札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/02/28

琴似 「喫茶 庵」

 一昨日のブログで、琴似の「喫茶 庵」が閉じられたらしいことをお伝えしました。
 札幌建築鑑賞会スタッフNさんが昨日、現況を確かめに行ったところ、突出し看板も撤去されていたそうです。

 私が一昨日載せた画像に写っていた看板です。
琴似 喫茶庵 看板
 これがなくなったということは、「庵」の名残が外観上すべて消し去られたといってよいでしょう。私はその直前に看板を見納めたことになります。私が一昨日、琴似に引き寄せられたのは、神様が仕向けたのだろうか。Nさんによると、「庵」は1月24日から休業していて、貼り紙も貼られていたそうですが、完全に閉店のようです。
 Nさんのメールには「私にとって、琴似の良心といえる店でした」と記されていました。私は数年前、心身ともに疲弊していたころ、ときどきこの店に寄ってました。今となってはなつかしい思い出です。

 琴似の名残といえば、こちらの表示板は今も遺っています。
メシアニカビル 名残
 「メシアニカビル」の今は亡き「くすみ書房」。くすみもまた、琴似の良心といえる店でした。否、西区の、札幌の良心ともいえる書店だった。地下1階「ソクラテスのカフェ」でのひとときは、私が一時期を生きながらえる‘よすが’になっていました。久住さんには、2000年と2003年に札幌建築鑑賞会で『さっぽろ再生建物案内』を出版したとき、お世話になりました。

 もう一店、琴似にあった本屋といえば、地下鉄駅隣のビルです。
琴似 紀伊國屋ビル
 かつてここにも書店がありました。

 ビル名に名残が感じられます。
琴似 紀伊國屋ビル 銘鈑
 銘鈑に刻まれている「ミツワデパート」は、記憶がない。ご存じの方、お知らせください。

 琴似は古書店が多い街でもありましたが、この10年余で4店くらいなくなったと思います。
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2017/02/27

厚別歴史写真パネル展2017

 第7回「厚別歴史写真パネル展」が開催されます。
厚別歴史写真パネル展2017
 例年は秋に展示されていたのですが、会場のサンピアザのテナントの多くが昨年改修中だったので、今回は3月になりました。ご来場いただけたら幸いです。リニューアルオープンした店ともども、お楽しみください。
 とき:3月1日(水)~3日(金) 午前10時~午後8時
 ところ:サンピアザ1階「光の広場」(厚別区厚別中央2条5丁目 地下鉄「新さっぽろ」駅またはJR「新札幌」駅下車)
 主催:厚別区民歴史文化の会ほか


 期間中、アンケートに回答してくださった方に、記念のポストカード(1枚)が進呈されます。また、希望者には厚別区の略年表をお配りします。
 各日、午前11時と午後2時(3月2日は午後3時)に交流・談話会「1枚の写真が物語る厚別の今昔」が会場で開かれます。「厚別区民歴史文化の会」会長Mさんからのお薦めで、3月2日(木)午前11時の会に私も出ることになりました。

 全部で約50枚のパネル(各A2判)が展示されます。私はこのたび、3枚のパネル製作に携わりました。これも厚別歴史の会M会長からのお薦めで、札幌軟石に関するものを2枚と、厚別東の煉瓦造建物について1枚です。札幌軟石については札幌建築鑑賞会のこれまでの展示でおなじみであり、厚別東(小野幌)の煉瓦造建物は本ブログで先に紹介している(末注)ので、目新しいものではありません。しかし、いろいろな機会を通じて情報を発信し続けたいと思います。

 展示に当たり、私は厚別区内の軟石・煉瓦建物の持ち主の方にあらためて足を運び、催事の趣旨を説明し、承諾をいただきました。そういう積み重ねが、持ち主の方との気持ちの上での交流・共有につながるとも思うのです。大谷地で石蔵を持つⅠさんは一昨年の当会の展示を、上野幌の牧場主Hさんは昨年の中央図書館での展示を、それぞれ観覧してくださいました。もとより不特定多数の方にご覧いただきたいのですが、持ち主の方に来ていただけるのは弥増してありがたく感じます。
 先日、パネル展の準備会合で「厚別東の煉瓦造建物を紹介したい」と提案したところ、会合の後、出席者のお一人から声を掛けられました。「私は厚別東に住んでいて、あの煉瓦の建物のことは気になっていました。気になっていながら、一歩を踏み出すことができませんでした」と言われたのです。我が意を得たりと思いました。一歩を踏み出すか、踏み出さないか。報徳精神でいうならば、“積小為大”というところでしょうか。郷土史の既出文献にまだ載っておらず、地元の人にもあまり知られていない、とりわけ近過去のモノ・コトを掘り起こす醍醐味です。
 私は前にもたびたび記したとおり、人と話すのが苦手です。見ず知らずの方を訪ねる・尋ねるときはいつも心拍数が上がり、冷や汗が出ます。軟石や煉瓦の建物の持ち主に展示の承諾をいただくということも、「迷惑を掛けはしないか」と恐る恐るです。かように精神的重圧(大袈裟ですが)は大きいのですが、一歩を踏み出そうと思います。そんな思いが一枚のパネルに込められていることをお伝えしたくて、長くなりました。すみません。

注:2017.1.30ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-915.html 及び1.31ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-916.html 参照

2017/02/26

琴似本通り 有為転変

 2月15日ブログに「札幌建築鑑賞会スタッフにして電柱銘鈑採集の先達でもあるNさんやSさんによると、西区にはかなりマニアックな名前があります」と記しました。本日その電柱を確認しに行ってきたのですが、電柱名のことは後日報告することとします。それよりも気になったことがあったのです。

 久しぶりに琴似本通りを歩いて、変化を感じました。
喫茶 庵
 地下鉄琴似駅そばの「喫茶 庵(あん)」。
 どうも営業している気配がありません。たしかここは月曜定休だったはずですが。2階の入り口まで上がってみましたが、扉は施錠されていました。扉の上に、何か剥がされた痕がのこっています。「休み」という掲示も出ていない。突出し広告だけが名残のようです。昭和な喫茶店でしたが、閉じたのか。私はここでときどき、トーストセットを食べてました。お昼どきには焼き魚とかの定食メニューもありましたね。

 「高倉薬局」がステーキ屋に変わっている。 
高倉薬局跡
 ここは建物側壁の自店広告がアイストップになっていました。

 このたび見ると、一面料理の写真が貼られていて、ここに架かっていた薬局の宣伝が見当たりません。
 かつての看板は、これです。2年前に撮ってました。
高倉薬局 看板
 つくづく、「写真に撮っておいて良かった」と自己満足に浸れる看板です。琴似本通りを地下鉄駅から北上すると、この薬局の手前の建物がセットバックしているので、いやでもこの看板が目に入ったものです。

 真ん中に描かれている人の顔と体型のゆるい感じと臓器がいいですね。左肺のところの赤いのは心臓だとして、右大腿部付け根の上の赤い縦長の臓器は何なのでしょう? 
 「自神経失調症」。自律ではない。「痛み!で ホトホトお困りの方 ご相談下さい」。ホトホト感が伝わってきます。 
 今となっては、建物正面の「自然療法」「漢方」に薬局の名残を遺すのみか。琴似本通りを歩いたのは1年ぶりくらいですが、変わるものです。
 

2017/02/25

丘珠墓地(承前) 

 『丘珠百三十年小史』2001年に、「丘珠地蔵尊保存会」の会則が記されています。その第二条は次のとおりです(p.199)。
 本会は、丘珠地蔵尊に安置されている「丘珠開拓延命地蔵尊」及び「平和記念(ママ)地蔵尊」をまつり、先人開拓者と戦没者の霊を慰めるとともに、丘珠地域住民の家内安全、五穀豊穣を祈願することを目的とする。

 『丘珠百二十年史』1991年も併せて読んだのですが、平和祈念地蔵尊の由来については上記会則にある“戦没者慰霊”しか見当たりません。よってこの地蔵尊は左様に理解すればよいのですが、私は「戦没者」を深読みしてしまいました。1945年7月、丘珠の地で米軍の機銃掃射を受けて亡くなった人のことを想ったのです。
 丘珠空襲に関する史実は開成高校元教諭のH先生が掘り起しています(末注①)。H先生には、来たる3月4日の札幌建築鑑賞会「札幌百科」第14回「札幌は軍事都市だった?!」においでいただく予定です。私の深読みが当たっているかどうか、H先生にお聴きしたいと思います。 

 先日、私がお会いした丘珠町のNさんも、丘珠空襲を目撃したお一人です。Nさんは次のように語りました。
 ちょうどこの家の座敷から、米軍機が丘珠飛行場のほうを飛んでいるのを見た。そのとき(1945年7月)5歳だった。5機ぐらい飛んでいた。爺さん(Nさんの祖父)が最初、日本軍の飛行機だと思って(喜んで)万歳をしたのを覚えている。米軍機は間近に大きく見えた。自分の記憶違いかもしれないが、サメのような顔の白い(ギザギザの)歯が(機首に)描かれていた。

 Nさんの祖父が日本機と間違えて思わず万歳をしたというところに真実味が感じられます。北海道を空襲した米軍機は、グラマンF6F(通称ヘルキャット)といいいます。プロペラ機です(末注②)。これに「サメのような」顔が実際に描かれていたかどうか、私は知りません(末注③)。ただ、幼いNさんの脳裏にそのように映ったという記憶は、70年余を経た貴重な口承として受け止めたいと思います。

 丘珠空港の南側、緩衝緑地です。
丘珠空港緑地 米軍機銃掃射を受けたあたり
 かつて、このあたりをグラマンが来襲しました。

注①:「札幌空襲の実態」『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第2号1982年、「丘珠飛行場の60年」同第49号2005年、『語り継ぐ札幌市民の戦争体験(上)』2013年 参照
注②: 『語り継ぐ札幌市民の戦争体験(上)』p.26参照
注③:ネットで「グラマン ヘルキャット」を検索したところ、怖そうな動物の顔が機首に描かれた画像を散見した。

2017/02/24

丘珠墓地

 東区の丘珠墓地です。
丘珠墓地
 この画像は2015年5月に撮りました。
 そのときは近辺の札幌軟石の建物を調べることが主目的でもあり、「ああ墓地だなあ」くらいの気分で通り過ぎつつ、一応写真は撮っておきました。
 手前の黄色い看板に「この墓地は、札幌開拓時から現在まで引き継がれた、先祖を祀る神聖な場所です」(札幌市保健所生活環境課)と書かれています。市内にある古い由来の墓地の一つです(末注)。

 先日、丘珠町のNさん(2月16日ブログ参照)を訪ねた帰途、再びここに寄りました。
 墓地の一角に祠があります。
丘珠墓地 平和祈念地蔵尊
 今回は、ここでまじまじと立ち止まりました。
 立て看板には次のように書かれています。
 丘珠開拓延命地蔵尊 丘珠平和祈念地蔵尊 安置堂 平成十二年八月移設再建 丘珠地蔵尊保存会

 「開拓延命」のほうは、前述のとおり古い墓地なのでまあ判るとして、もう一つの「平和祈念」が気になりました。ここに「平和」の二文字がある意味です。何か説明がないかと見渡しましたが、今回は画像にあるように祠は雪に囲まれていて近寄れません。そのため由来などは確認できなかったので、例によって憶測しました。ただし、札幌の戦史をご存じの方は同じようにお察しするかもしれません。丘珠飛行場に関係します。私はたまたまNさんから話を聴いた直後だったので、思いを新たにしました。[つづく]

注:『聖地に星のまたたき 豊平墓地移転記念誌』1988年に、丘珠墓地について「明治五年ころ、自然発生的に墓地になったものとみられ、昭和一〇年二月、正式に墓地として許可された」と記されている(p.30)。 

2017/02/23

手稲本町バス停

 またまた、札幌建築鑑賞会スタッフSさん紹介の物件です。
手稲本町バス停
 「手稲本町」バス停。一昨日ブログの手稲横断歩道橋のすぐ近くにあります。

 Sさんにいろいろ見どころを教えていただきました。 
 待合所に書かれている名称が「JR北海道バス 手稲町」となっています。
手稲本町バス停 待合所
 「手稲本町」ではなく、「手稲町」という停留所名だったのですね。社名も「ジェイ・アール北海道バス」ではなく、「JR北海道バス」。Sさんによると、軒下に付いているスピーカーはバスの発着を知らせるためのものです。左方、配電盤のそばには住居表示番号のステッカーも貼られています。単なる待合所に住居表示番号が付されているのは、珍しいと思う。

 待合所内部、板が打ち付けられているところには、かつて券売窓口があったそうです。
手稲本町バス停 待合所 内部
 突き出ている手すりは、窓口当時の名残とのこと。「単なる待合所」ではなかったわけです。 

 壁に貼られている周辺案内地図がまた、古い。
手稲本町バス停 待合所に貼られている地図
 Sさん、「手稲追分」停(末注)に続き、どうもありがとうございました。

注:2016.10.15ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-816.html 参照

2017/02/22

歩道橋 追想

 私は歩道橋に思い入れがあります。いや、私の思い入れはいろいろなモノに対して中途半端にある、というべきですね。電柱、旧河道、二宮金次郎、バス停、踏切、高低差、微地形、メム、札幌軟石…。

 私が小学生のとき、通学路の途中に歩道橋が架けられました。「西尾張中央道」という広幅員の幹線道路がイナカを縦断して開通したためです。道路ができて間もないころは、保護者が交代で“旗振り”をしていました。子どもが道路に差し掛かったとき、保護者が「学童横断中」というような字を書いた旗をかざしてクルマの通行を一時停止させる行為です。それまでは田んぼの畦道のようなところばかり歩いて登下校していたのですが、いきなりクルマがびゅんびゅん通る道路ができて交通事故が心配されました。そのうち、歩道橋ができたのです。
 初めて歩道橋の階段を登ったときのことを覚えています。一段一段を心躍らせて、ありがたく踏みしめて上がりました。下段し終えたときは、物足りなくてもう一度登り直したい気持ちにすら、なりました。なんでそんなにありがたかったのか、今ではよく判りません。保護者の旗振りにとらわれずに、随意に道路を横断できるのが嬉しかったのでしょうか。クルマのために歩行者が必要以上のエネルギーを消耗しなければならない、などという不公平感は微塵にも抱かなかった。

 札幌市の公式サイトに「札幌市横断歩道橋の撤去に関する考え方」というページがあります。
 ↓
 http://www.city.sapporo.jp/kensetsu/dokan/hodokyo/hodokyo.html
 これによると、、市が管理する歩道橋は2013年12月現在、48橋です。そのうちの3/4に当たる36橋が1967-75年に架けられていることを知りました。昭和40年代の空気を伝える産物だったのですね、歩道橋というモノは。2013年以降、撤去が進み、2016年7月現在では42橋です。

 さて、昨日ブログで銘鈑の画像のみお見せした歩道橋の本体が、こちらです。
北3条東4丁目歩道橋
 「北3条東4丁目歩道橋」。
 赤い○で囲った2箇所、橋桁の真ん中へんの下に付いているのは、市電が走っていた当時の架線を固定するフックだそうです。

 前掲市サイトによると、昨年12月、本橋を撤去するという方針が決まりました。地元住民等が参加する市主催の協議会では、多くは撤去を積極的に要望したようです。中には「歩道橋の上からレンガ館を見るアングルが一番いい。私は、この前ものぼってきたが、それが見れなくなるのはちょっと残念」という声もありました。しかし大勢は撤去に賛成でしょう。無用の長物。老朽化して維持にコストが増す。危険ですらある。人間にやさしくない。負の遺産。私も、やむをえないと思います。「やむをえない」というと、賛成とはいえ消極的なニュアンスですが、自らの心情をおもんぱかるに100のうち99は撤去に賛成です。しかし「残念」という気持ちが1/100くらいはあります。前述したような原体験にもとづく感傷です。自分が生きた同時代を映すモノが消えゆく喪失感。
 撤去工事は本年5~6月という予定です。

2017/02/21

手稲横断歩道橋

 札幌建築鑑賞会スタッフSさんから情報提供いただいた物件です。
手稲横断歩道橋
 「手稲横断歩道橋」。

 橋名が書かれている隣、赤い○で囲ったあたりに注目です。
手稲横断歩道橋 痕跡
 塗装に濃淡が感じられます。うっすらと、四角い痕が見えませんか。

 Sさんによると、ここに銘鈑が留められていました。銘鈑が在ったときの写真を、Sさんが撮ってました。
手稲横断歩道橋 銘鈑
 Sさん、偉い!  
 「1971年11月」という建造年が読み取れます。製作は「株式会社釧路製作所」です。歩道橋でおなじみのメーカーですね。おなじみでない方は、下記2016.2.3ブログをご参照ください。

http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-558.html

 「おなじみ」というにはまだ物足りないので、もう一つ紹介します。
釧路製作所 1968年銘鈑
 1968年の作品です。さて、この銘鈑の歩道橋はどこでしょう? 札幌市内です。
 私は昨年、この歩道橋が近い将来撤去されると地元の方にお聞きしました。2016.2.3ブログで記した歩道橋はすでになく、前掲手稲歩道橋も銘鈑が剥がされており、さらにこの1968年作品もなくなるとなると、釧路製作所の功績が消されるような思いを致します。

 そういえば、わりと最近、釧路製作所の名前を新聞で読んだ気がします。同社(釧路市)で保存しているSLの車両にまつわる話題だったと思う。ネットで調べたら、同社は雄別炭礦が出資して創業し、SLは炭礦鉄道を走っていたものとのこと。なるほど。

 それにしても手稲横断歩道橋、なんで銘鈑が外されたのかな。ネジが腐食して落下したのかしら。一度外れたら、元には戻されないものか。だとすると、Sさんの写真は実に貴重だなあ。

2017/02/20

丘珠のサイロ

 東区丘珠町のNさん(2月16日ブログ参照)にお話を伺っていたとき、軟石つながりでサイロの話題になりました。
 私「丘珠高校のウラに、軟石のサイロがありますよね?」
 Nさん「あれは、T農場だ」
 来歴を知る手がかりが得られました。
 
 そのサイロというのは、こちらです。
丘珠 サイロ
 現在は運送会社の敷地の一隅になっています。軟石の表面仕上げはツルメ、屋根のトンガリ感が鋭い。運送会社の看板が貼ってあり、その真ん中に時計が架かっています。
  
 T農場の名前は、国土地理院地形図1950年「丘珠」に出てきます。このサイロの場所と一致します。『東区今昔3 東区拓殖史』1983年によると、モエレ沼の西側にT農場が開かれたのは1904(明治37)年です。しかしサイロの建築年までは記されていません。「昭和五十二年にモエレ沼の土地は、札幌市に売却し、近い将来は、一大水郷公園として生まれ変わる」と締めくくられています(pp.214-215)。
 ゼンリン住宅地図2002年では、この一帯にもはやT農場は見当たりません。が、しかし。私は名前に見覚えがありました。Tさんはたしか、苗穂町2丁目で倉庫業を営んでいたと記憶しています。苗穂に行けば判るのではないか。まるで刑事捜査のごとく(その実際を知っているわけではありませんが)足取りを追う気分です。

2017/02/19

学園都市線

 JR篠路駅のホームです。
JR篠路駅 駅名看板
 駅名看板の笠に、「学園都市線」と書かれています。札沼線の「愛称」です。

 私は不覚にも、この「愛称」は札沼線の一部、すなわち札幌駅から北海道医療大学駅までを指すと勘違いしていました。終点の新十津川まで、つまり札沼線全体をいうとは、思ってもみなかったのです。

 たしかに新十津川駅の看板にも学園都市線と書かれています。 
JR新十津川駅 駅名看板
 この愛称については、堀淳一先生が『北海道 地図の中の鉄路』2014年で「実態にそぐわない区間のほうが長い」と記すとおり、私も実際の車窓風景から「学園都市」という印象はほとんど受けませんでした。

 ウィキペディアの「札沼線」の項に、次のように説明されています(2017.2.19現在)。
 札沼線の名称は札幌駅と、かつて終点だった留萌本線石狩沼田駅から一文字ずつ取ったものであるが、1972年(昭和47年)6月19日に新十津川駅 - 石狩沼田駅間が廃止されたため実情に合わなくなっていたことに加え、沿線に北海道教育大学札幌校や北海道医療大学など学校が数多くあることから、1991年(平成3年)3月16日より学園都市線という愛称が付けられた。

 沿線に「学校が数多くある」ってホントですか? 例示されている二つの大学以外にどこがありますかね。桑園駅前の札幌市立大学か? しかし、桑園は函館本線の駅でもある。 ほかには? 月形高校? 高校が沿線に立地する鉄路は、札沼線に限らず多々あろう。営業キロ数に対して学校の存在密度が高いのだろうか。北海道医療大学より北の石狩月形から新十津川までは、「学園都市」とは到底思えないのですが。
 前掲堀著によれば、この「愛称」は1991年に付けられたそうです。国鉄の分割民営化の4年後です。「都市」に対する憧憬も命名から窺えて、時代を感じさせます。JR北海道はすでにこの時点で、医療大学から北の新十津川までの線区を「当社単独では維持困難」と見越していたのかもしれません。

 篠路駅近くにあるマンションです。
JR篠路駅近くのマンション 学園都市線

 「○○○学園都市線」という名前が付けられています(○○○はカタカナの固有名詞)。
JR篠路駅近くのマンション 学園都市線 銘鈑
 「篠路駅前」よりも「学園都市線」としたほうが買い手が付くとデベロッパーは判断したのでしょう。もしこの愛称がなく、「札沼線」のままだったら、採用されただろうか。時空逍遥の甲斐があるネーミングです。

 マンションの名前も、あだやおろそかにできません(末注)。

注:2014.9.9ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-45.html 参照

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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