札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2018/06/04

鹿児島中央駅前で、サッポロビールの祖を拝む

 「鹿児島 ぶらりまち歩き」で、ボランティアガイドさんに案内していただきました。 
若き薩摩の群像
 全部で16のコースが用意されている中で私が申し込んだのは「明治維新と近代日本を築いた偉人たちの誕生地を訪ねる」です。今回の鹿児島行で私には「薩摩出身の北海道“開拓功労者”を原風景を辿る」というテーマがありました(5月17日ブログ参照)。その観点で街を歩きました。
 
 冒頭画像は、鹿児島中央駅前の「若き薩摩の群像」というモニュメントです。薩摩藩が1865(慶応元)年、国禁を犯して英国へ留学させた藩士たちが銅像になっています。1982(昭和57)年、鹿児島市の人口50万人を記念して建立されたものだそうです。
 
 この中にも北海道・札幌ゆかりの人がいることを教えていただきました。
若き薩摩の群像 村橋久成
 村橋久成(1842-1892)です。

 銘文には、留学生がどんな功績を遺したか、刻まれています。
若き薩摩の群像 銘文
 が、村橋の名はありません。
 村橋の名を世に知らしめたのは、田中和夫さんの『残響』1982年の存在が大きいと思います。銅像が建てられたのは、田中さんが村橋に光を当ててまだ間もない頃でした。

 その後新たに設けられたとおぼしき説明板には、全員の足跡が記されています。
若き薩摩の群像 説明板
 村橋については、次のように書かれています。
 ロンドン大学では陸軍学術を学ぶ。留学の翌年2月帰国。のち成長 戦争函館役に出征。北海道の様式(ママ、洋式)農業の技術導入に力を尽くした。 

 昨日ブログで紹介した黒田と永山の会話にも、村橋が出てきます。
 村橋は1877(明治10)年当時で、開拓使の「権少書記官」(奏任官)、かたや黒田は長官(勅任官)でした。村橋も幹部ではありましたが、黒田との間には長官-大書記官-権大書記官-少書記官-権少書記官という職階差がありました(末注)。大臣と部課長くらいの違いでしょうか。
 一方、黒田と村橋の薩摩藩当時の家格はというと、黒田は4石の低級武士、村橋は先祖が主君の島津家にさかのぼる上級武士でした。御小姓与番頭(おこしょうぐみばんがしら)。薩摩藩には藩主以下、一門-一所持-一所持格-寄合-寄合並-小番-新番-御小姓-与力という家格の上下関係があり、村橋は「寄合並」、黒田は御小姓クラスでした。
 つまり、明治維新をはさんで村橋と黒田は上下関係が完全に逆転してしまったのです。黒田はかつての上役を自分の部下にしました。田中さんの小説の中では、黒田は2歳年下の村橋を「昇介どん」(村橋の幼名)と呼んでいます。

 昨日ブログで記した黒田の言葉を村橋がどう聞いたか、心中思うところはあったのでしょう。 

 注:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.27、田中和夫『残響』1998年復刻版、p.57、西村英樹『夢のサムライ』1998年、pp.62-63、pp.304-309(田中和夫編年譜)
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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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