札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2017/01/31

小野幌・Sさん宅の倉庫、サイロ②

 昨日の続きです。
小野幌 Sさん宅倉庫
 Sさん宅の倉庫は、リンゴ貯蔵用に用いられました。
 以下、リンゴと煉瓦に関する聞取りです。
 Sさんの先代が戦前に始め、1968(昭和43)年ころまでやっていた。先代は研究熱心で、農協の講習会で農薬や剪定、肥料のことなどを勉強していた。収穫作業は青森から季節雇用で来てもらっていた。リンゴは馬そりで江別にある王子(製紙)の社宅へ売りに行った。代わりに人糞を引き取って、肥料に使った。昭和30年代の早い時期にトラクターを導入した。
 倉庫の煉瓦は江別産で、たぶん米澤(煉瓦)さんだと思う。豊平の田中という煉瓦職人が積んだ。‘空間積み’で保温性があり、リンゴの貯蔵に適していた。今はジャガイモの種イモの保管に使っている。
 昭和40年代からこのあたりの宅地化が進んだので、土地を江別に求め、現在は江別でレタスやジャガイモを作っている。

 私は以前、平岸の歴史を調べて、リンゴの栽培は大変手間ひまのかかる作業だということを知りました(末注)。Sさんの先代は平岸の農家とも行き来して学んでいたようです。
 
 ここの煉瓦は、積み方が珍しいと思います。
小野幌 Sさん宅倉庫②
 いわゆる小端(こば)空間積みでよく見られるものとは、異なっています。

 札幌でよく見る小端空間積みは、こんな積み方です(豊平区平岸、Nさん宅元リンゴ倉庫の場合)。
平岸 Nさん宅元リンゴ倉庫 小端空間積み 拡大
 煉瓦の‘平’(=ひら、直方体の各面のうち、もっとも大きい面)と‘小口’(=もっとも小さい面)を、地面に対して垂直に、かつ交互にオモテに見せるように積んでいます。この積み方(すなわち小端立て)によって空洞が設けられ、保温断熱効果が高まります。

 小端空間積みで空洞ができる仕組みを、模型で示してみます。
小端空間積み 模型
 こんな感じです。

 しかるにSさん宅物件では‘平’のみが連続して並べられていて、‘小口’が間に積まれていません。 ただし、建物の隅角部や開口部の周りなどに、‘平’を地面に対して水平に積んだ箇所(小端立てではない、いわば平積み)が見られます。これでどうやって空洞が設けられるのだろう?

 Sさん宅倉庫の煉瓦組積法を模型で想像してみました。
小野幌 Sさん宅倉庫 煉瓦組積法 想像模型
 こんな積み方でしょうか。
 ‘平’と‘小口’を交互に並べる方法と比べると、煉瓦が節約できるかもしれません。  

 Sさん宅倉庫の煉瓦をもう一度、つぶさに眺めました。
小野幌 Sさん宅倉庫③
 ‘平’面がオモテに見えるので「もしや刻印は?」と思ったのですが、残念ながら見つけられませんでした。

注:2016.2.19ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-574.html 参照
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2017/01/30

小野幌・Sさん宅の倉庫、サイロ①

 厚別区小野幌、Sさん宅の煉瓦造倉庫です。
小野幌・Sさん宅の倉庫、サイロ
 現在の正式な町名は厚別東ですが、近くに小野幌小学校もありますので、小野幌としておきましょう。
 煉瓦の倉庫と並んで腰折れ屋根の納屋、奥にはサイロもあります(撮影は2016年6月)。

 可愛らしいサイロです。
小野幌 Sさん宅サイロ
 煉瓦は長手積み。軒下にデンティル(歯状飾り)が施されています。
 
 以下、Sさんからの聞取りです。 
 酪農は1952、53(昭和27、28)年から1962(昭和37)年までやっていた。サイロは昭和30年頃の築。(Sさんは)小学校3年のときから乳搾りをした。岩見沢の農業高校に通っていたときは、厚別駅で朝6時前の汽車に乗るため、その前に搾乳した。牛は多いときで3頭、飼っていた。当時、牛が2頭いれば、道の職員以上の生活ができると言われていた。もともと父の代からリンゴを作っていて、牛の糞をリンゴの肥料に使った。

 Sさんは「サイロはもう使ってないので、そのうち壊そうと思う。でも、頑丈だから、ちょっとやそっとで壊れないな」と語ります。「今もときどき屋根のペンキを塗り替えている。そうしないと傷むので。壊さないうちは、傷まないようにしないと」。「苦労はしたけど、そのおかげで栄養のある動物性たんぱくを摂ることもできた」。[つづく]

2017/01/29

稲積をめぐる既出情報の考察

 先日来、稲積農場や明治牧場について取り上げています。 

 「札幌市立稲積中学校」のホームページで次のように記されているのを知りました。
 「稲積」は、軽川・中の川・三樽別川に囲まれた中州で、明治35年(1902)に小樽の稲積豊次郎(いなづみ とよじろう)が農場を開いたことに由来している。JR線より北側の手稲北部一帯は、手稲山を源とする河川の下流部が集中していた泥湿地で農業には不適地であった。明治21年(1888)に完成した運河をかねた新川大排水溝と、これにつながる中小の排水路の建設や土地改良が行われ、酪農などの農場経営ができるようになった。明治27年(1894)旧加賀藩主15代前田利嗣公は、士族授産のための前田農場(420ha)を開設し酪農を始めた。(前田の地名の起こり)この後、明治末期から大正にかけ、極東農場や明治牧場などが開設され、現在の軽川以東には稲積農場(400ha)が開かれた。

「校名の由来と校区の歴史」というページから一部を引用しました(2017.1.30現在)。全文は下記サイトをご参照ください。

http://www.inazumi-j.sapporo-c.ed.jp/data/data.htm

 私が記してきたことと異なる部分を、以下に挙げておきます。念のため申し添えますが、「私が正しくて、先方が間違っている」と断定するつもりはありません。まずは異なる説を併記して、少しでも史実に近づくきっかけになればそれに越したことはない、という趣旨です。

●「稲積」は、軽川・中の川・三樽別川に囲まれた中州で、明治35年(1902)に小樽の稲積豊次郎(いなづみ とよじろう)が農場を開いたことに由来している。
 この文章だと一見、「軽川・中の川・三樽別川に囲まれた中州」の範囲内に稲積農場が開かれたかに読み取れます。あとのほうに書かれている「現在の軽川以東には稲積農場(400ha)が開かれた」まで読んで、400haを現在の地図に当てはめれば「中州」には到底収まらないと察しはつくかもしれませんが。
 なお、「中州」という表現はどうでしょうか? 中州というと、「軽川、中の川、三樽別川」の三川で囲まれた川中島(例えば、大阪の「中之島」や博多の「中洲」、パリの「シテ島」…)と解されるのではないでしょうか。当該一帯に中州は形成されていないと思います。「軽川、三樽別川、中の川が合流する一帯」というべきか。

●明治末期から大正にかけ、極東農場や明治牧場などが開設され、現在の軽川以東には稲積農場(400ha)が開かれた。
 この文章だと、極東と明治の両者が同時期に併存していたかのようです。昨日のブログで述べたように明治牧場は1940(昭和15)年に極東農場を引き継いで開かれたと聞きます。時系列的には、明治後期に稲積農場、大正期に極東農場(それを前身として、昭和になって明治牧場)という順です。
 稲積農場を「現在の軽川以東」とすると、極東農場の一帯と重なってきます。稲積農場と極東農場は同時期に併存していたと思われるので、両者の土地が重なり合うのは疑問が残ります。
 
 私がこれらの記述をあえて細部にわたって取り上げるのは、「稲積」を名前に戴く‘お膝元’の、しかも地域の歴史には詳しいであろう学校が作ったホームページだからです。いわば「信頼すべき情報筋」です。当否は読者に委ねます。

2017/01/28

稲積に遺る明治

 昨日の続きです。 
 「ていね稲積土地区画整理組合」の組合員には、「明治乳業」も含まれていました。対象地域の地権者の一員です。同社はかつて、この地で牧場を経営していました。『手稲開基110年誌 手稲の今昔』1981年には次のように記されています(p.153)。
 前田農場と稲積農場の間に、明治牧場の第一農場があった。
 ここは面積30町歩で、石狩地区の明治牧場800町歩の一部であった。
 (中略)
 近代式の2棟の赤塗りの牛舎と、2基のサイロは、鉄道沿線の車窓間近かに、北海道らしい風景を見せていたものであった。
 不幸にして、昭和38年1月突如起った火災のため、牛舎は全焼し、飼養牛30頭は尽く、焼死して、惜しくもこの由緒ある牧場は消滅した。

 
 手稲稲積公園の西方に、二つの街区公園があります。
稲積明治南公園
稲積明治北公園
 一つは「稲積明治南公園」(手稲区前田2条7丁目)、もう一つは「稲積明治北公園」(同区前田4条7丁目)です。明治の名が付いています。企業の名前を冠した公園というのも、珍しいと思う。

 この二つの公園を含む一帯に明治の牧場があったと思われます。前掲『手稲開基110年誌』に記された30町歩(≒30ha)という面積を現在の地図に当てはめると、おおよそ前田1~5条7~8丁目を占めます。なお、明治牧場の前身は、この地にもともとあった「極東農場」です。同農場を経営していた「極東練乳」が1940(昭和15)年、「明治乳業」に変わりました(末注)。
 先日来のブログで私は、このあたりも稲積農場の一角としていました。文献に残る稲積農場の面積などから推測したのですが、極東農場との境目がどこにあったのか、精査の余地があります。稲積農場の小作地が解放された後、その一部を極東が所有したのか。稲積と極東の土地はまったく別だったのか。あるいは、極東農場が明治牧場に変わった後、その範囲が旧稲積農場の域まで広がったのか。
 とまれ、その明治牧場もすでにありません。

 前掲二つの「明治」公園のほぼ中間に、「meiji」のロゴを付けた建物があります。
明治ミルクステーション 手稲宅配センター
 明治ミルクステーション手稲宅配センター。
 ここに明治の宅配特約店があることに、私は土地の記憶を嗅いでしまいました。

注:事実上、明治による買収とみてよいと思う。『東宮駐輦記碑移設記念誌 知られざる手稲と加賀百万石~手稲前田と前田農場~』2013年、pp86-88参照

2017/01/27

「稲積」が偏在するのはなぜか?

 1月13日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-898.htmlで、「稲積」という名前を冠した施設(公園、学校など)が手稲区のどのあたりにあるか、記しました。大半は手稲稲積公園の周辺にあるのですが、幾つか‘飛び地’的に点在しています。
 名前の由来となった「稲積農場」が、実はかなり広域に及んでいたことを知りました。1月19日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-904.htmlでその範囲を推測したところ、こんにち一般に稲積として認識されているエリアは、かつての「稲積農場」の半分にも満たない一部だったのです。
 では、なぜ稲積が一部に偏在するようになったか?

 次に載せる図面が、その経緯を物語っています。
ていね稲積土地区画整理完成記念誌 工区図
 昭和50年代に行われた土地区画整理事業です。図面は『札幌市ていね稲積土地区画整理事業完成記念誌』1984年から抜粋しました。方位は10時半の向きが北です。
 青色で塗られているところが区画整理の対象となった一帯です。緑色と赤い線は私が加筆しました。緑色で塗ったのは、事業の中核として位置付けられた手稲稲積公園です。赤い線で囲ったのは、かつての稲積農場の最大範囲と推測される一円です。
 
 先のブログで記したように、農場のうち小作地は戦前、解放されます。そのことにより稲積の名はいったん、人々の意識の潜在下に退いたと私は思います。昭和30年代、かつての農場の南部に「発寒勤労者団地」が造成され(1月20~23日ブログ参照)、「発寒」が顕在化しました。稲積は消去されつつあったといえましょう。 
 それが、約半世紀を経てよみがえります。前掲図で示した区画整理事業に稲積と命名されたためです。対象地域内に次々新設された公共施設等に、稲積が増殖しました。
 区画整理されたのは、現在の町名でいうと手稲区前田1~7条4~8丁目に相当します(末注①)。かつての農場の面積からすれば一部とはいえ、それでもかなり広い。その中でこれだけ多くの施設に個人由来の名前が付くというのは、札幌では珍しいのではないでしょうか(末注②)。前田農場ゆかりの前田は、加賀百万石だから別格として。

 …と、締めくくるつもりでいたのですが、これまで述べてきた地域以外にもまだ、稲積の名前が付いていました。
 「稲積川」です。私が推測した稲積農場のエリアから、さらに2㎞ほど西方を流れています。なぜだ? 稲積は、奥が深い。

注①:1月13日ブログへのスタッフKさんのコメント参照
注②:前掲記念誌によれば、土地区画整理組合の構成員は、農地解放で自作となった方などである。「稲積」さんの子孫は含まれていない。

2017/01/26

北炭団地③

 雇用促進住宅野幌宿舎の集会所です。
雇用促進住宅野幌宿舎 管理事務所
 建物の前に立つ看板に、団地内の配置図が載っています。

 だいぶん剥げかかっていますが、赤い○で囲ったところに…。
雇用促進住宅野幌宿舎 案内図
 「共同浴場」と書かれています。集会所の背後です。
 しかし、前掲画像でみるとおり、その場所は現在、空き地になっています。浴場は取り壊されたようです。と、思いきや、ここで会った入居者にうかがうと、浴場は別の場所に建て替えられていました。

 こちらが、その浴場です。
雇用促進住宅野幌宿舎 浴場
 共同浴場があるところが、雇用促進住宅ならではですね。かつての炭住街を彷彿させる。昨日のブログで引用した『新江別市史』の記述にあるとおり、1963(昭和38)年に道内で建てられた雇用促進住宅600戸のうち、520戸がこの野幌で占められています。ここにはある意味で、人がいなくなった旧産炭地以上に“ヤマの記憶”が凝縮していたといえるかもしれません。
 「凝縮していた」と過去形で叙述するのは、他の宿舎同様、この団地も入居者が激減しているからです。現在12棟計480戸(末注)のうち、入居しているのは100戸を切っているとお聞きしました。雇用促進住宅は、2021(平成33)年度には廃止されるとのことです。

 私は幼少期、3DKの社宅暮らしをしていたので、こういう団地を見ると自分史と重なり合って郷愁を感じてしまいます。父が三交代勤務のブルーカラーだったことから、炭住には既視感を覚えます。郷愁は過去を漂白します。しかし漂白しえない汚れも沁みついている。
 坑内員の仕事は命がけだったから、ヤマの記憶はなおのことキレイゴトではあるまい。最近、産業遺産やダークツーリズムが脚光を浴びつつありますが、「そっとしておいたほうがよかろう」という気持ちも私は相半ばします。札幌軟石もしかり、ですが。

 団地の一隅で見かけた電柱です。
野幌 事業団地幹
 北電柱NTT共架「事業団地幹」。雇用促進事業団という名称も過去のものとなりました。4年後には団地はどうなるのだろう。

注:もともとは13棟だったが、1棟解体されている(その跡地に共同浴場が建てられた)。一棟当たり40戸なので、12棟×40=480戸だが、独行法人「高齢・障害・求職者雇用支援機構」HPによると、野幌宿舎の運営戸数は240戸となっている。

2017/01/25

北炭団地②

 北炭団地の正式名称は「雇用促進住宅野幌宿舎」です。『新江別市史』2005年に、この住宅建設に関する経緯が記されています(p.558、原文ママ)。
 同住宅は、石炭産業の合理化により多くの炭鉱離職者が生れ、これらの人々の住宅確保に応えるものであった。国は雇用促進事業団の手で全国各地に当該住宅建設を計画、三八年度は全国で八千三○○戸、うち道内六○○戸(江別五二○戸)を建設することとした。その大半が江別に建設されるのは、離職者の再就職の場として期待される札幌市に隣接する立地条件によるものであった。
 野幌駅の南側、東野幌の一画、約七千坪の敷地に鉄筋コンクリート四階建のアパート十三棟(一棟四○戸)が建てられることになった。二千五○○人余の人口増とそれに対応する小学校の新設、中学校の増築など市の負担増が見込まれるものでもあった。


 炭鉱離職者向けの住宅が江別市なかんずく野幌に建てられることになったのは、札幌に隣接するという理由のほかに私は二つの事情があったと推測します。
 一つは、野幌が夕張鉄道の発着駅であったことです。合理化された炭鉱というのが北炭夕張だったと想定するならば、離職者にとって野幌はヤマと鉄路一本で結ばれていたことになります。親族や知人を夕張に残してきた人も多かったでしょう。野幌駅は、“ふるさとの訛りなつかし停車場”であったかもしれません。
 もう一つは、野幌自体が北炭ゆかりの土地であったことです。江別なかんずく野幌はこんにちまで連綿と続く煉瓦の生産地であり、全国有数を誇ります。その濫觴ともいえるのが、北炭(の前身たる北海道炭礦鉄道)です。北炭は明治30年代、野幌駅南側に煉瓦工場を設けました。これを北海道窯業㈱が受け継ぎ、(中断を挟み)昭和40年代まで生産が続けられます(末注)。同社も夕鉄同様、北炭の系列子会社です。
 野幌が炭鉱離職者の移住地になったことは、北炭の土地鑑と無関係には思えないのです。悪い妄想癖ですが。[つづく]

注:『新江別市史』pp.172-173、松下亘『野幌窯業史』1980年p.121、水野信太郎「江別市内における煉瓦産業120年間の変遷」『赤煉瓦アラカルト』2010年pp.36-39 参照

2017/01/24

北炭団地

 炭鉱排水からの連想で、かねて気になっていた場所が別にありました。
 夕鉄バスの「北炭団地」停です。
夕鉄バス「北炭団地」停
 江別市東野幌町にあります。運行本数は一日1便という、ハードルの高い路線です。

 北炭の名前が、かようにアカラサマに遺っているのは珍しい。さすが夕鉄バス。
 この停留所名を地図で見たとき、これこそ北炭によって造成された住宅団地が近くにあるのだろうと私は思っていました。が、どうもそうではなくて、近くには雇用促進住宅があります。
雇用促進住宅野幌宿舎
 バス停は、この団地に由来するらしい。
 団地内をウロウロしていたら、自治会の役員とおぼしき男性が集会所に来られたので、お尋ねしました。この団地は1963(昭和38)年に建てられたそうです。炭鉱が閉山になって離職した人たちの入居先として、その年の12月になんとか間に合ったとのこと。
 炭鉱離職者が移り住むための受け皿に雇用促進住宅が使われたことは、しばしば聞いたことがあります。それにしても「北炭」を冠するとは(末注)。[つづく]

注:近辺で戸建て住宅の団地を開発した可能性も捨てきれない。今後の宿題。
 

2017/01/23

発寒勤労者団地

 昨日ブログの続きです。
 『発寒団地の30年』によれば、この団地の歴史は当初、悪戦苦闘の連続でした。
 かって、この地は笹や灌木が生い茂る泥炭湿地帯で、“人の住めない札幌の陸の孤島”と言われたところでありました。(p.3、原文ママ)

 造成されてまもない1961(昭和36)年、早々に洪水に見舞われ、1962(昭和37)年、1965(昭和40)年、1981(昭和56)年と、たびたび水害を被っています。いずれも炭鉱排水の氾濫です(p.12)。
 36年当時の炭鉱排水には、両側に堤防がなく、素掘りの自然河川の状態だったため、大雨、暴風雨の時には、増水によって氾濫し、今の福祉会館あたりで水が溢れ、地盤の低い家では水が出るたびに床上、床下浸水で悩まされた。

 この一帯で河川改修や流路変更が著しいのもむべなるかな、です。自然に対する人智に、万全ということはありえません。札幌市の「洪水ハザードマップ」によれば、今も氾濫による浸水は想定されています。
札幌市洪水ハザードマップ 発寒団地周辺
 床下(黄緑色)から床上(緑色)、深いところでは1.0~2.0m(水色)です。1階の軒下まで浸かる可能性があります。

 今は住宅地がずっと続いていますが、“人の住めない札幌の陸の孤島”に、よくまあ造成したものです。
 …と、このように記してきて、ふと思いました。またまた妄想が膨らんでしまったのです。
 この団地を造成したデベロッパーの「北海道開発生協」というのは、北海道開発局と関係があったのではないだろうか?(末注) 普通の業者だったら着想しえないような宅造であったとしても、開発局のノウハウとお金がバックにあればナントカなる…。炭鉱排水(現「旧中の川」~「中の川」)の河川管理者は現在北海道と札幌市ですが、改修には国庫補助(開発予算)も受けたことだろう。開発行政にはまったく疎いので、私の勝手な憶測です。お許しください。

注:1月17日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-902.html 参照。団地内に最初に建てられたのが開発局の職員住宅10戸であり、団地の管理事務所には開発局の職域生協の売店も設けられたという。
 1961(昭和36)年撮影の空中写真(国土地理院サイトから)を見ると、同じ屋根形状・規模の住宅が10戸、写っている(赤い○の大きいほうに6戸、小さいほうに4戸)。
1961年空中写真 発寒団地
 これが職員住宅でなかろうか。真ん中をまっすぐ南北に流れるのが炭鉱排水で、住宅は手稲町前田側に建てられている。

2017/01/22

琴似平原

 発寒団地の炭鉱排水以東、すなわち新発寒側の北電柱(NTT共架)です。
北電柱 NTT共架 団地北幹 発寒団地
 「団地北幹」と書かれています。「団地東幹」というのも見られました。

 一方、排水以西の前田側は…。
北電柱 NTT共架 団地南幹 発寒団地
 「団地南幹」です。

 この地区の連合町内会が刊行した周年記念誌で、発寒団地が造成された頃の様子が回顧されています。当時を知る方が次のように発言しています(新発寒わらび連合町内会『発寒団地の30年』1991年、p.24)。
 この団地を売り出したときは、琴似平原発寒勤労者団地といってましたね。団地が開かれた35年の秋頃から50坪位の土地に家を建てて、住み始めたのが最初です。
 前田側に点々と20戸位住宅が建ち、そのあと発寒側に、厚生年金の住宅が建った。


 琴似平原。
 手稲町のはずれではなく、札幌近郊の琴似だぞ、という意気込みが感じられます。それに平原が付いて、牧歌的にも響く。
 琴似の語源たる「コッネイ=凹地・になっている・処」(山田秀三先生)は、もともと札幌の中心部の地形を意味していました。が、明治以降に名づけられた「琴似村」に引きずられて、西へ移転してしまいます。堀淳一先生云うところの「川の名の引越し」です。現在の琴似は、屯田兵村が置かれた一帯を指しています。

 コトニはさらに西漸した感があります。発寒川もいつのまにか「琴似発寒川」になりました。道立の工業高校が発寒にありますが、校名には琴似が冠せられています。これは発寒が旧琴似町に含まれていたためかと思いますが、のみならず、中心部の(力関係的に上位と意識される)地名を離れたところにもかぶせていくという法則性が窺われます。地名はともすれば遠心力がはたらくようです。かくして手稲前田が「発寒団地」に包摂され、そのうえ「琴似平原」になった。

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1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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