札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/16

北2条西21、22丁目の道路幅員 ②

 昨日ブログの続きです。
 
 道路幅員のことで疑問を抱いたのは、例によって米軍の空中写真1948年がきっかけになりました。
空中写真 米軍1948年 北2条西22丁目付近
 黄色の▲を付けた先が、昨日ブログに載せた道幅の違いの地点です。かつての市村界を、川が流れていました。河道はほぼ推認することができ、青い線でなぞりました。参考までに、橙色の線が現在の北1条宮の沢通、黄色の線が西20丁目通です。

 北1条以北の東西に通じる道路をご覧ください。例えば黄色の▲で示した北3条の通りです(末注①)。青い線の河道の西側と東側で、何か、違っています。川の西側は道路と民地(家屋)の境目がくっきりしています。道は白いし、家屋ははっきり写っています。ところが東側はというと、なんとなくぼやけています。道は白いのですが、その両側が家屋とも空地とも見分けがつきかねる、文字どおりグレーゾーンになっています。これが私には、建物疎開の痕に見えてしまうのですねえ。

 私の眼はバイアスがかかっているので、公平無私な澄んだ目で読影していただける奇特な方、いらっしゃらないでしょうか。
 画像は国土地理院のサイトで見ることができます。
 ↓
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=234016&isDetail=true
 『新札幌市史』には残念ながら、疎開跡地の道路拡幅の項にこのあたりのことは記されていません。戦時中の建物疎開の詳細な記録が残っていればよいのですが、差し当たっては前掲画像を読影するのが近道のようです。

 もしこれが建物疎開跡だとすると、旧札幌区(市)側と旧藻岩村(旧円山町)側の道幅の違いは、疎開が主な原因になるかと思います。疎開の跡地をそのまま道路にした。となると、もともとの(旧市村当時の)道幅が異なっていたとは言いがたい。仮にそうだとして、ではなぜ川の東側だけ疎開したのか、という疑問も生じますが、たまたま自然の境界である川の端まで疎開したところで(末注②)、終戦を迎えた、ということでしょうか。
 
 注①:この通りの現在の道路名は未確認だが、橙色でなぞった道が「北1条通り」と呼び慣わされているので、そこから数えて便宜的に「北3条の通り」とした。正確には、北2条と北3条を分かつ通りである。
 注②:札幌の建物疎開は、1945(昭和20)年5月以降二次にわたって実施され、三次は計画されたが終戦を迎え実施されなかった(『新札幌市史 第五編(上)』2001年、p.210)
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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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