札幌時空逍遥

札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。

2016/10/30

明日から数日、帰省します。

 母のもとへ行きます。
 母は10月で満90歳になりました。卒寿です。術後(6月20-23日ブログ参照)の経過はいたって良好なのですが、老人力が弥増してきています。今後のことを話してきます。
 ブログは、例によってガラケーから発信できればしたいと思います。
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2016/10/29

祝北海道日本ハムファイターズ日本一

 試合後、広島カープのファンがファイターズの選手を讃えて拍手を送っていたのが、いい風景でした。 

2016/10/28

電停「頓宮前」の看板

 札幌市市電の古い停留所看板は、「札幌市交通資料館」に陳列されています。同資料館以外で遺されているのは、北大の文書館です(なぜ北大の文書館というところで遺っているか、という顛末については2014年9月30日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-68.html及び同年10月1日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-69.html参照)。

 これまで私は、電停の看板が遺っているのはこの2箇所しかない、と思っていました。先日、北海道遺産協議会事務局のGさんから、もう1箇所あることを教えてもらいました。
 それが、こちらです。
電停看板 頓宮前
 北海道神宮頓宮(中央区南2条東3丁目)に在ります。
 社務所の方に伺うと、ある古美術商から1993(平成5)年に奉納されたもので、これまで倉庫に眠っていたのを昨年から展示するようにしたとのことです。
 これで看板所在地は、判明する限り3箇所です。まだどこかに在るやもしれぬ。
 
 札幌市交通局『市電70年のあゆみ』1997年によると、市電一条線は1925(大正14)年に「一条橋」まで開通、1973(昭和48)年に「西4丁目-一条橋」間が廃止されました。

2016/10/27

北大の人道橋

 石山通りの北7、8条付近です。
北大 人道橋
 通りの西側に北大の飛び地があり、東側(大学のキャンパス)と人道橋で結ばれています。札幌に来て40年近くなろうとしていますが、私はこれまで、この橋を渡った記憶がありません。西側には苗圃がありますが、行く用事もなかったし、関係者以外立入禁止なのかなと漠然と思ってました。この橋は、関係者が行き来しやすいように北大で架けたのだろうと、これまた漠然と思ってました。

 このたび橋を渡って、銘鈑が目に入りました。
北大 人道橋 銘鈑
 「1972年9月 札幌市建造」と。この橋は、北大の敷地を突き切って石山通りを北へ延ばしたときに札幌市が架けたものらしい。

2016/10/26

滝川 軟石倉庫

 9月に札沼線に乗ったとき、新十津川からバスで滝川に出ました(9月21日ブログ参照)。
 
 滝川の市街で軟石建物を見ました。
滝川 軟石倉庫
 札幌軟石と見受けました。

 軟石に接続して煉瓦の倉庫もあります。
滝川 軟石倉庫 煉瓦部分
 直観的印象では、軟石のほうが古そうで、あとから煉瓦で建て増したようです。煉瓦は長手積み。基礎部分は軟石っぽい。

 この倉庫の向かいにも、煉瓦造の倉庫があります。
滝川 煉瓦造倉庫
 同じように腰屋根を載せています。

 前掲の軟石+煉瓦倉庫の隣には、これまた煉瓦造の住宅があります。
滝川 軟石+煉瓦倉庫の隣の煉瓦造住宅
 しかも、塀が軟石です。門柱は大谷石か。住宅の煉瓦はイギリス積み。

 一連の建物はどうも、同じ所有者のようです。住宅にお住まいの方に訊いたら判るのではないかと思い、ピンポンしたのですが、ご不在でした。空き家のような気配でもあります。
 建物の建築時期や用途等、詳細は判らずじまいでした。ご存じの方、ご一報いただけたら幸いです。所在地は滝川市花月町1丁目です。

2016/10/25

母の薬莢

 昨日のブログで、旧陸軍の薬莢をお伝えしました。薬莢というものを私が自分の眼で見たのは二度目です。ほかにも見たことはあるのかもしれませんが、はっきり覚えているのが二度しかない。

 では、私が初めて見た薬莢はどれかというと、こちらです。
薬莢 母の花入れ
 母が持ってました。

 昨日紹介した上野幌のDさん同様、母も薬莢を再利用していました。さて、何に再利用していたと思いますか?
 
 花入れです。母は若いときから生け花を習っていました。薬莢を花入れにするというセンス。我が母ながら、私は好きです。そのおかげで、戦後数十年を経て、軍の遺物を手に取ることができたのですから。
 母の実家は愛知県一宮市北方町というところで、岐阜県と木曽川を挟んで県境にあります。ここは、JR東海道本線の鉄橋が架かっています(末注)。母によると、戦時中、この橋の近くに高射砲の部隊が駐屯していたそうです。東海道本線は日本の交通の大動脈ですから、爆撃されないように警護したのでしょう。

 十年ほど前に母に聞いた話では、その部隊で使っていた薬莢を貰ったとのことです。「木曽川の上空を飛んでいた米軍機(B29?)を高射砲で狙い撃っていたが、全然届かなかった」と言ってました。母の話がどこまで正確か定かではありませんが、一軍国乙女がそう受け止めていたという記憶遺産を継承しておきます。

 私にとっては、この薬莢が標準になっていましたので、昨日の薬莢は太い印象を抱きました。 
薬莢 母の花入れ②
 底に近いところに「文」と刻まれています。これは、母が自分の名前を一字入れたもののようです。今度、母のもとに帰ったときに、当時のことをもう少し聴いておきます。母は日本の戦前を知る数少ない一人ですから。

注:一宮市博物館『一宮の近代化遺産 街で見つけた近代』2003年によると、「旧官設鉄道 木曽川橋梁」は1887(明治20)年に竣工した。御雇外国人ポーナル(英国)設計による、トラス鋼橋。昭和30~40年代に架け替えられた。

2016.12.9 関連事項追記 http://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-863.html

2016/10/24

厚別弾薬庫(承前) 

 10月18日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-819.htmlで厚別弾薬庫のことを記しました。その続きです。

 敗戦間際の1945(昭和20)年7月、この弾薬庫にあった弾薬が別の場所に移されます。米軍による空爆の標的とされることを陸軍が恐れたためです。当時の軍関係者の証言により、移設先は「三里塚の山林地帯に『コの字型』の洞窟式火薬庫を七、八カ所作ることとし、月寒部隊より兵員多数を派遣してもらった」(西田秀子論文2005年、10月18日ブログ参照)とされてきました。
 近年、厚別南地区センター所長・Tさんの調査により、新たな事実が判明しました。厚別区上野幌に長く住むDさんの証言により、弾薬を移設した具体的な場所が明らかとなったのです。

 その場所というのは…。
厚別公園競技場
 厚別公園競技場(上野幌3条1丁目)です。

 地図で確認しておきます。
昭和10年地形図 厚別公園競技場周辺
 昭和10年地形図です。緑色の四角で囲ったのが現在の厚別公園競技場のあたり、橙色の○が厚別弾薬庫(現在のサンピアザ)の位置になります。厚別弾薬庫ができたのは1943(昭和18)年なので、この地図にはまだ建物などは描かれていません。
 弾薬の移設作業が行われたのは1945年7月14-15日だそうです。この日、米海軍艦載機(グラマンほか)が北海道を爆撃します。札幌では、丘珠飛行場などが空爆、機銃掃射されました。白石駅周辺でも、列車が機銃掃射を受けました。これで、厚別弾薬庫も危ないとなったようです。 

 前掲の地形図を見ると、移設先(緑色の四角)は、三里川河岸の傾斜地で、等高線が込み入っています。近くに「陸軍地」という地名が記されています(赤い○で囲ったところ)。この地名は大正5年地形図に現れます。西田さんによると、ここは月寒の歩兵25連隊の演習地だったのではないか、ということです。弾薬を急遽移すことができたのは、比較的近くに軍用地があったからと推測されます。

 前述のDさんの話を裏付ける物的証拠です。
厚別公園競技場 薬莢
 のちに厚別公園競技場ができる場所で、Dさんが見つけた薬莢です。

 「破魔矢 1,000円」という紙が貼られているのは、Dさんがこの薬莢を上野幌神社に寄付し、同神社の破魔矢入れとして再利用されているためです。よって、神社の例祭に行ったらこの薬莢を見ることができます。画像は、先日開催された西田さんの講演会に合わせてDさんが会場に持ってこられたときに、撮らせてもらいました。

2016/10/23

北大・メインストリートの水溜り

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足 2016秋の編」2回目を、無事終えました。参加された皆さん、寒い中をありがとうございました。Ⅰ先生の解説により、中身の「濃いい」北大キャンパスツアーとなりました。
 大袈裟に言えば、「人の生き方とは何ぞや?」と自問・内省したくなるような小旅行でした。
 
 以下は、自問・内省とは直接関係ありません。
 北大の通称「メインストリート」です。 
北大・メインストリートの水溜り
 場所は北12条西7丁目、矢印の先のところに水溜りができています。僅かな高低差です。これも、昨日お伝えした「ブラインド・ウィンドウ」同様、Ⅰ先生に指摘されてあらためて気づきました。念のため国土地理院地図電子版で標高を調べたら、この地点で13.7m、その北と南では14mを越えていて、確かに窪んでいました。この窪みの下をサクシコトニが流れています。その地霊ならぬ水霊が、地表に水となって現れている。

 昨日お伝えした古河講堂のブラインド・ウィンドウ、なぜ窓が塞がれていたかというと、この壁面に黒板が掛けられていたからだそうです。

2016/10/22

北大・古河講堂のブラインドウィンドウ

 北大の古河講堂です。
北大 古河講堂 ブラインドウィンドウ
 北側の窓が一部、塞がれています。ブラインドウィンドウというそうです。昨日の札幌建築鑑賞会「大人の遠足」で、ガイドのⅠ先生から教えていただきました。「なぜ、塞がれているのでしょう?」と先生が参加者に問うたのですが、考えてみたこともなかった。この建物、若い時分から何十回(いや、何百回か?)と見てきましたが、塞がれているということ自体、私は認識していなかったのではなかろうか。
 北側だから、防寒のためか? しかし塞がれているのは翼棟のところだけで、中央の部分は開口している。 採光すると支障が生じる何かがあるのか? しかし西側面は開口している。北側だけふさいでも、採光はさほど変わるまい。
 23日に遠足の2回目があり、答えをばらすと参加者が興ざめしますので、ひとまず措きます。

2016/10/21

大人の遠足2016秋の編 1回目

 札幌建築鑑賞会「大人の遠足2016秋の編」を敢行しました。北大構内の散策です。

北大 インフォメーションセンター「エルムの森」前

 今秋一番の寒気の中を28名が2時間、歩きました。昨日来の冷え込みで参加者の出足はもっと鈍るのではないかと予想していたのですが、所用や風邪でキャンセルの事前連絡があった人以外、全員参加です。毎度のことながら、参加者の熱意に敬服します。
 しかも、参加者一同、最後まで歩きとおしました。これはひとえに、ガイド役のⅠ先生(北大工学研究院)の話に惹きつけられたからと察します。Ⅰ先生からは折々、北大の建物に関わった人々のナマナマシイ葛藤が語られました。公式のガイドマップなどには載っていない、人間臭い話です。
 参加された皆さんには、体調を崩されないようご自愛を祈っています。明後日には2回目を実施します。次回も無事終えられるよう願うのみです。

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Author:keystonesapporo
1991年から札幌建築鑑賞会を続けてきました。

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