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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/07/31

吉田用水 ④

 昨日ブログの続きです。
 画像
吉田用水跡⑨
 札幌市が管理する普通河川としての吉田用水は昨日の画像⑧で終わり、北側は道路になります。所在地は清田区北野4条3丁目です。南から北を眺めました。

 画像
吉田用水跡⑩
 道路を北へ進むと、T字路にぶつかります。同じく南から北を眺めました。
 正面の家屋の左側に擁壁が組まれ、高低差を作っています。用水は擁壁の下に沿って流れていたと想像しました。

 画像
吉田用水跡⑪
 150mほど続いた高低差の北端です。北から南を眺めました。

 ここでまた、近くの自家菜園で畑仕事をしていた男性がいたので、お尋ねしました。
 私「このあたりを用水が流れていませんでしたか?」
 男性(擁壁の下を指さして)「そこをね。幅1mくらいの川が流れていた」
 私「いつぐらいまで、流れていましたか?」
 男性「30年くらい前かな。だから、今も(川の跡は)国の土地のはずだよ。お金を出せば売ってくれるというけど、高いらしいね」
 私「『吉田用水』と言ってませんでしたか?」
 男性「吉田川はこの向こうのほう(画像右方)を流れているんでないかな」

 ほぼ見込みどおりに用水が流れていたことが裏付けられました。ただし、ここでお聞きした方は吉田用水という認識はなかったようです。
 画像⑨~⑪の位置と向きを空中写真で確認しておきます。
空中写真 吉田用水跡 北野4条3丁目
 黄色のが札幌市の“現役”普通河川としての吉田用水の南端、橙色のがその北端です。緑地帯が空中写真でも見て取れます。前掲⑨~⑪の箇所は、空中写真では痕跡が窺えません。

 これを、色別標高図で見てみます。
色別標高図 吉田用水 北野4条3丁目
 標高29m以下から2mごとの7段階の色分けで作りました(国土地理院サイトから)。
 黒線が現役河川の吉田用水、白線が推定痕跡です。白線でなぞったところ、どうでしょうか。微地形が感じられませんか。

 ところで、ここでお会いした男性がおっしゃっていたことが気になりました。川跡が今も国の土地であるという話です。上流の現役河川の吉田用水の管理者が札幌市であることからして、市有地ということは考えられます。
 
 地番図を見てみました。
地番図 北野4条3丁目 吉田用水痕跡 
 ⑩⑪は前掲画像の撮影位置・向きです。
 黄色の矢印の先で示したあたりが南北にわたって、極めて細く帯状に分筆されています。これもまた用水の痕跡とみてよさそうです。2017年作成の新しい地番図で分筆されたままということは、元河川敷地として札幌市の土地が残っている可能性があります。

 最後に昭和10年地形図で吉田用水を振り返ります。
昭和10年地形図 吉田用水
 濃い青でなぞったのが厚別川、水色が用水です。厚別川から用水とおぼしき線が二本、描かれています。拙ブログでこの間たどってきたのは西側の水路です。東側の水路も吉田善太郎が開削したのかどうかは、不勉強でまだ確認していません。前掲地番図で黄色の矢印の先に示した位置を、推定して同じく矢印で示しました。
 厚別川とラウネナイ川で削られた舌状台地(霜踏山という地名が見える)のベロの右側に沿って、用水が掘られたようですね。
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2018/07/30

吉田用水 ③

 吉田用水の探訪を続けます。

 画像
吉田用水 ③
 用水、といっても、グレーチング(金属でできた格子状の蓋)が被せられた細いU字溝です。7~8mくらいの幅で緑地になっていて、サクラとおぼしき高木が植えられています。
 この緑地に面する住宅地で庭仕事をしている男性がいたので、お聴きしてみました。

 私「ここは昔、用水が流れていたと聞いたのですが、ご記憶ありますか?」
 男性「吉田用水ね。ここに来て32年になるけど、来た頃はまだ水が流れていたよ」
 私「用水はどれくらいの幅だったですか?」  
 男性「今の(緑地の)半分くらいかな。流れはまっすぐではなかったね。その後、整備されて樹が植えられた」

 画像
吉田用水 ④
 全体で500mほどの長さのうち、北半分くらいは高木類は植わさって(北海道弁)いません。画像左方のやや小高くなっているところは街区公園です。

 画像
吉田用水⑤
 相変わらず、細いU字溝が続きます。
 ゼンリン住宅地図2002年版を見ると、この緑地に「野原グリーンベルト」と記されています。河川敷だと思うのですが、このネーミングは何に由って来たるのか。
 
 画像
吉田用水 ⑥

 画像
吉田用水 ⑦
 札幌市が管理する普通河川としての吉田用水の北端です。

 画像
吉田用水 ⑧
 その先はアスファルト舗装されています。民有地と思われますが、用水の跡を窺わせる形状です。


 画像の撮影位置と向きは下図のとおりです(国土地理院サイトから)。
現在図 吉田用水 画像撮影箇所
 厚別川を濃い青でなぞり、札幌市の普通河川としての吉田用水を水色でなぞりました。は、7月28日ブログに載せた2枚の画像の位置と向きです。

 沿川の住民の方が吉田用水を認識されていたことを知りました。

2018/07/29

吉田用水 ②

 吉田用水といえば、厚別川左岸の堤防に立つ「用水記念碑」です。
用水記念碑 清田1条1丁目
 「功労者」として吉田善太郎の名前も刻まれています。所在地は清田区清田1条1丁目、正確にいうと元は河川敷にあったようですが、今は飲料メーカーの敷地の一隅になります。

 厚別川の上流から記念碑の方を眺めました。
厚別川 清田1条1丁目 用水記念碑付近
 画像右方が厚別川です。赤矢印の先が記念碑です。

 私はこの川から用水を引いたと思い込んでいました。いや、それはそのとおりなのですが、古地図、古写真を見ると少し注釈が必要です。

 現在図を見ます。
現在図 厚別川 吉田用水 用水記念碑
 厚別川を濃い青を水色でなぞりました。赤いが用水記念碑の位置です。昨日ブログで紹介した吉田用水は水色でなぞったところになります。
 記念碑の場所が用水の取水口だとするならば、ほぼ真北へ線を引くと吉田用水(の現在の痕跡)につながります。私はてっきりそう思い込んだのです。

 古写真を見てみましょう。
空中写真 1961年 厚別川 吉田用水
 1961年空中写真です(国土地理院サイトから)。
 前掲現在図と同じ場所をトリミングしました。赤いは現在用水記念碑が建つ位置です。厚別川は改修される前で、大きく蛇行しています。赤いのすぐ下流から北北東へ、直線的な水路が見えます。黄色の矢印で示した先です。これが吉田用水です。

 この空中写真に描かれた河道を現在図に引き写してみます。
現在図 厚別川 吉田用水 用水記念碑 旧河道
 濃い緑でなぞったのが厚別川の旧河道、水色が吉田用水です。

 現在の直線化された厚別川が吉田用水の水路とほぼ一致しています。用水の水路を生かして厚別川を改修したとみることができるのです。

2018/07/28

吉田用水 ①

 八紘学園が吉田牧場の跡地にできたことは先に記しました(本年4月16日4月18日ブログ参照)。
 吉田牧場を拓いた吉田善太郎は明治時代、広大な土地を所有し、水田灌漑のために用水を引いたことで知られます。用水は「吉田用水」と呼ばれ、「厚別川の水を現在の国道36号の下流約三〇○メートルの地点から取入れ、北野、大谷地、下白石を経て月寒川に流す延長六キロメートルに近い水路」でした(末注①)。
 「札幌市河川網図」を見たら、札幌市が管理する普通河川として今も「吉田用水」が流れていることに気づきました。私にとっては意外な事実です。とっくに埋め立てられたか暗渠になっているだろうとタカをくくっていたものですから(末注②)。

 そこで河川網図に基づき、現地を訪ねてみることにしました。
吉田用水 北野3条3丁目
 上流地点から下流を、すなわち南から北を眺めた画像です。

 河川網図で位置を確認します。
河川網図 吉田用水
 赤矢印の先に示したのが吉田用水です。
 清田区北野3条3丁目、北野通りから北へ約500mにわたって流れています。流れていることになっています。前掲画像は、その南端から北を眺めたものです。画像に写るU字溝が、どうやら吉田用水らしい。

 U字溝には見たところ、水が流れている気配はありません。
吉田用水 北野3条3丁目②
 しかしご覧のとおり、“左岸”側は高さ2m超の擁壁が組まれています。この高低差に往時が偲ばれました。

注①:斎藤忠一「吉田善太郎と月寒村」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第21号1991年8月、pp.50-57。『さっぽろ文庫45 札幌の碑』1988年によると、「厚別川から月寒川に達する延長約五キロメートル」(p.163)。
注②:実は7年ほど前、南郷通り以北の吉田用水跡を探訪したことがある。その痕跡については別途あらためて記したい。

2018/07/27

江別・旧町村農場 ③

 江別の旧町村農場を1993(平成5)年に訪ねたとき(昨日ブログ参照)の資料を見直したら、こんなモノも出てきました。 
町村牛乳 古いポスター
 町村牛乳の古いポスターです。
 
 農場の所在地が「北海道江別市対雁94」と書かれています。移転前の、しかも旧町名です(現在は「いずみ野25番地」)。二十余年前に訪ねたとき、牛舎か元住宅に貼られていたものでしょう。“廃屋”状態の建物にあって、「どうせ捨てるのなら…」と記念に持って帰りました。当時は「そんなモノ、後生大事にしてどうするの?」という空気でもありましたが、今となっては貴重な史料だと思います。
 すでに時効かもしれませんが、占有離脱物横領か? 弁解がましく申し上げると、こういうモノは第三者が“よっこする”(北海道弁)ことででむしろ命脈を保つことがあります。しかり。私の行為は“よっこ”でした。現地で放置されても、価値が未分明のまま廃棄されてしまうことがあります。
 いい例が(否、悪い例か)、先月リニューアルオープンした「旧永山武四郎邸・旧三菱鉱業寮」です。再整備される前、ここにはやはり古いポスターがありました(6月16日ブログ参照)。数少ない三菱鉱業寮当時の“遺品”です。先日関係者に「ポスターがあったはずなのですが、どうなりました?」とお尋ねしたところ、再整備のドサクサで捨てられてしまったらしい。結果、現在建物に遺る三菱鉱業ゆかりのモノは、母子像のみです。
 
 ポスターとは関係ありませんが、旧町村農場の裏側に回ってみました。
旧町村農場 牛舎 背面
 札幌軟石のサイロが遺っています。1928(昭和3)年、農場がこの地に来る前、樽川(現石狩市)にあったときのサイロを移築したものです。前掲ポスターに写るサイロは煉瓦造で、これは江別に来てから建てられました。煉瓦と軟石の2棟が建っているのは、建てられた年代と土地柄に由るのですね。

 さて、お見せしたかったのはサイロではなく、手前の電柱です。
旧町村農場 電柱 第2ファーム幹 
 「第2ファーム幹」。電柱は土地柄を顕わしていました。

 ポスターは、江別に返しに行こうかしら。

2018/07/26

江別・旧町村農場 ②

昨日ブログの続きです。
旧町村農場 町村敬貴像 横側
 旧町村農場の町村敬貴像は、もともと道立産業共進会場(札幌市豊平区月寒東3条11丁目)にありました。

 共進会場の一室には「北海道酪農展示室」も設けられていたといいます。展示室に置かれていたモノはどこに行ったのでしょうか。

 旧町村農場にある元住宅を訪ねました。
旧町村農場 住宅
 町村農場のあゆみ、町村金弥、町村敬貴らが遺した足跡が展示されています。

 事務室で当番をしていたのは、偶然にも旧知のⅠさんでした。Ⅰさんは江別の煉瓦の研究者兼実践家で、「N43赤煉瓦塾」という市民活動を繰り広げています(2017.5.13ブログ参照)。Ⅰさんにかくかくしかじかお尋ねしたところ、「共進会場にそういう一室(酪農展示室)があったことは聞いたことがあるが、その展示品がここに持ってこられたかどうか…」と、さだかでないお返事でした。「ここ(旧町村農場)に展示されているものは、そんなに多くないからねえ」と。Ⅰさんはあくまでも現在の管理人で、1996(平成8)年の開設に携わってはいないので、当時のことをご存じではありません。

 産業共進会場を所管していた北海道の農政部に訊いてみました。返ってきたのは「平成7、8年頃、江別市が旧町村農場を整備するということで、市との間で(展示物の)譲渡のやりとりをしたという記録が残っていました」という答えです。「ジオラマや古い放牧の写真などがあったようです」とも。実際に江別市に移管されたかどうかははっきりしていないのですが、このお話からすると、展示物は旧町村農場に移されたものと私は推認しました。

 現在の旧町村農場の展示室には、このような絵図が掲げられています。
旧町村農場 展示 俯瞰絵図
 農場を俯瞰した絵図です。 
 もしかしたら、これは共進会場にあったのだろうか。といっても、たぶん元は町村農場にあったのでしょうから、里帰りですか。
 
 本題とは関係ありませんが、私は旧町村農場を1993(平成5)年に訪れたことがあります。
江別 旧町村農場 牛舎 1993年
 農場が1992(平成4)年に江別市篠津へ移転して間もない頃です。江別市が取得して保存活用するという計画をお聞きしていました。

 現在の風景と較べてみると…。
旧町村農場 牛舎
 牛舎の外壁の色が変わっています。現在の色が創建時の色だったのでしょうか。町村敬貴像はまだ立っていません。

 牛舎の2階も見せていただきました。 
江別 旧町村農場 牛舎(内部) 1993年
 バルーンフレーム? 柱の無い大空間が印象的でした。

 現在は2階までは入れないと思います。実はこのとき案内してくださったのもⅠさんです。当時、江別市はこの種の“手つかず”の歴史的遺産の整備を進めている最中でした。それらの多くはいわば都市秘境(一般に立ち入れない場所)だったのですが、Ⅰさんの神通力で探検させてもらうことができたのです。
 余談ながら、これらの写真を入れたミニアルバムを開いたら、牧場の薫りがぷーんと漂ってきました。サイレージと牛さんの排泄物が入り混じったような、あの匂い。写真なのに、不思議です。

2018/07/25

江別・旧町村農場

 江別市いずみ野の「旧町村農場」に足を運んだのは、八紘学園絡みです。 
江別 旧町村農場 入口
 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2018初夏の編の下調べで学園の歴史を調べたとき、町村農場とのつながりを知りました。
 
 町村金弥、敬貴親子は北海道酪農の先駆者なので八紘学園とつながっていても何ら不思議ではないのですが、ここでいうつながりはいわば二次的な関係を指します。「二次的な」というのは具体的には、学園の敷地の一画に建てられた北海道立産業共進会場と町村農場の関係です。
 『八紘学園七十年史』2002年の共進会場の項に、次のように記されています(p.412)。
 一階の展示室には四十八年八月、北海道酪農会(ママ)の草分け「町村敬貴記念事業の会」が中心となって寄贈した「北海道酪農展示室」も設けられ、文字通り酪農の殿堂となった。

 共進会場にそのような展示室があったことを私はうかつにもまったく知らなかったのですが、建物が姿を消した今(6月12日ブログ参照)、展示物の行方が気になりました。そこで八紘学園の生き字引S先生にこのことを質したところ、「町村さんの銅像はたしか、江別に持っていかれた」とお聞きしたのです。江別で町村さんの像といえば、「旧町村農場」に敬貴像が立っています。

 かくして江別を訪ね、銅像をあらためて鑑みることとしました。
旧町村農場 町村敬貴像
 銅像の左側には碑も見えます。  

 碑には、像建立の由来が刻まれています。
旧町村農場 町村敬貴像 銘鈑
 「昭和四十八年十月 町村敬貴記念事業之会 会長 佐藤貢 謹書」です。

 銅板に刻まれた碑文に、次のくだりがあります。
 翁は晩年近代的共進会場の建設に執念し、完成を前に忽然逝去せらる 依て関係者相諮り 記念展示室を設けて偉業を讃え 銅像を建立して 翁の遺徳を顕彰す

 前述『八紘学園七十年史』によると、道立産業共進会場は、学園創設者・栗林元二郎が構想した「農場公園」に共鳴した北海道知事(当時)の町村金五により実現されました(p.411)。町村敬貴は町村金五の長兄です。兄の執念を弟が実らせた。

 前掲銅製の碑文の下には、黒い地で「1996年(平成8年)月寒道立共進会場より移設」と書かれています。町村農場は1992(平成4)年、この地(江別市いずみ野、旧地名は「対雁」)から篠津に移転しました。1996年というのは「旧町村農場」が一般公開された年です。「酪農の殿堂」たる共進会場が今は無いことを想うと、銅像は落ち着くべきところに帰ったというべきかもしれません。

 ところで、銅像本体の台座にも小さな銘鈑が嵌められています。
町村敬貴像 銘文
 「町村敬貴像 峯孝作 台座 日高石 八紘学院 佐藤貢書」と。
 栗林先生蒐集の日高石(7月14日ブログ参照)は、こんなところにも活かされていた。

 さて、町村敬貴像はたしかに共進会場から移されたことを確認しましたが、「展示室」はどうなったのだろう。
 

2018/07/24

厚別区にある池

厚別区の某所で見た池です。
厚別区 池
 古地図、古写真をたどると、もともと沢地だったところの一部が池として遺ったものと窺われます。

 こういう野趣を帯びた池は、札幌の市街地では珍しいのではないかと思います。
厚別区 池②
 さて、この池はどこにあるでしょう?

2018/07/23

丸〆街道のカフェ再生

 前に北区篠路の古道「丸〆街道」のことを拙ブログで綴りました。街道沿いに木造下見板貼り・腰折れ屋根の元馬小屋が遺っています。2016年5月からカフェに再利用されていたのですが、昨年閉店しました(2017.7.18ブログ参照)。

 このたび現地に行ってみたところ…
篠路9条 うまごやKope
 再びカフェとして使われていることを知りました。

 カフェと小物雑貨の店です。「Bob’sカフェ うまごやKope」といいます。昨年(2017年)10月に開店したそうです。丸〆街道の歴史を調べて以来、思い入れを深めていただけに、この建物が再々生されたのを嬉しく思います。
 北区篠路9条6丁目1-5 営業時間10:00-17:00(木・土11:00-16:00)不定休

 本題とは関係ありませんが、昨日7月22日をもって拙ブログが満4年に達しました。昨日までの1,461日間で公開した記事は1,438本です。ブログを始め、続けるに当たって心がけているモットーの一つである「日々更新」をほぼ実現してきました。モットーは他に二つあります。「初出・一次情報」と「出所明示」です(2015.7.23ブログ参照)。情報を日々発信しつつ質を維持できているかどうか、その判断は読者に委ねることとしましょう。参考までに数的(量的)指標を末注に載せます。

 ご愛顧してくださっている皆様に深く感謝申し上げます。コメントを寄せてくださる方、「拍手」してくださる方、ありがとうございます。数的(量的)指標では測りづらい質的反響を大事にしながら、今後も可能な限り続けていきます。オフラインのリアルなコミュニティともいうべき札幌建築鑑賞会という活動を27年続けてきたのも、「とにかく続ける」ことに意味があるという思いがありました。拙ブログもそのつもりです。と記しながら、もしかしたらある日突然、やめてしまうかもしれません。時空逍遙とはそんなものでしょう。所詮うたかたです。それくらいの気持ちでいたほうが却って長続きするという逆説でもありますが。

注:ブログを始めて1年余の2015年9月4日から閲覧者数を数えるようにした。いわゆる“ユニークユーザー”で、一日当たりの実閲覧者数。奇しくもというべきか、その数が本日をもってちょうど6万名に達し、本日までの日数で均すと60,000名/1,054日≒57名/日。2,015年当初の4週間(28日)の平均は30名/日、2016年9月では53名/日、2017年7月では65名/日、本年の直近4週間では88名/日である。ちなみに拙ブログが加入しているFC2というサイトで、「歴史」ジャンルに登録されている約1,000のブログ中のランキングは、直近でおおむね10~20位(上位1%台)。

2018/07/22

東区北34条・Sさん宅「記念碑」

 道路沿いから目に入り、かねて気になっていた碑です。
東区北34条 Sさん宅「記念碑」
 家人Sさんの承諾を得て、敷地の中で写真に撮らせていただきました。

 オベリスク風黒御影石の本体に同じく黒御影石の台座、その下に花崗岩(白御影石)のドーム、さらにその下に円柱と、4層にわたっています。
東区北34条 Sさん宅「記念碑」 入植七十年
 最下層の円柱部分は札幌軟石だろうか。小叩き仕上げされた表面に銘鈑が嵌められています。
 銘鈑には「開拓の重責果せし この牛馬 強くやさしき たまをとどむ 昭和四十四年五月の建 コト」と。ドームの上の黒御影の台座には、「記念碑」「入植七十年」とSさんの苗字が刻まれています。

 この記念碑の隣には牛と馬の像もあります。
東区北34条 Sさん宅 牛馬像
 この台座にも銘鈑が嵌められていて、「昭和四十三年の建」です。牛馬像建立に至る由来が刻まれています。
 それによると、この地には札幌農学校の「第三農場」があり、Sさん初代は1897(明治30)年に小作人として入植、七十年余を経て「農事を中止するのやむなきに至りし故」とのことです。やはり「開墾の主役をつとめた牛馬の労苦を察しここにたまをとどむる」と。思い入れが偲ばれます。Sさんによると、1965(昭和40)年頃まで酪農を営んでいて、札幌軟石のサイロがあったそうです。

 Sさん宅の牛馬像と記念碑が建てられた1968(昭和43)、1969(昭和44)年というのは「北海道百年」と重なります。1967(昭和42)年に百年記念塔が公募設計競技により選ばれ(6月30日ブログ参照)、1968年には「北海道百年記念式典」が円山競技場で開催されました。Sさんのオベリスクからも、時代の空気が伝わってきます。

 牛馬像は「富山県高岡市 古城製作所謹製」とあります。高岡は銅器の産地です。二宮金次郎像も多く作られています(2016.4.21ブログ参照)。像の傍らに置かれているのは石臼ですかね。

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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