札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2016/12/31

2016逍遙納め

 JR札沼線「拓北」駅近くの踏切です。
JR札沼線 加藤作場踏切
 先日、バスに乗ってこの踏切を渡ったとき、名前が目に入りました。

 「加藤作場踏切」。
加藤作場踏切 拡大
 「作場」というコトバは、ふだん聞き慣れないですね。私は、JRの踏切以外では目にしたことがない(末注)。「御手作場」というのもあったか。常識的に解すると、加藤さんという人の農地が近くにあったのだろうなと思いますが、拓北駅界隈は市街化区域になっていて、「作場」らしき風景はすぐには見当たりません。

 例によって文献を漁りました。篠路農業協同組合『農魂 創立五十年記念史』1998年を繰ると、この地域に該当の苗字の農家があることが判りました。同書とゼンリン住宅地図を頼りに訪ねました。我ながら、物好きなことです。JR踏切の名前の由来を探るべく、大晦日に見ず知らずのお宅をピンポンするとは。

 「つかぬことですが、拓北駅近くの『加藤作場踏切』というのは、こちらと関係がおありではないでしょうか?」と問うと、くだんの農家の方答えて曰く「そうです。踏切は、もともと駅の東のほうにあって、近くにうちの水田が3町ほどありました。行き来していたので…(名前が付いた)。今のところに(踏切が)移ってからも、そのまま残りました」と。
 ピンポイントで当たりを付けて、ゆかりの方にお会いできました。幸運な年の瀬です。これで、とても気持ちよく年を越すことができます。
 余談ながら前掲の農協記念史(誌)には、篠路地域の「農事組合」が紹介されています。その中には「興産社」とか「烈々布」「山口」「大野地」「釜谷臼」という地名を冠した組合があります。農事組合、ゆるがせにできませんね。

 前掲加藤作場踏切から400m余り東に、人道踏切があります。
興産社踏切
 「興産社踏切」。
 興産社がここに遺っていたとは…。


 2016年、拙ブログをご覧いただき、ありがとうございました。
 2014年7月から始め、2015年9月から閲覧数を数えるようにしたところ、この1年4か月で延べ2万人を超えました。一日平均40名強の方が見てくださっていることになります。当初は20~30名くらいでしたが、最近は50名前後に増えました。オタクなブログを日々、目に留めていただき、ありがたいことです。
 どうぞ良いお年をお迎えください。
 
 注:2016.2.24ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-579.html 参照

 2017.6.19ブログに関連事項追記
スポンサーサイト

2016/12/30

丘珠古川

 レツレップ古川は札幌市の河川としては姿を消しましたが、その河道近辺を別の川が流れています。
 その名も「丘珠古川」。こちらは札幌市河川網図にしっかり名前が載っています。というか、河川網図に載っているので私は存在を知りました。ただし、河川網図には載っているのですが、古い地形図には載ってません。レツレップ古川は地形図に描かれているが、河川網図には載ってなく、丘珠古川は地形図には描かれていないが、河川網図には載っている。

河川網図 丘珠古川
 水色でなぞったのが丘珠古川です。川名に「古川」と付いているのは、その周囲を人工的に開削された「丘珠川」や「丘珠2号川」「丘珠3号水路」が流れており、それらよりも前からあった自然河川という意味からでしょう。丘珠古川は350mほどの短さで、旧琴似川(濃い青)に合流しています。実際に流れているのは、町名としては北区篠路町太平です。

 黄緑色でなぞったのは、私が古地図に照らして推定したレツレップ古川の河道です。こうしてみると、このあたりは小河川が幾筋も流れる低湿地帯だったことが想像されます。レツレップ古川が河道を変えて丘珠古川になったのかもしれません。あるいは人為的に変えられたか。
 
 丘珠古川の姿です(2016年11月撮影)。
丘珠古川 篠路町太平
 上流から下流を眺めました。古川という名前にレツレップ古川の記憶が感じられます。

2016/12/29

レツレップ古川の痕跡

 一昨日(12月27日)のブログの末注に、「レツレップ古川はどちらの方向に流れていたか?」と記しました。南から北へか、北から南へのどちらか、ということです。札幌の地形からして、また、本流たる伏籠川の流れからして、南から北へ流れていたのでしょう。
 ただ、昨日ブログに載せた明治29年地形図をみると、一見、北から南へ流れていたかにも錯覚します。河道を下流へ(北へ)たどっていくと、途切れてしまうからです。
明治29年地形図 レツレップ古川 下流
 赤い○で囲ったところがその場所です。一見、ここが川のミナモトで、南へ流れていって橙色の○で囲ったところ(12月27日ブログで取り上げた「道によって切断された」?地点)で伏籠川に合流していたかに見えなくもない。
 明治29年地形図でこのあたりがどこまで正確に測量されていたか知りませんが、実際は赤い○のところからさらに北へ川が流れていたのではないかと思います。河道が判然としない低湿地帯だったのかもしれません。もしくは、橙色の地点でいうところの「道による切断」で水量が減り、河道が途絶えた可能性もあります。

 これが大正5年地形図では、赤い○以北も河道がはっきり描かれています。
大正5年地形図 レツレップ古川 河道
 北へ流れて、琴似川に合流します。
 橙色の○で囲った地点は、明治29年版よりも‘途切れた感’が増しています。

 さらに、昭和10年地形図になると…。
昭和10年地形図 レツレップ古川 河道
 琴似川への合流はまた消えます。赤い○のところで北東へ直線的な流路が描かれ、伏籠川に合流しています。人為的に短絡されたようです。どうも、橙色の○の地点による‘切断’で水量が減ったとは言いがたい。
 
 戦時中の飛行場造成を経て、人工的な排水路がさらに整備されていきます(末注①)。明治、大正、昭和の古地図でレツレップ古川の河道をたどると、このあたりの開拓の姿が伝わってきます。

 現在の札幌市河川網図を見る限り、 レツレップ古川は河川として存在していません(末注②)。が、現地で地形を実際に見ると、川の痕跡が遺っています。
レツレップ古川 旧篠路村 札幌村 丘珠村村界付近
 赤い○で囲ったところの現在の風景です(2016年11月撮影)。旧篠路村、札幌村、丘珠村三村の村界地点です(末注③)。北から南を眺めました。画像右方が旧札幌村、左方が旧丘珠村です。わずかながら水面も、映っています。

 注①:2016.11.27ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-856.html 参照
 注②:同上参照。人工的水路として丘珠川及び丘珠5号川の一部に、その河道が遺る。
 注③:2016.11.21ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-850.html 参照

2016/12/28

烈々布の語源③

 昨日の続きです。 
 レツレップ古川はもともと、伏籠川とくっついていなかった(=分流も合流もしていなかった)というのが私の仮説というか憶測です。その根拠は、伏籠川に沿って小高い自然堤防が形成されていたので川が通じるのは不自然ということです。と記しつつ、我ながらこの根拠は乱暴かなとも思います。自然堤防は一様ではなかっただろうし、堤防が高くなる前に川が通じていた可能性もあります。言い換えれば「かつては伏籠川と分流または合流していたかもしれないが、自然史のある時点で途切れた」。
 表面的な現象を見れば、自然堤防(の上に築かれた元村街道)によって川が途切れている、ともいえるかもしれません。ただし『続・北区エピソード史』では、レツレップ古川が「いかにも人為的に埋められたように切断されている」と記されているのですが(p.63)、どうも「人為的」というのが引っかかります。アイヌが道を通すために川を埋めた(あるいは和人が埋めたのをアイヌが見て、名づけた?)というのが、どうも作り話くさく感じられてしまうのです。

2016/12/27

烈々布の語源②

 烈々布の語源について、川名説(=道によって寸断された川)を考察します。
 『続・北区エピソード史』で「寸断」された箇所としている地点を古地図に照らしてみます。
明治29年地形図 レツレップ古川 分流?地点
 明治29年地形図から抜粋しました。赤い○で囲ったところが、その地点です。なお、「寸断」というと複数個所で断ち切られた語感がありますが、地図で見る限り一箇所なので、「切断」とでも言い替えましょう。

 その切断地点を拡大してみます。
明治29年地形図 レツレップ古川 分流?地点 拡大
 黄色の矢印を付けた先です。
 南から北へ蛇行する川が伏籠川(フシコサッポロ川)で、川に並行して通じているのが、元村街道(現在の道道花畔札幌線)です。矢印の先の地点で、別の川が西北へ流れています。これが、問題のレツレップ古川です。地図をよく見ると、両者はくっついていません。あたかも元村街道によって切断されているかに見えます。「レツレップ=道によって切断」説を採るならば、矢印の先の地点でもともと二つの川がくっついていた、ということになります。つまりレツレップ古川はこの地点で伏籠川に分流または合流していたということです(末注)。

 私は、「二つの川は、そもそもこの地点でくっついていなかったのではないか」という疑問を抱きました。必ずしも道によって切断されたのではないのではないか。理由は地形です。伏籠川に並行する元村街道に「自然堤防」が形成されていて、小高くなっていることです。小高い堤防帯を跨いで川が流れるというのが、不自然に思えるのです。私は自然地理にも疎いので、諸賢のご教示をいただきたいところです。 

 注:あえて「分流または合流」と記したのは、「そもそも、レツレップ古川はどちらの方向に流れていたか?」を留保したためである。矢印の地点から北西(画像上、左上方)へ流れていたのであれば「分流」、逆(画像上、左上方から矢印の地点へ)であれば「合流」ということになる。言い換えれば、レツレップ古川が伏籠川の「派川」か「支川」か、という問題。

2016/12/26

レツレップの語源

 11月22、23、26、27日ブログで「レツレップ古川」について記しました。この河道の根拠としたのは札幌市北区役所『続・北区エピソード史』1987年です(pp.60-63、原典は『広報さっぽろ 北区版』1979年2月号)。
 同書では「烈々布」をアイヌ語の川名由来とし、「道で寸断され、孤立している川の状態から、ル・エ・トイェ・プ(ru-e-tuye-p)、“道がそこで(川を)切っているもの”と音訳できるようだ」という藤村久和氏の語釈を援用しています。川を寸断している道というのは、現在の道道花畔札幌線、通称元村街道を指します。札幌市東区役所『東区今昔3 東区拓殖史』1983年もこの説を紹介し、「伏古川に沿ってできた鹿の踏み分け道をアイヌが石狩-札幌間の往来に利用するようになり、通行の支障となった古川の源流部分を人為的にアイヌが埋め立てたことは十分に考えられる」と書いています(p.157)。私はアイヌ語地名には疎いのですが、こういう呼び習わし方というのは他の地域にもあるのだろうか。
 
 先日来、烈々布にまつわる文献を漁っていたら、語源に関する別の説を知りました。『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第52号2007年所収の薩川益明「烈々布と丘珠 札幌市東区のアイヌ語二地名について」です(pp61-68)。薩川氏は「ri-turep (背の)高い・オオウバユリ」と述べています。その裏付けとして挙げられているのは、氏が北区で目撃した背丈の高いオオウバユリの自生群落です。曰く「麻生、太平、栄町の一帯が、昔はずいぶん見応えのするri-turepの群生地を抱えていただろうことは容易に察しがつく」と。
 

2016/12/25

丘珠飛行場の引込線 補遺②

 丘珠飛行場から札沼線に通じていた引込線について、昨日のブログに「郷土史の文献で該当する記述を見つけられず」と記しました。ところが、該当する記述がありました。
 林恒子さんの「丘珠飛行場の60年」 『「新札幌市史」機関誌 札幌の歴史』第49号、2005年所載です。先達が10年以上も前、すでに掘り起こしておられました。掲載誌は手元にあって、何度か目を通したつもりだったのですが、見落としていました。げに、心焉に在らざれば視れども見えず。
 
 林さんの文は「埋もれた引き込み線」と題して、「丘珠飛行場に引き込み線が敷設されていたことを昨年知った。引き込み線は、建設工事と米軍接収の時の二回、付設されたという」に始まり、当時を知る生存者への聞取りをもとに、敷設の年代、目的、規模等仔細に書かれています。
 記述の中で印象的なのは、以下の二点です。
 ①引込線は旧日本軍と米軍がそれぞれ敷設した。
 ②旧日本軍が敷設したときは、「タコと言っていた朝鮮人労働者」が作業に従事した。
 
 引込線の痕跡はもはや遺っていないようですが、雪が解けたら現地を歩いて、実際に確かめてみたいものです。ところで、林さんが引込線のことを知ったきっかけは、やはり篠路烈々布在住のNさんでした。私はお釈迦様の掌に遊ぶ孫悟空の境地です。

 2017.3.19ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-964.html 関連事項追記

2016/12/24

丘珠飛行場の引込線 補遺

 11月19日ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-848.html で、丘珠飛行場から札沼線に引込線が敷かれていたという話を記しました。
 戦後米軍が撮影した航空写真からそれらしき軌道を推し測ってみたものの、郷土史の文献で該当する記述を見つけられず、確信を持てませんでした。篠路烈々布在住のNさんに先日伺った際、心当たりがないか訊いてみました。

 私「丘珠飛行場に終戦直後、札沼線まで引込線が敷かれていたと聞いたのですが、ご記憶ないですか?」
 Nさん「ありましたよ。実際に敷かれていたのも、取り払われたのも、覚えています。札沼線がちょうどカーブするあたりから、つながってました」
 私「やっぱり、あったんですね。戦後米軍が進駐したときに敷いたとか…」
 Nさん「いや、あれは戦時中からありましたね。日本軍が飛行場を造ったときに敷いたのでしょう」
 私「そうだったんですか。いつぐらいまで、あったんでしょうね?」
 Nさん「(撤去されたのは)米軍が撤収して間もなくでしたね」

 Nさんは1929(昭和4)年お生まれなので、引込線が敷かれていた当時、10代後半です。このご記憶は信憑性が高いと思います。「札沼線がカーブするあたり」という証言も、説得力がある。 裏付けを得ることができました。また、敷設したのは戦後米軍ではなく、戦時中の日本軍らしい。もしかしたら、滑走路の造成のために必要な砂利を硬石山から定山渓鉄道経由で運んだのかもしれません(2015.6.22ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-332.html 参照)。

 引込線の軌道は、丘珠空港へのアクセスとして合理的に思える。

 2016.12.25ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-879.html 関連事項追記
 2017.3.19ブログ http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-964.html 関連事項追記

2016/12/23

80年前の歌

 札幌は、12月としては50年ぶりの大雪だそうです。
 この荒天になる前に母が札幌に来れて、つくづく幸運でした。駅や空港で何時間も待たされたりするのは、90歳の老身ならずともこたえます。飛行機が飛ばなくて目下難儀している人には御見舞い申し上げます。

 現在母が住まうサービス付き高齢者住宅は、これまでいたケアハウスに比べると、人との接触頻度が少なくなりました。これはサ高住と老人ホームの違いに由るので、どちらがいい悪いという話ではないのですが、ケアハウスは職員さんの日常的な関わりが濃密だったなとあらためて思います。これからは、デイサービス以外の日は独りでいる時間が多くなります。母はさらぬだに老人力が弥増しているので、できるだけ家族が時間を共有するようにしたいと思います。

 母は、例えばたった今食べた夕食の品目は何だったか、というような新しい記憶の維持が困難です(私もときどき怪しくなりますが)。しかし、古い記憶はいろいろ保存されています。今からおよそ80年前に小学校で唄わされた歌を覚えていました。母は当時、一年か二年だったはずです。

 ♪皇太子様すくすくお育ちなさるように 千代田のお城の松風も うれしや らんらんらん…

 皇嗣生誕はよほどの慶事であったとみえて、奉祝する歌がたくさん作られたようです。母が覚えている歌は、誰が作詞作曲したのだろう。

2016/12/22

篠路烈々布③ 百合が原公園のサイロ

 昨日紹介した北区百合が原公園の小祠を軟石建物数に加えることとしました。
 近くにお住まいにして『篠路烈々布百年』発行責任者のNさんからの聞取りを参考にして、築年は「昭和戦前」としました。Nさんによると、「もともとはお地蔵さんだけだったが、のちに上屋が建てられた」そうです。その上屋は昭和戦前期にはすでにあったとのことです。
 これで、築年判明の軟石建物数は12月19日ブログ時点の計数からプラス1で、227棟、母数(末注)もプラス1で、410棟になりました。判明率は227/410=55.4%。

 さて、百合が原公園内にはもう一棟、軟石建物があります。
百合が原公園 サイロ
 サイロです。正確にいうと、サイロを再利用した展望台(画像は2015年5月撮影)。
 現在公園となっている一帯には、もともとNさんの牧場がありました。『篠路烈々布百年』によると、N家は旧篠路村における草分けでした。否、北海道酪農の先駆者の一人といってよいでしょう。大正期にNさんの先々代がホルスタインの飼育を始めました。サイロは当初木造で建てられ、のちに石造となります。同書に「昭和五年石造に改築され、現在百合が原公園の展望台とし唯一基その形骸をとどめている」と記されています(p.94)。 

 今般Nさんから、このサイロは宇都宮牧場にあったサイロの軟石を用いて建てられたとお聴きしました。軟石フェティストの私としては、こういう話を聴けただけでも足を運んだ甲斐があります。前掲『篠路烈々布百年』や『篠路農業協同組合三○年史』1979年には、当時サイロが普及していった背景が書かれていますが、かようなマニアックな史実までは見当たりません。文献だけでなく、やはり現地に出向いて人に会うというのは大事だなと思いました。
 Nさんによると、「札幌で牧場をやっていた宇都宮さんが郊外に移るに当たり、サイロを解体することになったので、それを(Nさんの先々代が)貰い受けた。昭和4、5年のことだったと思う」とのことです。Nさんの先々代は明治後期、真駒内で酪農の講習を受けました。そのとき薫陶を受けたのが宇都宮仙太郎です。大正期、「札幌酪農信用販売購買生産組合」(現在のサツラクの前身)が設立され、宇都宮が初代組合長に就任、Nさんの先々代も役員(理事)を務めました。のちに宇都宮を継いで組合長になります。百合が原公園のサイロは、そのような人のつながりから生まれたものでした。
 『白石歴しるべ』1999年によると、宇都宮勤が牧場を上白石(現在の白石区菊水)から上野幌に移転したのは1927(昭和2)年です。Nさんの口承「昭和4、5年」より2、3年前になりますが、ほぼ噛み合うと思いました。

 注:母数410棟の内訳は、推定築50年以上の建物が364棟(うち解体されたものが41棟、現存は364-41=323棟)、推定築50年未満が46棟

ホーム

HomeNext ≫

 

プロフィール

keystonesapporo

Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

カレンダー

11 | 2016/12 | 01
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最新記事

最新コメント

カテゴリ

月別アーカイブ

最新トラックバック

閲覧者数(2015.9.4からカウント)

検索フォーム

RSSリンクの表示

リンク

このブログをリンクに追加する

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR