札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/09/19

蔦井與三吉

 円山地区で見かけた銘鈑です。
奉納 蔦井與三吉
 「奉納 岩田建設株式会社 取締役社長 岩田巌  株式会社蔦井本店 取締役社長 蔦井與三吉」と刻まれています。

 蔦井與三吉 明治22・2-10-昭和49・12・8
 東日本フェリーなど、蔦井産業グループの創始者。石川県の生まれ。(中略)
 昭和2年、滝川市に本店設置。5年以降は樺太貨物航路、滝川砂利、茂尻石炭販売、利尻礼文航路など次々と傘下に収め、太平洋戦争中も多くの統制会社の代表を務めた。37年、七十三歳のとき世界三六カ国のフェリー事情を視察し、40年その集大成としての東日本フェリー㈱を設立した。日本初の外洋フェリーの誕生であり、函館、苫小牧、岩内、室蘭などを拠点に航路網をひろげ海運界のリーダーに。47年、札幌に本社機構を集中。石油、CATVなどにも進出している。
(さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年、p.202)

 そういえば私が加入しているケーブルテレビは、前はSCAT(札幌ケーブルテレビジョン)といって、筆頭株主は東日本フェリーでしたね。社長も蔦井さんのご親族でした。フェリー会社がケーブルテレビ、というのを意外に思った記憶があります。
 
 その蔦井さんのお屋敷が2004(平成16)年まで、円山にありました。昭和初期築とお聞きしました。
円山 蔦井宅 2001年 
 画像は2001(平成13)年撮影です。和風の門構えが立派でした。札幌では珍しかったと思います。

 東日本フェリー亡き今、前掲の銘鈑も稀少となりました。ここで問題。
 この銘鈑は何に取り付けられているでしょう?
 ご存じの方は別として、ご存じでない方は推理してみてください。
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2017/09/18

札幌大化院

 先日の円山散策の帰途、目に留まりました。
札幌大化院
 「更生保護法人 札幌大化院 希望寮」。

 「札幌大化院」という名前に感慨を覚えました。これは助川貞二郎が興した更生保護施設ではないか。
 文野方佳「助川貞二郎小伝(中)(『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第28号1995年)に、以下のように記されています(引用太字、p.53)。
 大正元年九月、恩赦に浴した貞二郎は、妻ヒデが細々と続けていた釈放者のための更生保護事業に本格的に取り組むことを決意。北一条西二十丁目に札幌記念保護会と名付けた施設を設け、軍手、紙袋貼りなどの更生事業に私財を注ぎ込む。大正四年に一月には札幌大化院と改称して、施設を南一条西十七丁目に新築移転した(札幌市史-文化社会編、北海道社会事業団体誌)。
 この頃「花の日」と名付けて、花見客で賑わう円山公園で、ボランティアの婦人や女学生たちが街頭に立ち、免囚救済の慈善運動の資金集めに造花売りをし、街の話題になった(北海タイムス 大4・5・14)。
 貞二郎が亡くなった後、この更生保護事業は長男の貞利が引継ぐことになる。


 文中「恩赦」というのは、助川は1905(明治38)年に官吏侮辱で、1908(明治41)年に文書偽造行使などでそれぞれ有罪判決を受けた(前掲書p.50)ことに対するものでしょう。
 あの助貞が始めた施設が今も続いている。「今も」という書き方は失礼かもしれませんが、敬意を込めます。百年以上にわたって続いているのですね。南1条西17丁目は、当時は札幌区の西の端でした。1923(大正12)年には市電一条線が通じます。助貞とのゆかりを感じさせる場所でもあります。

2017/09/17

ホンマ矯正歯科の隅切り

南1条西20丁目の角地に建つ歯科医院です。
ホンマ矯正歯科
 建物自体が格別凝った外観というわけでもないのですが、西20丁目通りの交差点に立つと私は何か惹きつけられてきました。

 たぶん、角地を大きく隅切りしたファサードが印象的なのでしょう。この隅切りの大きさはただならぬものがあります。

 この交差点のほかの角地と比べても、ひときわ大きな隅切りです。
南1西20 ホンマ矯正歯科 隅切り
 赤い線が本件歯科医院の場所です(元図は地下鉄西18丁目駅に置かれた案内地図から抜粋)。

 建築基準法でたしか、角地に建つ建築物等は一定の条件のもとに隅切りしなければならないという規定があったと思います。私は札幌建築鑑賞会代表を長年称してきましたが、建築士でも建築学の専門家でもなく、基準法にはまったく疎いのですが、本件歯科医院はそんな規定とはかかわりないようです。
ホンマ矯正歯科 隅切り②
 超然と隅切っています。
 
 大きな高層建築の場合、容積率緩和の要件として公開空地を設けるということもありますが、本件は平屋建てであり、それとも関係ありません。
ホンマ矯正歯科 隅切り③ 境界石
 黄色の○で囲ったところに札幌市の境界石が埋められています。本件角地は隅切り面ぎりぎりまで、道路用地です。

 このたび、「ポルト」(北翔大学北方圏学術情報センター)主催の市民講座の一環で円山地区を歩いて、本件隅切りの原因にようやく気づきました。おそらくマニアの方やこのあたりに長くお住まいの方には既知のことなのでしょうが、これ、市電が走っていた当時の記憶だったのですね。

 1961(昭和36)年空中写真から抜粋しました(国土地理院サイトから)。
空中写真 1961年 南1西20 交差点
 赤いの○で囲ったのが南1条西20.丁目の交差点です。市電の軌道が写っています。西20丁目通を北進し、ここで西へ曲がっています。この頃からすでに、本件箇所の隅切りが目立っています。ちなみに黄色の○で囲ったところ(南1条西19丁目)も、建物が大きく隅切りされています。ここは、南1条通を西進してきた市電の軌道が西20丁目通で北へ曲がる地点です。

 1948(昭和23)年米軍撮影の空中写真で、同じ場所を見ます(国土地理院サイトから)。
空中写真 1948年米軍 南1西20交差点
 赤い○のところはやはり、市電軌道の曲折に合わせるかのように隅切りされています。
 一方、黄色の○の方の南1条西19丁目は、この時点では隅切りされているように見えません。ここを曲がる車馬の交通量が多くなかったからではないかと私は推測します。理由は二つ。西20丁目通がこの角地の南方をまだ通じていなかったのと、南1条通の旧道(角地の北側をナナメに通じる)が機能していたからだと思うのです(9月14日ブログ参照)。

 南1条西19丁目角地の現在の風景です。
南1西19 交差点 隅切り
 ここの建物も、結構隅切りされています。前掲1961年写真ではっきり隅切りされた痕跡が、今に遺っているかのようです。先日来縷々記してきたように、南1条通の裏参道側(西20丁目)にナナメの道が通じて、旧道の機能が減退したからではないかと思います。西20丁目通も南へ直線化されて、交通量も増えたことでしょう。

 …と、かなりマニアックに考察してきたつもりですが、ためしに「札幌 ホンマ矯正歯科 市電」で検索してみたら、本件隅切りに言及しているサイトがすでにありました。世の中には先達がいるものです。

2017/09/16

北2条西21、22丁目の道路幅員 ②

 昨日ブログの続きです。
 
 道路幅員のことで疑問を抱いたのは、例によって米軍の空中写真1948年がきっかけになりました。
空中写真 米軍1948年 北2条西22丁目付近
 黄色の▲を付けた先が、昨日ブログに載せた道幅の違いの地点です。かつての市村界を、川が流れていました。河道はほぼ推認することができ、青い線でなぞりました。参考までに、橙色の線が現在の北1条宮の沢通、黄色の線が西20丁目通です。

 北1条以北の東西に通じる道路をご覧ください。例えば黄色の▲で示した北3条の通りです(末注①)。青い線の河道の西側と東側で、何か、違っています。川の西側は道路と民地(家屋)の境目がくっきりしています。道は白いし、家屋ははっきり写っています。ところが東側はというと、なんとなくぼやけています。道は白いのですが、その両側が家屋とも空地とも見分けがつきかねる、文字どおりグレーゾーンになっています。これが私には、建物疎開の痕に見えてしまうのですねえ。

 私の眼はバイアスがかかっているので、公平無私な澄んだ目で読影していただける奇特な方、いらっしゃらないでしょうか。
 画像は国土地理院のサイトで見ることができます。
 ↓
http://mapps.gsi.go.jp/contentsImageDisplay.do?specificationId=234016&isDetail=true
 『新札幌市史』には残念ながら、疎開跡地の道路拡幅の項にこのあたりのことは記されていません。戦時中の建物疎開の詳細な記録が残っていればよいのですが、差し当たっては前掲画像を読影するのが近道のようです。

 もしこれが建物疎開跡だとすると、旧札幌区(市)側と旧藻岩村(旧円山町)側の道幅の違いは、疎開が主な原因になるかと思います。疎開の跡地をそのまま道路にした。となると、もともとの(旧市村当時の)道幅が異なっていたとは言いがたい。仮にそうだとして、ではなぜ川の東側だけ疎開したのか、という疑問も生じますが、たまたま自然の境界である川の端まで疎開したところで(末注②)、終戦を迎えた、ということでしょうか。
 
 注①:この通りの現在の道路名は未確認だが、橙色でなぞった道が「北1条通り」と呼び慣わされているので、そこから数えて便宜的に「北3条の通り」とした。正確には、北2条と北3条を分かつ通りである。
 注②:札幌の建物疎開は、1945(昭和20)年5月以降二次にわたって実施され、三次は計画されたが終戦を迎え実施されなかった(『新札幌市史 第五編(上)』2001年、p.210)

2017/09/15

北2条西21、22丁目の道路幅員

中央区北2条西22丁目です。
北2条西21丁目 道路幅員の違い
 東西に通じる道路を、西から東向きに眺めました。
 画像上、奥に向かって道路幅員が広がっています。手前は片側1車線、奥は片側2車線です。画像の撮影地点は北2条西22丁目、奥の道路幅員が広いのは西21丁目です。

 現在図で確かめておきます(札幌市中央区役所「中央区ガイド」から抜粋)。
北1~3条西21~22丁目 道路幅員
 黄色の▲の先が前掲画像の撮影地点です。この通りも含め、北1条から北4条にかけて、西21丁目と西22丁目を境にして道路の幅が異なっているのが判ります。
 この道路幅員の違いを私は、かつての市村界に起因していると理解していました。それは私の発見ではなく、既出文献に載っていることです。『さっぽろ文庫82 北の生活具』1997年で、次のように書かれています(p.164、引用太字)。
 北二~五条西二十二丁目付近は、かつて札幌市と藻岩村の境界があったため、東西に走る道路の幅が途中から極端に違っている。

 付け加えるならば、この境界に沿ってかつて川が流れていました。というか、河道をもって旧札幌区(市)と旧藻岩村(旧円山町)が境界を分かっていました。
 その名残のせいか、現在の西21丁目と西22丁目の境は不整形です。前掲現在図上、太い実線で示されているように、いびつに折れ曲がっています。ちなみにこの実線は、桑園地区(西21丁目以東)と円山地区(西22丁目以西)の連合町内会、札幌市のまちづくりセンターの境目になっています。

 話を道路幅員のことに戻します。幅員の違いは札幌区(市)と藻岩村(円山町)の財政力の差を示す痕跡なりや、と私は想っていました。しかし、原因はどうもそれ(だけ)ではないのではないかと、目下認識を改めつつあります。[つづく]

2017/09/14

円山裏参道公園はどうしてできたか ③

 1942(昭和17)年「札幌都市計画図」からの抜粋です(原図は札幌市公文書館蔵)。
1942年都市計画図 南2西20周辺
 黄色の○で囲ったのが、先日来話題にしている円山裏参道公園になる場所(南2条西20丁目)です。

 この計画図の地図で、くだんの箇所は四角形の島になっています。一昨日ブログに載せた富貴堂の「札幌市街案内図」でも、ほぼ同じカタチの四角形でした。おおやけの図面で裏付けられました。この四角形のほぼ対角線上(ナナメ)に南1条通がショートカットされます。その形跡は、昨日ブログに載せた空中写真に載せたように、昭和20年代すでに窺われます。
 これも昨日記したように、私はそれを南1条通から西20丁目通を通る市電との交通緩和とみました。しかし、前掲図(あるいは一昨日の富貴堂地図)に見られる四角形の島の時点で、その目的は実現されています。

 前掲図で示すと、こんなふうに想像しました。
1942年都市計画図 南2西20周辺 
 札幌中心部から西(円山方面)へ向かう交通を黄色の線、西(円山方面から札幌中心部(東)へ向かう交通を橙色で示しました。青い線が市電です。南1条通から西20丁目通へ曲折するところの負荷を下げることができます。それでも黄色の西向きルートはクランクしていますので、ナナメのショートカットは交通の流れをさらに効率化したということになりましょう。

 円山裏参道公園の現在の風景です。
円山裏参道公園 南から北を望む
 南2条西20丁目、西20丁目通から北を眺めました。
 ナナメのショートカットの道路が公園化されて、三角形から四角形にいわば先祖返りしたことになります。
 
 今シリーズのテーマである「円山裏参道公園はどうしてできたか」には、二つの意味があります。一つはhow?で、もう一つはwhy?です。
 前者のhow?は、これまで述べてきました(末注)。後者のwhy?について触れておきます。
 私は、この公園の目的を当初、ナナメの道によって生じていた変形交差点の解消にあると思っていました。

 国土地理院2008年空中写真で、三角公園当時の場所です。
2008年空中写真 南2西20周辺
 一種の五差路といえる交差点でした。南1条通をクルマで通過する分には便利かもしれませんが、便利ということは危険を伴っていたとも思います。市電の軌道もなくなって久しく、これも時代の趨勢か。

 しかし、造園家のSさんに尋ねたところ、札幌市の目的は道路交通上のことではなくて、あくまでも公園そのものにあることを知りました。この周辺は近年居住人口が増えているため、避難場所も兼ねた公園が必要だったそうです。新たに確保できる適当な土地が付近になく、従前公園的に使われてきた三角形を四角化することで、正式な(都市計画法上の)公園としたとのことです。
 結果的に道路をつぶして公園にしたということは、それはそれで時代の趨勢といえるかもしれません。[おわり]

 注:公園そのものがどのようにしてできたかは、札幌市サイトを参照
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/ryokuka/keikaku/sankaku/sankaku.html

2017/09/13

円山裏参道公園はどうしてできたか ②

 国土地理院空中写真1961(昭和36)年から、現在の円山裏参道公園の付近(中央区南2条西20丁目)を見てみました。
国土地理院空中写真1961年 南2西20周辺
 赤い線は1941(昭和16)年までの札幌市(旧札幌区)と円山町(旧藻岩村)の境界です。西20丁目通が南へ直線化されています。
 黄色の○で囲ったのが、くだんの公園になる場所です。南1条通がナナメにショートカットされていて、三角形が出現しています。ナナメのショートカットがいつ通じたか判りませんが、市電の路線との交通緩和という目的が想像されます。橙色でなぞったのが市電の路線です。南1条通を西進し、西20丁目で北へ折れています。自動車の交通量が増えてきて、市電路線との並行は少しでも避けたかったのではないでしょうか。三角形の土地は、何となくすでに公園のような雰囲気が窺われます。

 遡って、1948(昭和23)年の米軍撮影空中写真です。
米軍空中写真1948年 南2西20周辺
 黄色の○で囲ったところ、すでにこの時点でおぼろげに三角形の気配が見えます。

 あることに気づきました。赤い線(旧市村界)のクランクしている細長い一帯です。これまで拙ブログをお読みいただいてこられた方も、気づかれた方が多いのではないでしょうか。
 のちに三角公園になる場所(黄色の○)も含め、建物らしいものがほとんど写ってません。これも何となくですが、不自然に空き地になっているように見えます。しかも、元からの空き地というよりは、更地にしたような形跡…。
 このクランク地帯、もしかしたら建物疎開された痕ではなかろうか。
 してみると、三角公園あらため円山裏参道公園も、札幌の戦跡か。いや、私の眼は札幌=軍事都市史観に偏向しているので、予断は慎みましょう。
 

2017/09/12

円山裏参道公園はどうして生まれたか

 9月16日の円山ポルト周辺地域探訪の資料を、なんとか作り上げました。A4判で引用図版も含め11ページです。入手ご希望の方は、当日ポルト(北翔大学北方圏学術情報センター)へお越しください。中央区南1条西22丁目1-1、午前10時集合。
 資料には「円山地区の地理・地誌・地形を読み解く」と銘打ちました。銘打ったものの、円山地区の地誌にもかかわらず、円山、北海道神宮、円山公園、裏参道といった重要なポイントをすべて外しました。札幌の円山と聞いて普通イメージする場所に触れていません。「看板に偽りあり」ですが、独自の視点ということでお許しいただきましょう。

 南2条西20丁目に「円山裏参道公園」という街区公園があります。
円山裏参道公園
 元は「三角公園」と呼ばれていました。

 近年整備されて、名前が変わりました。画像右方、車止めのあるところを元はナナメに車道が通っていて、三角形の平面でしたが、車道部分が公園用地に含められ、三角形ではなくなったのです。「円山裏参道公園」に変わったのですが、公園名を刻したオブジェ?に三角形当時の記憶が遺されています。

 三角形のころからもともと公園だと私は思っていたのですが、当時はあくまでも道路敷地だったと最近知りました。公園化の整備に携わった造園家のSさんに教えていただきました。三角公園はあくまでも通称だったのです。
 当時の様子は下記札幌市サイトをご参照ください。
 ↓
http://www.city.sapporo.jp/ryokuka/keikaku/sankaku/sankaku.html

 ではなんで、こういう存在が生まれたか。
 まず、現在図から場所を探ります。
三角公園周辺 現在図
 現在図といっても2012年の地図(札幌市中央区役所「中央区ガイド」から抜粋)なので、当該地点はまだ三角のカタチです。「西20丁目広場」という名前が付いています。三角公園は地図にでも出てこない俗称だったのですね(末注)。

 地理的な特異点であることが窺われます。
 黄色でなぞったのが南1条通です(西20丁目以西は裏参道)。西19丁目と20丁目を境にして、クランクしています。この道は、北側の橙色でなぞった細いのが旧道です。つまりこのあたりでもともとゆるやかに折れ曲がっていたのですね。南1条通は、札幌市の碁盤目状街区ができる前からあった古道なので、こういう折れ曲がりはむしろ自然だったのでしょう。碁盤目化とともに、クランクが顕在化したものと思われます。

 赤い線でなぞったのは、明治中ごろまでの区村界です。
 画像右上(北東)が旧札幌区、右下〈南東)が旧山鼻村、左方(西)が旧円山村です。札幌区と円山村の区村界も、ここでクランクしています。現在は西20丁目通が南北をまっすぐ通じていますが、当時はこの部分、つまり南2条あたりはまだ通じていませんでした。

 それが判る古図を見ます。
大正5年地形図 南2西20周辺
 大正5年地形図からの抜粋です。この時点で山鼻村の部分は札幌区に合併されましたので、区村界の赤い線は南北にのみ引かれています。しかし、この部分はクランクしています。道自体がクランクしているのです。なお、円山村は、「藻岩村」に変わっています。

 もう一枚、古地図を見ます。
昭和18年札幌市街案内図 南2西20周辺
 富貴堂発行「最新 札幌市街案内図」1943(昭和18)年から抜粋しました。藻岩村は1938(昭和13)年に円山町となり、1941(昭和16)年に札幌市と合併していますので、この時点でもう境界線はありません。が、現在の西20丁目通に相当する道はまだ、クランクしたままです。のちに三角公園となる部分の‘島’が、四角形で出現しています(黄色の▲の先)。

 余談ながら、旧札幌区の碁盤目状の街区が旧山鼻村との間でずれているのはよく知られるところ、旧藻岩村(旧円山町)と旧札幌区(旧札幌市)は一致しています。これは大正末から昭和初期にかけて藻岩村(大字円山)で実施された「道路網整備事業」が、札幌市の碁盤目に合わせると明確に位置づけられたためです。結果、旧藻岩村と旧山鼻村の碁盤目もずれることとなり、前掲現在図で示したように今の街区にそのまま引き継がれています。ちなみに、旧山鼻村域の南4条以南では西18丁目ですが、西20丁目通をはさんで隣接する西側の旧藻岩村の街区は西20丁目です。「西19丁目」が消えます。
 
 とまれかくまれ、冒頭画像に載せた三角公園あらため円山裏参道公園は、南1条通と西20丁目通という東西南北二つの道の複合クランクの副産物という印象を強く抱きました。

 注:地下鉄西18丁目駅にある案内地図には「三角公園」と書かれている。

2017/09/11

北円山の戦前の風景

 今週末9月16日の円山地区散策(9月5日ブログ参照)に備えて、資料作りにいそしんでいます。今回見て歩くのは、北星学園旧宣教師館や知事公館、札幌市資料館といった比較的名だたる建物が中心と聞いています。にもかかわらず私は、「それ以外」の‘見どころポイント’を22箇所、想定しました。資料はA4サイズで10ページくらいになりそうです。私が想定した22個所のうち、当日歩くのは多くてもおそらく5~6箇所にとどまるでしょう。では何のために22箇所も取り上げたかというと、たぶんに自己満足です。
 あえて大義名分を付け足すならば、二つあります。一つは、円山(円山に限らないのですが)の地域を全体としてとらまえるためです。いうまでもなく、地誌を物語る物件は当日見る対象以外にもたくさんあります。当日歩いたところだけで満足するのではなく、後日あたらめて足を運ぶというモチベーションにしてほしいという思いです。
 もう一つは、郷土史の文献にまだ記されていない事柄を、できるだけさまざまな機会をとらえて記録(史料)として遺しておきたいということです。ほっておけば埋もれて忘れ去られる事柄も、遺せば歴史になります(なる可能性があります)。歴史を構成する史料となる可能性です。史料の価値は後世が判断すればよい。

 毎度のことながら、前置きが長くなりました。一つだけ例を挙げます。
 北円山に古くからお住まいのYさんという方に、昭和戦前期の絵を見せていただきました。
北円山 Yさん所蔵の絵 
 当時Yさん宅に下宿していた学生が、Yさんの自宅付近の風景を描いたものだそうです。Yさんへの聞取りで、現在の場所とも照合できます。
 管見の限り、この絵は一般には公開されていないと思います。昭和戦前期の北円山の風景を伝える一次史料になるのではないでしょうか。こういう史料の存在を、私は記録にとどめておきたいと思うのです。

2017/09/10

札幌建築鑑賞会 第77号できました。

 札幌建築鑑賞会通信『きー すとーん』第77号ができました。
札幌建築鑑賞会通信きーすとーん第77号 表紙
 会員の皆さんにはすでに郵送で届いていることと思います。

 今号の表紙絵は会員Oさんの作品で、南13条西7丁目にある餅菓子の「元祖 雷除志ん古」です。元質蔵と伝わる建物を再利用しています。妻壁に刻まれた「Λ田」は、質屋の屋号だったという「山田」にちなむのでしょう。
 札幌軟石の味わいが伝わってきます。ここで買った大福の味も思い出しました。1995(平成7)年から現在のお店になっていましたが、建物が今秋解体されることになり、ここでの営業を終えるそうです。この建物がこんにちまで永らえてきたのは、店主のおかげだったと思います。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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