札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
もう尽きたかと思った望月、まだ尽きず
白石区東札幌に「もつき公園」があります。

私は三十数年前、「『もつき』って何じゃ?」と想いました。札幌に住み始めて数年あまりで、まだ地理に疎かったのです。しばらくして、近くを望月寒(もつきさむ)川が流れていることを知りました。
この公園の名前が記憶に遺っていたこともあり、川の上流の市道「西岡87号線」に架かる「望月橋」(8月29日ブログ参照)は「もつき」橋に違いないと思いました。「もつき公園」は「近隣公園」で、管理は区土木部です。西岡87号線は生活道路だろうから、管理はやはり区土木部でしょう。どちらも区土木部で、公園が「もつき」なら橋名も「もつき」だろう。…と想った私は浅はかでした。
8月29日ブログに記したとおり、「望月橋」は「もうつきばし」です。川の下流の国道12号に架かる開発局管理の「望月寒橋」も、「もうつきさむ」橋です(9月24日ブログ参照)。国道36号の「望月橋」もまた、「もうつき」橋(8月28日ブログ参照)。
さて、望月寒川にはさらに、「望月寒9号橋」と「望月寒拾号橋」という橋が架かっています。これまでの伝に倣えば、橋名は「もうつきさむ」と読ませることが類推されます。類推されるのですが、油断はなりません。現地を確認する必要があります。
まず、望月寒9号橋です。

その上流には、望月寒拾号橋。

かたや算用数字で「9号橋」、かたや漢数字でしかも繁体の「拾号橋」という違いは何ぞや。かように余計な疑問は捨象します。しかも下流に「望月寒1~8号」橋はあるのか。それも問題外です。
さて、何と読ませているでしょうか?
ついでながら。

望月拾号橋のさらに上流、豊平区美園に「望月湯」という公衆浴場があります。
このお風呂屋さんは何と読むのでしょう?
追記:2018年10月1日ブログに関連事項記述

私は三十数年前、「『もつき』って何じゃ?」と想いました。札幌に住み始めて数年あまりで、まだ地理に疎かったのです。しばらくして、近くを望月寒(もつきさむ)川が流れていることを知りました。
この公園の名前が記憶に遺っていたこともあり、川の上流の市道「西岡87号線」に架かる「望月橋」(8月29日ブログ参照)は「もつき」橋に違いないと思いました。「もつき公園」は「近隣公園」で、管理は区土木部です。西岡87号線は生活道路だろうから、管理はやはり区土木部でしょう。どちらも区土木部で、公園が「もつき」なら橋名も「もつき」だろう。…と想った私は浅はかでした。
8月29日ブログに記したとおり、「望月橋」は「もうつきばし」です。川の下流の国道12号に架かる開発局管理の「望月寒橋」も、「もうつきさむ」橋です(9月24日ブログ参照)。国道36号の「望月橋」もまた、「もうつき」橋(8月28日ブログ参照)。
さて、望月寒川にはさらに、「望月寒9号橋」と「望月寒拾号橋」という橋が架かっています。これまでの伝に倣えば、橋名は「もうつきさむ」と読ませることが類推されます。類推されるのですが、油断はなりません。現地を確認する必要があります。
まず、望月寒9号橋です。

その上流には、望月寒拾号橋。

かたや算用数字で「9号橋」、かたや漢数字でしかも繁体の「拾号橋」という違いは何ぞや。かように余計な疑問は捨象します。しかも下流に「望月寒1~8号」橋はあるのか。それも問題外です。
さて、何と読ませているでしょうか?
ついでながら。

望月拾号橋のさらに上流、豊平区美園に「望月湯」という公衆浴場があります。
このお風呂屋さんは何と読むのでしょう?
追記:2018年10月1日ブログに関連事項記述
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安平町の被災軟石建物
このたびの北海道胆振東部地震で倒壊した安平町の石造建物について、続報を得ました。
9月20日ブログで記した「北海道ヘリテージ・コーディネーター」のYさんによる追跡調査及び「小樽軟石研究会」Tさんの現地調査を突き合わせた結果です。
・安平町早来地区の市街地にあった3棟(れきけんフェイスブック参照)の現況
①国道沿いでカフェに再利用されていた建物:倒壊のため解体撤去
②酒店の併設蔵:大きな損壊
③蔵:ひび割れ
・建物の構造等
①純石造 軟石5寸厚 基礎:登別中硬石、本体:札幌軟石
②純石造 軟石1尺厚 基礎:登別中硬石 本体:島松軟石、軒:小樽軟石
③木骨石造
構造等は前述の信頼すべき情報に基づきますが、確定はできません。とりあえずはすべて、「?」付きとさせてください。その前提での話ですが、純石造⇔木骨石造では純石造の、しかも軟石の厚みの薄いほうが損壊の度合いが大きかったと窺われます。3棟の中では③の木骨石造の損傷度が低かったようです(さりとて「軽微」とはいえないでしょう)。
②③は、ダメージを受けつつも現存しています。
解体された①の建物の瓦礫をお譲りいただきました。

前述のYさんが所有者の許諾を得て入手したものです。
画像右側が基礎に使われていた登別中硬石、左側が本体の札幌軟石と見られます。このたびの災厄に際して非常に切ないのですが、「軟石建物ありき」という記憶を留めることに意味があると念じて記させてください。
①にせよ②にせよ、複数の石材を使い分けていたことは特筆したいと思います。石材の使い分けは、札幌では旧札幌控訴院(現札幌市資料館)に見られます(末注①)。外壁は全体的に札幌軟石ですが、要所に硬石を用いています。また、「旧札幌郵便局」(現存せず)は要所に登別中硬石を使っていました(2015.3.21ブログ参照)。小樽の「旧日本郵船小樽支店」も、小樽軟石と登別中硬石の使い分けです。
札幌市内に現存する軟石建物の多くは、札幌軟石のみで造られています(末注②)。石材の使い分けは管見の限り、札幌や小樽では著名な公共的建築に限られていました。それが安平早来に流布していたのです。札幌と登別のほぼ中間に位置するという地域性のなせるわざでしょうか。なお、Yさんによると、①は小樽の板谷商会ゆかりの建物だったとのことです。(2018.10.7削除)。
北海道新聞本日(9月29日)夕刊に、②の酒蔵のことが報じられました(引用太字)。
石蔵の修復には少なくとも500万円以上が見込まれる。Sさん(引用者注:記事では実名)は「慣れ親しんだ建物が町内で次々と取り壊されている。石蔵は何とか残したい」と、インターネットで寄付を集めるクラウドファンディング(CF)などでの再建も視野に入れている。
応援したい。
注①:躯体は煉瓦、RCとの混構造である。
注②:南区硬石山の麓の軟石建物では基礎に硬石を積んでいる(2015.6.20ブログ参照)。
2018.10.7 上記「①は小樽の板谷商会ゆかりの建物だったとのことです」について、確証が得られていないため、いったん削除します。なお、「板谷商会」ではなく「板谷商船」。併せて、2018.10.7ブログに関連事項を記述しましたので、ご参照ください。
9月20日ブログで記した「北海道ヘリテージ・コーディネーター」のYさんによる追跡調査及び「小樽軟石研究会」Tさんの現地調査を突き合わせた結果です。
・安平町早来地区の市街地にあった3棟(れきけんフェイスブック参照)の現況
①国道沿いでカフェに再利用されていた建物:倒壊のため解体撤去
②酒店の併設蔵:大きな損壊
③蔵:ひび割れ
・建物の構造等
①純石造 軟石5寸厚 基礎:登別中硬石、本体:札幌軟石
②純石造 軟石1尺厚 基礎:登別中硬石 本体:島松軟石、軒:小樽軟石
③木骨石造
構造等は前述の信頼すべき情報に基づきますが、確定はできません。とりあえずはすべて、「?」付きとさせてください。その前提での話ですが、純石造⇔木骨石造では純石造の、しかも軟石の厚みの薄いほうが損壊の度合いが大きかったと窺われます。3棟の中では③の木骨石造の損傷度が低かったようです(さりとて「軽微」とはいえないでしょう)。
②③は、ダメージを受けつつも現存しています。
解体された①の建物の瓦礫をお譲りいただきました。

前述のYさんが所有者の許諾を得て入手したものです。
画像右側が基礎に使われていた登別中硬石、左側が本体の札幌軟石と見られます。このたびの災厄に際して非常に切ないのですが、「軟石建物ありき」という記憶を留めることに意味があると念じて記させてください。
①にせよ②にせよ、複数の石材を使い分けていたことは特筆したいと思います。石材の使い分けは、札幌では旧札幌控訴院(現札幌市資料館)に見られます(末注①)。外壁は全体的に札幌軟石ですが、要所に硬石を用いています。また、「旧札幌郵便局」(現存せず)は要所に登別中硬石を使っていました(2015.3.21ブログ参照)。小樽の「旧日本郵船小樽支店」も、小樽軟石と登別中硬石の使い分けです。
札幌市内に現存する軟石建物の多くは、札幌軟石のみで造られています(末注②)。石材の使い分けは管見の限り、札幌や小樽では著名な公共的建築に限られていました。それが安平早来に流布していたのです。札幌と登別のほぼ中間に位置するという地域性のなせるわざでしょうか。
北海道新聞本日(9月29日)夕刊に、②の酒蔵のことが報じられました(引用太字)。
石蔵の修復には少なくとも500万円以上が見込まれる。Sさん(引用者注:記事では実名)は「慣れ親しんだ建物が町内で次々と取り壊されている。石蔵は何とか残したい」と、インターネットで寄付を集めるクラウドファンディング(CF)などでの再建も視野に入れている。
応援したい。
注①:躯体は煉瓦、RCとの混構造である。
注②:南区硬石山の麓の軟石建物では基礎に硬石を積んでいる(2015.6.20ブログ参照)。
2018.10.7 上記「①は小樽の板谷商会ゆかりの建物だったとのことです」について、確証が得られていないため、いったん削除します。なお、「板谷商会」ではなく「板谷商船」。併せて、2018.10.7ブログに関連事項を記述しましたので、ご参照ください。
小野幌小学校のマツ並木
市道小野幌線(昨日、一昨日ブログ参照)に沿って、小野幌小学校にマツの並木が植わさって(北海道弁)います。

このマツの木は、学校のシンボルです。マツの木というのですが、樹種は何でしょうか?
実は、この木々は近々伐採されるそうです。
さる9月22日に催行した「厚別歴史散歩」小野幌編で訪れたとき、教頭先生からお聞きしました。老朽化し、倒木の恐れがあるからです。倒れると、通りの向かい側の民家を直撃する危険があります。
『開校八十周年記念誌「小野幌」』1978年の「大正のころ」に、次のとおり書かれています(pp.71-72、太字、原文ママ)。
今、グランドに三本ならんで立っている松は、このころの生とが林業しけん場まで遠足に行った時、みんなでもらってきて、うえたものです。今みんなが毎日、学校の行き帰りにみている三本松です。
昨日ブログに載せた空中写真のとおり、かつてはこのマツの木側(小野幌線に面する側)に運動場がありました。「三本松」ということですが、現在はもっと多く植わさっています。
1958(昭和33)年、開校60周年で作られた校歌の二番です(『小野幌開基百年』1988年、pp.145-146、太字)。
♪松のみどりの 広庭にしらかば写す 池の面に しずかに学ぶ わたしたち 楽しい学校 小野幌♪
同校の校章です。

この校章も、開校60周年時、校歌とともに制定されました(同上pp.145-146)。
「北国の寒さや、雪に負けないで、みんながすくすく育つように、雪の結晶と、えぞ松をかたどってつくられたものです」(同上、p.146)。
校歌の三番には校章も歌われています(同上p.146)。
♪雪にまけない えぞ松をかたどる校章 胸にして つよく体を きたえてはあふれる力 小野幌♪
前掲校地に植えられているマツはエゾマツではないように見えますがどうでしょう。ともあれ、校歌二番に歌われているマツの木は姿を消します。おりしも先日の歴史散歩は見納めとなりました。

このマツの木は、学校のシンボルです。マツの木というのですが、樹種は何でしょうか?
実は、この木々は近々伐採されるそうです。
さる9月22日に催行した「厚別歴史散歩」小野幌編で訪れたとき、教頭先生からお聞きしました。老朽化し、倒木の恐れがあるからです。倒れると、通りの向かい側の民家を直撃する危険があります。
『開校八十周年記念誌「小野幌」』1978年の「大正のころ」に、次のとおり書かれています(pp.71-72、太字、原文ママ)。
今、グランドに三本ならんで立っている松は、このころの生とが林業しけん場まで遠足に行った時、みんなでもらってきて、うえたものです。今みんなが毎日、学校の行き帰りにみている三本松です。
昨日ブログに載せた空中写真のとおり、かつてはこのマツの木側(小野幌線に面する側)に運動場がありました。「三本松」ということですが、現在はもっと多く植わさっています。
1958(昭和33)年、開校60周年で作られた校歌の二番です(『小野幌開基百年』1988年、pp.145-146、太字)。
♪松のみどりの 広庭にしらかば写す 池の面に しずかに学ぶ わたしたち 楽しい学校 小野幌♪
同校の校章です。

この校章も、開校60周年時、校歌とともに制定されました(同上pp.145-146)。
「北国の寒さや、雪に負けないで、みんながすくすく育つように、雪の結晶と、えぞ松をかたどってつくられたものです」(同上、p.146)。
校歌の三番には校章も歌われています(同上p.146)。
♪雪にまけない えぞ松をかたどる校章 胸にして つよく体を きたえてはあふれる力 小野幌♪
前掲校地に植えられているマツはエゾマツではないように見えますがどうでしょう。ともあれ、校歌二番に歌われているマツの木は姿を消します。おりしも先日の歴史散歩は見納めとなりました。
厚別東の変形交差点 ②
昨日ブログの続きです。
市道「小野幌線」を現在図で見てみます。

赤い線でなぞったのが小野幌線、橙色が市道「試験場線」、黄色は原始林通りです。
小野幌線の西端は、橙色の市道「試験場線」から発します。赤い●を付けたところです。東進し、途中で黄色の原始林通りと一部重なり、「へ」の字型に折れます。これは黄色の原始林通りが通じたことによる変形でしょう。東端は矢印→の先に至ります。小野津幌川に架かる「吉村橋」です。
古い空中写真で、小野幌線を見ます。

赤い●が西端、矢印→の先が東端です。
原始林通りがまだ開かれておらず、このあたりで東西に通じる道は小野幌線だけであることが判ります。道が一本なので、前掲現在図に見られる「ヘ」の字型の変形は生じていません。
小野幌線という市道の名称自体が古道であることを物語っているともいえましょう。札幌市の「地図情報サービス」を見ると、ほかの新しい道路は「厚別東○条○丁目○号線」というような表示です。
前掲現在図及び1961年空中写真で緑色の▲の先で示したところの現況です。

画像上、奥へ細い仲通りが通じています。この仲通りが小野幌線です。道の右側は小野幌小学校です。1961年空中写真には、校庭の楕円形トラックが写っています。
古道であることはおそらく人びとの記憶に薄れつつあるのではないかと思いますが、証が現地に遺っています。

小野幌小学校の古い校門です。札幌軟石製。
この校門は現在、不自然な位置にあります。この門を通っても、ただちには校舎玄関に達しません。しかし、かつてはメインアプローチでした(末注)。同時に、この門に面する道がかつてのメインルートであったことを今に伝えています。
門柱に標記された学校の所在地名です。

「札幌市厚別町下野幌二十四番地」。
私はこれまで、このあたりを全体的に漠然と「小野幌」と認識していたのですが、小学校の所在地はかつての町名字名としては「厚別町下野幌」でした。『小野幌開基百年』1988年によると、ちょうど小野幌線を境にして以北の字名が「小野幌」、以南が「下野幌」だったのです(p.270)。現在はどちらも町名は「厚別東」で、小学校は厚別東2条4丁目に位置します。
小学校の旧字名が「下野幌」であったことを示す、もう一つの痕跡を見つけました。

校門の傍に立つ電柱です。
例によって銘鈑を確かめると…。

「第2下野幌幹」と書かれています。
注:「古い校門」と記したが、この学校の「校門」は本件のみで、新しい門があるわけではない。現在の校舎への入口に門柱はなく、コンクリートの塀に校名鈑が貼られている。
市道「小野幌線」を現在図で見てみます。

赤い線でなぞったのが小野幌線、橙色が市道「試験場線」、黄色は原始林通りです。
小野幌線の西端は、橙色の市道「試験場線」から発します。赤い●を付けたところです。東進し、途中で黄色の原始林通りと一部重なり、「へ」の字型に折れます。これは黄色の原始林通りが通じたことによる変形でしょう。東端は矢印→の先に至ります。小野津幌川に架かる「吉村橋」です。
古い空中写真で、小野幌線を見ます。

赤い●が西端、矢印→の先が東端です。
原始林通りがまだ開かれておらず、このあたりで東西に通じる道は小野幌線だけであることが判ります。道が一本なので、前掲現在図に見られる「ヘ」の字型の変形は生じていません。
小野幌線という市道の名称自体が古道であることを物語っているともいえましょう。札幌市の「地図情報サービス」を見ると、ほかの新しい道路は「厚別東○条○丁目○号線」というような表示です。
前掲現在図及び1961年空中写真で緑色の▲の先で示したところの現況です。

画像上、奥へ細い仲通りが通じています。この仲通りが小野幌線です。道の右側は小野幌小学校です。1961年空中写真には、校庭の楕円形トラックが写っています。
古道であることはおそらく人びとの記憶に薄れつつあるのではないかと思いますが、証が現地に遺っています。

小野幌小学校の古い校門です。札幌軟石製。
この校門は現在、不自然な位置にあります。この門を通っても、ただちには校舎玄関に達しません。しかし、かつてはメインアプローチでした(末注)。同時に、この門に面する道がかつてのメインルートであったことを今に伝えています。
門柱に標記された学校の所在地名です。

「札幌市厚別町下野幌二十四番地」。
私はこれまで、このあたりを全体的に漠然と「小野幌」と認識していたのですが、小学校の所在地はかつての町名字名としては「厚別町下野幌」でした。『小野幌開基百年』1988年によると、ちょうど小野幌線を境にして以北の字名が「小野幌」、以南が「下野幌」だったのです(p.270)。現在はどちらも町名は「厚別東」で、小学校は厚別東2条4丁目に位置します。
小学校の旧字名が「下野幌」であったことを示す、もう一つの痕跡を見つけました。

校門の傍に立つ電柱です。
例によって銘鈑を確かめると…。

「第2下野幌幹」と書かれています。
注:「古い校門」と記したが、この学校の「校門」は本件のみで、新しい門があるわけではない。現在の校舎への入口に門柱はなく、コンクリートの塀に校名鈑が貼られている。
厚別東の変形交差点 ①
厚別東地区には変形交差点がいくつかあります。

①:南郷通りと市道「試験場線」の三叉路
②:原始林通りと市道「小野幌線」の三叉路
③:国道12号と市道「厚別中央線」の三叉路
④:市道「試験場線」のJR「西通り踏切」におけるクランク
④はクランクなのですが、JR線と交わる踏切ということで変形交差点に含めました。なぜ、このような変形が生み出されたか。④については先に考察しました(2017.10.29、30、31、11.1各ブログ参照)。9月22日の「厚別歴史散歩」で②と③を歩きましたので、本日は②から取り上げます。
②の三叉路は、厚別東3条3丁目にあります。

画像左方の広い道路が原始林通り、右方の細い道が市道「小野幌線」です。
現在図を拡大します。

前掲現況写真は、赤い▲の先に示したところです。
なぜ、ここに三叉路ができたか。
古地図や古空中写真を追っていけば一目瞭然で、もともと小野幌線が古道としてあったところに後年、原始林通りが通じたからです。しかし、それで終わっては身もふたもないので、もう少し続けさせてください。
色別標高図を見ます。

10m以下から5mごとの色分けで作りました。水色から赤茶色の濃くなるにつれて標高が上がります。
原始林通りは、画像左下の野津幌川からかなり急な坂を上っていることがお判りいただけるかと思います。この道路を現代土木技術の結晶というならば、小野幌線は近代の産物です。後者については後述します。ともあれ、近代と現代のせめぎ合いが三叉路を生んだといえます。

①:南郷通りと市道「試験場線」の三叉路
②:原始林通りと市道「小野幌線」の三叉路
③:国道12号と市道「厚別中央線」の三叉路
④:市道「試験場線」のJR「西通り踏切」におけるクランク
④はクランクなのですが、JR線と交わる踏切ということで変形交差点に含めました。なぜ、このような変形が生み出されたか。④については先に考察しました(2017.10.29、30、31、11.1各ブログ参照)。9月22日の「厚別歴史散歩」で②と③を歩きましたので、本日は②から取り上げます。
②の三叉路は、厚別東3条3丁目にあります。

画像左方の広い道路が原始林通り、右方の細い道が市道「小野幌線」です。
現在図を拡大します。

前掲現況写真は、赤い▲の先に示したところです。
なぜ、ここに三叉路ができたか。
古地図や古空中写真を追っていけば一目瞭然で、もともと小野幌線が古道としてあったところに後年、原始林通りが通じたからです。しかし、それで終わっては身もふたもないので、もう少し続けさせてください。
色別標高図を見ます。

10m以下から5mごとの色分けで作りました。水色から赤茶色の濃くなるにつれて標高が上がります。
原始林通りは、画像左下の野津幌川からかなり急な坂を上っていることがお判りいただけるかと思います。この道路を現代土木技術の結晶というならば、小野幌線は近代の産物です。後者については後述します。ともあれ、近代と現代のせめぎ合いが三叉路を生んだといえます。
「北海道がたどった道」展
「パネルで見る北海道史 北海道がたどった道」という展示が、赤れんが庁舎で催されています。

本日(9月25日)から30日まで、2階2号会議室です。
↓
https://hokkaido150.jp/project/recommended/2018/09/21/post-4295/
旧石器時代以来現在までの北海道の歴史が100枚のパネルに収められています。


画像が見づらい方は、下記「北海道150年事業実行委員会」サイト掲載チラシをご覧ください。
↓
https://hokkaido150.jp/wp-content/uploads/2018/09/rekishi_panel_chirashi.pdf
かなり、中身の濃い展示です。
道庁赤れんが2階の一室でこれだけの情報が発信されていることに、私はもったいなさを感じてしまいました。「道庁赤れんが2階の一室」という場所には、「北海道民があまり足を運ぶことがないであろう」という修飾句を付けたくなるからです。無いものねだりで申し訳ないのですが、通りがかりにさっと見ていけるような、たとえばチカホのような空間で展示してほしかったなと思います。
正直に告白しますと、100枚のパネルのうちの4枚、私は原稿を書きました(末注①)。その私が「中身の濃い」展示というのは手前味噌だし、場所を高望みするのは不遜です。道庁赤れんがは、この催しには恰好かもしれません。「北海道150年」のいわば本丸です。ただ、どうも私は閉鎖的な空間で盛りだくさんの情報量に接すると、腹部膨満感が募ってしまうのです。いや、消化吸収能力はひとそれぞれだし、自分がそうだから皆そうだろうと類推するのは自戒せねばなりません。
それでもなお、この展示をとりまとめたKさんの大変な労力を察するだけに(末注②)、もっと人目を惹いてほしいと願います。
注①:私が担当したのは以下のパネル。
№25 札幌に築かれた「北海道」の礎
№26 大通公園の今昔
№41 「赤れんが庁舎」は、ビル何階分の高さなの?
№54 街をつくった煉瓦や石は、どこから調達したの?
ただし、原文は編集の過程でほとんど跡形をなくしている。
注②:何が大変と言って、旧石器以来3万年の史実を跡づけるのもさることながら、「歴史観」の統合という作業は想像を絶する。

本日(9月25日)から30日まで、2階2号会議室です。
↓
https://hokkaido150.jp/project/recommended/2018/09/21/post-4295/
旧石器時代以来現在までの北海道の歴史が100枚のパネルに収められています。


画像が見づらい方は、下記「北海道150年事業実行委員会」サイト掲載チラシをご覧ください。
↓
https://hokkaido150.jp/wp-content/uploads/2018/09/rekishi_panel_chirashi.pdf
かなり、中身の濃い展示です。
道庁赤れんが2階の一室でこれだけの情報が発信されていることに、私はもったいなさを感じてしまいました。「道庁赤れんが2階の一室」という場所には、「北海道民があまり足を運ぶことがないであろう」という修飾句を付けたくなるからです。無いものねだりで申し訳ないのですが、通りがかりにさっと見ていけるような、たとえばチカホのような空間で展示してほしかったなと思います。
正直に告白しますと、100枚のパネルのうちの4枚、私は原稿を書きました(末注①)。その私が「中身の濃い」展示というのは手前味噌だし、場所を高望みするのは不遜です。道庁赤れんがは、この催しには恰好かもしれません。「北海道150年」のいわば本丸です。ただ、どうも私は閉鎖的な空間で盛りだくさんの情報量に接すると、腹部膨満感が募ってしまうのです。いや、消化吸収能力はひとそれぞれだし、自分がそうだから皆そうだろうと類推するのは自戒せねばなりません。
それでもなお、この展示をとりまとめたKさんの大変な労力を察するだけに(末注②)、もっと人目を惹いてほしいと願います。
注①:私が担当したのは以下のパネル。
№25 札幌に築かれた「北海道」の礎
№26 大通公園の今昔
№41 「赤れんが庁舎」は、ビル何階分の高さなの?
№54 街をつくった煉瓦や石は、どこから調達したの?
ただし、原文は編集の過程でほとんど跡形をなくしている。
注②:何が大変と言って、旧石器以来3万年の史実を跡づけるのもさることながら、「歴史観」の統合という作業は想像を絶する。
仲秋の望月に想う
先に「月寒橋」と「望月橋」の‘あっぺ’について綴りました(本年8月28日、8月29日ブログ参照)。国道36号の月寒川に望月橋が架かり、望月寒川に月寒橋が架かるという‘あっぺ’です。
道路管理者の開発局は、月寒川に架かる望月橋を「もうつきばし」と読ませています。私は、「月寒を望む」意かと想像しました。は、必ずしも‘あっぺ’とはいえないのではないかと。
しかるに、望月寒川の上流に市道で同名の「望月橋」が架かっています。これは川名すなわち「もつきさむ」川に由来するのだろうから「もつき」橋かと思いきや、こちらもまた「もうつき」橋でした。望月寒川と月寒川の双方に「もうつきばし」と読ませる「望月橋」があるのです。読み方から由来をただちに探ることができなくなりました。
ところで先のブログにも記したとおり、望月寒川の下流、国道12号には「望月寒橋」が架かります。私はこれも、「もつきさむ」川に架かるのだから「もつきさむ」橋に違いあるまいと当初思ってました。しかし、前述の例からして、その自信が揺らぎます。かくして、現地を訪ねる悦びが弥増しました。
その、国道12号「望月寒橋」です。

さて、橋名板には何と書かれているか。
‘Moutsukisamu Bridge’です。

欄干に付けられた橋名板も、平仮名で「もうつきさむばし」と刻まれています。
結局、開発局は月寒川であろうと望月寒川であろうと、架かる橋の「望月」は「もうつき」と読ませていました。私は「月寒川の『望月橋』は『月寒を望む橋』である。何となれば『もつき』ではなく『もうつき』と読ませているのだから」と開発局の意を忖度したのですが、残念ながらというべきか、肝心の望月寒川のほうの開発局管理の橋も「もうつき(さむ)」です。忖度はもう、尽きました。
月寒史料発掘会『つきさっぷ歴史散歩』2005年によると、同会は2004年、開発局(札幌道路事務所)に対して国道36号の「望月寒川の橋は望月寒橋(もうつきさむばし)に、月寒川の橋は月寒橋と、旧名に戻して欲しい」という請願書を出したそうです(p.73)。開発局は「今さら変更するほうが道路利用者等に混乱を招く恐れがある」との理由で「昔の名前に戻すのは難しい」と回答しました。もし、同会が望むように国道36号の望月寒川に架かる橋を「望月寒橋(もうつきさむばし)」と変えるならば、国道12号の現橋とまったく同呼称となります。うーん、これはこれで難しいですね。
道路管理者の開発局は、月寒川に架かる望月橋を「もうつきばし」と読ませています。私は、「月寒を望む」意かと想像しました。は、必ずしも‘あっぺ’とはいえないのではないかと。
しかるに、望月寒川の上流に市道で同名の「望月橋」が架かっています。これは川名すなわち「もつきさむ」川に由来するのだろうから「もつき」橋かと思いきや、こちらもまた「もうつき」橋でした。望月寒川と月寒川の双方に「もうつきばし」と読ませる「望月橋」があるのです。読み方から由来をただちに探ることができなくなりました。
ところで先のブログにも記したとおり、望月寒川の下流、国道12号には「望月寒橋」が架かります。私はこれも、「もつきさむ」川に架かるのだから「もつきさむ」橋に違いあるまいと当初思ってました。しかし、前述の例からして、その自信が揺らぎます。かくして、現地を訪ねる悦びが弥増しました。
その、国道12号「望月寒橋」です。

さて、橋名板には何と書かれているか。
‘Moutsukisamu Bridge’です。

欄干に付けられた橋名板も、平仮名で「もうつきさむばし」と刻まれています。
結局、開発局は月寒川であろうと望月寒川であろうと、架かる橋の「望月」は「もうつき」と読ませていました。私は「月寒川の『望月橋』は『月寒を望む橋』である。何となれば『もつき』ではなく『もうつき』と読ませているのだから」と開発局の意を忖度したのですが、残念ながらというべきか、肝心の望月寒川のほうの開発局管理の橋も「もうつき(さむ)」です。忖度はもう、尽きました。
月寒史料発掘会『つきさっぷ歴史散歩』2005年によると、同会は2004年、開発局(札幌道路事務所)に対して国道36号の「望月寒川の橋は望月寒橋(もうつきさむばし)に、月寒川の橋は月寒橋と、旧名に戻して欲しい」という請願書を出したそうです(p.73)。開発局は「今さら変更するほうが道路利用者等に混乱を招く恐れがある」との理由で「昔の名前に戻すのは難しい」と回答しました。もし、同会が望むように国道36号の望月寒川に架かる橋を「望月寒橋(もうつきさむばし)」と変えるならば、国道12号の現橋とまったく同呼称となります。うーん、これはこれで難しいですね。
古き建物を描く会 第63回を催しました
篠路駅東口の風景を、9名が描きました。

風が少し強かったのですが、秋晴れに恵まれたのがなによりです。
写生後、例によって青空展覧会をしました。

これまで拙ブログで綴ってきたように、駅及び駅前の風景は大きく変わろうとしています。情勢はまだ流動的ですが、1934(昭和9)年築という駅舎は姿を消すでしょう。今から申し上げるのは早いかもしれませんが、「80年以上にわたってご苦労様でした」というねぎらいを込めて、スケッチブックに遺しました。
ところで、駅舎内で、気になったディテールがあります。

画像のほぼ中央、窓の左側の壁です。
壁に出っ張りがあります。


これが気になってしまいました。
どうも昨日、今日のモノではありません。この出っ張りの必然性は何か。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
9月2日に開催された「篠路のまちづくりを考える第2回シンポジウム」第2回の駅周辺まち歩き(9月3日ブログ参照)で、篠路駅長を務めたSさんに教えていただきました。「定期券の購入申込書などを書く台」だったのいうのですね。言われてみればなるほど、なのですが。

風が少し強かったのですが、秋晴れに恵まれたのがなによりです。
写生後、例によって青空展覧会をしました。

これまで拙ブログで綴ってきたように、駅及び駅前の風景は大きく変わろうとしています。情勢はまだ流動的ですが、1934(昭和9)年築という駅舎は姿を消すでしょう。今から申し上げるのは早いかもしれませんが、「80年以上にわたってご苦労様でした」というねぎらいを込めて、スケッチブックに遺しました。
ところで、駅舎内で、気になったディテールがあります。

画像のほぼ中央、窓の左側の壁です。
壁に出っ張りがあります。


これが気になってしまいました。
どうも昨日、今日のモノではありません。この出っ張りの必然性は何か。
少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。
9月2日に開催された「篠路のまちづくりを考える第2回シンポジウム」第2回の駅周辺まち歩き(9月3日ブログ参照)で、篠路駅長を務めたSさんに教えていただきました。「定期券の購入申込書などを書く台」だったのいうのですね。言われてみればなるほど、なのですが。
古代縄文人と近代和人の聖地観
厚別区厚別東3条2丁目、厚別東緑地です。

ここが札幌市の埋蔵文化財包蔵地(いわゆる遺跡)であることを最近、「厚別区民歴史文化の会」で教えてもらいました。
「S153遺跡」といいます。縄文時代早期から続縄文、擦文時代にかけての土壙墓774基、縄文中期の竪穴住居跡1軒などが発見されたそうです(末注①)。

上掲画像(末注②)に写るぽこぽこ空いた穴が土壙墓とみられます。
「縄文時代早期から擦文時代にかけて」というのを年数に換算して、驚きました。縄文早期は8,000-6,000年前、擦文時代は7世紀から12、3世紀までです。つまり数千年というスパンになります(末注③)。その間、古代人がずーーっとここに死者の亡骸を葬ってきた。先史に精通している方には何ということはないのかもしれませんが、私の時間感覚では計り知れません。
このたび、同会主催の「厚別歴史散歩」小野幌編(8月10日ブログ参照)でこの地を歩き、「なぜ、かくも長きにわたって埋葬地たりえたか」、少し判ったような気がしました。
地理院サイトで例によって色別補標高図を作ってみました。

10m以下から5mごとに7段階で色分けしました。黒い□で囲ったところがS153遺跡です。
野津幌川と小野津幌川の間の舌状台地の一隅と見えます。小高いところで、地形的に安定していたのではないでしょうか。縄文海進時も水に浸からなかったようです。
大正5年地形図です。

S153遺跡の位置をこの地図に落としてみました。赤い□です。
面白いなと思ったことがあります。
それは、遺跡のすぐそばに描かれている神社の地図記号(鳥居)です。これは1906(明治38)年、入植者が祀った小野幌神社(の前身)です(末注④)。『小野幌開基百年』1988(昭和63)年には、この神社のさらに前身の祠のことが「古老の話」として遺されています(p.126、以下引用太字)。
司会 明治三八年の神社建立以前にどこか別の場所に神社があったのでしょうね。
N(出典には実名) 二九八番地、今の清掃工場の焼却炉の一寸北の小高い処にあったのです。今は均して仕舞ったが、遺跡を掘った二〇○米位北の方になりますかね。
それも神社と言う様な大きなものでなくて、「祠」式のものだったらしいですよ。
「清掃工場の焼却炉の一寸北の小高い処」というのが、これまたS153遺跡と微妙に重なり合います。
古代縄文人と近代和人のいずれもが聖地を同じような場所に見出したことに、偶然ならざるものを感じてしまいました。
注①:『さっぽろ文庫90 古代に遊ぶ』1999年、p.71
注②:札幌市教育委員会『札幌市文化財調査報告書 X』1976年から引用
注③:『さっぽろ文庫90 古代に遊ぶ』によれば、土壙墓の多くは続縄文時代後半という。当然のことながら、前掲画像の穴は同時期に掘られたものではない。あるところを掘って埋め、別のあるところをまた掘って埋め、ということを長い長い年月、繰り返した。札幌市埋蔵文化財センターにお尋ねしたところ、古代人はいわゆる住居域とは別に、この地を墓域として捉えていたらしい。
注④:小野幌神社は1934(昭和9)年、国道12号沿いの現在地に遷座された。

ここが札幌市の埋蔵文化財包蔵地(いわゆる遺跡)であることを最近、「厚別区民歴史文化の会」で教えてもらいました。
「S153遺跡」といいます。縄文時代早期から続縄文、擦文時代にかけての土壙墓774基、縄文中期の竪穴住居跡1軒などが発見されたそうです(末注①)。

上掲画像(末注②)に写るぽこぽこ空いた穴が土壙墓とみられます。
「縄文時代早期から擦文時代にかけて」というのを年数に換算して、驚きました。縄文早期は8,000-6,000年前、擦文時代は7世紀から12、3世紀までです。つまり数千年というスパンになります(末注③)。その間、古代人がずーーっとここに死者の亡骸を葬ってきた。先史に精通している方には何ということはないのかもしれませんが、私の時間感覚では計り知れません。
このたび、同会主催の「厚別歴史散歩」小野幌編(8月10日ブログ参照)でこの地を歩き、「なぜ、かくも長きにわたって埋葬地たりえたか」、少し判ったような気がしました。
地理院サイトで例によって色別補標高図を作ってみました。

10m以下から5mごとに7段階で色分けしました。黒い□で囲ったところがS153遺跡です。
野津幌川と小野津幌川の間の舌状台地の一隅と見えます。小高いところで、地形的に安定していたのではないでしょうか。縄文海進時も水に浸からなかったようです。
大正5年地形図です。

S153遺跡の位置をこの地図に落としてみました。赤い□です。
面白いなと思ったことがあります。
それは、遺跡のすぐそばに描かれている神社の地図記号(鳥居)です。これは1906(明治38)年、入植者が祀った小野幌神社(の前身)です(末注④)。『小野幌開基百年』1988(昭和63)年には、この神社のさらに前身の祠のことが「古老の話」として遺されています(p.126、以下引用太字)。
司会 明治三八年の神社建立以前にどこか別の場所に神社があったのでしょうね。
N(出典には実名) 二九八番地、今の清掃工場の焼却炉の一寸北の小高い処にあったのです。今は均して仕舞ったが、遺跡を掘った二〇○米位北の方になりますかね。
それも神社と言う様な大きなものでなくて、「祠」式のものだったらしいですよ。
「清掃工場の焼却炉の一寸北の小高い処」というのが、これまたS153遺跡と微妙に重なり合います。
古代縄文人と近代和人のいずれもが聖地を同じような場所に見出したことに、偶然ならざるものを感じてしまいました。
注①:『さっぽろ文庫90 古代に遊ぶ』1999年、p.71
注②:札幌市教育委員会『札幌市文化財調査報告書 X』1976年から引用
注③:『さっぽろ文庫90 古代に遊ぶ』によれば、土壙墓の多くは続縄文時代後半という。当然のことながら、前掲画像の穴は同時期に掘られたものではない。あるところを掘って埋め、別のあるところをまた掘って埋め、ということを長い長い年月、繰り返した。札幌市埋蔵文化財センターにお尋ねしたところ、古代人はいわゆる住居域とは別に、この地を墓域として捉えていたらしい。
注④:小野幌神社は1934(昭和9)年、国道12号沿いの現在地に遷座された。
福住六軒のなぜ?
札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第80号が発行されました。

会員の皆様には、週明けにかけてお手元に届くことと思います。
今号では秋から冬にかけての行事をご案内しております。主催行事では、まず10月上旬に「大人の遠足」秋の編です。詳細は当会公式ブログ をご覧ください。
遠足で歩くところを、明治初期の古地図で見てみます(「札幌郡西部図」1873〈明治6〉年)。

歩くのは赤矢印の先です。
といっても、小さすぎて見えないので、その部分を拡大します。

これでもまだ小さいと思いますが、矢印に示した先に「月寒村」と書かれています。
北を上に、地図の向きを変えてみます。

遠足で歩くのは、正確にいうと黄色の矢印で示した先です。
現在の国道36号(当時の名前で「札幌本道」、のちに「室蘭街道」)が月寒川を渡るあたりになります。札幌本道の南西側に一部、ほぼ並行するように道が描かれ、その道沿いに家屋とおぼしき■が三軒ずつ向かい合って計六軒、並んでいます。
別の古地図を見ます(「月寒25連隊地図」1910〈明治43〉年)。

国道36号の原形たる室蘭街道をこげ茶色、月寒川を水色でなぞりました。「字六軒屋」という地名が遺っています(赤い○)。前掲「西部郡図」に描かれた六軒の家屋に由来する字名と想われます。
「西部郡図」の六軒を、現在図上で模式的に配置してみました。

赤い●です。月寒川を水色、国道36号をこげ茶色でなぞりました。
来たる遠足は、謎解きからスタートします。なぜ、ここに六軒屋が置かれたか?
ここでいう「なぜ?」の意味を注釈します。前掲「西部郡図」の拡大版を見ていただくと、月寒川の左岸では現国道の原形たる街道沿いに家並が連なっているのがお判りいただけましょう。しかし、南東へ進むと、途中から道が鉤の手に枝分かれし、川を渡って六軒屋が並びます。「なぜ」というのは、六軒屋が現国道沿いに並ばずに、枝分かれした道に置かれたことの「なぜ?」です。
答えをご存じの方でコメントをくださる方は、恐れ入りますが非公開でお願いしますね。遠足に参加する方へのネタバレにならぬよう。

会員の皆様には、週明けにかけてお手元に届くことと思います。
今号では秋から冬にかけての行事をご案内しております。主催行事では、まず10月上旬に「大人の遠足」秋の編です。詳細は当会公式ブログ をご覧ください。
遠足で歩くところを、明治初期の古地図で見てみます(「札幌郡西部図」1873〈明治6〉年)。

歩くのは赤矢印の先です。
といっても、小さすぎて見えないので、その部分を拡大します。

これでもまだ小さいと思いますが、矢印に示した先に「月寒村」と書かれています。
北を上に、地図の向きを変えてみます。

遠足で歩くのは、正確にいうと黄色の矢印で示した先です。
現在の国道36号(当時の名前で「札幌本道」、のちに「室蘭街道」)が月寒川を渡るあたりになります。札幌本道の南西側に一部、ほぼ並行するように道が描かれ、その道沿いに家屋とおぼしき■が三軒ずつ向かい合って計六軒、並んでいます。
別の古地図を見ます(「月寒25連隊地図」1910〈明治43〉年)。

国道36号の原形たる室蘭街道をこげ茶色、月寒川を水色でなぞりました。「字六軒屋」という地名が遺っています(赤い○)。前掲「西部郡図」に描かれた六軒の家屋に由来する字名と想われます。
「西部郡図」の六軒を、現在図上で模式的に配置してみました。

赤い●です。月寒川を水色、国道36号をこげ茶色でなぞりました。
来たる遠足は、謎解きからスタートします。なぜ、ここに六軒屋が置かれたか?
ここでいう「なぜ?」の意味を注釈します。前掲「西部郡図」の拡大版を見ていただくと、月寒川の左岸では現国道の原形たる街道沿いに家並が連なっているのがお判りいただけましょう。しかし、南東へ進むと、途中から道が鉤の手に枝分かれし、川を渡って六軒屋が並びます。「なぜ」というのは、六軒屋が現国道沿いに並ばずに、枝分かれした道に置かれたことの「なぜ?」です。
答えをご存じの方でコメントをくださる方は、恐れ入りますが非公開でお願いしますね。遠足に参加する方へのネタバレにならぬよう。
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