札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/07/31

東8丁目通りは、どうしてできたか ⑥

 「東8丁目通りは、どうしてできたか」、これまでの話をまとめると以下のとおりです。
 ・東8丁目通りと「南1条通りが豊平川と交わる」地点がずれているのは、創成川からの起算距離が異なるためである。
 ・東8丁目通りは、創成川から起算して8町(=480間)の距離で引いた境界線に因む。
 ・一方、「南一条通りが豊平川と交わる」地点は、創成川から起算して71間×6街区=426間である。

 
 昨日ブログで私は、末尾に「豊平川の流路も、結果としてこれ(=創成川から起算した426間)に合わせて改修した可能性すら、感じます」と記しました。
 『札幌市史 政治行政篇』1953年(旧市史)に掲載された「開拓初期札幌市街区域図」です(7月28日ブログに掲載)。
旧市史 開拓初期札幌市街区域図 再掲 境界線着色
 旧市史刊行時の札幌市街の地図に、かつての境界をあてはめています。赤い線がその境界で、昨日ブログで記したように1878(明治11)年の画定とされます。
 これを見て気づくのは、境界線の南東の部分が豊平川に沿ってナナメに引かれていることです。念のため申し添えると、時系列的には先に赤い線の境界ありき、です。

 昨日ブログに掲載した掲載の明治22年「札幌市街之図」を見ます。
明治22年札幌市街之図 再掲 札幌市街境界
 赤い線の境界が引かれたのは、この地図が作られた1889(明治22)年よりさらに前です。境界は豊平川の氾濫原(中洲)を突っ切るように、機械的にまっすぐ引かれています。
 冒頭の旧市史掲載の地図と比べると、のちの豊平川の流路は赤い線の境界に合わせて整形したように読み取れます。豊平川は洪水・氾濫を繰り返してきた暴れ川で、明治時代も幾度か築堤されています(末注)。

 冒頭の地図でもう一つ気づくのは、南1条通り(橙色の線でなぞった)の東端です。赤い線の境界上とほぼ一致しています。境界線に合わせて豊平川の流路が整えられたことにより、結果として「南1条通りが豊平川と交わる」地点となりました。東端は前述したように、創成川から起算して71間×6街区=426間の距離です。426間の地点が境界線上とほぼ一致するのが偶然なのかどうかは、判りません。ただ、結果としては道路交通上の結節点になりました。境界線を引いたときに、ゆくゆくここが南1条通りの街区の交点となることを想定し、豊平川の流路を整形することを想定し、橋(一条大橋)が架かることを想定していたとしたら、スゴイ先見の明だと思います。一方で東8丁目の境界を異なる起算方法で引いてズレをもたらしたことと照らすと、そこまで見通していたとも思えませんが。

 注:『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年、pp.192-194参照
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2017/07/30

東8丁目通りは、どうしてできたか ⑤

 7月25日ブログで私は、前日7月24日ブログの記述のうち2箇所、「気になるところ」があると記しました。その1箇所の「島判官は大友堀を本府建設の基軸として計画したか」については25日、26日のブログで大方の解決をみました。もう1箇所のほうをまだ言及していませんでしたので、取り上げます。
 
 それは、24日ブログの後半に述べた「当時の(=明治初期の)地理的条件」です。私は「南1条通りを東へまっすぐ進みますと、豊平川にぶつかります。ぶつかったところで直角に線を引く。ほぼ東8丁目通りに重なります。ただし、『ほぼ』です」と記しました。その根拠について、私は明治34年「札幌市街之図」を援用したのですが、これは間違ってました。たしかに、この地図で南1条通りを東にまっすぐ進むと、現在の東8丁目篠路通りのあたりで「ほぼ」豊平川にぶつかります。しかしそれは、この地図が描かれた明治30年代の話で、東8丁目通りに札幌区界が引かれた(区界を分かったところに道を敷いた)時期は、そうではありませんでした。ここに区界が引かれたのは1878(明治11)年とされます(末注)。そして明治20年代にはすでに、その境界に沿って道が造られていたようです。

 その当時を伝えているであろう古地図を示します。
明治22年札幌市街之図 東8丁目通り周辺 再掲
 「札幌市街之図」1889(明治22)年(札幌市公文書館蔵)です。
 黄色の矢印の先が東8丁目通りです。判りやすくするために豊平川の流路を水色で塗りました。橙色の線でなぞったのが南1条通りですが、東へ進むと、東8丁目通りよりもはるか手前で豊平川にぶつかっています。当時は現在の流れよりもはるか西方に分流があり、大きな氾濫原(中洲)を作っていました。
 つまり、この時点(1889年)以前では、東8丁目通りすなわち境界線を引く基準として、南1条通りが豊平川にぶつかる地点というのは考慮しえなかったといえます。
 私は前掲古地図を7月21日ブログでも載せていたのですが、時系列が錯乱してしまっていました。あらためて、境界線(東8丁目通り)は7月28日ブログで述べたように、創成川から8町という数字で引いたと推定します。
 
 ウエブマガジン「カイ」の特集『札幌の下町「創成東」を歩く』連載の『地図を歩こう「創成東」-4』では、東8丁目通りが「右に折れているのは、主要な都市軸である南一条通が豊平川と交わる角と東8丁目通がずれているためだ」と書かれています。しかし、この記述は因果関係が前後しているように私は思います。前掲古地図で示したとおり「南一条通が豊平川と交わる角」は、ずっと西方です。ずれをもたらした‘原因’にはなっていない。「南一条通が豊平川と交わる角」は、後年作られた‘結果’ではないか。

 ではなぜ、「南一条通が豊平川と交わる角」を東8丁目通りとずれるところに設定したのか。豊平川を河川改修した結果ということも考えられますが、私は機械的な理由によると思いました。
 もう一枚、古地図を見ます。
明治23年札幌市街之図 東8丁目通り周辺
 「札幌市街之図」1890(明治23)年(札幌市公文書館蔵)からの抜粋です。

 前掲「札幌市街之図」の1年後に描かれたものですが、周辺の地形や地割がかなり変わっています。黄色の矢印の先が東8丁目通りで、赤い矢印の先が「南一条通が豊平川と交わる角」付近です。現在の地点に近づいています。
 この地図で、南1条の地割が赤矢印の先のところまで描かれています。この地図は彩色されていて、南1条通りは「豊平川と交わる角」まで茶色で塗られています。東8丁目通りも茶色ですが、その間は白地です。この彩色の違いが何を意味するか、凡例は示されていないのですが、もしかしたら現況と計画の違いかもしれません。
 
 私は赤矢印の地点を、創成川からの起算の結果とみました。
 7月24日ブログで示した、1街区の一辺60間(間に仲通を含む)+道路幅11間=71間の積算です。この地図を見ると南1条では、創成川から71間の間隔で6街区分、描かれています。その地点を結果として、「豊平川と交わる角」にした。豊平川の流路も、結果としてこれに合わせて改修した可能性すら、感じます。

 注:『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年、p.187参照

2017/07/29

北3条通りの風景を脳裏に刻む

 創成川東めぐり、無事終えました。
 サッポロファクトリー付近のクランク交差点や国道12号のⅩ歩道橋など、私の偏った案内におつきあいいただき、参加された皆さんにはありがとうございました。歩道橋に上がったところ、おおかたの人がⅩの交点でぴょんぴょん飛び跳ねて、揺れ具合を確かめていたのが印象に残っています。

 歩道橋といえば、今回の行程には含めていなかったのですが、北3条東4丁目のそれが、すでに閉鎖されていました。
北3条東4丁目歩道橋
 撤去へのカウントダウンのようです(2017.2.22ブログ参照)。

 さらに。
カフェロッソ
 参加者のお一人からお聴きしたところ、歩道橋の近くにある煉瓦造の建物もまた、解体される可能性が高くなりました。開発事業者に所有が移ったようです。
 雪留め付きの寄棟屋根に開口部のアーチが、札幌では稀少感を醸しています。横綱級のファクトリーレンガ館と対照的な、珠玉の佳品です。


 北3条通りの、この風景も変わっていくのですね。
北3条通り 歩道橋 カフェロッソ
 くだんの建物1階のカフェに、ここの元の持ち主の巨大な金庫が置かれていたと思うが、建物を解体するとなったら、あれはどうなるのかなあ。

2017/07/28

東8丁目通りは、どうしてできたか ④

 「旧永山武四郎邸でつながる、さっぽろ下町まちあそびワークショップ~まちあるき編~」を明日に控えました。なんとか配布資料の原稿も間に合わせることができ、天気も良さそうです。参加申込みは締め切っておりますが、8月下旬にまた別の催しが企画されています。今後一社)さっぽろ下町づくり社サイトに掲載されると思いますので、関心のある方はおってご覧ください。
 
 さて、先日来話題にしています「東8丁目通りは、どうしてできたか」、あちこち寄り道しながら佳境に近づいています。寄り道が多いので何が佳境かと思われるかもしれませんが、もうすぐゴールです。

 次に掲げる地図は『札幌市史 政治行政篇』1953年(旧市史)に掲載されたものです。
旧市史 開拓初期札幌市街区域図
 「開拓初期札幌市街区域図」という題が付いています。

 図のウラ面に、次のように説明されています(引用太字、原文ママ)。
 本図は札幌市街区域変遷中
 (一)明治四年決定の開拓使仮庁中心一里四方
 (二)明治五年決定の開拓使本庁中心の一里四方
 (三)明治六年以後近接新村設定のため、何時とはなしに縮少し、三県時代の初期まで続いた市街区域
 以上を現在の地図に入れてみたものである。
 (右のうち(一)を記入した古い地図は見当たらないが(二)(三)を記入した古い地図はたくさん残つている。)


 開拓使(仮、本)庁舎を中心とした「一里四方」の実際上の設定については、批判的考証が必要です(末注①)。特に(一)については「記入した古い地図は見当たらないが」と記しており、旧市史編集者の解釈、想像の産物とすら思えます(末注②)。が、ここではひとまず措き、その線を色分けしてみました。
旧市史 開拓初期札幌市街区域図 境界線着色
 黄色が、(一)の明治4年開拓使仮庁を中心とした一里四方、橙色が(二)の明治5年に決定された開拓使本庁中心の一里四方、そして赤い線が(三)の「何時とはなしに縮少し」た区域です。(一)の中心は黄色の●(現北4条東1丁目)、(二)の中心は橙色の●(現北3条西5、6丁目)です。(一)と(二)の一辺を縮尺で測ると、36町(=1里=約4㎞)でした。左下の縮尺の上に引いた緑色の線の間隔が10町です。

 で、先日来問題にしている東8丁目通りは、というと、(三)の赤い線の東端です。赤い矢印の先に示しました。これは「近接新村設定のため、何時とはなしに縮少し」た結果、引かれた線だというのです。
 故遠藤明久先生も「明治七年二月、本府に隣接する琴似、山鼻、札幌(元村)、円山、篠路、豊平、白石および苗穂の各村の行政区域が確定する。こうして、本府の外周線は決定し、他動的に札幌本府(区)の境界が決定する」と述べています(末注③)。
 当該東8丁目は、当時の村界でいうと苗穂村になります。えいや、で線を引いたんですかね。
 それにしても、何か根拠がないか。
 ためしに、黄色の線と赤の線の間の距離を測ってみました。ちょうど10町です(青い線で示した間隔)。7月24日ブログで私は、「創成川(の中心線)から東8丁目(の中心線)まで測ってみると、約8丁(町)です」と記しました。10町+8町=18町=半里です。黄色の線の基となった開拓使仮庁は創成川沿いの北3条東1丁目にありましたから、計算が合います。
 
 結局、創成川を基軸にしてキリのいい8町にしたのか。この線が確定するのは1878(明治11)年です(末注④)。開拓使本庁はすでに(現在の道庁赤レンガの付近に)建っています。念のためその地点からの距離も測ってみましたが、中途半端です。島義勇を継いだ岩村通俊らが、碁盤目状の区画割をすすめています。しかし、その基準数値である1町(60間)+道幅11間ではなく、アバウトに8町としたんですね。その原点は、どうも「一里四方」にあったように思えます。

注①:『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年、p.80、『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、p.53参照
注②:(二)についても、管見の限り一次史料の存在を見つけられない。
注③:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』p.53
注④:『新札幌市史 第二巻 通史二』pp.186-187参照 

2017/07/27

菊水3条1丁目の戦跡

 昨日ブログで、島判官が詠んだ漢詩を七言律詩としましたが、律詩ではなく絶句でした。訂正します。
 さて、「東8丁目通りは、どうしてできたか」を再び、と思いましたが、また寄り道します。7月22日ブログで現「東8丁目篠路通」が建物疎開に由来する話を記しましたところ、読者のぶらじょにさんから一条大橋の対岸の緑地についてコメントいただきました。

 たしかに、なんとも中途半端な緑地帯です。 
菊水3条1丁目 建物疎開跡地
 南一条橋を渡ってこれを観て「なんだろうな、これ?」と思った方は、ほかにもいっらしゃるにちがいない。

 「○○緑地」といった標識類は、見当たりません。
菊水3条1丁目 緑地 近景
 ベンチは置かれていますが。 
 
 とりわけ拙ブログ読者においては、「なんだろうな」感の感度は高いことでしょう。意識として顕在化しなくても、過去に網膜に映った像が記憶の底に沈潜している可能性があります。自分がそうだから読者もそうだと勝手に決めつけているのですが、ぶらじょにさんコメントのおかげで、沈潜していた私の‘もやもや感’が撹拌されました。ありがとうございます。
 それで、東8丁目通りからまた脇道に逸れることに相成ったしだいです。コメントへのお返事に記したとおり、ここも建物疎開の跡地と私はみました(末注①)。

 1948年米軍撮影の空中写真です(国土地理院サイトから)。
1948年米軍空撮 白石遊郭
 白石遊郭周辺を抜粋しました。黄色の線で囲ったのが遊郭の範囲です。前掲画像に載せた緑地に当たるところを、赤矢印の先で示しました。画像をつぶさに見ると、いかにも疎開跡という地肌に見えます。それにしても、ずいぶん派手に疎開されたものです。

 毎度お世話になっている今昔マップon the webで1935年(疎開される前)の地形図を観ると、実はこの場所、一条大橋から道が二股に分かれていたのですね。股の間の民地を疎開して、まるごと空地にした。それでこんな幅広の空地になったわけです。
 
 遊廓の真ん中を、広い道が通じています。大門通りです。この道を南西(左下)へ進むと現国道36号に達します。道幅は遊廓の大門を出た後も2町くらいは広いのですが(2015.2.25ブログ参照)、画像の橙色の▲で示したあたりでは狭くなっています。ところが、この画像に写っているように、道路沿いの民地が疎開された形跡が見られます(末注②)。全体として大門通りは豊平から遊郭まで、幅広になりました。

 二三日前、NHKテレビで「TOKYOディープ」という番組をたまたま見ていたら、吉原遊廓のことをやってました。戦時中遊郭の一帯が延焼したとき、当局の命を受けていち早く再建し、表彰されたという話を縁故者の人が語っていました。ウロ覚えなのですが、番組に映っていた表彰状に、「当局の命」云々という文字があったのが印象に残っています。「なんで表彰されたのか?」と出演者が問うたのに「当時、出征する若い男性のために(遊郭が)必要だったから」と答えていました。
 よく聞く話、というか、説明がつきやすいので逆に眉に唾を付けたくもなるのですが、私は札幌における当局の腐心を前掲1948年空中写真から読み取ってしまいました。遊廓への動線を確保するための腐心を、です。うがちすぎでしょうかね。

 ところで、疎開跡地の緑地は、交番に突き当たります。その先は民地が復活しています。
菊水交番
 東8丁目篠路通の疎開跡地にも交番があり(7月22日ブログ参照)、妙な偶然を感じました。こんな写真を撮っていたら、お巡りさんに不審がられないだろうか。
 お巡りさん「どうして、交番を写真に撮るんですか?」
 私「戦時中の建物疎開の跡地を、記録に残しているんです」
 
 …なんて、信じてもらえるだろうか。所持品を調べられたら、デジカメのみならず地図とかメモ帳、懐中電灯、巻尺が出てくる。
共謀罪あらため、組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律等の一部を改正する法律への抵触を疑われやしまいか。

注①:『新札幌市史 第5巻 通史5(上)』2001年、pp.210-211参照。「疎開跡地整備事業」として「南一条白石通」(南一条大橋南詰~白石火防線)が含まれていたという。くだんの緑地はまさに一条大橋南詰である。
注②:同上。「豊平大門通」も「疎開跡地」として保留(所有者に返還されなかった)されたという。

2017/07/26

島判官は、大友堀を本府建設の基軸として計画したか ②

 札幌市役所ロビーの島義勇像です。
市役所ロビー 島義勇像
 1971(昭和46)年に建立されました。

 台座正面には、島が詠んだという七言律詩絶句が刻まれています。「他日五洲第一の都とならん」という有名な漢詩です。揮毫は、この像が建つ前まで市長だった原田与作氏。
 台座背面には、建立時の市長板垣武四氏による碑文が銘鈑に記されています。その中に、次のくだりがあります(引用太字)。
 既に北方の事情に通じていた義勇は、北方の開拓を進めるためには札幌の地に中心を移す必要があるとし、十月末(引用者注:明治2年)雪を踏んでこの無人の地に入り、ここに京都を模して整然とした区画割りを行い、都市建設に着手した。

 1869(明治2)年10月当時の札幌が「無人の地」だったとは私は想わないのですが(末注①)、この碑が建立された1971年の為政者の、大袈裟に言えば歴史認識をが伝える一文であり、これはこれで存在価値があります。1971年はこの市庁舎が落成した年で、その前年に札幌市は人口が百万人を超え、翌年の1972年には冬季オリンピックを開催、政令指定都市に移行しました。イケイケどんどんの時代ですね。
 それはさておき。
 私の歴史認識も、この銅像によって刷り込まれていたようです。「無人の地」うんぬんは措くとして、「ここに京都を模して整然とした区画割りを行」った、という。銅像のインパクトは大きい。しかも、置かれているのが市役所のロビーですからね。

 南1条東1丁目、創成橋たもとの「札幌建設の地」碑です(2014.9.5ブログ参照)。 
「札幌建設の地」碑
 こちらは1966(昭和41)年の建立。
 台座碑文(当時の市長原田与作氏)には、次のように書かれています(引用太字)。
 この地は銭函から千歳に抜ける道と藻岩山麓を通り篠路に行く道路との交点に當り 明治貮年拾壹月拾日開拓判官島義勇石狩大府の建設をこの地から始め その意をついだ岩村判官は同四年参月 札幌の町割をここを中心として行い 民家を建てることを許した 今日の札幌市はこの附近を基点として發達したのである

 これも、場所が場所だけに、影響されました。

 このあたりの史実とその解釈について、札幌市公文書館のEさんが2014年に講演されたのを私は聴きました。Eさんは新市史第二巻の「島判官の札幌本府建設」を執筆しています。公文書館に行って、Eさんと話をしてきました。
 私の疑問点をあらためてまとめると以下のとおりです。
 ①島判官は、大友堀、銭箱道の交点を基点とする(または、それぞれを基軸とする)本府建設を計画(構想)したか?
 ②島判官は、「京都を模して整然とした区画割り」をおこなったか?
 ③島判官は、大友堀と銭箱道の交点から、「石狩大府」の建設を始めたか?

 Eさんとの話で得られた結論は以下のとおりです。
 ・①②③を明確に裏付ける史料は見つかっていない。
 ・島が来たときの札幌の中心部で人工的なモノといえば銭箱道と用水(大友堀)くらいなので、(街をつくる)目安にはなっただろう。
 ・(島の在任中に札幌で)大友堀に沿って実際に道が敷かれ、家屋が建てられているので、大友堀は基軸になったといえるかもしれない。ただし、当初からそれを構想していた、とまで言い切れるかどうかは疑問。
 
 Eさん曰く「まあ、歴史の解釈の問題ですね」と。前掲の銅像や記念碑の碑文が誤りだ、とただちに断ずるのもどうか。
 私もそう思いました。結局、史料的に裏付けられた事実か、それを解釈したものか、その違いをアタマの片隅に置くことが大事なのですね(末注②)。

 注①:豊平川両岸には吉田茂八と志村鉄一がいて、元村に大友亀太郎が拓いた御手作場があり、篠路に早山清太郎がいた。そして、彼らに先んじてヌプサムメム付近に琴似又市らがいた。これらを言挙げするのは‘後出しじゃんけん’のきらいがあって気が引けるが、忘れないようにはしたい。北海道150年を記念するとか、冬季オリンピックを再び、というなら、なおのこと。台座のうしろの小さな碑文まで読む人はあまりいないとは思うが、そうはいっても市役所のロビーである。
 注②:どういう史実(事実)を切り取るか、が問題でもある。客観的事実とはいっても、どういう事実を採りあげるかは、主観である。ただし、事実の捏造があってはならないのはいうまでもない。

2017/07/25

島判官は、大友堀を本府建設の基軸として計画したか?

 昨日ブログをみずから読み直して、2箇所、気になるところが出てきてしまいました。
 1箇所は、次の一文です(太字)。 
 明治の初め、開拓使の島義勇判官は札幌本府を構想するに当たり大友堀(のちの創成川)を南北の基軸としました。
 
 私はこれに末注を付し、「『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、pp.48-61参照」としました。同書の同ページ記述を参照されたし、という意味なのですが、上記一文の根拠とした文献でもあります。
 同書同ページは故遠藤明久先生による記述です。私が直接的に根拠とした箇所を以下、引用します(p.49、太字)。
 明治四年策定の岩村判官の都市計画、つまり現在の札幌都心部の母型のそれは、要点を挙げるとつぎのものであった。
 1 島判官の計画を継承し、大友堀と銭箱通の交点を、札幌市街の区画計画の基点とする。現在の創成川の南一条通にかかる創成橋上の中央である。西側のビルの一画に測量の基点を示す「建設の碑」が建っている。


 「島判官の計画を継承し、大友堀と銭箱通の交点を、札幌市街の区画計画の基点とする」という文から私は、島判官もまた「大友堀と銭箱通の交点を、札幌市街の区画計画の基点と」していた、と読解したのです。(岩村判官が)「島判官の計画を継承し」た、ということは、島判官も同じ計画を持っていたのだろうと解釈しました。その上で、「大友堀と銭箱通の交点を」を「基点」とする、ということと同義的に、「大友堀(のちの創成川)を南北の基軸としました」と言い換えました。

 しかし。
 島義勇は、本当にそこまで計画(とまでいえなくても、構想くらいは)していたのだろうか? 『新札幌市史 第二巻 通史二』1991年を読み直してみました(pp.30-34)。この文献では、島の構想を伝える一次史料の「石狩大府指図」と「石狩国本府指図」について解題されています。しかし、どちらの図面を見ても、大友堀と銭箱通は明確には描かれてはいません。

 新市史の当該ページでは言及されていませんが、島が札幌本府建設に着手した頃(明治2-3年)の様子を伝える史料に、高見沢権之丞の「明治二巳歳十一月迄札縨之図」があります。拙ブログでもこれまで、おりおり引用させてもらっている有名な絵図です(北大図書館蔵)。
高見沢絵図 再掲 札幌本府建設前
高見沢絵図 再掲 札幌本府建設
 巻物になっていて、一枚は家屋が建つ前の原野、もう一枚は家屋が描かれています(末注)。
 これには、大友堀と銭箱道が具体的に位置づけられています。あたかも座標軸のように描かれている。大友堀と銭箱道を基軸として本府建設が実際に進められたことを物語る傍証になるとは思います。
 しかし。
 「だから、島義勇が計画(構想)していた」といえるか。
 
 なんで、ここで詰まってしまったかというと、原因は今週末に予定されている創成川東地区を歩く行事です(7月19日ブログ参照)。当日配布する資料に、冒頭の記述と同じような文言を入れたのですが、自信がなくなりました。参加者と一期一会であることが多い行事で、間違ったことをしゃべった場合、あとから訂正を伝える機会がない惧れがあります。一字一句、慎重にならざるをえません。もう一回、勉強し直さねばならん。

注:高見沢が明治8年に回想して描いたもので、2枚目は明治3年頃の様子とされる(『さっぽろ文庫・別冊 札幌歴史地図』1978年、p.33参照)。

2017/07/24

東8丁目通りは、どうしてできたのか ③

 建物疎開の話で寄り道しましたが、本題に戻ります。
 
 あらためて古地図を見ます。
明治34年札幌市街之図 東8丁目通り
 明治34年「札幌市街之図」から(復刻版)から抜粋しました。

 右端の赤い線でなぞったのが東8丁目通りです。念のため申し添えますが、この通りは昨日、一昨日ブログで記した東7丁目に「ナナメに割り込んだ」後の通りではありません。元の位置にあった通りです。
 この通りが明治初期の札幌区の区界に一致していることは、7月21日ブログで記しました。では、何を基準として境界線が引かれたのだろうか。
 一つ考えられるのが、創成川からの距離です。明治の初め、開拓使の島義勇判官は札幌本府を構想するに当たり大友堀(のちの創成川)を南北の基軸としました(末注①)。なので、創成川を基準として、一定の距離を定めたのではないかと私はまず思いました。
 前掲図で創成川(の中心線)から東8丁目(の中心線)まで測ってみると、約8丁(町)です(この地図の縮尺は1「丁」と表記されていますが、以下1「町」とします)。青い線でなぞった距離がそれです(末注②)。
 島の後を継いだ岩村通俊判官は、本府の街区を60間方形の格子割としました。60間=1町です。ならば前述の東8丁目通りまでの8町というのは、ちょうど8街区分ではないか。
 …と思うのは早計でして、これに道路幅が加わります。道路は(主要なものは別として)幅11間とされました。ということは、1街区の一辺の距離=60+11=71間です。
 ためしに、ゼンリン住宅地図で現在の1街区の距離を創成川以東の東1丁目や2丁目で測ってみたら、道路中心線から道路中心線まで129mでした。1間≒1.818mなので、換算すると70.95間!です。150年近く前に岩村判官が決めた格子割が今もそのまま遺っていることに、妙な感動を覚えます。

 創成川から東8丁目通りの間の8町=480間という距離を、1街区=71間で割り返すとどうなるか。整数値になりません。逆に71間の整数倍は、例えば×6=426間、×7=497間です。8町=480間という距離は、いかにも中途半端なのです。創成川から1街区71間を当てはめていって引いた線では、ない。

 次に私が想定したのは、当時の地理的条件です。
 札幌本府の基軸は、南北は創成川であることは前述しましたが、東西は南1条通りです。前掲地図で、南1条通りを東へまっすぐ進みますと、豊平川にぶつかります。ぶつかったところで直角に線を引く。ほぼ東8丁目通りに重なります。ただし、「ほぼ」です。地図上、道路を直交させている地点は、川の少し手前です。この地図の精度に疑問の余地はありますし、豊平川の流路が明治の初期とは変わっている可能性もあります。かなりアバウトに、創成川からキリのいい8町という数字で線を引いたのかもしれません。そのアバウトさが、のちのち東8丁目通りと一条大橋との齟齬をきたし、ひいては五差路交差点をもたらし、Ⅹ字形歩道橋を作る羽目になった…。

 ここで終わっても面白くありませんので、私はもう少し妄想の世界に遊んでみました。
 
 注①:『さっぽろ文庫50 開拓使時代』1989年、pp.48-61参照。以下、岩村判官の計画に関する記述についても同じ。
 注②:この8町という距離(メートル換算すると約873m)は、現在図上の創成川から東8丁目通り(ナナメに割り込む前の)までの距離とほぼ一致する。[つづく]
 

2017/07/23

東8丁目通りはどうしてできたのか ②

 札幌市は戦後の1948(昭和23)年から「疎開跡地整備事業」を始めます。これは戦時中に建物疎開した土地のうち都市計画上重要なところを元の所有者に返還せず、道路拡幅等に用いたものです。昨日取り上げた東7丁目の通りもこれに含まれ、1950(昭和25)年から52(昭和27)年にかけて拡幅されました(末注①)。

 1961(昭和36)年空中写真から、東7丁目の通り一帯を抜粋しました(国土地理院サイトから)。
空中写真1961年国土地理院 大通東7丁目
 赤い○で囲ったところが、現国道12号との交差点です。東8丁目の通りはこの時点でもまだナナメから割り込んできてはいません。しかし東7丁目の通りはすでに拡幅されています。昨日ブログに載せた1948(昭和23)年空中写真ではいかにも疎開跡地という気配でしたが、前掲写真では道路になっています。ただし交差点の北側(現北1条東7丁目)は空地のようです(末注②)。

 ところで、なぜ東8丁目通りを疎開せずに、東7丁目の通りのほうを疎開したのでしょうか?その理由を示す史料を見つけてはいないので憶測になりますが、一条大橋につながる道のほうを開けることを重視したのかなと思います。東7丁目のほうが空襲でやられたら、一条大橋からの交通に支障をきたす。
 この通りが拡幅された時点で、否、戦時中の建物疎開の時点で、元村~札幌村との交通路である東8丁目通りをナナメに割り込ませるのを都市計画の担当者は見込んでいたのかもしれません。

 1971(昭和46)年の空中写真です(同じく国土地理院サイトから抜粋)。
空中写真1971年国土地理院 大通東7丁目
 東8丁目通りが割り込んできています。そしてⅩ字形歩道橋も架かっています。

 それにしてもやはり、東8丁目通りがもう少し西にずれていたら、ナナメに割り込ませることはなかった。あらためて、東8丁目通りはどうしてできたか、次回以降逍遥します。[つづく]

 注①:『新札幌市史 第5巻 通史5(上)』2001年、pp.210-211参照。同書は本文で「東八丁目通」を疎開跡地としているが、これは「現在の」という意味であろう(昨日ブログ参照)。同書が掲載する「札幌市事務報告」1946(昭和21)年の疎開跡地の表には、「東七丁目線」となっている。
 注②:ゼンリン住宅地図1969(昭和44)年によると、この空地の一隅には交番が置かれている。 

2017/07/22

東8丁目篠路通の植樹分離帯

 国道12号のⅩ字形歩道橋から、北を眺めました。
東8丁目篠路通り 北1条東7丁目
 画像右方(東側)の広い道路が東8丁目篠路通り、左方(西側)の細い道が元からある東7丁目の通りです。
 この一帯は町名でいうと「北1条東7丁目」なのですが、7月19日ブログで記したように、くだんの「東8丁目」通りはナナメから入ってきて、そのまま「東8丁目篠路通」と称しています。

 Ⅹ字形歩道橋から、南を眺めました。
東8丁目篠路通り 大通東7丁目
 画像の右側(西側)は大通東6丁目、左側(東側)は大通東7丁目であるにもかかわらず、この通りは「東8丁目篠路通」です。ナナメから割り込んだほうの名前で上書きされてしまっています。

 ちなみにこの通りはご覧のように、道路の真ん中に植樹分離帯が付いています。現在図を見ると、創成川以東の中央区を南北に通じる道路で植樹分離帯があるのはここだけのようです。道路幅員にゆとりが感じられます。これだけ道路幅が広いのも「東8丁目」通りによる割り込みの結果だと私は思ってました。

 しかし、古い写真を観て、どうもそうではないことが判りました。
 1948年米軍撮影の空中写真(国土地理院サイト)です。
空中写真1948年米軍 国道12号×東8丁目通り
 現在の国道12号と東8丁目通りが交差する辺りを抜粋しました。黄色でなぞった東西に通じる道が国道12号、赤い線でなぞった南北の道が東8丁目通りです。Ⅹ字形の歩道橋は1969(昭和45)年竣工なので、まだ写っていません。東8丁目通りが「東7丁目の通り」にナナメに入って割り込んできたのも、やはり1969年頃です(末注)。この時点ではまだ、スナオにまっすぐ南下しています。

 この写真を見て、あることに気づいたのです。
 東8丁目通りは鉄道(函館本線)をまたいで通じており、この辺りでの主要道路となっていることが窺われます。しかし、気づいたのはそれだけではありません。東8丁目通りの西側の、東7丁目の通りです。部分的にですが、幅員が異常に広い。否。道路幅員が広いというのではなく、道路に接する民地とおぼしき一帯がところどころ空いていて、道路幅がやたら広いかのように見えます。

 東7丁目の通りの一帯を、拡大してみます。
空中写真1948年米軍 東7丁目周辺
 これは戦時中の建物疎開の痕跡ではなかろうか。

 現在この通りが植樹分離帯付きの広幅員なのは、建物疎開のたまものといえるのではないか。つまり、東8丁目通りが1969年に割り込んでくるよりもはるか前から道路を広げる素地があり、東8丁目通りを合流させる下地も、できていた。

 注:ゼンリン住宅地図1969年版、1970年版で確認。69年版ではまだナナメの道は付いていないが、70年版で付いている。70年版は前年69年の現況に基づいているとみられる。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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