札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
遠友夜学校の跡地②
昨日のブログに載せた南4条東4丁目を、古地図に照らしてみます。
「北海道札幌之圖」1878(明治11)年からの抜粋です(原図は北大図書館蔵)。
赤い○で囲ったところに、遠友夜学校ができます。学校ができたのは1894(明治27)年なので、この地図が描かれて16年後になります。赤い○のところは、豊平川の土手に面しています。かつての土手の地形が、現在も高低差として残っていたわけです。
『さっぽろ文庫18 遠友夜学校』1981年で、故高倉新一郎先生(北大生当時、夜学校の教壇に立った一人)が次のように記しています(pp.22-23、原文ママ)。
当時この辺(引用者注:夜学校のあたり)は豊平川原で、塵芥処理場があり、またその後も長く、貧民窟とか武士(ルビ:さむらい)部落とかいわれたような札幌の貧民の溜りでもあった。(中略)
記録が殆んどなく、ただ後世の思い出話を綴り合せて考えるだけだが、救済事業等が、不備というよりは無視され、侮蔑さえされていた時代、貧民窟の只中に、こうした足場を作った新渡戸夫妻の人類愛と先見は驚嘆に値する。
この地域がかつて貧民街であったことは多言を要しないのですが、なぜそうなったか。誰しもまず察しがつくのは、豊平川の河原に近かったことです。
これに加え、武井時紀先生は「古来、都市の東部には貧民街ができやすい」と述べています(『さっぽろ雑学ノート』1983年、p.75)。その根拠は俗説めいていますが、説得力を感じます。とまれ、夜学校のあたりはかつて、札幌のイースト・エンドでした。
武井先生に倣って、私は「都市の東部には宗教施設ができやすい」という仮説を立てています。その持論はおって披瀝します。
「北海道札幌之圖」1878(明治11)年からの抜粋です(原図は北大図書館蔵)。
赤い○で囲ったところに、遠友夜学校ができます。学校ができたのは1894(明治27)年なので、この地図が描かれて16年後になります。赤い○のところは、豊平川の土手に面しています。かつての土手の地形が、現在も高低差として残っていたわけです。
『さっぽろ文庫18 遠友夜学校』1981年で、故高倉新一郎先生(北大生当時、夜学校の教壇に立った一人)が次のように記しています(pp.22-23、原文ママ)。
当時この辺(引用者注:夜学校のあたり)は豊平川原で、塵芥処理場があり、またその後も長く、貧民窟とか武士(ルビ:さむらい)部落とかいわれたような札幌の貧民の溜りでもあった。(中略)
記録が殆んどなく、ただ後世の思い出話を綴り合せて考えるだけだが、救済事業等が、不備というよりは無視され、侮蔑さえされていた時代、貧民窟の只中に、こうした足場を作った新渡戸夫妻の人類愛と先見は驚嘆に値する。
この地域がかつて貧民街であったことは多言を要しないのですが、なぜそうなったか。誰しもまず察しがつくのは、豊平川の河原に近かったことです。
これに加え、武井時紀先生は「古来、都市の東部には貧民街ができやすい」と述べています(『さっぽろ雑学ノート』1983年、p.75)。その根拠は俗説めいていますが、説得力を感じます。とまれ、夜学校のあたりはかつて、札幌のイースト・エンドでした。
武井先生に倣って、私は「都市の東部には宗教施設ができやすい」という仮説を立てています。その持論はおって披瀝します。
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