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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/05/31

札幌の“炭鉱の記憶”

 「ちえりあ学習ボランティア企画講座」の一環で開催された「北海道遺産の魅力を探る」で、旧永山武四郎邸を案内しました。 
旧永山武四郎邸 旧三菱鉱業寮 20190526
 この建物は「開拓使時代の洋風建築」の一つとして、北海道遺産に選ばれています。

 建築や文化財の専門家ではない私が解説するというのは気が引けたのですが、考え直しました。私が仰せつかったのは、その筋の専門家としてではなく、北海道遺産を生かす活動を続けてきた一市民という立場からなのだと。その立場で、この遺産を鑑みる“視点”をお伝えしました。建物の価値だけでなく、住んでいた人や関わった人、周囲の環境、風景、地域のことも視野に入れたつもりです。例によってマニアックな、というか偏った話をしてしまったことは棚に挙げつつ、こういう場を与えてもらったことを感謝します。何がありがたいかというと、私自身が新たな刺激を得られたことです。

 ① 開拓使時代の洋風建築として― 札幌の住宅文化の土壌となったのではないか
 ② “和洋折衷”建築の先駆けとして― 異文化を吸収咀嚼する模索、明治後期~昭和初期和洋折衷との比較の妙味
 ③ 薩摩人・永山武四郎の足跡として
 ④ “炭鉱(ヤマ)の記憶”として―日本の近代化を支えた北海道の炭鉱(鉱山)遺産の札幌における数少ない一つ
 ⑤ 土地の記憶として― 札幌の原風景を伝える(?)ハルニレ

 この建物のことは拙ブログで幾度か綴ってきました(2018.6.136.176.216.226.23ほか)。
 繰返しになりますが、史実を確認しておきます。現在、冒頭画像の向かって右側が旧永山邸(道指定有形文化財)、左側が旧三菱鉱業寮(近々、国登録文化財になる予定)です。前者は永山の自邸として1880(明治13)年頃に建てられ、永山の死後、1911(明治44)年に三菱合資が購入しました。後者は三菱時代の1927(昭和12)年に(永山邸の一部や付設棟を除却して)建てられたものです。以来1985(昭和60)年に札幌市が買い取るまで、どちらも三菱が所有してきました。三菱時代は前者が「旧館」、後者が「新館」でした(末注①)。
 教科書的な来歴をあらためて述べたのは、隣り合う二つの建物が現在は旧永山、旧三菱と言い分けられていますが、どちらも三菱が長らく使っていたことを強調したかったからです。旧永山邸は、永山自身が住んでいた年数より三菱の時代の方が格段に長い。
 その意味で、前述の④の視点=“炭鉱の記憶”として価値を見直したいと思いました(末注②)。想えば、三井、住友、北炭もそれぞれ札幌にこの種の社用施設を持っていましたが、いずれも現存していません(末注③)。

 注①:高(ハシゴダカ)安正明『よみがえった「永山邸」 屯田兵の父・永山武四郎の実像』1990年及び同書に転載された越野武北大助教授(当時)らからなる「旧永山武四郎邸調査報告書」1985年ほかによる。
 注②:三菱は石炭だけでなく金属鉱石も採掘していたので、鉱山遺産というべきか。
 注③:現北海道知事公館も三井が所有していた時期があるが、知事公館になってからのほうがはるかに長い。
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2019/05/30

北5条、伊藤氏宅跡地の地形 再考 ③

 5月26日ブログの続きです。くだんの土地を古地図でもう少し追ってみます。

 「北海道庁 札幌市街之図 明治22年製図」からの抜粋です。
北海道庁 札幌市街之図 明治22年製図 現伊藤氏宅跡地付近
 これを見ると、メムとおぼしき池泉はやはり、鉄道線路に近いところから発しています(赤矢印を付けた先)。ただ、5月26日ブログに載せた明治10年代の地図と比べると、若干南に寄っているようでもあります。
 なお、画像が粗くて読みづらいのですが、この場所に「開拓記念碑」と書かれています。これは、現在大通公園の西6丁目に建っている「開拓紀念碑」の元の位置を示しているものでしょう。

 次に「札幌市街之図」1890(明治23)年です。
札幌市街之図 明治23年 現伊藤氏宅跡地付近
 池泉の先はさらに南に移り、道路際まで近づいています。ほぼ現在の地形と同じです。この後、明治20~30年代を下っていくと、おおむねこのカタチが続きます。 

 これは何を意味するのでしょうか。古地図を時系列で辿る限り、明治10年代の後半から20年代の前半にかけて、当該地の地形が改変されたとみることもできます。
 5月25日の「街中ジオ散歩 in Sapporo コトニ川を歩く」で伊藤氏宅跡地の地形が人工的掘削の可能性があると聞いたとき、私は伊藤さんの為せる業かと想いました。伊藤さん、といって現ご当主の先々代がこの地にお屋敷を構えたとき、元あった池泉を生かしながら園庭を整えたのかなと。
 「ジオ散歩」の参加者のお一人でご高齢の方が、「伊藤さんは敷地の四囲に水路をめぐらし、邸内にゴルフコースを3ホール造った」と回想されていました。とすると、池を掘ったのもゴルフ用か。その方に「いつごろの話ですか?」とお訊きしたら「終戦後、駐留軍が来たとき」と言われました。これは新しすぎます。前掲図のとおり、明治20年代には現在の地形と同じになっているのですから。

 そもそも伊藤家がここを本拠としたのはいつか。1907(明治40)年です(末注)。とすると、前掲明治23年「札幌市街之図」よりも後であり、この地形は伊藤家の前からのものということになります。少なくとも、伊藤家の仕業ではない。明治10年代の後半から20年代の前半にかけて、ここで何があったのか。

 注:越野武『伊藤組史こぼれ話 余滴十五話』2014年、p.45

2019/05/29

国鉄の名残 ②

 昨日ブログの答えです。

 JR函館線の月寒川橋梁で見つけました。
月寒川左岸 JR函館線 月寒川橋梁 南側
 コメントありがとうございます。正解です。推理力に脱帽しました。投げかけておいて言うのも何ですが、私は昨日の画像だけではまったく見当つきません。

 ここは、函館本線、千歳線のほか、貨物ターミナル駅に通じる線路が何本も通っています。
月寒川左岸 JR函館線 月寒川橋梁 下
 昨日の物件は、真ん中らへんの橋に付いてました。貨物専用線のようです。

 昨日物件とは別に、南端の橋にも国鉄の名残が貼られています。
月寒川左岸 JR函館線 月寒川橋梁 南端の橋
 黄色の矢印の先です。

 こちらは、1968年か。
JR函館線 月寒川橋梁 国鉄の名残 1968
 1968(昭和43)年というと、貨物ターミナル駅ができた年ですね。写真を撮ったとき、ちょうど貨物列車が通ってました。 

2019/05/28

国鉄の名残

 白石区内で見つけました。
国鉄の名残
 「日本国有鉄道」です。
 
 さて、どこでしょうか?

2019/05/27

uhbみんテレ「となりのレトロ」桑園編 収録余話

 本日オンエアされたuhb「みんテレ」の「となりのレトロ」コーナー・桑園編には、気を遣ったことがあります。
 実は昨年10月、私はSTV「どさんこワイド179」の担当ディレクターさんからもやはり桑園の歴史散歩の相談を受けていたのです。当時はまだuhbの“専属”ではなかったので、ほいほいと情報提供しました。
 桑園というと今ではJR駅周辺の印象が強いがもともとは知事公館のあたりが発祥であることをはじめとして、提供したのは以下のとおりです。
 ・札幌本府の西側の低湿地帯 → 開拓使の殖産興業地帯 養蚕による産業振興
 ・メム、琴似川の流域 → その地形や風致を生かしたお屋敷(知事公館=旧三井別邸、桑園博士町)、その痕跡
 ・旧円山村との境界 → 道路幅員が異なる(旧札幌区側は広く、旧円山側は狭い)
 ・繊維問屋街 → 桑園(養蚕)のDNAが受け継がれている?
 ・桑園博士町 → 大正期築の高倉先生宅が健在。高倉先生(二代目)はこの地で「ふきのとう文庫」という私設図書館を運営
 ・予備校・学生寮の街 

 私の情報がどのように採用されたか否か、同局で昨年11月に放送された内容がサイトに紹介されていますのでご参照ください。↓
https://www.stv.jp/tv/dosanko_eve/tokushu/u3f86t000004mhda.html

 冒頭で「気を遣った」というのはいうまでもなく、今回のuhbがSTVの“二番煎じ”にならないことです。私にしてみると「こんなことなら、“知的ノウハウ”の安売りをするんじゃなかった」のですが、昨年のSTVに続いて今日のuhbをご覧になった方におかれては上記の事情を汲み取っていただけると幸いです。

 今回のuhbでは「桑園博士町」にちなんで、昨年のSTVでは触れられなかった「ふきのとう文庫」(2017.10.25ブログ参照)についても(一瞬ですが)伝えてもらいました。これは特にスタッフの方にお願いしたことです。放送でも登場された高倉先生は、古き建物を大切にしつつ、歴史を今に、そして未来に引継ごうとしています。その姿を知っていただきたいと思いました。

 高倉先生が卓上に置かれていたオオバナノエンレイソウです。
高倉先生 オオバナノエンレイソウ
 番組収録に彩を添えてくださいました。お庭に咲いていたものだそうです。

2019/05/26

北5条、伊藤氏宅跡地の地形 再考 ②

 昨日ブログの続きです。
 中央区北5条、伊藤氏宅跡地の庭園に遺る地形を、私はこれまで自然の湧泉池の名残だと思っていました。いわゆる“メム”です。

 色別標高図でその場所を確認します。
標高図 北5条、伊藤氏宅跡地周辺 標高14m以下から1mごと7色段彩
 白ヌキの矢印の先です(標高14m以下から1mごと7色段彩で作成)。凹地があることが窺えます。諸文献(末注①)が記すように私もメム跡と見た地形です。 

 昨日の「街中ジオ散歩 in Sapporo コトニ川を歩く」で案内役のMさんから、これが人工的掘削の可能性があるとの指摘を受けました。Mさんが根拠とされたのは、明治初期の古地図です。

 たとえば、開拓使地理課「北海道札幌之図」1878(明治11)年を見ます。
北海道札幌之図 明治11年 現伊藤氏宅跡地の周辺
 現在の伊藤氏宅跡地のあたりをトリミングしました。赤い矢印の先に示したのがメム(湧泉池)とおぼしき地点です。この地図によると、メムは鉄道の線路上(末注②)に当たり、現在の伊藤氏宅跡地の凹地とは若干ずれています。

 「石狩国札幌市街之図 明治十五六年頃」です。
石狩国札幌市街之図明治十五六年頃 現伊藤氏宅跡地周辺
 この地図でも、メムは鉄路上に発しています。現在の伊藤氏宅跡地の北側です。 

 注①:昨日ブログで引いた旧市史のほか、山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.39
Mさんが根拠とされたのは明治期の古地図です。
 注②:幌内鉄道の手宮-札幌間が開通したのは1880(明治13)年なので、1878年作製の前掲図に描かれているのは計画線ということか。 

2019/05/25

北5条、伊藤氏宅跡地の地形 再考

 お知らせから。
 uhb(8ch)「みんテレ」午後3時50分~の「となりのレトロ」コーナー、5月27日(月)に放送予定です。今回は桑園地区を案内します。
 これに先立ってというわけではないのですが、私は今日、桑園を歩く行事に参加しました。テレビの収録は2週間前に済ませており、実際はむしろ「跡づけて」です。編集も終わってオンエアを待つばかりなので、この期に及んで跡づけても悪あがきでしかありません。終わったことは気にしないほうが精神保健上はいいに決まっていますが、そうはなれない悲しい性分です。(カメラを前にして)「イイカゲンなことを言わなかっただろうか」と、毎度のことながら気になります。

 私がこのたび参加したのは「街中ジオ散歩 in Sapporo コトニ川を歩く」(2019年度「地質の日」記念行事実行委主催)です。研究者のMさん、Uさんのご案内で、真夏日の札幌の中心部を6時間、巡りました。前述の番組で紹介するエリアとかなり重なっており、できれば収録の前に諸先生の解説をお聴きして参考にしたかった。私の正直な思惑ですが、ムシが良すぎますね。今となっては、私が収録でしゃべったことが齟齬をきたしていないようにと祈るのみです。

 ジオ散歩では、このお宅の前も通りました。
中央区北5条 ラトゥール札幌伊藤ガーデン
 中央区北5条、札幌駅の近くに完成した超高層賃貸マンションです。
 
 この一画のことは2015.10.31ブログで記しました。そのときはイニシャル表記に留めましたが、この間の報道等で実名が伝えられていますので、今後は「伊藤氏宅跡地」とします。札幌の土木建設会社を経営されていた方のお屋敷跡です。
 私は先のブログで、この敷地内の広大な庭園を「札幌の地形遺産」と評しました。庭園に遺る高低差を自然の産物と思い込んでいたからです。しかし本日、そのことに“重大な疑義”が生じました。

 私が3年余り前に「湧き出でた小河川の痕跡」と記した地形です。
中央区北5条 旧伊藤宅 メムの記憶? 再掲
 『札幌市史』1953年(旧市史)に記された「伊藤泉池」(p.571、末注)はこの地形のことだと、私はアタマから信じていました。Mさんによると、これは人為的に掘削された可能性があるというのです。

 もし私がこの風景をテレビで伝える機会が与えられたら、「かつて泉が湧いて、川が流れていた名残です。札幌の原風景ともいえます」などと語ったことでしょう。しかし人工的造形であれば、それは誤りになります。当たり前と思って当たり前のごとく発することに潜む危険をあらためて痛感しました。

 注:旧市史では「札幌扇状地内の泉池」の一つとして「伊藤泉池(仮名)」と挙げ、次のように説明している(pp.571-572、引用太字)。
 植物園北の伊藤豊次庭内に所在する円形の小池で、よく繁った樹林の間に水草を漂わして今日もよく往時の面影を残している。その水は小流となって鐵道下を北流するが、清らかで水量があり、附近の人々に利用されている。ここには近年まで鮭がのぼって来た。
 

2019/05/24

支笏湖逍遥 ⑧ 中央分水嶺をふたたび“霊感”する

 国道453号の「スキー場入口」バス停付近です。
国道453号 スキー場入口バス停
 支笏湖畔から2㎞余り東方に当たります。西から東を向いて撮りました。方位でいうと、向かって左側が北、右側が南です。この画像を撮ったとき、ここが「中央分水嶺」という認識は私にはまったくありませんでした。

 その位置を色別標高図に示します。
色別標高図 50m以下から50mごと10色段彩 中央分水嶺 支笏湖周辺
 標高50m以下から50mごとの10色段彩で作成しました。

 白い線でなぞったのが、中央分水嶺すなわち日本海と太平洋を分かつ境目です。等高線にしたがって推測しました(末注)。この分水嶺に沿うようにして、千歳市と苫小牧市の市界も引かれています(北側が千歳市、南側が苫小牧市)。
 赤い▲が冒頭画像の撮影位置と向きです。この図に照らして冒頭画像の道路の真ん中で水を垂らすと、左(北)に流れたら日本海、右(南)に流れたら太平洋に向かいます。
  
 広域図に示してみました(段彩は前掲図と同じ)。
色別標高図 50m以下から50mごと10色段彩 中央分水嶺 石狩低地帯
 前掲図と同じく、赤い▲が冒頭画像の撮影位置です。この北側に流れ落ちた水はおもに千歳川が集め、石狩川を経て日本海へ下る一方、南側は勇払川となって太平洋に注ぎます。

 冒頭画像の場所が中央分水嶺だと気づいたのは、昨日ブログに載せた飛騨高山のそれがきっかけです。私にとっては、“奇しくも”感が非常に募りました。画像に収めたのは、やはり分水“霊”に憑かれたとしか思えません。

 前述したように、中央分水嶺はこのあたりで千歳市と苫小牧市を分かつ境界線とほぼ一致しています。この境界線を東へたどった先にあるのが新千歳空港です。
色別標高図 50m以下から50mごと10色段彩 中央分水嶺 新千歳空港
 何年か前にNHKで(たしか「穴場ハンター」という番組だったと思う)、この空港に中央分水嶺が通じていて、しかもその最も標高の低い地点であることを伝えていました。

 最低地点とはいえ、私はここが太平洋と日本海の境目だなあと実感したことがあります。一昨年の11月末、苫小牧からJR千歳線で札幌に帰るとき、空港に近い南千歳駅を過ぎたあたりで景色が変わったのです。苫小牧側は晴れていたのですが、南千歳から急に雪が積もっていました。
 昨日ブログで記した飛騨国の一宮神社が中央分水嶺に祀られたがごとく、空港という大事な物件も同じ分水嶺に鎮座しています。これまた妙なところであらためて納得してしまいました。
 
 注:社)日本山岳会北海道支部『北海道中央分水嶺踏査記録-宗谷岬から白神崎まで-』2006年、pp.30-31を参考にしつつ、私見を加味した。 
 

2019/05/23

飛騨高山で時空逍遥 ⑥

 飛騨高山で泊まった宿(昨日ブログ参照)の女将さんが話してくれた分水嶺を現在図に引いてみました。 
現在図 宮川 飛騨川 分水嶺 広域
 橙色でなぞった線です。その北側を水色でなぞった宮川が北へ、南側を濃い青でなぞった飛騨川が南へ流れます。それぞれの流路方向を矢印で示しました。赤い○が高山市の中心部です。

 分水嶺は、等高線と陰影に基づいて推測しました。この線の上に水を垂らしたとき、北へ流れたら日本海へ、南へ流れたら太平洋に注ぎます。昨日ブログで「珍しい」と記したのは、ここに分水嶺が連なっていることです。
 分水嶺は国境(くにざかい)を分かつというのが、私の地理的感覚でした。都道府県はおおむね、分水嶺を境目にして日本海側と太平洋側に分かれています(末注)。しかるに本件の場合、飛騨という一つの国の中に分水嶺が貫かれている。
 日本海側と太平洋側というのは風土がガラッと異なる、というのも私の地誌的理解でした。分水嶺で分かたれた飛騨が、どのような歴史的経緯で一国とされたのか、興味を抱きます。しかも、日本海側の高山がその国の中心地となったのは、なぜか。さらには、明治維新後、太平洋側の美濃国と合わさって岐阜県となったのはなぜか。なぜ、日本海側の隣国である越中国と一緒にならなかったのか。また高山を訪ね、Nさん(一昨日ブログ参照)に私の妄想をぶつけて語り合ってみたいものです。

 さて、宿の女将さんが教えてくれた「(飛騨で)一番格式の高い」神社というのは、たしかに分水嶺の近くにあります。上掲図に黄色の○で囲った、その名も「飛騨一ノ宮」です。
 
 その一帯を拡大します。
現在図 宮川 飛騨川 分水嶺 飛騨一ノ宮
 神社の記号を赤い矢印で示しました。

 私は5月12日にJR高山線で高山に向かう途中、「飛騨一ノ宮」駅を写真に撮っていました。
JR高山線 飛騨一ノ宮駅
 後背の山並みが分水嶺ですね。山の向こうが太平洋側、こちらが日本海側。

 ホームの「名所案内」に「水無(みなし)神社」と書かれています。分水嶺で水が落ちるから「水無」なのか、と勝手に合点してしまいました。社名の由来も気になります。国の社をここに鎮めたのもまた、水を分かつという土地への畏れゆえか。

 JRは名古屋方面からだと、飛騨一ノ宮に達する手前で分水嶺をトンネルでくぐります。そのトンネルも写真に撮ってました。
JR高山線 宮トンネル
 分水嶺を通ったという自覚は、私にはありませんでした。しかし、何か惹きつけるものが私をしてカメラのシャッターを押させたような気がします。分水霊か。

 この8日後、私は再び、日本海と太平洋を分かつ分水嶺に立ちました。

 注:青森県や山口県といった突端部や北海道を別にすると、日本海側と太平洋側の両方を県域とするのは兵庫県だけである。が、同県はおおまかに中央分水嶺の北側が但馬国、南側が播磨国だった。飛騨のお隣の信州長野県は、県北の長野市や上田市は日本海に注ぐ信濃川(千曲川)、県南の木曾谷や伊那谷は太平洋に注ぐ木曽川や天竜川の流域である。ただし信濃国は江戸時代、小藩が分立していたと思う。飛騨は一国、幕府が直轄していた。
 

2019/05/22

飛騨高山で時空逍遥 ⑤

 昨日ブログの続きです。
 高山市の中心市街地を南北に通じる宮川は南から北へ流れています。地元の人びとにとっては当たり前のことをここで強調したいのは、私がこれを「珍しい」と思ったからです。なぜか。順をおって説明します。

 高山の周辺を描く色別標高図です。
色別標高図 飛騨高山 宮川 飛騨川
 宮川を水色、飛騨川を濃い青色でなぞりました。白ヌキの○で囲ったところが市の中心部です。宮川は市の南西部に源を発し、中心部を南から北へ流れ下ります。一方、飛騨川の源は昨日述べたように東方の飛騨山脈(北アルプス)です。西へ向かって谷を削り、南へ向きを変えます。飛騨川は、高山の中心部を流れていません。

 昨日も載せた広域図にそれぞれの川をなぞります。
広域図 飛騨高山 宮川 飛騨川
 赤いが高山市の中心部です。宮川は北へ流れ、富山県境を下り、富山湾に注ぎます。日本海です。下流は神通川と呼ばれます。宮川が高山市の中心部を南から北へ流れるということは、高山が“日本海側”に位置するという意味です。
 かたや飛騨川は、飛騨地方から美濃地方へと岐阜県内を南下し、木曽川に合流、愛知県、三重県との境界を分かって太平洋に注ぎます。高山は言わずと知れた飛騨地方の中心都市です。かつての飛騨国。同じ国の中に、高山を含む宮川流域の日本海側と、飛騨川流域の太平洋側がある。

 このことを私は、高山で泊まった旅館で朝食を摂ったとき、女将さんに話しました。
 私:(高山の街を流れる)宮川は飛騨川から分かれていると私は以前、思ってました。そうではないのですね。
 女将さん:(市街地から)もっと南の、宮川を上ったところに(飛騨川との)分水嶺があります。
 私:分水嶺!
 女将さん:そこに、このあたりで一番格式が高い神社があるんですよ。
 私:ははあ、それで「宮」川というんですね。

 私が泊まった旅館です。
飛騨高山 泊まった旅館
 こういう会話が味わえるのも、地元の宿ならではですね。ビジネスホテルやシティホテルではなかなかできません。女将さんから分水嶺というコトバを聞けただけでも、「ああ、ここに宿を取ってよかった」と思いました。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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