札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/08/31

瑞穂神社 補遺

 8月18日ブログで、苗穂の旧陸軍糧秣廠(現自衛隊苗穂分屯地)内に遺る池泉について記しました。その中で、池のほとりに祠があったことに触れたところ、読者の方からコメントをいただきました。その後判ったことを記します。なお、苗穂分屯地に展示されている祠の写真を同日のブログに載せ、キャプションを「現静心池付近にあった水穂神社の様子」と引用しましたが、「穂」ではなく「穂」が正しかったので、訂正します。

 郷土史の文献『なえぼ-庚午一の村誕生から平成まで-』1998年に、以下の記述がありました(p.235、引用太字)。
 正門(引用者注:苗穂分屯地)を入ると右手に静心池という池がある。その池の中島に小さな洞ママ(ほこら)がみえる。施設内で事故が無いよう起願し祭られ瑞穂のほこらと呼ばれた。陸軍の糧秣廠設置当時から祭られており、昭和十二年には社(やしろ)も建立されたが、戦後施設内から出て、今は札幌村神社(東区北十六条東十四丁目)の境内にひっそりと祭られ、毎年九月四日が例祭である。なお東区苗穂町にあって、昭和三十四年宗教法人瑞穂神社と改名した旧雁来神社とは、別のものである。

 同書によると、分屯地内にあった祠は札幌村神社に遷座されたようです。そこで札幌村神社に行ってきました。
札幌村神社
 神社の境内に小さな祠が「ひっそりと祭られ」ているのを期待していたのですが…。残念ながら、それらしきものは見当たりません。
 宮司さんに伺ったところ「当社には、末社や祠のたぐいで合祀されているものは、ないですね」と。郷土史の文献に記述されていることをかくかくしかじかお伝えしたのですが、明確に否定されました。
 糧秣廠の瑞穂神社はどこへいったのか?

 実は文献に当たる前に私は、苗穂町にお住まいのYさんにお問合せしました。Yさんというのは瑞穂神社のお隣にお住まいで、軟石倉庫2棟の大家さんです(2017.6.6ブログ参照)。まぎらわしいのですが、ここでいう瑞穂神社というのは、前掲書で「別のもの」といっている旧雁来神社のことです。区別するため、分屯地にあった祠は「糧秣廠神社」と便宜的にいうこととします。
 旧雁来神社の瑞穂神社は、苗穂分屯地からもっとも近くにある神社で、しかも名前が同じであるのが私は気になっていました。ただし、同社に糧秣廠神社が合祀されたとか遷座したというような記述は文献上(といっても、『さっぽろ文庫39 札幌の寺社』1986年ぐらいしか見ていませんが)、見当たりません。それどこか前掲『なえぼ』誌では、「別のもの」と言い切っています。そうはいってもYさんは旧雁来神社の近くに古くからお住まいなので、一応ウラを取ってみることにしたのです。
 私の問いにYさん答えて曰く「自衛隊(分屯地)に池はあったと思いますが、神社があったとは聞いたことがないですねえ」と。旧雁来神社はもともと現在地の道路(国道275号)のナナメ向かいにあったのですが、昭和40年代に移されたそうです。

 こちらが旧雁来神社の瑞穂神社です。
瑞穂神社(旧雁来神社)
 念のため現地も確かめてみましたが、ここにもそれらしい小祠はないし、由来を刻んだ碑にもそのようなことは書かれていません。拝殿の左方にある社務所?の方にお尋ねしたところ、糧秣廠神社のことはやはり「聞いたことがない」と。ただ、「毎年、秋のお祭りのときに、自衛隊の方が2名ほど手伝いに来られますけどね」と。ほう。やはり分屯地にもっとも近い神社だけある。政教分離上、自衛隊の業務としてではなく、たぶん有志として参加しているのでしょう。例大祭はちょうど来週、9月5日です。覗いてみようかしらん。自衛隊の方にあらためて話を聞けるかもしれません。

 このほかに分屯地の近くで神社といえば、苗穂神社です。ここにも足を運びました。が、やはり合祀遷座の形跡は確認できませんでした。
 以上、はかばかしい収穫はありませんでしたが、「施設内で事故が無いよう起願し祭られ瑞穂のほこらと呼ばれた」(前掲『なえぼ』)精神は、旧雁来神社のお祭りへの参加という形で引き継がれているように私は嗅ぎ取ってしまいました。どうでしょうか。
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2017/08/30

久住さんを悼む

 元くすみ書房の店主、久住邦晴さんが亡くなったことを昨日(8月29日)の北海道新聞夕刊で知りました。本年2月28日ブログで記したとおり、久住さんにはお世話になりました。
 札幌建築鑑賞会で『さっぽろ再生建物案内』という本を自費出版したとき、応援してくださったのが久住さんです。2000年の初版のとき、札幌市内のいろんな書店に扱いをお願いしました。取次会社を通さない持ち込みにもかかわらず、最初に快く応じてくださったのが、なにわ書房とくすみ書房でした。本州資本大手のK書店やA書店に断られた中で、地場の書店の好意が身に染みたものです。久住さんは当時、三角山放送という地域FM局で「読書でラララ」という番組を受け持っていて、私は番組にも出させていただきました。本を丁寧に紹介してくださったのも久住さんです。おかげで本は3000部完売し、2003年の第2版につながりました。「いいものができましたね」とおっしゃってくださいました。初版の実績があって、第2版は市内の大方の書店で扱ってもらうことができ、5000部完売へと結実しました。久住さんは恩人の一人です。
 
 久住さんが‘町の本屋’生き残りのためにアイデアを駆使されたことは知られるところですが、2015年6月、大谷地の店が閉じられました。
くすみ書房 大谷地
 享年66、少し早いとも思いますが、「お疲れ様でした」とねぎらいたい。

2017/08/29

上新川 補遺

 8月23日ブログで紹介した「上新川」バス停について、dinさんから以下のコメントをいただきました(引用太字)。

上新川はかつて札幌市営バスが走っていました。
私の記憶にある時点では「札幌市営」の関係でここが終点でしたが、1970年代はここからさらに江別市大麻まで市政史上唯一行政区域外乗り入れが実現してたようです。


 ありがとうございます。
 手元の文献・史料で少し調べてみました。
バス路線 1988年現在 上新川周辺
 1988年当時のバス路線です(方位は10時の向きが北)。札幌市教委編『さっぽろ文庫・別冊 いまむかし札幌を歩く 〈第2部-都市ネットワーク〉』1989年から抜粋しました(pp.2-3)。緑色の線がJR北海道バス、赤色が札幌市営バス、紫色は北海道中央バスです。
 この時点で3事業者が運行していて、JRバスと中央バスは江別まで通じ、札幌市営バスは上新川で終点だったことがわかります。市営バスは、交通局発行の「地下鉄バス電車路線図料金表」1998年、「札幌市営交通路線図ご利用ガイド」2003年でも、上新川が終点でした。

 昭文社『エアリアマップ札幌市街図』1977年を見ると…。
昭文社 札幌市街図 上新川周辺
 路線は江別まで通じていますが、運行事業者は判りません。隣の「厚別新川橋」の停留所名には(市)と付されています。

 前掲『さっぽろ文庫・別冊』には、上新川バス停の写真も載っていました(p.24)。
上新川バス停 1989年?
 29年前の出版物で、すでにこのバス停が注目されていたのですね。写っている標識はJRバスと中央バスです。8月23日ブログに載せた「ジェイ・アール北海道バス」(末注)の現標識と同じタイプです。同日ブログで私は「国鉄バス当時のものだと思います」と記しましたが、この標識は「JR北海道バス」時代にできたのでしょうか。

 市営バスが江別まで通じていたか裏付けることはできませんでしたが、1980年代に3事業者が上新川に停留所を置いていたのは、私にとって驚きでした。

 注:ジェイ・アール北海道㈱サイトによると、同社は1987(昭和62)年の国鉄民営化に伴い「JR北海道自動車事業部」、1999(平成11)年に分社化され「ジェイ・アール北海道バス株式会社」となった。

2017/08/28

ベロタクシーで巡る創成川東

 8月26日、ベロタクシーで巡る創成東の街探訪を終えました。
創成東まちめぐり ベロタクシー②
 ベロタクシーに乗るのは他の参加者の多くと同じく私も初めてです。7台がつらなる風景は、それ自体が新鮮でした。
 
 運転手さん方のおかげで、事故なく安全快適なまちめぐりができました。
創成東まちめぐり ベロタクシー①
 主催した「下町づくり社」のGさんの事前準備と当日の進行管理の手際よさのたまものでもあります。ベロタクシーでまちあるきという着想に拍手です。徒歩圏よりも広いエリアを巡ることができて、街の全体像をつかめたのは収穫でした。

2017/08/27

古き建物を描く会 第59回

 札幌建築鑑賞会の「古き建物を描く会」第59回を催しました。
古き建物を描く会 第59回
 今回9名で描いたのは、中央区南2条のNさん宅です。さほど暑くもなく、スケッチ日和に恵まれました。
 1931(昭和6)年に建てられた木造の洋館です。切妻屋根の総2階建てでシンプルな外観と思いきや、入母屋風の屋根を載せた玄関ポーチをはじめ、細部が意外と複雑でした。「けっこう難しかった」というのが、参加した9名のおおかたの感想です。
 写生後、9名の作品を路上に飾りました。Nさんにもお見せして、喜んでいただきました。札幌景観資産にも指定された住宅は、とてもきれいに手入れされています。前回のH牧場と同じく、Nさんともども末永くお健やかにとお伝えして、建物をあとにしました。

2017/08/26

二代目市庁舎とその時代

 札幌市公文書館で催された講演会を聴いてきました。「二代目市庁舎への『改築移転』:昭和九~十二年」という演題で、実に面白かった。
 内容をかいつまむと、1937(昭和12)年に竣工した二代目市庁舎は総建設費67万円を要し、そのうちの約3割、19万円余を市民からの‘寄付’で賄いました。このことが持つ意味を考察したものです。
 実は寄付とは名ばかりで、ほとんどというか、それどころか徹底的な強制割当てでした。いかに割り当て、どのように集めたか。祭典区(いまの連合町内会の規模、組織の前身といえよう)単位で募金組織を整え、納税額等に基づき、対象者を選定し、区ごとの目標額を設定します。市会議員や地域の有力者が納入をはたらきかけ、‘未納’者には‘督促’状まで送られました。もはや募金というよりは徴収です。その結果、市民676名から196,875円が寄せられました。当時の札幌市の人口は196,541人。人口と寄付総額の数字が似通っています。なお、建物竣工時にそのうちの24,164円が未納(=寄付を‘申し出た’にもかかわらず、実際に納めていない)だったそうではありますが。竣工した後も、未納者に督促状を送っています。これじゃ税金ではないか。否。「現時の状勢ヨリ鑑ミ 其ノ経費ハ一般市民ノ課税ヲ避ケ」た結果、寄付を募ることにしたのだそうです。悲劇的茶番(末注)。

 寄付にまつわる当時の新聞記事も紹介されました。これがまた、大変衝撃的な筆致なので、以下全文を引用します。『北海タイムス』(現在の北海道新聞)1935(昭和10)年2月6日「札幌市庁舎寄付過半に及ぶ 情けない富豪心理」という見出しです(旧字体、旧仮名遣いは改めた。?は判読困難)。

 「文化都市札幌の体面に不釣合の市役所庁舎は今年から三年計画六十四万円で昭和十一年(ママ)に竣工市民に見えることになったがこの庁舎改築に市民の温度を誇るべく一般寄付予定額十五万円は市民の心からの申出に既に過半?に達しているが中に「僕の財産は内地にあるので、その財産を標準に寄付を申し込まれても困る」と寄付係を追い返している財産家がある この市民は堂々たる札幌市の公民権を有し しかも知識階級として市民の尊敬を集めている北大理学部の教授某氏(特に仮名)で同教授は郷里東北で有数の財産家で先に札幌警察署庁舎改築に際しても寄付応募を頑強に受けつけず遂に同氏の寄付なしで市民の守り警察署は完成したが今回の市庁舎には同教授には子供が多数市の学校にも通学している事でもあり 昨年は人も羨む堂々万金を投じた豪奢な邸宅を新築してあたりを睥睨し この邸宅新築で札幌永住の意志も窺われたので係員が「金五十円也」の寄付勧誘をすすめたが「お話はごもっともです 財産は内地にありまして札幌では大学教授としての俸給で生活しているものですから…」とその都度「お話承りおく」で既に六回の訪問も空しく警察庁舎同様同氏の寄付なしで新庁舎は建築されるべく庁舎寄付異聞として市民に灰色の話題を与えている」
 
 拙ブログ読者なかんづく札幌建築鑑賞会会員におかれては、本記事で遣り玉に挙げられた方がどなたを指すか、お察しできるのではないでしょうか。寄付を断ったのが北大の先生というだけで、個人情報も名誉毀損もヘッタクレもない攻撃に遭う。記事中の「市民の心からの申出」というのがチャンチャラ可笑しいことは前述のとおりですが、寄付に応じない人への罵詈との自家撞着に、天下の道新、もといその前身北海タイムスの記者編集者は気づいていないらしい。否、判っていても書くのが鉄面皮の記者魂でしょう。

 コトコマカにリークした募金側の関係者がいるんですね。かような記事が「睥睨」する「灰色」の世の中に生まれなくてよかったとつくづく思います。まあ私ごときの貧民はこんなターゲットにすら、ならないでしょうが。いや、私が気が付いていないだけで、今の世が灰色でないと言い切れるかどうか。時代に抗った北大理学部の某先生を、私は心から表敬します。こういう方こそ、ホンモノです。

 くだんの二代目市庁舎が落成したときの、記念品の文鎮です。
二代目市庁舎 落成記念文鎮
 当時の市職員、吏員(正職員)のみならず雇員(臨時職員)も含めて全員に配られたそうです。長く札幌市にお勤めだったUさんのご寄贈品とのこと。Uさんのお歳からして、奉職されたのは落成から数年後だと思いますが、余っていたのかもしれません。Uさん、こんなお宝をよく手放しましたねえ。私なら後生大事に秘蔵しますよ。灰色の世の中には生まれたくないが、この文鎮は欲しかったなあ。

 私のお宝は、こんなモノです。
ウイズユーカード 二代目庁舎
 二代目庁舎が写るウイズユーカード。貰いものですが、文字どおり薄っぺらくて、お宝にはならんですね。

 注:演者はしかし、こうして出来上がった市庁舎とその過程で醸成された市民の意識を、必ずしも否定的にのみ見ているわけではない。歴史は弁証法的に進むものではある。
 

2017/08/25

吉田茂八は豊平川の渡し守だったのか

 創成東まちめぐりの第2回(8月10日ブログ参照)を明日8月26日に控えています。毎度自転車操業で、昨日配布資料の原稿をなんとか仕上げました。といっても、大半はこれまで札幌建築鑑賞会の行事で作られたものに基づいているのですが、確認についつい手間取ってしまいます。

 たとえば…。
札幌開祖吉田茂八碑
 豊平川左岸、豊平橋たもとの橋台広場に「札幌開祖吉田茂八碑」という碑が建っています。

 裏面に刻まれている文によると…。
吉田茂八碑 碑文
 「吉田茂八は南部に生まれ安政二年亀谷丑太郎に従い渡道し 同四年石狩調役荒井金助の命により 豊平川右岸の渡守志村鉄一の話相手として左岸の渡守となり札幌開拓に寄与した先住者である 資性温厚にして豪胆 狩猟を得意とし後年創成川の南三条より南六条に至る間の掘割工事を請負う これを吉田堀とも言う 地域住民吉田翁の功績を讃え後世に伝えるべく この碑を建立する 昭和五十六年七月二十一日 吉田茂八碑顕彰保存会」

 この裏付けを得ようと『新札幌市史』や『さっぽろ文庫』を読み直してみました。
 まず「南部に生まれ」。
 『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年には「一説に、天保九年(一八三八)に岩手県宮古に生まれ」とあるのですが(p.314)、『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年には「北海道福山(松前町)の人」とあり、しかも「宮古市出身で箱館戦争に参加したという説は、同姓同名の別人である」と書かれています(p.329)。後年の記述を採るならば、「南部に生まれ」はどうも怪しい。

 それよりも気になったのは「左岸の渡守となり」です。
 『新札幌市史 第一巻 通史一』1989年には「志村鉄一とならび、通行屋(引用者注:豊平川の渡舟業務もはたしたトヨヒラ通行屋)に深い関係をもったのが吉田茂八であった」と記されています(p.828)。微妙な表現です。「渡守」であったとは断定していません。ちなみに同書も「福山(松前)の出身」と明記しています。
 現地に置かれた立派な石碑で麗々しく彫られていると、当然の史実のごときオーラが漂います。うーん。
 今「現地に」と私は記しましたが、そもそも茂八はこの場所、すなわち現在碑が建つところに居住していたとも断定できません。碑文にもそのようには書かれていませんが、一瞬錯覚を抱きます。

 困ったときには市公文書館のEさんを尋ねる、というのが私の約束事です。明日のネタバラシになってしまいますので、日をあらためて綴りたいと思います。
 明日のまちめぐりでは「見どころポイント」を17箇所(周辺の関連ポイントを含めると35箇所)挙げました。一箇所一箇所、こんな調子でウラを取っていたら、どうなることやらお察しください。

2017/08/24

神尾橋

 白石区川下4条6丁目です。
厚別川 神尾橋
 厚別川に「神尾橋」という橋が架かっています。

 「このあたりの地主さんの苗字を採ったんだろうなあ」くらいに思っていたのですが。
 郷土史の文献をひもといたところ、そうではないようです。「日露戦争の英雄、神尾少佐にちなんだ」という(末注)。「当時あちこちにそういうような英雄の名を付けた」とも。

神尾橋の位置を現在図で見ておきます。
神尾橋 現在図
 札幌市白石区役所「白石区ガイド」から抜粋しました。赤い○で囲ったところです。生活道路に架かっています。幹線道路が通る前からあったのでしょう。

 大正5年地形図を見ると…。
大正5年地形図 神尾橋?
 現在の橋の位置に近いところに、橋の記号が描かれています。現神尾橋の前身と思われます。

 ネットで「日露戦争 神尾」と検索したら、「神尾光臣」と当たりました。日露戦争当時は陸軍少将だったらしい。信州諏訪の出身。川下は諏訪からの入殖と聞くので、もしかしたら郷里の‘英雄’にあやかったのかもしれません。有島武郎の妻・安子の父。

 注:『川下百年誌』1984年、「座談会 むかしの川下 古老の方々の憶い出から」宮坂広義氏(1930年生)の発言(p.155)

2017/08/23

上新川

 昨日紹介した「厚別の地名の謎・三話」、いささかマニアック過ぎるなと内心思っています。拙ブログではいいとしても、サンピアザの光の広場で不特定の人を対象に話すにはいかがなものか。もう少し一般になじみやすいネタのほうがいいかもしれません。だいたい私自身、三話とも謎が解けていないのです。答え、というか「こう解釈すれば、説明がつく」という諸賢のご教示を乞います。

 それはそれとして、地図などを見て厚別の地名をあらためて採集しています。
 厚別町山本、道道東雁来江別線にあるバス停です。
上新川 バス停
 「上新川」。

 なぜここに「新川」という名前が付いているかというのは、古地図で判ります。
大正5年地形図 厚別川 新川
 大正5年地形図から抜粋しました。厚別川が北東方向へほぼ直線的に改修され、「新川」と名づけられています。

 札幌市の河川網図で河道を較べてみます。
河川網図 厚別川下流 旧河道
 直線化された「新川」のほうが厚別川となっています(方位は1時半の向きが北)。旧河道は排水路として一部に遺っていますが、原形は途絶えています。

 直線化された厚別川の橋に、新川の名が遺っています。
厚別川 9号新川橋
 「9号新川橋」。
 前掲地形図及び河川網図で、橙色の○で示したのが、その位置です。上新川バス停は、河川網図で赤い▲の先あたりです。ここが「上」というのは、「新川」の上流ということでしょうかね。

 冒頭に載せたバス停の標識ですが…。
上新川バス停 標識
 古い。国鉄バス当時のものだと思います(2016.10.15ブログ参照)。一日4便の路線(ジェイ・アール北海道バス、米里線[8])ですからね。停留所が廃止されないことを願ってます。

2017/08/22

ポロベツ川

 「厚別歴史写真パネル展」第8回が、11月28日~30日に開かれます(末注)。期間中に会場(サンピアザ光の広場)で催される「交流・談話会」では、幾つかのテーマを決めて厚別の歴史を関係者が語ります。前回は、厚別区民歴史文化の会のM会長のご推挙で若輩ながら私も、札幌軟石について話しました。今回も、何人かの話者の一人に一応、私が入っています。ただし、ほかに適任の語り手がいらっしゃれば引っ込むという条件付きです。いわば補欠要員なのですが、さりとていざという時に備えて、用意はしておく必要があります。

 で、私が準備している仮テーマは「厚別おもしろ地名考」です。厚別の地名の謎・三話を考えています。
 ①なぜ、三里川のすぐそばを二里川が流れているか? (2016.8.29ブログ8.30ブログ8.31ブログ参照)
 ②なぜ、厚別東に「西通り踏切」があるか? (2017.5.5ブログ5.6ブログ参照)
 ③なぜ、野津幌川の支流が「ポロベツ川」か? 

 三番目のポロベツ川については、拙ブログでまだ採り上げていません。ひとことでいうと、野津幌川の支流の小野津幌川(ポンノッポロ川)のそのまた支流に、「ポロベツ川」と命名されている不思議です。

 札幌市の河川網図で、三つの川を見ておきます。
河川網図 ポロベツ川
 黄色の▲を付けた先が野津幌川、橙色の三角の先が小野津幌川、赤い▲の先がポロベツ川です。河川管理者は、前二者は北海道、ポロベツ川は札幌市(準用河川)です。
 どうみても、野津幌川>小野津幌川>ポロベツ川という関係にしか、私には見えません。野津幌川が最も長大で、ポロベツ川は短く小さい。小野津幌川は上流で「ポンノッポロ川」となっています。野津幌川に対するポン(=アイヌ語で「小さい」)というのは妥当だし、小野津幌と和訳されたのもわかります。しかるに、その支流がポロ(=アイヌ語で「大きい」)ベツ(=川)とは、何ぞや?

 実際の風景も見ておきましょう。
 まず野津幌川。
野津幌川 青葉通橋付近
 青葉町15丁目、青葉通橋付近です。

 次に、小野津幌川。
小野津幌川 森林公園橋
 厚別東4条6丁目、森林公園橋です。

 そしてポロベツ川。
ポロベツ川 
 厚別東4条9丁目、ポロベツ川緑地です。
 これがどうして、「大きい川」なんだろう?

 注:今年はすでに3月1日~3日に第7回が開催されたが、これは例年秋に実施されるところ、サンピアザのリニューアル工事の事情で延期されたものである。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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