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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/03/31

「札幌」と「さっぽろ」の間

 2031年に開業されるという北海道新幹線の札幌駅ホームの位置が決定したと、最近報じられています。現駅の200~300m東側、創成川を跨ぐ形になるとのことです。新幹線ホームをめぐっては、いろいろな案が出され紆余曲折しました。このたびの案がすんなり決まらなかったのは、なんといっても在来線ホームから離れていることでしょう。利用者の負担を軽減するために、「動く歩道」の設置などを求める声もあるようです。

 私が北海道新幹線を利用する頻度はおおそらく極めて低いので、ホームの位置について切実な感想は正直言ってありません。ただ、札幌駅周辺が大きく改造されることになるこれを機に、一つ関係当局で検討してほしいことがあります。それはJR「札幌」駅と地下鉄「さっぽろ」駅の距離です。
 新幹線と在来線のホームの距離がクローズアップされていますが、実はJRと地下鉄の駅もかなり離れています。
現在図 札幌駅とさっぽろ駅の距離
 各ホームの中心地点で距離を測ると、新幹線と在来線は約350m、JRと地下鉄は約300m、離れています(新幹線ホームは創成川上を基点として計測)。上掲現在図で、黄色の線で示した新幹線ホーム想定位置と在来線ホームの間隔、赤い線で示したJRホームと地下鉄「さっぽろ」駅ホームの間隔を比べてみてください。新幹線利用者の在来線との乗り継ぎが不便というなら、地下鉄との乗り継ぎも負担が大きい、しかもこちらは現時点においてすでに深刻といえるのではないでしょうか。

 なぜこれをいま問題視するかというと、それは以下に述べる事情が重なっているからです。
 利用したことのある方は実感されていると思いますが、特に地下鉄南北線「さっぽろ」駅の北端の改札口及びホームへの階段はラッシュ時、非常に混雑します。これは札幌駅周辺の再開発と観光客の増加に伴い、近年ますますひどくなっているようです。
地下鉄さっぽろ駅 北側階段①
 混雑していないときも、北側の改札口からホームへの階段はエスカレーターが無いため、大きな旅行鞄を抱えた観光客が階段をえっちらおっちら昇り降りする光景を目にします。
 
 今日の夕方、この場所でしばらく観察していたら、こんなことがありました。人ひとり入れるくらいの巨大なスーツケースを引いてきた旅行客とおぼしき女性が、改札口をICカードでいったん入ったのですが、ホームへの階段を降りずにまた改札口を出ようとしました。しかし、同じ駅で出ようとするとアラームが表示されてしまい、出れません。
 察するに、この女性客はエレベーターかエスカレーターでホームに降りたかったようです。しかし、どちらも無い。女性は近くにいた駅員に話しかけました。駅員は「エレベーターは、もう少し先です」と答えたのですが、女性はそれを聞いて逡巡した様子です。エレベーターのほうまで移動するのも大儀なのでしょう。結局、駅員が女性のスーツケースを持って、階段を一緒に降りていきました。ご苦労さまなことでした。

 地下鉄が到着して乗客がホームに吐き出され、階段を昇り始めると、大変混み合います。
地下鉄さっぽろ駅 北側階段②
 駅員が、階段を降りる客を左側、昇る客を右側へと大声で繰返し誘導し、混乱を防いでいます。そしてホームでは、できるだけ先(南の方)へ行くように呼びかけています。北側の階段を降りたところに滞留すると、いわば“糞づまり”状態になるからです。

 南北線「さっぽろ」駅では、エスカレーターやエレベーターはホームの中央から南側に設置されています。JR駅方面からの利用者の動線には入りづらいのでしょう。これは私の推測ですが、北側にエスカレーターを設けたら、おそらく乗降客はますます滞って混雑すると思われます。痛し痒しです。しかも、「さっぽろ」駅はホームがいわゆる「島式」で、麻生行きと真駒内行きの双方の利用者が同じ場所に行き交うため、混雑に拍車をかけています。
 かてて加えての、JR駅までの距離なのです。札幌に長くお住まいの方はご存知ですが、JRと地下鉄の距離は30年近く前、JR駅が高架化に伴って北側にずれたため、より長くなりました。数十m延びたと思います。JRの高架化に伴って、ある意味「不便になった」のです。新幹線ホームは、さらに遠隔になります。

 さて、ここで私の結論的提案です。地下鉄南北線「さっぽろ」駅のホームを、北側すなわちJR「札幌」駅寄りに延長してもらえませんか。単に延ばすのではなく、「真駒内」行きの乗り場と「麻生」行きの乗り場を分ける、というか「ずらす」のです。JRから地下鉄に乗り継ぐ特に観光客は、「大通」「すすきの」方面への動向が大きいと思われます。そこで、JR駅寄りに延長したホームを「大通」「すすきの」方面「真駒内」行きの乗り場とします。「麻生」行きの乗り場は、現在の北側改札口及び階段の以南とする。できれば、それぞれにエスカレーターを付ける。これにより、現在の北側階段に集中する混雑を緩和するとともに、JR駅との距離を短縮して乗り継ぎ客の負担を軽減できます。
 「島式」のホームで乗り場を行き先によってずらすのは、名古屋市営地下鉄の東山線「名古屋」駅で見られます。札幌も、東西線「大通」駅の「島式」ホームは、「宮の沢」行きと「新さっぽろ」行きの乗り場がわずかにずれています。といっても、ずれは車両1両分もありません。理由は知りませんが、もしかしたら、双方の乗車位置を微妙にずらしているのかもしれません。名古屋の場合は、もっと大幅にずらされています。

 札幌の「さっぽろ」駅も、作った当初からそうすべきだったとも思います。もっといえば、初めからもう少し「札幌」駅寄りにホームを設けるべきでした。と、これは詮無いことです。おそらく地下鉄建設時、こんにちの混雑は想定されず、バリアフリーとかユニバーサルデザインという思想もまだなかったのでしょう。動線上の商業施設との兼ね合いもあったのかもしれません。
 私が思いつくこの程度のことは、すでに当局の関係者はとっくに考えたにちがいありません。しかし話題に上らないところをみると、ホームの延長というのは技術的にまたは経費的に極めて困難なのでしょうか。

2019.10.16追記 
 その後「さっぽろ駅ホーム増設 地下鉄南北線 27年度に」と報じられた(北海道新聞2019年10月12日記事)。札幌市は、現在のさっぽろ駅ホームの東側に新たにホームを設け、前者は麻生方面乗降専用、後者は真駒内方面乗降専用と分ける由。それぞれのホームの北側(JR札幌駅寄り)にエスカレーターも造るという。「30年度末の北海道新幹線札幌延伸による利用者増も見据え、混雑緩和を図る」(同記事)。事業費約110億円、2022年度着工、27年度供用開始。
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2018/03/30

白老で時空逍遥 ④

 昨日ブログの続きです。 
 白老で軟石が採掘されたことを、地質分布図で探ってみます。
産総研地質分布図 白老の石山
 産総研の資料から抜粋しました。ピンク色で塗られたのが、軟石の元となる「支笏溶結凝灰岩」が含まれる「支笏火砕流」が堆積した一帯です。
 
 白老の「石山」の位置を赤い矢印の先で示しました。橙色の矢印の先は、その石山の軟石を用いたという倉庫の所在地です。
 しかるに、札幌の「石山」は、黄色の矢印の先に位置します。どちらも、支笏火砕流が堆積した端で、川が削っています。白老はブウベツ川という名前で、札幌は豊平川、穴の川です。
 分布図をこうして眺めると、火砕流が噴出した支笏カルデラすなわち現在の支笏湖から、かたや南へ(白老)、かたや北へ(札幌)、ほぼ同じくらいの距離に見えます。火砕流の堆積が同心円状に均等ということではないでしょうが、白老で軟石が採れたとしても不思議ではないなと思いました。

 あらためて、白老の元造り酒屋の石蔵を眺めてみます。
白老 軟石倉庫②-3 軟石表面
 2棟ある石蔵のうち、敷地の奥側の一棟です。色合いとか質感は、札幌で見る軟石と私には区別がつきません。

 ただ、あえていえば…。
白老 軟石倉庫①-3 軟石拡大
 袖壁付きのほうの一棟は、白い斑状の軽石の割合が多いようにも見えます。

 同じ支笏火砕流由来の溶結凝灰岩たる島松軟石(札幌軟石採掘跡地分布図参照)は酸化鉄分により、札幌と比べると赤みがかっています。札幌の石山産の軟石でも、採掘された年代(つまりは堆積された層の違い)によっても、微妙に異なる印象を受けます。支笏溶結凝灰岩だからすべて一様とはいえないようです。しかし、もし、本件倉庫を札幌に持ってきて「札幌軟石です」と言われても、私は何ら疑わなかったでしょう。まだまだ研鑽が足りません。

 白老軟石について、あと3点ほど付け加えます。
 一つは昨日ブログで引用した『新白老町史 上巻』に記述されている以下の一文です(p.1439、引用太字)。
 この石は軟石といわれている石で、大正一二年ころから数年にわたり採石し、苫小牧その他の土地に販売したといわれる。

 白老軟石は苫小牧にも運ばれていた。白老と苫小牧は隣町で、しかも鉄路で一本ですから、不思議なことではありません。苫小牧には今も軟石建物が遺っています(2017.11.20ブログ参照)。私は苫小牧物件を札幌軟石と見立てたのですが、再考を要するかもしれません。

 二つ目は、奥側の倉庫の最下段に積まれている石材です。
白老 軟石倉庫②-4 最下段
 どうも、色合いや質感が二段目以上と異なります。最下段は瘤出し、二段目は平滑、三段目より上はツルメト、仕上げ方が異なるのですが、最下段は単に仕上げ方だけではないような気がしました。これは登別中硬石ではないだろうか?

 三点目は、石材のことではなくて、本件倉庫の保存活用についてです。前述したように、現在NPO法人によって管理運営されています。札幌での石蔵の活用を進める上で、参考になることがあるのではないでしょうか。

 残念ながら、帰りの汽車の時刻が迫ってきました。本件がそもそも白老産なのか札幌産なのかも含め、上記三点は宿題として引き続き抱えていくこととしましょう。(白老の)石山や社台にあったという軟石採掘跡地も、いつか訪ねてみたいものです。[おわり]

注:登別中硬石については、2015.3.218.10各ブログ参照

2018/03/29

白老で時空逍遥 ③

 白老町本町に遺る軟石倉庫です。
白老 軟石倉庫②-2
 昨日ブログに記したように、元は造り酒屋の蔵で、農協倉庫を経て2000(平成12)年からNPO法人によって管理運営されています。

 建物内にいた職員の方に伺うと、使われているのは「札幌軟石」とのことでした。建てられたのは「昭和初期」と。
 ところが、私が町の図書館で調べた『白老町史』1975年(旧)によると、次のように記されていました(p.643、引用太字)。
 この酒倉は大正十二年、社台地区、石山地区から産出した石材により、荒井春吉(荒井喜一の父)の築造したものである。

 この記述は『新白老町史』1992年にも踏襲されています。本件倉庫の石材は地元産だというのです。新町史下巻「地区史」の「石山」の項には、次のように書かれています(p.1303、引用太字)。
 地名の発祥として、現在白老町農業協同組合敷地内にある石造倉庫はかつて酒造業を営んだ干場亭次郎の酒倉であった。大正七年から一二年にかけ荒井春吉が、社台と石山からの石材を用い築造したといわれている。このように石山地区の山は軟石の多いことからこの地名が付けられたと思われる。
 また、『北海道地名辞典』(角川書店)によると、大正末期から昭和初期に酒倉などに使う石材を切り出したとある。このような事情から字名改正の折り石山と改称されたのであろう。 


 現在図を見ると…。
白老 現在図 石山
 赤い○で囲ったところが、本件石蔵の位置です(本町1丁目)。ここから西へ約2.5㎞のところに、「石山」という字名があります。橙色の○で囲ったところです。まあ、“目と鼻の先”といってもいいかと思います。一方、札幌から白老までは、現在のJR千歳線、室蘭本線で約93㎞。ちなみに、千歳線の前身ともいえる「北海道鉄道」苗穂-苫小牧間が開通したのは1926(大正15)年です(末注①)。本件石蔵の建築年が「昭和初期」で、石材産地が札幌だとすると、鉄道で運んだ可能性はあります。しかし、1923(大正12)年築で札幌軟石だとすると、室蘭街道を馬車で運んだということか。
 
 新町史上巻には、白老町内の軟石採掘についてかなり詳細に綴られています(p.1439、引用太字、末注②)。
 町内の社台から白老にかけての地層が、支笏湖溶岩で覆われているが、別々川中流、白老川市街地付近などに、この溶泥岩を石材として切り出した跡がある。この石は軟石といわれている石で、大正一二年ころから数年にわたり採石し、苫小牧その他の土地に販売したといわれる。採掘場所に一つは社台三七一番地付近(現在○○牧場所有)で、同二六番地の○○○○が、当時これを所有採石し、他の場所は字石山六三番地(現在○○○○所有)で、○○○○が所有採石した。石材は建築用として、白老に酒蔵や炭窯の口石に用いられた。しかし石材としては必ずしも良好ではないので、現在は採石していない。(○の箇所は原文では固有名詞)

 町史にこのように書かれているにもかかわらず、建物の現地の方から「札幌軟石」というコトバが出たのは如何?
 直線距離にして2~3㎞のところに同じような石材の産地があったにもかかわらず、しかもおそらく鉄道の通じていない時代に、わざわざ札幌から運んだというのは、私にはどうも考えづらいのです。あるいは、地元産もひっくるめて「札幌軟石」と受け止められているのでしょうか。

 注①:札幌市白石区役所『白石歴しるべ』1999年による(p.6)。
 注②:引用文中、「支笏湖溶岩」「溶泥岩」とあるのは、「支笏火砕流堆積物」「溶結凝灰岩」のことであろう。

2018/03/28

白老で時空逍遥 ②

 昨日ブログで、踏切の引っ越しについて記しました。移動した先でも名前が元のままというのは、踏切では珍しくはないようです(2016年12月31日ブログ参照)。踏切の名前というのは、いわば記号というか、関係者の業務上の符丁みたいなものなのでしょう。ころころ変えるのはむしろ支障をきたします。認定道路の路線名も、しかり。電柱もしかり。化石的事象を発掘できる所以かもしれません。

 さて、白老の本町というところに軟石倉庫が2棟、遺っています。
白老 軟石倉庫①
 所在地の字名は「本町」ですが、画像に写る電柱の銘鈑は「元町」です。「本町」「元町」という響きは、旧市街を彷彿させます。倉庫の妻側に伸びた袖壁は、延焼防火を意識したものでしょう。旧市街が感じられます。

 元は造り酒屋だったと聞きます。 
白老 軟石倉庫 ミセ?
 道路に面した2階建て入母屋屋根は、店だったのではないでしょうか。

 奥に位置する一棟は現在、白老牛のハンバーガーショップになっています。
白老 軟石倉庫②
 こちらは屋根の棟に換気口が二つ、付いています。
 造り酒屋の後、農協の倉庫として使われたというので、そのときに付けられたのかもしれません。

 内部を見ると、木骨が入っていました。
白老 軟石倉庫 内部
 軟石を柱の木骨と固定しているカスガイの古さからみて、あとから補強したものではなく、元々の構造と思われます。梁は新しい材が加えられているようです。外観を見た限りでは、軟石の小口(直方体のもっとも面積の小さい面)が1尺四方なので、純石造かと思ったのですが、さにあらずでした。札幌の石蔵の木骨石造は、1尺×5寸と薄いのが一般的です。
 
 建物は「しらおい創造空間 蔵」という名前で、NPO法人により保存活用されています。白老牛バーガーの販売だけでなく、多目的ホール、ギャラリーなどで貸出しされているのです。開館したのは2000(平成12)年。
 
 この石蔵はいつ建てられたか? 軟石はどこの産か? 実はこの石蔵を訪ねる前、近くにある町の図書館で『白老町史』をひもとき、建物の基礎情報をアタマに入れて伺ったのですが、念のため建物内におられた職員にお訊きしました。すると、返ってきた答えは「札幌軟石」です。札幌軟石! 驚きました。私が仕入れた知識と違っていたのです。[つづく]

2018/03/27

白老で時空逍遥 ①

 白老町のアイヌ民族博物館に行ってきました。2020年に国立アイヌ民族博物館ができることに伴い、今月末で閉館します。見納めというわけです。
 せっかくなので、界隈も逍遙しました。というか、そちらのほうが目当てだったかもしれません。一足先に白老を訪ねた札幌建築鑑賞会スタッフSさんから、駅周辺の物件を情報提供いただきました。「国有鉄道」の標柱とか、跨線橋とか、シートを被せられて置かれているSLとか。同じくすでに足を運んでいるスタッフNさんは、国立博物館の建設用地にさまざまな工事関係者の車両が集結していると言ってました。かような目利きの人たちの刺激を受けていると、私も観察力が問われます。ましてや拙ブログに載せるとなると、そんじょそこらの物件では納得してもらえません。

 最初に私の目に入ったのは…。
白老 小沼線通り踏切
 ポロト湖畔の博物館へ至る途中に横切ったJRの踏切です。

 「さて、どんな名前が付いているかな~」と楽しみにしながら銘鈑を見ると…。
白老 小沼線通り踏切 銘鈑
 「小沼線通り踏切」と。いきなり期待に違わず。なぜ、「小沼線通り」か? 

 この踏切がある道路の正面にあるのは、「ポロト湖」です。
白老 ポロト湖
 アイヌ語で、ポロ(大きい)・ト(沼)。

 なのになぜ、通りが「小沼線」か? 通りが「小沼」なら、目の前にあるのは「ポン(小さい)・ト(沼)」であってよかろうに。あるいは、目の前にあるのがポロトなら、通りの名前は「大沼線」であってもよかろうに。
 
 現在図で位置関係を確認しましょう(元図は国土地理院サイトから)。
地理院地図 白老 ポロト湖周辺
 赤い○の場所が「小沼線通り踏切」です。どうみてもポロト湖が近い。大きな方を採らずに、あえて「小」さな沼線とした理由は如何?
 
 博物館のチセ(家)で当番をしていた老齢の男性にお尋ねしました。
 私「この近くに、ポロトとは別にポントという沼はありませんか?」
 男性「ポロトの対岸の山陰にポントはあります」 
 私「ここに来る途中の踏切に『小沼線』とあるのが不思議だったのですが。目の前にあるのがポロトなのに、なぜでしょうね」
 男性「あの踏切はもともと、200mくらい(白老)駅寄りの、ポントの近くにありました。この施設ができる頃、道路が付け変わって踏切も移りました。しかし名前はそのまま変わらずに残ったんです。このことは、もう地元の人でも知らなくなっているでしょうね」

 アイヌ民族博物館の方だからアイヌ語に精通しているのは当然として、最初にお訊きした方が踏切の銘鈑の経緯も認識しておられたのは幸運でした。これは稀有だと思う。

 これはもう、ポントを自分の眼で確かめないわけにはいきません。
白老 ポント沼
 愛でるに値する小沼でした。否、小沼という和語より、ポントのほうが雰囲気にふさわしいと感じてしまいます。ポロトの何十分の一かの大きさで可愛らしい。

 ちなみに、ポント沼の近くの市街地の電柱は…。
白老 若草町1丁目 電柱 ポロト幹
 「ポロト幹」という銘鈑でした。まあ、一帯を大きいほう(ポロ)で代表させる気持ちは、判ります。なお、字名は「若草町1丁目」です。「若草」ねえ。

 空中写真で踏切の位置を顧みました(国土地理院サイトから)。
 まず1963(昭和38)年。
空中写真 1963年 白老 ポロト湖
 黄色の○で囲ったところに踏切が見えます。ポント沼に近い。この位置なら確かに、「小沼線通り」も頷けます(「線通り」というのは重言めいてますが、それはさておき)。赤い○が、おおむね現在の位置です。

 1975(昭和50)年になると…。
空中写真 1975年 白老 ポロト湖
 黄色の○のところに痕跡が窺えますが、踏切は赤い○のほうに付け変わっています(方位はおおむね2時の向きが北)。アイヌ民族博物館(の前身のポロトコタン)ができたのが1965(昭和40)年というので、やはりこの2枚の空中写真の間にポロト側に移動したのでしょう。

 すっきりしました。ご期待に添えたでしょうか。 

2018/03/26

ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤの謎 (4)

 3月19日ブログで中断していました「ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤの謎」を再開します。
 ビッグハウス、オートバックス、元ツタヤのナナメ配置は市道「元村線」に由来していました。謎は、元村線がどのようにできたか?です。

 元村線は明治29年地形図に、すでに描かれています(黄色の矢印の先)。
明治29年地形図 元村線

 元村線を南へたどると、二つの道に通じています。
明治29年地形図 元村線 大友堀 元村街道
 水色の線でなぞったのは大友堀(に沿った道)、その南側に並行してえび茶色でなぞったのは元村街道です。元村「線」は大友堀とほぼ直交し、元村「街道」に達しています。
 本年2月13日ブログで記したように、開拓の初期、大友堀に沿って短冊状に耕地が地割されました。大友堀はその南側の元村街道に並行して掘られており、地割の元をただせば、この古道に沿って貼りついた人家に発するといえるでしょう。

 3月18日ブログで示したとおり、元村線は1882(明治15)年の現況を示した古地図にすでに描かれています。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 南西部拡大
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵、一部)です。

 元村線が描かれている部分をさらに拡大します。
札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図 元村線拡大
 凡例によると、元村線を含む赤で塗られた道は1882(明治15)年時点で開通済み、薄茶色は「見込」の道です。青色は大友堀、白地の地割は「従前割渡済之地」、黄色は「明治十五年調査之地」です。
 この古地図によれば、元村線は大友堀を基軸とした短冊状の地割に沿って通じたとみることができます。そこまでは察しがつくとして、さらに問題はその先です。この道の最大の特徴ともいえる「く」の字に折れているのは、なぜか? 
 
 大友堀から発した元村線は、北北西、おおむね11時の向きに進んだのち、北北東から北東に「く」の字形に向きを変えます。向きを変えたところで、道の北西側に土地がまた短冊状に地割されています。赤い矢印で示した先です。「く」の字に折れたのは結局、ここに土地を開くためだったからだと思われます。そうすると次なる問題は、なぜこんな土地の開き方をしたか?です。
[つづく]

2018/03/25

百年記念塔と田上さん 再考

 昨日ブログの終わりに“元祖”ナナメカット物件たる北海道百年記念塔のことを記しました。引き続きその話題です。先日来言及させてもらっている「札幌ノスタルジック散歩」サイトのYさん(北海道建築研究会「ホッケン研」主宰)から、「記念塔はどちらが正面だと思うか?」と尋ねられました。Yさんの考察の仔細は同サイトの方をお読みいただくとして、いわれてみればなるほど、見る位置で微妙に違うなと思いました。

 もっとも一般的なルートからの眺めは、こちらでしょう。
北海道百年記念塔 2018年
 国道12号から札幌啓成高校の前の坂道を登り、「野幌森林公園」バス停で降り、進みます。

 ところが、北海道博物館の位置から望むと、このように見えます。
北海道百年記念塔
 記念塔はYさんも記しているとおり、この博物館から真北への軸線上に配置されることが条件づけられて建てられました。

 1968(昭和43)年に発行された「北海道百年記念」切手に描かれた記念塔です(母のコレクションから)。
北海道百年記念切手 1968  1枚
 前掲2画像とは明らかに異なる向きが、正面に映っています。

 同じ時期に「北海道百年記念塔建設期成会」が作った絵はがきです(北海道立文書館蔵)。
北海道百年記念塔建設期成会 絵はがき
 道民から寄付を募るために配られました。

 切手も絵はがきも 記念塔が実際に建つ前の予想図が描かれています。冒頭に載せた画像とはほぼ反対に近い向きが正面のように見えます。
 気になったのは、Yさんの問いかけもにもよるのですが、てっぺんのナナメカットの向き合いです。

 冒頭画像の向きだと、てっぺんは、こう見えます。
北海道百年記念塔 てっぺん

 しかるに、切手や絵はがきでは、こうなります。
北海道百年記念塔 てっぺん 絵はがき

 次なるは、昨日ブログにも載せたもので、江別・酪農学園から遠望した記念塔です。
北海道百年記念塔 江別側からの眺め
 ナナメカットの向き合いが、冒頭画像とは大きく異なるのがよくわかると思います。それもそのはず、180度反対に近い向きからの眺めだからです。このフォルムをご記憶ください。

 そこで、この住宅をご覧ください。
伏見・田上建築
 脳裏で画像を反転させてフォルムを想像し、前掲江別側から見た記念塔のてっぺんと比べてみてください。記念塔の正面性を延々取り上げた結論は、ここにあります。

 こちらは、田上さん1973(昭和48)年の作品です(2015年3月3日ブログ参照)。田上さんと百年記念塔の相関関係時系列は、本年2月6日ブログをご参照ください。

 これ以上の深入りは私の手に余ります。Yさんの「札幌ノスタルジック散歩」の今後の展開を楽しみにしましょう。

2018/03/24

江別・酪農学園で時空逍遥 ②

 昨日に続き、酪農学園大学です。
 生協の店頭にも、土地柄が偲ばれます。
酪農学園 生協
 学生の必需品が並んでいました。

 特製の「健土健民バター」。
酪農学園 健土健民バター
 内容量200gで、680円(税込)です。

 構内の電柱は…。
酪農学園 電柱
 「酪農学園幹」「学園東幹」「学園西幹」と、1本にプレートが3枚貼られています。

 消火栓にも、土地柄が表れていました。
酪農学園 消火栓 ホルスタイン柄
 これは、最近塗られたものらしい。
 ↓
 https://www.hokkaido-np.co.jp/article/159536/
 消火栓の色というのは目立たないとマズイのでは?と思いきや、江別市の消防からの提案でこうなったといいます。これはこれで目立つかも。

 大学から三愛高校(野幌機農学校の後身)へ通じる道です。
三愛高校 ナナメカット物件
 ここで、前方右手の黄色の矢印の先の物件が気になりました。

 ナナメカットされているのです。
三愛高校 ナナメカット物件 拡大
 「札幌ノスタルジック散歩」の「月形ライオンズクラブ記念碑」を見て以来、私はナナメカット物件過敏症候群を患っています(本年2月6日2月9日各ブログ参照)。

 本件も、これだけ見ていたら、そこまで敏感に察知しなかったでしょう。しかし。
三愛高校 ナナメカット物件の遠方に…
 同じ視野の中で、左手遠方をみはるかすと…。

 彼方に、“元祖”ナナメカット物件を遠望してしまったのです。
三愛高校から、元祖ナナメカット物件を遠望
 私としては、前掲三愛高校物件も「なんちゃって記念塔」に認定いたしたい。

2018/03/23

江別・酪農学園で時空逍遥 ①

 「草創期の牧場が今につなげているもの」(町村農場創業100周年記念シンポジウム)を聴いてきました。宇都宮牧場(長沼町)と町村農場(江別市)のご当主が講演されるとあって、私は江別まで足を運んだのです。町村、宇都宮という名前は北海道にとって、エドウィン・ダン以来の歴史そのものであります。百年を超える酪農家のあゆみを二人の当事者から聞けるというのは、めったにない機会です。
 6年ほど前に札幌の牧場の歴史を紹介した冊子とDVDを札幌建築鑑賞会で作ったとき(末注①)、私なりに調べはしたのですが、両牧場の現在の状況は初めて知りました。終了後、宇都宮さん(宇都宮仙太郎-末注②の曾孫)にサイロと牛舎のことをお訊きし、興味深い事実もわかりました。ぜひ長沼の牧場を訪ねてみたいものです。
 そのことはいずれ機会をみて記すとして、今回はシンポジウム会場となった酪農学園を逍遥します。
 
 ここも、町村-宇都宮の系譜たる黒澤酉蔵創設による聖地です。
酪農学園大学 メインゲート
 広い。

 煉瓦の双子サイロです。
酪農学園 煉瓦双子サイロ
 小端空間積み。

 フリーストール式の牛舎で、牛のストレスが軽減されています。
酪農学園 フリーストール牛舎
 大型機械化も進み、牛舎に牛をつないで手作業で乳を搾るという光景は過去のもののようです。町村さんのところも1992(平成4)年の移転後、牛舎はフリーストール化し、搾乳は「ミルキングパーラー」に移しているとのこと。

 黒澤酉蔵の像です。
酪農学園 黒澤先生像
 私事ながら、40年近く前の学生時代、道東の常呂町(現北見市)に「社会調査実習」にいったとき、とある農家での聞取りで「ノッポロキノコに行った」と耳にしました。ノッポロキノコ? 無知な私は茸の一種かと思ったくらいですが、あとから機農高(校)だと知りました。恥ずかしい思い出です。その前身の酪農義塾(のちに興農義塾)を、黒澤が作りました(末注③)。

 現在「同窓生会館」となっている建物は銘鈑によると、もともと「興農義塾野幌機農学校」当時の校舎兼寄宿舎の一部でした。
酪農学園 同窓生会館
 戦前期築らしい。 
 [つづく]

 注①:「旧北海道ホルスタイン会館」という建物の解体にちなんで、制作した。2015.2.13ブログに関連事項記述。
 注②:宇都宮仙太郎については、2016.12.222016.7.92016.7.82016.7.7各ブログに関連事項記述。
 注③:酪農義塾の農場、宿舎は戦前期の当初、注②の後3ブログに記した旧宇納牧場(現厚別区上野幌)に置かれた。 

2018/03/22

上島正と「西洋花菖蒲」

 昨日3月21日の札幌建築鑑賞会「札幌百科」第15回、講師の笠康三郎さんのお話で解けた謎のひとつに、「西洋花菖蒲」があります。本年2月17日ブログに、その謎のことを記しました。明治のフラワーパーク「東皐園」を開いていた上島正が当時の新聞広告に、「西洋花菖蒲」の見ごろを8月下旬から9月としていたことです。
 私は「西洋花菖蒲」を、漠然とハナショウブの一種くらいにしか思っておらず、「『西洋花菖蒲』という種は、8月下旬~9月上旬に開花するものなのでしょうか」と疑義を投じました。ハナショウブだったらせいぜい7月くらいだろうに、と。まあ私は、ハナショウブとアヤメの区別もつかないのですが。
 笠さんは文献を読み込んで、上島はグラジオラスのことを「西洋花菖蒲」と称していたことを説明してくれました。昨日のお話をお聴きになっていない方のために、拙ブログで補足します。お話はかなり中身がたくさん盛り込まれていたので、参加された方でも聞き逃されたかもしれません。

 明治のクリエーター、ガーディナーにして人望家の上島正は、毎年5月から9月にかけて、その時季おりおりの見ごろの花を絶妙なキャッチコピーで宣伝しました。笠さんによると、おそらく当時まだグラジオラスという名前が人口に膾炙していなかったのでしょう。明治30年代の話です。一般の人がイメージしやすいように言い換えたものと思われます。
 上島は『想い出の記』という記録を遺しています。1900(明治33)年10月21日から始まる一種のインタビュー記事の体裁をとったものです。その10月27日の文中に、次のくだりがあるのです(引用太字)。
 明治二十五年八月、北海道物産共進会がありました。西洋花菖蒲、洋名ではグラジヲロスとやら言うのを出品いたしましたに、其の時、褒状を賜りました。
  同じ文献(末注)を私もざっと読んでいたのですが、というか、その文献を笠さんに差し上げたのですが、私はまったく見落としていました。それを笠さんは見逃さなかったのです。
 
 手元の『フィールド・ガイド14 園芸植物 庭の花、花屋さんの花』1995年には、次のとおり書かれています(p.34、一部抜粋)。
  グラジオラス オランダショウブ トウショウブ アヤメ科 花期5~10月
 4~5月に清楚な花を咲かせる春咲き種と、豪華でカラフルな花を咲かせる夏咲き種がある。夏花壇を代表する植物となっている夏咲き種は、12~3月に植えると6~7月に開花するが、同じ品種であっても植え付け時期を遅らせると、8~10月に咲かせることができる。
 
 明治20~30年代、洋花は札幌といえどもまだ、珍しかったのでしょう。もしかしたら8月末の新聞広告を読んだ市井の人々は「ほう、こんな時期に花菖蒲が咲くのか」と少し驚いたのかもしれません。コピーライター上島正の面目躍如です。植付け・開花時期をハナショウブと変えて、季節を通して人を呼び込んだ作戦でしょうか。 

 別件ながら、拙ブログの閲覧者数(一日当たりの実人数の計、いわゆるユニークユーザー数)が、のべ5万人を超えました。ブログは2014年7月から始めましたが、閲覧者数のカウントは2015年9月4日から設定したものです。931日で50,047人、一日平均で54人です。当初は20~30人でしたが、徐々に増え、最近は60~80人になりました。多くの方に見ていただき、ありがとうございます。札幌一のオタクでマニアックなブログを目指して、日々これ努めます。

 注:厚別中央歴史の会ほか『厚別 黎明期の群像』2013年、p.227 上島の原文はくずし字だが、編者の一人が全文を書き下している。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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