FC2ブログ

札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/06/30

北海道百年記念塔の向き

 1967(昭和42)年、北海道百年記念塔の設計競技に応募された井口健の図案です。
北海道百年記念塔 1967年井口健応募図案
 最優秀作品に選ばれました。

 この図案と同じ絵柄は、記念塔建設期成会による募金のハガキや「北海道百年記念」の切手に描かれています(2018.3.25ブログ参照)。しかし、実際の記念塔は、この図案と同じには建てられませんでした。そのことは「札幌ノスタルジック散歩」でYさんが詳細に考察しています。拙ブログでは、先日井口先生に直接お尋ねしたことをふまえて補足を試みます。 

 まず、冒頭の図案に描かれた記念塔は、どの方角から眺めたものか?  否、井口青年はどの方角からの眺めとして想定して描いたか?

 結論的にいうと、南西から北東方向を眺めたと思われます。
空中写真 北海道百年記念塔周年 1970年代
 赤い矢印で示した向きです(国土地理院空中写真1970年代に加筆)。

 その向きで、実際に建っている記念塔を眺めてみます。
北海道百年記念塔 180630
 森林公園入口の案内所から通じるプロムナードからの眺めになります。

 この眺めを塔の正面とするならば、正面は南西方向を向いていることになるのですが、冒頭の応募図案に描かれた記念塔の正面は明らかに向きが異なります。60度くらい、向きを変えています。なぜ、塔の向きを変えたか?
 その前に、冒頭の応募図案に描かれた記念塔が南西から北東方向を眺めたものであることの根拠を示しておきます。

 手がかりは、図案に描かれている“石積みマッス”展望台です。
北海道百年記念塔 1967年井口健応募図案
 これは実現せずに、幻に終わりました。

 井口青年はこのマッス展望台をどこに配置しようとしたか。
百年記念塔 井口さん模型③ 展望台
 先生が最近作られた記念塔周辺の模型(6月28日ブログ参照)に、このマッス展望台が置かれています。赤い○で囲ったところです。
 
 冒頭図案に描かれている記念塔と石積みマッス展望台の眺めをこの模型に照らすと、赤い矢印で示した向きになります。ところで、橙色の○で囲ったのは北海道開拓記念館(現北海道博物館)です。橙色の直線は記念塔本体と開拓記念館を結ぶ軸線で、これはちょうど南北方向に当たります。橙色の軸線が正南北なので、赤い矢印の向きは南西-北東ということになるのです。

 さて、そうすると応募図案に描かれた記念塔の正面はどちらを向いていることになるか? 前述「札幌ノスタルジック散歩」サイトでYさんが指摘するとおり、正面は開拓記念館(現博物館)の方角を向いていました(末注)。つまり真南方向です。しかし実際の塔の正面は、南西を向いて建てられました。
 
 では、あらためて、なぜ記念塔は正面の向きを変えて建てられたか?
 Yさんは「井口青年案のままでは、公園入口側、つまり来訪者側に側面を見せてしまうので」変えたと説明します。つまり「記念塔が」どう見えるかという問題です。おそらくそれも向きを変える理由になったと思いますが、井口先生によるともう一つ、大きな問題がありました。それは「記念塔から」どう見えるかという問題です。

 注:井口先生ご自身、そのとおりであると答えられた。

2018.7.3 訂正
 井口先生からご指摘いただき、前述文中「石積みマッス」「マッス」(前掲画像の赤い○で示した箇所)を「展望台」と訂正します。先生からは展望台と伺ってはいたのですが、私は本件もマッスの一部と理解していました。しかし先生によると、マッスはあくまでも塔の基部左右の曲線に連なる部分とのことです。下掲画像の赤い○で囲ったところになります。失礼しました。
北海道百年記念塔 石積みマッス
スポンサーサイト



2018/06/29

札幌市中央体育館

 鉄筋コンクリート4階建てで、1966(昭和41)年に完成しました。札幌市中央体育館
  昨年(2017)年7月、「さっぽろ下町まちあそびワークショップ」という行事でこの界隈を歩いたとき、この建物に気づきました。30年余り前、職場の親睦会の行事でバレーボールに駆り出されたことがあり、ここに体育館があることは重々知ってはいたのですが、よくよく見つめるということはしてなかったのです。

 よくよく見つめて、「モダンな建物だなあ」とあらためて思いました。
札幌市中央体育館 北側ガラス窓面
 体育館という施設の必要性なのかもしれませんが、これだけ一面に窓ガラスを設けた建物は建築当時、札幌にどれだけあったでしょうか。

 つい先日、とある用事で中を見せていただきました。
札幌市中央体育館 3階体育室
 天井のトラス組みが現代アートに見えてきました。現代アートの何たるかを判っていないゆえですが。

 ここは、さまざまなスポーツで利用することができます。
札幌市中央体育館 種目別週間予定表
 「すもう室」や「重量挙室」もあります。

 52年前に開館したとき、「十六種目の競技が同時にできる、全道ずい一のスポーツの殿堂」と謳われました(末注①)。総工費2億5,500万円(末注②)。設計は久米建築事務所です。北海道百年記念塔の井口健さん(昨日ブログ)が在籍していた頃ではないか。 
 
 その「スポーツの殿堂」も役目を終え、北4条東6丁目の再開発事業地に建替えられます(末注③)。「モダンだなあ」と漏らした私の感想に対して、このたび本件建物に同行したKさんという方は「『外壁のペンキを塗り直したらよかろうに』と私なんかは思ってしまいましたが」とおっしゃいました。人それぞれ感じ方はさまざまですね。まあ、近々供用廃止されるのでしょうから、補修にカネをかけるわけにはいかないのでしょうね。

 この体育館が1966年、大通東5丁目の地にできたということに、土地柄や時代性を深読みしてしまう私です。

 注①:札幌市広報『さっぽろ』1966年8月号p.4 
 注②:同上。ただし「札幌市中央体育館 ごあんない」(発行年不明)によると、「総経費」は3億5520万円。
 注③:札幌市サイト「新中央体育館の建設(中央体育館改築事業)について → http://www.city.sapporo.jp/sports/sisetsu/kousou/index.html

2018/06/28

北海道百年記念塔の設計者に訊く

 建築家・井口健先生にお目にかかりました。
 北海道百年記念塔の設計者です。
 前もって正直に申し上げると、失礼ながら私は井口先生がご健在かどうか存じていませんでした。ただ、もしご健在だったら、お伺いしたいと思っていました。記念塔をめぐる史実を、当事者の“証言”からも確かめたかったのです。
 
 存廃が取沙汰されていることを設計者ご自身がどう受け止めておられるか。もちろんそれも気になります。今年に入ってからの論議は(というものがあったとすれば)、これまでの報道で知る限り、設計者とは別のところで続けられてきました。建物(百年記念塔は建築物ではなく工作物という扱いのようですが)は設計者の手を離れ、独り歩きするものです。あるいは住む人、使う人、見る人などとともに歴史を重ねるものともいえるでしょう。しかし、もし存廃に係る方針を広く意見を聞いて決めるということであれば、設計者の考えも検討の材料の一つに含まれていいと思います。

 時空逍遥探偵は建築家が御年80歳でご健在であることを知り、お会いすることができました。
北海道百年記念塔 井口健先生自作の模型
 先生は最近、百年記念塔をとりまく風景を模型にしたそうです。その写真を見せていただきました。塔本体のミニチュアは、50年前のご自身の結婚式で引き出物として作ったものを置いた由。井口青年は記念塔を設計したとき、29歳でした。
 なぜこのたび、塔だけでなく風景を模型にしたか。その思いも含め、2時間にわたりお話を聴きました。

 記念塔設計者のお気持ちとか意見が対外的に明らかになるのは、存廃問題が表面化して以降は拙ブログが最初かもしれません。
 記念塔の今後について先生は二つの考えを示しました。その一つ目は奇しくもというべきか、私が本年1月29日ブログで述べた“結論”と同じだったのです。すなわち、ひたすら朽ち果てるのを待つ。

2018/06/27

苗穂駅の事務室で見たモノ

 JR苗穂駅の改札口です。
JR苗穂駅 改札口
 昨年8月に撮りました。

 先日の「古き建物を描く会」第61回で、事務室もまじまじと眺めました。
JR苗穂駅 事務室
 あるモノに気づきました。

 神棚が祀られています。
JR苗穂駅 事務室 神棚
 苗穂工場の弔悼碑はお東さんの寺に置かれていますが、駅は神棚なのですね。
 死者は仏様となり、安全は神様に祈願するということでしょうか。一般の家庭でもよくある日本的風景。この神棚はいつごろからあるのだろうか。ほかの駅の事務室をよくよく見たことはないのですが、どこにでもあるのだろうか。11月に開業する新駅の事務室に遷座されるのだろうか。

 苗穂駅で遷座といえば、ホーム側に架かるこの看板はどうなるだろう。
苗穂駅 ふらんすへ行きたし 看板
 萩原朔太郎の詩を引いた広告。末尾に「苗穂発 ロマンを求めて 夢列車」とも謳われています。
 札幌建築鑑賞会「大人の遠足」2012初夏の編で下調べをした際、スタッフNさんが聞き取ったところでは、たしか何代目かの駅長さんの発案で掲げられたモノだとか。
 この看板、以前は地が白かったのですが、2012年の時点では青く塗り替えられ、新しくなっていました。広告を末永く伝えていこうという意図が感じられたものです。こういう看板もあまりほかの駅で見かけないので、私は苗穂駅のホームに立つと必ず本件に目が行ってしまいます。訴求力抜群ですね。
 神棚は信教の自由のこともあるでしょうが、古レール(2014.12.28ブログ)と本件看板はぜひ新駅舎に遷座してほしいなあ。

 2018.10.5追記
 上記看板は新駅に復刻されると駅長さんに聴いた(2018.10.4ブログ参照)。

2018/06/26

苗穂駅に関する訂正

 JR苗穂駅の駅舎を跨線橋から眺めました。
JR苗穂駅 跨線橋から 20180624
 札幌建築鑑賞会の「大人の遠足」2012年初夏の編の資料で、この駅舎について次のように記しました。
 1937(昭和12)年に建てられた現在の駅舎は、札幌市内に残る最古のものである。戦前期の木造駅舎というのもここくらいか。

 以下、訂正します。
 ①建築年
 1937(昭和12)年としたのを何に拠ったか、私の資料が未整理で出典が定かでありません。実は別の文献には1935(昭和10)年と書かれているものもあります(『札幌の建築探訪』1998年、p.97)。にもかかわらずなぜ1937年としたのか、思い出せないのが歯がゆいのですが、いずれにせよ2年の違いが気になっていました。
 先日の「古き建物を描く会」第61回(6月24日)のとき、駅舎でこんなものを見つけました。
苗穂駅 建物財産標 
 「建物財産標」。
 「鉄 本屋 1号 昭和10年10月」と書かれています。これはもう、1935年築ということですね。これで決着とします(末注)。

 ②「札幌市内に残る最古」うんぬん
 「わきあいあい篠路まちづくりの会」(2018.1.24ブログ参照)で、札沼線篠路駅舎が1934(昭和9)年築とお聞きしました。依拠史料等は確かめていませんが、同会では篠路駅にお勤めだった方からの情報を入手されています。「札幌市内現存最古駅舎」は篠路駅とみてよいかと思います。

 以上、誤った情報をこれまでそのままにしてきて、申し訳ございません。

 ところで前掲の「建物財産標」について、札幌及び近郊のJR駅で私が見かけたのは次掲の「鉄 本屋1号 昭和6年9月16日」に続き二つ目です。
建物財産標 鉄 本屋1号 昭和6年9月15日
 駅マニアの方は、これだけでどの駅かピンとくるのでしょうね。
 ほかにご存じの方がいらっしゃったら、お教えいただければ幸いです。
 新しい駅舎では気にしたことがなかったのですが、こういう「財産標」は貼られているのでしょうか。篠路駅はどうだろう?

  注:JR北海道広報資料「苗穂駅新駅舎の開業日について」(2018.5.16)にも「昭和10年建設」と書かれている。
 ↓
http://www.jrhokkaido.co.jp/CM/Info/press/pdf/20180516_KO_NaeboStation.pdf

2018/06/25

寺院に遺る苗穂工場の名残

 JR苗穂駅の跨線橋から苗穂工場を眺めました。
JR苗穂駅跨線橋から苗穂工場 20180624
 このアングルも、11月までです。

 工場に隣接する苗穂運転所です。
JR苗穂運転所 
 通りをはさんで、手前側にお東さんの寺があります。 

 お寺の一隅に古碑が建っていることを最近知りました。
苗穂町 大導寺 古碑
 木立の中に佇んでいます。

 碑の正面には何と刻まれているか。
苗穂町 大導寺 古碑 正面
 「札鐵苗工製」までは読めますが、その下は表面が削られていて判読できません。一番下は「碑」です。

 「道管理局場」でしょうか。
 古碑を知ったきっかけは、苗穂駅周辺まちづくり協議会発行の「苗穂マップ」に「JR殉職者慰霊碑」と書かれていたことです。JRの慰霊碑が近所とはいえお寺の境内に建っているのが、少々意外でした。

 現物を見たところ、JRになってからのモノではありません。お寺の庫裡をピンポンしてお尋ねすると、「お寺ができてからもう95年になりますが、石碑が建てられたのはたぶん昭和になってからかと思います」とのこと。
 国鉄時代は毎年8月に職員の方が来てお斎が営まれていたそうです。「法要は最近もされているんですか?」の問いに、「いえ、JRになってからは来られてませんね」と。戦前はともかく、国有鉄道より民間会社のJRのほうが政教分離の縛りもなかろうにと思うのですが、一区切りつけたのでしょうか(末注)。

 碑の側面、背面、台座に至るまでびっしり人名が彫られています。
苗穂町 大導寺 札鉄苗工碑 側面、背面
 お寺の方の話では殉職者の名前というのですが、人名の上に「世話人」とか「発起人」とあるので、建立時に在職していた人の名前かもしれません。

 ところで政教分離といえば、前に砂川市の住民が市を相手取って裁判を起こしました。市有地に神社が建っていることを憲法違反として訴えたものです。この訴訟を報じたニュースをテレビで見ていたとき、愚妻が「なんでそんなことにイチャモンつけるんだろうね」と疑問を呈しました。私は「国家神道が日本の戦争の思想的支柱になったことを反省して、政教分離は厳格に守られなければならんのだよ」と、いわば教科書どおりに諭したのですが。

 先日、北海道文化財保護協会主催の講演会で、講師の歴史家が砂川の違憲訴訟を取り上げ、「短絡的だ」と批判していました。講師が挙げた理由は、私が理解したところではつぎのとおりです。
 ・本件神社は、開拓者の心の拠りどころとなった産土(うぶすな)の神である。
 ・もともと神社が先にありきで、市有地になったのは氏子がのちに土地を市に寄付したからである。
 講師は激しく(違憲訴訟を起こした原告を)批判していました。その口吻たるや私の妻以上で、批判というよりは非難に近かった。日本史の大家に向かってエラそうに言わせてもらうならば、その言い分も判らなくはないのですが、あまり強く糾されると、私は逆に「でもなあ…」とも思ってしまいます。「短絡的」と断じることもまた、短絡的ではないかと。

 注:『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年によると、この地にお寺の前身の説教所ができたのは1916(大正5)年、「国鉄苗穂工場殉職、病没者の石碑」は1920(大正9)年建立とのこと(p.268)。同書刊行時点では「国鉄苗穂工場新生会追弔会」が執り行われていたらしい。

2018/06/24

古き建物を描く会 第61回を開催しました

 今回の画題はJR苗穂駅です。 
 朝方よりも昼過ぎにかけて冷え込み、体感温度は10℃台前半かとも思われる肌寒さの中、8名が参加しました。
 古き建物を描く会 第61回 苗穂駅
 苗穂駅は周辺の再開発事業に伴い、建替えられます(2014.12.26ブログ参照)。
 
 今年11月には役目を終える現駅舎を、ねぎらいも込めてスケッチしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅 作品
 終了後、駅待合室でお披露目会です。

 会員のSさんは、駅ホームから眺めた苗穂工場も作品にしました。
古き建物を描く会 第61回 苗穂駅ホームから苗穂工場
 この風景も5か月後には見納めです。

 この跨線橋も、ゆくゆくは撤去されるのでしょうか。
苗穂駅 跨線橋
 前にブログで記したように、本件には稀少な古レールが支柱に使われています(2014.12.28ブログ参照)。
 撤去されたら、古レールはどうなるんだろう。できれば、モニュメンタルな形で新駅舎に活かしてもらえると嬉しいのですが。

 約300m西方に建設中の新駅舎です。
JR苗穂駅 建設中新駅舎
 たしか1年前にはまだ橋脚くらいしかできてませんでした(2017.5.17ブログ参照)。もう駅舎本体が出来上がりつつあるようです。早い。

 現駅舎の古レールのことは、6年前に「苗穂駅周辺まちづくり協議会」事務局長のMさんに教えていただきました。そのMさんはもうおられません。一昨年「苗穂カフェ」に足を運んだとき、その一週間前に亡くなったとお聞きました。残念です。バリアフリー化されて北と南をつなぐ新駅舎の落成を心待ちにしておられたことでしょう。Mさんには2012年の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」でお世話になりました。新駅舎ができたら、現駅舎は「道の駅」のように活用できないかと話しておられたのを思い出します。もっといろいろお聞きしておけばよかったと悔やまれます。合掌。

2018/06/23

20年前の旧永山邸・旧三菱鉱業寮

 6月13日ブログで私は「旧永山邸及び旧三菱鉱業寮については、私は20年来の感慨があります」と記しました。
 その“わけ”を物語るのが、以下の写真です。

 1997(平成9)年3月、札幌の文化財をテーマにして、札幌建築鑑賞会で勉強会を催しました。
旧永山邸 1997329
 そのとき、会場に使わせてもらったのは旧永山邸です。拙ブログでたびたび引用させていただいている故武井時紀先生(2017.11.42018.6.16各ブログ参照)に講師を務めていただきました。

 旧三菱鉱業寮2階の和室でも、先生の講義を受けました。
旧三菱鉱業寮 1997329
 20年以上前の当時、この場所をこのように利用する例はありませんでした。正確にいうと、地元町内会の女性グループがお茶か生け花の会合に使ってはいたのですが、それはいわば例外だったのです。所管している札幌市の文化財課では、市民の会合等での供用をオオヤケに謳ってはいませんでした。

 1998(平成10)年5月、札幌建築鑑賞会のスタッフの会合を同じ部屋で開いたこともあります。
旧三菱鉱業寮 199805
 これも、文化財課にかけあって容認してもらったものです。

 市民が地元の文化財を訪れるというのは、あまりないのではないか。そう思ったのが、上記のことを試みたきっかけです。時計台や豊平館、清華亭などに足を運ぶことって、どれだけあったでしょう。最近の話ではありません。20年前です(末注)。観光名所になっている文化財は、逆に市民には疎遠かもしれません。
 旧永山邸は、文化財や観光地としての知名度は時計台や道庁赤れんがほど高くはありませんでした(おそらく、今も)。だから、いつ行っても閑散としていました。それはそれで、歴史的な風情を静かな雰囲気で味わえてよかったのですが、一方で「もったいないな」とも思ったのです。
 せっかく札幌市が税金を使って保存にこれ務めているオオヤケの施設です。「使ってこそ」の文化財ではなかろうか。古いモノは、「ただ」残っていればいいというものではあるまい。また、一見「ただ」残っているかに見えても、人知れないエネルギーが費やされていることもあります。
 文化財の場合、「使うこと」と「残すこと」は矛盾をきたすともいえます。使えば使うほど負荷がかかり、残すことに支障が生じる。そのバランスは必要です。旧三菱鉱業寮の場合、指定文化財ではありませんが事情は同じでしょう。
 このことを念頭に入れつつも、旧三菱鉱業寮の2階和室はほとんど空き部屋だったので、「もっと使われてもよかろうに」と私は思いました。来場者数が少なければ「税金を使って、残し続ける意味があるのか?」という声が起きても不思議ではありません。例えば建築上の価値があるとか、景観上の価値があるとか言っても、土地利用の経済的価値を引き合いにされるとどうか。いくら「カネに換えられない価値がある」といっても、なかなか議論にならない。そもそも、納税者の多くが「そんな建物、行ったことないな~」では、経済的価値至上論に敵いません。
 
 三菱鉱業寮の和室から、「もっと使ってもらってもいいですよ~」という声が私に聞こえてきました。
 まず足を運ぶ、知る、味わうことから始めよう。
 20年前、私は若かった。青かった。

 注:豊平館の場合、結婚式場に用いられていた。

2018/06/22

永山武四郎邸で、故人を偲ぶ

 旧永山武四郎邸の南面を眺めました。
旧永山武四郎邸 南面 180622
 向かって左側の縦長窓が洋風応接間、右側の引き戸は和風の座敷です。縁側をはさんで障子窓が入っています(うしろのペパーミントグリーンの洋館は昭和戦前期築の旧三菱鉱業寮)。

 旧永山邸の意義、特徴については下記サイトをご参照ください。
 ↓
 http://kai-hokkaido.com/feature_vol39_takeshirohome_01/

 永山は明治10年代、この邸宅の土地(975坪)を35円70銭で取得したとみられます。当時、彼の月給は100円でした(末注①)。月給の3分の1。「それにしても、この九七五坪を三十五円七十銭とは安い“買いもの”であった。(中略)中心市街部一〇○坪当たり単価は二五円ないし八五円であるのに比べ、ここは三円六六銭二厘である。一、○○○坪程度の敷地を考えていた武四郎としては、当時、かなりの高給であったにしても、中心部よりまだ人手の加わらないこの地の方がはるかに入手しやすかったのであろう」(末注②)。

 「北海道札幌市街之圖」明治11年です。
北海道札幌市街之圖 明治11年 永山邸
 赤い□で囲ったところが永山の邸宅の位置です。当時の札幌本府の“はずれ”でした。そういえば、彼の生誕地も鹿児島城下のはずれでした。
 しかし、彼の勤め先(屯田事務局、のちに第七師団司令部)は橙色ので示したところで、邸宅からは北3条通りをまっすぐの約500mです。職住接近ですね。

 邸宅建築に当たっては、開拓使の営繕課が大きく関与したとみられています。開拓使における当時の彼の地位「少書記官」は、職員千百人余のうち、上から十番目ちょっとです。1881(明治14)年「大書記官」に至って、ナンバー2です(末注③)。

 こちらは、明治20年代後半に建てられた「旧納内屯田兵屋」です(北海道開拓の村で移築保存)。
旧納内屯田兵屋 北海道開拓の村
 永山が制度を整えた屯田兵の住まいでした。 
 家の作りは異なりますが、昨日ブログに載せた鹿児島の下級武士の家屋を、私はなぜか彷彿とさせました。

 1904(明治37)年、永山は東京で死の床に伏しました。屯田兵の諸君に内地に帰ってはならぬと命じたので、自分は東京で死ぬわけにはいかないと言い遺したといいます(末注④)。初期屯田兵の多くは、永山が戊辰戦争で官軍として戦ったときの、敵方の敗残兵でした。
  
 注①:「北海道開拓功労者関係資料集録(下)」1972年、p.30によると、1877(明治10)年当時、永山は開拓使の「少書記官」。『よみがえった「旧永山邸」』1990年p.42によると、少書記官の月俸は100円。
 注②:『よみがえった「旧永山邸」』p.85
 注③:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.27参照
 注④:「永山武四郎長官について語る―永山武美氏を囲む座談会」1960年(道立文書館蔵)。永山武美氏は武四郎の三男。

2018/06/21

札幌の永山武四郎邸から、薩摩の原風景を想う

 6月23日から再公開される旧永山武四郎邸(北海道指定有形文化財)の正面です。
旧永山武四郎邸 正面 180613
 隣接の旧三菱鉱業寮のほうは6月13日ブログで記したように外壁のペンキが塗り変えられたりしましたが、こちらは改修前と一見ほとんど変わってません。今回は最小限の修繕にとどめたとのことです。

 玄関の内部です。
旧永山邸 玄関内部
 6月13日の内覧会で建築史家の角幸博先生は「無装飾で、質実剛健な印象」と解説されました。先生はその数日前、鹿児島の知覧で武家屋敷を見てきて、「これが武家屋敷?」と思ったそうです。質素な作り。もしかしたら永山も、郷里薩摩の武家屋敷が原風景として脳裏に遺っていたのかもしれません。

 鹿児島・加治屋町に再現されている武家屋敷です。
鹿児島・加治屋町武家屋敷 再現
 西郷や大久保ら下級武士の住まいはこんなだったらしい。茅葺屋根ですね。薩摩の「外城」の武家屋敷(角先生がご覧になったという知覧も?)も、鹿児島県歴史資料センター黎明館の模型を見る限り、譬えていえば「農家住宅に毛の生えたような」風情でした。いわゆる「お屋敷」のイメージからは、ほど遠い。

 永山はどうだったのでしょう。6月1日19日ブログで憶測したように上級でなかったとすれば、前掲加治屋町の再現家屋に近かったのかもしれません。しかも、四男で生まれ養子に出されたといいます。養家の家格が生家より上だったとは想いづらい。
 
 武井時紀先生は「永山と黒田清隆、堀基は、いずれも薩摩藩士である。三人のうち永山が最年長である。にもかかわらず黒田、堀の部下である。あるいは城下侍と郷士との関係があったのか、どうか、よくわからない」と書き遺しています(『おもしろいマチ―札幌』1995年、p.122)。これは、永山の家格が黒田らより下だったのかもしれないという見方に解せます。先に記したように黒田は下級でしたので(6月4日ブログ参照)、さらに低いとなると「郷士」クラスでしょうか(末注①)。
 
 私も当初、永山はその出生地からして「郷士」かと想いました。しかし、出生地の「旧西田村」は鹿児島城下と思われます(6月19日ブログ参照)。それから、開拓使における上下関係は、必ずしも維新前の出自の上下関係と正相関しません。黒田と村橋久成の関係がそうであったように、逆転もありえます(6月4日ブログ参照-末注②)。

 「ただ、それにしても」と想うのです。永山武四郎にとって、彼が北海道で整備した屯田兵の制度は、生まれ育った原風景として刷り込まれていたのでないか。

 注①:「薩摩藩の特徴の一つは、他藩に比べ非常に多くの武士がいたことです。その多くは領内113か所に分けられていた郷(外城)に住んでおり、郷士と呼ばれました。彼らは、普段は農業をしながら武芸の訓練もしており、幕末には各郷で鉄砲を用いた軍事訓練もしていました。(鹿児島県『明治維新と郷土の人々 概要』2016年、p.4)
 注②:「統幕・維新は武士社会のなかの階級闘争の側面をもっていた。その主役は、下級の武士たちだった。(中略)討幕をなしとげ、新政府の中枢を担った人びとの多くは下級武士だった。それにたいし、村橋の旧武士としての身分はきわだって高かった」。(西村英樹『夢のサムライ』1998年、p.99)
 

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

カレンダー

05 | 2018/06 | 07
- - - - - 1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30

最新記事

最新コメント

カテゴリ

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

ランキング

↑ クリックすると、ランキングが見れます。

月別アーカイブ

管理画面

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR

最新トラックバック