札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/03/31

阿部仁太郎 厚別旭町の屋敷

 厚別旭町の煉瓦造蔵を見つけたのは、私にとって‘発見’という範疇に入れたいできごとです。前にも記したように、発見というコトバを軽々に使うのを私は自戒するようになりました(末注①)。しかしこのたびは戒めを解きたい。その理由は以下の3点です。
 ①阿部仁太郎ゆかりの建物である。
 ②かなり古い建物である(昭和戦前以前か?)。
 ③煉瓦の積み方が、少々特殊である。

 ①②は持ち主のOさんからご教示いただいたことなので私の発見というのはおこがましいのですが、阿部仁太郎に関する知見と③を加味して、合わせ技一本で発見と表現させてください。 

 1948(昭和23)年米軍空撮写真(出典:国土地理院)から、厚別旭町界隈をトリミングしました。
1948年米軍空撮 厚別旭町周辺
 方位は1時半の向きが北です。厚別停車場通りを黄色の線、江別街道(現国道12号)を茶色の線でなぞりました。停車場通りが南北の方位とほぼ一致します。阿部仁太郎の屋敷があったのは、停車場通りと江別街道が交差する近くです(末注②)。私は赤矢印を付けた先が阿部宅とみました。

 その部分を拡大してみると…。
1948年米軍空撮 厚別旭町 阿部仁太郎屋敷?
 屋敷林とおぼしき黒い影の中に、わりと大きな家屋が写っています。この一画に煉瓦の蔵も写っているかもしれません。現持ち主Oさんによると、蔵はもともと道路に面して建っていたそうです。Oさんが買い取った1963年に曳家して、現在は道路から十数m奥まっています。

注①:2015.3.30ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-248.html 参照。世間では隠喩的な修辞で発見というコトバを使っているのかもしれないが、コトバを使う側と受け取る側の双方に隠喩という理解が必ずしもあるとは思えない。よって多用乱用は慎みたい。『広辞苑』第五版1998年によると、「発見」とは「まだ知られていなかったものを、はじめて見つけ出すこと」である。私は、「まだ知られていなかった」の前に「おおやけに」とか「一般に」と補って解したい。他の人々には知られているが自分は知らなかったというモノを「はじめて見つけ出」しても、それを発見とはいえまい。コロンブスが北アメリカに到達したのは、ヨーロッパ人にとっては「はじめて見つけ出」したことかもしれないが、アメリカ先住民のほうが先に「見つけ出」したのだから、コロンブスの発見とはいえない。もし彼が、「地球」という天体における「世界」の一地域としてアメリカを正確に認識したのであれば、発見といえるかもしれない。しかし、コロンブスは自分が上陸した土地をインドと思っていたようだから(西インド諸島の由来)、その意味でも発見とは言いがたい。

注②:『厚別中央 人と歴史』2010年、pp.33-34所収「昭和初期の厚別駅周辺・旭町付近図」参照
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2017/03/30

厚別旭町 煉瓦造の蔵(承前)

 厚別旭町に遺る煉瓦造の蔵です。 
旭町 O宅 煉瓦造蔵 拡大
 軒蛇腹、胴蛇腹、開口部周りに焼き過ぎ煉瓦を積んでいます。

 赤煉瓦の積み方は、一風特徴的です。
旭町 O宅 煉瓦造蔵 拡大②
 小端(こば)空間積みの一種と見受けましたが、札幌で一般的に見られるそれとは異なります。小端空間積みについては本年1月31日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-916.html で言及しましたのでご参照ください。そのときも小端空間積みのバリエーションタイプ(小野幌Sさん宅倉庫)を紹介したのですが、今回のはそれともまた違います。
 コトバで説明しようと思いましたが、ややこしくなりますので前掲画像と1月31日ブログに載せた‘標準形’の画像とをともかく見比べてください。標準的小端空間積みと比べると、本物件は煉瓦の数が節約できる一方、強度的には小野幌Sさん宅倉庫よりも増すと想います。それにしても、異なるバリエーションを同じ厚別区で二つも見つけると、何をもって小端空間積みの標準といってよいか自信がなくなりました。

 持ち主のOさんに伺うと、この蔵が建てられたのは「昭和の初めか、大正」時代とのことです。
 Oさん「昭和38(1963)年に、アベさんから蔵ごと土地を買った」
 私「アベさん? 阿部仁太郎さんですか?」
 Oさん「そう。この辺はまるごと、阿部さんの土地だった」
 私「蔵は何に使われていたのでしょうか?」
 Oさん「日記を保管していた。地主だったから、(小作の)農家とやりとりした書類だね。今はもう残っていないが」

 札幌のとりわけ南東部(旧豊平町、旧白石村方面)で阿部仁太郎(あべ にたろう)は、郷土史のいわゆるビッグネームです。そのゆかり(末注)の建物が今も厚別に遺っているとは、驚きました。Oさんの話からすると、文庫蔵だったようです。書類が残っていたら、白石村の歴史を伝える一級の史料になっていただろうなあ。可惜。

注:『さっぽろ文庫66 札幌人名事典』1993年によると、阿部仁太郎(初代)は1853(嘉永6)年生~1915(大正4)年没(p.20)。『輝く白石・厚別一二〇年の人びと』1990年によると、二代仁太郎は1939(昭和14)年没。私はおもわずOさんに「阿部仁太郎さんですか?」と口走ったが、Oさんが土地を買ったとき(1963年)は阿部家の三代目以降になる。

2017/03/29

厚別旭町 煉瓦造の蔵

 私が住んでいるところはかつて「厚別町旭町」といいました。現在の町名は「厚別中央」ですが、厚別停車場通りと国道12号には、バス停に「旭町」が遺っています。

 停車場通りです。
厚別停車場通り 旭町バス停
 先日来縷々綴ってきたようにメインストリートの座を譲って久しいのですが(2017年3月厚別区カテゴリー参照)、道道であり、バスは山本へ通じています。 

 沿線には「プレイゾンーン旭町」があります。
プレイゾーン旭町

 国道12号沿いには「アサヒ質舗」もあります。
旭町 アサヒ質舗
 旭町にちなんだ屋号かもしれません。煙突が煉瓦造です。この近くの交番も前は「旭交番」だったようですが、いまは「ひばりが丘交番」に変わっています。

 さて、その旭町で煉瓦造の蔵を見かけました。 
旭町 O薬局 煉瓦造蔵
 私は旭町あらため厚別中央に住まうこと四半世紀になんなんとし、この蔵はこれまでも網膜に何度か映っていたかもしれません。しかし悲しいかな、網膜に映った刺激が視神経を伝わらなかったか、脳みそが情報として認識しなかった。またしても、しかも自らの膝元にして「視れども見えず」です。[つづく]

2017/03/28

黄金町クラブ 補遺

 本年2月18日ブログで、東区丘珠町にある「黄金町クラブ」について記しました。
 ↓
 http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-935.html
 「『黄金』は、タマネギの豊作を願っての命名ではないか」と、私は想ったのですが。

 『丘珠百三十年小史』2001年に、「黄金」の由来が記されていました。まとめると以下のとおりです(pp.126-128)。
・戦後の一時期、食糧対策として現在の丘珠新栄団地の一帯が造田された。水田地帯の東西に通じる道路を、「黄金色に輝く稲穂」の中心を通るから「黄金道路」と呼んだ。
・この地域はもともと「丘珠八区」と呼ばれてきたが、1998(平成10)年、丘珠町内から単町として独立するに当たり住民アンケートにより町内会名を募った。道路名に因み、黄金と冠するのがふさわしいということになった。

 「黄金町クラブ」は、1993(平成5)年築の旧称「八区クラブ」だったものを町内会名に合わせて変更したようです。ということで、黄金はタマネギ由来ではないと判りましたが、幻覚妄想癖がこびりついた私にはあの建物が依然としてタマネギに見えてなりません。
 ちなみに、道路名の「黄金」は札幌市の市道名にもなっているそうです。ゼンリン住宅地図2002年を見ると、この道路が北丘珠4条4丁目で「雁来新川」に架かる橋には「黄金橋」とあります。
 

2017/03/27

おおやち 補遺②

 3月23日ブログの続きです。
 「やつ」「やち」をアイヌ語由来とする説について、山田秀三先生の否定的見解を紹介しました。『関東地名物語―谷(ヤ)谷戸(ヤト)谷津(ヤツ)谷地(ヤチ)の研究』をかいつまむと、おおすじ以下のとおりです。
 ・ヤト、ヤツ、ヤ、ヤチはもともと同義語で、アシなどの草の生えた湿原を意味していた。
 ・これらはいわゆる「東(あづま)ことば」(yat?)の名残である。
 ・稲作の普及につれて、山間の水田適地を「ヤト」「ヤツ」と呼ぶようになった。
 ・その後「ヤト」ヤツ」「ヤ」は山間の土地を指すようになった。これに「谷」の字を当てた。
 ・ただし「ヤチ」は原義の湿地の意味が残った。
 ・「ヤチ」は、地名としては関東北部(栃木、群馬の県北)に多く、普通名詞としても(山間ではなく)湿地の意味で使われている。
 ・その「ヤチ」が新潟や東北、さらには北海道に敷衍した。
 以上、便宜的に文末断定形で列記しましたが、先生はいずれも「…ではなかろうか」といった推量形で叙述していることを申し添えます。
 
 厚別区の「大谷地」や北区の「大野地」も、関東北部から東北に残った「ヤチ」の系譜と思えます。本年2月14日ブログで私は「大野地」を湯桶読みと記しました。大(おお=訓読み)+野地(やち=音読み)という理解ですが、もともと東ことばの「ヤチ」に漢字を当てたのだとすれば、「野地」は音読みというより絶妙な当て字というべきかもしれません。東北地方に「野地」や「谷地」という地名がどのように残っているか、興味深いところです。
 東ことばの‘yat’が太古、現在のアイヌ語の祖語と同じだったのではないかという妄想も起きますが、おそらく実証困難な世界でしょう。このへんでやめます。
 

2017/03/26

厚別停車場通りと厚別駅の位置関係 補遺

 4月22日に平岸の歴史を訪ね歩くツアーが催されます。案内するのは平岸の達人、伴野卓磨さんです。私が昨年10月に体験した伴野さんのツアーからすると、中身の濃さは受け合います。申込方法等の詳細は下記サイトをご参照ください。定員20名(応募多数時は抽選)、3月31日締切り。

https://www.doshin-apple-news.jp/2017/03/14/ブラリンゴ-札幌開拓の鍵は平岸の凸凹にあり-まち歩きツアーのご案内/

 さて、本題です。ここのところ過去の記事の補遺を続けています。札幌の時空を日々彷徨い、ひぐらしパソコンに向かいて心に移りゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ、ブログはついつい発信しっぱなしです。とはいえ、あとで間違いと判ったことはできるだけ正し、新たに得られた知見は補っておきたいと思います。
 3月2~4日ブログで「厚別停車場通りはなぜ、厚別駅正面から西にずれているのか?」を記しました。駅の成り立ちに起因するというのが私の推論でしたが、地形地質に因るのかもしれないと思い直しました。
 その根拠が以下の地図です。
札幌及び周辺部地盤地質図 厚別駅周辺
 産総研地質調査総合センター『札幌及び周辺部地盤地質図』2006年から、JR厚別駅周辺を抜粋しました。色分けは地質を示したもので、紫色が「先沖積層」、ピンク色が「泥炭堆積物」、水色が「谷底平野堆積物」、青色が「三角州堆積物」です。おおまかにいうと、地質の違いが地形にも影響していると思います。詳しくは国土地理院サイトの「色別標高図」で当該地域をご覧になるとお分かりいただけましょう。
 ↓
 http://maps.gsi.go.jp/#17/43.044515/141.461624/&base=std&ls=std%7Crelief&blend=1&disp=11&lcd=relief&vs=c1j0l0u0t0z0r0f1&d=vl

 前掲図に戻ります。 
 厚別停車場通りを黄色の線で加筆しました。厚別駅は黄色の矢印の先です。停車場通りは先沖積層のほぼ真ん中を通じています。西側は谷底平野堆積物、東側に至っては泥炭地が食い込んでいます。標高的にも、停車場通りがほぼ尾根筋に当たります。ちなみに、現在の駅前メインストリートである「厚別西通り」は、泥炭地から谷底平野堆積物の上を通っています。ここまでは、3月2~4日ブログを裏付けます。
 さて、厚別駅です。
 駅舎は先沖積層の上に位置している一方、停車場通りのすぐ真北は谷底平野堆積物の水色が迫り、三角州堆積物に連なっています。地形的にも、この部分は低い。駅舎のある辺りの方がわずか~に高いのです。駅舎は、西側の谷底平野の地質と地形を避けたのではないか。

2017/03/25

カッターの水飲み場 ④

 旧北海道庁立(のちに北海道立)図書館の1/100模型です。
旧道立図書館模型
 江別市にある現道立図書館の中に陳列されています。
 この模型をあらためて見て感心したのは、建物の前にあったニレの大木(通称:チャチャニレの木)まで再現されていることです。のみならず、黄色の矢印を付けた先に…。

 水飲み場(3月15、16日ブログ参照)まで、ちゃーんとあります。
旧道立図書館前 水飲み場
 添えられているキャプションによると、この模型は1966(昭和41)年に作られました。翌1967年、図書館は現在の江別市に移転します。同じ年、チャチャニレと水飲み場が姿を消しました(3月15日ブログ参照)。水飲み場が早晩撤去されると、模型制作時に判っていたのでしょうか。いずれにせよ、制作者の気持ちが伝わってきます。

 さて、道立図書館に行った目的はこの模型ではなく、本を借りてくることでした。大矢一人編『軍政レポート』という史料です。これはかいつまんでいうと、戦後占領軍が日本をどのように統治したか、当時の「軍政(ミリタリー・ガバメント)」組織が自ら記録したものです。カッターの水飲み場(大通公園「聖恩碑」のほうです)にまつわる伝説について手がかりが得られないか、ひもといてみました。
  

2017/03/24

母と暮らして ②

 2月上旬から母と同居して、ひと月半が過ぎました。1月末に転倒してアタマを打った予後を定期的に脳神経外科で診てもらっているのですが、おかげさまで今のところ小康を保っています。
 母と枕を並べて床に就く安心感を、2月11日のブログに記しました。独居による事故を心配しなくてもすむようになったからですが、私の安心感はどうもそれだけでないと最近気づきました。四十数年ぶりに母と寝起きをともにすることそれ自体が、私に安らぎをもたらしているのです。いわば原体験への回帰による心地よさでしょうか。
 今になってようやく、という境地です。ここに至るまでは時間が必要でしたが。母が二度わらし化しているおかげでもありますね。

2017/03/23

おおやち 補遺

 本年2月14日ブログで、「谷地(やち)」について記しました。
 ↓
 http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-931.html
 その末注に、谷地の類語「やつ」の語源をアイヌ語由来とする『広辞苑』第五版からの引用を付けています。正確には、同書は「アイヌ語からか」とあり、断定はしていません。ちなみに別の辞典を引くと、『新明解国語辞典』第六版2005年では「やち」の項に「【谷】〔もと、アイヌ語〕沢などの湿地。やつ。『谷地』とも書く」と記されています。こちらは断定形です。
 
 「やつ」「やち」はアイヌ語か? 気になって、文献を漁ってみました。
①知里真志保『地名アイヌ語小辞典』1956年、p.144、145
 yachi やチ どろ(泥)。(=yatchi) 
 yatchi やッチ 【ホロベツ】どろ(泥)。(→民譚集、42) 
②萱野茂『萱野茂のアイヌ語辞典』1996年、p.448
 ヤチ【yaci】 谷地、泥 
③田村すず子『アイヌ語沙流方言辞典』1996年、p.834
 yaci ヤチ 【名】湿った泥
④本多貢『北海道地名分類字典』1999年、p.210
 谷地(やち、留萌・増毛町の字町名、檜山・奥尻町の地名)ヤチyati=泥、湿地、泥炭地。ヤチがアイヌ語かの疑問に知里小辞典yachi、yatchi泥とあり、広辞苑「谷、谷地で①湿地、やつ②北海道で泥炭地の俗称」と純粋日本語扱い。
⑤平山裕人『アイヌ語古語辞典』2013年、p.334
 ヤヂ ①谷地 ②谷地、泥(ヤチ)(※日本語からの外来語か)
 
 ①の「民譚集」というのは引用出典と思われますが、同書「はんれい」の「7 引用文献略記」に列挙されている書名に該当するものがありません。 【ホロベツ】は「単語の採集地または使用地」で、「胆振国幌別町」(現登別市)。ちなみに幌別は知里先生の生地です。③は、yaciを田村『アイヌ語音声資料』からの引用としています。④は、北海道の地名を「アイヌ語地名」「ふるさと地名」「人名地名」「あやかり地名」「仮名地名」の五つに分類し、「谷地」を「アイヌ語地名」に含めています。ただし広辞苑を引用して「純粋日本語扱い」と述べていますが、広辞苑の何版か不明です。前述のとおり第五版には「アイヌ語からか」と記されています。なお④では「大谷地」を2件(厚別区大谷地と黒松内町の字名)、「あやかり地名」として収録しています(p.293)。

 山田秀三先生が昭和30年代から関東地方の「谷地」を調べていたことを知りました。『関東地名物語―谷(ヤ)谷戸(ヤト)谷津(ヤツ)谷地(ヤチ)の研究』1990年にまとめられています。私なんかがばくぜんと抱いていた疑問を、しかも最近になってようやくおぼろげに焦点が合ってきたことを、先生は半世紀以上も前、すでに明確な問題意識として持ち、詳細に実地調査を積み重ねていた。
 関東におけるヤト、ヤツなどの分布から歴史的経緯が考察されていて、内容的にも方法論としても勉強になります。先生はヤト、ヤツのアイヌ語由来説にもちゃんと言及していて、「賛成できない」と述べています(pp.47-49)。先生の説はおおすじ以下のとおりです。
・アイヌ語説は柳田国男『地名の研究』に由来する。柳田がアイヌ語説の根拠としたのは、ジョン・バチェラー『アイヌ・英・和辞典』に収録された「Yachi A Swamp 沼沢」「Yachi-an Muddy, Swampy 泥の、谷地かかりたる」らしい。
・長年アイヌ語地名を調べてきたが、「ヤチという地名は見たことがない」。
・知里真志保に尋ねたら「ヤチなんてアイヌ語は無いと断言」した。
・バチェラーは主として道南でアイヌ語を採録していた。ヤチはおそらく、道南の一部のアイヌが東北地方から来た和人から聞いて使ったのだろう。バチェラーはそれを辞典に入れたのではないか。

 興味深いのは知里先生が自著(前掲①)で、yachi、yatchi を「泥」として収録していながら(末注)、山田先生に訊かれたら「ヤチなんてアイヌ語は無いと断言」したというくだりです。山田先生は知里『小辞典』を読んでいないわけがない。泉下の両先生に直接お尋ねしたいと切に思いました。
 
 注:知里『小辞典』には日本語由来の言葉も収録されていて、たとえば「yu ゆ(ゆー)」という語は「温泉。[<日本語]」と記されている。しかし、前述のyachi、yatchi には日本語由来の注記はない。

2017/03/22

ミツワデパート

 本年2月28日ブログで、「ミツワデパート」と刻まれた銘鈑のことに触れました。
 ↓
  http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-945.html

 札幌建築鑑賞会スタッフSさんから、この「デパート」にまつわる思い出を寄せていただきました。 

 琴似本通りは、中学生になる頃までの私にとって、“ちょっとしたお買い物”に出かける場所でした。「共栄市場」からJR琴似駅のほうへ歩いていって、「第一市場」の並びに「ミツワデパート」はあったように記憶しています。小学校の担任の先生の誕生日プレゼントを、クラスの女の子たち15人で買っていたのもココです。お小遣いを出しあって、時計屋さんで銀色のタイピンとカフスボタンを1000円で買ったことを思い出しました~! 安っぽいはずなのに先生は卒業式に付けてきてくれて、嬉しかった。

  こういうふうに小学校の卒業式を思い出せるなんて、素敵ですね。
 
 さて、ミツワデパートの現地を確かめてきました。
琴似 ミツワデパート跡
 駐車場になっています。2002年のゼンリン住宅地図を見ると、「プラザミツワ」というビルで居酒屋やカラオケ店が入っていたようです。その痕跡は見当たりません。仲通りに面して「ミツワパーキング」という駐車場もあったみたいですが、建物跡も含めて現在は大手のコインパーキングに名前が変わっています。
 その仲通りにまわってみると…。
㈱ミツワ 重機
 除雪用重機が一台置かれていて、腹に「㈱ミツワ」と書かれています(黄色の矢印の先)。不動産ではありませんが、名残物件といえましょうか。

 まち文化研究家にして札幌建築鑑賞会スタッフのNさんによると「一時期、なんでも『デパート』と付けた時代が札幌にはありまして、現 共栄市場さえも、共栄デパート だったんですよ。まだ、たしか古い看板あったはず」とのことです。
 これは私も目撃していました。
共栄デパート 看板
 そういえば、古い住宅地図を見ると「○○百貨店」と書かれていたりしますね。東屯田通の電停のそばに「ベンリー百貨店」というのを見た記憶がありますが、いまでもそんな名前でしたっけ。

 ついでながら、琴似で見かけた名残物件をもう一つ二つ。
ダイエー 名残 琴似
 黄色の矢印の先に「ダイエー琴似店」と。

 地下鉄琴似駅のバスターミナルでは…。
琴似バスターミナル ソフィア中村
 バスターミナルにこういう鏡が貼られていること自体、私には珍しくも映るのですが、どうでしょう。かてて加えて「ソフィア中村」の広告がレトロ感を弥増してくれます。バブルの形見ならぬ姿見か。
 
 本ブログをご覧の方にはお察しのことと思いますが、公共的な標識類についてはアラ捜しをしているのでは決してありません。「古いままだから直すべし」と求めるのとはむしろ真逆の、珍重思想です。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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