札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/06/30

母、退院後3週間

 6月9日に退院した後、本日初めて外来で経過を診てもらいました。主治医の先生によると、MRI検査の結果は退院時よりも良くなっているとのこと。4月に手術を受けたとき「高齢者の場合、一回の手術でうまくいくことは少なく、二回三回必要になるかもしれない」と言われていたのですが、この調子でいけば再手術はしなくてもすみそうです。また、退院時には「自宅に戻った場合、(経口だけでは栄養摂取不良で)衰弱する可能性も高い」と言われましたが、体重は維持され、思いのほか元気に過ごしてきました。病院食や経鼻栄養よりは自宅で好きなものを食べるほうが、やはり良かったようです。それにしても、一昨年の骨盤骨折、昨年の大動脈瘤、今年の脳神経外科と、そのたびに母の回復力、生命力の強さには驚きます。
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2017/06/29

丘珠のサイロ その後⑤ または谷口農場の鉄車輪トラクター

 一昨日ブログに続き、東区丘珠町の谷口農場にあった鉄車輪トラクターの話です。

 同町のNさん所蔵の古写真(大正7年撮影とされる)に写るトラクターを、拡大して見てみます。
丘珠町Nさん所蔵古写真 谷口農場トラクター 拡大
 さて、これは北大第二農場に保存されている「マコーミックデーリング10-20形」か。

 第二農場に行って、同機種をあらためて写真に撮ってきました。
 陳列されている場所が狭いので、前掲Nさんの古写真と同じアングル、距離で撮ることができませんでした。そのため、前回撮った向きとは異なる三方から画像に収めました。
 
 まず、前掲古写真と同じ向きの左後方から。
マコーミックデーリング10-20形 北大保存 左後方から

 次に、右前方から。
マコーミックデーリング10-20形 北大保存 右前方から

 そして、右後方から。
マコーミックデーリング10-20形 北大保存 右後方から
 私には同定できませんので、ご覧になった諸賢の鑑定に委ねたいと思います。なお、Nさんは前掲古写真に写るトラクターを「実際には見たことがない」と言ってました。Nさんが谷口農場に勤め始めた(昭和10年代後半か)頃はまだ、鉄車輪の時代だっと思うのですが。一度、Nさんに第二農場の実物をお見せしたいものです。

 余談ながら、札幌建築鑑賞会で先日催した「大人の遠足2017初夏の編」で第二農場を散策したとき、講師のⅠ先生は牝牛舎にトラクターが陳列されていることに批判的でした。
 なぜかというと、たしかに牛舎は牛舎であり、本来の用途としてトラクターなどが置かれていたのではありません。しかも、ここは明治期の北海道有畜農業の歴史を語る場所です。大正から昭和期にかけてのトラクターは‘場違い’感が否めません。現在第二農場を担当している北大総合博物館研究員のK先生(農学部名誉教授)によると、このトラクターは前農場長のT先生のコレクションだったもので、「置く場所がないため、やむをえず置いている」というようなお話でした。博物館の案内ボランティアの方も、このトラクターは解説の対象にはしていないそうです。そのため、私が谷口農場と本件トラクターのことをお訊きしても、詳しい情報は持ち合わせていません。
 
 …という実情ではあるのですが、私は本件マコーミックデーリング10-20形に大いに魅せられてしまいました。また、谷口農場が我が国で初めて車輪型トラクター(ケース社1918年)を導入したこと、同農場で宣伝用リーフレットや絵はがきを作っていたことを、この展示で初めて知りました。正論は正論として、トラクターの実物を‘お蔵入り’させておくのは惜しい。理想的には、農業用機械の歴史をたどることができるミュージアムができればいいのでしょうけれど。しかし、そんなマニアックな展示に税金をかけるのもねえ。

 とまれ、谷口農場は北海道、否、我が国における機械化大規模農場経営の先駆けでした(末注)。その遺構のサイロが今も丘珠に遺り、建築年代も判ったのは私にとって収穫でした。サイロは後世に継がれてほしいものです。[おわり]

 注:展示史料や郷土史の文献によると、同農場は酪農(乳牛飼育)ではなく、牧草やエンバクの生産が主体だった。ただ、Nさんの話では牛舎もあったという。

2017/06/28

東皐園

 北区新琴似を通ったら、とある集合集宅の名前が私の目に飛び込みました。
東皋園ハイツ
 思わぬところで思わぬ名前に出くわした、というのが、私が抱いた印象です。
 
 集合住宅の名前というのは、こちらです。
東皋園ハイツ 拡大
 「東皋園ハイツ」。「皋」というのは「皐」という字の異体字で、「こう」と読みます。「とうこうえん」です。
 詳しい所在地は避けますが、とにかく新琴似です。「ほう、こんなところに東皋園を冠した集合住宅があるのか」と思いました。

 札幌の郷土史に通じている諸賢には、かつてこの名前の付いた花園があったことをご記憶の方もいらっしゃると思います。私は文献でしか知らないのですが、現在の東区北11条東1丁目あたりにありました。「かつて」というのは、明治の初期から昭和の中頃ぐらいまでです。造園家のRさんがご自身のブログでこの花園のことを、作った上島正(かみじまただし)という人物の足跡とともに簡潔にまとめておられますので、ご参照ください。⇒http://blog.sapporo-ryu.com/?eid=1681及びhttp://blog.sapporo-ryu.com/?eid=1680

 文献などでは「皐」のほうの東皐園と表記されていることが多いようですが(末注)、いずれにせよ東区の北11条あたりにあった花園の名前が、なんで北区の新琴似の集合住宅に付けられているのだろう? 私は固有名詞だと思っていたのですが、もしかしたら普通名詞なのだろうか。建物を写真に撮りつつ、帰宅してから文献とゼンリン住宅地図をひもときました。
 そして、上島正のご子孫がこの集合住宅の近くにお住まいであることを知りました。どうやら、東皋園ハイツは上島さんのご子孫が建てたものらしい。なかなかオツなネーミングをしたものです。東皐園が、こんな形で名残をとどめていたとは。

注:『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年の「上島正」の項には、異体字の「東皋園」と表記されている(p.99)。なお上島は厚別ともゆかりがある。『厚別 黎明期の群像』2013年に、上島が記した日記や描いた書画が詳細に解題されている(pp.64-76、pp.213-268)。 

2017/06/27

丘珠のサイロ その後④ または谷口農場の鉄車輪トラクター

 現在の東区丘珠町にあった谷口農場で使われていた鉄車輪トラクターの続きです。
 北大第二農場の牝牛舎内には、戦前から戦後に使われた農用トラクターが多く展示されています。その中に、谷口農場の鉄車輪トラクターの実物も陳列されていました。
北大第二農場展示トラクター マコーミックデーリング10-20形
 マコーミックデーリングMcCormick Deering10-20形という機種です。説明によると、この機種は1922(大正11)年に発売され、谷口農場では昭和初期に興農園(のちの五番館)から購入したそうです。価格は2,700円! 今の物価でいうと、ン百万円でしょうか。この実物が北大に引き取られた経緯は、昨日ブログで紹介した高井先生ほか執筆の論文に記されています。スクラップされないでよかったですね。

 さて、丘珠町のNさん宅で私が見せてもらった古写真に写るトラクター(一昨日ブログ参照)は、この機種でしょうか。一昨日のブログをご記憶の方は、少し不審に思われたことでしょう。Nさん所蔵の写真は「大正7年」すなわち1918年撮影とされています。しかるに前掲北大保存の機種が発売されたのは1922年という。撮影年が正しいとすると、同機種が世に出る前ということになります。

 Nさんの写真のトラクターが写っている部分を拡大して見てみましょう。
丘珠町Nさん所蔵 谷口農場古写真 トラクター
 この写真はクルマを後ろから撮っており、前掲北大の陳列物はクルマの前から撮ったので、比較しづらいのですが、ちょっと形が違うようにも見えます。どうでしょう。北大の実物の方が、エンジンルーム?の奥行きが長いような気がする。もう一度北大に行って、同じ向きで実物を撮って、比べてみよう。なお、Nさんの写真に写るトラクターは車輪が全部で6輪ありますが、後ろに付いている2輪は草刈り機(モウアー)と思われます。

 実は、前掲展示の一角に別のパネルも置かれていて、次のように記されていました(引用太字、原文ママ)。
 大正7(1918)年に谷口農場(札幌市)がわが国初の車輪型トラクタアメリカ図④Case社25馬力ホイールトラクタを導入した。

 文中の図④として添えられている写真が、こちらです。
Case社 ホイールトラクター
 前掲マコーミックデーリング10-20形よりも小ぶりな感じがします。導入されたという1918年は、写真の撮影年と一致しますが…。[つづく]

2017/06/26

丘珠のサイロ その後③ または谷口農場の鉄車輪トラクター

 昨日ブログでお伝えしたように、東区丘珠町の元T農場サイロの建築年代が昭和初期と判明しました。
 札幌建築鑑賞会が2005年以降、現存を確認した軟石建物の総計412棟中、昭和戦前期(1926-1945年)築の物件はこれで49棟となりました。母数に対する比率は11.9%です。ちなみに明治・大正期築は43棟(10.4%)で、合わせると92棟(22.3%)となります。昭和戦後期(1946-1964)年築は98棟(23.8%)です(2017.5.31ブログ参照)。なお、現存を確認した412棟のうちには、その後現在までに解体されたものも含んでいます。最近では6月23日ブログでお伝えした、北区篠路のカネヨK商店の倉庫です。このほかにも実は、拙ブログにまだ記していませんが、近年解体されたものがあります。これについては別途整理して、明らかにしたいと思います。

 さて、T農場に勤めていたNさんに見せていただいた古写真を考察します。
 昨日のブログに載せた古写真を私は‘お宝’発見と悦んだのもつかの間、最近これと同じ写真を別のところで見つけてしまいました。
 見つけた場所は、北大第二農場です。重要文化財の「牝牛舎」内に展示されていました。そのパネルがこちらです。
谷口農場リーフレット 北大第二農場 展示物 
 「○谷農場 御案内」という標題が付いています。原寸は判りませんが、同農場を紹介するリーフレットの複写と思われます(拙ブログではこれまで「T農場」と記してきたが、同農場は郷土史の文献にも載る歴史的存在なので、今後は実名で「谷口農場」とする)。
 前掲パネルの右下に載っている写真を昨日ブログで紹介した写真と見比べると、タテヨコ比は異なりますが、まったく同じ風景です。
 このリーフレットの左側には「鉄車輪トラクタを導入した谷口農場」と題して、次のような説明文が添えられています(引用太字)。
 日露戦争を契機にして軍馬とその飼料の需要が急速に高まり、明治27年に札幌興農園(小川二郎)が樽川に100haの牧草地を拓いたのを始めに、右のように谷口甚作氏も明治37年日露講和条約締結年に飼料生産農場を設置した。その後も日本軍の増強と共に需要が高まり、先駆的農家の規模拡大と生産の合理化・機械化、さらに各地で馬と飼料生産農場が続出した。(後略)

 第二農場牝牛舎には、「現存する鉄車輪トラクタ」と題した論文も展示されていて、読むことができました(末注)。それによると、1920年代に米国で開発された「マコーミックデーリング10-20形」という鉄車輪トラクターが谷口農場に導入されていたそうです。[つづく]

注:執筆者は「高井宗弘、高部悟」(北海道大学農学部)とあるが、掲載誌、執筆年は記されていない。

2017/06/25

丘珠のサイロ その後②

 昨日ブログの続きです。
 もう一度、現地に足を運びました。
T農場サイロ 再掲
 本件サイロは現在、S運輸という会社の敷地内にあります。

 この会社の人が何か知っているもしれないと思って、事務所に行きました。ちょうど事務所から初老の男性が出てこられたので、例によって尋ねましたが…。
 「会社の人間は何も知らないから…」と。「知らないから」の「から」には、「帰ってくれ」という命令に近い空気がにじんでいました。取りつくシマもなし。二の句を継ごうという間もありませんでした。空振り2回目です。2ストライクと追い込まれました。
 現地を立ち去りがたく、一縷の望みを抱いて近所にお住まいの方を訪ねました。このあたりは調整区域なので、古くからのお住まいとお見受けしたのです。お会いしたNさんとのやりとりは以下のとおり。
 私「お隣のサイロは昔、T農場のものだったと聞いたのですが、何かご存じのことはございませんか?」
 Nさん「私は丘珠小学校を出た後、T農場に勤めていました。サイロの中に入って、デントコーンの詰込みをしていました」
 私「えっ! そうだったんですか。 サイロはいつごろ建てられたものでしょうか?」
 Nさん「子どもの頃、軟石を積まれたのを見た覚えがあります。小学校に上がる前です」

 ‘三度目の正直’というのはあるものですね。Nさんは御年89歳とのことで、逆算すると、サイロが建てられたのは昭和初期、1930年代と思われます。幼少期のご記憶ですから幅をみた方がよいでしょう。Nさんにお会いして話が聞けただけで、それまでの空振り2回の徒労感は吹き飛びました。
 のみならず…。

 Nさんから、T農場を写した古写真を見せていただきました。
T農場 古写真 丘珠Nさん所蔵
 これは東区の郷土史の本にも載っていないもので、私は初めて見ました。靴の底をすり減らし、空振りを繰り返したからこそ、こういうお宝写真にめぐり逢える歓びはひとしおです。やっぱり、探偵は足で稼ぐものだなあ。

 この古写真には、手書きでキャプションが添えられています。
T農場 古写真 キャプション
 「牧●刈取●大正7年7月撮影」と読めます(●は判読困難、一つ目は「草」か)。

 写真には、T農場の頭文字「○谷」という印袢纏を着た人が機械を操作している風景が写っています。この機械は鉄製車輪トラクターと思われます。この鉄製車輪トラクターについては、先日別のところで史料を見ました。次回、考察します。[つづく]

2017/06/24

丘珠のサイロ その後

 本年2月20日ブログに、東区丘珠町に遺る札幌軟石製サイロのことを記しました。その後、探偵さながらにこのサイロの由来をたどりましたので、その顛末を報告します。
 土地の登記簿を追えば所有者はすぐわかるのでしょうが、前回のブログに書いたようにもともとの所有者がT農場であることに当たりが付きました。現在、N倉庫という名前の会社を経営しています。その所在地の東区苗穂町に、まず行ってきました。
 ただし、正直言って望み薄でした。私の記憶では、T農場が丘珠にあったのは遅くとも1980年代までです。30年以上も前の農場時代のことを、会社の今の人が知っているかどうか。しかもサイロが建てられたのは、それよりさらに前です。ネットで当該会社を検索すると、社長はT農場の経営者のご子孫と思われます。社長に取り次いでくれれば、かすかな可能性はあるかもしれません。
 会社に行ってかくかくしかじか用件を述べました。応対した社員の方は「うーん」と首をひねったきりです。私は「こちらの経営者の方がもともと営んでおられた農場だと思うのですが…」と誘い水をかけましたが、くだんの社員氏は「社長が知っているかなあ」と。「では社長に訊いてみましょう」とは言ってくれません。「ご存じのことがないかどうか、社長にお訊きしていただけませんか?」と喉まで出かかりましたが、「もし何か判ったらお知らせください」と連絡先を伝えて辞去しました。
 いかに鈍感な私でも、こういうときのその場の空気というのは察します。つまり、私が土地や建物などの歴史を調べるに当たって、お尋ねする持ち主や関係者がこちらに親和的であるかどうかの空気です。私の経験則でいうと、市街化調整区域にお住まいの方はおしなべて親和度が高い。逆に市街地で、人口密度が高くなるほど親和度は低くなる。今回の場合は後者に当てはまりました。先方が当方に協力する筋合いはまったく何もないのですから、致し方ありません。
 案の定というべきか、3か月近く経ちますが先方からはお返事はありません。空振りに終わっても、できるだけめげることなく(ある意味では、‘場の空気’にむしろ鈍感になって)、逆にそれを糧にして次の一歩を踏み出しましょう。それにしても、時空逍遥するようになって、靴底の減るのが早い。[つづく]

2017/06/23

篠路 カネヨ K商店石蔵

 6月19日ブログでお伝えした「丸〆街道」を歩いてみようと、篠路へ行ってきました。
 古道を歩く前に、現在の街道を通ったところ…。
篠路3条 Aさん宅 庭
 6月2日ブログに記したAさん宅のお庭は、綺麗に整地されていました。

 樹々が生い茂っていた頃の写真も前に撮っていたので、往時を偲び載せておきます。
篠路3条 Aさん宅 庭 2015年
 2015年春の撮影です。

 そしてこのたび、すぐ近くの別のところにも重機が入っていました。
篠路 カネヨ 石蔵 解体中
 ここは、つい最近まで建物があったのですが。

 あったのは、K商店の石蔵です。
 篠路 カネヨ 石蔵 2015年在りし日
 札幌軟石(画像は同じく2015年撮影)。建築年を確かめたいとかねがね思っていた矢先のことでした。

 軟石が一塊、残っていました。
篠路 カネヨ 石蔵 残骸
 解体中の現場に遭遇したのも、これを見納めるよう、軟石の神様が私を呼び寄せたのでしょう。
 
 近くで、小学生の下校の交通安全に立っていたおじさんが、ずっと解体工事を見守っていました。「Kさんの石蔵、解体されたんですね」と話しかけたら、「いたましいねえ。残しておけば、篠路の財産になったのだが…」と惜しんでいました。地元の町内会長をしていたTさんという方です。Tさんによると「昔は、近在の農家は皆ここから酒や味噌を買っていた」と。さらに「ここには古い大きな釜があったが、今は屯田の郷土資料館にある」とも。近いうちに行って確かめてこよう。

 大著『シノロ -140年のあゆみ-』(6月19日ブログ参照)を執筆したH先生に電話して本件をお伝えしたところ、H先生も残念がっておられました。
 取壊しの瞬間を目の当たりにすると、つい喪失感が募ってしまう私です。およそ万物は流転するものであり、個人の財産の処分に第三者が口をはさむ筋合いはないのですが。解体重機の鳴らす音、諸行無常の響きあり。

2017/06/22

北海道マガジン「カイ」 連載始まりました。

 ウエブ雑誌「北海道マガジン『カイ』」(㈱ノーザンクロス運営)で、当会協力の連載が始まりました。「札幌建築鑑賞会と歩く 愛され建築」というシリーズで月一回、半年間の予定です。どうぞご覧ください。
 初回は「サッポロ珈琲館 平岸店」です。この建物のことは拙ブログでも以前に紹介しました(2016.1.5ブログ参照)。今回は、そのエッセンスも加味した上で、建物を店舗として再生させた経営者の伊藤栄一さんの思いが綴られています。リンゴの貯蔵庫兼撰果場としての元の用途に喫茶店としての再利用が上書きされた、いわば歴史の重層的な積み重ねを感じとっていただければ幸いです。
 …と初回の出だしを喜んでいましたら、この建物のことが別のサイトでも取り上げられていました。「道新りんご新聞」ウエブ版です。しかも、そちらのほうが一足早い。先を越されました! いや、マスコミじゃあるまいし、「抜いた、抜かれた」などと料簡の狭いことは申しません。札幌軟石の建物がウエブ上でいろいろ発信されるのは喜ばしいことです。各サイトを読み比べてそれぞれの切り口、展開を味わっていただくのもよいかと思います。併せて、実際の建物に足を運んで珈琲も味わっていただけたらなお嬉しい。 

2017/06/21

西牧場2号橋(承前)

 昨日ブログでお伝えした「西牧場2号橋」の謎解きです。
 
 橋名は、この通りの名前に由来するのではないかと思いました。
西牧場第2号通
 「西牧場第2号通」です。
 
 位置関係を地図で確認しておきます。
昭和10年地形図 西牧場周辺
 昭和10年地形図から抜粋しました。赤い○で囲ったところが、現在西牧場2号橋があるあたりです。この時点ではまだ道路が敷かれていません。では、現在の西牧場第2号通の原形となった道は、というと、濃い茶色でなぞったのがそれです。この道を北西に延ばしていって赤い○までいったところで後年架けられた橋が、西牧場2号橋です。 
 橋名の2号は、通り名の第2号のことではないか。そう考えると、「1号橋」がないことの説明がつきやすい。
 
 しかし、まだ疑問は残ります。西牧場第2号通ということは、「第1号通」があるのか? そもそもなぜ「西牧場」なのか?
 札幌市北区役所発行の「北区ガイド」に載っている地図を見ても、「第2号通」は書かれていますが、「第1号通」は見当たりません。ただし、郷土史の文献を見ると、どうも「第2号通」の南側を通る道路が「第1号通」だったようです(末注①)。前掲地図で薄い茶色でなぞったのが、その道です。この道は北西へ延ばしていっても、赤い○のところへは達しません。道路が新川と平行していないため、途中で新川にぶつかってしまうからです。よって、第1号通に因む「第1号橋」は存在しなかったのでしょう。
 
 次に、なぜ「西牧場」なのか。
 結論的にいうと、現在の新川条丁目の一帯にはかつて、「西牧場」と呼ばれた地区がありました。前掲図で橙色で囲ったところが西牧場です。ちなみに、現在の琴似栄町通を境目にして、その東側が「東牧場」でした(末注②)。地図を見ると、現在の「西牧場第2号通」は、かつての「西牧場」の一帯とは一致しません(末注③)。西牧場が市街化されていったことにより、域外の縁辺部の道路名や橋名に名残をとどめることになった。私の推理です。

 西牧場第2号通に面して、サイロと牛舎が遺っています。
こすもす保育園 なんちゃってサイロ
 というのは目の錯覚で、なんちゃってサイロです。

 その近くの「新川サイロ公園」にも…。
新川サイロ公園 
 なんちゃってサイロがあります。
 
 注①:『新川百年』1990年、p.600掲載の現況図に、「西牧場第一号線」「第二号線」という表記が見られる。ただし「第一号線」がのちに「第1号通」となったかどうか、断定はできない。また、現在の「第2号通」はかつての「第二号線」のうちの、天狗橋以西である。
 注②:『新川郷土史』1980年、p.16、『新川百年』pp.51-53参照。ちなみに、現在「第2号通」が通るあたりはかつて、「部有地」と呼ばれた。「新琴似兵村部落会所有地」の略称という。
 注③:『新川百年』によると、西牧場第一線、第二線(第2号通)はさらに前、「裏二番通」「裏一番通」と呼ばれた(p.623)。これは、新琴似屯田兵村の「一番通」「二番通」…の「裏」の通りということか。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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