札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/05/31

伏古 Sさん宅元タマネギ倉庫

 屋根の棟(むね)に換気口が付いていることと伏古という土地柄から、タマネギ倉庫と見ました。
伏古 Sさん宅元タマネギ倉庫
 が、5月28日ブログでお伝えした東苗穂・Tさん宅倉庫同様、本件も妻壁に家紋が彫られ、棟飾りも載せています。和風在来的な蔵(商家や質屋さんなど)のDNAが感じられる(末注①)。

 持ち主のSさんに伺うと、やはりタマネギ倉庫だったのですが、建てられたのは「65、6年前」とのことです。引き算すると、1951-52(昭和26-27)年の築。東区のタマネギ倉庫は昭和30年代に建てられたものが多いので、早いほうの部類になります。Sさんは「子どもの頃、(建てられたのを)かろうじて覚えている」と言われました。また、「‘札幌黄’は、うちの先祖が開発した」とおっしゃったので、史料をひもといてみました。
 札幌玉葱販売農業協同組合連合会『札玉創立二十年記念誌』1970年に、次のように記されています(p.179、引用太字)。
 玉葱栽培の技術向上や品種の改良等は、一部精農家の向上心によるところが大きく、熱心な栽培者個々の好みと、経済性を目標にして、次第に分系化のみちをたどって来た。
 
 品種改良された「優良」「著名な系統」の一つとして、Sさんの先々代のお名前が載っています(p.180、引用太字)。
 東苗穂町伏古の○○○○○(引用者注:原文は実名)が、昭和八年在来種に輸入種の母球を一球ずつ交互に植えて交配種を作出、その後永年にわたる自家選抜により、採種を続けて来た系統で、球形、乃至わずかに下ふくれを呈する甲高の玉葱である。水はけのよい砂質土壌地帯では、品質、収量共にすぐれた成績をあげ、昭和四十三年度北札幌農協主催の玉葱多収奨励会には、当主○○□□(引用者注:原文は実名)出品の移植栽培圃場に於て、規格内収量(L・M・S規格品の合計)九、六三○㎏(一〇アール当り)という驚異的な高収量を記録した。(後略、末注②)
 
 本件は、札幌黄を育てたシンボルともいえる倉庫だったのです。 
 札幌軟石建物の昭和戦後期(1946-1964年)築がまたまた一棟増えて、98棟(母数412棟に対する比は23.8%)になりました。
 
注①:和風在来的蔵の要素を遺さない‘典型的’なタマネギ倉庫については、2015.5.18ブログ参照。蔵と倉庫の違いについては、2017.2.16ブログ参照
注②:札幌市東区役所『札幌黄物語 ~幻の玉ねぎの今を伝える~』2013年にも、要約して記述されている(p.3、「札幌黄の系統文化について」)。
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2017/05/30

手稲前田・Tさん宅サイロと前田公園内のサイロ

 煉瓦造小端空間積みです。
手稲前田 Tさん宅サイロ
 基礎にコンクリートを廻し、中層部には鉄製のタガが嵌められています。屋根はすでにありません。軒にはデンティル(歯状飾り、ただし‘稲妻’蛇腹ではない)あり。煉瓦の平(ひら)面(=直方体のもっとも大きい面)が一部、黒ずんでいます。小口面(=直方体のもっとも小さい面)はそうでもないので、全体にまだら色に見えます。この黒ずみは何だろう? ‘焼き過ぎ煉瓦’かな。

 持ち主のTさんの話では、建てられたのは1965(昭和40)年頃らしいのですが、定かではありません。「たしか、煉瓦に(築年が)書いてある」とおっしゃるので、近づいて見てみました。
手稲前田 Tさん宅サイロ 築年
 煉瓦の下から8段目の一箇所に、コンクリートがはめられています。サイロでこのような銘鈑?が付けらているのは初めて見ました。左上方に「昭」と刻まれているようです。しかし、そのあとは摩耗していて読めません。残念。
 もともとこのあたりは明治期、「前田農場」だったところで、昭和戦前期に農地解放されました。Tさんもそのとき自作農となった一軒です(末注①)。酪農は1995(平成7)年にやめています。

 Tさん宅からバスでJR手稲駅方面へ帰る途中、前田公園(前田8条11丁目)で下車しました。
前田公園内サイロ
 公園内に、煉瓦造のサイロが遺っています。
 小端空間積みで、軒下のデンティルの形状が前掲Tさん宅サイロと似ています。煉瓦の焼かれ具合も、一部黒ずんでいて、ばらつきがある。

 のみならず…。
前田公園サイロ 築年銘鈑
 コンクリートの銘鈑?が、塗り込まれています。なんだか、前掲Tさんのサイロと双子の姉妹のように見えてきました。
 こちらのほうは文字がハッキリと読めます。「昭和三十年八月八日 札幌市南十五(ママ)西十丁目 酒井千代三氏 作工」。「作工」した「酒井」さんに「氏」と付けられていることからすると、これを刻んだのは施主かもしれません。煉瓦造でも、豊平区などに遺るサイロには、こういう碑文をを見た記憶がありません。手稲前田での、同時期の習わしだろうか。前掲Tさんのサイロも、昭和30年代築かもしれない。
 
 恥ずかしながら私は、この銘鈑?を見るまで、本件サイロをてっきり前田農場時代(明治-昭和戦前期)の遺構だと思ってました。1955(昭和30)年というのは、明らかに農地解放後です(末注②)。小端空間積みのサイロは、西区発寒の三谷さんところは別として、おおむね昭和戦後期(20-30年代)に普及しています。(末注③)。現地に足を運び実物をこの眼で確かめることが大事だなと、あらためて思い知りました。

注①:『東宮駐輦記念碑移設記念誌 知られざる手稲と加賀百万石~手稲前田と前田農場~』2013年、pp.35-38参照
注②:前田農場は1947(昭和22)年に農地解放・自作農創設が完結している。前掲書p.63参照
注③:喜田信代「札幌市における昭和期の煉瓦造建築」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第39号2000年、pp.1-17参照

2017/05/29

手稲前田 O牧場サイロ

 サイロの煉瓦は長手積みです。
手稲前田 O牧場サイロ
 持ち主のOさんによると、1950(昭和25)年、Oさんの父が分家したときに建てられました。使われていたのは2002-03(平成14-15)年頃までで、その後はバンカーサイロに変えたそうです。バンカーのほうが低コストとのこと。隣接の牛舎で今も牛が飼われています(末注)。

 注:飼牛の衛生管理上、許可なく立ち入るのは厳に慎みましょう。前掲画像はOさんのお許しを得て近づいて撮りましたが、サイロは道道石狩手稲線の路上からも垣間見えます。

2017/05/28

東苗穂 Tさん宅元タマネギ倉庫

 東苗穂の軟石建物です。
東苗穂 Tさん宅元タマネギ倉庫
 軟石の表面仕上げはツルメ、屋根の棟の中央に換気口、両端に棟飾りが付いています。 

 妻壁には彫られているのは家紋でしょう。
東苗穂 Tさん宅元タマネギ倉庫 家紋
 「丸に蔓柏」か。
 
 換気口と下屋(げや)がなければ文庫蔵のようにも見受けられるのですが、持ち主のTさんの話ではタマネギ倉庫でした。建てられたのは「昭和30年頃」とのこと。タマネギは5年前まで、作っていたそうです。現在は物置になっています。タマネギ農家の倉庫には苗字の頭文字(漢字またはローマ字)を妻壁に刻んでいるものを多く見ますが、本件のように家紋もあります。農家さんの好みでしょうか。
 これで昭和戦後期(1946-1964年)築が昨日ブログからまた1棟増えて、97棟。母数(412棟)に対する比率は23.5%になりました。

2017/05/27

東区本町 Kさん宅元タマネギ倉庫

 東区本町にある軟石の倉庫です。
東区本町 Kさん宅元タマネギ倉庫 西面
 いま「倉庫」と記しましたが、とある家具工房の作業場として再利用されています。建物の外観(窓がない、屋根に換気口と越屋根が付いている)と土地柄から、倉庫それもタマネギ貯蔵のそれとみました。軟石の表面仕上げは機械彫り、一部ツルメ。

 機械彫りですが、完全にのっぺらーっと仕上げるのではなく、四周をぎざぎざと縁取りして、額縁状に浮き立たせています。
東区本町 Kさん宅タマネギ倉庫 軟石表面仕上げ
 この仕上げ方は、東苗穂のNさん宅元タマネギ倉庫のそれと似ています。興味ある方はそちらをご覧になってみてください。Nさん宅元倉庫は、現在「宮田屋東苗穂店」として再利用されています。東苗穂5条2丁目です。

 軟石採掘に機械(チェーンソー)が導入されたのは昭和30年代後半と聞きます。東苗穂のNさん宅は1962(昭和37)年の築です。本件本町の倉庫も同時期ではなかろうか。もしかしたら石材業者も同じかもしれない。これはまんざら荒唐無稽な話でもないと思います。 
 すぐ近くに本件の大家Kさんがお住まいで、幸いお話を訊くことができました。Kさんによると、やはり元タマネギ倉庫で、建てられたのは「55、56年前」とのことです。引き算すると、1961-62(昭和36-37)年。軟石探偵の面目を保てました。
 タマネギ収蔵として使われていたのは「昭和50年頃」までで、その後は貸倉庫に転用され、1988(昭和63)年頃から現在の家具工房の作業場となりました。

 隣接している木造家屋も、基礎3段に軟石が積まれています。
東区本町 Kさん宅元タマネギ倉庫 北側面
 ここは家具工房の事務所になっています。

 軟石とは関係ないのですが、事務所の入口に、味のあるオブジェ?が立っています。
東区本町 Kさん宅元タマネギ倉庫 現家具工房前
 家具工房の方によると、以前に内装を請け負ったときのお客さんのものだそうです。そのお客さんが「そのうち引き取りに来るから」ということで預かっていたのですが、いつまでたっても引き取られず、やむをえず置いているとのこと。最近は近所の幼稚園の子どもが通園の際、このオブジェに挨拶するようになったとか。存在感が定着してしまったようです。

 話を軟石建物に戻すと、また1棟、築年が判明しました。昭和戦後期(1946-1964年=昭和20-30年代)築が、5月25日ブログの95棟から1棟増えて96棟に。母数(412棟)に対する比率も微増して、23.3%。
 積小為大、積小為大…と尊徳翁の教えを念仏のごとく唱えながら、歩いています。

2017/05/26

江別・角山の農場

 札幌から江別に行くバス路線、といっても国道12号ではなく275号の途上に、「農場前」という停留所があります。
角山 バス停 農場前
 場所は江別市角山です。

 ここに国営の農場があります。
角山農芸学園 
 バス停の名前は、この農場に由来すると思います。
 彼方にサイロが2棟、望めます。コンクリートかスチール製のようなのですが、視認できません。中に入って確かめたい気持ちを抱きつつ、断念しました。
 
 入口のフェンスに「関係者以外立入禁止 角山農芸学園」という看板が掲げられています。
角山農芸学園 関係者以外立入禁止
 画像でご覧のように、フェンスといっても、横から簡単に出入りできそうなユルさなのですが、ここは面白半分遊び半分というのは通じない場所です。「サイロの建材を調べる」というマジメな目的が半分であったとしても、アポなしでいきなり中へ入っていくのはためらわれます。一見ユルく見えますが、ここはいわゆる「塀の中」なのですから。
 札幌刑務所『施設のしおり』によると、「角山農芸学園」の敷地面積は1,202,103㎡です。刑務所本所の面積は272,851㎡で、その4倍以上に当たります。広い。
 地図を見ていただくと実感できるのですが、この「学園」は三方を川に囲まれています。豊平川、旧豊平川、厚別川です。一見ユルそうな空間に見えて、実は地形を生かした立地なのだなあと、妙なところで納得しました。

 さて、この「学園」で現在、作業に従事しているのは何人くらいだと思いますか? 2013年に行われた同刑務所の「施設見学会」でお聞きしたところでは、当時1,323名の収容人員中、「4、5名」とのことでした。少ない。
 ちなみに、1982(昭和57)年には収容者1,111名中「農耕」が14名、「牧畜」が12名でした(同年12月3日現在、同刑務所『要覧』)。「農耕」と「牧畜」の全員が「学園」で作業していたかどうかは判りませんが、たぶん大半がそうだったことでしょう。なんでこんな資料を私が持っているかというと、三十数年前にも「塀の中」を見学したことがあるからです。当時の定員は1,062名で、それを上回る人員を収容していたのですが、2013年にはさらに200名以上増えているのですね。しかし、「学園」での作業者は減っています。社会の縮図といえるのかもしれない。サイロも、使われていないのだろうなあ。 

2017/05/25

大野地 Wさん宅サイロ

 大野地(北区篠路町拓北)のWさん宅サイロ遺構です。
拓北 大野馳 Wさん宅サイロ 近景
 Wさんによると、建てられたのは「70年くらい前」とのこと。
 戦後の1940年代後半(昭和20年代前半)というところか。隣接する煉瓦造は元牛舎で、こちらは「54、5年前」だそうです。55年前として、1962(昭和37)年の築。屋根のトタンが新しそうなので、葺き替えられた可能性があります。酪農は「35~40年前」までしていて、多いときで成牛20頭、仔牛10頭を飼っていました。
 2005年以降現存を確認した軟石建物(その後現在までに解体されたものを含む)は1棟増えて、これで412棟になりました。本件は前掲画像でご覧のとおり屋根が欠落していますので、現状で「建物」といってよいか疑問の余地はあります。が、札幌軟石が遺っていることに敬意を表し、建物として数えたい。昭和戦後期(1946-1964年)築が95棟となり、母数(412棟)に対する比率は23.1%に微増しました。

 さて、本件サイロの近くには公共施設が2棟、あります。
大野地 消防分団詰所 会館
 手前は消防分団の詰所で、奥は「拓北大野地会館」です。

 火の見櫓には…。
大野地 消防分団火の見櫓 警鐘信号表?
 「警鐘信号表」の名残と思われます(2015.1.30ブログ参照)。これが遺っているのは珍しい。

 さらに、一隅には…。
大野地 地神碑 馬頭観世音碑
 地神碑(札幌軟石製)と馬頭観世音碑が建っています。

 地神碑については札幌市北区役所『続・北区エピソード史』1987年に記されています(pp.90-93、同じ内容が同区役所サイト「エピソード・北区」にも掲載)。
 私はたまたま空知管内奈井江町(2016.8.13ブログ参照)と北村(現岩見沢市)で見かけたのですが、どのように伝播したのか、興味深いところです。
 思いのほか見どころの多い大野地でした。

2017/05/24

拓北 大野地 Y牧場

 昨日に続き、北区篠路町拓北です。
拓北 Y牧場 遠景
 といっても、昨日お伝えしたⅠ牧場からは直線距離にして2.7㎞離れています。
 Ⅰ牧場はJR札沼線の北側で、今回は南側です。篠路町拓北という町名は、JR線の北側と南側に飛び地状態で残っています。その間は市街化されていて、「拓北(条丁目)」や「あいの里(条丁目)」などに変わりました。篠路町拓北が「残って」いるのは、調整区域です。
 JR線の南側のほうは、旧い地名で「大野地」と呼ばれていました(2017.2.14ブログ「おおやち」参照)。

 その大野地に、Yさんの牧場があります。ゼンリン住宅地図2002年では、サイロが2棟描かれているのですが、見渡したところありません。
拓北 大野地 Y牧場 近景
 Yさんに伺うと、サイロはスチール製だったのですが「10年くらい前に壊した」とのことでした。Yさんはもともと北47条東7丁目で酪農をしていて、この地に移ってきたのは1985(昭和60)年だそうです。スチールサイロはそのとき建てられました。札幌市が市街地の酪農家の移転事業を進めた時期に当たります(2017.5.9ブログ参照)。ちなみに北47条ではサイロは軟石製だった由。
 スチール製サイロを解体されたのが10年前=2007(平成19)年だとすると、22年の寿命だったことになります。Yさん曰く「(サイロは)老朽化し、故障して修理にコストがかかった」と。あらためてスチール製の薄命を想いました。現在は前掲画像にも見られるようにラップサイレージと乾草です。

 Yさんの牧場から500m余り北へ行ったところで、軟石サイロ遺構を見かけました。
拓北 大野地 Wさん宅 サイロ 軟石
 久々の‘発見’です。ツルメの跡に経年感が伝わってきます。役目を終えて久しそうでもある。隣接する家屋も住まわれている気配がないのですが、私が行ったときにたまたま(!)持ち主Wさんが畑を見に来られていて、話を訊くことができました。またしても、サイロの神様が私をして引き合わせた。
 消えるサイロあれば、遺るサイロあり。[つづく]

2017/05/23

拓北 Ⅰ牧場サイロ

 昨日お伝えした篠路Hm牧場から東方、彼方にサイロが3棟望めます。
拓北 Ⅰ牧場 遠景
 篠路町拓北のⅠ牧場です。

 コンクリートですが、これまで見てきたブロックとも異なります。 
拓北 Ⅰ牧場 サイロ 
 持ち主の方にお訊きしようと思ったのですが、人の気配が窺えません。

 サイロが面している道を別の農家の方がトラクターで通りかかったのでお尋ねしたら、「Ⅰさんはもう牧場をやめて、ここにはいない」とのことでした。
拓北 Ⅰ牧場 サイロ ステーブ
 さて、このサイロに用いられている建材は「ステーブ」のようです。新穂栄蔵『サイロ博物館』1995年で、私はこのタイプを知りました(pp.82-86)。ステーブstaveというのは、桶や樽の板のことです。同書によると、材質はコンクリートなのですが、基本ユニットはタテ76㎝×ヨコ23㎝×幅10㎝で、縦長に積みます。そして、この画像に見られるように、金属のタガが幾重にもかけられています。初めて見ました。
 
 Ⅰさんのところにはもう一棟、小ぶりなサイロが遺っています。
拓北 Ⅰ牧場 サイロ 煉瓦
 こちらは煉瓦です。小端空間積み。

 ですが、上から1/4の部分はセメントで塗り固められています。
拓北 Ⅰ牧場 サイロ 煉瓦 上層部
 ヒビの入り具合からして、元の素材は煉瓦かコンクリートブロックのようです。
 セメント仕上げの上端と下端にデンティル(歯状飾り、稲妻蛇腹)が廻されています。上端のほうは軒下飾り(軒蛇腹)ということでよく見ますが、下端(一種の胴蛇腹?)にも施しているのは珍しい。もしかしたら、いったん下のところまで作り上げて、そのあと継ぎ足した可能性もあります。このあたりも持ち主に確かめたかったのですが、残念です。

 いずれにせよ、前掲ステーブサイロ3棟に比べて、この煉瓦のほうが古そうです。国土地理院の空中写真を見たら、ステーブ3棟は1985(昭和60)年には写っていましたが、1981(昭和56)年には写ってません。1980年代前半築のようです。一方、煉瓦のほうは1961(昭和36)年にそれらしき画像が写ってました。

2017/05/22

篠路 H牧場サイロ

 北区篠路町篠路に行きました。町名でわかるように、調整区域です。
 「英藍高校」というバス停を降りて、目的地へ向かいました。
バス停 英藍高校
 何年か前に北区の北辺にある二つの高校が統合されてこの名前になったと聞きます。「えいあい」高校と読むそうですが、私は読めませんでした。重箱読みを例外だと思うクセがあるんですね、私は。英が「えい」なら藍は「らん」で、普通は「えいらん」でないか。ここの学校の生徒は「出藍の誉」を読めるんだろうかと、余計な心配をしてしまいます。いや、固有名詞に「普通」を持ち込むのが間違ってました。「篠路」だって、湯桶読みですもんね。‘重箱’の隅をほじくって、すみません。

 さて、この地を訪ねたのは学校が目当てではなく、ここから300mほど西です。
篠路 Hm牧場
 Hさんの牧場があります。北区には篠路町福移にHさんという苗字の牧場が2軒ありますので(本年5月8日ブログ参照)、こちらをHm牧場と呼びましょう。 
 Hm牧場には、ご覧のようにサイロが2棟、遺っています。「遺っています」と記したのは、Hmさんのご家族にお訊きしたところ、ここのサイロも今はもう使われていないからです。画像左方、小さいほうの白いサイロが1977(昭和52)年の築で、右方の緑色で背の高いほうがその「10年後くらい」に建てられました。前者はFRP(合成樹脂)製、後者はスチールです。前者の1977年というのはHmさんがこの地に移ってきた年です。その前は北区麻生町、さらにその前は北24条界隈でした(末注)。後者のサイロは福移の酪農団地にあるタイプと同型と見られます。福移のスチールサイロが建てられたのが1988(昭和63)年頃なので、年代的にも合います。
 本件Hm牧場では最盛時乳牛を150頭飼っていましたが、飼育搾乳は1990(平成2)年にやめ、現在は牧草と野菜作りだそうです。サイロは「メンテナンスが大変で、故障すると直すのにも手間がかかった」と言われました。
 
 これまで札幌のサイロを拝見してきて、一定の傾向があることが見えてきました。読者諸賢もお察しと思いますが、一つは建材の変化、もう一つは規模の変化(大型化)です。前者はおおむね、軟石・煉瓦→コンクリートブロック・コンクリート、セラミックブロック→スチールという流れを辿っています。そしてその流れとともに大型化してきました。しかも、大型化しつつ使用年数が比較的短いのです。生物の定向進化を彷彿させます。太古、恐竜は大型化して、ある時期突然、種としての寿命を終えた。スチールサイロが、ブラキオサウルスに見えてきた。
 
 注:Hm牧場は、福移のH-a、H-b牧場の本家筋に当たる。なお、Hm牧場には小さめのスチールサイロがもう一棟あったが、前掲スチール製を建てた時期に解体されたとのこと。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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