札幌時空逍遥
札幌の街を、時間・空間・人間的に楽しんでいます。 新型冠状病毒退散祈願
ツホコマナイ①
8月24日ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-763.htmlで、鴨々川の今は亡き支流のことを記しました。
下図の青色破線でなぞったのが、その支流です。

原図は「札幌全区地番明細連絡図」1912(明治45)年から抜粋しました(2015.5.12ブログ掲載済み)。
9月22日に催された「創成川・鴨々川 川めぐりウォーキング」で、ガイドのFさん(札幌市博物館活動センター学芸員)から、この川が「ツポコマナイ」かもしれないというお話がありました。
ツポ(ホ)コマナイは、山田秀三先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年で言及している川です(pp.28-30)。語釈は「走り尾根の・下・にある・川」。先生は、その尾根というのは「軍艦岬」のことであるとし、ツホコマナイは「上山鼻川」と推測しています。
現在「上山鼻川」という川はありません(「札幌市河川網図」2012年で確認)。同書で先生が描いた地図に照らすと、現在の「山鼻川」がこれに当たります。
河川網図で確認しておきます(方位は2時の方向がほぼ北)。

薄い青でなぞったのが山鼻川です。濃い青が鴨々川、破線は今は亡きその支流です。
山鼻川は藻岩山南斜面の沢からミナモトを発して、軍艦岬を巻いて北流し、南28条で豊平川に合流します。かたや鴨々川の支流は現在の札幌南高校あたりがミナモトのようで、中島公園白鶴橋近くで鴨々川に合流します。
さて、ツホコマナイはどの川か?
下図の青色破線でなぞったのが、その支流です。

原図は「札幌全区地番明細連絡図」1912(明治45)年から抜粋しました(2015.5.12ブログ掲載済み)。
9月22日に催された「創成川・鴨々川 川めぐりウォーキング」で、ガイドのFさん(札幌市博物館活動センター学芸員)から、この川が「ツポコマナイ」かもしれないというお話がありました。
ツポ(ホ)コマナイは、山田秀三先生が『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年で言及している川です(pp.28-30)。語釈は「走り尾根の・下・にある・川」。先生は、その尾根というのは「軍艦岬」のことであるとし、ツホコマナイは「上山鼻川」と推測しています。
現在「上山鼻川」という川はありません(「札幌市河川網図」2012年で確認)。同書で先生が描いた地図に照らすと、現在の「山鼻川」がこれに当たります。
河川網図で確認しておきます(方位は2時の方向がほぼ北)。

薄い青でなぞったのが山鼻川です。濃い青が鴨々川、破線は今は亡きその支流です。
山鼻川は藻岩山南斜面の沢からミナモトを発して、軍艦岬を巻いて北流し、南28条で豊平川に合流します。かたや鴨々川の支流は現在の札幌南高校あたりがミナモトのようで、中島公園白鶴橋近くで鴨々川に合流します。
さて、ツホコマナイはどの川か?
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倶知安で時空逍遥②
倶知安駅の近くで見かけた標柱です。

「地中導体埋設…」と彫られています。
左側面には…。

「日本国有鉄道」と。
同じく、駅近くで見た古いコンテナです。

車窓から撮りました。
うっすらと「国鉄コンテナ」と読めます(黄色の下線のところ)。

古い駅の近辺には「国鉄」がまだ残っているのだなあ(末注)。
注:2014.12.22ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-151.html参照

「地中導体埋設…」と彫られています。
左側面には…。

「日本国有鉄道」と。
同じく、駅近くで見た古いコンテナです。

車窓から撮りました。
うっすらと「国鉄コンテナ」と読めます(黄色の下線のところ)。

古い駅の近辺には「国鉄」がまだ残っているのだなあ(末注)。
注:2014.12.22ブログhttp://keystonesapporo.blog.fc2.com/blog-entry-151.html参照
ニセコで時空逍遥③
ニセコ町の旧名は「狩太町」です。
今、「狩太」という旧地名が残っているのは、「狩太神社」ぐらいでしょうか。あとは、有島武郎ゆかりの「狩太共生農団」の碑か。
「ニセコ中央倉庫群」の1号倉庫には…。

正面に「ニセコ農業倉庫」と書かれているのですが…。
よく見ると…。

その下に、うっすらと右から「狩太農業倉庫」と書かれています。黄色の下線を引いたところです。館長のMさんに教えていただいて気づきました。
なお、軟石の表面が薄緑色をしていますが、正面だけペンキが塗られているからで、本来の軟石の色ではありません。
「狩太」はこれだけかと思っていましたが…。

JRの踏切で見つけました。
「狩太踏切」と。

さすが、踏切。
注:『ニセコ町観光ガイド』の「狩太町からニセコ町へ改名」の項によると、改名の背景には1963(昭和38)年、「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」の指定がある。「町の新しい方向性と目標を定めて、町民が一丸となって推進していくことを示すため、昭和39年10月1日に、町名をニセコ町と改めました」と(p.4)。当時、周辺の倶知安町などがこれに反対したと伝え聞いたことがある。ニセコの名前を独り占めされたくなかったらしい。
前述の『観光ガイド』の記述があまりに美しいことに、私は少し怪しいニオイを嗅いでしまった。そこで山田秀三先生の『北海道の地名』1984年をひもとくと、狩太の由来はマッカリ・プトゥの「マッ」が略されてのこととしつつ、次のように書かれている。「それが酒間の戯れ歌に使われて、『一に狩太、二ににべべつ』のように唄われてきた。そんなこともあって(中略)ニセコ町に改名したのであろうか」(p.464)。私が内心抱いていた憶測を、先生はすでに表現していた。
今、「狩太」という旧地名が残っているのは、「狩太神社」ぐらいでしょうか。あとは、有島武郎ゆかりの「狩太共生農団」の碑か。
「ニセコ中央倉庫群」の1号倉庫には…。

正面に「ニセコ農業倉庫」と書かれているのですが…。
よく見ると…。

その下に、うっすらと右から「狩太農業倉庫」と書かれています。黄色の下線を引いたところです。館長のMさんに教えていただいて気づきました。
なお、軟石の表面が薄緑色をしていますが、正面だけペンキが塗られているからで、本来の軟石の色ではありません。
「狩太」はこれだけかと思っていましたが…。

JRの踏切で見つけました。
「狩太踏切」と。

さすが、踏切。
注:『ニセコ町観光ガイド』の「狩太町からニセコ町へ改名」の項によると、改名の背景には1963(昭和38)年、「ニセコ積丹小樽海岸国定公園」の指定がある。「町の新しい方向性と目標を定めて、町民が一丸となって推進していくことを示すため、昭和39年10月1日に、町名をニセコ町と改めました」と(p.4)。当時、周辺の倶知安町などがこれに反対したと伝え聞いたことがある。ニセコの名前を独り占めされたくなかったらしい。
前述の『観光ガイド』の記述があまりに美しいことに、私は少し怪しいニオイを嗅いでしまった。そこで山田秀三先生の『北海道の地名』1984年をひもとくと、狩太の由来はマッカリ・プトゥの「マッ」が略されてのこととしつつ、次のように書かれている。「それが酒間の戯れ歌に使われて、『一に狩太、二ににべべつ』のように唄われてきた。そんなこともあって(中略)ニセコ町に改名したのであろうか」(p.464)。私が内心抱いていた憶測を、先生はすでに表現していた。
ニセコで時空逍遥②
ニセコの駅前に遺る旧澱粉工場の木骨石造倉庫2棟です。

画像上、奥が1号倉庫、手前が2号倉庫です。
用いられている軟石は、さて、どこの産か。
つぶさに見てみましょう。

2号倉庫の側面です。
本ブログの読者の中には「札幌軟石とちょっと違うな」と思われた方もいらっしゃるでしょう。私も、そう思いました。
まず黒っぽい礫が、かなり多く混じっています。次に、白っぽい斑状の砂質も多い。これは札幌軟石にも含まれる火山灰由来の軽石か。札幌軟石に含まれる軽石は、これほど目立ちません。この白い斑はもしかしたら、軽石ではないのではないか(末注)。
1号倉庫の側面です。

いわゆる溶結の地質には見えない。つまり札幌軟石=溶結凝灰岩とは異なって見える。
私がこれまで見てきた経験からすると、小樽軟石に近い。正確にいうと、小樽で見られる、札幌軟石ではない軟石に似ている。
「ニセコ中央倉庫群」館長のMさんによると、この倉庫の軟石を見た人の話では「札幌軟石とはどうも違う」「小樽かもしれないが、断定はできない」ということでした。
注:北大総合博物館のM先生によると、小樽軟石に見られる白い斑状は軽石ではなく、「流紋岩質砂岩凝灰岩」である。これまで本ブログで、小樽軟石の建物を紹介した際に「軽石」と記してきた部分は訂正を要する。流紋岩は火山岩すなわちマグマ由来である。この斑部分を採取して化学組成を分析したら、一歩近づけるかもしれない。

画像上、奥が1号倉庫、手前が2号倉庫です。
用いられている軟石は、さて、どこの産か。
つぶさに見てみましょう。

2号倉庫の側面です。
本ブログの読者の中には「札幌軟石とちょっと違うな」と思われた方もいらっしゃるでしょう。私も、そう思いました。
まず黒っぽい礫が、かなり多く混じっています。次に、白っぽい斑状の砂質も多い。これは札幌軟石にも含まれる火山灰由来の軽石か。札幌軟石に含まれる軽石は、これほど目立ちません。この白い斑はもしかしたら、軽石ではないのではないか(末注)。
1号倉庫の側面です。

いわゆる溶結の地質には見えない。つまり札幌軟石=溶結凝灰岩とは異なって見える。
私がこれまで見てきた経験からすると、小樽軟石に近い。正確にいうと、小樽で見られる、札幌軟石ではない軟石に似ている。
「ニセコ中央倉庫群」館長のMさんによると、この倉庫の軟石を見た人の話では「札幌軟石とはどうも違う」「小樽かもしれないが、断定はできない」ということでした。
注:北大総合博物館のM先生によると、小樽軟石に見られる白い斑状は軽石ではなく、「流紋岩質
ニセコで時空逍遥
ヘリマネ講座の二日目、今日はニセコ町の「ニセコ中央倉庫群」を見学しました。
二日目も参加する受講者はたいてい倶知安に泊まりましたが、私はいったん札幌に帰った後、今早朝再びJRでニセコに向かいました(そのほうが泊まるより安上がりなので)。
小樽からの倶知安行き一両ディーゼル車はとても混んでましたね。札幌地下鉄、平日朝のラッシュ並みです。客の数名が乗りきれず、急遽余市までの代替バスを出すことになるほどでした。
「函館本線の長万部-小樽間は完全なローカル線 ― 普通列車しか走らず、しかも本数が少ないというさびしい線 ― と化している(末注)のは事実ですが、先日の札沼線といい、“ローカル線=おしなべて、のどかでノンビリ”という先入観を私は遅まきながら改めました。
とまれ、余市で客の多くが下車した後は車窓を楽しみながら、倶知安で蘭越行きに乗り換え、ニセコに着きました。
ニセコの「倉庫群」は、もともと澱粉工場と馬鈴薯等の収蔵庫で、近年多目的空間として再生しました。

画像左方の木造が旧澱粉工場1957(昭和32)年築、右方の木骨石造が倉庫1931(昭和6)年築です。
施設を運営するNPO法人の理事にして館長のMさんに案内していただきました。

私がもっとも気になっていたのが、「倉庫の石は、どこの産か?」です。それを確かめるのが、ニセコまで来た最大の動機でもあります。コアな参加者一団だけあって、幾人かはやはり同じ関心を示し、Mさんに尋ねていました。
軟石(凝灰岩)には見えるのですが、ではどこの軟石か。その答えは如何?
注:堀淳一『北海道 地図の中の鉄路』2014年、p.52
二日目も参加する受講者はたいてい倶知安に泊まりましたが、私はいったん札幌に帰った後、今早朝再びJRでニセコに向かいました(そのほうが泊まるより安上がりなので)。
小樽からの倶知安行き一両ディーゼル車はとても混んでましたね。札幌地下鉄、平日朝のラッシュ並みです。客の数名が乗りきれず、急遽余市までの代替バスを出すことになるほどでした。
「函館本線の長万部-小樽間は完全なローカル線 ― 普通列車しか走らず、しかも本数が少ないというさびしい線 ― と化している(末注)のは事実ですが、先日の札沼線といい、“ローカル線=おしなべて、のどかでノンビリ”という先入観を私は遅まきながら改めました。
とまれ、余市で客の多くが下車した後は車窓を楽しみながら、倶知安で蘭越行きに乗り換え、ニセコに着きました。
ニセコの「倉庫群」は、もともと澱粉工場と馬鈴薯等の収蔵庫で、近年多目的空間として再生しました。

画像左方の木造が旧澱粉工場1957(昭和32)年築、右方の木骨石造が倉庫1931(昭和6)年築です。
施設を運営するNPO法人の理事にして館長のMさんに案内していただきました。

私がもっとも気になっていたのが、「倉庫の石は、どこの産か?」です。それを確かめるのが、ニセコまで来た最大の動機でもあります。コアな参加者一団だけあって、幾人かはやはり同じ関心を示し、Mさんに尋ねていました。
軟石(凝灰岩)には見えるのですが、ではどこの軟石か。その答えは如何?
注:堀淳一『北海道 地図の中の鉄路』2014年、p.52
倶知安で時空逍遥
倶知安に行ってきました。
JRの山まわり線を余市より向こう(函館寄り)まで乗るのは、何十年ぶりです。仁木、然別を過ぎたあたりから、胸突き八丁をやっとの思いで列車が上っていくのは相変わらずですね。
倶知安で開催された「北海道ヘリテージマネージメント専門職育成講座」(2015.10.18ブログ参照)の関連行事に参加しました。座学の後、町内の古き建物を見学しました。
倶知安の古き建物といえば、こちらです。

駅前の農協倉庫。札幌軟石とお見受けしました。
見学したのはここと「二世古酒造」なのですが、行事が始まる前にひとりで先に街を歩きました。もう一つ、気になっていた建物があったからです。
駅前通りの某家電店(の付設倉庫)です。

こちらも札幌軟石のような色合い、質感です。
店主に伺うと、「はっきりした年はわからないが、大正時代(の築)と聞いている。元は澱粉工場だった」とのこと。
澱粉工場というところに、土地柄が感じられます。店主のお話では札幌軟石だそうです。大正時代であれば鉄路で運んだとは考えられます。あくまでも口承情報ですが、一つ歴史が見えて、嬉しかったです。
夕映えの羊蹄山です。

この山を「ヨーテーザン」と呼ぶのは気が引けるのですが、ともあれ美しい。
JRの山まわり線を余市より向こう(函館寄り)まで乗るのは、何十年ぶりです。仁木、然別を過ぎたあたりから、胸突き八丁をやっとの思いで列車が上っていくのは相変わらずですね。
倶知安で開催された「北海道ヘリテージマネージメント専門職育成講座」(2015.10.18ブログ参照)の関連行事に参加しました。座学の後、町内の古き建物を見学しました。
倶知安の古き建物といえば、こちらです。

駅前の農協倉庫。札幌軟石とお見受けしました。
見学したのはここと「二世古酒造」なのですが、行事が始まる前にひとりで先に街を歩きました。もう一つ、気になっていた建物があったからです。
駅前通りの某家電店(の付設倉庫)です。

こちらも札幌軟石のような色合い、質感です。
店主に伺うと、「はっきりした年はわからないが、大正時代(の築)と聞いている。元は澱粉工場だった」とのこと。
澱粉工場というところに、土地柄が感じられます。店主のお話では札幌軟石だそうです。大正時代であれば鉄路で運んだとは考えられます。あくまでも口承情報ですが、一つ歴史が見えて、嬉しかったです。
夕映えの羊蹄山です。

この山を「ヨーテーザン」と呼ぶのは気が引けるのですが、ともあれ美しい。
子取川⑤
9月19日ブログの続きです。
札幌競馬場の東側を流れていたという子取川。競馬場関係の書物以外では、私は聞いたことのない地名(川名)です。この名前は、『札幌競馬沿革誌』1928年に出てきます。同書は1911(明治44)年が初版で、どうもそれが出どころらしい。
同じ年の「北海タイムス」(現北海道新聞)8月26日記事です。

「札幌競馬沿革」という特集記事に、「子取川時代」という一節があります(末注①)。文面は『札幌競馬沿革誌』の記述とほぼ同じで、どちらかがどちらかを引用したものと思われます。この中に「札幌の西北端琴似川の東岸字子取川農場」に新競馬場を作ったことが記されています(赤傍線の箇所)。
まだ調べは終わっていないのですが、現時点での私の推論を以下に述べます。
推論A:子取川の由来はチエプンペツ
チエプンペツは、山田秀三先生によると、現在の植物園あたりにミナモト(ピシクシメム)を発し、鉄道の北側でコトニ川すなわち現在の知事公館にミナモト(キムクシメム)を発する川に合流します(末注②)。

濃い青でなぞったのがチエプンペツ、薄い青がコトニ川です(元図は明治29年地形図)。
同じく山田先生の語釈によれば、チエプンペツは「魚が・そこに入る・川」です。一方「子取川」は、『札幌競馬場100年史』2007年で「俗説」として、サケの卵(筋子)を取る川という由来が紹介されています。チエプンペツの意訳としての子取川が考えられます。
推論B:子取川は琴似川の誤記
コトリ川、コトニ川。似ています。「子取川」は、明治期の古地図などに出てきません。いくら俗称地名だとしても、疑わしい。サケの卵を取るという由来も、あとづけ臭い。
注①:この年に皇太子(後の大正天皇)が行啓し、札幌競馬場に台臨した。記事はそれに合わせて特集したものらしい。
注②山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.56。松浦武四郎の『西蝦夷日誌』の「チエフンベツ」を語釈した。なお先生は、他の古文書に書かれた「セロンペツ」(セロヲンヘツ、マロンヘツ)と「同じ川らしく見える」と記す(p.53)。
札幌競馬場の東側を流れていたという子取川。競馬場関係の書物以外では、私は聞いたことのない地名(川名)です。この名前は、『札幌競馬沿革誌』1928年に出てきます。同書は1911(明治44)年が初版で、どうもそれが出どころらしい。
同じ年の「北海タイムス」(現北海道新聞)8月26日記事です。

「札幌競馬沿革」という特集記事に、「子取川時代」という一節があります(末注①)。文面は『札幌競馬沿革誌』の記述とほぼ同じで、どちらかがどちらかを引用したものと思われます。この中に「札幌の西北端琴似川の東岸字子取川農場」に新競馬場を作ったことが記されています(赤傍線の箇所)。
まだ調べは終わっていないのですが、現時点での私の推論を以下に述べます。
推論A:子取川の由来はチエプンペツ
チエプンペツは、山田秀三先生によると、現在の植物園あたりにミナモト(ピシクシメム)を発し、鉄道の北側でコトニ川すなわち現在の知事公館にミナモト(キムクシメム)を発する川に合流します(末注②)。

濃い青でなぞったのがチエプンペツ、薄い青がコトニ川です(元図は明治29年地形図)。
同じく山田先生の語釈によれば、チエプンペツは「魚が・そこに入る・川」です。一方「子取川」は、『札幌競馬場100年史』2007年で「俗説」として、サケの卵(筋子)を取る川という由来が紹介されています。チエプンペツの意訳としての子取川が考えられます。
推論B:子取川は琴似川の誤記
コトリ川、コトニ川。似ています。「子取川」は、明治期の古地図などに出てきません。いくら俗称地名だとしても、疑わしい。サケの卵を取るという由来も、あとづけ臭い。
注①:この年に皇太子(後の大正天皇)が行啓し、札幌競馬場に台臨した。記事はそれに合わせて特集したものらしい。
注②山田秀三『札幌のアイヌ地名を尋ねて』1965年、p.56。松浦武四郎の『西蝦夷日誌』の「チエフンベツ」を語釈した。なお先生は、他の古文書に書かれた「セロンペツ」(セロヲンヘツ、マロンヘツ)と「同じ川らしく見える」と記す(p.53)。
鴨々川ウォーキング 2016秋の編
今日は「創成川・鴨々川 川めぐりウォーキング」でした。
2016 秋編の第1回で、札幌市博物館活動センター学芸員のFさんのガイドにより、幌平橋から南1条まで歩きました。私は第2回のガイドを務めるので、今回はスタッフとして(というか、次回の準備を兼ねて)参加しました。
実に刺激的で、知的好奇心をそそるツアーでした。さすがFさん。古地図と古写真を読み解きながら、札幌の自然と歴史の関わり合いが判りやすく語られました。とても敵いません。が、私も次回を引き受けた以上、感心してばかりではいられません。なんとかします。
Fさんのご高察はおいおい本ブログで紹介させていただくとして、今回の行程では面白いモノを見ました。
行啓通り、鴨々川の南14条橋です。

参加者の一人が「サケがいる!」と見つけました。
黄色の矢印の先、岸辺に一匹横たわっています。
ホッチャレです。

Fさんも「鴨々川でサケを見たのは初めてだ」と驚いていました。
鴨々川にサケが遡上!? 鴨々川の下流は創成川、さらにその下流は茨戸川で、石狩川に通じています。
豊平川で生まれた稚魚が、大海の回遊を経て、戻ってくるのを間違えてしまったのか。まあ、中にはそういうオッチョコチョイなのもいるんだろうな。ホッチャレに親近感を覚えました。
帰宅してから、気になって「札幌市豊平川サケ科学館」に問い合わせてみました。
科学館の職員氏曰く「創成川を遡上してきたということも、ありえなくはないのですが、川を間違えるということはあまりないですからね…。この時期、豊平川の上流まで遡上してきていますから、産卵放精したあと、豊平川から鴨々川に入り込んだ可能性もありますね」と。
精根尽き果て、朦朧としてまぎれこんだのか。お疲れ様でした。
2016 秋編の第1回で、札幌市博物館活動センター学芸員のFさんのガイドにより、幌平橋から南1条まで歩きました。私は第2回のガイドを務めるので、今回はスタッフとして(というか、次回の準備を兼ねて)参加しました。
実に刺激的で、知的好奇心をそそるツアーでした。さすがFさん。古地図と古写真を読み解きながら、札幌の自然と歴史の関わり合いが判りやすく語られました。とても敵いません。が、私も次回を引き受けた以上、感心してばかりではいられません。なんとかします。
Fさんのご高察はおいおい本ブログで紹介させていただくとして、今回の行程では面白いモノを見ました。
行啓通り、鴨々川の南14条橋です。

参加者の一人が「サケがいる!」と見つけました。
黄色の矢印の先、岸辺に一匹横たわっています。
ホッチャレです。

Fさんも「鴨々川でサケを見たのは初めてだ」と驚いていました。
鴨々川にサケが遡上!? 鴨々川の下流は創成川、さらにその下流は茨戸川で、石狩川に通じています。
豊平川で生まれた稚魚が、大海の回遊を経て、戻ってくるのを間違えてしまったのか。まあ、中にはそういうオッチョコチョイなのもいるんだろうな。ホッチャレに親近感を覚えました。
帰宅してから、気になって「札幌市豊平川サケ科学館」に問い合わせてみました。
科学館の職員氏曰く「創成川を遡上してきたということも、ありえなくはないのですが、川を間違えるということはあまりないですからね…。この時期、豊平川の上流まで遡上してきていますから、産卵放精したあと、豊平川から鴨々川に入り込んだ可能性もありますね」と。
精根尽き果て、朦朧としてまぎれこんだのか。お疲れ様でした。
札沼線で時空逍遥
砂川の病院に入院している義弟(妻の弟)の見舞いに行ってきました。
札幌から砂川へ行くのに、遠回りしました。札沼線で新十津川まで行き、バスで滝川に渡り、函館本線で砂川に至るという行程です。新十津川に鉄路では行ったことがなかったので、一度体験してみたかったのです。
驚きました。何がって、石狩当別で乗り換えた1両のディーゼル車の乗客の混み具合です。次の北海道医療大学で降りる人が多かったのですが、かなりの客がそのまま新十津川まで乗ってました。ざっと数えて30人。そのほとんどが鉄道ファンとおぼしき所作です。この車両に乗るためには、札幌からだと朝7時前に出る石狩当別行きに乗る必要があります。朝一便のみの新十津川行きがこんなことになっているとは…。
車窓の風景は電網上でも種々紹介されているので、できるだけ重ならないようにお伝えします。
石狩月形駅の電柱。

ここでは20分余り停車(上り車両の待合せ)していたので、降りて駅近辺をウロウロして見かけました。上の標識に「エ一六六」と書かれています。「エ」はもしかしたら「工部省」の「工」ではなかろうか。
札比内駅の近くで軟石倉庫を確認。

目視のみで、来歴は判りません。農協の倉庫だと思いますが。
浦臼駅の傍にも軟石倉庫。

浦臼は町内に軟石建物が目立ちますが、聞くところでは大火を経て不燃の石造が建てられた由です。
札幌から砂川へ行くのに、遠回りしました。札沼線で新十津川まで行き、バスで滝川に渡り、函館本線で砂川に至るという行程です。新十津川に鉄路では行ったことがなかったので、一度体験してみたかったのです。
驚きました。何がって、石狩当別で乗り換えた1両のディーゼル車の乗客の混み具合です。次の北海道医療大学で降りる人が多かったのですが、かなりの客がそのまま新十津川まで乗ってました。ざっと数えて30人。そのほとんどが鉄道ファンとおぼしき所作です。この車両に乗るためには、札幌からだと朝7時前に出る石狩当別行きに乗る必要があります。朝一便のみの新十津川行きがこんなことになっているとは…。
車窓の風景は電網上でも種々紹介されているので、できるだけ重ならないようにお伝えします。
石狩月形駅の電柱。

ここでは20分余り停車(上り車両の待合せ)していたので、降りて駅近辺をウロウロして見かけました。上の標識に「エ一六六」と書かれています。「エ」はもしかしたら「工部省」の「工」ではなかろうか。
札比内駅の近くで軟石倉庫を確認。

目視のみで、来歴は判りません。農協の倉庫だと思いますが。
浦臼駅の傍にも軟石倉庫。

浦臼は町内に軟石建物が目立ちますが、聞くところでは大火を経て不燃の石造が建てられた由です。
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