頭画像に載せた神社がもともとあった場所は、対岸にあった埠頭(船着き場)の南側、「崖の中腹」です(崖というのはキムンモラップが湖に落ちるそれですね)。結局、ヤマにあった大山祇を対岸にもさらに分祠したことが頷けます。湖上を舟運したので、併せて“海の神”も祀ったか。

 境内に置かれている苔むした手水鉢です。 
支笏湖神社 手水鉢
 刻まれている「昭和十一年十月吉祥日」は、鉱山の創業年と合います。

 してみると、賽銭箱の左に置かれている石がますますもって気になりました。
支笏湖神社 御神体?
 これはもしかして御神体か? いや、御神体なら祠の中に祀る? 中には幣か。もし御神体なら金鉱石? 花崗岩のように見えますが、金も含有しているのだろうか? Kさんにそこまでは確かめていません。妄想の範囲として取っておきましょう。 

 私にとっては国有地に宗教施設という稀少感の募る物件ですが、Kさんによると現在地への遷座(帰座とでもいうべきか)に当たって特に支障はなかったそうです。ただし、鳥居は朱塗りだったものを移設に際して現在の色に変えられました。支笏洞爺国立公園内のいわば景観色に合わせたのです。たしかに、エリア内はこの色で統一されていますね。湖畔の国道を走っていて、道路標識の裏側にもこの色が塗られているのを見たとき、徹底ぶりを感じました。氏子さんのなかには元の朱塗りに愛着があった方もいらっしゃったようですが、自然公園法の精神に基づく修景です。と記してきて、朱塗りといえば、安芸宮島の大鳥居を思い出しました。この神社の鳥居が朱塗りだったのは、「市枝姫神」を祀っているからだったのだろうか。厳島神社も瀬戸内海国立公園内ですが、先に神社ありき、です。瀬戸内海のほうの修景の基準は知りませんが、まさかあの大鳥居の色を変えるわけにはいきますまい。

 注①:資料の出どころは明記されていないが、2013(平成25)年に千歳神社から発せられている。
 注②:『新千歳市史 通史編 下巻』2019年には、「山神(千歳鉱山神社)」(p.249、「さんじん」とルビ)、「山神社(「大山神社」との記述も見られる)」(p.932)と記されている。以下、史実は同書に基づく。Kさんからいただいた「苫小牧民報」1988年6月17日記事「ご神体 千歳神社へ」には「大山神社」とあり、本文で「鉱山に住む人たちが「山神(さんじん)さん」と呼んでヤマの安全を祈り」と書かれている。なお、神体の合祀も千歳鉱山が発起したとみられる。

2019/06/21

支笏湖逍遥 ⑬ イパラセツウンナイ、エパラセッピナイ(承前) 

 6月12日ブログの続きです。支笏湖南東湖畔のアイヌ語地名について、今回で締めくくります。

 同日ブログで述べたことをまとめると、次のとおりです。
①1896(明治29)年地形図の「エパラセッピナイ」と河野常吉編『支笏湖』1922(大正11)年の「イパラセツウンナイ」の位置の違い
②長見義三『ちとせ地名散歩』1976年と『増補 千歳市史』1983年(旧市史)における「エパラセッピナイ」の位置のずれ
③『新千歳市史 通史編 上巻』(新市史)2010年で「エパラセッピナイ」の消失

 私の当初の自問は、「1922年地図に描かれたイパラセツウンナイは、新市史、旧市史の略地図ではどこに位置するのか?」でした。もはやこの設問自体を改める必要があるのですが、とりあえず即して答えるならばイパラセツウンナイは旧市史のエパラセッピナイに比定できます。
 それを新市史の略地図に当てはめると…
新千歳市史 通説編上巻 地名解 略地図にエパラセッピナイを比定
 黄色の矢印を示した先になります。

 ただし今となっての問題は、そもそも新市史でエパラセッピナイという沢名が消えたこと(前述③)です。どうも、前述①②の既出史料・文献におけるエパラ(イパラ)-の位置の齟齬が尾を引いた結果のように思えます。
 さらなる問題は、エパラセッピナイの和名とされる「大沢」の位置をめぐる混乱?です。それは…。
 1922年「イパラセツウンナイ」及び旧市史のエパラセッピナイは、現在の地図で「大沢」に当たります。と、6月12日ブログの後段でも私は述べたのですが、これが危うい。電網上では、支笏湖南湖畔で「大沢」は別にあるようです。支笏湖ビジターセンターにお問い合せして、地形に詳しいSさんにお尋ねしました。

 私:国道276号の「大沢橋」が架かる沢に「大沢」と書かれた地図を見ているのですが、大沢で正しいのでしょうか?
1997年「支笏周辺の山」大沢
 Sさん:それは違いますね。
 私:「大沢橋」の沢だから、てっきり大沢だと思いました。現地の橋名板にも「大沢」と書かれていましたし…。
国道276号 支笏湖畔 大沢橋
 Sさん:もともと「大沢」と呼んでいた沢とは別の沢に、(国道を管理する)開発局が「大沢橋」「大沢」と付けてしまったのです。我々も訂正を申し入れたのですが、開発局では変えてくれませんでした。

 では、ホントの大沢はどこか? ビジターセンターSさんに確かめたところ「風不死岳の北尾根登山道の東側」です。下図のFに当たります。
現在図 支笏湖南東湖畔の沢
 等高線を読むと、たしかに「風不死岳一番の深沢」(前出『ちとせ地名散歩』p.46)を削っています。この沢の西側の尾根に破線が引かれており、これが風不死頂上への登山道ですね。

 なぜ、このようなヤヤコシイことになったのか。私は、本日ブログの冒頭に述べた①②の齟齬が和名の混乱?にも影響したのではないかと想います。
 そういえば、国道36号の「月寒橋」「望月橋」でも同じようなことがありましたね(2018.9.24ブログ参照)。電柱しかり、踏切しかり、化石的名前が遺る。
  
 参考までに、A~Eの沢名を載せておきます。
 A:一の沢
 B:二の沢
 C:三の沢 ユクルペシピナイ 別名クチャワッカナイ?
 D:楓沢 ユクトラシピナイ 
 E:(「大沢橋」が架かる沢。大沢に非ず)

 Cの別名クチャワッカナイ(6月7日ブログ参照)は、Sさんも疑問を呈しています。やはりもっとモラップ寄りで水の流れる沢の可能性があるが、特定されていないとのことです。Sさん曰く「支笏湖畔にはアイヌのコタンはありませんでした。下流から狩猟に来て湖畔の地名を付けたのでしょう。それで、(その後に入った和人に)はっきり引き継がれなかったようです」と。まあ、地名というのは生き物のように動くものなのでしょう。札幌のコトニ→琴似川→琴似、しかり。
 ちなみに、C「三の沢」、D「楓沢」はかつて、「一の沢」「二の沢」と呼ばれていたこともあるそうです。え、それではAの「一の沢」、Bの「二の沢」は? こちらは「モーラップ一の沢」「モーラップ二の沢」だったと。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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