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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/06/19

永山武四郎の出自を探る

 6月1日ブログで、鹿児島の永山武四郎生誕地のことを記しました。その文末を次のように締めくくっています。
 幕末維新で活躍した薩摩藩士の多くは下級でしたが、永山も俸禄は高くなかったのではないでしょうか。
 私は、この原風景が永山のその後、とくに北海道での人生を方向づけたのではないかと深読みしてしまいました。


 永山武四郎の出自は、次のとおりです(末注①)。
 天保八年(一八三七)四月、薩摩国鹿児島郡薬師馬場町(鹿児島市)に、薩摩藩士永山清左衛門の四男として生まれ、永山喜八郎の養子となった。

 いろいろ文献の漁っているのですが、これ以上に詳しい記述には当たりません。たぶん鹿児島にはあるのでしょうが、残念ながら現地滞在中は時間切れで迫れませんでした。したがって前述の「永山も俸禄は高くなかったのではないでしょうか」は私の憶測です。西郷や大久保、黒田清隆などが下級武士の出であったことからの拡大解釈に近い。憶測の根拠となったのが、永山の生誕地です。先に記したように、鹿児島城下でも、かなりはずれと窺えました。

 「天保14年城下絵図」(鹿児島県立図書館蔵)からの抜粋です。
天保14年城下絵図 抜粋
 江戸時代後期の鹿児島(鶴丸)城下が描かれています。
 濃紅色の線で囲ったのが鶴丸城、橙色と青色の○で囲ったのが島津家一門や重臣、上級武士の屋敷、黄色の○が下級武士の家屋があったところです(末注②)。西郷や大久保、黒田が生まれ育ったのは、だいたい黄色の○のあたりです。一般に江戸時代の城下町は、家臣や町人はお城との位置関係で棲み分けられていたと思います。家臣も、ヒエラルキーによってエリアが異なっていたでしょう。

 永山の生地をこの絵図に当てはめてみました。絵図の左上、赤い矢印の先です。6月1日ブログで私は「城下というより、近郊農村にすら思えます」と記したのですが、ここも城下ではあったようです(末注③)。このあたりに屋敷を構えた武士が薩摩藩家臣のどの階層に当たるか確証を得たわけではないのですが、お城との位置関係からすると、重臣上級クラスとは想えなかったのです。

 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.283
 注②:鹿児島まち歩き観光ステーション「鹿児島ぶらりまち歩き 7 近代日本を築き多くの人材を輩出した加治屋町」を参考にした。
 注③:鹿児島県『明治維新と郷土の人々 概要』2016年によると、「文政9年(1826)における鹿児島城下の人口は、武士16,794人に対し町人4,941人で、武士が77%を占めました。城下は上町(かんまち)、下町、西田町の3つに分けられ、町奉行の支配の下、各町に会所が置かれ、町人から町年寄(責任者)が任命されました」(p.9)。「上町」は前掲絵図で青い○で囲ったあたりであり、「西田町」は左上の茶色の線でなぞった道筋である。永山生家は、この「西田町」の一角と見える。現地の「永山武四郎誕生地」説明板(6月1日ブログ掲載画像)には、「西田村のこの地に生まれた」とある。
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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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