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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/04/30

支笏湖逍遥 ③ 王子山線に関して湧いた疑問

 「支笏湖温泉」街側から「山線鉄橋」を眺めました。
山線鉄橋 王子配電の電柱
 王子製紙の専用軽便鉄道(山線)の終点はもともと、橋を渡った千歳川の対岸(右岸側)にありました。

 一昨日ブログに載せた1922(大正11)年地図を再掲します。
河野常吉編『支笏湖』折込み地図 現温泉街あたり拡大
 これを見ると、終点は右岸側です。「キムンモラップ」と書かれた小山の麓に当たります。冒頭画像の左方後景に写るのがその小山のようです。現在、その中腹に「休暇村支笏湖」があります。余談ながら私は、キムンモラップともう一つの小山が「シユンモラップ」だと初めて知りました。なおかつ、この地図には支笏湖に注ぐ沢にもアイヌ語名が多く添えられています。
 閑話休題、鉄路は右岸側にとどまり、橋を渡ってはいません。

 さて、このたびの「北海道遺産&土木遺産認定記念 支笏湖でつながる二つの遺産展」(4月27日ブログ参照)の展示パネルの一枚です。
「北海道遺産&土木遺産認定記念 支笏湖でつながる二つの遺産展」展示パネル 山線の配線図
 画像が粗くて申し訳ないのですが、千歳川の左岸側(図上では右方、現在の「支笏湖温泉」街側)に「デルタ線」という形状で配線されているのが何とか読み取れるでしょうか。余談ながら、この「デルタ線」というのも面白い…、いや、もう余談はやめます。この図によると、この配線は「昭和10年頃」です。鉄路は橋を渡っています。

 以上の2枚の地図から、山線の終点について時系列で整理します。
 1922(大正11)年当時:終点は右岸側
 1935(昭和10)年頃:終点は左岸側
 まず右岸側に終点が設けられ、その後橋を渡って左岸側に線路が延伸した。…と私は思ったのです。 

 ところが。
 電網検索で山線を漁っていたら、『ウィキペディア』の「王子軽便鉄道」に次のような記述を見つけました(2019.4.30閲覧、引用太字)。
 湖畔駅は当初千歳川流出口近くに掛けられたトラス橋を渡って現在の支笏湖温泉街側に設けられていたが、昭和時代初期に橋を渡らずそのまま湖岸に沿った位置に変更されている。

 主語は「湖畔駅」ですが、終点が左岸から右岸に移ったと読めます。私は前述のとおり、右岸から左岸に移ったという理解でした。まったく反対です。
 前掲のパネル展示には、右岸側に「最初の湖畔駅」、左岸側に「後の湖畔駅」と朱記されています。いや、画像が粗く、断定できません。“そう書かれているように”見えます。こんなことなら、キチンと撮っておけばよかった。
 前述引用の『ウィキペディア』の記述は、あくまでも「湖畔駅」の移動であって、鉄路自体は残っていたとも解されます。「デルタ線」で転車するためか? しかし、昭和になって左岸側が拓けていったであろうに、駅を右岸側に“戻す”ということがありえただろうか。
 
 もう一度、『新千歳市史 通史編 上巻』を読み直してみました。次のように書かれています(p.724、引用太字)。
 当初、湖畔駅は支笏湖鉄橋を渡った千歳川左岸の土場西端にあったが、鉱石輸送が始まってからは鉄橋を渡らずに沖合に丸太を組み蛇籠を詰めた防波堤である水制があった千歳鉱山支笏湖東岸鉱業所埠頭に貨物専用駅を新設し、その手前に旅客駅が移設された。貨物駅には引き込み線が三線、トタン葺きの上屋が設けられた(中略)。
 千歳川呑口を渡河するトラス構造の支笏湖鉄橋は、昭和2年に払い下げを受け架橋された。


 いろいろ肉付けされていることを削ぎ落として端的に言うと、これは『ウィキペディア」の時系列と合致します(末注)。左岸→右岸です(「鉱石輸送」については一昨日ブログ参照)。 
 しかも。
 山線鉄橋が架けられたのは「昭和2年」とも読める。私が昨日ブログ末尾に記した「1923(大正12)年頃、王子製紙が払下げを受けて現在地に移設した」とは異なる。
 明日、支笏湖ビジターセンターに問い合わせねばなるまい。

 注:『ウィキペディア』の当該記述では、前述引用の末尾に出典脚注が付され、「千歳市公式HP『新千歳市史』機関誌『志古津』第5号(PDF)」としている。

http://www.city.chitose.lg.jp/_resources/content/69293/20100915-162936.pdf
 2007年3月に発行された同誌所収の守屋憲治「美笛-千歳鉱山軌道の一考察」の記述(p.28)が典拠であろう。『新千歳市史』の記述も、これに基づくと思われる。

追記 モラップの二つの小山について2019.5.2ブログに関連事項を記述した。
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2019/04/29

支笏湖逍遥 ② 山線鉄橋

 山線鉄橋は現在、赤く塗られています。
支笏湖 山線鉄橋 20190427
 これは1997(平成9)年に元の色(創建時? 末注①)を蘇らせたものです。
 
 修復される前は、こんな様子でした。
山線鉄橋 1990年
 1990(平成2)年に撮りました(一部加工)。28年余り前です。

 修復工事を伝えるリーフレット(1997年発行)も手元にありました。
山線鉄橋リーフレット1997年 表紙
 赤く塗られる前の橋が写っています。修復の施工は横河メンテック。“橋の横河”ですね。

 リーフレットには修復工事中の写真も載っています。 
山線鉄橋リーフレット1997年 修復工事中の写真
 この画像はあまり出回っていないようです。戦前の古写真も貴重ですが、「平成」の近過去もいまや歴史になりつつあります。時空は物理的に連続しているにもかかわらず、“改元”が心理的に切断する。あな畏ろし。

 1995(平成7)年から一回解体され、3年かけて復原されたことを思い出しました。かなり腐食していたのですね。復原時の“渡り初め”を報じた記事によると、使われていた鋼材のうち「傷みの激しかった約54%はスクラップになった」そうです(末注②)。工事費用は約3億9千万円でした。
 このたび「北海道遺産&土木遺産認定記念 支笏湖でつながる二つの遺産展」(一昨日ブログ参照)を私たちと共催した「自然公園財団支笏湖支部」のKさんは、「支笏湖・山線プロジェクト準備室長」を務めています。同プロジェクトでは湖畔での山線(王子専用軽便鉄道)の復元なども構想されているようです。

 注①:後掲の1997年発行リーフレット「よみがえる道内最古の英国製トラス湖畔橋」によると、鉄橋は1899(明治32)年に「北海道官設鉄道上川線」砂川・妹背牛間の空知川に架けられ、1923(大正12)年頃、王子製紙が払下げを受けて現在地に移設した。
 注②:北海道新聞1997年11月23日記事「道内最古の鉄橋『復活』」支笏湖畔」

追記 山線鉄橋の移設年について2019.5.1ブログに関連事項を記述した。

2019/04/28

支笏湖逍遙 ① 湖畔の神社

 ビジターセンターでの展示作業(昨日ブログ参照)がてら、真っ先に目に入ったのが小さなお社です。
支笏湖神社
 支笏湖神社。訝しい。こんなお社、もともとあったかな~。

 私は本能的に稀少感を抱きました。
支笏湖神社 社殿
 湖畔の園地内とおぼしき一隅に所在しています。園地内であればおそらく国有地です。国有地に宗教施設。私としてはナイガシロにできません(本年2月4日ブログ参照)。

 社殿の傍らに看板が立っていますが、縁起も何も書かれていない。並んで、ガチャポンのおみくじ販売機はあります。地元の観光協会などで管理しているのでしょうか。縁起は知らずとも、おみくじは引いてほしい。
 札幌に戻った後、同行した札幌建築鑑賞会スタッフのNさんから下記サイトを教えていただきました。
 ↓
https://www.tomamin.co.jp/news/area1/10248/
 一部を引用します(太字、『苫小牧民報』2016年12月24日配信から)。 
 支笏湖神社は山をつかさどる神と、海上・航海安全をつかさどる「海の神」を祭る。創設年は定かではないが、戦前から現在の山線鉄橋南側に位置する崖の中腹に祭られていた。1948年に支笏湖資料館(現支笏湖ビジターセンター)近くに移転。79年に同センターが建設されるのに伴い、支笏湖小近くに移されていた。現在の社殿は築68年。
 社殿の老朽化とともに、小学校近くの場所は坂の上にあり、高齢者などが参拝しにくいことから、ビジターセンターに近い園地内に移設を決めた。支笏湖が見渡せる場所で、観光客にも参拝してもらいたい考え。移設に伴い改修もした。神社の土地は、支笏湖自治振興会が環境省から借用している。
(末注①) 
 「山をつかさどる神と、海上・航海安全をつかさどる『海の神』」を祀ったのは、だれだろうか。

 鳥居の足元に置かれている手水鉢です。
支笏湖神社 手水鉢
 苔むしていますが、裏面に奉納の年月日と奉納者の名前が彫られています。「昭和十一年十月吉祥日 柏尾??」(?は判読困難)。

 大正時代の支笏湖一帯を描いた地図です。
河野常吉編『支笏湖』折込み地図
 (北海道庁発行・河野常吉編『支笏湖』1922年から)

 現在の「支笏湖温泉」街のあたりを拡大します。
河野常吉編『支笏湖』折込み地図 現温泉街あたり拡大
 家屋として描かれているのは「王子製紙会社社宅」と「孵化場」のみです。

 前述引用の『苫小牧民報』によると、もともと祀られていたのは「戦前から現在の山線鉄橋南側に位置する崖の中腹」といいます。上掲図に照らせば、「山線」の終着点あたりになるでしょうか。このあたりはもともと国有林(官林、のちに御料林)で、明治末に王子製紙が専用軽便鉄道(山線)を敷きました(末注②)。
 ちなみに、この地図の出典が刊行された1922(大正11)年というのは、王子が専用鉄道に一般旅客の乗車を許すようになった年です。切符に“人命は保証しかねる”旨記されていたことで知られます(末注③)。同年には摂政宮(のちの昭和天皇)が貴賓車で湖畔まで行啓しました。

  時代は下って、1958(昭和33)年の支笏湖畔の略地図です。
昭和33年支笏湖畔 略地図
 (俵浩三「支笏洞爺国立公園の歴史」『支笏洞爺国立公園指定50周年記念誌』1999年、p.43)

 山線は1951(昭和26)年に廃止され、終点のあたりには「鉱山事務所」となっています(赤傍線のところ)。神社は、この当時は千歳川対岸の「園地」あたりに遷されていました。なお、「鉱山」というのは湖対岸の美笛にあった「千歳鉱山」です。昭和初期に開かれ、金銀の粗鉱を産出していました(末注④)。戦前、美笛から船に載せ、山線で苫小牧に運んだそうです。美笛のヤマには大山祇神社が祀られていました。

 こうしてみると、支笏湖神社を建立したのは、山線を敷いた王子製紙だろうか。もしかしたら千歳鉱山も寄進したかもしれない。社殿の前、賽銭箱の左側に置かれている石(花崗岩か)がいわくありげだなあ。

 注①:『新千歳市史 通史編 下巻』2019年では、建立、遷座について時系列で簡単に述べられている程度である(p.932)。
 注②:『新千歳市史 通史編 上巻』2010年、pp.722-723
 注③:切符裏面の文言は「当専用鉄道は当工場原料及び発電所用品等の運搬を目的とし、乗客に対する設備ははなはだ不行き届きにて、万一事故の発生ありても絶対の責任は保証致しかねる故あしからずご了承下さい」(「支笏洞爺国立公園指定50周年記念 たくさんの思い出を残し使命を終えた豆機関車『山線』」北海道新聞1999年9月29日王子製紙広告記事)。同記事には「実際には事故はほとんどありませんでした」とも書かれている。
 注④:『新千歳市史 通史編 上巻』pp.858-863、『同 下巻』p.249

2019/04/27

南区石山から支笏湖へ、4万年の時空逍遥

 「北海道遺産&土木遺産認定記念 支笏湖でつながる二つの遺産展」の準備で、支笏湖に行ってきました。
 「二つの遺産」というのは「土木学会選奨土木遺産」の「山線鉄橋」と、北海道遺産の札幌軟石です。湖畔の支笏湖ビジターセンターで、明日4月27日から開催されます。
 支笏湖は、札幌軟石のいわば“生みの親”です。4万年前にカルデラ噴火が起きて、火山灰などが火砕流となって札幌まで達しました。札幌軟石はその火砕流堆積物を“素”にしています。噴火による大地の陥没でできたのが支笏湖です。

 支笏湖へ向かう途中、南区石山に寄りました。
ぽすとかん 新装開館 20190426
 「ぽすとかん」(昨日ブログ参照)です。札幌軟石ネットワークのSさん、同ネットに参加する札幌建築鑑賞会のスタッフSさん、Nさん、Kさんともども、新装開館を寿ぎました。

 建物に使われた札幌軟石を見てから20㎞あまり南下して支笏湖を眺めると、4万年の時空を遡った想いです。
支笏湖畔 20190426
 かの軟石も、湖ができる前の太古、このどこかに“素”があったのだなあ。

 展示は、支笏湖と札幌軟石を結ぶ前述の壮大な縁から、ビジターセンターを運営する(のみならず、支笏湖の自然を守り活かす)自然公園財団から札幌軟石ネットワークにオファーがあったものです。 
支笏湖ビジターセンター 軟石展会場
 札幌軟石の展示自体はこれまで札幌でたびたび催してきたものですが、今回は展示場所に意味があると私たちは考えました。湖畔を遊覧される方にも、4万年の時空に想いを馳せてほしいと願っています。

 私は、十数年ぶりの支笏湖来訪です。展示作業もさることながら、湖畔の時空逍遥に気もそぞろでした。なにせ、目利き揃いが同行しているのですから。そのてんまつは、おってまた。

2019/04/26

リニューアルオープン目前のぽすとかん

  昨日4月25日の「ぽすとかん」です。
ぽすとかん 20190425
 足場が取れていました。4月22日に通りかかったときはまだあったので、「作業が予定よりずれ込んでいるのかな」と少し心配でしたが、よかった。明日27日、新装開館します。

 実は私、足場が組まれているときにしかできないことをさせてもらいました。
ぽすとかん 石山郵便局 屋号 20190413
 4月13日です。

 この建物の関係者のⅠさんがちょうどおられたので、お許しをいただき足場を昇りました。
石山郵便局 刻銘 20190413
 「石山郵便局」の刻銘を間近に拝ませてもらったのです。

 この先、足場が掛かることは当分ないでしょう。
石山郵便局 刻銘 「局」
 「これだけ目前では、今しか見れない」と思って、網膜に焼き付けておきました。
 刻まれた文字の周りの木枠は、「ぽすとかん」の5文字が被せられていたとき(3月31日4月14日ブログ参照)の名残です。ビスで固定されているので、油膜処理して目だたないようにそのまま残すとお聞きしました。

 この高さでも、足がすくみます。万が一落下して怪我したら(いや、怪我ではすまないだろう)関係者に大変な迷惑をかけるので、早々にかつそろりそろりと降りました。私は鳶職、絶対できません。

 お知らせを一つ。
 北海道新聞の札幌圏版で、古き再生建物を伝える記事が近々連載されるそうです。大型連休中に近場で足を運べるところということで、先般情報を提供しました。さて、どんな風に紹介されるか。

2019/04/25

なぜ、豊平川左岸に「石山」の地名が遺るか? ③

 石山大橋から豊平川上流、右方すなわち左岸にそびえるのが硬石山を眺めました。
石山大橋から豊平川上流、右方に硬石山
 中腹が白っぽいのは、逆光に加え砂利採取の採石、砕石による土煙によります。
 山麓に黄色の線をなぞりました。この線の手前(川側)がおおまかに、先日来“問題”にしている「石山」という町名です。上方は山の名どおり「硬石山」。 

 豊平川左岸にこの「石山」という町名が“遺る”のは、かつての豊平町当時の字名に由来する。昨日ブログまで綴ってきた私の推理です。では、今に至るまで遺っているのはなぜか?

 昨日ブログに2名の方からコメントをいただきました。ありがとうございます。いずれもごもっともです。
 都道府県や市町村、あるいはその中の町名、字名は、河川や山稜など自然地形にしたがって境目が分かたれていることが多いと思います。特に河川の場合は改修で流路が変わりやすいのですが、ご指摘のように自治体間の境界は変わりづらい。手続きの煩雑さもあるのでしょうが、私はつまるところ“金目”の問題と察します。流路変更にともなって自治体間で境界を変えると、それぞれの面積がたいがいは変わります。自治体の面積は国から交付される地方交付税の算出根拠の一つです。

http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/c-zaisei/kouhu.html
 面積が減ると、国から貰えるおカネが減ります。これは何としても避けたい。
 では本件「石山(番地)」の場合は、というと、いうまでもなくどちらも札幌市域です。左岸側の「石山」を「硬石山」に変えても、札幌市の面積は微動だにしません。では、なぜ変えないか? 河川改修の頻繁さを考えると、いちいちそのつど変えてられないということはあると思います。しかし。

 私が妄想するのは、旧豊平町と旧札幌市の境界という記憶です。
 豊平川左岸の硬石山は昨日ブログに載せた図面では「藻岩村」ですが、この村はその後「円山町」となり、1941(昭和16)年に札幌市に編入されます。一方、右岸側の豊平町が札幌市と「合併」したのは1961(昭和36)年です。
 豊平川の本件一帯で流路が変わったのは4月23日ブログで述べたとおり1960年代後半とみられます。合併からあまり年数がたっていません。合併をめぐっては、豊平町側で当時かなりすったもんだがあったと聞きます。町議会では合併への賛成が18、反対は10でした(末注)。「合併」という名の「大」札幌市への吸収に、一部で拒否感情が強かったのではないでしょうか。
  前述したように、自治体の面積が減ることは禁忌です。豊平町当時に豊平川の流路が変わったとしたら、くだんの「石山」を札幌市側に編入させることはなおのことありえなかったでしょう。流路変更は合併後のことですが、旧豊平町の怨念が尾を引いた。

 豊平川左岸、「石山」の町名が遺る河畔です。
 豊平川左岸 「石山」の町名が遺る河畔
 以来半世紀、ここに地霊が宿っている。妄想です。

 注:『新札幌市史 第8巻Ⅱ年表・索引編』2008年、p.386

2019/04/24

なぜ、豊平川左岸に「石山」の地名が遺るか? ②

 昨日ブログで、豊平川左岸に遺る「硬石山」と「石山」の町界線がかつての主流(の旧河道)に由来することを記しました。
 この境目がいつから分かたれたか、古地図で遡ってみます。

 4月18日ブログに載せた「石山石材運搬軌道」の図面です。
石山石材運搬軌道布設個所附近一般図 藻岩村、豊平町
 赤と橙色の傍線を引いた箇所に注目します。

 その部分を拡大すると…
石山石材運搬軌道布設個所附近一般図 藻岩村、豊平町 拡大
 赤い線のところは「藻岩村字八垂別」、橙色は「豊平町字石山」です。

 この図面が描かれたのは1928(昭和3)年から1938(昭和13)年の間とみられます(2015.6.15ブログ参照)。当時、豊平川をはさんで左岸すなわち硬石山側は藻岩村、右岸すなわち札幌軟石の産地たる石山は豊平町でした。では、その境界線はどこに引かれていたでしょうか。町村名(+字名)はそれぞれの岸辺に書かれていますが、はっきりした境目は読み取れません。間の豊平川は流路が細かく分かれ、中洲をいくつか作っています。氾濫原だったのでしょう。
 
 境界線(町村界)は、前掲図面と一緒に所蔵されていた別の図面で確かめられました。
石山石材運搬軌道平面図 藻岩村 豊平町
 「石山石材運搬軌道平面図」と標記された図面です。赤と橙色の矢印を付けた先に町村名が書かれています。

 その部分を拡大すると…
石山石材運搬軌道平面図 藻岩村、豊平町の境界 拡大
 赤い矢印の先は「藻岩村」、橙色のほうは「豊平町」です。その間に一点鎖線が引かれて、町村界が分かたれています。境目とされたのは、豊平川の細かく分かれた流路のもっとも北側、すなわち硬石山寄りです。これがやはり、当時の豊平川の主流と窺えます。

 結論的にいうと、現在の「硬石山」と「石山(番地)」の境目は、この(=藻岩村と豊平町の)町村界の名残、と私はみました。その経緯を追います。

 冒頭の図面に当時の町村界線を加筆しました。
石山石材運搬軌道布設個所附近一般図 藻岩村、豊平町 境界線加筆
 青の実線です。これは、南側の中洲が豊平町字石山に属していたことを意味します。
 
 昨日ブログに載せた現在図を再掲し、較べてみましょう。 
現在図 硬石山、石山 町界
 昨日述べたように、豊平川の主流は1960年代後半、現在の位置すなわち南側の石山寄りに移りました。

 現在の主流を前掲図に引き写します。 
石山石材運搬軌道布設個所附近一般図 藻岩村、豊平町境界 現在の主流加筆
 水色でおおまかになぞりました。こちらが主流になるにつれて、青い実線を引いた旧町村界のほうは流路が途絶えます。結果として、その南側すなわち豊平町字石山に属していた中州は、一部が旧藻岩村の硬石山と地続きになりました。

 にもかかわらず、です。
 旧藻岩村側の字名は付けられず、旧豊平町側の字名「石山」が遺りました。今の「石山(番地)」はその名残といえましょう。なぜ、遺ったか? 答えにはまだ、達していません。

2019/04/23

なぜ、豊平川左岸に「石山」の地名が遺るか? ①

 昨日ブログの続きです。
標題に記したように、「石山」という地名は豊平川の左岸に「遺」っています。その理由は、現在図と古い空中写真または地図を見較べることで解き明かされます。

 まず現在図をあらためて見ます。
現在図 硬石山、石山 町界
 赤い実線で加筆した町界については、昨日ブログで記したとおりです。

 同じエリアの1961(昭和36)年撮影空中写真です。
空中写真1961年 豊平川 石山周辺
 この二つを見較べます。

 前掲2画像を重ねてみると…
豊平川 石山周辺 現在図と1961年空撮レイヤー
 現在図で豊平川左岸の陸地になっているところを、1961年当時は川が流れているのがわかります。現在川が流れているところは中洲または細い流路です。現在左岸の陸地になっているところの流れのほうが大きい。こちらがかつての主流だったようです。主流は今よりも北側すなわち硬石山側でした。

 これに硬石山と石山の町界線を加筆すると…
豊平川 石山周辺現在図と空中写真1961年のレイヤー 町界線
 豊平川のかつての主流側に沿って、硬石山と石山の境目が分かたれているといえます。この境目は自然地形の名残であり、土地の記憶だったわけです(末注)。

 空中写真や地形図を時系列で下ると、豊平川のこのあたりは1960年代後半には現在の流れに変わっていきます。しかし、町名(字名)の境目はその後も遺りました。なぜか?
 変える積極的理由というか必要性がなかった、といってしまえばそれまでですが、もう少し掘り下げてみます。

 注:かつての豊平川の主流が今よりも北側だったことは、地形図からも裏付けられる(「今昔マップ」1935年地図と現在の比較参照)。

2019/04/22

豊平川左岸にも「石山」(承前)

 昨日ブログの続きです。
 豊平川の左岸に現在、「石山」という町名は存在しているのか。
 結論的にいうと、存在しています。昨日ブログに載せたうちの「札幌市町名・住居表示実施区域図」2014年及び昭文社『でっか字まっぷ 札幌小樽』2016年が正しかったのです。市役所で確認しました。
 これがどういうことなのか、説明します。

 まず、現地の風景です。
石山大橋から豊平川上流を眺める
 豊平川に架かる石山大橋から上流を眺めました。画像右方が左岸で、硬石山の稜線です。左方が右岸で、彼方に藤野の山々が遠望できます。
 
 次に、現在図です。
現在図 地理院地図  石山大橋周辺
 画像の撮影位置と向きをを赤い矢印で加筆しました。

 ほぼ同じ一帯を、札幌市の地図情報サービスで認定道路図と照らします。
札幌市地図情報 認定道路 石山大橋周辺
 紺色ので示されているのが認定道路(市道)です。この図面を用いた理由は後述します。
 
 これに赤の太実線で町界を加筆しました。①~④が町名です。
 ①:石山(条丁目)
 ②:川沿(条丁目)、川沿町(番地)
 ③:硬石山
 ④:石山(番地)
 
 わかりやすくするため、豊平川の水面を水色でなぞりました。④の「石山(番地)」は、昨日ブログで記したように豊平川の河川敷地に当たります。昨日ブログにぶらじょにさんがコメントしてくださったとおり、「中洲等に境界線があるのではなくしっかり左岸に石山が掛かって」いるのです。前掲図のちょうど④と記したあたり、かなり内陸部にふくらんで「石山(番地)」が入り込んでいます。
 本日ブログの冒頭で「『札幌市町名・住居表示実施区域図』2014年及び昭文社『でっか字まっぷ 札幌小樽』2016年が正しかったのです」と記しましたが、この二つを仔細に較べてみると、どちらも「石山(番地)」が内陸部にかかっているのですが、微妙に町界線の引かれ方が異なります。札幌市で確かめた最新の地番図に照らすと、どうも昭文社のほうが正しいようです。私が前掲認定道路図に加筆した町界線も、アバウトながら地番図に基づきました。

 左岸(北側)の内陸側に食い込んでいる部分を拡大します。
札幌市地図情報 認定道路図 硬石山と石山(番地)
 ③硬石山と④石山(番地)は、市道が境目になっているようです。黄色の矢印で示した先に紺色の市道が通じており、これに沿って硬石山と石山(番地)が分かたれていると私は見ました。認定道路図を用いた理由はここにあります。ちなみに、この市道の路線名はと調べてみると、「石山線」と出ました。ここにも「石山」が出てくるのです。

 では、なぜ、豊平川左岸に「石山(番地)」が入り込んでいるのか? 言い換えれば、豊平川河畔まで完全に「硬石山」という町名になっていないのは、なぜか?
 私は当初、「硬石山」もおおまかには「石山」の一部だからと想ったのですが、それが理由ではないのですね。あえて、「硬石山」と「石山」の境目が、厳然と存在する。

 拙ブログでここ数日綴ってきた「硬石山 石材運搬軌道 再考」をご覧いただいた方の中にはすでにお察しかとも思いますが、稿を改めて解くこととします。
 

2019/04/21

豊平川左岸にも「石山」

 このたび南区硬石山のH産業を訊ねた際(4月18日ブログ参照)、手元の地図を眺めながら気づいたことがあります。
 
 私がふだん持ち歩いている携帯用地図帳です(昭文社『でっか字マップ 札幌小樽』2016年、p.91から)。
昭文社でっか字まっぷ 南区硬石山周辺
 赤い矢印を加筆した先に「石山」とあります。問題はその位置です。豊平川の左岸、硬石山側(画像の上方)に書かれています。単に表記上の処理ではありません。「石山」と書かれた北側(山側)に一点鎖線が引かれています。凡例によると、これは「町・大字界」です。つまり、「石山」という町名が豊平川の左岸側にもあることを示しています。
 
 私は現在、「石山」という町名は豊平川の右岸にしかないと私は思い込んでいました。右岸すなわち札幌軟石の産地が「石山」で、左岸すなわち札幌硬石の産地は「硬石山(末注)であるという理解です。明治の開拓期における呼称は縷々変遷があるのですが、ひとまず措きます。
 はじめは「ああ、左岸にも『石山』が遺っているんだなあ」くらいに漠然と思っていたのですが、別の地図も併せ見て「あれ?」と引っかかりました。

 札幌市南区役所発行の「みなみ区ガイド」2008年に載っている地図です。
札幌市南区ガイド2008年 硬石山周辺
 町界線の引かれ方が、どうも違います。

 当該部分を拡大します。
札幌市南区ガイド2008年 硬石山周辺 拡大
 町界線はやはり一点鎖線ですが、豊平川上のしかも右岸よりに引かれているのです。この地図だと、川を境にして左岸は硬石山、右岸は石山になります。

 冒頭に載せた昭文社の地図帳が2016年発行で、後者の「みなみ区ガイド」は2008年です。前者のほうが新しい。ということは、最近になって左岸側の一部が「石山」に町名変更されたのか。いや、それは極めて考えづらい。逆の場合はありうると思います。つまり、もともと「石山」という町名(字名)が左岸にもあったが、「硬石山」に変更された。そう考える理由は後述しますが、しかしそれだと前掲地図二者の発行年の時系列と齟齬をきたします。

 別の地図も引っ張り出して較べてみました。
ゼンリン住宅地図 2002年 硬石山周辺
 『ゼンリン住宅地図2002 札幌市南区』です(p.108)。
 一点鎖線が「大字・丁目界」で、やはり豊平川をもって分かたれています。左岸(北側)が硬石山、右岸(南側)は石山です。別のページも含めて、左岸側に「石山」はありません。

 このほかに見た地図も含め、時系列の古い順で並べ、左岸側がどうなっているか整理します。
①『ゼンリン住宅地図2002 札幌市南区』2001年(書名には「2002」とあるが、発行は2001年):左岸側に「石山」なし
②昭文社『ライトマップル 札幌小樽道路地図』』2002年、p.27:左岸側に「石山」あり
③「みなみ区ガイド」2008年 左岸側に「石山」なし
④「みなみ区ガイド&MAP」2013年:左岸側に「石山」なし
⑤昭文社『でっか字まっぷ 札幌小樽』2016年 左岸側に「石山」あり
⑥「みなみ区ガイド&MAP」2013年:左岸側に「石山」なし
(本日ブログで地図を載せたのは、①③⑤)

 手元にある中では、左岸側に「石山」の町名を載せているのは昭文社発行のものだけです。私は同社に大変失礼ながら、少なくとも⑤の2016年発行の地図は間違いではないかと思いました。この中でもっとも古い①ゼンリン地図が左岸側にないのと、何よりも行政機関である南区役所の刊行物において、昭文社の⑤よりも古い③④で「石山」を右岸側のみとしているからです。しかし、ほどなくこれは同社に濡れ衣を着せたと反省しました。
 
 同じ札幌市が発行する「札幌市町名・住居表示実施区域図」2014年です。
札幌市町名・住居表示実施区域図」2014年 硬石山周辺
 これは札幌市における町界に関してもっとも信頼すべき資料だと思います。

 くだんの箇所を拡大します。
札幌市町名・住居表示実施区域図」2014年 硬石山周辺 拡大
 町界線は紺色の太い実線です。赤い矢印で加筆した先に「石山(番地)」と書かれています。
 これを見ると、豊平川の河川敷地が「石山(番地)」です。左岸側にも一部かかっています。前掲「みなみ区ガイド」2008年では「硬石山」に含まれている一帯にも、「石山」があるのです。

 面白くなってきました。前にもこういうことがあったなあ(2014.12.24ブログ参照)。かような事象に遭遇するとワクワクゾクゾクする変態的嗜癖が私にはあります。

 注:町名としての読みは「かたいしやま」。2015.6.18ブログ札幌市サイト「現町名一覧-南区」ページ参照

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keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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