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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2019/03/31

再生間近のぽすとかん

 札幌建築鑑賞会のスタッフ5名で、「ぽすとかん」(旧石山郵便局、南区石山、2019.1.8ブログ参照)に行ってきました。
ぽすとかん リニューアルオープンに向けて 全景
 来月のリニューアルオープンに向けて、準備たけなわです。

 正面の「ぽすとかん」の「か」と「ん」が外されて、元の「山」と「石」が顔を出しています。
ぽすとかん リニューアルオープンに向けて 屋号
 石山郵便局当時の表号ですね。この「山」と「石」の実物を見るのは、私は初めてです。郵便局の役目を終えて「ぽすとかん」になる前は、たしか転用時の屋号が被さっていました。

 右から「石山郵便局」と刻まれた古い写真です。
旧石山郵便局 古写真 現役当時
 南区藤野のSさん撮影所蔵ですが、撮影年を聞き漏らしていました。昭和30-40年代でないかと思います。

 屋内では目下、ワークショップの最中です。
ぽすとかん リニューアルオープンに向けて 内装ワークショップ
 札幌軟石のピースを内装材として貼っています。鑑賞会メンバーも参加させてもらいました。完成が楽しみです。

 4月27日にリニューアルオープンします。カフェや「軟石や」の店舗が入り、憩いと集いの場となる予定です。
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2019/03/30

札幌軟石 小樽軟石 再考②

 越野武先生は『北海道における初期洋風建築の研究』1993年で、小樽の明治20年代は「爆発的ともいえるような石造建築の建設ラッシュであったと思われる」と述べています(p.296)。同書が引用する『小樽市史』によると、1891(明治24)年には営業倉庫63棟中石造41棟から、1897(明治30)年149棟中101棟へ増加しました。石蔵が増えた理由は何か。大火です。小樽では1885(明治18)、86(明治19)、87(明治20)年と、連続して大火が起きました。さらに明治30~40年代にかけても続いたそうです。建築の不燃耐火化として石造が促されたのでしょう。札幌軟石が小樽軟石とともにその供給源を果たしたと思います。

 それでは、小樽産と札幌産がどのように使われてきたか。
 私がこれまで一つの理解としてきたのは「使い分け」です。前述越野先生著書に依るもので、すでに2015.3.21ブログで引用しました。以下、再掲します(p.290、太字)。
 小樽におけるほかの例も含めても含めていえば、使用される軟石にはこのような質密なもの(引用者注:札幌軟石)と、質の粗い砂質凝灰岩(引用者注:小樽・奥沢、桃内産の軟石)の二種があって、ひとつの建物のめだつところとそうでないところで使いわけることがあり、さらに要所に安山岩-(中)硬石-が用いられているようである。

 私は、石造建築の重要な部分には密度・強度が相対的に高い札幌軟石(より枢要な個所には中硬石-末注①)、そうでないところには小樽軟石、という使い分けと大雑把に解釈してきました。

 例えば色内3丁目の「旧広海倉庫」です。
小樽 色内 広海倉庫 全景 
 1889(明治22)年築(末注②)。

 全体的には、小樽軟石と思われます。
小樽 色内 広海倉庫 小樽軟石?
 桃内産にありがちな黄色味がかった、脆そうな質感です(2015.9.9ブログ参照)。

 アーチの部分のみ、札幌軟石が用いられています。
小樽 色内 広海倉庫 アーチ 札幌軟石
 「ひとつの建物のめだつところ」(前掲引用)で、構造的にも重要な部分と思われるアーチに札幌軟石というのは、前述の私の解釈に合致します。

 ただし、この出入口はいろいろ改造された形跡が窺われます。アーチの下のペディメント部分が塗装された石材で嵌め殺されていたり、開口部が狭められて新たに同じく塗装された柱を建てているような気配です。このアーチが当初材なのかどうかという問題はありますが、ともかく要所に札幌軟石、ではあります。

 ところが、見て歩いた石造建築がおしなべて同じような使い分けかというと、そうではないのですね。固定観念が覆されるところが醍醐味でもあります。

注①:旧日本郵船小樽支店では登別中硬石(溶結凝灰岩)が用いられている。
注②:現地設置の小樽市説明板による。 

2019/03/29

札幌軟石 小樽軟石 再考

 3月25日ブログに綴った「札幌軟石は、いつから札幌軟石か?」に関連して、札幌建築鑑賞会スタッフSさんから、1909(明治42)年に刊行された書物にも「札幌軟石」という言葉が載っていることをお知らせいただきました。

 『最近之札幌』です。
最近之札幌 札幌軟石広告
 「北海道石材株式会社」の広告に「最良の建築用石材 札幌軟石」と書かれています。
 Sさん、どうもありがとうございました。これでまた一つ、「札幌軟石」が明治40年代には定着していたことを示す史料が得られました。

 明治の前期には「穴ノ沢(産の)軟石」だったものが明治後期に「札幌軟石」と呼称されるようになったことには、どのような事情があるのでしょうか。3月25日ブログでも記したように、穴ノ沢は当時、札幌郡平岸村でした。札幌(本府)の近郊だったのですが、これにあえて「札幌」を冠したのは、この軟石が札幌を経て遠隔の他の地域、特に都市部への販路拡大が背景にあったのではないかと私は思います。
 
 前回も引用させていただいた「博物館ゼミナール第18講 石造建築物の魅力の再発見」の第2回、駒木定正先生のお話によると、1909(明治42)年着工、1912(明治45)年竣工の「旧北海道銀行本店」(小樽市)は、札幌軟石を用いて建てられました。一方、これに先立つ「旧日本郵船小樽支店」1906(明治39)年は地元小樽産の軟石を積んでおり、札幌軟石は使われていません。
 明治の中期から後期にかけて小樽で石造の倉庫などが多く建てられました。これに小樽産とともに穴ノ沢産の軟石が流入したことによって、後者に「札幌」というブランドが促されたのではないでしょうか。

 そう想いながら、博物館ゼミナールの帰路、小樽駅までの道すがら石造倉庫にどの軟石がどのように使われているか、見て歩きました。小樽の石造建築については地元のTさんが悉皆的に調べておられますが、軟石の種類の全容は未解明と伺っています。

2019/03/28

福住六軒が国道36号を避けた理由

 一昨日(3月26日)ブログで、福住の「六軒」が「サッポロ越新道」に面して並んでいたことを綴りました。「新道」といっても、幕末安政期に拓かれた旧道です。昨日ブログでは、明治初期に「札幌本道」(のちの室蘭街道、国道36号の原形)が新たに整備されたことを述べ、そのルートが「サッポロ越新道」とは別に設けられた理由を推測しました。

 ここでさらなる、というか最終的な疑問にぶつかります。
 「六軒」はなぜ、新しい「札幌本道」ではなく、古い「札幌越新道」のほうに沿ったのでしょうか。
 理由として真っ先に考えられるのは、六軒がこの地に入植したとき、「札幌本道」がまだ通じていなかったのではないか、ということです。
 その謎を解く前に、昨日ブログに載せた「札幌郡各村地図」1874(明治7)年に描かれた「六軒」のあたりを拡大して、確認しておきます。
明治7年札幌郡各村地図 六軒 拡大
 くだんの六軒は、黄色の矢印の先に示したところです。3軒ずつ向かい合っている道が幕末のサッポロ越新道、並行して北側(画像上、上方)に通じているのが明治の札幌本道です。

 史実を時系列で以下、記します。
 1871(明治4)年3月:現在の岩手県から移民44戸が渡道、札幌本府に滞在
 同年5月:チキサプ(月寒)に入り、現在の豊平区月寒東1条2丁目あたりに仮住まい
 1872(明治5)年3月:札幌本道、道南から着工
 1873(明治6)年6月:札幌本道、完成
 
 『さっぽろ文庫50 開拓史時代』1989年、p.162と『新札幌市史 第八巻Ⅱ 年表・索引編』2008年、p.42、46、50に依拠しました。
 問題は「六軒」が入植した時期ですが、これらの文献では確かめられませんでした。ただ前者の『さっぽろ文庫50 開拓使時代』の記述からは、六軒を含む44戸の入植は1873(明治6)年の札幌本道開通の後のようにも読み取れます。もしそうだとすると、なおのこと、旧道たるサッポロ越新道沿いに六軒が向き合ったのが疑問に思えます。一方、昨日ブログでも言及した清田区の郷土史家R先生は、月寒村の「移住の当初は、千歳方面に向かう道路は、旧道(札幌越新道)筋のみであった」と述べています(末注)。

 六軒の入植者に土地が割り当てられたとき、新道たる札幌本道がまだ通じていなかったとみるのが順当かもしれません。しかし、あえて想像の翼を広げます。仮に札幌本道が通じていたとしても、どうもその新しい道沿いは避けたのではなかろうか。

 六軒が入植したあたりを現在の標高図に当てはめてみます。
標高図 サッポロ越新道 福住六軒
 六軒を赤い●で着色加筆しました。白ヌキがサッポロ越新道、赤茶色が札幌本道(現国道36号)、青の実線は現月寒川です。標高図は国土地理院サイトから、標高55m以下から5mごとの7色段彩で作りました。

 この標高図をにらみながら、あらためて冒頭掲載の明治7年「札幌郡各村地図」で当該箇所を見てみます。月寒川(川に沿って、文字が下から上へ「シツキサフ」と書かれている)を札幌本道が渡るあたりは、左岸側(画像上、左方)に小さな支川らしきも描かれています。

 国道36号、月寒川に架かる望月橋です(橋名については2018.8.28ブログ参照)。
月寒川 国道36号 望月橋 上流側
 右岸側から上流の方向を眺めました。前掲標高図に照らしても明らかなように、国道36号はこの橋を谷底として、かなり低くなっています。

 かつての札幌本道は、この川の両岸では土地が良くなかったのではないでしょうか。
 札幌市福住開基百年記念委員会編『福住 沿革と現況』1971年には、「現国道三六号線の始まり」が「大宇(ママ)回路」をとっていたことを述べています。これは「札幌本道」が通じる前の「サッポロ越新道」(旧道)の道筋を伝えたものです。同書では、旧道が“迂回”した理由を次のように記しています(p.8、太字)。
 これは現国道付近が湿地であったことによる。

 同書を編集したのは福住の生き字引、Yさん(2019.3.21ブログ参照)です。昨年9月、Yさんにお訊きしたとき、望月橋のあたりは「谷地だった」と語っておられました。

 これをもって、2018.9.21ブログ「福住六軒のなぜ?」の結論とします。同日ブログに寄せられたコメント(非公開)に、「例えば地盤がぐちゃぐちゃだったとか」という推測をいただいていました。ありていにいえばそういうことだったと想います。

 ところで、一昨日ブログで、このテーマを半年ぶりに取り上げた理由として「個人的な事情もあります」と記しました。それは、「サッポロ越新道を、松浦武四郎が通ったかどうか」という派生的疑問です。「個人的な事情」などと大袈裟にも形容したのは、先日のuhbの番組(3月15日ブログ参照)の収録のとき、この道を「松浦武四郎も、通ったかもしれません」と口を滑らしたことによります。
 
 注:了寛紀明『札幌本道と厚別(あしりべつ)地域の歴史~古文書を辿っての「清田発掘」~』2018年、p.46

2019/03/27

サッポロ越新道 札幌本道

 昨日ブログの続きです。
 現在の札幌中心部から千歳方面へは、国道36号が通じています。これは明治初期に整備された「札幌本道」を原形としています。しかし、それより前、幕末安政期に別の道が開鑿されていました。「サッポロ越新道」です。
 
 二つの道を現在の標高図に載せて、較べてみます。
標高図 サッポロ越新道 札幌本道
 白ヌキの線がサッポロ越新道の想定道跡、黒+赤茶色の実線が札幌本道(を原形とする国道36号、南東部の弯曲は旧道)です。白ヌキの道跡は清田区の郷土史家R先生の著作を参考にしました(末注①)。標高図は、標高55m以下から5mごとの7色段彩です。

 幕末まではもともと、黒の実線から白ヌキの道が通じていました。明治になって、新たに赤茶色の道が造られたのです。白ヌキの道は「新道」といいながら、明治期には古道になりました。素人的には、白ヌキの道を改良すればよかったものをと思うのですが、そうしなかったのはなぜか。 
 現在の標高図からかつての地形を想像することになるのですが、幕末のサッポロ越新道はアップダウンが激しかったのではないでしょうか。明治の札幌本道は、より平坦なところを選び直したように想えます。
 では、逆に幕末の時点では平坦な方に道を拓かなかったのではなぜでしょうか。これは「拓かなかった」というより「拓けなかった」のではないかと私は思います。
 前述のR先生は、サッポロ越新道が「現在の国道36号線より山側」を通っていることについて、「厚別川の湿地を避けて辿る様なルートをとっている。理由としては、ラウネナイ川・トンネ川・厚別川・三里川等の河川を渡る際に、危険をより少なくするための配慮からであったと思われる」と考察されています(末注②)。明治になって御雇外国人伝来の技術等が導入され、危険をある程度克服したのが札幌本道といえるかもしれません。

 注①:了寛紀明『札幌本道と厚別(あしりべつ)地域の歴史~古文書を辿っての「清田発掘」~』2018年、p.92
 注②:同上、p.91

2019/03/26

福住六軒のなぜ? 続き

 「札幌郡西部図」1873(明治6)年から、月寒村のあたりを抜粋したものです。
明治6年札幌郡西部図 六軒 再掲
 この部分は、2018.9.21ブログ「福住六軒のなぜ?」で一度載せました。黄色の矢印の先に示したところに、道をはさんで家屋が3軒ずつ6軒、並んでいます。 同日ブログの末尾を、私は次のようにしめくくりました(太字)。
 月寒川の左岸では現国道の原形たる街道沿いに家並が連なっているのがお判りいただけましょう。しかし、南東へ進むと、途中から道が鉤の手に枝分かれし、川を渡って六軒屋が並びます。「なぜ」というのは、六軒屋が現国道沿いに並ばずに、枝分かれした道に置かれたことの「なぜ?」です。

 この「なぜ?」について拙ブログでは問いっぱなしで終わっていたのですが、札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018福住編にご参加の方には私の推理をお伝えしました。このたびブログで半年ぶりに続けるのは、遠足にご参加いただいてない方とも共有したいということが主な理由のほかに、個人的な事情もあります。

 個人的事情は追って記すこととして、まずは同時代のもう一つの古地図をお示しします。
明治7年札幌郡各村地図 六軒
 「札幌郡各村地図」1874(明治7)年の同じ部分です。

 六軒のあたりの違いを較べてみて明らかなのは、六軒が並ぶ道が南東へ延びていることです。前掲「札幌郡西部図」では六軒のところで道が行き止まっています。後掲「札幌郡各村地図」が作成されたのは「西部図」の明治6年の一年後の明治7年です。しからば六軒の先に南東へ延びた道は新たに拓かれたのかというとさにあらで、この道は実は幕末からありました。ならばなぜ、一年古い「西部図」に描かれていないのかという疑問が募りますが、とりあえず措きます。

 六軒が面していた道は1850年代、幕末安政期に通じました(末注①)。「サッポロ越新道」です。前述の「途中から道が鉤の手に枝分かれし」たというのは、史実に則するならば正しくありません。もともとこの道が先にありきでした。明治になって現国道36号の原形となった道のほうが新たに造られ、「枝分かれ」したのです。開拓使による「札幌本道」です(末注②)。

 では、元の道があったのに、なぜ新たに造られたか。

 注①:『新札幌市史 第一巻通史一』1989年、p.820
 注②:『新札幌市史 第二巻通史二』1991年、p.190

2019/03/25

札幌軟石は、いつから札幌軟石か?

 南区石山で採掘されてきた支笏溶結凝灰岩を、石材として「札幌軟石」と呼んでいます。石山での切出しが終わった後、現在唯一商業生産している南区常盤で採れるものも、札幌軟石です。
 では、いつから札幌軟石と言われるようになったか。札幌市資料館で「札幌軟石と北の石文化」展(2月19日ブログ参照)を開催したとき、札幌軟石文化を語る会のSさんらと話題になりました。

 南区石山は、元は札幌郡豊平町大字平岸村字穴ノ沢でした(末注①)。その前は札幌郡豊平村大字平岸村で、軟石が見つけられた明治の初めの頃は、札幌郡平岸村です。『開拓使事業報告第三篇』1885年には、「鉱物」「札幌本庁」の明治8年の項に、「是歳石狩国札幌郡穴ノ沢ニ於テ建築用軟石千九百八十五個ヲ掘採ス」と記されています(旧字体は通用字体に書換え、以下同)。明治13年の項には「是歳石狩国札幌郡穴ノ沢軟石二万六千六百二十個石山硬石一万八百三十九個ヲ鑿採ス」とあります。明治14年の項でも同様に「是歳札幌郡穴ノ沢軟石五万七千三百七十個ヲ鑿取ス」。後二者は「穴ノ沢ニ於イテ軟石」の「ニ於イテ」を省いたのか、それとも「穴ノ沢軟石」と固有名詞化されたのか。

 札幌市公文書館に所蔵されている史料です。
札幌軟石共同販売所 リーフレット
 「札幌軟石共同販売所」が出した「道産唯一の耐火石材 札幌軟石」という標記されています。

 文面からして、昭和戦前期に発行されたものです。
札幌軟石共同販売所 リーフレット 文面

 こちらは同じく市公文書館蔵の札幌控訴院「会計記録」です(末注②)。
大正11年 札幌控訴院 会計記録 表紙
 1922(大正11)年「札幌控訴院庁舎基礎及腰積工事二関スルモノ」。

 その中の「工事費用内訳書」に「札幌軟石」という項目があります(黄色の矢印の先)。
大正11年 札幌控訴院 会計記録 工事費用内訳書 札幌軟石
 大正期には「札幌軟石」が定着していたようです。

 明治期にさかのぼります。
札幌郵便局本館仕様書 表紙
 「札幌郵便局本館新築仕様書」。これまた市公文書館蔵の「朴沢家文書」の一つです(末注③)。作成の年月日が記されていませんが、「札幌郵便局」が建てられたのが1910(明治43)年なので、その前のものでしょう。

 この中に「石材穴ノ沢産使用」という一節があります。
札幌郵便局本館新築仕様書 石材穴ノ沢産使用

 別のページには「札幌軟石使用」とも記されています。
札幌郵便局本館新築仕様書 「札幌軟石使用」

 小樽市総合博物館で3月23日に催された「博物館ゼミナール第18講 石造建築物の魅力の再発見」の第2回、駒木定正先生のお話で、「旧北海道銀行本店」(現北海道中央バス本社、小樽バイン)の平面図が紹介されました。
旧北海道銀行本店
 1909(明治42)年着工、1912(明治45)年竣工の建物です。外壁が塗装されていて一見それとわかりませんが、札幌軟石を積んでいます(と、私は初めて知りました)。この設計図面に「札幌軟石」と書かれているのを、このたび見せていただきました。

 こうしてみると、明治40年代には「札幌軟石」と呼ばれていたと思われます。

注①:関秀志編『札幌の地名がわかる本』2018年、p.118
注②:本件書類については2015.10.9ブログ参照
注③:本件に関しては2015.3.18ブログ参照

2019/03/24

「慈恵」はどれだけ遺っているか ②

 地下鉄自衛隊前駅を出て、東へ歩きました。
澄川4条7丁目 “木挽山通り”
 南区澄川4条7丁目です。

 電柱には「慈恵幹」が付いています。
澄川4条7丁目 電柱「慈恵幹」
 反射板のところに貼られている緑色の「木挽山通り」という看板は、地元の町内会が近年作ったもののようです。反射板を隠しちゃっていいのかなと、ちょっと気になりましたが。もしかしたら反射材なのかな。

 札幌新陽高校の校門から北への坂道を下ったところの街区公園です。
澄川慈恵公園
 「澄川慈恵公園」。

 看板の「慈恵」の「恵」という字の右肩に「」が付いています(黄色の矢印の先)。
澄川慈恵公園 看板
 俗字なので、文字を変換できませんでした。
 正字ではなく「」が付いていることに感じ入ります。製作者が「」付きの俗字を正字と誤解していただけとは、私は想いたくない。

 ならば、当の学校はどういう字を用いているかと確かめたところ…。
札幌新陽高校 校門
 校門の左のほうに、学校法人銘「札幌慈恵學園」が刻まれています。

 こちらの「恵」は正字で「」は付いていません。
札幌新陽高校 校門 法人銘
 「学園」の「学」は旧字体「學」ですが、「恵」は通用字体です。

 駅近くに、地元の町内会の案内看板が立てられています。
澄川新陽町内会 看板
 「澄川新陽町内会」。
 前掲の「慈恵幹」電柱は、おおむねこの町内会のエリアと重なって確認できました。町名でいうと澄川4~5条6~7丁目です。
 私の現地踏査では、「慈恵」は昨日ブログの橋名のほか電柱名と公園名でした。

 『郷土誌 澄川ものがたり』2002年に学校法人札幌慈恵学園の理事長さん(当時)が寄せた「地域発展の中における本校-語りつくせない関係-」(pp.155-161)から、一部を引用します(太字)。
 かつての通学路には「慈恵」「じけい」という名を冠した店があちこちにありました。たまたま本校の歩みと街が拡張し、発展し、商店が増えるテンポと合致したからでしょう。

 その、かつての通学路とおぼしき道です。
市道澄川水源地連絡線 澄川4条6丁目
 画像中央、地下鉄シェルターの下あたりに定山渓鉄道の「慈恵学園停留場」がありました(末注)。現在は児童会館や消防署が建っています。

 ゼンリン住宅地図2002年版をみると、この道路に沿って「ジケイデンキ」「じけいハイツ」という建物が書かれています。画像の右方(北側)です。このたび現地を確かめましたが、どちらも残っていませんでした。民間の建物などの名称は変化が速く、公共的な施設には化石的・記念碑的に遺るのだなあとあらためて思います。

 注:『さっぽろ文庫11 札幌の駅』1979年、p.239

2019/03/23

「慈恵」はどれだけ遺っているか

 講演会とか市民向けの○○講座といったたぐいの催事の醍醐味の一つは、受講者とのやりとりといえるでしょう。いわゆる質疑応答などです。前にも記したように、どこから“弾”が飛んでくるか、およそ想像がつきません(2018.1.6ブログ参照)。「お話とは直接関係ないかもしれませんが…」という切り出しで、かなりマニアックなお尋ねが出たりします。これを受けるのは、自らが喋り手となってこそ得られる貴重な体験です。
 講師の話を一方的に聴くだけなら、極論すればわざわざ会場に出向く意味はありません(末注)。ただし、2月25日ブログへのコメントでご指摘されるとおり、私自身が主催に関わる行事も含め、質疑応答は工夫の余地があると思います。
 
 という前置きのもとで、自分が俎上に載らないで聴衆の一人として参加するのは気持ちが楽です。質疑応答も、ゆとりを持って耳を傾けられます。3月23日に開催された「さっぽろ川めぐり講座」も、その一つです。この「講座」は、昨年度私も語り手を務め、今年度は主催者から周知への協力を依頼されたこともあり、面白くお聴きしました。

 講師のお話の後に参加者のお二人から出された質問が、以下のとおりです。
 ・手稲区を流れる川で、三樽別川などはアイヌ語由来である。「軽川」にもアイヌ語の(由緒ある?)川名があったのに、なぜ「軽川」に変えられたのか?
 ・南区から豊平区にかけてかつて流れていた「小泉川」は、郷土史の本などでは札幌新陽高校のあたりにミナモトがあったとされているが、もっと奥から流れていたのではないか?

 実に局部刺激的です。この日の本来のテーマからすればどうかなとは思うのですが、自分が当事者でないと楽しめます。「世の中には、こういうことに疑問を持つ人がいるんだなあ」と、自らを棚に挙げつつ、感銘しました。
 私は後者のことが差し当たって気になり、質問された方を終了後につかまえ、いろいろお尋ねしました。我ながら、輪をかけています。その話はまた別に譲るとして、早速現地に足を運びました。

 小泉川(2017.10.11ブログ参照)のことはさて措いて、まず気になったのはこちらです。
精進川 慈恵橋
 地下鉄南北線の「自衛隊前」駅の近くを流れる精進川。

 地上を走る地下鉄に並行する平岸通に、「慈恵橋」が架かっています。
精進川 慈恵橋 橋名板
 学校法人名に冠しつつも高校の名前からは消えた「慈恵」が、地域にどれだけ遺っているか、探してみました。

 注:著書名は忘れたが、これは本多勝一氏の持論

2019/03/22

フシコハチャムと鮭見川のつながりぐあい

 3月16日17日ブログの続きです。

 琴似発寒川扇状地の旧河道と想われるフシコハチャム(古発寒川)跡の下流に鮭見(美)川が現在、流れています。2017年3月8日ブログに載せた河川網図の該当部分を再掲します。
河川網図 鮭見川 再掲
 「現在、流れています」といっても、暗渠です。

 地上を流れていた頃の河道を1947(昭和22)年米軍撮影の空中写真で読み取って、なぞってみます(2017年3月11日ブログ参照)。
空中写真 1947年米軍 鮭見川推定
 水色がその河道、濃い青は現琴似発寒川、茶色は発寒の基軸道路ともいえる市道稲荷線及び南発寒線(新琴似通)(の原形)です。2017年3月12日ブログで私は、「鮭美川の一帯も中の川同様、地形的には自然河川だったとみてよいのではないか。琴似発寒川の扇状地から湧き出た水が小河川となったのでしょう」と、結論づけました。結論づけるというほど大仰なことではありませんが、ともあれ田畑の開墾とともに用水路として人工的に整形されていったのでしょう。

 3月16日ブログで私が想像したフシコハチャムの河道跡も再掲します。
大正5年地形図 発寒川 等高線、旧河道推定着色
 大正5年地形図への着色加筆です。河道跡を濃い青の破線でなぞりました。

 画像3点を較べて観ると、私の想像旧河道と鮭見川はズレています。古地図や空中写真を私がイイカゲンに読み取っているという前提ですが、まあ扇状地ですから、河道は時代によって縦横無尽に流れていたとも想えます。札幌扇状地において古豊平川の網流跡にメムが湧き出てサクシコトニやコトニなどの小河川が流れたのと同じ関係といえるのでしょう。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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