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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/05/31

高く聳ゆる大久保利通

 鹿児島の大久保利通像です。
大久保利通像
 ボランティアガイドさんから、台座が高いのは像にイタズラされるのを防ぐためだとお聞きしました。
 
 建立されたのは1979(昭和54)年、暗殺された1878(明治11)年から百年を記念してのことです。市内の西郷像は1937(昭和12)年、自刃から60年で建てられています。遅れること40年余、それでもなお「西郷を討った敵役」という怨念が、台座を高くした。 

 ガイドさんから、背面も見るように促されました。 
大久保利通像 背面
 像の足元に、何やら小さく突起しています。

 大久保が東京・紀尾井町で襲撃されたときに乗っていた馬車馬と馭者だそうです。
大久保利通像 足元
 大久保とともに殺された馭者と馬を悼んで、一緒に彫られたと聞きました。

 一人で見るだけではおそらく見落としてしまう細部や挿話でした。
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2018/05/30

厚別区の小中学校と百年記念塔の相関関係 開校年と距離、標高 

 厚別区内における小中学校を、開校年と北海道百年記念塔からの距離の相関をグラフにしてみました。
グラフ 百年記念塔 校歌 校章 開校年×距離 厚別区
 凡例は下記のとおりです。
 タテ軸:百年記念塔から学校までの距離(㎞)
 ヨコ軸:開校年(記念塔建立の1970年以降)
 赤い:百年記念塔が校歌に歌われ、校章に書かれている学校
 橙色の:校歌、校章のいずれかで用いている学校
 黒の▲:いずれでもない学校

 区内の小中学校は29校です(うち4校はすでに閉校)。1970(昭和45)年(記念塔建立の年)以降に開校した22校をグラフに示しました(星槎もみじ台中学校と札幌養護学校を除く)。
 まず、27校中22校が1970年以降に開校しているということに、厚別区の土地柄を感じます。
 以下、グラフにして気づいたことを記します。
 ・1970年代の10年間で開校した8校中6校が校歌または校章に用いている。いずれも記念塔から4㎞以内。
 ・1980年代開校の8校では、2校と減る。2校は記念塔から2㎞以内と近い。
 ・1990年代の4校でも、3㎞以内の3校が用いている。
 ・2000年代開校の2校は3㎞以内だが、用いていない。 
 
 学校の標高と記念塔からの距離の相関をグラフ化しました。
グラフ 百年記念塔 校歌 校章 標高×距離 厚別区
 タテ軸が標高(m)、ヨコ軸が距離(㎞)です。分布しているのは22校中の20校です。うち2校が閉校の後、同じ場所に新たに開校したためです。閉校した学校で示しました。

 厚別区の小中学校は、おしなべていうと記念塔との距離が遠くなるほど標高が高くなる傾向です。
 ・距離3㎞以内では、概して標高は低くても9校中7校で、校歌または校章に用いている。
 ・3㎞より遠くても4㎞以内では6校中3校。比較的標高が高い。
 ・4㎞より遠くなると、比較的標高は高いが、用いられなくなる。 
 
 まとめ:北海道百年記念塔は1970年から2000年にかけての30年間において、厚別区ではおおむね4㎞の圏内でランドマークでありました。

2018/05/29

札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第79号 発行

 今号の表紙は、会員Sさんの作品「旧小熊邸」を掲載させていただきました。
札幌建築鑑賞会通信 きーすとーん第79号表紙
 彩色の原画を札幌建築鑑賞会公式ブログに載せましたので、そちらもお楽しみください。
 ↓
https://ameblo.jp/keystonesapporo/entry-12379807538.html

 ところで、絵に添えた文は次のような出だしで始めています。
通信第79号 表紙 文
 画像では読みづらいと思いますが、赤い傍線を引いた「小熊捍」のところに「おぐま まもる(かん)」とルビを振りました。
 
 一般的に「旧小熊邸」のことを記した文献等で、元の住まい手であった小熊捍先生(北大教授)の名前の「捍」に振られているルビは「まもる」です(末注①)。しかし、ここではあえて(かん)と補いました。それにはわけがあります。
 ひとつは、門下生だった朝比奈英三先生(北大名誉教授)がご健在のときに「私たちは『おぐまかん』先生と呼んでいました」とお聞きしたことです。
 もうひとつは、先生がどう自称していたか、です。どうも先生ご自身、「かん」と言っていた可能性があります。

 先生が1946(昭和21)年に出版された『虫の進軍』という著書です。
虫の進軍 表紙
 先生自らの装丁による表紙に、「KAN・OGUMA」と記されています。

 同書には、先生のポートレート写真が付いています。
小熊稈先生 ポートレート写真
 これにもやはり「Kan Oguma」と書かれています。これは先生のサインでしょう。その下の「2603」というのは、いわゆる皇紀の年号だと思います。西暦でいうと1943年、昭和でいうと18年。

 先生が描かれた色紙です(5月2日ブログ参照)。
小熊捍先生 色紙
 左下に、前掲肖像写真と同じ筆跡と思われるサインが署されています(赤い矢印の先)。

 やはりKanです。
小熊捍先生 色紙 サイン

 前掲『虫の進軍』には、先生の講演録が載っています。1945(昭和20)年8月25日、還暦を祝賀記念して北大理学部で催された講演会です。玉音放送の10日後というのに私は驚きますが、先生の誕生日は1885(明治18)年8月24日でした。
 その一節を以下、引用します(p.232、引用太字)。
 私の名の捍といふのは舊藩主がつけて呉れたので、「守る」という意味ださうです。何でも私の藩からまだ一人も軍人のエライ人が出ないから、この子は是非軍人に仕立てろといふ意味らしかつたのです。所が事實は凡そ對蹠的になり、とんだものになつてしまひました。
 この文脈からすると、先生は「かん」と音読みした上で、字訓として「守る」を言い添えたように思えるのです(末注②)。

 これらの伝聞、史料からして、今回、先生の名前のルビに(かん)と加えました。
 ただし、先生が「まもる」を称していなかったというのではありません。たとえば1966(昭和41)年に刊行された『雀の食堂』という随筆集の奥付には著者名に「Mamoru Oguma」と添えられています。また、1971(昭和46)年9月11日朝日新聞の死亡記事には「おぐま・まもる」と記されています。
 そもそも日本の人名の場合、漢字の読みに正誤は付けがたいといえましょう。先生の場合、「捍」というのはおそらくご存命当時もなかなか難しい読みだったと思います。まわりが「かん」先生と呼び慣わし、ご自身も肩ひじ張らないサインなどではKanのほうを好まれていたのではないかと私は拝察するのです。ローマ字にすると‘Mamoru Oguma’よりも‘Kan Oguma’のほうがスタイリッシュに見えます。いや、これは私の印象にすぎませんが。

ルビの(かん)は、かくかくしかじか、そんなわけです。

 末注①:『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.88、『札幌の建築探訪』1998年、p.143など
 末注②:手元の漢和辞典『新版 漢字源』1999年の「捍」の項には音として「カン」「ガン」はあるが、訓は付されていない(p.547)。

2018/05/28

鹿児島で見た北海道

 鹿児島行の本来のテーマである軟石のことや薩摩藩出身の北海道“開拓功労者”について記したいと思っているのですが、なかなか果たせません。周辺部分の話ばっかり綴っています。

 鹿児島中央駅の地下のスーパーで見かけた北海道です。
城山ストアー わかさや本舗
 札幌市西区宮の沢のお菓子屋さんの商品が売られていました。
 宮の沢といっても、「白い○人」で全国的に有名なところではありません。ホワイトチョコレートではなく「ミルククリームサンド」です。商品の下に「バターリッチシリーズ」という札が貼られているのですが、これは違いますね。バターリッチのほうは、これまた全国的に有名な帯広のお菓子屋さんの「○セイバターサンド」に似た仕様です。この隣に置いてありました。「北の菓子百選」と書かれていますが、「百選」はどうやらこの商品を作っている会社自身の選定のようです。菓子の袋に、牧歌的な風景が描かれています。広々とした牧草地にホルスタイン、腰折れ屋根の牛舎とサイロ。“内地”で、かように北海道が刷り込まれるのですね。 
 鹿児島では、本品が北海道の右代表でした。よっぽど土産に買って帰ろうかとも思いましたが、わざわざ鹿児島で札幌の商品を買うのも何だなと思い直してやめました。

 刷り込みといえば、こちらも目を惹きました。
デーリィ牛乳
 デーリィ牛乳。

 南九州の牛乳なのですが、パッケージはやはり北海道的な絵柄です。
デーリィ牛乳 絵柄
 腰折れ屋根の牛舎にサイロというのは九州の牧場でも見られる風景なのだろうか。サイロは組積造のように描かれています。

2018/05/27

「北18西1」のまぼろし

 本年5月8日ブログで、北区北18条西2丁目の街区について記しました。同じ街区の中に「北18西1」と「北18条西2丁目」という表示板があることです。

 現在図で場所を確認します(国土地理院標準地図から)。
現在図 北18条西2丁目街区
 赤い線で囲った街区が北18条西2丁目、その南側、紫色の線が北17条西2丁目、橙色が北17条西1丁目です。北17条以南には西1丁目がありますが、北18条以北にはありません。
 「北18西1」の看板は赤い「北18条西2丁目」の看板は黄色のの地点にあります。つまり、「北18西1」という表示板は、この街区の条丁目名からすると不思議なのです。

 念のため、この街区の条丁目を裏付ける資料に当たっておきます。
札幌市地番図 北18条西2丁目周辺
 札幌市地番図2018年です。表示板の位置は、いずれも北18条西2丁目に含まれます。

 なぜ、北18条西2丁目に、「北18西1」の表示板か?
 実は、「北18条西1丁目」という区域が、2004(平成16)年まで存在してました。
 それを示す資料がこちらです。
札幌市 町界変更 北18条西1丁目 2004年
 札幌市の「町の区域の変更地番図」です(札幌市戸籍住民課による)。
 2004年の変更前の時点で、赤い線で囲った北18条西2丁目、その東側に黄色の線で細長く北18条西1丁目という区域がありました。この細長い区域は、まるごと道路でした。道路(国道5号)のみです。こんな条丁目区域があったのですね。

 道路だけで単独の条丁目というのは、この周辺ではここだけです。この北側も南側も、それぞれ宅地部分の条丁目に含まれています。なぜここのみが、道路だけで北18条西1丁目だったのか?
 その原因を明らかにする史料までは遡れなかったので、以下は私の想像です。
 かつては宅地側にも北18条西1丁目があったのではないか。地番図を見ると、赤い線で囲った北18条西2丁目の街区で、赤い破線を境目にして番地が異なっています。破線の西側は21番地ですが、東側は24番地です。この24番地側はかつて「西1丁目」だったのではないか。あるとき、この宅地が「西2丁目」に変更された。結果として道路敷地のみが、西1丁目で残ってしまった。道路だけで単独の条丁目というのも意味がないので、2004年にこの部分も変更され、西2丁目に含まれた。

 では、にもかかわらず、なぜ「北18西1」という表示板が遺っているのか?
 この表示板は信号機に付いています。つまり警察が設置したものです。一方、町界の変更は札幌市がおこないます。その情報は警察にも伝えられるはずなのですが、どうも本件は伝わっていなかったようです。このことは前述の札幌市戸籍住民課に問い合わせて確認しました。
 かくして、北18条西2丁目の町界内に「北18西1」が存在しています。市の担当者は「こんど、警察に直すように言っておきます」と言われました。うーん、私が問い合わせたばっかりに、稀有な本物件が消失するとしたらヤブヘビです。私は市の担当者に「いや、決して『直せ』と言っているわけではありませんので…」と言いつくろいました。このまま本件が存続することを願うのみです。

2018/05/26

小野幌小学校の地形

 5月22日ブログでお伝えした小野幌小学校(厚別区厚別東2条4丁目)の地形を、標高図で見てみました。
標高図 28m以下から1mごと色別 小野幌小学校周辺
 28m以下から1mごとに色別しました(国土地理院地図から作成)。白い矢印で示した先が小学校です。

 学校は、野津幌川と小野津幌川に挟まれた舌状台地の先っぽに位置しています。所在地は明治以来変わっていません。一帯の小高い場所に立地したように読み取れます。
 5月22日のブログで、校内の池について「周囲に住宅地が広がる中、ここだけ別世界の観」と記しました。が、この標高図を見ていて、別のことに気づきました。

 標高図を拡大します。
標高図 28m以下から1mごと色別 小野幌小学校周辺 拡大
 小学校の東から南にかけて、沢状に低くなっているのです。
 
 沢状地形の真ん中ら辺、赤矢印の先に公園があります。
下野幌高台公園
 下野幌高台公園といいます。
 所在地は小学校と同じ厚別東2条4丁目ですが、アタマに冠しているのは「下野幌」です。同じ町内に「小野幌」小学校あり、「下野幌」高台公園ありというのも、比較的新しい住宅地ならではでしょうか。

 それはさておき、この公園はやはり沢地でした。
下野幌高台公園
 いまでも低湿地で、その上を歩けるように散策路が設けられています。小野幌小の校内庭園のすぐそばにも、自然地形が遺っていました。厚別区に住んで四半世紀以上になりながら、初めて知りました。

 1947(昭和22)年の空中写真(米軍撮影)を見ます(国土地理院サイトから)。
空中写真 1947年米軍 小野幌小学校
 白い○で囲ったところが小野幌小です。下野幌高台公園の位置も、お察しいただけるかと思います。
 学校周辺の微地形(というよりは、顕かな地形か)や地勢、土地利用の様子が読み取れますが、あまり先走ると9月に予定する「厚別歴史散歩」のネタばらしになってしまうので、これくらいにしておきます。

2018/05/25

鹿児島市史に関する私の重大な無知

 鹿児島市の中心部には、近代洋風建築が数多く見られます。 
 明治初期の擬洋風から、大正、昭和戦前期にかけての様式主義、モダニズムと、近代建築史をたどることができます。街を歩いてこれらの建物を眺めながら、二つのことに気づきました。

 それを記す前に、まず中心部に遺る建物を建築年順に紹介しましょう。 

 旧県立興業館。
旧興業館
 1883(明治16)年築。

 山形屋(やまかたや)。
山形屋
 1916(大正5)年築(ただし現建物の外観は復原)。

 旧鹿児島県庁舎(県政記念館)。
県政記念館
 1925(大正14)年築。

 鹿児島県立博物館。
県立博物館
 1927(昭和2)年。

 旧鹿児島市公会堂(現中央公民館)。
中央公民館
 1927(昭和2)年築。

 教育会館。
教育会館
 1931(昭和6)年。

 旧第一高等女学校学校校舎(現鹿児島中央高校校舎)。
鹿児島中央高校
 1935(昭和10)年築。
 
 鹿児島市役所。
鹿児島市役所
 1937(昭和12)年築。

 旧鹿児島無尽(現南日本銀行)。
南日本銀行
 1937(昭和12)年築。

 ほとんどが県や市の公共建築、さらには銀行やデパートという公共的建築です。私はさほど各地を見て歩いているわけではありませんが、県庁所在地の規模の都市としては平均を上回る数ではないかと思います。
 私が気づいたのは、「そのわりには…」ということです。そのわりには、民間の小規模な歴史的建物がほとんど見当たらない(末注①)。正味三日間の滞在ですから、もちろん見落とした可能性も高いのですが、目につかなかったのです。
 
 例えば、海沿い近くに、こんな建物があります。
鹿児島 豊産業
 ボランティアガイドを申し込んだ「まち歩き観光ステーション」で教えていただきました。北海道でいえば小樽などで見かけそうな佳品です。
 この種の民間小建築が、なぜ少ないか。恥ずかしいことに私は、重大な史実に無知でした。鹿児島市は太平洋戦争時、米軍の空襲で当時の市街地の実に93%!を焼失していたのです(末注②)。遺ったのは結局、被害が比較的少なくてすんだ、あるいは修復できた公共のRC造に限られた、ということではないか。

 さて、もう一つ気づいたのは、前掲の建物には、由来や特徴などを記した説明表示がほとんど見当たらない、ということです。冒頭の旧県立興業館には説明看板が立っていましたが、ほかでは見つけられませんでした。せいぜい登録文化財のプレート程度です。いや、それが悪いということではありません。市中心部のいたるところに建てられている維新功労者の「誕生地」や「居宅跡」の碑や説明板、銅像などと比べて、実に対照的です。  

注①:今回の旅の主テーマである石造建築は別とする。これについては、おって綴る。
注②:『鹿児島市史Ⅱ』1970年、pp.776-779、及び鹿児島市サイト ⇒ http://www.city.kagoshima.lg.jp/soumu/soumu/soumu/kurashi/hewa/sensai/jokyo-1.html

2018/05/24

北辰斜にさすところ

 「第七高等学校造士館跡」碑です。
第七高等学校造士館跡碑
 「史跡 鶴丸城跡」ですが、鹿児島城(鶴丸城)の本丸跡には明治になって、第七高等学校が置かれました(末注)。校舎は第二次大戦の空襲で焼失しますが、戦後は後身の鹿児島大学キャンパスとなりました。その大学も移転し、現在は鹿児島県歴史資料センター(黎明館)があります。
 
 その庭先に、「七高生久遠の碑」という像が建てられています。
七高生久遠の碑
 旧制高校を経験した方はもはや絶滅危惧(大変失礼)に近い存在です。OBの人たちの青春に寄せるノスタルジーは独特に強く、学校があったところにはたいていこの種のモニュメントが建立されています。
 
 さもありなん、旧制官立高等学校の難関たるや、いまの大学の比ではありませんでした。その学生数の合計は帝国大学の定員の合計とほぼ同じだったといいます。戦前、帝国大学へ進んだ人は、同世代の人口比にして1%にも満たなかったのではないでしょうか。彼らは、世間一般とは隔絶した自由と自治の世界で、去りては再び帰らざる若き日の感激を謳歌していました。
 
 だいたい旧制高校は古い城下町とセットになっています。 
四高記念碑
 北陸・金沢の「四高記念碑」です(2014年5月撮影)。私は高校時代、井上靖の『北の海』を読み、金沢の街や旧制第四高等学校に憧れました。ノスタルジーが刷り込まれてしまったのです。
 画像の記念碑背後に写る煉瓦の旧校舎には、四高の遺物がいろいろ展示されていました。金沢は大きな戦災に遭わなかったので古い町並みが遺っています。金沢大学にも行きたかった。 

 鹿児島でこのたび七高造士館の遺跡を見て、「ああ、ここも同じだなあ」と想いました。札幌に帰ってきて今日、とある講演を聴き、この学校が札幌とゆかりがあることを初めて知りました。初代校長が札幌農学校の出身だったのです。宮部金吾や内村鑑三、新渡戸稲造と同期の岩崎行親という人です。昨日ブログで伝えた鶴丸高校の前身の旧制中学の校長も務めました。

 そもそも札幌農学校は黒田清隆の肝煎りで作られ、初代校長の調所広丈は薩摩藩の出身ですから、因果は巡る糸車といったところでしょうか。薩摩の精神風土にクラーク仕込みのピュリタニズムが札幌で注入されて、それが鹿児島にフィードバックされた。

 注:旧制高校で、七高だけが旧藩校由来の名前があとに付く。

2018/05/23

鹿児島の高校生の“通過儀礼”

 鹿児島に着いた翌日(5月18日)の早朝、ホテルの界隈を散策しました。
 
 永山武四郎の生誕地を訪ねる途中で見かけた県立高校です。
鶴丸高校 ①
 鶴丸高校といいます。

 来年で「創立125周年」らしい。
鶴丸高校 ②
 たしか前身は旧制鹿児島第一中学校だと思いましたが、旧制第一高等女学校をも母体にしているようです。札幌で譬えれば、南高と北高を合体させたような学校になります。

 外構に書道部の生徒の作品が展示されていました。
鶴丸高校 ③
 ほとんどが西郷の遺訓を題材にしていて、私は「ああ、やっぱりここは西郷なんだなあ」などと陳腐な感想を抱いて鑑賞させてもらいました。

 この学校をブログで取り上げたのは、あることに気づいたからです。私がここを通りかかったのは朝7時前だったのですが、朝練なのか補習なのか、少なからぬ生徒がすでに登校していました。その多くが、校門を入るとき一礼して校舎に向かうのです。これは、私には驚きでした。見ていたら、おおまかに8割くらいの生徒がそうしていたでしょうか。
 高校生が日々の登校で、校舎に向かって頭を下げる。私の出身校(愛知県)ではそんな風習はありませんでした。おそらく他校でも、そんなことをしていれば必ずや話題になったと思うのですが、聞いたことはありませんでした。「鹿児島県下一の進学校ともなると、スゴイな」などとまた、陳腐に思ったものです。

 余談ながら私の高校受験当時、愛知県では「学校群」という入試制度がありました(末注①)。私が受験した学校群は、一方は前述の鶴丸のような伝統校、もう一方は「まあ、どこにでもある」学校の、二校の組合せでした。いわば前者は“特上”、後者は“並”です。私は後者の“並”のほうに「回された」のですが(末注②)、登校時に校門で一礼するという通過儀式は、入学した後者のみならず、入学しそこなった前者のほうでも、ありませんでした。

 翌々日(5月20日)、まち歩きツアーに参加したとき、ボランティアガイドさんに「鶴丸の生徒さんはスゴイですねえ」とお話ししたら、「いや、それは鶴丸に限ったことではありません。どこの高校でも、そうしてます」と言われました。げに、文化というものはところ変われば変わるものです。いや、私の見聞が狭いだけなのか。北海道の高校でも、やっているのでしょうか。

 注①:学校群という“特異”な入試制度は、経験のない地域では理解しづらいかもしれない。要は、合格者の入学先をガラガラポンで“特上”校と“並”校のいずれかに振り分ける仕組みで、“学校間格差”をなくすという目的であった。しかし、愛知県ではその後この制度は廃止され、結局また、特上-上-並が復活した。
 注②:当時、学校群の合格発表では、“特上”に振り分けられて喜ぶ合格者と、“並”に「回されて」落胆する合格者という光景が見られた(入試倍率は1.0ン倍で、不合格者は極めて少なかった)。「合格しても、希望した学校に行けない」ということが、制度廃止の一因になったのであろう。

2018/05/22

小野幌小学校 秘境

 厚別歴史写真パネル展の付属行事として昨年から実施している「歴史散歩」の下見で小野幌を歩きました。
 
 スタートは小野幌小学校です。
小野幌小学校 校章
 1899(明治32)年の「簡易教育所」以来、120年になんなんとします。教員OBの実行委員さんの手配で校内の郷土資料室を見学させていただきました。

 私のようなオタクにとって昨今、学校というのは秘境です。付近を一人でウロウロしたら、不審者扱いのおそれがあります。ましてや、勝手に校内に入ったりするのは許されません。
 新聞に「まち歩きのススメ」を連載しているT先生は、公園で遊具の写真を撮っていたら、後刻、市の公園担当課から「先生、○○公園に行ってませんでしたか?」と電話が架かってきたそうです。不審者として通報されたらしい。市の担当職員が先生の存在を認知していたから事なきをえました。子どもが遊んでいる風景など、ウカツにカメラを向けられません。
 したがって、手筈を整えてこういう行事で探検させてもらえるのは貴重な機会となります。一人で学校のインタフォンを鳴らす勇気のない皆さん、9月に開催する本番をご期待ください。

 秘境といえば、本件小野幌小学校は実際に秘境の野趣が漂っていました。
 小野幌小学校 学校庭園
 校内に池があることは郷土史の文献で知っていて(末注)、ぜひ拝見したいと願っていたところです。これは、予想した以上の風情でした。周囲に住宅地が広がる中、ここだけ別世界の観です。
 この池は、1958(昭和33)年、開校60周年で作られた校歌にも歌われています(二番)。
 ♪松のみどりの広庭に しらかば写す池の面に しずかに学ぶわたしたち 楽しい学校 小野幌♪ 

 なぜ、ここに池があるか、これも行事当日をお楽しみに。開催要領が決まりしだい、おって拙ブログでもご案内します。

 注:『小野幌開基百年』1988年、pp.144-146

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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