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札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い

2018/02/28

上島正が払下げを受けた土地 結論

 2月23日ブログの続きです。
 明治時代に東皐園を開いた上島正は、現在の東区北11条東1丁目周辺に土地の払下げを受けました。その面積は1万坪(33,000㎡)とも1万2千坪(39,600㎡)とも、5町歩(50,000㎡)ともいわれます。史料により、旧札幌区で5,269坪=17,388㎡、旧札幌村側でこれに匹敵するかそれ以上の地積があることが判りました。

 上島が1881(明治14)年、旧札幌村で払下げを受けた土地の図面です(道立文書館蔵)。
上島正 地所払下願 札幌村側①
上島正 地所払下願 札幌村側②
 赤い線で囲った三角形と長方形の土地が旧札幌村側に当たり、三角形に千五百坪、長方形に五千坪と朱記されています。小計6,500坪=21,450㎡です。この二つの土地の南側に旧札幌区との境界線が敷かれています(橙色の○)。黄色の線で囲ったところが旧札幌区側で払い下げられた土地で、地積は前述したように5,269坪=17,388㎡です。よって、合計は旧札幌区側5,269坪+旧札幌村側6,500坪=11,769坪=38,838㎡となります。

 ところで、旧札幌村側の土地は前掲の図面で見ると、三角形+長方形=台形の形状になります。わりと単純な地割です。一方、2月23日ブログに載せた「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」(北大図書館蔵)によると、敷地はかなり不整形です。しかも、おおまかに比べると、台形の地積よりも大きく見受けられます。

 前掲の地所払下願の書類には、下掲の「耕地調査表」が冒頭に付いています。
札幌県治類典 明治16年 耕地調査表
 筆頭に「上島正」の名前が載っています(黄色の矢印の箇所)。「耕地 石狩国札幌郡札幌村字新川添 払下地 七千五拾八坪七勺 札幌区浦川通拾六番地 上嶋正」です。7,058.07坪。前掲の6,500坪よりも数字がコマカイ。信憑性が感じられます。地所払下願に添付された図面2枚の数字よりも500坪余り増えているのは、のちに払下げ地がさらに増えたとみることができます(末注)。前述「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」に載っている上島の敷地形状からしても、6,500坪よりも広いのは頷けます。
 後者の数字を採ると、合計は旧札幌区側5,269坪+旧札幌村7,058.07坪=12,327.07坪=40,679㎡です。これは既出二次文献の一つで1万2千坪とされたことと見合います。他の既出文献で1万坪とあるのは、数字を大きく丸めたのではないでしょうか。

 さて、上島正が払下げを受けた土地の合計が1万2千坪だとして、先日来の懸案に戻ります。上島はこのすべてを花園(東皐園)にしたのでしょうか?

 注:図面は1881(明治14)年に出された地所払下願に添付されたものだが、「耕地調査表表」のほうはアタマに「明治十五年」と付いている。1年のタイムラグがあり、その間に払下地が増えた可能性がある。増えた土地の払下願の文書・図面は見つけられていない。
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2018/02/27

電柱 北交幹

 東区北11条東1丁目で確認した電柱銘鈑です。
北11東1 電柱 北一一東一幹
 先日来話題にしている東皐園跡地の仲通りにあります。
 所在地が北11条東1丁目なので、「北一一東一幹」というのは至極当然です。漢数字というところにレトロ感があり、横棒三本とHHという記号も気になりますが。

 それよりも気になったのは、同じ仲通りで採種された「北交幹」です。
北11東1 電柱 北交幹
 なぜ「北交」なのだろう?
 この仲通りがあるのは北11条ですが、その北側の街区すなわち北12条以北は「北光」地区です。ここで「地区」というのは、札幌市の正式な町名ではありません。連合町内会の名称、つまり北光連町のエリアということです。付近には北光小学校があり、東8丁目通りは「北光線」と呼び習わしてもいたと思います。
 よって「北光」幹ならまだわかるのですが、なぜ「北交」幹か。なお、周辺はたいがい前述の「北一一東一」というような条丁目にちなんだもの(ただし算用数字がほとんど)でした。

2018/02/26

北11条東1丁目の門柱物件を再び鑑みる

2月20日ブログに載せた門柱物件がどうにも気になり、また見に行ってきました。
北11条東1丁目 門柱物件 遠景
東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵

 今回注目したのは前回とは別のところです。
北11東1 門柱物件 近景東皐園 左門柱 再掲
 黄色の矢印の先、枝分かれしたような突起があり、その下は弯曲しています。東皐園の古写真のほうも、同じように突起と弯曲が窺えます。

 枝分かれの少し下、釘を打った跡が残っています。橙色の矢印の先です。
北11東1 門柱物件 拡大
 古写真の「牡丹遊覧…」の看板を掛けたところと同じ位置に見えます。

 見れば見るほど、私は東皐園の門柱と想えてなりません。

2018/02/25

東区の古シャッター

 久々に古いシャッターの新種を確認しました。
 サイト内検索すると、2015.5.11ブログ以来です。
東区 南條シャッター
 東区で採種しました。「古いシャッターの新種」というのも変ですが、シャッターマニア初級者の私にとっては新種であって、上級者にとっては新しくもないでしょう。

 「南條シャッター」。
東区 南條シャッター 拡大
 「NS」というロゴが入っています。所在地は「札幌市丘珠町660番地」。政令市指定・区制施行の1972(昭和47)年より前のモノですかね。電話番号の局番は二ケタです。
 丘珠町660番地は、現在の北丘珠の工業地域のようです。鉄工団地がありますね。

 札幌建築鑑賞会スタッフにしてシャッター目利きのNさんに鑑定評価を仰ぎたいものです。 

2018/02/24

上島正の人物評を糾す

 昨日ブログで、上島正が開墾した土地の全体像をみました。その面積は合計で1万坪を超えたとみられます。
 それをすべて花園(東皐園)にしたのかどうか。私の推論は「否」なのですが、その根拠を述べる前にもう少し傍証を得たいと思います。
 それにしても、およそ140年前の出来事でも、二次文献によって基礎情報にかなりバラツキがあるものです。開墾した地積が1万坪なのか1万2千坪なのか5町歩なのか、花園の面積が1万坪(3.3ヘクタール)なのか2ヘクタールなのか、あまり数字にこだわるのもどうかとは思います。東皐園が有料だったか無料だったかも(2月17日ブログ注②参照)、些事といえば些事です。ただ、昨日ブログで記したとおり、これに人物評価が絡められているのでナイガシロにもできません。

 『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年には、次のように記されています(p.239、第4章人物編「上島正」)。
 (前略) 明治十四年、アメリカ人ボーマーから人工交配の指導を受ける機会に恵まれ、種子生産に成功し、菖蒲の大庭園づくりにのりだした。時の札幌県令調所広丈がこの菖蒲園の景観に感激し、正が固辞するのもきかず官費で道路を作り、多くの開拓移民に公開した。これが札幌中の評判となり、数千の人々が庭園を訪れたので、正は花を売って巨利を得た。この花園を東耕園と称し、後に東皐園と改めた。
 成功した正は、邸内に諏訪神社を安置し、郷里長野県の人々に札幌開墾の有望性を説き、開成会社(すぐに解散)という開拓組織を作り、三十戸の移民に成功し、札幌開拓に大きく貢献した。
(後略)

 一方、『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年では、昨日引用したように「開拓使から土地一万坪の貸付を受け、開墾作業に打ち込んだが、もともと欲のない性格だったため、これをすべて花園にしてしまった」とあります(p.99)。
 併せて読むと、「欲のない性格だった」が、「巨利を得た」ことになる。まあ、そういうこともなくはないでしょう。ただ、『開拓使時代』の記述には、他の文献と食い違う箇所がまだあります。
  ①調所広丈がこの菖蒲園の景観に感激し、正が固辞するのもきかず官費で道路を作り
  『厚別 黎明期の群像』2013年では、「この言葉(引用者注:「何とか役所で道路をつけよう」という調所広丈の言葉)に感激した上島は、自ら道路を開き花園の公開に踏み切りました」と記されています(p.73)。本人筆とされる「開拓絵巻」1899(明治32)年を解読したところ、「余曰此迄仰にあらバ自道路を造り公民の縦覧に供さんと答ふ」でした(2月16日ブログ参照)。『厚別 黎明期…』は、この一次史料に依拠しているようです。
 ②成功した正は、邸内に諏訪神社を安置し、郷里長野県の人々に札幌開墾の有望性を説き、開成会社(すぐに解散)という開拓組織を作り、三十戸の移民に成功し 
 前後の文脈からすると、上島は花園で巨利を得たことにより、郷里の人々に札幌移住を勧めたという時系列に解されます。しかるに『厚別 黎明期…』によると、上島が郷里(信州)で移民を募ったのは1882(明治15)年、東皐園を開いたのは1884(明治17)年です(p.71、73)。他の史料に照らしても、信州から移民を連れてきたのは東皐園を開く前です。ちなみに諏訪神社の分霊は、上島に呼応して入植した移民が持ってきました(同p.35)。これも時系列が逆です。また、「開成会社」という開拓組織を作ったのは別人物です(同p.252)。
 上島が「札幌開拓に大きく貢献した」という評価に、私はまったく異論はありません。ただし、その根拠となる史実はできるかぎり正確に努めたいものです。

2018/02/23

上島正が払下げを受けた土地

 昨日ブログの続きです。
 東皐園主・上島正が開墾したという12,000坪(39,600㎡)とか1万坪(33,000㎡)とか5町歩(50,000㎡)というのは、何に基づくのでしょうか?
 その前に、昨日ブログで引用しそびれた文献をもう一点、追加します。
①´『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.99 
 開拓使から土地一万坪の貸付を受け、開墾作業に打ち込んだが、もともと欲のない性格だったため、これをすべて花園にしてしまった。
 
 番号を①´としたのは、刊行年が昨日の文献①と②の間であり、かつ①同様、花園=1万坪(33,000㎡)としているからです。私の推論とは異なり、明確に「すべて花園にしてしまった」と言い切っています。しかも、「もともと欲のない性格だったため」と、上島の人間性にも結び付けている。
 
 この記述の基になる史料に当たりました。
⓪ 『北海道人名辞書』1914(大正3)年(『新聞と人名録にみる明治の札幌』1985年、pp.322-323) 
 現在の土地約一万坪の貸付を受けて開墾に従事す。 (中略) 正、風流心に富みかつ性はなはだしく寡欲なり。札幌郊外の土地一万坪に珍花を植え、明治十七年之を東皐園と称し、庭園を公開して一般の縦覧に供す。
 引用は一部に留めましたが、全体として前述①´は⓪の焼き直しと思われます。原典発行年の1914(大正3)年というのは上島正の存命中です。

 昨日ブログで示した上島の地積は5,269坪(17,388㎡)でした。1万坪(33,000㎡)というのは、その倍近くになります。上島の土地はほかにもあったのでしょうか。史料をたどってみました。
 「札幌県石狩国札幌郡丘珠村札幌村全図」1882(明治15)年(北大図書館蔵)です。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 明治15年
 方位はおおむね7時の向きが北です。

 この古地図の白ヌキ□で囲ったところを拡大してみます。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 南西部拡大
 方位は上を北に変えました。札幌村のうち、現在の札幌市東区の連合町内会でいうと北光とか元町の地区に当たる部分です。

 左下のほう(南西)の赤い線で囲った不整形の地割のあたりを拡大します。
札幌県石狩国丘珠村札幌村全図 上島正地所 拡大
 ここに「上島正」と書かれています。

 地図に書かれた「凡例」によると、黄色のベタ塗りは「明治十五年調査之地」、白地は「従前割渡済之地」、赤い線は「道路」、茶色の線は「道路見込線」です。上島は1882(明治15)年時点でこの土地を払い下げられたか、その予定だったとみられます。上島の土地の南端に沿う茶色の線は現在の北12条通りに当たり、当時の札幌村と札幌区の境界です。

 これまで拙ブログでは、札幌区側の上島の土地を見てきました。その土地と、このたび図示した土地の両方を俯瞰してみましょう。
地番図1998年 北11条東1丁目周辺
 1998年地番図に、札幌区側・札幌村側の両方の上島の土地を線引きしました。赤い線で囲ったのが、従前言及してきた東皐園と推定したエリアです。北12条通りをはさんで北側、旧札幌村側の払下地を橙色で囲みました。
 赤い線で囲った土地の面積を昨日記した5,269坪=17,388㎡だとすると、橙色の地積はおおまかにみて、それに匹敵する以上はあるかと思います。とすると両方で、上島が開墾したという1万坪という数字に見合う規模です。これがすべて、東皐園になったのか。

2018/02/22

東皐園はどれくらいの面積だったか?

 東皐園の面積について、既出二次文献ではさまざまな記述がみられます(引用中太字傍線は引用者)。
① 『厚別 黎明期の群像』2013年、p.64
 上島正(かみじま ただし)は明治11年(1878)、札幌区札幌村東耕(現在の札幌市東区北8条東1丁目付近)の創成川沿いに開拓使より土地1万坪を借り受けて、東京から持参した花菖蒲(中略)を植え付け、改良に改良を重ねて見事な花園を造りました。
 
② 『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.239
 明治十年、三十八歳のときに上京し、測量に従事していたが、そこで北海道のことを聞き、新天地を求めて、翌明治十一年、現在の東区北十条東一丁目に一万二〇○○坪の払い下げを受け、開墾に着手した。

③ 『川下百年誌』1984年、p.36
 明治十年一人で本道に渡り札幌に寄宿し、情勢詳かに視察し、札幌村に永住の目的を定め、一旦帰国し札幌村東耕に未開地五町歩の貸下を受けて開墾に従事した。

④ 『東区今昔』1979年、p.153
 東皐園の広さは約2ヘクタール

⑤ 『札幌百年の人びと』1968年、p.150
 こうするうちに正(引用者注:上島正)は、札幌の北端に一万坪(三、三ヘクタール)の土地の貸し付けを受けた。今の札幌市北一二条東一丁目付近である。

 地名の「東耕」の所在地については2月17日ブログ注①で言及しましたので、ここでは措きます。
 面積の単位を㎡換算します。
 ① 1万坪=33,000㎡。 同書ではこれがまるごと「花園」になったかに読めます。
 ② 12,000坪=39,600㎡。 払い下げられて「開墾に着手した」土地。
 ③ 5町歩≒50,000㎡。 「貸下」を受けて「開墾に従事した」土地です。
 ④ 約2ヘクタール=約20,000㎡。
 ⑤ 1万坪=33,000㎡。 これも「貸し付け」られた土地の面積です。
 
 私の推論を先にいうと、上島は全体で②39,600㎡、または③50,000㎡、⑤33,000㎡の土地の払下げまたは貸付けを受け、開墾しました。②③⑤でバラツキがありますが、これもひとまず措きましょう。そのうち花園(東皐園)にしたのが④20,000㎡程度ということではないでしょうか。①は花園≒1万坪(33,000㎡)と解される端折られ方で、一種の“伝言ゲーム”現象と察します。

 では、④の東皐園=約20,000㎡は妥当でしょうか? この直接的な根拠となる一次史料は見つけられていないのですが、一つの手がかりを追ってみます。
 2月12日ブログに載せた「地所払下願」添付図面(北海道立文書館所蔵『札幌県治類典 附録』1883年所載)です。これに上島正が1881(明治14)年に払下げを受けた土地の面積が朱記されています。1,500坪です。
 
 上島は1883(明治16)年、さらに土地の払下げを願い出ます。
 そのときの添付図面がこちらです(同じく北海道立文書館所蔵『札幌県治類典 附録』1883年所載)。
上島正 地所払下願 添付図 明治16年
 やはり払下げを願う土地の面積が朱記されています。赤矢印を付けた先で、文字が逆さまですが、3,493坪。なお、前述の1881(明治14)年に払い下げられた土地1,500坪は、この図面の黄色の△で囲ったところに当たります。書かれているのは「願済み地」でしょうか。
  ところでこの図面では、朱記された土地の一部が細長く白ヌキされていて、青矢印を付けた先に「川 六間」と書かれています。この「川」は左端の「創成川」と合流しています。創成川から水を引いたか、創成川に水を注がせた用水路とみられます。図面によると、土地にかかる川の長さは長辺で52.5間、短辺で39.5間と朱記されているので、川の面積は(52.5+39.5)×6/2=276坪です。この川の部分も面積に加えると、合計は3,493+276=3,769坪になります。
  したがって、先に払い下げられた1,500坪をこれに加えると、3,769+1,500=5,269坪=17,388㎡です。
 『東区今昔』でいうところの東皐園の面積約2ヘクタール(約20,000㎡)に近い数字と、私はみました。
 
 しからば、上島が開墾したという12,000坪(39,600㎡)とか1万坪(33,000㎡)とか5町歩(50,000㎡)というのは、何に基づくのでしょうか?

2018/02/21

花園のよすが

 かつて東皐園に植えられていた樹が、今も別の場所で名残を留めています。
上島さん宅 東皐園名残のライラック
 上島正の曾孫・Kさん宅のライラックです。
 1935(昭和10)年に転居した際、Kさんの父・Tさんが花木の一部を持ってきました。かつては家の付近一帯にシャクヤクを植えていたそうです。Tさんは戦後も10年くらい花卉業を営み、シャクヤクやチューリップを市場に出していました。前掲画像のライラックのほか、オンコの木も東皐園ゆかりとのこと。『札幌百年の人びと』1968年によると、園の一隅に自生していたコクワの木も絡まって移されましたが(p.154)、今はありません。

 東皐園では、ハナショウブ、ボタン、シャクヤク、アサガオ、ハギのほか、ドイツスズラン、ベコニア、ダリアなども栽培されていたといいます(末注①)。このたびKさんのお話で、ライラックも植えられていたことを知りました。
 札幌のライラックは1892、93(明治25、26)年、宮部金吾が植物園に植えたものが最古と伝わります(末注②)。上島正は宮部金吾とも交流があったようなので(末注③)、このライラックは植物園から株分けしてもらった子孫かもしれません。花が咲くころにもう一度拝見したいものです。

注①:前出『札幌百年の人びと』p.154、『厚別 黎明期の群像』p.229
注②:『さっぽろ文庫38 札幌の樹々』1986年、p.97、「現存最古」か? 株はS.C.スミスが米国から持ってきたという。
注③:前出『札幌百年の人びと』p.154

2018/02/20

東皐園の痕跡?

 東区北11条東1丁目に遺る物件です(黄色の矢印の先)。
北11条東1丁目 仲通り 東皐園 門柱痕跡?
 この物件は昨年(2017年)12月、札幌建築鑑賞会のスタッフで東皐園跡の現地を歩いたとき、スタッフNさんに教えていただきました。「なにやら古い木の柱」という印象を受け、「もしかして東皐園の痕跡だろうか?」と判じあったものです。

 物件の所在地を現在図で示します(原図は国土地理院サイト標準地形図から抜粋)。
現在図 北11東1 東皐園跡 物件所在地
 黄色の矢印の先、仲通りの入口です。緑色で囲ったところが東皐園の敷地で、赤い四角が上島正の邸宅の位置と推定されます。

 さて、物件をよく見ると、特徴が窺えます。
北11東1 仲通り 東皐園 門柱痕跡? 拡大    東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵 門柱拡大② 再掲
 
 黄色の○で囲ったところに、大きな節穴が空いています。橙色の□で囲ったところは、表札を掛けるような切込みが入っていて、上下に鉄製の金具が付いています。
 昨日ブログに載せた東皐園古写真(上島正ご子孫所蔵)に写る門柱と比べてみましょう。
 門柱のほうも、黄色の○で囲ったところに節穴らしき影が見えます。「牡丹遊覧…」の看板の位置は少し下のようです。

 全体の雰囲気が、似ているように見えてならない。
 この物件のことはご子孫のKさんもご存じで、「もしかしたら、東皐園にあった樹の一本かもしれないが、さだかではない」とおっしゃっていました。ただ、前述したように表札などを掛けた形跡からすると自然木というよりは、門柱だったように私は想います。しかし、古写真に写る上島家邸宅と門柱の位置関係からすると、この場所は少しずれているし、ご子孫の記憶とも異なります。元あった場所から移されたという可能性もありますが、今となってはこれ以上確かめるすべはないようです。私としては、東皐園の痕跡物件と妄想したい。

2018/02/19

東皐園の初出?古写真

 上島正の曾孫Kさんから、東皐園を写した古写真を見せていただきました。
東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵
 ハナショウブやボタンなどが咲く花園を写したものは郷土誌などに既出していますが、この光景は初めて見ました。右の門柱に「東皐園」、左に「牡丹遊覧?」という看板が掛けられています。門柱は奥にもあります。奥の門柱は邸宅への入口なのでしょう。

 手前の門柱の「牡丹遊覧?」というのは、折々掛け替えられていたのではないかと思います。
東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵 門柱拡大
 「牡丹」の左側に書かれている小さな字は、「入園料」ではないでしょうか。その下の2行は「大人……銭 小人……銭」か。
 奥の門を入ったところ、屋敷の玄関とおぼしき前に人の姿が写っています。洋装の外套のようです。この写真の撮影年は不明ですが、大正期かもしれません。

 写真の撮影位置はどこか。
最新調査札幌明細案内図 東皐園 写真撮影位置
 Kさんへの聞取りに基づき、「最新調査札幌明細案内図」1948(昭和3)年に示してみました。 
 地図上に描かれた「上島亮」(正の息子、Kさんの祖父)の邸宅の位置は、Kさんの記憶と合っています。Kさんによれば、石狩街道方向すなわち西側に向かって邸宅を眺めたものでないかとのことです。地図上の赤い矢印の位置になります。
 私は当初、黄色の矢印の位置かと想像しました。敷地の外の公道上、北から南方向を眺めたものではないかと。前掲地図では黄色の矢印の先に家屋らしき線が引かれていますが、この地図が描かれたのは昭和初期です。写真が撮られたのがもう少し古い年代とすれば、家屋がなかったことも考えられます。
 しかしKさんは、敷地の中に路地が通じていて、邸宅の門があったといいます。したがって黄色の矢印の可能性は低いのですが、私としては捨てきれません。

 理由の一つは、こちらです。
東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵 日影拡大
 内側の門柱のそばにボタンらしき茂みがあります。注目したいのは、黄色の▲で示した影です。影は右から左に差しているように見えます。もしこの写真の撮影方向が東から西向きだとすると、この影は北から南向きに差していることになります(ただし、条丁目の区画が真北から10~11度西へずれていることからすると、撮影方向はやや北寄りから南寄りかもしれない)。一方、撮影が北から南向きだとすると、影は西から東向きになります。撮影時刻にもよるかと思いますが、日影の向きとしては後者のほうが蓋然性が大きいのではなかろうか。日影の解析はエルフェンバインさんの領域なので、私はあまり差し出たことはいえないのですが。

 理由の二つめ、大きいのはこちらです。
北11条東1丁目 東皐園 痕跡?
 北11条東1丁目の現地に遺る物件。

 これが、前掲古写真に写る「牡丹遊覧」の門柱に、私は重なって見えてしまうのです。
東皐園 古写真 上島正ご子孫所蔵 門柱拡大②
 

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プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。
逍遥する時空:札幌、歴史、地形図、地理、地誌、地名、地形、地質、軟石、石蔵、硬石、採掘場、煉瓦、サイロ、腰折れ屋根、地神碑、墓地、旧河道、暗渠、メム、古道、微地形、高低差、クランク、境界、橋、歩道橋、電柱、バス停、踏切、古レール、神社の玉垣、小祠、二宮金次郎、戦跡、古い樹、河川網図、都市計画図、住宅地図……

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