札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 胆振東部地震お見舞い
ポルト市民講座2016
12月11日(日)午後1時~北翔大学北方圏学術情報センター(通称:ポルト)にて、市民講座が開催されます。以下の演題(予定)で、それぞれ報告・発表があります。
●第一部
・北日本固有の自然と文化 菊地達夫先生(北翔大学短期大学部教授) 13:05~14:05
・東北の文学者たちとふるさと 水野信太郎先生(北翔大学教授) 14:05~14:45
●第二部
・札幌軟石の仲間、越前青石とまちづくり 杉浦正人(札幌建築鑑賞会代表) 15:00~16:00
・江別のタワーサイロと地域の素材調達 水野先生 16:00~16:40
私は、昨年探訪してきた越前・福井の笏谷石(2015.10.4-23ブログ参照)の歴史と活用について、現地の状況を報告します。ご興味のおありの方は、どうぞご参加ください。参加費無料、申込み不要。会場(ポルト)アクセスについては、下記サイトをご参照ください。
↓
http://www.hokusho-u.ac.jp/studentlife/campusguide/porto/institution/files/PORTO.pdf
本日からまた、郷里に帰ります。
母を札幌のサービス付き高齢者住宅に呼び寄せるべく(11月4日ブログ参照)、引越しの作業をしてきます。
12月5日に母を連れて札幌に戻ってくる予定です。母にとっては、90年住み慣れた内地から異国(あえて、いう)での暮らしに変わります。母が新天地で安穏な余生を送れるよう祈るのみです。
ブログはしばらくお休みします。
●第一部
・北日本固有の自然と文化 菊地達夫先生(北翔大学短期大学部教授) 13:05~14:05
・東北の文学者たちとふるさと 水野信太郎先生(北翔大学教授) 14:05~14:45
●第二部
・札幌軟石の仲間、越前青石とまちづくり 杉浦正人(札幌建築鑑賞会代表) 15:00~16:00
・江別のタワーサイロと地域の素材調達 水野先生 16:00~16:40
私は、昨年探訪してきた越前・福井の笏谷石(2015.10.4-23ブログ参照)の歴史と活用について、現地の状況を報告します。ご興味のおありの方は、どうぞご参加ください。参加費無料、申込み不要。会場(ポルト)アクセスについては、下記サイトをご参照ください。
↓
http://www.hokusho-u.ac.jp/studentlife/campusguide/porto/institution/files/PORTO.pdf
本日からまた、郷里に帰ります。
母を札幌のサービス付き高齢者住宅に呼び寄せるべく(11月4日ブログ参照)、引越しの作業をしてきます。
12月5日に母を連れて札幌に戻ってくる予定です。母にとっては、90年住み慣れた内地から異国(あえて、いう)での暮らしに変わります。母が新天地で安穏な余生を送れるよう祈るのみです。
ブログはしばらくお休みします。
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百合が原の軟石建物①
北区百合が原です。

百合が原といっても私はなかなかピンときません。旧町名は篠路町太平です。バス停には「太平西部」という名前が遺っています。バスが走っている市道は「烈々布幹線」。地名をさらにさかのぼると、篠路烈々布です。現在の町名は画像上、左方が百合が原1丁目、右方が百合が原3丁目になります。前掲のバス停は、そのうち「百合が原○丁目」とかに変わるかもしれません。
さて、この太平西部あらため百合が原に軟石建物が23棟、遺っています。

そのうちの一棟です。画像は昨年5月の撮影です。軟石の表面仕上げはツルメ。腰折れ屋根。平入りで、同じく腰折れの屋根窓が付く。屋根窓の開口部の大きさからして、ここからも出し入れをしていたのだろう。
建物の存在は昨年確認していたのですが、尋ねたとき持ち主のSさんが不在で、建築年等は判らずじまいでした。このたび再訪し、話を訊くことができました。建てられたのは「昭和25年頃」です。建てたときのご当主がすでに亡くなっているため、伝聞によります。「母がお嫁に来たころだと思うので…」ということでした。タマネギなどの農作物の収蔵していたようですが、形状からして元は馬小屋だった可能性もあります。馬は確かに飼っていたとのこと。
軟石建物数としては、今年の6月に中央図書館で発表したときのデータに含めていますので変わりません。あらためておさらいをしておくと、推定築50年以上の現存建物は322棟です。このほかに、推定築50年未満が現存46棟、建物の解体を確認(2005年以降)したものが41棟あります。母数の合計は409棟になります。このうち建築年が判ったものは223棟です(判明率54.5%)。このたびの1棟を加えて224棟になりました。判明率は0.24%アップして、54.8%。千里の道も一歩から、ですね。
百合が原に遺るもう一他の二棟については、後日また。
2016.12.7 百合が原に遺る軟石建物の数を2棟ではなく、3棟に訂正

百合が原といっても私はなかなかピンときません。旧町名は篠路町太平です。バス停には「太平西部」という名前が遺っています。バスが走っている市道は「烈々布幹線」。地名をさらにさかのぼると、篠路烈々布です。現在の町名は画像上、左方が百合が原1丁目、右方が百合が原3丁目になります。前掲のバス停は、そのうち「百合が原○丁目」とかに変わるかもしれません。
さて、この太平西部あらため百合が原に軟石建物が

そのうちの一棟です。画像は昨年5月の撮影です。軟石の表面仕上げはツルメ。腰折れ屋根。平入りで、同じく腰折れの屋根窓が付く。屋根窓の開口部の大きさからして、ここからも出し入れをしていたのだろう。
建物の存在は昨年確認していたのですが、尋ねたとき持ち主のSさんが不在で、建築年等は判らずじまいでした。このたび再訪し、話を訊くことができました。建てられたのは「昭和25年頃」です。建てたときのご当主がすでに亡くなっているため、伝聞によります。「母がお嫁に来たころだと思うので…」ということでした。タマネギなどの農作物の収蔵していたようですが、形状からして元は馬小屋だった可能性もあります。馬は確かに飼っていたとのこと。
軟石建物数としては、今年の6月に中央図書館で発表したときのデータに含めていますので変わりません。あらためておさらいをしておくと、推定築50年以上の現存建物は322棟です。このほかに、推定築50年未満が現存46棟、建物の解体を確認(2005年以降)したものが41棟あります。母数の合計は409棟になります。このうち建築年が判ったものは223棟です(判明率54.5%)。このたびの1棟を加えて224棟になりました。判明率は0.24%アップして、54.8%。千里の道も一歩から、ですね。
百合が原に遺る
2016.12.7 百合が原に遺る軟石建物の数を2棟ではなく、3棟に訂正
丘珠の古川④
レツレップ古川を札幌市河川網図に描いてみました。

青くなぞったのが、その河道です。
地形図の大正5年版を参照しました。この古川は明治29年版と昭和10年版にも描かれているのですが、河道が一部異なっています。そのことはおってまた記したいと思います。なお、参照に当たっては「今昔マップon the web」が役立ちました。私の描き方はかなりアバウトなので、正確に知りたい方は同サイトをご覧ください。
↓
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=43.062057&lng=141.354231&zoom=14&dataset=sapporo&age=0&map2type=roadmap&dual=true
ともあれ、ここで明らかにしたかったことは、古川の痕跡が現在の川の2箇所で残っていることです。一つは昨日記した丘珠川で、前掲河川網図上の橙色▲の先です。そして二つ目は赤い▲の先に示したところで、これは「丘珠5号線」の上流部分に当たります。
11月22日ブログで記したとおり、古川は飛行場造成に当たって埋め立てられました。併行して飛行場の周囲に排水路が設けられたのですが、飛行場に合わせて古川の流れを人工的に変えたといっていいでしょう。
丘珠5号川の上流、すなわちレツレップ古川の河道に当たるところです。

前掲河川網図の赤い▲の辺りを、下流(北)から上流(南)を眺めました。ただしこの辺りはほとんど高低差が感じられず、どちらが上流か、戸惑いを覚えます。

青くなぞったのが、その河道です。
地形図の大正5年版を参照しました。この古川は明治29年版と昭和10年版にも描かれているのですが、河道が一部異なっています。そのことはおってまた記したいと思います。なお、参照に当たっては「今昔マップon the web」が役立ちました。私の描き方はかなりアバウトなので、正確に知りたい方は同サイトをご覧ください。
↓
http://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html?lat=43.062057&lng=141.354231&zoom=14&dataset=sapporo&age=0&map2type=roadmap&dual=true
ともあれ、ここで明らかにしたかったことは、古川の痕跡が現在の川の2箇所で残っていることです。一つは昨日記した丘珠川で、前掲河川網図上の橙色▲の先です。そして二つ目は赤い▲の先に示したところで、これは「丘珠5号線」の上流部分に当たります。
11月22日ブログで記したとおり、古川は飛行場造成に当たって埋め立てられました。併行して飛行場の周囲に排水路が設けられたのですが、飛行場に合わせて古川の流れを人工的に変えたといっていいでしょう。
丘珠5号川の上流、すなわちレツレップ古川の河道に当たるところです。

前掲河川網図の赤い▲の辺りを、下流(北)から上流(南)を眺めました。ただしこの辺りはほとんど高低差が感じられず、どちらが上流か、戸惑いを覚えます。
丘珠の古川③
我が座右の書ならぬ座右の地図、札幌市河川網図から丘珠空港周辺を再掲します。

方位は1時半の向きが北です。
かつての飛行場敷地の四周を排水路が通じていることは先に記しました(末注①)。空港の南から東にかけて流れているのが「丘珠5号川」です。5号があるということは1~4号があるかと思ってみると、空港の北から東にかけて「丘珠2号川」~「丘珠2号水路」、さらにそこから北へ「丘珠3号水路」が枝分かれしています。1号と4号は載ってません。『写真で見る札幌の戦跡』2010年によると、空港の西側を流れている現在の「丘珠川」が1号だったようです。さらに、1号の上流から枝分かれして4号があったらしい(p.126)。
旧1号あらため、現丘珠川です。

前掲河川網図上、黄色の矢印の位置で撮りました。向きは下流(北)から上流(南)を眺めたものです。そこそこ水量があります。
さて、この丘珠川を遡上(地図上では南下)すると、空港の南側すなわち道道丘珠空港線に沿って暗渠となります。

画像は丘珠空港線を西から東方向に見たもので、左方が丘珠空港です。歩道の下を暗渠として流れているようです。
前掲河川網図をよく見ると、暗渠は上流部分で再び明渠となります。橙色の矢印を付けた先です。L字を右へ90度傾けたような実線が小さく描かれています。
そのL字部分の明渠です。

余談ながら、川のほとりに「ホテル 水色の詩」という広告塔が立っています。
私の個人的感慨にすぎないのですが、こういう川にはこの種のホテルの看板が馴染むようです(末注②)。看板が立っているところは河川敷地とおぼしく、ちゃんと占用許可を取っているか心配ですが、詮索はしないこととしましょう。
古地図に照らすと、この明渠部分こそ丘珠の古川、すなわちかつての「レツレップ」川なんですね。「水色の詩」の看板の隣に、私は「レツレップ古川」という標柱を立てたい衝動に駆られました。
注①:11月16日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-844.html及び同17日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-845.html参照
注②:2016.7.23ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-731.html参照

方位は1時半の向きが北です。
かつての飛行場敷地の四周を排水路が通じていることは先に記しました(末注①)。空港の南から東にかけて流れているのが「丘珠5号川」です。5号があるということは1~4号があるかと思ってみると、空港の北から東にかけて「丘珠2号川」~「丘珠2号水路」、さらにそこから北へ「丘珠3号水路」が枝分かれしています。1号と4号は載ってません。『写真で見る札幌の戦跡』2010年によると、空港の西側を流れている現在の「丘珠川」が1号だったようです。さらに、1号の上流から枝分かれして4号があったらしい(p.126)。
旧1号あらため、現丘珠川です。

前掲河川網図上、黄色の矢印の位置で撮りました。向きは下流(北)から上流(南)を眺めたものです。そこそこ水量があります。
さて、この丘珠川を遡上(地図上では南下)すると、空港の南側すなわち道道丘珠空港線に沿って暗渠となります。

画像は丘珠空港線を西から東方向に見たもので、左方が丘珠空港です。歩道の下を暗渠として流れているようです。
前掲河川網図をよく見ると、暗渠は上流部分で再び明渠となります。橙色の矢印を付けた先です。L字を右へ90度傾けたような実線が小さく描かれています。
そのL字部分の明渠です。

余談ながら、川のほとりに「ホテル 水色の詩」という広告塔が立っています。
私の個人的感慨にすぎないのですが、こういう川にはこの種のホテルの看板が馴染むようです(末注②)。看板が立っているところは河川敷地とおぼしく、ちゃんと占用許可を取っているか心配ですが、詮索はしないこととしましょう。
古地図に照らすと、この明渠部分こそ丘珠の古川、すなわちかつての「レツレップ」川なんですね。「水色の詩」の看板の隣に、私は「レツレップ古川」という標柱を立てたい衝動に駆られました。
注①:11月16日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-844.html及び同17日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-845.html参照
注②:2016.7.23ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-731.html参照
『金次郎はどこへいった』を読む金次郎
札幌駅近くの大型書店でときどき見かける二宮像です。

学校以外で見かけた市内4体(末注①)のうちの1体です。
例によって、何を読んでいるかと見たところ…。

藤倉徹夫著『金次郎はどこへいった』。この像に相応しい書名です。
藤倉さんは金次郎像に関する先達で、道内をくまなく調べておられます(末注②)。同書はつい最近出たばかりです。さっそく買いました。二宮教の信者としては、必読文献です。信者でない人も、この書を読んで信者になりましょう。税込2,000円、ユベオツ書房。
注①:2015.6.3ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-313.html参照
注②:2015.5.5ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-284.html参照

学校以外で見かけた市内4体(末注①)のうちの1体です。
例によって、何を読んでいるかと見たところ…。

藤倉徹夫著『金次郎はどこへいった』。この像に相応しい書名です。
藤倉さんは金次郎像に関する先達で、道内をくまなく調べておられます(末注②)。同書はつい最近出たばかりです。さっそく買いました。二宮教の信者としては、必読文献です。信者でない人も、この書を読んで信者になりましょう。税込2,000円、ユベオツ書房。
注①:2015.6.3ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-313.html参照
注②:2015.5.5ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-284.html参照
丘珠の古川②
昨日に続き、古地図に見る丘珠飛行場周辺です。

今回は大正5年地形図から採りました。
飛行場が造成されたのは1944(昭和19)年なので、この地図にはまだ描かれていません。現在の空港の位置を赤い線で大まかに示しました。この時点で丘珠村はすでに札幌村に編入されており、空港の中を横切る古川に沿って引かれていた村界線は消えています。
注目すべきは、その古川に沿って道が付けられていることです。人家を示す四角の点がぽつぽつ張り付いています。明治中期以降、この川に沿って入植が進んだのでしょう。
ところで、道は当然のことながら川に比べると直線的に通じています。この道が、現在の栄町と丘珠町の境界線になったと思われます。現在の境界線が空港敷地内でまっすぐに横切っているのは(11月21日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-850.html参照)、この道に由来すると想像します。
昨日記したように、この川は飛行場造成時に埋め立てられたと思われます。この川は往時、何と呼ばれていたのだろうか。
郷土史の文献によると、「レツレフ川」「レレップ古川」「レツレップ古川」と推測されています。

今回は大正5年地形図から採りました。
飛行場が造成されたのは1944(昭和19)年なので、この地図にはまだ描かれていません。現在の空港の位置を赤い線で大まかに示しました。この時点で丘珠村はすでに札幌村に編入されており、空港の中を横切る古川に沿って引かれていた村界線は消えています。
注目すべきは、その古川に沿って道が付けられていることです。人家を示す四角の点がぽつぽつ張り付いています。明治中期以降、この川に沿って入植が進んだのでしょう。
ところで、道は当然のことながら川に比べると直線的に通じています。この道が、現在の栄町と丘珠町の境界線になったと思われます。現在の境界線が空港敷地内でまっすぐに横切っているのは(11月21日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-850.html参照)、この道に由来すると想像します。
昨日記したように、この川は飛行場造成時に埋め立てられたと思われます。この川は往時、何と呼ばれていたのだろうか。
郷土史の文献によると、「レツレフ川」「レレップ古川」「レツレップ古川」と推測されています。
丘珠の古川
昨日のブログでお伝えした札幌村、丘珠村の村界を古地図でたどってみます。

明治29年地形図です。現在の丘珠空港の敷地を赤い線で(かなり大雑把にですが)プロットしてみました。
のちに飛行場ができる一帯のほぼ真ん中を、川が流れ、かつ川に沿って村界線が引かれています。昨日記した連合町内会の境界線とおおむね一致すると思います。
『丘珠百二十年史』1991年に、飛行場の造成について次のように記されています(pp.770-771)。
飛行場予定地の中を流れる数本の古川や滑走路サイドの下水、排水路の埋め立て、格納庫建築などが急ピッチで進められたが、当時まだ建築機材も進んでいなかったので、多くは人馬の労力に頼った。
前述の川は「飛行場予定地の中を流れる数本の古川」の一つとして、埋め立てられたのでしょう。地形図上は(のちの大正5年版も、昭和10年版も)この川しか描かれていませんが、地形的には小河川がほかにも流れていたことは想像できます。なお、排水路も埋め立てられたと前掲書には記述されていますが、既存の農業用排水路が埋め立てられたことはあるにせよ、飛行場の造成に合わせて新たに開削された作業の方が多大だったのではないかと私は思います(末注)。
広大な空港の敷地を市町村界がまたがることは珍しくはないと思いますし、税収上のことなどから、境界線を引き直すのは容易ではないでしょう。しかし丘珠の場合、同じ札幌市域内で今も町界線がまたがっていることに、私は歴史的重みを感じます。前掲『丘珠百二十年史』に記されているように、かなり強制的に住民を立ち退かせたという戦時中の経緯が町界線から伝わってくるのです。まあ、今さらあえて引き直す積極的必要性もないのかもしれませんが。
注:11月16日、17日ブログ参照。『写真で見る札幌の戦跡』2010年には、「整地、滑走路、排水溝、施設建設などで働く労働者はタコ部屋などに入れられた日本人や強制連行された朝鮮人で、苗穂刑務所の囚人も使われた」と記されている(p.124)。

明治29年地形図です。現在の丘珠空港の敷地を赤い線で(かなり大雑把にですが)プロットしてみました。
のちに飛行場ができる一帯のほぼ真ん中を、川が流れ、かつ川に沿って村界線が引かれています。昨日記した連合町内会の境界線とおおむね一致すると思います。
『丘珠百二十年史』1991年に、飛行場の造成について次のように記されています(pp.770-771)。
飛行場予定地の中を流れる数本の古川や滑走路サイドの下水、排水路の埋め立て、格納庫建築などが急ピッチで進められたが、当時まだ建築機材も進んでいなかったので、多くは人馬の労力に頼った。
前述の川は「飛行場予定地の中を流れる数本の古川」の一つとして、埋め立てられたのでしょう。地形図上は(のちの大正5年版も、昭和10年版も)この川しか描かれていませんが、地形的には小河川がほかにも流れていたことは想像できます。なお、排水路も埋め立てられたと前掲書には記述されていますが、既存の農業用排水路が埋め立てられたことはあるにせよ、飛行場の造成に合わせて新たに開削された作業の方が多大だったのではないかと私は思います(末注)。
広大な空港の敷地を市町村界がまたがることは珍しくはないと思いますし、税収上のことなどから、境界線を引き直すのは容易ではないでしょう。しかし丘珠の場合、同じ札幌市域内で今も町界線がまたがっていることに、私は歴史的重みを感じます。前掲『丘珠百二十年史』に記されているように、かなり強制的に住民を立ち退かせたという戦時中の経緯が町界線から伝わってくるのです。まあ、今さらあえて引き直す積極的必要性もないのかもしれませんが。
注:11月16日、17日ブログ参照。『写真で見る札幌の戦跡』2010年には、「整地、滑走路、排水溝、施設建設などで働く労働者はタコ部屋などに入れられた日本人や強制連行された朝鮮人で、苗穂刑務所の囚人も使われた」と記されている(p.124)。
ボーダーラインツアー 札幌村と丘珠村の村界
丘珠空港周辺の現在図です。

札幌市東区役所発行「東区ガイド」から抜粋しました。
この図で明らかなように、現在「栄町」という町名が付いているエリアは丘珠空港の北西約半分とその周辺に限られています。かつてはもっと広い一帯でしたが、市街化が進むとともに「条丁目」に変わりました(末注)。「栄町」を冠した学校や公共施設は、たいがい条丁目の区画内にあります。地下鉄の「栄町」駅の所在地は、駅ができたときすでに条丁目の町内でしたが、栄町と命名されました。栄町が遺るのは市街化調整区域のみです。かくて、文化は辺境に宿る。
もう一つ特筆すべきは、丘珠空港のほぼ真ん中を町界が横切っていることです。画像上、薄茶色の線が引かれています。北西側は前述のとおり栄町で、南東側は丘珠町です。前掲「東区ガイド」によると、この町界線は連合町内会の境目でもあります。前者は栄東連町で、後者は丘珠連町です。連町の境界は空港の南西部、すなわち条丁目の市街地の中をも、南へ通じています。
この境目は、元をたどると明治時代の旧札幌村と丘珠村の村界に由来します。丘珠村は1902(明治35)年に札幌村の一部になり、百年を経たこんにちでは条丁目の市街地で連坦しているのですが、連町(その基礎となる単位町内会)の境目として痕跡を留めているのですね。本ブログの読者の方はもうお察しだと思いますが、村界のさらなる由来は川に発します。そのことはおってまた記します。
旧村界は、空港をナナメに横切って北進し、北区との境(赤い一点鎖線)にぶつかります。
その場所の現在の風景です。

手前の広い道が北区と東区の境界になります。画像は北区側から南方すなわち東区側を眺めたものです。前掲現在図で赤矢印を付けた位置・向きです。北区と東区の境界ということは、こちらはかつての篠路村と札幌村の旧村界になります。
そして、画像左方から奥に向かって弯曲した道が、札幌村と丘珠村の旧村界に相当します。つまり、このT字路は3村の村界だったわけです。
路傍に樹形の広い木が一本、立っています。まるで村界の目印であるかのように。ムラザカイだなあとしみじみ感じました。
注:2015.2.21、22ブログ参照

札幌市東区役所発行「東区ガイド」から抜粋しました。
この図で明らかなように、現在「栄町」という町名が付いているエリアは丘珠空港の北西約半分とその周辺に限られています。かつてはもっと広い一帯でしたが、市街化が進むとともに「条丁目」に変わりました(末注)。「栄町」を冠した学校や公共施設は、たいがい条丁目の区画内にあります。地下鉄の「栄町」駅の所在地は、駅ができたときすでに条丁目の町内でしたが、栄町と命名されました。栄町が遺るのは市街化調整区域のみです。かくて、文化は辺境に宿る。
もう一つ特筆すべきは、丘珠空港のほぼ真ん中を町界が横切っていることです。画像上、薄茶色の線が引かれています。北西側は前述のとおり栄町で、南東側は丘珠町です。前掲「東区ガイド」によると、この町界線は連合町内会の境目でもあります。前者は栄東連町で、後者は丘珠連町です。連町の境界は空港の南西部、すなわち条丁目の市街地の中をも、南へ通じています。
この境目は、元をたどると明治時代の旧札幌村と丘珠村の村界に由来します。丘珠村は1902(明治35)年に札幌村の一部になり、百年を経たこんにちでは条丁目の市街地で連坦しているのですが、連町(その基礎となる単位町内会)の境目として痕跡を留めているのですね。本ブログの読者の方はもうお察しだと思いますが、村界のさらなる由来は川に発します。そのことはおってまた記します。
旧村界は、空港をナナメに横切って北進し、北区との境(赤い一点鎖線)にぶつかります。
その場所の現在の風景です。

手前の広い道が北区と東区の境界になります。画像は北区側から南方すなわち東区側を眺めたものです。前掲現在図で赤矢印を付けた位置・向きです。北区と東区の境界ということは、こちらはかつての篠路村と札幌村の旧村界になります。
そして、画像左方から奥に向かって弯曲した道が、札幌村と丘珠村の旧村界に相当します。つまり、このT字路は3村の村界だったわけです。
路傍に樹形の広い木が一本、立っています。まるで村界の目印であるかのように。ムラザカイだなあとしみじみ感じました。
注:2015.2.21、22ブログ参照
丘珠飛行場近くにあった掩体 補記
11月16日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-844.htmlで、丘珠空港周辺の北41条東16~19丁目あたりに旧陸軍の掩体が9基あったことを紹介しました。さらに、私自身の記憶として今から30年近く前、そのあたりに1基、まだ残っていたと記しました。「30年近く前」というのは、1987(昭和62)~1988年頃です。念のため、国土地理院のサイトで空撮写真をたどってみました。
1961(昭和36)年の写真です。

掩体またはその跡地とおぼしきカタチが3箇所、確認できます。橙色の○で囲ったところです。
1976(昭和51)年の写真です。

前掲1961年当時写っていた3基が、確認できません。
1976年というと、今から40年前です。私が現地で掩体を見たと記憶する1987~88年よりも古い。40年前の時点で、掩体はこのあたりですでに姿を消していたのか。11月16日ブログでは、東区在住のKさんの話として、このあたりに最後まで残っていた掩体が解体されたのは「昭和45年頃」という情報も載せました。Kさんの記憶の方が正しかったのかもしれません。
でも、しかし。私の脳裏にはそれらしきモノの姿がおぼろげに遺っている。私の記憶で掩体を見た場所というのは、「ひのまる公園」(北41条東10丁目)から北41条の通りを少し東へ行ったあたりでした。位置的には東16~19丁目と合致します。もしかしたら、場所が違っていたのだろうか。もっとも最近まで残っていたのは、空港東方にあった1基です(11月17日ブログ参照)。そちらだったのか。自分の怪しげな記憶にしがみつくのは、老化の現れですね。
北41条東18、19丁目の現在です。

東18丁目から東方を眺めました。今も畑地が広がっています。
1961(昭和36)年の写真です。

掩体またはその跡地とおぼしきカタチが3箇所、確認できます。橙色の○で囲ったところです。
1976(昭和51)年の写真です。

前掲1961年当時写っていた3基が、確認できません。
1976年というと、今から40年前です。私が現地で掩体を見たと記憶する1987~88年よりも古い。40年前の時点で、掩体はこのあたりですでに姿を消していたのか。11月16日ブログでは、東区在住のKさんの話として、このあたりに最後まで残っていた掩体が解体されたのは「昭和45年頃」という情報も載せました。Kさんの記憶の方が正しかったのかもしれません。
でも、しかし。私の脳裏にはそれらしきモノの姿がおぼろげに遺っている。私の記憶で掩体を見た場所というのは、「ひのまる公園」(北41条東10丁目)から北41条の通りを少し東へ行ったあたりでした。位置的には東16~19丁目と合致します。もしかしたら、場所が違っていたのだろうか。もっとも最近まで残っていたのは、空港東方にあった1基です(11月17日ブログ参照)。そちらだったのか。自分の怪しげな記憶にしがみつくのは、老化の現れですね。
北41条東18、19丁目の現在です。

東18丁目から東方を眺めました。今も畑地が広がっています。
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